(3-33)
◆
口上が終わって。
沈黙が降りていた。それは雷撃が落ちたあとの耳鳴りを思わせる静寂だった。
ふたりの視線が、再び絡まる。
スフィールリアは毅然と強い眼差しで。王はすべてを受け止めるような穏やかな微笑みを。
「あはっ…………あはははははっ!」
大変微妙な空気の中、突如上がった哄笑に、一同がぎょっとして顔を向けると声の主はやはりというかエスレクレインだった。
すかさず、そしてさすがに法務大臣が強い咳払いと糾弾の視線を向けると、彼女はそっぽを向いて黙る。反省していない子供のそれだ。
次いでエスレクレインは段上におわす王を見て――クスリと、笑った。その問いかけるような視線にはさまざまな言葉が含まれていそうだったが、明確なことは分からず、とりあえず読み取れるのは面白がっている表情だなということだけだ。王の方も的確にメッセージを受け取れたのか受け取れなかったのか、どちらとも取れるような微笑みでうなづいている。総合して、きわめて奇妙な光景だと言えた。
「…………」
さて、それ以上の追求が徒労なのを知っているので、法務大臣は再びスフィールリアに向き直った。
そして。
「どんなこ――」
「――無礼なっ!!」
なにかを言いかけた彼の声にかぶさり、今度こそ本物の雷撃のような怒声が響き渡った。
王国騎士軍発令庁・統括幕僚部司令席次・大六花元帥――<聖庭十二騎士団>のうち最大で六軍までの指揮権を持つことがある、軍部頂点の一角だ。
気迫としか言えない、声量以上の威力を含んだ大声に広大な広間自体がびりびりと震えたようだった。
第一と第二の聖騎士団長までもが緊張の一針を刺されたように顔をしかめている。あるいは単に近場にいたために耳を傷めただけかもしれなかったが。
おかげで生じかけていた貴族たちのざわめきまで収められてしまった。
「……」
スフィールリアは微動だにせず王だけを見ている。
それがことさら相手の不快を誘ったのだろう。叩き上げの軍人はさらに顔を憤怒に歪めてゆく。
「顔を向け――」
「やめてくれたまえ」
不思議なことだが、王の穏やかなるひと言は、ひと息で最大声量に達しようとしていた彼の声よりもよく通った。
だから男は黙り、そのことにだれも疑いの感情を抱かなかった。
彼はきっかり身体ごと王へと向き直り、詫びるように一礼をするとまた体を戻して踏み出しかける前の位置に戻った。両腕をうしろに回した気をつけの姿勢も、厳格な無表情も、元の通り。激情家に見えて、計算し尽くされた演技だったのかもしれない。よくあることだ。
これでいい。
フォマウセンは心の中でスフィールリアのうしろ姿にうなづきかけた。
跪礼ののち、王の許しがあり次第に発言をせよ。と吹き込んだのはほかならぬ彼女だ。
出だしの第一声を渡せば『向こう』は間違いなく主導権を独占して、王との交渉自体を許すまいとするだろう。場合によっては本題にすら入らせてもらえないで終わってしまうこともあり得る。王の下に優秀な部下が集うということは、つまり王の出番が必要なく終わるのであればそれでよいということを意味する。
そして、彼らは、全力でそうあるべく動くであろう。
それではお話にならないのだ。文字通り。
だからスフィールリアには始まりから終わりまで常に王だけを見ているように命じた。あくまで話し相手は王。持ちかけたものを手渡す相手も王。その絶対の意思表示が必要だ。
何名かの大臣たちが、無表情のままでちらと自分へと視線を寄越すのをフォマウセンは察していた。
(そうよね? 今もっともわたしたちの来訪を望んでいなかったのが、あなたたち)
王との謁見自体を阻もうとしていたのが彼らの勢力だ。
あるていどの――常軌を逸していると言えるレベルでの――治外法権的環境を許されている学院という魔境は、その手を充分に届かせられない法の番人たる法務大臣や軍部の人間にとっては常に潜在的な脅威であり、目の上のたんこぶであり続けたことだろう。今回の事件はまさにその顕在化と言える。
彼らはスフィールリアがテスタード・ルフュトゥムに接触したことを察知している。であればスフィールリアがなにをしにきたのかの見当もついていることだろう。
派閥というほど厳格なものでもない。派閥の垣根を超え、魔王の使徒の出現という事態、そしてその後の対処へと立ち向かうべき王の道を護ろうと立ちふさがった者たちだ。
控えめにも生半可な障壁とは言えない。
ひとつを退ければまた違った角度から違った性質の壁が立ちはだかる。この場において名声も立場も持っていないスフィールリアでは一歩進むことも難しく、退場のラインまで押し返されてしまうだろう。
だからフォマウセンも戦略を立てる。スフィールリアにはできないことをして彼女を押し上げる。王の指先に届くその場所まで。
そのために謁見前という大事な時に、この場に集まろうとしている者たちに接触して鮮度の高い情報を集めたのだ。何名かに姿を知らせるリスクを負ってまで。
「お客人よ。大変なご無礼を働いてしまった。城を代表して、お詫び申し上げます」
王が頭を下げる。
「そして、友人たちよ。この度はよくぞお越しくださいました。王家を代表して御礼を申し上げたく存じます」
再度頭を下げられ、キアス・ブラドッシュからわずかに息を呑む気配があった。
スフィールリアのうしろから、フォマウセンが楚々と両手を合わせて返礼する。
「陛下。こちらこそ、有事のさなかであるにもかかわらず謁見の機会をたまわりまして、深く感謝いたします」
王がうなづく――と同時に、王を含めただれかがなにかを言うよりも早く、フォマウセンがスフィールリアへと手を示した。
「陛下。こちらの者を、スフィールリア・アーテルロウンと申します」
これにはいくらかどよめきが再発した。王をさえぎるかのような振る舞い。礼ののちの名乗りと挨拶をすっぽ抜かした。入場の際に聞いたアーテルロウンという名。再度大物たちの逆鱗に触れるのではないか。さまざまな意味で。
――アーテルロウンとは? 先から気になっていたのだ……。
――フォマウセン殿の旧姓だ。それと同じということは?
――しかし彼女にご息女がいたという話は。
――そも、なぜ彼女は旧姓を名乗っておられるのだ? なんの意味がある?
玉座段下にいる大臣たちの一部から険のこもった視線がフォマウセンに突き刺さる。気配の主は主に法務大臣と六花元帥。あと数名。表情はほぼ変じないが、仮面の下には赤熱した刃が見え隠れしている。フォマウセンは怜悧な微笑を送り返していた。
「アーテルロウン」
王の言葉が、ざわめきをいったん静める。
「フォマウセン殿……わたしたちの大切な友人よ。わたしはその誇りある名を知っております。その名はあなた方〝師弟〟の間に交わされる絆の音。――偉大なる綴導術の祖、フィースミール・アーテルロウンの直系に連なる名だ」
「いかにも。その通りでございますわ」
フォマウセンがうなづき、再び大きくどよめいた。
「フォマウセン殿。つまり彼女は、あなたのお弟子様ということでらっしゃる?」
「いいえ?」
法務大臣の声に、フォマウセンは首を横に振る。
「彼女はわたくしではなく、フィースミール・アーテルロウンもう一人の弟子――わたくしの兄弟子に当たるウィルグマイン・アーテルロウンの下で学んだ術士です。と言いましても、現在は<アカデミー>に在籍しておりますわけですが」
――あ、アカデミー生……?
――ウィルグ……とは? とんと耳にした覚えがない。
――わたし知っておりますわ。とても慈悲深く、清貧で、見目麗しい賢者様だとか。
――なんだ、わたしはてっきりどこぞの大国の姫かとでも……。
――い、いや。そうではない。そうではないだろう。彼女はなんと言った?
いくつかの声を待ってから、フォマウセンは再び妹分を示した。大臣が口を開きかけるコンマ一秒未満の差だ。おかげで喉の空気を押し込まれたみたいに黙っていた。
「ですが、彼女にこの名を与えたのは我が師フィースミールでございます。この者はフィースミール・アーテルロウンに見出され、名を与えられ、兄弟子に預けられたのです。そして……今はわたくしの元に送り届けられた」
おお――!
「さらに、携えたこれなる『縫律杖』の名は『神なる庭の塔の〝煌金花〟』――フィースミール・アーテルロウンが建造したもっとも新しき『縫律杖』であり、このスフィールリアにふさわしき宝具として贈呈されました」
瞬間。
キン――!
と空間が固化するような音と同時に、スフィールリアと王の間へ、瞬時に顕現した『神なる庭の塔の〝煌金花〟』が、誇るように浮揚していた。
貴族たちが一斉にうろたえ出したのは、杖の姿を見たからではない。
謁見の間であったはずの空間が草原の風景に変わっていたためだった。
風さえ実際に感じられる清涼なる高原のそこかしこに、見たこともない、淡く美しい金の輝きをまとう花が咲き誇っている。
「な、なんだ――!?」
伏せよ、小物ども。伏せよ!
「どうなっている!?」
その通り。
わたしこそが真なる従者。
いったいだれと対等のつもりで話しているのか。
捧げよ。肉と霊、魂による五体投地を。このお人に――!
「て、転移? いや支配か!?」
「お、王城の中枢だぞ。術的なものではない――!」
「警備――!」
「落ち着け――!」
――伏せぬなら。
声なき意味情報の塊が、圧力さえ伴なって全員の頭上から――
(マズいわね?)
現状を認識してフォマウセンの肝が冷えかけたところ、スフィールリアがすかさず目の前の杖を手に取ってペシンと叩いた。
彼女の一撃に怯えたように、空間を塗り潰していたヴィジョンが退いてゆき……『煌金花』もしおしおと枯れるようにして元のサイズに戻っていった。
『…………?』
今のはなんだったのか。どよめく聴衆の中……スフィールリアがかろうじて平坦に、硬い声を絞り出す。
「……失礼いたしました」
「いやなに」
すかさず王が笑って返したのは、面倒だから部下が状況を察して怒り出す前に許してしまおうという計らいだろう。現に王の対応で意味に気づいた何名かが「いくらなんでもそりゃダメだ」と言いたげな感じで、しかしもはやどうしようもない風味で王を振り仰いでいる。さすがの器としか言えなかった。これぞエストラルファ王だ。
フォマウセンも、だれかが苦言を呈する前に続けるつもりであった言葉を続けた。
「この杖のスペックはわたくしの『オーロラ・フェザー』を完全に凌駕しています。それはフィースミールがこの子に見出した素養のサイズと等価であるということ。そして、」
「あのお方が名をお与えになり、彼女に杖を贈った――それは、いずれあのお方が彼女に師事するおつもりであるということ」
引継ぎ、王が告げた。
「彼女は、フィースミール・アーテルロウンの弟子である」
フォマウセンは、喝采するような力強い笑みで、王へとうなづいた。
お、おお――!
さすがに今の言葉を受け流せる者はいなかった。
「四人目の賢者か――!」
「フィースミール様に見出されし――」
「歴史において彼女に学んだ者は少なくない……だがその名まで与えられた者はひとりとしていないのだ――!」
「そのようなお人が、我が国の危機に駆けつけてくださったのか――」
「ならば、取引は受け入れるべきなのでは? なににおいても――」
動揺の声がさざめく中、スフィールリアを見る大臣たちの顔にも緊張の色が濃く宿っているのが分かる。
ひとつは、目の前のスフィールリアが本当にただ美しいだけの少女ではないのかもしれないという疑念。
ひとつは、周囲の貴族たちの心がかなりの比率でこちらに傾いているらしいこと。
そして、なによりもひとつ――この後の王の反応だ。
フィースミールと言えば、ディングレイズの歴史においては決してその存在なしには語れない偉人である。彼女が王都に住まっていた時代には彼女の秘術によって幾多もの困難が退けられたし、そもそも建国の際にエムルラトパ王朝最後の王との橋渡しを請け負い、三者で〝契約〟を交わしたという来歴がある。彼女がいなければこの国自体が生じていなかったのは間違いがない。
そして、その〝契約〟は現代の王家にも受け継がれている。
王家はフィースミール・アーテルロウンの意思を決して無視できない。むろん国家である以上どんな要望も聞き入れられるなどということはあり得ないが、それでも、まったく話も聞かずに無碍にするということもできまい。
大臣たちが隠し切れぬほどに苦しい表情を見せる理由だ。
これでは、王は話を聞かないわけにはいかくなった。
大臣たちではなく。王が聞かざるを得なくなるようにしたのだ。
スフィールリアが王に『ねだろう』としている助力の〝対価〟はおよそ常識的に考えて無茶なものだ。王の忠臣たちにはむろん許容しかねることだろうし、当然のように、願いそのものを全力で排斥したかっただろう。
だからこそ、まず王と話をする機会自体を潰しにかかってくるのは分かり切っていた。
だからこそ、フォマウセンは戦略を立てた。
スフィールリアには開口一番の切り込みを。次に、王が聞かざるを得ないアーテルロウンの話を出して王との会話を引き出すと同時に、場の貴族たちに〝印象〟を植えつけた。
彼女たちが何者であるかの印象を。彼女たちの言葉を聞かなくてよいのか? という強迫観念を。
しょせんは心理の領域。はったりにすぎない。
しかし、話し合い、取引という場面において、雰囲気や心理的な立場の優劣というのは多くの当事者たちの想像を超えて大きく作用する。いくつもの歴史を横目で眺め、また自身も百年間この国の難物たちと渡り合ってきた彼女だからこそそれがよく分かる。
険悪なムードで進み続ければ有害な発言や要求も自然と出てくるし、頭を押さえ込まれていれば下側の言葉は圧殺されるのが道理だ。圧倒的な数的劣勢の場所に踏み込んだならなおさらのことである。
だが、今やこの数の差は逆転してスフィールリアの側に傾きつつある。そうなるようフォマウセンが仕かけた。
王と会話をしながらも貴族たちの小さな声に気を配り、彼らのざわめきの中に、彼ら自身を縛るために必要な言葉が出そろった段階で会話を続ける。――王との会話を不自然かつ致命的に礼を失するギリギリの間合いでつなぎながら。さらには、どうにかしてイニシアチブを取り戻すきっかけがほしい大臣たちの発言の機会を、気配を洞察して巧みに潰しながら、である。
これは、フォマウセンにしかできないことだった。
一方のスフィールリアはと言えば、心持ちこぶしを握り締めているのが見える。毅然とした表情が見えないうしろ側だからこそ彼女の心情はよく分かった。
彼女はまだこの王都にあって何者でもない。なにをなしたわけでもない(と大方思っているのだろうが)。フィースミールが直弟子のつもりでいるというのだってフェイクだ。
ウィルグマインが彼女を単に便利な雑用か、かわいらしい愛玩動物のように扱っていなかったのなら。フィースミールの弟子というものたちがどういうものであるのかはよく分かっていることだろう。
だからこそ、身の丈に合っていない、実態に沿わない評価はさぞ屈辱なはずだ。
だが必要なことだ。それが分かっているから否定もしない。今はそれでよい。
「なるほど、よく分かりました。ありがとうございます。フォマウセン・アーテルロウン殿。恩義ある偉大なる賢者よ」
王が、かみ締めるようにたしかな動きで、うなづいた。
認めたということだ。スフィールリアの存在を。フィースミール愛弟子であるフォマウセンの言質によって、という形式上のことだが(これはこれでフォマウセンにとってのリスクとなるが、しかたがない)。
「スフィールリア・アーテルロウン殿。そのようなお方がこの危急の場に我らを助ける手立てを携えて現れてくださったという事実。神の配剤に等しい恩恵と言えるでしょう。その優しさ、その勇気に、個人的に敬意を抱かざるを得ない。すべてを含め、改めて御礼を申し上げたい」
王は、今度は、スフィールリア個人に頭を下げた。
これにより、大臣たちを含め貴族たちにもまた別種の緊張の気配が浸透していった。
(さて。ここからだわよ、スフィールリア?)
王との会話を成立させるというハードルはクリアした。
心理戦も制した。
ここからは王も主として会話に参加する。王を差し置いて彼らが戦場を独占することはあり得ない。少なくとも頭ごなしにやり込められるということはなくなっただろう。
どうにか『絶対不可能』だったものを『不可能』の段階まで押し上げたのだ。
が。それも、しょせんそれまでのことにすぎないと言える。
「さて、それで、最初にご提言いただいた内容についてなのだが」
頭を上げ、再び彼女を見る。
そして、告げた。
「難しい」
と、ひと言。ただ、それだけのこと。
それだけのことで、場の空気が一変していった。
重鎮たちが明らかにほっとしたように顔の下の緊張を緩め、貴族たちの間にも、次々と目が覚めてゆくような気配が広がってゆく。
そう。
いかにこの場に迎えた客人が神代にも語られるような偉大なる人物であろうとも、彼ら自身は限界ある人間にすぎない。できることとできないことがある。
スフィールリアの最初の口上を思い出し――それが到底実現不可能な要求であることを再認識してゆく。
「……」
「非常に、難しい。理由はさまざまあるが……法律的なこと。対外的なこと。内実的なこと。……すべてをかんがみても、彼の解放は現状では不可能に近い。拘束から投獄までの決断と手順がかなり性急であったことも認めるが、それもやむを得ない措置であったかとは、わたし自身も認めるところだ」
貴族たちも小声で論じている。
――その通りだ。
――一秒たりとて放置できる案件ではなかった。
――しかしあまりにも性急すぎたのでは? 我々が法や道義を唱えるならば、ではそのために我々はいくつの法を無視して彼の者の封印を急いだというのだ?
――バカを言え。魔王の力となればいったいどれほどの不届き者どもの唾を誘うか……。
――この危急の時に、そのような者の扱いに手をこまねいている時間はなかった。
「……」
彼らの言い分はもっともではある。
テスタード・ルフュトゥムが<アカデミー>生であったことが致命的であったと言えるだろう。外側の法律からあるていど逸脱しているあの場では、外部なら制約を受けるさまざまな秘術が扱われている。
乱暴な表現をすれば『野放し』の状態と言ってもいい。
もう少し正確に言うなら自由度の問題だ。学院が許そうが許すまいが、どのような研究をしようと企んでもよいのだ。学院はそれらの中から有益なものはピックアップし、有害な芽は摘んできた。『規範』だとか『規格性』といったものからは生じ得ない益を混沌の上澄みから掬い上げる、フォマウセンが一度学院をひっくり返して構築した闇鍋だ。
今回の彼の一件――魔王召喚理論もそんな混沌に生じたひとかけらだ。特大で猛毒だが。
要するに、学院に潜入さえできれば、彼の足跡を辿ること自体はできてしまうのだ。あるいはそれを口実にまったく無関係な毒蛇を持ち帰らせる要因となることさえあり得る。だからこそ、もう一秒一歩分たりとて、彼を表の世界に放置して余計な情報を残させるわけにはいかなかった。
魔王の使徒をどうにか撃退したのち諸外国に対して、真っ先になによりも迅速にこの者の処理を行なったという事実的ポーズを取っておく必要もあった。
テスタード・ルフュトゥムという個人に対する煩わしさから解放された上でようやく、そしてなお、魔王使徒への対策は彼らの許容量いっぱいの案件なのだ。
彼への措置が恐慌的なほどに迅速であったことについては、つまり困難な問題が連続した時に発生する単純なおしくらまんじゅうであるとも言える。
すべてを同時にできないのであれば優先度の低いものから後回しにするか、それをした結果のリスクさえ無視できないのなら、案件自体を闇に葬るしかない。まだできるうちに――もっとも強い手を以って、である。そしてそれは魔王の力を外部の手の届かぬ場所へ永遠に封印するという彼らのすべき最終処理にも適っていることだった。
彼らはもっとも現実的で、合理的な手段を選んだのだ。
言ってみれば、テスタードの封殺という手段は彼らにとっては要石のようなものだ。
これを抜けばすべての理屈が崩壊する。内政における法的意味も、対外的な主張もすべて成り立たなくなる。
テスタードを封印しなければならない理由。野放しにするデメリット。
ここまでは、双方にとっての共通認識だ。
「それはもっとも愚かな選択です。王様、わたしは最初に言いました」
スフィールリアの鋭い言葉が論じていた声を断ち切り、動揺の声を生む。
王へ向けられた言葉に大臣たちの顔色がさっと変わっていった。
「我々ではなく、王を侮辱するのかね? スフィールリア・アーテルロウン殿。君の態度はこの場に集まった者に対してあまりにも非友好的だ!」
不敬と言わなかったのは王家への客人という立場を踏まえる気になったゆえだが、指さえ向けて怒りを露わにしているのは変わらない。ほかの大臣たちも同じだ。六花元帥と第一団長などは演技でなく本気の怒気を膨れ上がらせている。
スフィールリアは首どころか、視線さえ向けなかっただろう。王だけを見上げて言う。
フォマウセンは割り込まなかった。
「テスタード・ルフュトゥムを封殺することに意味などなにもありません。むしろ魔王エグゼルドノノルンキアを野放しにするリスクを負うおつもりなのでしょうか!」
いい加減本物の怒鳴り声を上げようとした元帥たちが黙ったのは、そこでスフィールリアが鋭い眼差しを送ったからだった。彼らだけにではない。振り返り、左右の列にいる貴族たち全員を見渡して。
彼女の表情は本気で怒っているように見えた。半分は演技ではなく本物だろう。おかげで、どうやら彼女はこの場の全員に呆れている、という態度にも説得力がついていた。
どういうことだ――?
うろたえる声が生じると同時に、王立<真理院>院長が問いかけた。
「なにか根拠があってのお言葉なので?」
彼自身は術士ではない――軍部もそうだが、すべての力ある機関の最終的コントロールは術士や軍人当事者ではなく文官が務めることになっている――ものの国家最高峰の綴導術士機関の長として分野の知識には篤く、テスタードの処置方法に関しても少なくない口出しをしていたはずの人物だ。聞きとがめずにはおけない言葉であったろう。
スフィールリアはそのままの眼差しで彼に向き直った。
「彼の言葉を聞かずに封じ込めようとした結果です。魔王エグゼルドノノルンキアはこれまでの歴史の影で、自らの存在の片鱗をこの世界にばらまいて人間に呼びかけてきていました。その〝因子〟のひとつに触れて……彼の国は滅んだ」
「だからこそ、さらなる滅びが招かれる前に、完全に芽を潰しておくべきなのでは?」
スフィールリアの吐き出した息は鋭かった。<アカデミー>生にこのような態度を取られるのは単純な屈辱であると同時に、面子によくない傷を刻まれるようなものであったろう。
それは彼の権威に疑念を生じさせる。一時でよい。
<真理院>院長を見限る形で視線は王へと戻し、意識の矛先は全体へ向けて。
「かの魔王はまだこの世には現れていない存在です。それは歴史においてエグゼルドノノルンキア自らの降臨による世界的な危機が引き起こされていないことからも分かるはずです――魔王はこの世に自分を呼び寄せるための〝布石〟を置いている段階なのです。……滅ぼされた彼の故郷もまた、そのうちのたったひとつのことにすぎないんです」
「ならば……なおのこと放置などできないではないか! 魔王の使徒までが現れてしまったのだぞ!? 王手をかけようとしている駒に対処せぬ愚か者なぞいるかッ!」
彼女は、まだ男を見ない。
「王様! なぜ彼の故郷が失敗して滅びたにも関わらず、彼だけが生き残されたのかを知ってください! ――まだ終わっていないからです! 魔王エグゼルドノノルンキアにとって彼がまだ有益な存在であるからです。魔王にとって今の段階でもっとも成算の高い〝入り口〟が彼なんです!」
「だから閉じるのだと何度言えば分かるのだッ」
「――では、〝次〟の手に移るだけなのでは?」
突如平静になったスフィールリアの声は、むしろ直前の怒り声よりも強く響いた。
大声の余韻が収まった瞬間の静寂を狙い済ましていた。こんなに細かい指示をフォマウセンは出していない。だが、この短い間でフォマウセンの『闘い方』、呼吸法とでも言うべきものを吸収して真似たのだ。集中力のなせる業だろう。
ぽかーん、とした空気が一瞬だけよぎった。
なにか重大ごとを告げられたような気がして、その意味をたぐろうとする反射行動。その一瞬が終わり切る前にスフィールリアは話を自分で引き継いだ。
「次の手に移るだけです、王様。そしてそれを、わたしたちはまだひとつも察知できていません」
小さなざわめきの中、王だけは動じずにスフィールリアに返答していた。
「知らないものは、防ぐことを考えつくことさえできない」
うなづき、ようやく意味に追いつき始めて恐怖を宿した周囲の声に体を巡らせながら、
「テスタード・ルフュトゥムが封じられたことを知れば、魔王は簡単に見切りをつけて次の布石を育てるだけしょう。悠久の時を生きる存在です……魔王にとってはそれだけのことにすぎません。では次はどこで、どのような性質の〝因子〟ですか? すでに同じくらいに育った布石があるとしたら? ――フェリス王国? リンカーイェルバ皇国? それとも未開のどこかでしょうか。どこでもいいですが――彼らに、いくつもの幸運が重なった今のこの国と同じレベルでの対処ができるでしょうか? できなかった時は?」
そこまでは、言わずとも分かることだった。
その時は、魔王が解き放たれる時だ。そしてその事実を自分たちが知ることになるのは、魔王が服のようにまとった災害とともに自分たちの頭上へ降ってきたその時になる。今この瞬間の諸外国の立場がそうであるようにだ。
即座には反論できないうしろ暗さが彼らにはある。今まさに自分たちが独自に解決しようと動いているのだ。同じことを考え、そして今度は失敗しないとは到底言えない。自分たちとてまだ成功したわけではないのだ。
「唯一、確実につながっていると分かっている門を潰してしまうより……保護して、監視と対策を行なう方がよい。と?」
スフィールリアは、王へ率直にうなづいた。
「そうです」
「ふむ」
王に一考の時間が生じて、貴族たちの間にもさまざまなことを論じる声が錯綜した。
「正気とは思えぬぞ――」
「そんなことが可能か? いや無理だ。諸国がなんと言うか」
「そもそも別の〝因子〟などというものがあるのか? 〝上〟はその可能性を――」
考えてはいたはずだ。だが魔王の力の経路に関することはトップ中のトップシークレットだ。いくらなんでもこの場の全員に伝えていたわけはない。
可能性を考慮した上でテスタードの封印を選び取ったことは分かっている。それが国家としての都合にもっとも沿っていて、なおかつ余裕がなかったのは以下同文。隠れ家にいる間の打ち合わせでスフィールリアにも繰り返し伝えてきたことがらだ。
散々論じたそれをこの場で蒸し返されるのは痛手であるという以前にうんざりする思いと言う方が的確だろう。今知った有力者たちにその合理性と不可避性を同じように説き染み渡らせてゆかなければならない。――重鎮たちの渋面がそう言っている。
だがテスタードと直接話した彼女が改めて持ち込んだのなら少し話が違ってくる。現実性の話だ。
もしかしたらテスタードが唯一の〝道〟かもしれない。いや、そうではないのかもしれないが、ほかの〝布石〟はまだそれほど育っていないかもしれない。
想像してもすぐに答えが出ないことよりは目前の問題を。――余裕もないという言いわけを後押しにしてその希望的観測を採用した。だが、魔王に近しい者が見たものが加われば、そうとも言ってはいられない。
それを王は考える必要がある。考えない者であるのなら今この玉座には別の人物が座っていた。
「それは、どれくらいの確度があるお話なのだろうか?」
「魔王が用意している召喚の〝因子〟はひとつきりではありません。テスタード・ルフュトゥム本人もそれだけは間違いないと断言していました。実際に、彼の故郷が滅ぶきっかけとなったのは彼らの間に蔓延していた〝因子〟の影響そのものではなく……かの魔王の声を聞き、悪魔のように変じた異郷の来訪者でした」
「その者は?」
「テスタード・ルフュトゥムによって滅びました。彼の故郷と引き換えに。彼は魔王の経路を抱えながら、魔王に抗する強度の、人の心を持っています」
「失うべきではないと?」
「そうです」
「ふぅむ……」
と王は再度顎もみ考え込むも、今度は一秒で顔を上げてきた。
「彼の協力があれば、未確認の布石も発見が可能かな?」
「なりません!」
スフィールリアが当然のようにうなづこうとする前に声を荒げたのは法務大臣だった。
「王よ、お忘れですか! かの者はその魔王を召喚するために此度の災害を起こしたのです! そのような者がどうして今さら、危険なその目的に反する助力を行なうというのでしょうか? すでに本人が気づかぬうちに魔王に魅入られている可能性まである! 保身の手段をこちらから与え、つけいる隙を見せれば、いつまた魔王の召喚を企むことか分かりませぬ!」
これには同意の声も多かった。同時に、テスタードの目標が魔王の召喚そのものであったことが初耳であった者たちの非難の声も。
ぽつりと。漏れ出した彼女のつぶやきは大臣たちには聞こえていただろう。
「……センパイは、あの人はもうそんなことはしませんよ。約束してくれたんだから……」
心底つまらなさそうな声。彼と直接話してきた彼女にとっては自明のことなのだろうがこの場の人間にはそうではない。
「ハッ、約束とはこれはまた……いきなりずいぶんとかわいらしいことを言い出したものだ」
「そのような不確かなもの、我々にどうしろと……」
元帥を始めとした玉座寄りの重鎮たちは笑い出したが、法務大臣だけは、すぐには同じ反応には至らなかった。
スフィールリアに送る眼差しは値踏みするようでもある。
(そう……そうね。今のは、あなたにも分かりやすかったのじゃないかしら?)
これでよい。
王に前面へ出てきてもらうために一旦は重鎮たちを退けたが、その次には彼らにも出てきてもらわなければならない。
王をうなづかせても実際の役職を任されている彼らが首を振れば意味はない。
一番よくないのは、無関心と不干渉だ。彼らが自分たちの決定を絶対に揺らがさず、一切の交渉を必要なしとする姿勢で取るのが一番不味いのだ。彼らがそれをするためには、黙っているだけでよい。最後に拒絶を示すだけで事足りる。だから、黙らせていてはならない。
彼らが最初から敵対しているというのならいっそ挑発という形でさらなる敵意を引き出した方がよほどよかった。絡まない線からはよいものも悪いものも永遠になにも生まれないからだ。
「……」
魔王の使徒対策の情報を引き出すための短いテスタード・ルフュトゥムへの尋問期間で、彼らは多くの情報を得られなかった。核心部分をほとんどなにもしゃべらなかったからだ。
スフィールリアは彼が決して割らなかったその情報を持っている。
その確証を得たのだろう。大臣が王を振り仰ぐ。
うなづき、王がスフィールリアへ穏やかに問いかけた。
「今後の話よりも前に、まずは目先についてのことを先にお話するべきだろう。しかしその前に、ひとつ安心していただきたいことがある。客人であるあなた方の言葉を、わたしは決して不当には扱わない。代々からのそういう取り決めになっている。充分に考慮し、細大に検討し、正当な決定を行なうことを、わたしの名にかけてお約束いたしましょう」
これにはスフィールリアの細い背中が揺れたのが分かる。息を呑んだように。
フォマウセン自身も同様だ。
この場に対する読み誤りが少しあったことを彼女は認めた。見透かされていたことについてではない。
謁見の前に『あの部屋』を通った自分たちの扱いは聞き及んでいたが、どうやら想像以上の効力を持っていたらしい。
四面楚歌の敵地に飛び込み、飲み込まれまいと必死に威嚇行動を取っていた自分たちの姿は、王にはどのように映っていただろう?
フォマウセンはすっかり俗世の法則に染まっていた自分を、少し、恥じた。
同時に方向の修正も。王へのこれ以上の挑発的な態度は逆効果になる。
王家の態度は、未来を読み解くという偉大なる祖霊のその力の実績を表しているとも言える。であれば自分たちがこの場に訪れたこと自体がもう決せられるべき歴史の流れの一部と考えることができる。そこに手を加えすぎるのはよくないのかもしれない――
「ありがとうございます。数々のご無礼をお許しください」
フォマウセンの言葉から始まり、スフィールリアたちが頭を下げる。「うん」と微笑み王もうなづいた。
これでスフィールリアにも伝わったことだろう。
王の名にかけてとまで言ってくれたのだからここは素直に安心してよいはずだ。思っていた以上に悪くない流れになった。
ならば、ひとまず、こちらからも歩み寄るべき時だ。
フォマウセンは開示してゆくべき情報の順番を整理しながら、自分が間に挟まる機を見計らい始めた。
しかし――長く時を渡り歩いた賢者フォマウセンであっても、全知全能とはいかない。歴史がもたらすいたずらを読み切れないといったことは、よくある。
◆
この時、彼女たちの戦いを丸ごとブチ壊しかねない猛悪が、彼女たちのすぐ背後に迫ってきていた。
「おいおい、こんなところでお預けかよ? この俺様をつかまえておいてこんな扱いだなんてなぁ、お前さん……ずいぶんとイイ度胸してる。スカウトしたいぐれーだ。なぁ? いい考えだろぉ?」
「いーんじゃないですかい」
謁見の間に通ずる扉の前。少し前にはスフィールリアたちが立っていた場所で、今は二名の人物が衛兵に詰め寄っていた。正確にはそのうちのひとりの男だが。
「お、お客人……困ります。その、通達し、ご入場のタイミングを見計らいますので」
「おいおいおい。だから、そりゃねーんじゃねぇのよ? 俺様は客だぜぇ? ――客なんだろぉ? そう聞いてたからそれなりの扱いを受けると思ってたのによぉ、お前さん……」
「……」
「その客に、こんな扱いして本当にいいのかよ……?」
「うぐ……」
すぐあご下に火のついた葉巻を剣のように突きつけられて――衛兵が苦しげに視線を横へ。
男の背後の支配人も、やがて、やむなしと言った渋面で首肯する。
それが見えていたはずもないが、男はニヤリとヤニ臭い笑みをこぼす。
「開けろよ」
男が何者であるのか。それを語るのはたやすい。
男は、〝悪〟であった。
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