王子
「ほらあの人、隣国の王子様らしいよ。
遠乗りに出てきて道に迷ったらしい」
ビーフシチューの安い筋肉を
根気よく噛み締めていたカーラに、
厩の女将が言う。
馬の世話は主人、人間の世話は女将。
と仕事分けされているらしい。
女将は主人と違い
人のよさそうな笑顔を難なく作る。
「王子様? 馬小屋にいたあの白馬、
王子様のものだったの?」
カーラは意外そうに呟いたが、
間抜け面のあの馬でも、
この王子を乗せれば様になるだろうと思った。
王子はカーラに負けぬ程の長く美しい金髪と、
白い肌の持ち主だった。
窓際のテーブルで、お上品に
ナイフとフォークを使って食事をしている。
一見、お玉の様に見える大きいスプーンで、
ビーフシチューをすすっているカーラとは
雲泥の差である。
「なんだか随分待遇が違うみたいね、女将さん」
カーラは上等のステーキを
銀のフォークで口に運ぶ王子の姿を見て言った。
女将はカーラの差し出したグラスにワインを注ぐと、
「そりゃあ。お客さんとはギャラが違いますから」
左の指で丸を作って微笑む。
「はあ、財布をカバンに入れっぱなしなんて、
私も間抜けよね。
身分証明書持ってたから付けが出来たけど」
カーラは情けなさそうに肩をすくめて見せた。
「請求書はお城の方に送ればいいんですよね?」
女将は確認するように聞くと、
カーラの返答をまった。
カーラはワインを味わいながら頷く。
女将は分かりましたと呟くと、
ワインの残量を確認するように軽く振り、
王子の方へ歩いていった。
「ああ! おかわりは一度だけ〜?!」
カーラはワイングラスを振り上げて
女将に声を掛けたが、女将の関心はすでに
美しい青年へと向けられていた。
「さあ、王子様、家で一番上等なワインを、
もう一杯いかが?」
女将は少女の様に目をパチパチさせながら
王子を見詰め、嬉しそうに微笑んだ。
「歳考えなさいよ」
カーラの小さな嫌味は、会話の弾んでいる
女将と王子の耳には入らなかったらしい。
女将と王子の会話を、
どこか遠くの方で聞きながら、
カーラは鏡の事を考えていた。
あの鏡の出所と呪文めいた言葉の続きは何なのか。
王妃の鏡をバーミリオンに見せれば、
すべてが解決するように思えるのだが、
なぜか事がうまく運ばない。
土砂崩れに馬の健康診断。
予想外の事が続いた。
そんな嬉しくもない偶然が、
カーラの気持ちをいっそう不安にする。
こんなところで、
ご飯なんか食べてる場合じゃないのに!
カーラがグラスに入っているワインを
一気に飲み干し立ち上がった時、
ガターン! と激しい音が室内に響いた。
あまりの音に、下の馬小屋にいる二頭の馬が
悲鳴じみた声を上げる。
「ななな、なに?」
カーラは音のしたほうの見て目を丸くした。
騒音の犯人は王子だったのだ。
女将に進められたワインを断り切れずに、
ぐいぐいやったのだろう。
真っ赤な顔をして椅子からずり落ちていた。
すでに安らかな吐息を立てていたが、
明日の朝、目が覚めたら
覚えもなく体中に痛みを感じる事だろう。
あれだけ豪快に倒れたのだから。
「ちょっと女将さん、バレたら捕まるわよ。
隣の国の王様に」
倒れた王子の体を、
わりとお気軽に起こしあげた女将に
カーラは呆れ顔で言った。
「まさかこれくらいでブッ倒れるとは」
女将は意外そうに呟いた。
「育ちが違うのよ」
カーラは棘を含んだ口調で言い返す。
女将は泣きそうな顔でカーラを見た。
幸か不幸か、
ここにはブッ倒れた王子と女将を含めて
三人しか人がいない。
唯一の目撃者カーラが
黙っていれば今晩の事を知る者はいない。
女将は無言の訴えでカーラを見詰める。
もちろんカーラには、
告げ口してやろうなんて考えは毛頭なかったが、
今回の食事と一泊代は只と言う女将の提案に
文句はなかった。
「とにかくベッドに運ぶことね」
カーラの言葉を待つことなく、
女将は王子を抱え上げて
寝所に向かうところだった。
「悪いけど、
そこの荷物を持ってきてくれますか?」
女将はちらりとカーラの方を見て言う。
カーラは女将の視線を追って荷物を見付けた。
荷物と言うのは、
あのお耽美な王子になど到底似合わなそうな
大振の剣だったのだ。
木炭で作られた様に真っ黒い剣は
全体的にくすんだ色をしていて、
あまり高価な物には思えなかった。
「随分変わった剣ね」
カーラは剣を手に取り、まじまじ眺めちらした。
その剣には鞘がなかった。
抜き身なのだ。
刃がないらしい。
見かけほどの重さもない。
ひょっとしたら、
ただの装飾品なのかもしれない。
そう思いなが
ら物珍しげにカーラは剣を見詰めていたが、
鍔の部分に何やら奇っ怪な文字が刻み付けられて
いるのを見付け声を上げた。
「お客さん、どうかしましたか?」
王子を寝所に寝かし付けてきた女将が、
慌てて戻ってきた。
カーラの上げた声は悲鳴の様だったのだ。
「こここ、これ、この文字マーク族の!」
カーラは剣に刻まれた文字を凝視したまま、
しばらくの間固まっていたが、
駆け付けてきた女将の足音に気付き顔を上げる。
「この剣、本当にあの王子様の剣?
間違いない?」
カーラは確かめるように女将の肩を叩いた。
「そうだけど、それが何か?」
女将は丸くておいしそうな、
頬の肉を手のひらで撫でながら答える。
「隣国...ゴルゴ国の王子様だって
言ったわよね?」
カーラは女将の答えを待たずに、
王子の部屋に踏み込んだ。
「ちょ、ちょっと、お客さん!」
女将は慌ててカーラを追うと
後から羽交い締めにした。
「離してよ。この人に聞きたいことがあるの」
カーラは女将を睨み上げ、
ジタジタと足で床を叩きつけた。
その喧しさときたら、
下の馬小屋でまだ嘶きを止めずにいる、
あの間抜け面の馬声と大差ない。
「あーうるさい。そんなことは明日にしな!」
女将は軽々とカーラを担ぎ上げると、
強引に王子の部屋から連れ出した。
カーラは泣きそうな顔で剣を見詰めた。
「その剣がどうかしたのかい?」
女将は大きく息を着き、頭をかいた。
カーラは両手で剣を持ち高くかかげると、
「ガイア」
剣の鍔に彫り込まれている、
奇妙な文字を読み上げた。
「ガイアって大地って言う意味かしら...
それとも誰かの名前...」
カーラは眉をしかめて呟いたが、
「何故あいつの名前を知ってるんだ!?」
突然の第三者の声に飛び上がった。
「あんた。馬の世話は終わったのかい?」
女将は通路の先でこちらを見ている
痩せた男に声を掛けた。
主人である。
馬の世話を終えて戻ってきたところだ。
主人は女将の質問に答えずに、
つかつかと歩いてくると、
カーラの前で立ち止まった。
「お客さん、
なぜあいつの名前を知ってるんだ!」
口調は怒っているようなのだが、
顔色は真っ青である。
カーラは剣を差し出すと、
「この人のこと、知っているの?」
病人のように青い顔の主人に聞く。
主人はカーラから目をそらし黙り込んだ。
どう見たって、何か知っている様子だ。
それとも何か、口では言えない
やばい事でもしているのだろうか?
「王様には黙っててあげるから、
この人のこと教えて。
じゃないと、あんた達のことバラすわよ」
蒼白を通り越し、
青くなった顔色の主人にカーラは笑い掛けた。
「すまないカミさんは何も知らないんだ。
許してくれ!」
カーラのカマ掛けに見事引っ掛かった主人は、
床に膝を付き頭を抱えて叫んだ。
「あんた、何やったんだよ!」
女将は主人の肩を掴み激しく揺すると、
悲鳴じみた声を上げる。
「すまない。
森のドワーフと取引して、
小遣い稼ぎを...」
「なにー!それはもう止めたって言ったくせに、
まだやってたのかい!」
かわいそうなくらい小さくなっている主人に、
女将が怒鳴り付けた。
「ごめんなさいよ。
このことは黙っていておくれ。
王様の許しなくして、
外部との取引は禁じられてるって
知っていたんだよ。
でも家の主人たら、お金欲しさに...」
よよよと女将は泣き崩れたが、
「小遣いが少ないからいけないんだ!」
主人は開き直り床に足を投げ出して座り込んだ。
「このバカ者が!」
女将は主人の足を叩きつけた。
「じゃあ小遣い上げてくれよー!」
主人が泣き付いても女将は取り合わない。
「もう、こんなやつどうなってもいいわ、
城でも何処へでも突き出しちゃって頂戴!」
言葉ではそんなことを言っても女将の顔は、
もう涙と鼻水でグショグショだった。
「私はただの家庭教師だから、
あなたたちを捕らえる事なんて出来ないけど、
城の者に言い付ける事は出来るわ」
カーラは気の毒そうに二人を見下ろすと、
溜め息混じりに言った。
主人と女将は不安そうに顔を見合わせたが、
「でも、このガイアって人に
会わせてくれるんだったら黙っていてあげる」
カーラは身を屈めニッコリと笑った。