(3-38)
「今日はここまでですかしらね」
「明日は分担ごとに作戦の説明会もあるし……本番は、決戦後になるね」
「そうです、今は取るべき休息はしっかり取って英気を養う時、ですよ!」
「ありがとう、みんな」
日付変更前まで続いた作業を切り上げ、スフィールリアは改めて全員に頭を下げた。
といっても大した数をこなせたわけではない。全体の依頼量を思えば焼け石に一滴の水、というぐらいだろう。フィリアルディの言う通り、本番はやはり決戦後だ。
「……みんなも作戦には志願したんだね」
「だってスフィールリアさんは強制参加じゃないですか。聖騎士が護衛につくとは言え……おひとりだけ戦わせるなんていやですよ!」
「うん。分担配属先は選べなかったけど……それでも。離れていても一緒に戦いたいよ」
「それにわたくしだって学院の誇りある一員。ここでおめおめ逃げ隠れて安全になってから舞い戻るなんて格好悪すぎて御免ですわよ」
「でも……」
スフィールリアが湿っぽい空気を醸すのを見て、アリーゼルがぱっと隣のふたりの肩を持った。
「――あっ、ちなみに。わたくしたちは同じ系統の班構成ですの。わたくしのいる班の指揮下の班におふたりもいるので。実質一緒ですわねぇ~」
「…………」
さらにしゅんとなるスフィールリアに、三人が顔を見合わせて、笑った。
「いざとなったらみんなで助けにいくからね、スフィールリア」
「……」
しばしなにも言えず、その笑顔を見ていて。
「一緒だよ」
スフィールリアは目元を拭い、うなづいた。
「……うん!」
「ではもういい加減休んだ方がいいですわよ。また夜になにか持ち込んできても応じませんから」
緊張やら先行きやらのことを話し合いながら、明かりを携えた三人が森の中に消えてゆく。
なんだかこういう別れ際……自分を置いて楽しげに会話をしながら去ってゆく友達の背中というのは切なくなってしようがない。
「……」
胸にキュっとくるものを感じて明かりが見えなくなるまで手を振っていたスフィールリアは、次に隣に立っているアイバを見た。
「……え~と。アイバも休んだ方がいいんじゃないの? それともなんか用事残ってる?」
「あ、ええとああ。そう、それな……ちょっと。ちょっとだけ、な。いや――」
と、しどろもどろだったのはそこまでで。
アイバは、しごく真面目な表情で彼女に向き直って、見下ろしてきた。
「俺は――お前と話をしにきたんだ。時間、くれないか」
始めはきょとんとしていたスフィールリアだったが、
「うん、分かった」
冗談の類でないことが分かったので、彼女もはっきり了解の意思を示した。
真面目に聞くつもりで、彼女もアイバに向き直った。距離が近いため、彼の頭ごしに月も一緒に見上げる形で。
「……」
「……」
静かに言葉を待つ。
ごくりとアイバの喉が上下し――
その時だった。
アイバの腹が鳴る。
それも、話の流れを切るほど大きく。すごく見事なビブラートまで利かせながら大きく……長く、だ。
「あ……!」
アイバの顔が真っ赤に染まってゆく。
あんまりにも立派な音すぎて、そしていつまで続くんだよと思うぐらい長すぎて、スフィールリアは笑ってしまった。
「……ぷふっ、なにそれ、何用だよ……!」
「え、あ! いやこれはだな! うん、そう! そう違うんだよウンそれな!」
「なにが違くてどれがそれなの……!」
スフィールリアは涙を拭きながら、真っ赤にした顔を覆ってうずくまってしまったアイバの肩に手を置いた。
「分かった分かった。キッチン無事だったらなんか作ったげるから話は食べながらな!」
「ずみまじぇえん…………」
まぁキッチンのコンロが無事じゃなくても火は別で用意できる。
なのでスフィールリアは膝を抱えて震えるアイバを置くと先立って裏手の食料倉庫へと回った。
「ていうかなにがあったかなー。まぁアイバだからなんでも食べるんだろうけど」
「まったく世界の危機だってのにしょーもない小僧だなー」
「いやー、明日世界が滅びる夜でもお腹は減るでしょ。それにほら食べ盛りの男の子って一食の量もサイクルもすごいしなー。でもだから肉がなー。たしか乾燥肉のストックしかなかったんだよなぁ」
「んなら、ウチで食ってくかい」
「え?」
唐突に。
割り込んできた声に――
「ってうわぁ!?」
「あ! お……おま! お前ぇ!!」
振り返ると、小屋の裏手に密着するようにして、煌々と明かりをこぼす屋台車が停車していた。
枯れ木のような細い腕を上げて「いよぅ」と挨拶してくるのは白の調理服に調理帽という風体で、目が隠れるほど長い眉をこさえた小柄の老人。
普段は(?)大図書館と大聖堂の隙間で商売を営んでいる老人だった。
「おじいちゃん!?」
「こここ、ここは俺様の縄張りだぞぅ!」
フォルシイラへ――屋台の前方につながれてうずくまっていた大きな騎竜が、静かなる眼差しを送ってくる。
「はーん、なんだトカゲ風情が。俺様とやるのかーん?」
「……」
フシュッ、と鼻息を鳴らしてそっぽを向く。
騎竜と言うにはかなり大きい。立ち上がったらたぶん背の部分でも二メートル高にはなり、翼も大きい。原種に近いのかもしれない。いつもの敷地で見ることはなかったが、なるほど屋台車はこうやって運んでいたのか。
……というか、いつの間に。こんな大きな車が家に張りついていたら暗がりだって絶対に気づく。振り返るまでは絶対にいなかった。
「そんナワバリがなくなっちまっててなぁ」
「だからってここにこなくたっていいだろ……ていうかだれだポップ・ポイントにここ含めてたヤツは! 小娘かっ!」
「なーんだネコよ。まだ俺たちのこと苦手なんか!」
「『お前たち』はどこまでいっても世界の〝異物〟なんだ! 俺様みたいな繊細な存在には不快極まりないの! 目ン中でいつまで経っても取りたくても取れない目クソみたいなモンなんだ!」
「フォルシイラお下品ってか失礼だよ! ていうかお知り合いだったの」
まぁなぁ、とおかしそうに笑い、翁。
「あー、というわけだからアレだ。どうせ商売にならんそうだしな。食ってくか?」
スフィールリアはポンと両手を合わせて飛びついた。
「じゃあ、お友達も呼んできていいですかっ?」
「あぁ、アレ。前言ってた、紹介したいってー女の子たち」
「その子たちは帰っちゃったんですけど、今日は男の子がいて」
「ほぉん、男の子」
意外そうにしてから、また、音なく肩を揺するあの笑い方で、
「連れといで」
ぱっと顔を明るくして、スフィールリアは表玄関方面へ飛び込んでいった。
「え? 裏で食うの? 違う? 屋台? どゆことだ?」
怪訝な眼差しを送ってくるアイバをぐいぐいと引っ張ってゆくと、姿を現した屋台車にやはり驚きと警戒を露わにした。まったく出現に気づけなかったのだから当然と言えばそうだ。
店主は、すでに厨房に引っ込んで作業を始めているようだった。
「お、おいスフィールリア……これホントに大丈夫なんかよ……?」
「ホントに大丈夫だってば。おじいちゃーん、入りまーす!」
「お、お邪魔しまーすぅ……!」
暖簾を持ち上げつつアイバの背中を押し込み……
「あいあい。あいよ――」
水差しを持って振り返った翁の動きが――完全に――止まった。
はっきりと瞳の色が分かるほどに目を見開き。飄々、鷹揚とした翁の姿は、どこにもない。
視線は、アイバに釘づけになっていた。
そして。
「――――アイバ?」
そして漏らされたつぶやきに、今度はアイバが変な声を出して止まった。スフィールリアもびっくりした。
「へっ?」
「あ、あれ? お知り合いだったの?」
震える手を、彼の方に伸ばしかけて、
「知り合いもなにも、おめぇどうして……戻って――」
しかし、その手も止まる。
スフィールリアが傾げて問いかけた視線に、アイバは両手を挙げつつ首を振り、いかにもワケが分からない困ったという表情で否定している。
「……あぁ」
やがて翁は落胆と納得の入り混じった声を出し、眉毛をいつもの位置に戻していった。
「えと、おじいちゃん?」
「いやすまねぇな、馴染みの顔思い出しちまって。気にしないでくれな。よくきたね」
コトリとふたつ、冷えた水が置かれる。
「ど、どもっす」
アイバは本当に困惑と恐縮混じりに会釈をしている。知らないのはたしかなのだろう。しかしたしかにアイバの名前を言い当てていたが……
「えっと……紹介しますとこちら、普段護衛とかでお世話になってるアイバ・ロイヤードって言います。なんか、伝説の勇者さんの末裔なんですって。そうは見えないけどね」
手を出し隣を差して紹介すると、翁はいつものようになんでもないことのように軽く応じてきた。どうやら本当に人違いだったようだ。
「ああ、ああ、うん、聖剣背負ってんなぁ。アレだ、セリエスとは話できてるんか?」
「じっ、じいさん! セリエス分かんの!? なんで!?」
「あぁ。ちょっと知ってるってぐらいさ。さて、なんにするかね?」
びっくり仰天しているアイバをさらっと流して翁。スフィールリアも驚いたが不思議な老人なのでそんなことも知っていて不思議ではないかと興味をほかに移した。今度聞ける雰囲気があれば聞けばいいし、今は自分も空腹なのだ。
「をっ、今日はなに屋さんなんですか?」
「今日は、カツ屋の日」
スフィールリアは得心して腕組みうなづいた。アイバは横でまだ絶句している。
「炒め揚げ料理屋さんか~」
言われて厨房を覗き込んでみれば納得。清潔なまな板の横合いでは、釜に注がれた油が透き通りながらもぐらぐらと静かに、波を描いて煮立っている。
「よかったねアイバ。大当たりで」
「……えっ? なにが!?」
「だから~。お肉たっぷり、食べ応えも満点でしょ!」
「え、あ、ああ、そう……なのか?」
「おじぃちゃんのカツ屋さんは前に一度当たったことあるんだけど、ほんっっとぉーーーに美味しいんだってば! 街の定食屋さんとは明らかに一線を画する存在! サクサク! 芳醇! とろけて、超ジューシィ!」
「へ、へぇ……ゴクリ。う、うまそうだな。どんなのがあるんだ? ……ってすげーな!」
アイバも熱された油の芳香に空腹感を焼かれたのか強制的に興味が移ったようで、屋台骨にかかったメニューらしき札を発見し、すぐに声を上げた。
それもそうだろう。最初に訪れた人はきっとたいてい驚くと思うが、屋台とは思えないほど品が豊富だからだ。
たとえば今回は炒め焼き料理を主軸にフライ物がずらっと名前を連ねている。
牛肉、豚肉、鳥、魚、野菜……なんでもある。
揚げ方の種類も豊富で、それぞれ衣のつけ方や調理法に差異がある。一番分かりやすいのは薄くパン粉などの衣をつけてフライパンに引いた油で揚げるように炒め焼く、西部から王都地方の家庭料理でメジャーなコトレッタ風。
しかしほかにも素材の形をかなり残して衣ごと油に投入し、圧倒的熱量で一気に芯まで火を通すカツレツ風も。これは北の方のやり方が近い。こちらは肉類もゴロゴロとカタマリ然としていていかにも男の子好みという感じだ。
さらにはソテー風もあり、これらを見事にやり分けるからすごい。
「どいつがいいのかむしろ分かんねーな……!」
「メンチカツね。肉ッ・ガツッ・ジュワッ! ……といきたいのならね」
「へ、へぇ。それなら、そのオススメのやつで――」
――と、そのアイバの横から割り込んでくる声があった。
「トンカツだ。翁のカツ屋の真髄は、トンカツを食さずして語ることなぞできはすまいぞスフィールリア君」
「た――」
暖簾をくぐったその人物は、顔にかけたハーフリムメガネの奥にたしかな意思の光を宿して彼女らを見下ろしてきていた。
「それも、『金色の衣』だ。特別オプションである『金色の衣』をまとわせた翁のトンカツ。これぞカツレツの極致にして肉なる至高。戦う男の血肉を湧き躍らせる、決戦前夜にふさわしい一品と言えるだろう。ビタミンもたっぷり翌日の気力も充足。完璧だ」
「――タウセン先生っ!?」
「というわけでわたしは『金色ロースカツ』を。ライスキャベツ大盛り。グレイズィー・ル・ビールも大ジョッキで」
「わたしはエビフライセットと以下同文。あ、もちろん『金色の衣』でね?」
「学院長までっ!?」
というわけで、唐突に横並びで座ってきた二名は、その二名であった。
翁はというと当然のように「あいよ」と言って仕込みに入っている。
「せんせっ……ななな、なんでっ」
「――む。君はいつぞやの救出作戦の時の。そうか君も今回は当事者のひとりだったな。いや今回もか」
「は、はぁどーも、うっす……あっ、回復薬の件はお世話んなりましてどうもハイィ!」
「そうじゃなくて! せんせーたちがなんでおじいちゃんのお店に!?」
隣り合ってなんか堅苦しくも和やかである微妙なやり取りを交わしているアイバたちを遮って割り込むが、タウセン教師はうるさそうな視線を投げてくるだけだった。
「むしろなぜわたしたちが知らないと思ったんだ」
「わたしある意味スポンサーですから?」
ゴトン! と景気よく置かれた大ジョッキの美しく赤みがかった中身をさっそく傾けて、フォマウセンまで。ちなみに美女の姿のままで、薄っすら光る髪の色は緑色になっている。
「えー……いや言われてみればそうなのかもしれないですけど」
「この学院で一流に足をかけ、さらに超えてゆきたいと願う者ならば教師生徒を問わず存在を認識して、一度は来訪を求める幻の店だぞ。君は自身の幸運を自覚して感謝するべきだな」
「そ、そうだったのかー……!」
「あー、よしなよしな。何度も言ってるが素材屋は副業なんだ。あとはまぁちょっとした、有望さんへの援助みたいなモンでな。俺はメシ屋なんさ」
「ええっ!? 素材屋さんじゃなかったのっ!?」
「それよかお嬢ちゃんたち、なんにすんだね。待ってる間に横でアツアツ食われてるとな、ツレーよ?」
下から取り出したトレーの中には多種の野菜類の断片や木の実と一緒になにかの溶液が満たされている。その中に漬していた豚肉の厚切り(本当に分厚い!)を持ち上げてキッチンシートに包んで水気を取っている。
透き通るような脂身、薄っすらとした霜降りの美しさがすごい。
目を釘づけにされたアイバが、ゴクリゴクリと何度も喉を鳴らしている。
「スフィールリア君。もう一度言うが――『金色のトンカツ』こそが至高にして最善だ。これこそがこの店の到達点」
「わたしはエビもいいと思いますけどね?」
「え? え? うう……」
「翁のその日の店が気分次第で決まる以上、客として行なう選択も常にベストを尽くすべきだ。それが店に到達できる者の責務と言っても過言ではない。当然の選択。最適の組み立て。最善の投資。君も術士としての独立を志すなら避けられぬ筋道、通せぬ妥協というものは理解できるはずだ。にも関わらず見え見えとしている最善の未来の組み立て方を選ばぬ教え子がいるならばわたしは言いたい。なぜ、ベストを尽くさないのかと――」
「わたしはエビの方が好みだけどね?」
「ええっ、いやー、うう……」
「ヘルシーだしね?」
ちらと『金色の衣』なるオプションを見る。
最初のレインボーミソなんちゃらとかいうのにはバカ高いながらもまだ値段があったのだが、今回はそれすらない――時価だ。
時価の衣ってなんだ……
怖い……
今回は自分がアイバにおごるつもりでいる。作ると言っておいて店に誘ったのは自分だし、それに今回の件でもいっぱい借りがある(なにより彼に金があるとは思えない)。今回以前の借りだってまともに返せているとは言いがたい。
だがここで莫大な出費は痛手すぎる。いやそもそも払えるのかどうかも怪しい。まず値段を聞きたい。でもこういうことって、そういうの出すお店で聞いてもよいのだろうか?
(でも……)
また隣をちらと見る。
アイバはすでに空気を感じ取っていた。輝く豚肉から引き剥がした目をぎゅっと握り締めた手とともに腿へ落として耐えている。
「……」
下げたその頭は、どこかしょんぼりとしていて――
「~~~~~~~~~っ、あーーもおお、分かりましたよぉっ! おじいちゃんっ!!」
「!!」
意を決し、なかばヤケで、スフィールリアは指立て叫んでいた!
「『金色のトンカツ』二人前! ライスとキャベツ超々……大盛りッッだーーー!!」
「スフィっ……ちょ、おま! おま!」
「こちとら学院一年生のトップランナー組ぃ……舐めんな……! 舐めんななな……!」
ガクガクと揺さぶられながら、背中が焦げているような暗い熱がこもった息を不規則に吐き出しているスフィールリアに……
タウセン・マックヴェルがおかしそうにひと息、笑う。
そして、なんのことはない風に手を出し店主に、言った。
「翁、今日のこの二名の払いはわたしが持つので。それで」
「あいよ」
「……………………」
ジョッキを傾けている教師を、ふたりして見つめて……
ぼぅっと顔を赤らめ、彼女は叫んでいた。
「なんですかそれぇええーーーーーーーーーーーー!?」
「うるさいな。行儀が悪いから座りなさい」
「だってなんですかそれ今の絶対最初からそーするつもりだったでしょだって笑ってたもんあたしをけしかけてからかってたんですねっ!? こーいうのなにハラスメントって言うのか分からないけどハラスメントですよハラスメントさいてーームッツリすけべヘンタイ!!」
しかしメガネの角度を上げたタウセン・マックヴェルの返答は、意味不明なほどに轟然と、威圧的ですらあった。顔を真っ赤にしたスフィールリアが押し返されるぐらいには真に迫るものがあったというか。
「馬鹿を言うな。たかだかほかの凡庸な値段のひと皿ふた皿をおごってやったところでいったいなんの意味が発生するというのかね。君がすごすごと敗け退くようならば、自分の財布からみじめに小銭を落とすところを眺めていたに決まっているだろう」
「う、うぐっ……な、なにをわけの分からないことをぉっ……!」
その横で、口元を押さえたフォマウセンがふるふると笑いを堪えている。
「ほんと、素直じゃないんだから……こういうところ昔から子供っぽくて……」
「ふん……あなたがどんどん押しつけるわたしの負担分さえなければわたしももう少しは人間味のある接し方ができるのですがね」
「だから意味分かんないですってなんなんですかなんなんだよなぁ、もうっ……!」
アイバを挟んで互いにそっぽを向いている構図に取り残され、アイバがキョドキョドとしている。
「まぁまぁ、よかったじゃないの? 王室が依頼してもなかなか振舞われない最高級メニューがおごりなんですってよ?」
という言葉があればさすがに二名の気持ちも現金に持ち上がってくる。
「うおぉっ、マジっすか先生さんいいんスかマジで! ゴチになります! ありあざぁっす!」
「……う。……そ、そうなのかぁ……ふ、ふん。ふふん」
が、そんなふたりを絶望に突き落とす言葉が店主の翁から投げられた。
「で? 『ロース』? 『ヒレ』? どっちにするん?」
「……………………え?」
一瞬、なにを言われたのか分からなかった。
翁はなんの気なしに振るわれる死神の鎌のように続ける。
「『ロース』は歯ごたえ抜群。脂身もジューシーで旨いよ。『ヒレ』は脂少な目でヘルシー。肉質はずっと柔らかい。でも肉の風味は抜群で旨いんだよ」
「え……あ、あの! あの!」
なんだ。それは。なんのことだ。
死力を尽くしてたどり着いた扉の先が、石で埋まった行き止まりだったかのような。途方もない罠にはめられたにも似た焦燥感がスフィールリアを支配した。
〝最善〟を選んだ。自分はベストを尽くしたのに。正しき道は切り開かれ、すべての者は笑顔で、あとは訪れる祝福された未来をこの身に浴びればよいだけじゃなかったのか。
それでも完璧にはまだ足りない。足りないというのか。どうすればいい?
「っ……!」
スフィールリアは焦燥の汗流し、答えを求めて横のタウセン・マックヴェルを見た。
だが先達にして信ずべき教導者たる彼は、冷たく顔を背け、答案を寄越してはくれなかった。
「わたしにとて決められないことはある」
「っ、っっ…………!!」
スフィールリアの魂は燃え尽き、再度席に腰を落とした。
「その点エビはシンプルなのにね……」
もはや学院長の声なんか聞こえなかった。
脱力した彼女の肩をアイバが揺さぶってくる。
「なぁーー、いーじゃーーんそんなんそんなにこだわんなくてー! 俺ロースがいいよー、ハラ減ったよー脂身がっつりジュワッとかぶりつきたーいーよー!」
「ジャア……ロースカツ・ニニンマエデイイデス……モウ……」
「あいよ」
「なーもー、単純に食いたい方食えばいーのになー! むつかしく考えすぎなんだよなー、なー、じーちゃんなー!」
「……」
「んだなぁ。別にどっちも変わんねーぐらいうめぇよ。歯ごたえつってもロースの方も滅法柔らけぇから。『金色』用はハナっから特別な肉な上に特別な仕事してあるからね」
「うおおー出たぁあスッゲェー! やっぱすっげー肉! こんなんガブッといったらどうなるんだろうなー、なースフィールーリアー!」
今まで見たことないくらいワクワクウズウズと肩を揺すっているアイバをスフィールリアは『きっ!』と睨みつけた。ついでにその向こうでしれっと赤ビールを飲んでいるタウセン教師も。
そして、また力が抜けた。
破産覚悟の一大決心からの興奮物質大放出からの期待感超越MAXからの一斉脱力の反動落差がすごかった。
完全に、完膚なきまでにもてあそばれた。
辱められたのだ。
いつかタウセン・マックヴェルを名実収益ともに上回る術士になってはげ散らかす呪いをかけてやろう。そして、その頭頂部に『金色エビフライ』を一尾プレゼントしてやるのだとスフィールリアは心に決めた。
だがそんなスフィールリアでも、衣をまとった肉板が油に投下されてジュワッと香ばしい音と風味を弾けさせ始めると、嫌でも気分が回復し、高まってくる。
それからはアイバと一緒に、目の前で調理されてゆくトンカツの、まるですべてが芸術のような変化とそれを行なう翁の技術に釘づけになりながら配膳の時を待った。
「はい、お先に『金色ロースカツ』だよ」
結論から言うと、
「う、うめぇえええ~~~~え!!」
スフィールリアも言葉なく口を動かすしかなかった。それぐらい美味しかった。
特別な仕事がしてあるというのは本当なようで、噛んだ瞬間、煮込んだ牛の肉かと思ったほど柔らかかった。だというのに肉質はしっかりと豚ロースの強さも保って噛み千切る瞬間の満足感をもたらしてくれる。
柔らかさを補う衣も絶品だ。この店主のカツはすべてそうなのだが、具材の種類によって衣の性質を変える。厚さやパン粉の量、硬さ、細かさ、味……それが具材それぞれの食感や風味をもっとも活かすようになっているから一般の定食と隔絶していると思わせるのだ。
それに加えて翁の『金色ロースカツ』はさらなる特別仕様の塊らしく、衣の持つあまりに絶妙な食感、香ばしさ、甘味が肉の旨味と脂味に溶け合って悶絶しそうな美味さを奏で出していた。
「う、うま……うま……ちょっ、じぃさん! ライスとキャベツおかわりぃ!」
「はいよ」
食べる手が止まらず、スフィールリアたちは、口が疲れた止まらない助けてと思いながらも最高に幸せな晩餐を駆け抜けていった。
数分後……
「……美味かったか?」
聞くまでもないことを聞いてくるタウセン教師に、幸せと疲れの余韻に浸って突っ伏していたスフィールリアたちはただうなづいていた。
「こんな食いモンがこの世にあったなんて知らなかったっス……」
「あたしが今まで作っていた料理のようなモノはなんだったのかナーって……」
「当然だな。このパロ氏は<世界理導学調理士栄養科学士協会>認定による三ツ星を超えた栄誉、通称四つ菱勲章――『極めし弥終なる料理人勲章』を授与された職人。大陸では四人しかいない、料理人の頂点にいる方だぞ」
「……えっ」
これにはスフィールリアも飛び起きた。アイバも釣られていたがそれは比較的どうでもいい。
「知ってるのか、スフィールリア!」
「いや、知ってるもなにも……」
彼女が知っているのは<世界理導学調理士栄養科学士協会>という存在だ。綴導術分野に関わっていて知らぬ者ならモグリ……いや、モドキだろう。
綴導術という学問が関わる分野は多岐に渡り、その中には料理界も含まれる。
一流と言われるようになるほど料理人は綴導術の分野にも通じてゆき、タペストリー領域制御能力――情報構成能力や〝奏気術〟、またはさまざまな薬品・道具等を駆使するようになる。こういった料理人は世界的に理導学調理士と呼ばれる。
<世界理導学調理士栄養科学士協会>は、彼ら調理士、理導学調理士、栄養科学士、研究者など、料理に関わる多くの人材・機関をつなぐ研究財団のような存在だ。
その影響力は世界中に根を張り、ディングレイズやフェリスなど超大国も含めた世界中の国家が加盟し、公式に存在意義を認めている。この機関が認定するひとつから三つまである〝星〟を与えられることは料理人としての天界市民権を得るに等しいと言われるほどの権威を誇るのだ。
<WANAA>の星があるのとないのとでは料理人や店の格にも絶対の差がつく。ある国のローカル機関認定による三ツ星リストランテが<WANAA>認定のひとつ星店に品質・実績両面で惨敗することもあるし――三ツ星ともなれば普通に王室御用達レベル。とある国の王宮が、宮廷に入ってほしいと何年も十何年も求愛を続けたなどという話もあるぐらいだ。
だが〝四つ星〟などというものがあるという話は聞いたことがなかった。
……と、いうところまでを彼女はアイバに聞かせた。
「へぇーっ」という声はたしかに感心溢れるものだが、これは酒場の隅っこに座っているおじいちゃんがタバコの煙で作った輪っかを十連続くぐらせられるスキルを持っていることを知った時の声とぜんぜん変わりがなかった。
タウセン教師の解説によると、勲章の名の通り、正式な加盟国からの推薦でのみ候補者は選出されて、主にその調理士が帰属する国家から授与される。要するに<WANAA>が加盟国のみに発行認可権を持つ『勲章』そのものなのだとか。対象者が放浪の身などで帰属を定めていない場合は関わった複数国家が共同連名にて推薦・発行することもあると言う。
「十数年間も認定者が出ないことも普通にある。――パロ氏は二十二カ国から推薦を受けてディングレイズから授与された。歴代全『四つ菱』の中でも……いやほぼ間違いなく全世界頂点の料理人だろう」
翁はむずがゆそうに笑う。
「勲章、あるよ。見るかい」
「見ます! 絶対見たい!」
かがみ込んだ翁が足元の棚から酒瓶でも取り出す調子で立派な小箱を取り出してカウンターに置いてくれた。フタを開くと、中には赴きある屋台とは別世界のような煌びやかな輝きが広がっていた。
炎を象った深い真紅の宝石の台座の上に、四つの金の菱(星?)と麦と土と太陽の意匠があしらわれた、透き通るような銀色のメダルがはめ込まれている。
四つの星はそれぞれ〝舌〟〝鼻〟〝目〟〝理想〟の名を冠している。三ツ星を超えた究極の領域だから四つ星なのだというのは実は誤解で、星の数を表しているわけではない。実質そうだというだけの話であって、実際三ツ星以上のランクは存在しないと言う。
メダルの裏は授与当時のディングレイズ最高貨幣と同デザイン。フタ裏側の白い瑪瑙のようなプレートには連名推薦国と、王や推薦機関の名がずらりと刻まれている……。
「ほっへー、すっげぇ高く売れそうだなーオイ!」
「君、コレに限らずこの国の勲章の密売転売は重罪だぞ。神名統治権重汚損罪と言って、国ではなく教会が神の御名の下に草の根を分けて裁きにくる。騎士を目指すなら覚えておきなさい」
「うげ……」
勲章をしまった翁に、スフィールリアはまばゆい憧憬の眼差しを向けていた。
「すっごい人だったんだ……! そしてほんとに料理の人だったんですね。素材屋さんだなんて思っててごめんなさい!」
「よせやい。俺はやっすい大衆食の方が好きなんだけどなぁ。突き詰めてるうちにこういう作り方もめっけてきて、金のためにさ、たまーに金持ちとか、偉いさんも相手にするだけなんよな。素材屋もその一環だぁな。学院生は金持ってっからな。……ただ俺は〝運命力〟に全振りしちまってるから、どうしてもお高い少数会員制みたくなっちまうが。ま、それもこのやり方にゃあちょうどいいのかもなぁ」
スフィールリアは素直に首を傾げた。高い素材を買うために大金が必要というなら分かるが、そもそも学院生相手にも商売はしている。しかも援助もコミだという良心的設定でだ。
「お金……? なんのために? 高級食材の元手とか?」
「ああ、それもあるけどね。本命はとにかく『この店』をやり続けることだよ」
スフィールリアは不思議な心地で屋台の店内を見回した。
それなりにしっかりした造りだし屋台としては大きい部類だ。しかし店としては素朴で、小さい。暖かみがあって好きだが。
ものすごい維持費がかかるようには、とても見えないが……
「この店を……?」
「ああ。そんためにゃ、目いっぱい仕入れなくちゃなんね。だから目いっぱい金がいってな。足んなくなったらドサッと稼いで、そんでまた仕入れて、メシ作って回って……そうやって、ずぅっとメシ作って生きてきたんだ。ありがてぇ栄誉いただいてありがてぇが……そんだけなんだよな」
ふぅん……とスフィールリアは感慨深くうなづいて、俄然湧いてきた興味から訪ねていた。
「じゃあ、普段<アカデミー>にいない時もどこかでごはん屋さんしてるんですか?」
「ああそうだよ。一週間で半分ぐれーはソッチいってっかな。一度の稼ぎがだいたいそんぐれーで消えちまうから」
「あの値段の稼ぎが!?」
「ああ、俺がいくとこはだいたいみんな死ぬほど腹ペコらしてるからね。味もこだわるけどとにかく量だ。それでもすぐなくなっちまうね。まぁ――」
と、自分もコップに注いだ透明の酒をちびりと傾け、息をついて。
一瞬だけ、彼の眉に隠れた瞳が翳ったようにも思えた。
「俺だけがのうのうと生きてる……うんにゃ、世界のだれもがのうのうと。なんも知らず、当たり前の恵み受けて生きてる。そん罪滅ぼしか、自己満足のつもりなのかもしれねぇがね」
「……」
老齢の達人にそんな言葉を漏らさせるとは、いったいどんな地域を巡っているのだろう。
というか聞いている限りだと採算が取れていない――いや、まったく取っていないのか。
すべてを聞かずとも、この翁がどんなことに挑んでいるのかがなんとなく分かったような気がして、スフィールリアは素直に賞賛の念を表していた。
「すごい、ですね」
翁は珍しく「いやぁ」と照れくさそうに頭をなでさすっていた。こういう動き方するんだ、と彼女も笑ってしまった。
「食事ってのはシンプルでいいよなぁ。疲れた、腹減った、食った、美味い、不味い! でいいからよ。満腹なったら幸せだし、美味いモン食ったらよしまた明日から生きられるって思えるし、俺のこさえたメシ食った連中がそういう顔してくれたら楽しいからなぁ」
翁は使い込まれた屋台を見回し……その終端で、ちらとアイバを見た。いや、どこかもっと遠い場所を見ていた。
「始まりは些細なモンで、作れんのが俺しかいなかったから。そんでも仲間んなっていって、うめーうめー言ってもらえんのも、どっかうれしくて。そんでいろいろ頼まれて、いろいろ作ってみるようんなって……海の岸で、日照りの砂漠で、夜の森で……旅が終わっても。だれもいなくなっても。俺はメシ作って回って、生きることにしたんだ」
「……」
「きっと……これからもそうなんだ」
「……」
一拍。だれも、なにも言わない空白が挟まって。
スフィールリアは溢れ出すような英気を感じて笑みに変えていた。
「じゃあ、勝たないとね……!」
つぶやきも自然と押し出されたもの。
最初にこの店でラーメンを食べた時にも感じた〝刺激〟――他者の情熱がにじみ出た品や言葉の数々。そんなものがこの学院には溢れている。それは人に力を与え、自明の理を教えてくれる。
壊させはしないということだ。
「スフィールリア君。庶民派も悪くないが」
タウセン教師の声で顔を向け。彼は特別なことなく、前を向いたままだったが。
「今日ここで味わった感動をつまらないものにしたくないのなら――良質を求めなさい。しのぎを削り、金を稼いで、美味いものをたくさん食べなさい。食べて、集めて、取り込んで積み重ねて……自分を見失わなければ、そこで振り返って新たに見えてくるものだってある。この翁が磨き出した品のように、だ」
そこで、ふとこちらを向いて、
「上へ上がるにはちょうどいい。ここにはクオリティの高いものならキリがないほど転がっているぞ」
試すみたいに、ニヤリとしてきた。
「……」
それはちょっと目端に留まった花壇の具合を見るような。誇らしげに開いた花の幼さを笑いながらくすぐるような。そんな笑みだ。
なんだ、まだそんなものか。
そんなていどの満足ではつまらない。お前はまだまだだぞ――と。俯瞰した場所から言われたような、そんな。
スフィールリアも笑みに力を注ぎ、タウセンへの返答とした。
「明後日ヤツに勝って、大手を振って帰ってきて、またここでおいしいご飯食べますよ! うんとがんばって稼いで! うんと高くておいしーものも食べてやります!」
「ごくり……」
「いやアイバそこはアンタも自分もがんばるぞーぐらい言いなさいってば」
「えっ? あ、ああいや、そうだな、そうだウン……!」
彼女の表情を受け、タウセン教師は――笑ったようだった。
そして今度は一転して反対方面のような、それでいて一聞では分からないことを言ってくる。
「人の身とは歯がゆいものだな。長く時を生きて叡智だ賢者だのと言われても、真理と信念を追い求めても。積み重ねるほど無様に己を縛ってゆく」
「はいぃ?」
「所詮は一個の人間同士。必要以上の情は互いの邪魔だし、そういう契約でもあった。それでも無理を悟るまではと折を見ては話を聞き、潰れてしまわぬよう知恵を貸し研究にも手を入れ……気がつけばわたしは、彼を止めることのできる資格を手放していた。あの場所で君が訪れず、わたしだけが戯言を投げていても彼に届きはしなかっただろうと。そんなことこそくだらないのだと分かっていても。先達だの教導者だのと気取っても、そんなものだ」
「……」
「時々、君がうらやましい」
タウセン教師の横顔は涼やかで――もう空のジョッキを置くと、立ち上がる。学院長も。
「翁、ご馳走様でした」
「あいよ」
さらっと書きつけた小切手をカウンターに置き、あとは特になにを言い残すでもなく暖簾をくぐってゆく。
スフィールリアは暖簾をどかした半身で教師の背中に声をかけていた。
これを無言で見送るのが『オトナ』の嗜みというヤツなんだろうが、なんとなく。意地だ。
「そんなことないと思いますけどねぇー!」
振り向いた彼の顔は苦笑いだった。
「では、その答案はあの黒塗りをどかして見てみることにしよう。手伝うと言ったな。君も備えたまえ」
「ウィーっス!」
これもなんとなく、奢りの礼は言わないでおいた。




