本来は敵
柱時計の針が日が変わった事を告げる頃になっても、レイチェルは一人で文机に向かって必死にメモを取っていた。
椅子の上に胡座をかいて、書き慣れない羽根ペンで覚えている限りの攻略情報を思いだしては書き留めている。
『もーちょっとちゃんとサイト見とけば良かったかなぁ。もうこの段階じゃ動けそうなところが殆ど見当たんない……』
覚えている情報を書きためていると、ここから先はもう殆ど一本道のルートしか残されていなかった。戦闘パートは魔神マモン復活の儀式で行われる最終戦の一回のみ、あとは行政パートくらいしかレイチェルとして動く部分は無かった。
殆どの関連イベントを出して、ノーフェイスの攻略ルートを出来るだけ攻略サイトに忠実に進んできたせいで、魔神教団、ひいてはノーフェイスの目的が達成されるまで本当にあと一歩の所に来ている。
騎士団を倒した後にノーフェイスが現れる事で、ノーフェイスとの親密度も高い事も確証出来た。
ゲームとしてやっている分にはセーブしてお茶でも飲みつつ、睡眠時間と相談して続けるかどうか考える所だが、セーブもロードも放置も出来ない状態では休んでる暇もない。
「あーきーらーめーるー……訳にもいかないよねぇ……」
羽根ペンを指で弄びながら、独り言ちる。
胡座をかいたまま椅子ごと体を揺らして考えを巡らすが、八方ふさがりな上に誰にも相談出来ないのが痛かった。
ノーフェイスを初めとした魔神教団の関係者に相談するのは論外だ。今更教団の目的に異を唱えるなど、どうなるか分からないが意見が通るとはとてもではないが思えない。
突然のノックに、レイチェルはバランスを崩した。だが結花子と違ってレイチェルの体は椅子ごと倒れるような事はなく、胡座を組んだ状態から身を捻り足から音も無く着地する。あまつさえ倒れかかる椅子も手で受け止めた。
「レイチェル様、よろしいでしょうか?」
扉越しにかけられた声に、椅子に座り直して姿勢を正す。
「ええ、入りなさい」
扉を開けて入って来たのは、銀のお盆を抱えた黒髪のメイドだった。レイチェルと同年代のメイドは一つ頭を下げてから、抑揚の無い声で言った。
「レイチェル様。まだ起きていらっしゃるのでしたら、お飲み物をお持ち致しますが……」
『この子もゲームで見るより実物のが可愛いなー。カオスルートだから表情硬いけど……』
メイド――名前はトリエラという――はロウルートでもカオスルートでも、レイチェルの屋敷に仕えているメイドで、主に行政パートでの報告や持ち前の知識を生かして、エリクシルなどのポーションの作製でレイチェルを手伝う立場にいる。
レイチェルとは幼い頃からまるで姉妹のように育っていて、ロウルートなら恋の話なども出来るし、場合によっては攻略可能キャラと恋仲になる事もある。だが魔神教団と手を組むカオスルートだと終始この調子であった。
「そうね……戴こうかしら。トリエラ、貴方の分も用意して持ってきて」
レイチェルとしての記憶にある限り、こうした言葉をかけるのは魔神教団と手を組んでからは無かった。トリエラも驚いたのか一瞬目を丸くしたが、またすぐに表情を硬くして頭を下げた。
「すぐにお持ちします」
とだけ言うと、足音もなく部屋を出て行った。
レイチェルは扉が閉まるのを見届けてから再び椅子の上で胡座をかいた。
結花子の記憶では、カオスルートでのトリエラは魔神教団の攻略可能キャラと恋仲になる事はないし、あくまでも戦闘以外でのサポートキャラとしての行動しかしない。
『まさかトリエラが教団に噛んでる訳は無いわよねぇ……』
レイチェルの記憶の中では、教団と手を組む事を伝えた時に明らかにトリエラの顔は曇っていた。しかし使用人の身である為かレイチェルの決定に口を出す事はなく、それからはずっと、ただの女主人と使用人と言う関係になっていた。
流行病で両親を亡くした時、一番近くで一緒に悲しんでくれたのはトリエラだった。結花子はネットやゲームでの記憶しかないが、レイチェルにはその時の記憶がある。心細かった時に握ってくれた手の温かさは今も忘れる事はない。
そんなトリエラが間違っても教団の側についているとは思えなかった。
「お待たせいたしました」
ノックと同時に姿勢を正したレイチェルは、トリエラが二人分の紅茶を淹れ終わるのを待ってソファに座り直した。
三人掛けのソファに座ったまま手招きをすると、おずおずと少し離れて座った。
「ね、トリエラ。幾つか聞きたい事があるの。正直に答えて欲しいのだけど……いい?」
レイチェルは一口紅茶を飲むとカップを持ったまま尋ね、トリエラは紅茶に口をつけぬまま小さく頷いた。
「トリエラから見てなんだけど……今の私がやってることって、おかしい?」
トリエラの口が少し動くが、答えはほんの少し遅れて返って来た。
「主人であるレイチェル様のお考えに意見など……」
抑揚を抑えた声が小さく消え入る。
口をつけないままのカップを置いたトリエラは、レイチェルを見る事なく俯き気味に湯気の立つカップを見つめている。
「こっち、見て」
言いながら音を立ててカップを置くと、身を乗り出してトリエラの視線の先に割り込んだ。
「今はメイドに聞いてるんじゃないの。トリエラに聞いてるの。トリエラはどう思ってるの?」
じっと目を見つめて聞くと、ややあってゆっくりと形の良い唇が開く。
「私は……あまり、良い事だとは……思えません……」
レイチェルの記憶の中では屋敷に仕えている者達は皆、教団と手を組んでからもあまり態度が変わってはいない。唯一、大きく変わったのは昔から一緒にいたトリエラだった。
それを聞くと、レイチェルは「そうだよね」と言って、少し勢いをつけてソファに背を預けた。
「やっぱり良い事じゃないよね。私もそう思う。今すっごいそう思ってる。だからさ、どうにかしたいなと思ってトリエラに聞いたわけ」
「それではあの人達とは――」
わずかに目を輝かせるトリエラにレイチェルは力強く頷いた。
「そ、縁切るつもり。でもどうやってやろうかって今それ悩んでてさ……」
背もたれに体を預けて天井を見やるが、考えらしい考えは思い浮かばない。
「それでしたら、あの……地下にいらっしゃる方々に相談してみては……?」
フォトン家の屋敷は元々が城として建てられていて、その地下にも部屋や倉庫があり、小さいながらも牢まで作られている。
レイチェルはランタンを手にトリエラを従えて、石造りの螺旋階段を下っていた。
『自分の家ながら陰気なとこよね……』
湿った冷たい地下牢の前には魔神教団からの衛兵が二人、槍を肩にもたせかけながらとりとめのない話をしていたが、レイチェルの姿を見ると勢い良く姿勢を正した。
「変わりは無いかしら? 尤も……あったらとても困るのだけれど」
努めて冷ややかに言うと衛兵の一人は少し上ずった声で答えた。
「何も問題はありません。ご命令通りにエリクシルも与えてあります」
レイチェルの立場は魔神教団からすれば協力者に過ぎないが、その戦功や寄付している金額は衛兵達も知る所だ。それにレイチェル自身が幹部であるノーフェイスの覚えも良い事は教団内でもよく知られている。
機嫌を損ねないように体を強ばらせる衛兵達に続けて言う。
「そう。なら良いわ。少し中の人達に聞きたい事があるのだけれど、貴男達は席を外してもらえるかしら」
内心の緊張を悟られないよう先ほどより冷たく言い放つと、衛兵達は揃って敬礼をすると唯々諾々にレイチェルの言葉に従った。
階段を駆け上がる足音が聞こえなくなると、レイチェルは深く大きく息を吸ってゆっくりと吐いた。
意を決すると壁に掛かっていた鍵束を取り、鋼の扉にかかっていた掌ほどもある錠前を開ける。そして耳障りな軋みを立てながら扉を開けると、ランタンを掲げるようにしながら中へと踏み込んだ。
「まだ儀式には早いはずですが、私達に何用でここに?」
落ち着いた、冷ややかな声がレイチェルに刺さる。
ロウルートなら攻略キャラの一人でもある、魔法使いビート・キルスは手枷の鎖を弄びながらレイチェルの方を見もしないで言った。
「私達を尋問しても、貴女にとって有益な情報は話せませんよ。その事はご存じだと思っていたのですが」
少し項垂れ、顔にかかる長い金髪の奥から出てくる声は、辛辣な響きを隠そうともしていない。
「それは分かっています。今日は別の話をしに来ました」
「来ても俺らは話す事なんてなんもないよ」
横合いからぶっきらぼう声が飛んでくる。
ランタンの明かりに浮かぶのは、太い鎖で手足を縛られた少年――アルドの弟、クリステン・ショーンだ。
「ねーちゃんが何したって俺達は負けやしない。絶っっっっ対に儀式は止めてやるからな」
クリステンは格闘型を選んだ場合にはレイチェルの弟弟子となり、小さい頃から本当の弟のように接してきた。ねーちゃんねーちゃんと懐いていた分、罠をかけて捕らえるのは一番容易く出来た。だが今はレイチェルの正体を聞いているのか、明らかな敵意を持って睨んでいる。
「と言う事だ。僕達は君に話す事は何も無い」
言葉を引き取ったのは、今日ここに幽閉されたばかりのアルドだ。壁に寄りかかってはいるがエリクシルを飲んだおかげか、血を吐く程の傷を受けたのに声には張りがあった。
「今のところ君達の目的には近づいていると思うが、必ず僕達が引っ繰り返す。魔神マモンの復活などさせはしないよ」
アルドの言葉に棘は無く、ただ淡々と自分達の決意を口にしていた。
レイチェルはランタンをトリエラに預けると、牢屋の真ん中まで進むと三人の前に膝を突いて頭を下げた。
「ねっ、ねーちゃん何してんだよ!?」
突然の事にクリステンは声を上げるが、ビートは冷たい声を崩さなかった。
「貴女が頭を下げて何の意味がありますか? 今更になって私達を閉じ込めた事への謝罪ですか?」
レイチェルは少し顔をあげ、首を横に振る。
「それもあるけど、でも、違うの。今更、ほんと今更だけど……何とか、出来ないかなって、三人に相談に来たの……このままだとこの街も周りの街も全部、大変な事になっちゃうから、それを止めたくて……」
調子の良い事を言っているのはレイチェルも分かっている。
だが結花子の記憶にある攻略情報ではカオスルートから抜け出す事は出来ない。となればゲームにない行動を取ってでも――と言うのが結花子の、そして今のレイチェルの考えだ。
「虫の良い話ですね。いざここに到って怖くなったのですか」
溜息交じりに言い捨てるビートにレイチェルは肯定も否定も返さなかった。
「分からない。でも、今まで私のやってきた事が間違ってたのは分かる。だからなんとかしたいの。だから力を貸してください。お願いします」
レイチェルは再び頭を深く下げた。
「もし、だよ」
頭を下げるレイチェルに、アルドは姿勢を正すように身動ぎしながら口を開く。
「レイチェルが今から僕達に協力してマモンの復活を食い止め、教団を壊滅させたとしよう。しかし、君も教団の協力者として罪に問われる事は避けられないだろう。そうなればフォトン家は取り潰し、レイチェルも処刑される可能性が高い。それでも僕達に協力を仰ぐのかい? 今の君にはその覚悟がある?」
アルドの静かな声が肌寒い地下牢に響く。アルドは騎士団長としてレイチェルを捕らえ、罰を与える立場にあった。今口にした事は騎士団長としてやらねばならない事の表明でもある。
結花子はもうゲームだから、とは思っていない。体に残るレイチェルの記憶は自分の記憶も同然に思い出せて、その中で自分がやってきた事への後悔は山のように肩へとのしかかる。
『ここで死んじゃったら、ほんとに死ぬのかな……それとも、普通に部屋で起きられるのかなあ……』
俯いたまま黙っているレイチェルにアルドは続けた。
「君とは子供の頃からのつきあいだ。殺したくないし守りたいのが本音だ。だが僕はこの街と人を守る為なら君を殺す覚悟は決めている。もう少し早く言ってくれたら、まだ君を庇えたのだけど――もう手遅れじゃないかとも考えている」
少しだけ言い淀みかけるが、きっぱりと言った。
「僕達をここに閉じ込めた事はまだいい。問題は、レイチェル。君は教団の元で人を殺めすぎた。君への処罰はどうやっても避けられない」
穏やかな言葉はレイチェルを責めていない。
ただ事実を口にしているだけだ。
眠り薬を入れたお菓子で楽に捕らえられたクリステンはともかく、騎士団長のアルドや魔法ギルドの長たるビートを捕らえる時には、教団と共に何人もの人を殺していた。
固く握りしめたレイチェルの両手は、その時の感触をまだ覚えている。
「……それでも、いい」
ぽつりと、言葉が出た。
「ただ、トリエラや屋敷のみんなは私の命令に逆らえなかっただけ。罰を受けるなら私が受ける。だからみんなが罪に問われる事は避けてほしいの。虫が良いとは思ってるけど、私は何でもするから手を貸して」
ランタンの光が大きく揺れ、後ろでトリエラが身動ぎするのが分かった。
覚悟は決めた。
処刑されてしまったら結花子自身がどうなるかは分からないが、やれる事をやっておかないと後悔する事は分かっている。
この手で殺した人達は生き返らないが、せめてもの償いはしたいと思う。
「では、まず鍵を外してください。こうなっていては私達は何も出来ない」
ビートは唇を噛むレイチェルに、鎖で繋がれた両手を差しだした。魔法を封じる石で作られた枷をはめられては、魔法使いはただの人と変わりが無い。
レイチェルは小さく頷き、鍵束から曲がりくねった鍵を選ぶとビートの手枷を外した。
「……貴女は昔から変なところで人の言葉を信じすぎますね」
言い終える前にビートは指を一つ鳴らした。その一動作だけで雷の篭が現れ、レイチェルを閉じ込めた。
「レイチェル様っ!」
思わず声を荒げるトリエラに、やんわりとビートは言った。
「魔法使い相手に油断しすぎです。それとトリエラ。あまり大きな声を出すと、レイチェルがただでは済みませんよ?」
手首を揉みながらビートは立ち上がると、膝を突いたままのレイチェルを冷たく見下ろした。
「貴女を閉じ込めてこのまま逃げるって手は考えませんでしたか?」
「考えた。でもトリエラや街の人達が無事ならそれでいいの」
立ち上がる事も出来ない大きさの篭の中で、レイチェルは真っ直ぐにビートを見上げた。
「……このまま逃げたいのは山々ですが、下手に動けば教団の幹部達を取り逃がす可能性があります。最適な機会が訪れるまでは動きにくいのですよね、私達も」
ビートがもう一度指を鳴らすと雷の篭はすぐさま消えて失せた。
「ですが儀式の時に動いては遅すぎます。その前に出来うるだけ一網打尽にしましょう。レイチェル。貴女の知っている教団が動く予定を全て教えてください」
レイチェルは結花子としての記憶もあわせて、知る限りの教団に関する情報を伝えた。
魔神教団の幹部が一堂に会するのは、あとは半月後にこの屋敷で予定されているレイチェルとノーフェイスの婚約発表のパーティーしかなかった。それを伝えると、三人とも一様に呆れるやら困った顔をした。
「婚約……ねぇ……。貴女の趣味をどうこう言うのも出過ぎたことですが、どこに惹かれたんですか? 幹部は全員が顔を仮面で隠しているとの事は聞いていますが……」
細い顎に手を当てたままビートが唸るように言う。
「ねーちゃんが変な奴のお嫁さんになっちゃう……」
鎖でがんじがらめにされたまま、曇った声を出すクリステンの頭をレイチェルはそっと撫でた。
「いかないから。やめるから。予定ってだけ。婚約破棄するから。なんで泣きそうな声出してるのよ、あんたはもー」
14の誕生日を迎えたばかりのクリステンは、まだ多分に子供らしい所を残している。それにしてもここまで悲しげに言われると困ってしまう。
実の弟のそんな姿と引き替えに、アルドは至極冷静に口を開いた。
「ともあれ、この屋敷に幹部が揃うのなら願っても無い事だ。彼等に感づかれずに奇襲をかけられれば――」
「にーちゃんいいのかよ! ねーちゃんがお嫁行っちゃうんだよ!?」
「いーかーなーいって言ってるでしょうにっ」
混ぜっ返すクリステンの頭をぎゅっと押さえると、トリエラが小さく笑った。
「ちょっと懐かしいですね、こう言うやりとりも」
レイチェルが魔神教団と手を組む前は、こうして五人で集まって夜が更けるまでとりとめの無い話をした時もあった。そう前の事でもないのに言われて見ると遠い昔のようにも思えた。
結花子としては何度もクリアしたロウルートでは見慣れた光景だが、カオスルートでの記憶しかない今のレイチェルにとっては懐かしくも感じる。
「レイチェル。ちょっとクリステンの口を押さえててください――話を戻しますが、アルドの言うようにその時が良い機会でしょう。事前に動いて騎士団や魔法ギルドが動かせればベストですが、監視の目がある以上は多くを望むのは難しい。下手に動いてはレイチェルの翻心を疑われてしまう」
口を塞がれてくぐもった声を出すクリステンを宥めながら、レイチェルは少し思案した。
「と……なれば私達だけでやるしかないかな」
アルドは頷きつつ言葉を引き取る。
「僕達は囚われの身ではあるが、逆に考えれば相手の懐にいると言う事だ。これを生かさない手はないだろう。賭けではあるが、レイチェルが僕達の側にいるのなら分の良い賭けだ」
『そういえば、アルドって結構賭けカードとかやるんだったっけ。やってるとこは殆ど見た事ないけど』
ロウルートで偶に出るイベントだが、アルドは運試しと称して騎士団でこっそりと賭けカードをやっている。ロウルートではその場に踏み込んだりもしたものだが、カオスルートを進んでいる今のレイチェルにはそんな記憶は無かった。
『私がカオスルートなんて選ばなければ、レイチェルももっと楽しい事出来たのかな……』
ロウルートで攻略出来るキャラは全て攻略したから、あとはカオスルートをやれば全クリだと、結花子としては気軽に選んだレイチェルの人生。だがレイチェルとしては仲の良かった人達と敵対し、住んでいた街や世界をも魔神に捧げる人生。
気付かなければ、もしも結花子がレイチェルにならなかったら、それはそれで楽しかったのかもしれない。
「レイチェル。約束してくれないか?」
名前を呼ばれてレイチェルは我に返った。気付くと、真っ直ぐにこちらを見つめるアルドと視線が合う。
「もう、誰も罪のない人達が死なないようにして欲しい。それと出来るなら、君ももう誰かを殺さないで欲しいんだ」
レイチェルは頷いた。
「ええ。約束する」
アルドは穏やかな笑顔を浮かべて頷き返す。それを見てビートも小さく笑った。
「さて、では今出来る準備だけはしておきましょう。レイチェル。鍵を私に貸してください」
鍵束を受け取ったビートはそれを両掌の間に挟み込むと強く握りこむ。そしてゆっくりと掌を開くと、2つの鍵束が軽い音を立てて石畳に落ちた。
詠唱も触媒も、魔法使いにとって必須とも言える杖も無しに物体複製の魔法を使えるのは、この街でも魔法ギルドの長たるビートのみだ。
「牢番は私達の鍵を外すような馬鹿な真似はしませんし、贋物で十分でしょう」
ビートは鍵束うち一つをレイチェル返して寄越すが、どっちが本物なのかレイチェルの目には全く区別が付かなかった。
「――そりゃあそうだよ。俺達とまともに戦えるのなんて、ねーちゃんくらいしかいないじゃん。儀式の時まで外すわけないよ」
レイチェルの手を振り払ってクリステンは自慢げに鼻をうごめかせる。しかしレイチェルは懸念があった。
『やっぱり教団側の攻略可能キャラがネックかな……』
カオスルートではノーフェイス以外にも数人の攻略可能キャラがいて、彼等はほぼ全員が幹部だった。そしてその全員とロウルートでは戦う事になるので、結花子は全員の得手不得手を知っている。レイチェルとしても魔神教団の幹部達とは何度か会っているが、やはり何人かの幹部は気配からしてただ者ではなかった。
だがその中でも一番の懸念はノーフェイスだ。ロウルートの最終ボスらしく他の幹部とは段違いの能力を持ち、ゲーム開始時に決める難易度によっては結花子が一番使い慣れている格闘型でも何回か負ける事がある。
『イージーモード、じゃないよねやっぱり』
味方キャラになっている時の強さなど、プレイヤーであった結花子には到底分かるものではない。
「ねーちゃんねーちゃん。どしたのさ?」
クリステンの言葉で我に返ったレイチェルは、実の弟のような弟弟子の頭を撫でた。
「なんでーもない。パーティーの当日、私は多分来てる時間ないと思うけど――」
「細々とした事はお任せください」
レイチェルの言葉を引き取ってトリエラが口を開いた。
「私の主人たるレイチェル様の行いたい事を、万事において滞りないようにお手伝いするのが私の役目です」
いつもと違いトリエラは少し強い調子で言い切った。
「では細かな連絡等はトリエラに任せるとして、今日の所はお開きとしましょう。あまり長い間牢番を外に追いやっていると勘ぐられる」
ビートは鍵束を服の中に隠すと手枷を自分ではめ直す。
「そうだな。話を煮詰めるには時間が少ないが、教団に感づかれるよりは良いだろう」
アルドもあぐらをかきながら息をついた。
「そうだねーちゃんっ、ご飯さ、大盛りにしてほしいんだけど……」
一人、食事のことを言い出すクリステンに、レイチェルは小さく微笑んだ。
「わかった、クリスのは大盛りにしたげるから残さず食べて、体調整えておきなさいね」
弟弟子はレイチェルにつられるように微笑んだ。