狩人の息子
春の日差しを受けて、
森の中にある湖はきらきら輝いていた。
その澄んだ輝きとは裏腹に、
エレンの気持ちは重かった。
湖から少し離れた場所にシートを敷き、
大きなピクニックバスケットを開いて
白雪はごきげんだが、
どうにも邪魔者が一人。
護衛として付けられた兵士である。
楽しいピクニックにはそぐわない重装備で、
隙なく辺りに目を光らせているのだ。
「一緒にお茶でもいかが?」
と、エレンが眠り薬入りのお茶を進めても、
勤務中の一点張りで舐めもしてくれない。
エレンは白雪を自分の実家に連れていこうと
考えていたのだ。
どうやって兵士の目を欺こうか。
森の中を散策すると言っても
当然ついて来るだろうし...。
エレンはティーカップの中に映る
自分の顔を見詰めながら
「ふうっ!」と溜め息をついた。
白雪は湖に足を付けて呑気に水遊びの最中だ。
兵士がいるから王妃様の話も出来ない。
エレンは空を見上げた。
太陽が丁度頭のてっぺんに来ている。
もう正午なのだろう。
「そろそろお昼に...」
「きゃああ!」
エレンが重そうに腰を上げたとき、
白雪が悲鳴を上げた。
足でも滑らせたのだろうかと、
エレンは白雪の方を見たが、
想像もしなかった場面が展開していたので、
一瞬、体が硬直してしまった。
「ひひひ姫様!」
エレンが駆け出すよりも早く、
お付きの兵士が剣を抜いて飛び出した。
手足をじたばたさせている白雪の体を、
湖から伸び上がった透明なゼリー状の物体が、
彼女を羽交い締めにしているのだ。
「やだやだ、たすけてー!」
白雪は大手を振って、ゼリーを叩いたが、
そんなことをしても水しぶきがあがるだけである。
「白雪姫を離せー!」
湖面から伸びだしている辺りで
兵士は剣を振ったが、まるで手応えがない。
何度剣を振っても結果は同じである。
「なによ、これ!?」
兵士の脇に駆け寄ったエレンが眉を寄せたが、
聞かれた方にだってわからない。
その時、
『何処へ行くんだい、エレン?』
ゼリーが青白い光を放ち、
聞き慣れた声が辺りに響いた。
「お母様?」
白雪は暴れるのを止めて辺りを見回す。
しかし王妃の姿はどこにもない。
『白雪よ、私を置いて、何処に行くというの。
お母様を悲しませないでおくれ』
「私は何処にも行かないわ。
それより何処にいるの、お母様!」
白雪はどこから聞こえてくるのか判らない
王妃の声に答える。
『それなら早く帰ってきておくれ。
お母様は今、
悪い悪魔に取り憑かれているんだよ。
このままでは殺されてしまう。
早く、早く来ておくれ...』
「姫様、悪魔はそいつです。
本当の王妃様は姫様を守るため、
私に姫様を連れて逃げるように言ったのですよ!」
エレンは白雪の手を取って、
ぐいぐい引っ張った。
びくともしない。
『ほほほほほ。そんなことをしても無駄だよ。
私は何処にでもいる。
城から離れたこんな場所にだって来れるんだよ。
命が惜しかったら、早く城に戻っておいでエレン』
「戻らなかったらどうだっていうのよ」
エレンはエプロンのポケットに手を入れた。
たしかこの中に、
実家を出るとき母親からもらった物が...。
『ここで殺すまでさ!』
ゼリーは白雪を突き放すと
エレンに飛び掛かった。
「これでも食らえ!」
エレンはポケットから手を抜くと、
ゼリーの化物に向かって、
銀の鎖が付いた十字架を投げ付けた。
『ぎゃああ!』
ゼリーは大きくのけぞると、
目にも止まらぬ速さで水面に潜ってしまった。
『何処にも逃げられないよ。
何処にもね。
私は何処にでもいるのだから。
物を映すことの出来る全ての物の裏側に...』
湖全体がボーッと青い光を放ち、
不気味な言葉を叫んだ後、
辺りは静まり返った。
「エエエエ、エレン!」
白雪はエレンに抱きつき悲鳴を上げた。
「なに今の! なに今の!!」
訳が分からず白雪は叫ぶが、
エレンだって初めて見たのだ。
答えようがない。
「早く帰ろうよ。お母様が心配だわ!」
白雪は涙を溜めながら言ったが
エレンは首を振る。
「今言ったでしょ。
王妃様は姫様を城から連れ出すようにと...」
「だって、お母様は?
一人でどうするのよ。
お父様に話せばきっと何とかしてくれるわ」
白雪は城に向かって駆け出しかけたが、
エレンの一言で力が抜けてしまった。
「王様は、もう悪魔の言いなりだそうです。
国中の厩の馬を集めたのだって、
変じゃないですか?
おそらく悪魔に唆されたんですよ」
エレンは十字架を拾い上げ白雪の首に下げた。
「早くここから離れましょう。
うかつに内緒話も出来ないわ」
エレンはいそいで片付けをすますと、
白雪の手を引いて湖から離れた。
若草の茂る湖辺を
白雪の手を引きながら歩いていくエレンの背に、
「さっきの話は本当なのですか?」
護衛役の兵士が
湖の方をちらりと見て聞いてくる。
エレンは頷くと辛そうに目を伏せた。
何処にでもいるなんて、
じゃあ何処に逃げれ
ばいいというのだろう。
物が映らない場所なんて、
この世に存在するのだろうか?
「何処にいたって同じなら城に帰ろうよ。
さっきの悪魔エレンを殺すって
言ってたじゃない。
私嫌よエレンが死んじゃうなんて!」
白雪はエレンに飛び付いた。
泣き叫ぶ白雪を、エレンがなだめていると、
兵士が何か考え深げな顔をして
二人のもとへやってきた。
「城に遣える身である私が
こんなことを言うのもなんですが、
良い場所がありますよ」
兵士は鎧を脱ぎ捨てて
その上にマントを被せた。
兵士の鎧は鏡のようにピカピカで、
白雪とエレンの姿をくっきりと映していたからだ。
そんな物の前で内緒話は出来ない。
「光の射さない、
じめじめした洞窟の奥なんて嫌よ」
白雪は眉間に深く皺を寄せて
兵士を睨み上げたが、
兵士はニッコリと笑って森の中を指差した。
「私の父は、森で狩人をしているんですけど、
ちょっと変わった知り合いがいるんですよ」
白雪とエレンは、
物が映り込みそうな持ち物をすべて捨てて、
兵士の後に付いて行った。
「これってほとんど誘拐よね」
道々、白雪は冗談ぽく笑ったが、
エレンと兵士にとっては、
冗談抜きで顔を青くさせる一言だっだ...。