(3-34)
◆
「では――さっそくだが。取引とおっしゃったが。まずはあなた方の望む対価というものの方から先におうかがいしておきたい」
「はい」
フォマウセンが礼をし、次いで、小さく振り返っていたスフィールリアにうなづきかける。遠慮なくいきなさい、と。
王を見上げ、スフィールリアがはっきりと言った。
「――恩赦を。まずテスタード・ルフュトゥムに対する重反逆、特指災罪状を始めとしたあらゆる罪状と処遇の帳消し。今回のことに関わる拘束、今後の強制力、そして人権および財産、<アカデミー>籍の剥奪……などです。並びに彼に関連する周辺人物の処分の取り消しも。すべての人物の<アカデミー>籍および安全の保証をお願いいたします」
大きくどよめいた。さまざまなことを論じる声が上がる前に、静かなる王が念を押すようにひと言、問いかかける。スフィールリアはうなづいた。
「つまりは」
「――すべてを。学院、彼と彼がいた環境のすべてを、元の通りに」
しん、と静まり返ったと錯覚を起こす、一瞬の間ののちに。
「む、無茶苦茶だ!」
ひとりを皮切りに悲鳴とも非難ともつかぬ声が一斉に上がる。
「事件の渦中すべてをなかったことにせよと言っているようなものではないか!?」
「いくらなんでも無理という域を超えすぎてる!」
「魔法が使えるわけではないのだぞ、我々は!? どうすればよい!?」
目の前の側近たちの顔にも、やはり、という理解の色とともに剣呑なものが浮かび上がっている。当然の反応だ。
「なるほど……一部、君自身の個人的欲望が混ぜられているような気もするが?」
「……」
す……と王が無言にて手を上げ問答無用の形で場を鎮める。
「次に――あなた方の助力によって、我々が得られるものとは、なんだろう。助力、というものの具体的な内容と効力をお聞きしたい」
スフィールリアが即答する。
「戦闘における被害と困難の直接的大幅な軽減。そして情報の取得、です。――魔王使徒の存在の隠れ蓑とされていた彼の存在は、いまだ魔王の使徒と直結しています。彼の組み立てる術によって使徒の存在を彼の側に引き寄せることで、使徒の存在規模を大幅に拘束し、再定義することが可能です。同時に、使徒に近づけば、今まで皆さんが得られなかった多くの使徒の情報についても読み取ることができるでしょう」
その言葉で、静まり返る。だれも言葉を発していたわけではなかったが、しかし彼らの意識の多くが引き込まれてゆくのが分かった。
「存在規模の、拘束。その具体的な効力については?」
スフィールリアが見込み値を告げ、聴衆が大きくざわめいた。
――十分の一以上か……!
――それならどうにかこちらの戦力も届き得るのではないか?
「――その術式を、早急にお渡しいただきたい」
鋭い声で手を出し法務大臣が求める。スフィールリアは指先大で透明なプレートを差し出し応じた。
こちらが警戒をして交渉の芽が出るまでは出し惜しむと思ったのだろう。ほとんど間を置かなかった彼女にやや戸惑いの色を見せつつも、歩み寄り、記録媒体を受け取った。
彼自身も読み取る能力ぐらいは持っているのだろう。しばし集中して黙り込み、次に意見を求めるように<真理院>院長に手渡した。
その彼らに告げる。
「それは本人から聞き取った概要を元にわたしが構築した仮のモデルです。完成品は本人の頭の中ですし、もしも完成品が手元にあっても本人にしか使えませんよ」
険のこもった視線は「そういうことか」と言っている。確認のために投げかけられた視線に、<真理院>院長も肯定のうなづきを返している。
「重大な矛盾と空白がある。おそらく使徒の存在と直結しているあの者だけが意味を与えられる、完全固有の術式でしょう」
「であれば、あの使徒の情報読み取りという話も信憑性がある、のか……?」
六花元帥がちらと見るのは第一団長。直接戦うことになる彼が厳しい顔でうなづき返す意味は「今より多くの情報が手に入るなら、喉から手が出るほどほしい」という返事だろう。
再度向き直ってくる大臣の顔には糾弾の色があった。
「それほどのことができるのならば、彼はなぜ最初から手渡してくれなかったのだね? 先ほど君が言ったように彼が人の心を持っているというのであれば、人の世を助けるために貢献するべきだったのでは?」
「そして、都合よく使ったあとは封殺ですか? それこそ人の心にもとる行為なのでは」
「っ……、……?」
あまりに歯に衣着せぬ言い方に、法務大臣も怒り(と政治的ポーズ)よりはまず戸惑いが勝ったようだ。
あまりに大仰な登場と紹介に対する、言葉遣いや態度。そして直感的な言葉のチョイスがもたらすギャップ。どちらが本質的な彼女なのか。スフィールリアという人物像を、まだつかみ切れていないのだろう。
ともあれ、やはり最初に戦ったことは正しかったなという確信をフォマウセンは得ていた。
もしも開口一番を奪って流れを傾けていなかったなら、拘束式を渡した今の場面で彼らは「ありがとう」と言ってきびすを返していた可能性は高い。拘束式がテスタード自身にしか使えないと知っていてもだ。
彼らは再度違った形で彼へのアプローチを行なっていただろう――彼女の身の安全を保障する代わりに、助力をせよと。つまり脅迫だ。
かなり厳しい尋問を行なっていたはずなので、それでも口を割らなかった彼が心を許した相手であるということは分かっただろう。ならば有効であると考えるのが道理だ。
それを防ぐためには、やはり彼女自身にそれなりの力と後ろ盾があると思わせておくことは正解だった。
もっとも。彼女の生命や尊厳が脅かされた場合、それを知ったウィルグマインが怒り狂って国が滅ぶレベルでの報復を実行する可能性もないことはない。
自分だって、もしも、仮にの話だが――もしもフィースミールが眠っている寝所に忍び込んで、彼女のタンスを漁り、彼女のショーツを顔にかぶって秘所にあたる部分を舐め回しながら彼女が目覚めるまで彼女の目の前で裸踊りを続けるようなすさまじい変態が現れて、彼女を泣かせたとする。自分ならたとえ彼女が許してもそいつを廃人にした上で十代続く呪いをかける。そいつがどこぞの国家の元首ならすぐさまその国に乗り込んで関連人物全員を粛清した上で国を造り換える。もしかしたら二度とそのようなことがないように人類そのものまで造り替えてしまうかもしれない。家族とはそういうものだ。
まぁともかく、彼の性質から考えて――まったくいまだに信じがたいことだが――彼女が奇跡のように大切に育てられた事実を考えれば、あながちすべてがブラフというわけでもないのだ。
そのことを思うと少し胸にちりちりとした苛立ちが浮かばないでもないが(スフィールリアに対してではなく、あの男に対してだ)。
そして、立場の拮抗が取れていて初めてメリットとデメリットを精査する価値が生まれるのだ。だから、無駄なことではなかった。
(さて)
こちらが手札を見せても大臣たちが持ち逃げの姿勢を見せなかったことで、本当の意味であるていどの安心が得られたと言える。
ここからは損得のせめぎ合いだ。より慎重になる必要がある。
無謀な戦いではあるが、捨て身の戦いをしにきたわけではない。それでは未来に希望を見出すことはできない。
彼女たちの勝利条件は、最終的には王と重鎮たち双方にこちらとの取引を認めさせること。その取引の報酬により、彼女たち自身の保身を得ることだ。
自分たちの取引の要はテスタードの解放にある。
だが、まず前提なのだが、彼の解放は重鎮たちにとって無理な話だ。
これについてはスフィールリアにも散々聞かせたことだし、双方の共通認識と言っていい。
整理すると、以下の通りとなる。
まず諸外国が納得しない理由――対外的に発生する問題だ。
・災害の原因を放置しては諸国の糾弾を招き、発生源である学院を維持できなくなる。
・魔王に通ずる者を他国が保有することへの危惧はどこの国も抱く。
・魔王の力に至るノウハウが体制過激反逆者に渡ることへの危惧も生じる。
次に内政的問題および国民への説明責任――内実的問題。
・災害の原因を放置しては発生源である学院を維持できない。
・魔王に通ずる者を懐に抱え込むことへの恐怖。
・魔王の力に至るノウハウ(を保有する者)を悪意ある者から保護し続ける防衛コストに関する無理性。
・法的な無理性(法的取引の可能範疇を逸脱している)。
などである。
この二者には共通項が多い。つまるところ魔王の力というのは内に抱えるのも外に持ち出すことも考えられない、手のつけようがない猛毒だということだ。
これはテスタード本人に現体制の転覆意図はないと説いても解消しない根源的恐怖の問題である。宗教的にも歴史事実的にも魔王とは世界の敵だからだ。
そんなものにつながる存在を生かしておく――ましてや無罪放免として釈放するなど――ことは、周辺大国が許さないだろう。
特に数百年前に魔王災害の被害をもっとも甚大に受けた東方大陸の、現統治者であるフェリス王国が示すであろう拒否反応などは想像に難くない。かの大陸は勇者によって魔王が討滅されて数百年が経った今でも魔王災害が残した変異環境に悩まされている。また、領海内に太古から存在する現存魔王領域である<絶海>――冥王海域を抱える北方大陸リンカーイェルバ公国と、それによって三大陸との国交引いては世界情勢への参入の困難を強いられているリジェ天帝国も同様だろう。そもそも<絶海>に関しては位置的にディングレイズも無関係ではないし、この上ディングレイズが不死大帝までを抱え込むこととなれば西の<天境>も口を挟んでくる可能性さえある。彼ら勇者の一族が動き出せば条約の面もいろいろとたがが緩み、最悪の場合は彼らも含めた武力的警戒包囲網がこの国に敷かれることにもなりかねない――
法的取引についても難しい。法では解決できない問題を解決する手段を呼び込むために法に目を瞑るのに、解決前とまったく同じリスクを背負い込むのであれば、また法が動き出した時に、また法が同じ処置を求めることになる。この構造的矛盾を回避する手段を政府または王室が持っているのかどうかは、ひとつの鍵ではある。
もうひとつに、この目の前の重鎮たちの感情面の問題もある。魔王使徒召喚という災害を引き起こしたこともそうだが、テスタードの凶暴といってもよい素行は危険因子と見るに充分すぎる。彼らにとってテスタードは凶悪なテロリストにすぎない。
これについては、ひとつ、思うところがあるが――
ともかく、テスタードを放置することのデメリットが以上だ。
これを覆すには、まずはなににつけても逆にテスタードを潰してしまうことのデメリット、そして彼の助力を得ることのメリットを伝える必要がある。総合的な損得において得の方を取った方がマシだと信じさせなければならない。
それを信じさせた上で初めて、状況は五分より少し低いというところにたどり着く。
たしかに彼の助力があれば被害は信じられないほどに軽減されるはずだ。話を聞けば、得られるなら喉から手が出るほどにほしい、というのが本音になるだろう。
しかしその後の彼の処遇に関わる後処理の重圧は減らないし、それをすべて背負うことになるのは彼ら自身だ。
最初から無理な約束をしておいてあとで予定通り開き直る、という選択をしないていどには、彼らもまだ善性を尊んでいる。
とはいえ彼らにとって、彼女たちは、先送りにすると同時に闇に葬る予定であった致命的な問題を蒸し返しにきたやっかいものであることは変わらない。
全力で排除したいが、できれば持っている手札は都合よく引き込みたい。というのが今の彼らの立ち位置だ。この均衡ははっきり言って微妙だ。
王については……よく政治を超えた目線でものを見ているところがあるのでまだどちらとも言えない。未知数だ。理屈を超えてこちらに味方をする可能性もあるし、逆に排斥に移る可能性だってある。王を味方につけることができるかどうかというのも鍵のひとつだろう。
ともかく、まずは、それらを読み解きながら彼らにこちらが持つメリットそして手を振り払った場合のデメリットを有効に見せてゆくことだ。
「――先ほど、戦闘とおっしゃったが。やはりアレとは戦う以外にはないのだろうか?」
大臣とのにらみ合いを取り止め、スフィールリアが再び王を見上げる。
「はい。あの使徒にわたしたち人類と交渉をする意思は一切ありません。必要がないからです。何度かの調査における交信試験も成功していない、とうかがっています」
当然、それも対応検討のひとつに入っていた。
魔王たちが現世になにか欲しいものがあって、もしもそれがディングレイズ側で用意できるものであるならば、差し出して引っ込んでもらうに越したことはない。
「……そう。こちらが交信を試みていることを察知できていないわけはないのだが、アレは一切応じようとしていない。まさに必要性を感じていないように思える。――であると同時に、なにも行動を起こさずに何日もあの場に留まっていることには、なにかの必要性を洞察せざるを得ない」
「その通りですわ、陛下。交渉による退散は不可能でございます」
ここでフォマウセンが挟まる。
「我々が実施をいたしました何度かの慎重きわまる調査においては、あの魔王使徒は内部でなにかの情報構成を行なっているらしいということまでしか、分かりませんでしたわよね?」
我々が、の部分に含ませぶりなイントネーションを乗せたのは、まだフォマウセンが学院長であった時の作業であるという皮肉だ。
大臣たちがしかたなしと言った風に首肯する。ひとり、本心からであろう沈痛な面持ちで受け止めていた<真理院>院長が代表して言葉を発する。
「そう……ですな。正確にはもうひとつございます。少なくとも攻撃の類の術式ではないということです」
そのおかげもあって王都民の避難活動も滞りなく行なえた。必要な要人の選別と退避も完了し、別都市に、作戦失敗時のための代理予備政権の構築までできたのだ。
「そう。攻撃が目的ではない」
だがこれから告げる事実は、そんな、不幸中の幸いとかろうじて喜べていた要素さえ吹っ飛ばしてしまうことになるだろう。
「テスタード・ルフュトゥムの証言により判明した事実がございます。使徒ノルンティ・ノノルンキアの滞留目的は――魔王エグゼルドノノルンキア本人の召喚実行なのです」
もたらされた衝撃は動揺の声の大きさが物語っていた。
「――それは。たしかなのですか」
大きくざわめく広間の中、<真理院>院長がかろうじて発言をする。法務大臣や元帥などは口を開けたまま固まっている。
フォマウセンがうなづく。ここは、裏づけとして調査実施の立場にいたひとりであり王都最高峰の術士である彼女が語るのがよいだろう。
「ええ、残念なことにね? ――拘束までの間に彼が読み取っていた構成を照らし合わせますと、我々が拾えた意味情報の全部との合致が認められましたし、たしかに一部には召喚に意味づけられる記述も散見されますわ。規模が壮大すぎること、式の組み方が根本的に我々人類と異なり綴導術という枠組みでは捉え切れないことから、多くは我々にとって矛盾的記述にしか見えませんが……使徒と直結している彼は直感として構成の全体を俯瞰することができている。…………ほぼ間違いないでしょう」
「……では。ヤツが学院の中央に留まっているのは」
「当初の憶測の通りです。環境的なパワーバランスがもっとも整っているあの場所が魔王使徒にとって都合がよかったから。魔王召喚という、無尽蔵、広大無辺の式を組み上げるためにね」
「ただちにその環境を崩すことは」
「やめておいた方がよいでしょう。それがノルンティ・ノノルンキアの攻撃性を引き出すもっとも悪手となる刺激法ですわ?」
「し……しかし、そうだ〝触媒〟はどうなる! 〝召喚〟なのだろう!? それほど莫大な召喚式を実行するためには代償が必要なはずだ。ならば実行の直前に王都を食い荒らしにかかる可能性は高い! それを持ちこたえれば……!」
「使徒自身ですわ――触媒はね。ノルンティ・ノノルンキアは自身を生贄に主を招聘するつもりなのです。だからあちらには人間に関わる必要がもはやない。ゆえに、あらゆる交渉も無意味なのですわ?」
「なんということだ…………」
滅びをもたらす魔王の使徒が、召喚後もろくに動かず、なぜ数日間も沈黙を守り続けてきていたのか。
言われてしまえばもうそれ以上まっとうな理由などほかに思い浮かばない。そんな沈黙が玉座付近を支配していた。
「……そんな重大な事実を、なぜテスタード・ルフュトゥムは黙っていたのだ!」
怒声を上げたのは法務大臣だ。
「いくら我々が敵対的であったとは言え、この隠匿はあまりにも悪意的だ! やはり奴は魔王に魅入られているのではないのかねっ!?」
「…………」
と、これに対する場の反響は半々だった。同意する者。断定はできないとする者。
彼の隣にいる<真理院>院長はやや疲れた風な表情とともに否定色だった。
術士にとって人生を賭した研究とは財産どころか、命、魂にも等しいものだ。院長含め術士に縁ある者たちには、その術士の性というものが多少は理解ができるのだろう。
また、テスタード自身も尋問を受けている間はまだ再起の機を測っていたのかもしれない。もしもスフィールリアが現れていなければ今際の際に渡せる情報は託していた可能性はある。
とはいえ、今明かされた者にしてみれば隠されていたというのが事実だろう。怒りはもっともだ。
だから、それは素直に否定をする。
「それは違いますわ? 彼もまた人類の味方であればこそ、協力を申し出る気になったのですよ。そうでないならわたくしたちが持ち寄った手段も情報も逆にすべてが虚偽であるはずだと、構図的にパラドックスが生じましょう?」
「……」
「その通りだ。話の続きをお聞きするべきだろう」
王が取り成し、大臣も引き下がった。
だが、彼を含め理解を示さなかった場の半分ほどには暗い感情の熱が残る。
しかたがない。彼女たちが持ってきた情報、材料のすべては諸刃の刃だ。
王が続ける。
「それに。仮にアレが現れた直後に今の事実を聞かされていたとしても――どうしようもなかった。情報の封鎖と収集から始まるすべての準備活動は必須であったし、この期間があったからこそ市民の避難が行なえた。絶対に使わなければならない四日間であったはずだよ」
唱和する多くの同意とともに、元帥と第一聖騎士団長も首肯している。
「だからこそ、なによりも知りたい。お二方よ。――四日が費やされた。魔王召喚までに残された期間は、果たしてあとどれぐらいだろうか?」
「概算ですが」
両手を合わせ、恭しく。王に告げる。
「なんの妨害もなく現状のまま放置すれば、どんなに遅くてもあと四日――テスタード・ルフュトュムの感覚によれば、早ければ二日後の深夜には召喚式が実行されるとのことですわ」
「よっ、……ふ、二日だと!?」
「早すぎる……!」
「いや、むしろ僥倖が幾重にも重なったと言えるほど恵まれている。すでに四日も使っているのだ」
「ああ。ともすれば、使徒自身による即日の侵攻さえ考えていたのだからな……」
「だが魔王自身が現れてしまえばそんなこと――!」
…………。
次々と不安の声が波及する。これもしかたがない。
「困ったね」
王が静かに笑う。息とともに。
注目が集まる。
「楽観はできない。であれば残り……二日。正直な私見を言わせてもらえばアレと戦を構える準備期間としてはまるで心もとない。とはいえ、たとえどれほどの準備を重ねたとて、充分であると確信が持てるとも――到底思えない」
ざわめきは、起こらなかった。あるのは同意の声だけだ。――その通りだ、と。
認識の確認を終えてから一同を見渡して言う王の言葉、表情。それは変わらずに穏やかであったが、だからこそ力に満ち溢れて感じられた。
「ならば、ここで戦おう。滅びよりの使者ノルンティ・ノノルンキアを撃退し魔王召喚を阻止する。人の世を護る、ここが最後の水際だ。力を貸してほしい」
貴族、騎士一同が胸に手を当て敬礼を捧げる。
次に王はすぐ段下に目をやり、問いかけた。主に法務大臣に向かって。
「わたしたち全体としてのスタンスも明確にしておきたい。我々は、テスタード・ルフュトゥムを含め、彼女たちの助力を可能な限り受けたい。これを前提にしたい。これは間違いないね?」
「は。それは、間違いがなく」
恭しく頭を下げる大臣たちに、うん、と簡素にうなづき視線は再びスフィールリアへ。
「なので、あなた方の助力を得るために必要な努力を、わたしたちも最大限したいと思う。どうかこの意思だけは疑うことなく、話し合いに応じてほしい」
「ありがとうございます」
改めて三人で頭を下げる。
「……つきましては、陛下? テスタード・ルフュトゥムの開放については融通を賜れそうにございますでしょうか?」
スフィールリアが発言しそうな前にフォマウセンが口を挟む。
ため息をついて返答したのは、大臣だった。
「正直に申し上げると、即日に確約をというのは……難しい。使徒対応のための必要措置として一時的に作戦域に出てもらうことはもちろん可能だが、その後の具体的な処遇については後日に改めて努力の機会を設けさせていただきたい」
無理ということだ。
王が最後まで発言を許したのは同意見という意味。国家としての立場を考えると破格の譲歩と言えるかもしれないが、言っていること自体は実質的に先までと変わらない。すでに分かりきっている結果と、その回答の先送りにすぎない。
それではスフィールリアは納得しないだろうし、事実彼女は断固として口を開いた。
「無理です。具体的な保障と確約をいただけないのであれば彼も動きません」
「だが、これでも最大限を通り越すほどの譲歩なのだ!」
「譲歩とは言いますが、結果として彼の力の旨い部分だけを吸い出して捨てるだけになるのであればそうは言えません」
「っ……」
それも事実であればこれも事実だ。
譲歩というのは本当だろうが、それで納得できるていどの覚悟ではこちらも訪ねていない。それは大臣も分かっているので苦しい顔をするしかない。
「国のお立場はもっとも。人の世のために貢献すべきだという論もです。ですが彼は再起を望みました。同胞すべての復讐を捨て、今の人の世を助ける道を選んでくれたのです! わたしはその手助けのためにきたんです。自己犠牲の対価で得られる感謝だけでは人は生きられません。――王様! 正しき力の使い方を知る者に、正しき対価を与えてください!」
王は、まだなにも言わない。
同意を示す者、疑義を唱える者たちの声の中、法務大臣がやや暗く問いかけた。
「……その対価の中には、明らかに君自身の保身と欲望も含まれているではないか。このだれもがどうしようもない火事場のような状況にあって、人より少し多くの水を持つ者がいる。その者に口を利くから紹介料を遣せと君は言う。そしてそれは、今後の我々が生きるにあえぐ注文なのだ。正しき対価と言えるかね、それが?」
その通りだ。
あの雨の正門の場でもスフィールリアに言ったことだが、どうしようもない状況下にあって他所から這い寄り、それ以上ほかにどうしようもない選択肢を突きつけること――こういうのを脅しと言うのだ。
とはいえフォマウセン自身としてもすでにスフィールリアの意思に乗ってここまできたのだ。ここで彼女を諌めて、妥協とともに折れて、都合よく彼女を利用する選択肢だけはナシだ。
それは彼女を連れてきたフィースミールの存在を踏みにじることにもなる。アーテルロウンを名乗ったのだから、今のスフィールリアは家族だ。
たとえ世界を敵に回しても、そこだけは譲らない。
スフィールリアも譲らなかった。逡巡の時間も臆面もなく正面から返した。
「それがあくまで彼自身の望みだからです。彼は自分のみの再起のために、今さらさらなる犠牲を重ねることを望みません。その上でわたしの望みも話して、相談して、それでいいと言ってくれたんです。わたしの望みが重なっていることは認めますが、彼が望んだ以上それはあなたに口を出されるいわれのないことです」
「……」
「わたしは、名代としての全権を託されてここまできました。わたしを折っても、わたしを捕まえても、彼は決して動きませんよ」
強い断絶に大臣も押し黙る。
――その通りだ。取引と言えるか、これが?
――そのような個人の欲に屈すれば法の存在意義が問われる。
――だが、魔王の使徒だぞ? 後世の神話にさえ残ってもおかしくない化け物を前にそんな小さなことにこだわっている場合か?
――彼女の意見ももっともだ。<アカデミー>籍ぐらい差し出せばよいではないか。
「…………」
王は、まだなにも言わない。
再び玉座を見上げた彼女と視線を交わらせ、この場にあってただひとり揺らがない穏やかな眼差しでもってなにかを見つめている。
(なにをお考えなのかしらね?)
これに至るまでの王の言葉は多いとも言えるし少ないとも言える。
求められれば応答はしてきたし、むしろ話し合いとしての場の、準備や相互認識を整えるために自らが積極的に発言してきてもいた。
しかし彼女たちの対立に関してはほとんどと言ってよいほど私見を述べていない。ただ状況を俯瞰しているようでもある。だが彼は決して無責任や無関心による逃避をよしとするような人物ではない。
では、なにかを待っているのか。
(試して、みるかしら?)
フォマウセンは用意していた不確定な石を放ってみることにした。どの道、大臣らと妹分のボルテージも上がってきている。投げ時だ。
「……陛下。これについてひとつ、枝道に心当たりがあるのですが」
困惑と緊張の温度差が滞留するような空気の中で、フォマウセンが両手を合わせて王を見上げる。
王と、戸惑った貴族たちの注目が集まるのを待ってから彼女は口を開いた。
「テスタード・ルフュトゥムの恩赦にまつわる問題の最大のものとして、彼が重大なテロ行為を働いたということ、彼と魔王の関係、そして魔王の力の経路が過激的反体制者の手に渡る可能性を残すことを、諸国が許容しないであろうという点などがございますわよね?」
王が、ゆっくりとうなづく。
「その通りです、フォマウセン殿」
「それらについて根本的な認識の違いがございますように思います。そもそも此度の魔王使徒ノルンティ・ノノルンキア召喚の撃鉄を下ろしたのは彼自身ではありません。魔王使徒は彼の中から出てきましたが、その背後には<焼園>なる組織の影がつきまとっていました」
スフィールリアが強くうなづいている。
一拍の間を置いてから、フォマウセンは全体に届くよう、はっきりと進言した。
「ならば、<焼園>を討伐なさってはいかがでしょう?」
大きなどよめきとともに、重鎮たちも目を見開いた。
「いきなりなにを言いなさる!?」
「危険だ、危険すぎる!」
「魔王の使徒相手にどれほどの被害を受けるかまだ分からぬのだ、そのような段階でそんな荒唐無稽な決定を――!」
数百年、いやともすれば建国前より世に根を下ろしていたかも知れぬ結社。そう簡単に――
多くの邪教組織ともつながりを持つ。あの<ヴィ・ドゥ・ルー>も動き出す可能性があるぞ――
他国も巻き込んだ戦争に――
…………。
多くの声が錯綜する中、正気を疑う視線を一身に浴びたフォマウセンは……ただ簡単に肩をすくめた。
「……テスタード・ルフュトゥムの首ひとつより、よほど諸国への面目も立ちましょう?」
指を向けてくる大臣たちは、怒りや呆れを通り越し、声に笑いさえ混じらせていた。
「冗談ではない。臭いものをかき消すために、より激烈なものを引っ張り出そうと言っているのだぞ、あなたは!」
「そもそも、そんなことをしたとてテスタード・ルフュトゥムの危険性が消えるわけではない! あなたの論は成り立たない!」
フォマウセンは分かりやすく息をついてかぶりを振った。建前やブラフはお互い様か、という疲れも半分だったが。
「そうではありませんよ。もう一度述べますが――陛下? たしかに魔王使徒という存在を秘めていたのはテスタード・ルフュトゥムですが、召喚の撃鉄を下ろしたのは彼ら<焼園>なのです」
「フォマウセン殿。続けてほしい」
「へ、陛下っ」
「当時テスタード・ルフュトゥム自身はまったく別のものを呼び出す式を組んでいましたが、その式が塗り潰されて強制的に使徒召喚に書き替わった。実行犯はひとりの生徒でしたが、その者にすべての手順を与えたのは間違いなく<焼園>でしょう――つまり危惧するまでもなく<焼園>は、すでに魔王の力を利用する具体的なノウハウを保有しているのですわ? そこはご存知でいらしたのでございましょうか?」
王は「うむ」とうなづき、意見の正当性を認める気配を示した。
「たしかに、あなたのおっしゃる通り。此度の災害の裏に、古くから潜伏していた<焼園>が暗躍していたことは察知していた。が、魔王使徒召喚のプロセスまでをかの組織が担っていたことまでは、わたしは把握してはいなかった」
と、そこで。
王は視線をフォマウセンから、重鎮たちに向けた。
「……彼らの口からは」
そのひと言で、王を見上げる重鎮たちがゾッとしたように顔を青ざめさせ――重圧にへし折れたように、一斉に頭を下げた。
「もっ、……へ、陛下! 申し訳ございませんでした!!」
王の声音も眼差しも、変わらずに穏やかなものである。しかし今の言葉の真意を汲み取れたのなら青くなるしかないだろう。
王のうしろに、いったいどういう存在が味方についているのか。それが側近たる彼らの頭からすっぽ抜けていたわけはあるまい。だが王が口を出さなかったのなら王はそれでよいと判断していたということ――
その読み間違えを悟ったのだ。
死にそうな顔をしている配下に対し、王はと言えば怒るでもなくむしろあやすように語りかけていた。
「謝ることはない。諸君はこの国を生かすに最良だと思う道を選択したにすぎない。今、安易に手を出せば、不明な未来の被害によってどのていど疲弊しているか分からない我が国に芋づるのようにどれだけの災禍が引きずり出されてくるか。そのタイミングを考えてくれていた。そうなのだろう?」
「っ……。おっしゃる通りに、ございます」
優しい言葉に、逆に打ちのめされたように身体を強張らせ、汗を落としていた元帥が認めた。
嘘をついて助け舟に便乗したというわけではなく、本音だろう。
<焼園>という存在が多くの反体制的組織や邪教結社とつながりがあることは分かっている。それら多くの母体は海外にもあり、その中にはあの魔神崇拝結社<ヴィ・ドゥ・ルー>も含まれている。今まで多くの国家が根絶やしを願いながらも決定的な手を打てずにいたアンダー・グラウンドだ。
そんなものに手を出すとなれば――ましてや本気の根絶に乗り出すともなれば否が応でも他国を巻き込んだ極大作戦になる。そのために必要な干渉許可の申請、共闘の打診、説得、調整、機密開示、正当性……などなどを考えれば、魔王使徒撃退以上の難事ともなり得る。
それを矢面に立って果たすために、王はこの段階では<焼園>こそが元凶であり魔王の力の使用法をも保有している事実を知っているべきではなかった。たとえやむを得ずの一時的措置であったとしても、知りながら放置しておいてあとから協力を呼びかけるのでは正当性も弱まるし、少なからず非難の剣を向けられることも避けられないだろう。
盾で防げる害は盾で済ませばよい。その身に受けることはないのだ。盾には、自分たちがなればいい。
だが、そんなことが分からない王ではなかった。相談はするべきだった。
という後悔の念が渦巻いているのだろう。
「頭を上げてくれたまえ」
王の命により、大臣たちが元の体に戻る。
彼らと一緒に視線を戻し、王は小さな息とともに首を振った。
「彼らが魔王の力に通じているのなら、放置はできないね。討つよりほかにしかたがない」
やはり。
と、フォマウセンは賭けがよい方向に当たっていたことを察した。
どうやら王はこちらの味方についてくれている。大臣たちとは違ったものの見方でテスタードの開放に賛成的な考えを持っているのだ。それがどのような未来を見つめてのことかは計り知れないが。
「では、重反逆の主体は<焼園>であり、討つべきも<焼園>という見解でことを進めていただけるのでしょうか?」
王が視線を向けると、重鎮たちが苦い顔で告げてきた。
「……申し訳ないが、それでもなお、確約はいたしかねる」
「……」
これにも、やはりか、とフォマウセンはやや冷めた失望の色で吐息をついた。無理からぬこととは言え、ここは無理を圧してでもうなづいてほしかった。
フォマウセンの提案は、要約すると魔王使徒召喚の全責任と危険性を<焼園>に押しつけてしまえということだった。
<焼園>の危険性を説き、他国も巻き込んで極大作戦を慣行する。その中でテスタード自身の持つ危険性への認識が相対的に薄れるのを狙い、強引に、うやむやにごまかしてしまおう。と。
押しつけるもなにも彼らが魔王の力を呼び出すノウハウを保有していることは本当だし、ならば近いうちに似たような計画は持ち上がるしかないはずだ。それに少し便乗すれば決して不可能とは言えない公算は得られるはずなのだ(少しと言うには多大すぎるかもしれないが)。
だが、それでもテスタード自身の危険性を追及して処分を求める声はなくならないだろう。いくつもの大義名分や理屈を掲げてそれらを退けても、ディングレイズ国が彼を保有することによる危惧や軋轢は消え去りはしない。テスタードの協力は得たいが、その後に彼を封印処理することが国家の立ち行きにはもっとも負担が少ないことに変わりはない。
結局、彼らはテスタードを生贄にすることがベストだと判断したのだ。
その上で、協力は、もちろん求めるつもりだろう。
スフィールリアの背から静かなる泉のように怒気が湧き立ってくるのが分かった。
(落ち着きなさい。スフィールリア。陛下を見て)
「……」
エストラルファ王は、静かにスフィールリアを見下ろしている。
視界の中央に彼女を置き、しかし謁見の間すべてを見ている。あるいはもっと広く遠いなにか。
場は膠着している。
こちらが押し落とされる崖っぷちの手前で。
ここまできたのだ。
ここで感情を露わにしてすべてをご破算にするわけにはいかない。
甚大なリスクがあるとはいえ<焼園>討伐を機にテスタードの保護を断行するというプランは決して悪くない提案であるはずなのだ。少なくとも、このままでは太刀打ちできない使徒の状態をどうにかしてやる替わりに見返りを寄越せと強請るよりはよほどだ。
ただ、やはり決定打にはならなかった。
あとひと押しがほしい。彼らの背中を押す、まだこの場にはないなにかが。
王はそれを待っている。
根拠はない。だが、そう思った。
「おいおいおい、なんだよこりゃあ? この有様! にらみ合いじゃねーか!」
「!!」
突如割り込んだ場違いなほど横柄な声に、フォマウセンを含めた場の全員が驚いて振り返っていた。