調査⑨
明日からハーターシュタイン公国に行くハイネは、午後から出発の為の準備をするらしく、昼前までにジルを自宅に送ってくれた。
「じゃあ、また」
片手を上げ、立ち去ろうとするハイネにジルは慌てる。
「え!? 待ってください! バシリーさんの馬はどうしますの?」
「あ、そうか。忘れてたな」
明日からの旅路に当然バシリーも付いて行くだろうに、側近の乗り物を取り上げた挙句、忘れてしまっているのは、なかなか酷い。
「俺が連れて行く」
ジルは苦笑いしながら馬から下り、ハイネに手綱を渡した。
自分で連れて行けるなら、朝ここに来るときもバシリーに運ばせなければ良かったのではないかと考えてしまうが、言わないでおく。ハイネはバシリーに当たりが強いので、ちょっとした嫌がらせの一つなのかもしれないし、何が効率かを考えても仕方がないだろう。
「じゃあ、今度こそ、またな!」
「ええ、お気を付けて!」
ニッと笑い、ハイネは去って行く。
その後ろ姿が、道の角に消えるまでジルは手を振り、見送った。
楽しい時間が終わった事で、ぽっかりと胸に穴が開いてしまったような感覚だ。
こんな気分で家の中に居ても、無気力に庭を眺めて終わってしまいそうに思える。
(大学に行ってみようかしら……)
夏期休暇中なのだが、フェーベル教授は出勤しているだろう。フリュセンから買って来たお土産を渡しに行き、忙しそうなら手伝おう。
家の中に入ると、マルゴットは出かけていたので、ジルはお土産を手にして一人で大学に向かった。
のんびりと歩くと、栗毛色の馬に騎乗する人に追い越される。その毛色が先程のバシリーの馬と似ている。だからなのか、バシリーの顔を思い浮かべていた。
(バシリーさんには散々迷惑をかけちゃってるし、私も殺人事件の解決に協力してみようかしら? 何の役にも立たないかもしれないけど)
自分に出来る事を考てみる。たぶん小さな気付きをバシリーに伝えるだけで精一杯だろう。
取りあえず、エミールと同じ大学出身という事の様なので、在学生であるジルとしてはその立場から協力してみるつもりだ。なので、先程ハイネとの会話の中に出て来た卒業論文を読む事にした。
記憶が確かなら、学部の生徒は卒業論文を書き、提出する事を求められる。そしてそれらは大学の敷地内の図書館で一定期間保管されていた様に思う。
(それにしても、ハイネ様は何故エミールさんの卒業論文の内容を知っていたのかしら? 読んだことが? それとも話題とした事があるから覚えていただけとか?)
ハイネはまだまだ謎が多いなと、改めて思わずにいられない。
新居から十分程歩き、大学の門を通り抜ける。引っ越しの決め手になったのは、この近さで、徒歩圏内なのはお金がかからず通学出来るので有難い。しかしあまりに近すぎる為、また太ってしまう懸念もなくはない。
「ねぇ、ちょっと!」
後ろから声を掛けられ、ジルはビクリとする。振り返ってみると、白いメッシュを数本入れた薄茶色の髪に紺色の瞳の青年が人懐っこい笑みを浮かべて立っていた。身長はジルより拳一つ分高いくらいなので、視線が近い。
「私を呼びましたの?」
「そうだよ。貴女さ、一か月くらい前に凱旋パレードでこの国の皇太子殿下にキスされてたでしょ?」
今までこの件について、踏み込んで来たのは野菜屋さんくらいなので面食らい、言葉を失う。長らく肥満体形だったジルは異性との交流がほとんどないため、年齢が近そうな異性に際どい質問をされるなんて経験は無いのだ。
目の前の男はそんなジルの反応を楽しむ様にニンマリとしている。
(何なのこの人!? 初対面で失礼すぎるわ!)
初対面、と思ったものの、何かが引っかかる。どこかで見た事があるのだろうか? 変わった髪型だから記憶に残っているのかもしれない。
「庶民は庶民同士の方が相性いいと思わない? 例えば俺とかさ」
その馴れ馴れしい態度が不快で、強く睨み付ける。
「アナタが一体誰なのか知りませんけど、これっぽっちも興味ありませんわ!」
「え!? これっぽっちも!? 俺って、ちょっとカッコイイとか思わない?」
「思いませんっ! では、この辺で失礼いたします。御機嫌よう!」
チャラチャラしたこの男の対応が面倒になり、ジルは背を向ける。それでも男は話し続ける。
「酷いなー。愛しのジル様の為に働いてあげてもいいかなーって思ってたんだけどな。貴女ってほんと昔から可愛いし」
微妙に気になる物言いだ。再び後ろを向くが、男は姿を消していた。直前まで声が聞こえていただけに、薄気味悪く感じる。
「何なのかしら、あの人……。人間……よね?」
絶対に一度は見た事がありそうなのに、不思議なほど思い出せない。つい最近の事では無いのは確かだ。
(公国内で会ったのかしら? でも私、前はそんなに活動範囲は広くなかった……)
色んな人が出入りする大学という空間を改めて怖いと思いながら、フェーベル教授の研究室に急ぐ。
息を切らしてドアを開けるが、室内には誰もいなかった。鞄は置いたままなので、少し外しているのかもしれない。
資料等を読みながらニ十分程待ったが、教授は一向に現れない。
(図書館に行って卒業論文を見せてもらおうかしら?)
先程の不審者の事を思うと、一人で歩きたくない気もするが、窓の外を見ると、ちょうど昼時で人の行き来が増えていたので、今なら出て行っても大丈夫そうだ。
◇
ジルは図書館に移動し、四十代くらいの女性司書に話しかける。
「学部を卒業した方の卒業論文を見る事は出来ますの?」
「保管室から持ち出さないのであれば可能です。学生証の提示をお願いいたします」
「ご覧くださいませ」
ジルは革製のカードケースから学生証を取り出し、司書に差し出す。
「案内しましょう。一応監視として私も付いて行きます」
彼女は棚から鍵束を取り出し、カウンターから出て来る。別に悪い事をするつもりではないのだが、監視が付くのは少し緊張する。それに、仕事の邪魔をするようで申し訳ない。
司書の後を付いて行くと、幾つもの扉が並ぶ通路に辿り着く。彼女はその一番手前のドアに鍵を差し込み、開ける。
薄暗い室内の中に、本棚が十列程並ぶ。司書は一番手前の本棚に近付き、そこに入っている引き出しを取り出し、テーブルの上にあげた。
「本棚は学部ごとに区分されています。卒業年度がこの様に引き出しのラベルに書かれておりますので、それを見て探していただけますか?」
「はい。ご案内感謝致しますわ」
ジルがお礼を言うと、司書は軽く頷き、ドア横の椅子に座った。
(探しやすそうに整理されててよかったわ! あ、でもエミールさんについて肝心な事を聞いてなかったわね……)
ジルはエミールの卒業年次を知らない。一応ハイネから聞いた内容から、彼が経済学部なんじゃないかと予想出来るが、本当にそうなのかは不明だ。こんなに半端な情報で、卒業論文を探し出せるだろうかと不安になってくる。でも、まぁ、何とかなるだろうと、前向きに考える事にする。
経済学部の本棚を見つけ、ラベルをチェックする。
(一番古いのは八年前なのね。それ以前の物は廃棄されちゃったのかしら?)
エミールの年齢を知らないが、ここに卒業論文が無い事も覚悟しなければならない。
取りあえず最も古い卒業論文の引き出しをテーブルの上にもって行き、中身をチェックする。
地味な作業を繰り返す事三十分程でエミールが書いた論文が出て来た。彼は五年前の卒業生だったのだ。
「トリニア王国との戦争と都市の形成、現在に続く諸問題」
――エミール・フォン・ファーナー
意外と面白そうなテーマの様だ。ジルは椅子に腰を下ろし、論文を読み始めた。
346年前に勃発したトリニア王国との戦争は、七年間続き、その間に帝都コトバスと戦地との間には交通網や情報網が整備された。その中間地点にはマリク伯領第二の都市であるライハナが形成された。マリク産の農産物は戦時中帝都と戦地に供給されていたわけだが、ライハナに集められそれぞれの地に運ばれていた。現在でもマリク領の農産物は帝都に運ばれる前にここに集められ、仲介業者間で何度かやり取りされる。そのため、農産物が帝都に辿り着き、最終消費者の手に渡る時には、割高になりがちである――――。
ジルは論文を飛ばし飛ばしに読みながら、だいたいの内容を頭の中でまとめ、「うーん……」と顎に指を当てた。
(トリニア王国って、この前までハーターシュタイン公国とも戦争していたし、凄く好戦的な国よね。この国の一都市の成り立ちに、トリニアとの戦争が絡んでいたのね)
帝国と再び衝突しないでほしいと考え、溜息が出る。戦争が始まったら再びハイネが戦地に行くかもしれないので心配になるのだ。
(不透明な未来の事を考えても仕方ないわね。それよりもライハナって……)
マリク伯領に滞在した時に耳にしたライハナは、旅人や商人が行方不明になるような危険な都市だ。
(マリク伯領の農産物は一度ライハナに集められ、帝都に運ばれる……。南部は他の地域に比べて作物の収穫時期が早いから、農産物価格はマリク伯領産のものに引きずられたりするのかしら? とすると価格の操作をしやすい……?)
最近会社の経営に関わる事の多いジルは、危険な思考になりそうになり、慌てて首を振った。
(こんな事じゃお父様みたいになっちゃうわ!)
しかし、商売の事を脇に置いても、どうにもライハナについて引っかかりを感じる。
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