乙女ゲーの中へ
「いったー!」
目が眩みそうな痛みに、ぶつけた頭を抱えて転げ回る。
『ああもう、椅子じゃなくてベッドでゲームすればよかったっ。現国の宿題まだ残ってるのにゲームした罰かなぁ』
痛みに固く目を瞑りながら、あれ、と思った。
椅子から転げ落ちて頭をぶつけた記憶はあるが、痛いのが頭だけではない。背中が痛いのなら話は分かるが、手も痛く体の到る所にも痛みがある。
涙の滲む目を開けようとすると、殆ど耳元で名前を呼ばれた。
「レイチェル避けて!」
誰それと思う間もなく目を見開くと、まさに今振り下ろされた剣の切っ先が迫っていた。
頭は状況を理解する事も出来なかったが、体は即座に動き始める。頭を抑えていた両手が剣先を左右から挟み込み、そのまま転がるように体を捻って剣の軌道をずらすと、響くような音と共に振り下ろされた剣は地面に突き刺さった。
体が覚えていた動きはそれに留まらない。
足を抱え込むみながら体を丸めると、剣から離した手を頭の横につき、全身のバネを使って飛び上がるように相手を蹴り上げる。
両足は鎧を着た相手の胸板を適確に捕らえ、宙へと跳ね上げた。鎧の男は血を吐きなががら宙を飛び、重い音を立てて地面へと落ちる。
その時にはもう、蹴り上げた勢いで跳び起きた体は、鋭く息を吐きながら腰を落とし気味にし、両手を構えて追撃すら出来る体勢になっていた。
いつもの癖で八重歯の裏を舐めた所で、ふと体が止まる。
「……えっ」
思わず抜けたような声が口から漏れた。自分の体が勝手にとった動きが自分でも信じられなかった。
真剣白刃取りに、鎧を着た相手を蹴り飛ばす、映画のようなアクション。
夢にしては体の到る所が痛い。金属の籠手をしていても、騎士の鎧を拳で打つのは手が痛む――
『騎士? 篭手?』
自然と頭の中に浮かんできた単語に疑問が湧く。
『さっきまで着てたの、部屋着のトレーナーなのに……』
構えをといて両手を見ると、使い込まれた革の手袋を金属の篭手が覆っていて、服も白を基調としたコートのようなものを着ていた。
視線をずらすと、辺りは薄暗い森の中。ざっと二十人を超える兵士が戦い、その一部は倒れていた。
蹴り飛ばした相手を見ると、整った顔を苦痛に歪ませながらも、歯を食いしばりながら剣を支えに立ち上がろうとしているが、再び吐血して膝をついた。
「だっ、大丈夫ですかっ!?」
慌てて駆け寄ろうとしたところを、髪を掴まれて止められた。
「ちょっとちょっと、何やってんのよレイチェル!」
文句を言おうと振り返るより早く、声の主が眼前に現れた。
少女の姿をしているが背丈は30cmもないだろう。背中から蝙蝠のような羽を生やしてワンピースの水着のような服を着た『それ』は、癖のある髪をかきながら、小さな手足をぶんぶんと振り回す。
「大丈夫ですかーじゃないよっ! 敵の心配なんかしてどうするのさ! あいつ、まだ体力残ってるよ!?」
「敵ってそんな怪我して――」
言われて見れば、相手は敵だ。
しかもこちらは騎士団を誘い出して騙し討ちを仕掛けたのに、心配する理由は――あった。
生かして捕らえないと生贄に出来ない。魔神マモンを復活させるのに必要だと言われていたはずだ。
だが生きていれば怪我をしてようと構わないはずなのに、怪我が浅ければいいだなんて思う必要も無いはずなのに、怪我させたのは自分なのだから気になってしょうがない。
痛む頭を手で押さえて考える。
『レイチェルって誰――自分だ。違う、自分じゃない。レイチェルはゲームの主人公であって自分じゃ……私、誰? それに今何が起こってるの?』
「こうなれば、刺し違えてでも……!」
血を吐きながら立ち上がった男は両手で握った剣を肩に担ぐように構え直すと、「ブラスト!」と一声叫ぶ。
ブラストブレイド。騎士団長の証でもある魔法の剣は、持ち主の合言葉によって指向性の衝撃波を放つ。現在の持ち主であるアルド・ショーンは、その衝撃波で自身を加速させての一撃を得意としている。
しかし頭を押さえながらもレイチェルの反応は更に早かった。
自ら間合いを詰めると足がめり込む程に地面を強く踏みしめて、爆発音のような音を響かせながら周囲一帯を大きく揺らす。足を取られてほんの少し体勢を崩したアルドに、そのままカウンターで腹に肘を突き入れる。
クエイクカノンと呼ばれる必殺の一撃を受けて、今度こそアルドは剣を取り落としてぐったりとレイチェルに寄りかかった。
「何故、君は……こんなことを……」
血を吐きながら、アルドは嘆いていた。その目に薄らと浮かんだ涙は、痛みによるものでないのはすぐに分かった。
だがそれ以上喋る事は出来ずに気を失うと、レイチェルはその重みで尻餅をつきながら叫んだ。
「だっ、誰か救急車!」
レイチェルは屋敷へと帰る馬車の中で、俯きながら考え込んでいた。肩に座った、少女の姿をした小悪魔の言葉も、全くの上の空で頭の中に入ってこない。
『私は……結花子。堀、結花子。ここまではあってる。でも今はレイチェル、レイチェル・フォトンになってる(・・・・)』
レイチェルという名前に聞き覚えはあった。頭を打つ直前までやっていたスマホの乙女ゲー《湖の騎士達》に出てくる主人公の名前だ。
湖畔の街に居を構える貿易で財を成した貴族フォトン家の跡継ぎであり、若き騎士団長やその弟、近隣で名を知られた魔術ギルドの長や、果ては街を狙う魔神教団の幹部まで、様々な人達と出会っては敵対したり親密になっていく立場にある。
落ち着いて考えれば戦っていたシーンも記憶にある。正規ルートでは攻略キャラ達と一緒に倒すはずの魔神教団に与して、通常の攻略キャラ達を相手に戦う通称カオスルートの一場面――椅子から転げ落ちる直前までやっていた場面だった。
3Dの戦闘シーンで操作を間違えてブラストブレイドからの体当たりが直撃して、hpを一気に削られたのが、結花子が最後に覚えているシーンだ。
『何で私、ゲームの中入っちゃってるのよ……しかもカオスルートなんて、全ルートクリア目的でやってるだけなのに……』
「ちょーっとー、レイチェルってば聞いてるの?」
小さな手で耳を引っ張られて我に返る。
「あ、うん。聞いてる、ほんと聞いてるよ」
小悪魔は顔を覗き込みながら話を続けた。
「アルドはいつも通りに牢屋入れて儀式まで生かしとかなきゃだし、ダメージ大きいからエリクシルがちょっと必要かな。雑魚はてきとーに処分出来たからいいけど、生贄に使えるようなのは生かしとかなきゃいけないのが面倒よねぇ」
『ああ、そういえば生贄用のキャラは、hpゲージを超過したダメージを回復させとかないといけないんだっけ……正規ルートだとただ倒せばいいだけなのに、この調整が面倒だったんだっけ。エリクシル高いから予算が……ん? 処分?』
レイチェルは一つ唾を飲んで尋ねた。
「か、確認したいんだけど処分て……」
小悪魔は目を二三度瞬かせて小首を傾げた。
「生贄に使えるほどの魂じゃないし、生かしといたら邪魔だから殺しちゃうしかないじゃん? もちょっと使えるようなのなら生贄が増えて良かったんだけど、使えないんじゃしゃーないよね。でっもさー、あれが精鋭の騎士団とか笑っちゃうよね。てんで弱っちくってさー、レイチェルがちょっと暴れただけで半分近く倒せちゃったし」
さらりと物騒な事を言う。
結花子がゲームでの記憶を辿ると、確かにアルドとの戦闘開始前に騎士団と戦うシーンがあった。前哨戦で範囲テクニックを使って一気に薙ぎ倒すのは楽しかったが、それを自分がやった事として思い返すと血の気が引くのが分かった。
『騎士型の相手は防御高いし、一気にやらないとって最強テクまで使ってやっちゃったけど、あれ……死ぬよね……鎧、凹んでたし、血吐いてたし……』
《湖の騎士達》のキャラクターは騎士型・魔法型・格闘型と、味方も敵もそれぞれのタイプが設定されている。騎士型は格闘型に強く魔法型に弱い。魔法型は騎士型に強く格闘型に弱い。格闘型は魔法型に強く騎士型に弱いと三すくみが設定されていて、戦闘パートでは個々の設定に加えてシステム上の強弱を考えて動かないとクリアの難易度が格段に上がる。
主人公のレイチェルも初期設定で三タイプのどれかを選べ、結花子は初のカオスルートをやるにあたって正規ルートで一番慣れていた格闘型を選んでいた。
『やばい、どうしよ……人、殺しちゃってる……』
結花子に人を殺した経験は無いが、レイチェルとしての体はそれを覚えている。手や足で感じた手応えは確かに人の命を奪った時のものだった。
揺れる馬車の中で、乗り物酔いどころではなく吐き気がこみ上げてくる。
三すくみで騎士型に弱い格闘型と言えど、雑魚として設定された相手なら少々難易度が増すだけで、慣れていれば少し物資を使えば余裕で押し切れる。カオスルート終盤に出てくる騎士型相手でも、格闘型で正規ルートを全てクリアした結花子は負ける事はなかった。
「何々? レイチェルってばどうしたの?」
知らないうちに涙が溢れ、視界がぼやけている。慌てて涙を拭うと無理に顔を引き締めて答えた。
「何でも無いわ。ところでこの後の予定は?」
声が震えないよう努めて言うと、小悪魔はそれ以上聞いてこなかった。
「お屋敷戻って、あとは事後処理ねー。騎士団長がいなくなったんだから街は混乱するはずだし、その間に色々と教団の勢力大きくしとかないとねー」
手筈は既に整えていた。後は細かな調整をしていけば一月と経たずに街は魔神教団の手の者が重役につき、教団の悲願たる魔神マモンの復活の儀式が滞りなく行えるはずであった。
レイチェルはその為に、騎士団長アルドを初めとした何人もの障害を人知れず倒し、ある者は儀式の生贄とする為に幽閉し、ある者は処分してきた。
既に止められる段階にもなければ、止められる者も街にはいない。
止められないようにこれまで幾つも手は打ってきた。
今日倒したアルドが最後の障害だったが、これまで味方だと思わせていた事もあって、レイチェルが流した情報によって罠を張った森の中に誘い込むことに成功した。結果は狙い通りにアルドを倒し、捕らえる事が出来た。
「分かったわ」
短くそう言って、レイチェルは窓の外に目をやった。
扉のガラスに映るのは、金色の髪を片側で結わえフリルのカチューシャをつけたレイチェル・フォトンの顔で、いつも見慣れている結花子自身の顔ではなかった。
真っ直ぐに夕暮れの森を見ているように見えるが、頭の中では色々な考えが浮かんでは消えて渦巻いて纏まらない。
しかし考えあぐねる暇もなく、小悪魔が服の裾を引っ張った。
「もうお屋敷つくよ。ほらほら、ノーフェイス様もお待ちみたいっ」
フォトン家の屋敷は他の貴族が好む広々とした造りではなく、石造りの小さな古城を買い取ったものであった。
若干16才で両親を亡くし、有力貴族たるフォトン家の全てを継いだレイチェルにとっては持て余し気味の家ではあったが、魔神教団の拠点の一つとしては必要十分な場所になっている。
馬車から降りたレイチェルを迎えたのは、使用人達ではなく魔神教団の幹部の一人であるノーフェイスと呼ばれる青年であった。
「おかえり、レイチェル。怪我は無かったかい?」
目の部分だけが開いた飾り気の無い黒い仮面越しであっても、その声は穏やかで優しかった。
レイチェルは頷く。
「はい、ノーフェイス様。無事、騎士団長アルドを倒し、捕らえてございます。跡が残るような怪我もございませんわ」
気は沈んでいても、体は勝手に嬉しげな声を出している。
「ならば良い。君に何かあっては事だからな」
「聞いて聞いてノーフェイス様っ。レイチェルってばすっごいんだよ! 一蹴りで纏めてどかーんって倒しちゃったよ! すっごかったんだからー!」
小悪魔はノーフェイスの周りをくるくると飛び回りながら、楽しそうにジェスチャーを交えて言った。小悪魔は自分を呼び出したノーフェイスにとても懐いている。レイチェルの傍にいるのも、ノーフェイスがレイチェルを重要視しているが故の事だ。
「僕が動ければ君を危険な目に逢わせなくて済むのだが……アルドの捕縛まで君に任せる事になってしまうとは。本当に済まなかった」
ノーフェイスは騎士としても魔法使いとしても有能という設定上、魔神マモン復活の儀式のために準備に追われている。戦闘シーンがあるのは正規ルートでもカオスルートでも、クライマックスの一戦のみである。
『ゲームで聞くより、すっごく良い声してるのね、この人』
レイチェルはこれまでノーフェイスと交わした言葉や、過ごした時間の記憶を持っている。そしてその時に抱いた感情も覚えている。
結花子の気持ちはあるが、自分でもレイチェルに引き摺られているのが分かる。
ネットで攻略サイトを見ながら、出来るだけイベントを発生させつつノーフェイスの攻略ルートを進み気を惹くようにしていたが、まさかレイチェルの方もここまでノーフェイスに惹かれているとはなってみる(・・・・・)まで分からなかった。
「だが君のおかげで我々はこの街を手に入れ、この地を始めとして魔神マモンの元で、全てを手に入れられる。全てを支配し、この世を掌に乗せられる」
胸の前で拳を握って熱っぽく言うノーフェイスに対し、レイチェル――結花子は記憶を辿るにつれ冷静になっていった。
攻略サイトでノーフェイスでクリアした時のエンディングまで一通りは見ていたが、このままいけば世界は大変な事になる。
――魔神マモンの復活により百を超える悪魔達も地上に現れ、マモンの名の下に教団とそれに従う者達以外は永く永く虐げられるが、レイチェルとノーフェイスは更に長く共に過ごした――
結花子の記憶ではそんな文言がエンディングの画面に書かれていた。
ネットで数枚の画面と感想しか見ていないが、このままレイチェルとして過ごせば結花子は全てを自分の目で見る事になるだろう。
『私この人……駄目かな』
カオスルートを進んできたレイチェルはともかく、結花子としてノーフェイスを受け入れるにはかなりの抵抗が芽生える。夢がある人は嫌いではないが、ただの学生に過ぎない結花子から見てその夢は問題がありすぎた。
『ゲームやってる時はかっこいーで済ませられたけど、やっぱり無理かなあ』
ネットやこれまで正規ルートで得た情報によると、ノーフェイスは過去に様々な辛い出来事があって今は魔神教団の幹部になっている。それらのシーンはゲーム内には無いもののネットの公式ブログや二次創作イラスト等で見た事がある。
確かに同情したくなる点もあるが、だからと言ってその目的が達成されるのは結花子としては避けたい。
「ええ。もうすぐですわノーフェイス様。もうすぐ全てが叶う時です」
レイチェルは表情を悟られないよう深く頭を下げた。
「アルドが我等の手に落ちれば、もう邪魔者はいない。星と季節の合が揃う日まで、もうすぐだ。君がいなければここまで順調に事は進まなかっただろう」
そこでノーフェイスは一度言葉を切り、一つ小さく咳をして続けた。
「今日の所はこれでお暇しよう。君の無事な姿を見られて良かった。君からの報告を待てず、ここに来てしまった短慮を許して欲しい」
仮面越しで視線は分かりにくいが、わずかに見える瞳の色は気恥ずかしげに見えた。
「んじゃあ、あたしもノーフェイス様と一緒にいくから、まった明後日ねー」
小悪魔はノーフェイスの肩にふわりと乗ると、小さな手をレイチェルに振った。
「また来るよ、レイチェル」
ノーフェイスはそう言って踵を返すと、小悪魔を伴って去って行った。
手を振り、見えなくなるまでその背中を見つめていたレイチェルは、下ろした手を強く握りしめる。
『出来るだけの事はやってみるかな』