42,851円のヒーロー
前世が世界を救った英雄だとか血統が良いとか、或いはチートスキルで異世界を冒険したいなんて、そんな妄想の一つくらい誰にだってあっただろ? 御多分に漏れず、俺も子供の頃は“ ヒーロー ”なんてものに成りたかったんだ。遠い星から遥々やってきてさ、巨大化して格闘や魔法なんかの強大な力で、巨大な敵をやっつける! ってね。
割と本気でそう成りたいって思ってたんだが、まあそんなものは所詮、幼い妄想でしかない。少しずつ成長するにつれ、少しずつ世界を知るほどに薄れていくもんだ。だが不思議なもので、大人に成った今、再びその願望が頭を掠めるんだよな。まあ、あの頃とは些か意味合いが違うんだけどさ。
社会の理不尽に直面する度、人間関係のどろどろを目の当たりにする度に、それはひょっこりと顔を出す。やる気の無い口先上司に喝を入れてやるんだとか、腐った世の中を正してやる! だとか。それは純粋な憧れから現実逃避の道具ってな具合に、どこか歪んだものに成り下がってさ。
そしてもう一つ、圧倒的な差異。『もしかしたら、或いは』という可能性の否定。流石にもう良い歳なんだ、子供じゃあない。現実的な分別くらいはね。
だがもし、その可能性があったとしたら。もし本当に“ そう成ってしまったら ”。その時、あなたなら一体どういう行動を取るだろうか――――。
その日もいつも通りに目を覚まし、いつも通りに出社して怒鳴り怒鳴られ、いつも通りの業務をこなしてたんだ。何も変わり映えしない日々の1ページ、なんの面白味も無い生活の場面。生きる為なのだと割り切ったルーティン。しかし、この日は少しばかり毛色が違う。ちょっと良い居酒屋で軽くつまみ、ちょっと良いバーでちょっと良い時間を愉しむ、週に一度のささやかな労い。更には意中の子と二人きりだなんて、ちょっと良い日なんてもんじゃあない。
だが……嗚呼、やっちまうんだよな。普段は気の良いお調子者で通してるんだが、いざって時になると、途端に口下手が顔を出しちまうんだ。当たり障りの無い話に始まり、無難でドライな笑いに終わる。イタリア人に産まれてりゃ、また違った展開だったんだろうな。おっと、これは偏見じゃあない。漠然とした憧れってやつさ。何も全てがそうだとは思っちゃあいない。
そんなこんなで漠然と『また飲みにいこうね』なんて曖昧な口約束を取り付け、一人トボトボと夜の街を歩いてたんだ。目的? 察してくれよ。不甲斐ない自分に対する――――或いは“ 全て ”に対してなのかもしれないが、兎に角、憤りを抱えたままブラついてたんだよ。
「あんた」
雑踏の中の、ほんのささやかな声。
「あんただよ、そこのヨレたスーツの」
少しばかり小綺麗で、それらしい出で立ちをした婆。そんなのが、しょうもない若さが添えられたシャッターの前にポツリと、怪しげな机を構えてやがる。立て看板には『15分3000円』。普段なら見向きもしない、ただの風景の一つ。
……しかし、どうしてだろうな。
「何を視てくれるんだ?」
不思議なんだよ。こんな時間でも人で溢れかえって、呼び込みや店舗の耳障りなBGMが響き渡ってる、そんな雑踏の中なのにさ。
婆の掠れた声だけが、嫌に鮮明だったんだ。
だけど……期待してたんだがな。生年月日に名前、そこに僅かな手のシワを混ぜて並べられた、当たり障りの無い言葉。正直、拍子抜けだった。まあ払うもんは払うさ、それが商売ってもんだ。
「待ちな」
皮肉を秘めた背中に、再びあの声が掛かるんだよ。やはり、つい足を止めちまった。
「“ 特別なやつ ”がある。特別に、あんたを視てやろう」
だがな婆、もう騙されないぞ――――。
42,851円。
随分と半端でなかなかに高額だろ? そりゃあ多少は後悔したさ。だが翌朝、頭痛で目を覚ました俺は、意外にも騙されたという気分じゃあ無かったんだ。
42,851円。これ、あの時財布に入れてた額ピッタリなんだよ。あの婆、先に払えなんて言った直後にこの額を提示してきやがった。決して婆に見せた訳でもないし、何より俺でさえ細かに把握していなかった。だからつい、な。
『1週間後の朝を愉しみにしてなさい』
何やらその日、俺の願いが叶うんだとさ。これだけ。4万いくらかも払った上で、頂けたのはたったのこれだけ。なのに……不思議なもんだな。
その1週間の間は特に何も起こらなかった。やはり変わらないルーティン。そうして日々を一応まっとうに過ごし、やってきたるはかけがえの無い時間。そこでなんと意外にも、再びあの子と席を共にしたんだよ。俺の願いの一つでもあったが、婆の話じゃそれは翌朝のこと。つまりさ、そういうことなんだよね――――。
「婆、騙しやがった」
何故俺は一人なんだ? 今日は“ 42,851円の日 ”だろうが。悪酔いの頭に響き渡る数字が怒りをグツグツと滾らせ、つい、寝巻きの袖を引き裂いてしまった。だがそんな事で治まるほどの怒りではない。だから寝た。普段から物ぐさではあるが、頭もフラつく上にこんな気分じゃ休日なんて愉しめるはずがないだろ。
そうして迎えたいつもの日々。
『あの婆、次に会った時は覚悟しておけよ』そんな悪態を心に喚き、俺は上司からの執拗なお叱りを受けていた。ちょっとした伝達ミスなんだが、普段からまともなコミュニケーションも取れてない相手を前にして、いつも以上のボケっとした態度。まあ、ヒートアップしてくんだよ。互いにね。
はじめこそただ静かに聞いてたんだけどさ。こちらの人格否定が始まっちまって、そこに婆への怒りが上乗せされてるもんだからね。いよいよ反撃をしてやろうと思った、そんな矢先のことだった。
バキッ!!!
ってな具合に鈍い音が一つ、静まり返った室内に響き渡った。一瞬の出来事に反応が遅れてさ、気づいた時にはもう、俺の首は明後日の方を向いてたんだよ。
野郎、やりやがった――――。
「――――それじゃあ、“ 君は何もしていない ”。間違いないかね?」
剥き出しのコンクリート、重厚な扉、飾り気の無いデスクに椅子。訝し気なもんを寄越してくれる年配のおっさん。所謂取調室ってやつだが、断じて俺は何もしちゃあいない。あの時周りにいた者の証言もある。だが、俺を殴った上司の手はバキバキに骨折していたんだ。そして何故か、ヨレたスーツは少しばかり縦に裂けている。
つまりどういう事かといえばだな、
『上司に殴られるその瞬間、俺は僅かに巨大化し、そして異常なまでに硬く成っていた』
意味がわからない? 俺だってわからねぇよ。だが冷たい取り調べから解放され、替えにと受け取った会社のジャージのまま向かった喫茶店でふと、気づいたんだよ。
42,851円と、俺の願い。
意中のあの子との良い関係なんかじゃあなかった。本当に俺が欲していたもの。現実逃避の道具に成り下がっていたもの。幼い頃に想い描き、否定し続けてきた可能性。あまりに突拍子もない出来事。しかしどこか嬉しかった俺はすんなりとそれを受け入れ、そしてあのシャッターの前へと足を運んだんだ。
「4万ぽっちじゃ、そんなもんさ」
良い稼ぎになった上客を前に、呑気に欠伸をしやがって。だが許してやろう、何もケチをつけにきた訳じゃあない。
「何? もう一度?」
巨大化ってのはもっとこう、30メートルだとかそういうんだろ? 上司に殴られた時の視界、それはせいぜい2メートル弱がいいところ。しかもただ全身が硬くなる。強さってのはもっとこう、圧倒的なパンチ力だとか、目からビームが出るとかだろ。
「それなりの対価を要求するぞ」
いやはや、まさか預金の額までピタリと当ててくるとはね。婆を疑うつもりはないんだが、いくらなんでもぼったくりすぎだろうと。その日はそこで帰宅した。少しばかり考える時間をくれと、そう残して。
流石に頭を抱えた。年齢の割にはそれなりの額なんだよ。何が欲しいでもなかったが、だからこそコツコツと貯めた全財産。だがそれを明け渡せば、それこそ俺の“ 夢 ”が叶う。あれから1か月くらいは悩んだな。ちなみにあの巨大化は1度きりだったようで、あの件以降は発現していない。
それと、俺を殴った上司は依願退職。大怪我を負ったのはこちらではないが、暴力を振るったのもこちらではない。なるべく穏便に片付けたかったんだろう、それなりの包みを渡され、代わりに届は下げてやった。
だが結果、その上司からパワハラセクハラまがいの迷惑を被っていた者たちによる“ ヒーロー扱い ”を受けることにもなり、更には気になるあの子との距離も少しばかり縮まったんだ。
やはりあの婆、本物だ――――。
だがそこにはもう居なかった。しかし煩い落書きの片隅、一つの言葉がポツリと書き足されていた。
『力を手にして、何をする?』
悪が居てこそ成り立つ正義
それを求める先に、果たして何があるのやら