19話:速攻の子作り作戦
その後、夏が終わり、涼しくなり、本木の仕事は、もっぱら、午後5時から10時まで、かかってくる電話の応対ばかりで、まるで、電話交換手みたいだった。勤務時間は、トイレ以外、忙しく、魔法瓶とカップ、水差しをおいて、電話を取り続けた。やがて1977年11月になり、仕事してるとき、急に、気持ちが悪くなり、警視庁の保健室に駆け込むと、妊娠したことがわかった。出産予定日が1998年5月10日とわかった。この話を聞いた、久松部長が、大喜びして、伊東徹子に、よくやったなーと笑顔で言ってくれた。時間ピッタリ、まるで、バレーボールの速攻みたいだと言い、元気な証拠だと、大笑いした。この話を直ぐに、伊東家と本木家に電話をすると、大喜びしてくれた。
そして1977年が終わり、1978年を迎えた。伊東吾郎と徹子は、初詣に行き、安産、家内安全、健康を願ってきた。また、風邪をひかないように、うがい、手洗い、アルコール消毒、消毒石鹸を使い、万全を尽くして生活をし、風邪をひかずに冬をすごし3月を迎えた。しかし、その出産の大変な時、1978年1月に、伊東吾郎は、ソニー株を615円で4千株、246万円で買い、残金が54万円となった。この時期、徹子の口座の100万円を吾郎の口座に移し、300万円の投資資金があったのだ。警視庁の規定で、伊東徹子は、産休に入ったが、家の電話で、部下の疑問、質問を受け付け、指示したりして、自宅勤務を続けた。
その後、お腹の大きさを見て産婦人科医が双子の可能性が高いからと言い、4月30日から入院して退院日を5月20日と長めに設定した。そのため病室を特別室にして、電話着きの豪華の病室にした。費用は、警視庁もちと、久松部長が、とりはからってくれた。1978年5月11日の早朝、出産して、男と女の双子の赤ちゃんが誕生した。その後、名前と伊東肇と、伊東一恵と命名した。そして、本木の実家で、伊東一恵を、伊東の実家で伊東肇を面倒見てくれることになり、家族全員で、双子の赤ちゃんの面倒を見てくれることになった、5月20日に退院して、6月30日まで、本木の家で徹子は過ごし、7月1日から仕事に出て、伊東一恵は本木家で、伊東肇を伊藤家に預けて、母乳を運んだりして、家族が協力して、その後も、仕事を継続して言った。
夏は、熱くて大変だったが、伊東徹子は、泣き言を言わずに午後5時から10時まで仕事をして、家に帰る日を続けた。その後、夏が過ぎて、徹子の体調が回復してきた。その頃、中学時代の仲間の梅宮照子、水島祐子、飛島金次が、訪ねて来てくれ、喜んでくれ、お祝い品を持って来てくれた。その後、梅宮照子と、飛島金次が結婚すると、教えてくれた。残った、水島祐子は、実は、もう既に、安田富男という、良家の、お坊ちゃまと、新しいマンションで同棲して、付き合いも一番長かった。そして、10月14日にその水島祐子に子供ができて、できちゃった婚で、10月16日に急遽、婚姻届けを出すはめになった。すると、梅宮照子が、思わず、先を越されたと言い、大笑いとなった。こうして1978年中に、仲間全員が、妻帯者となった。 しばらくすると、1979年を迎えた。