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スフィーと聖なる花の都の工房 ~王立アカデミーのはぐれ綴導術士~  作者:
<3>魔王鳴動と開催前夜の狂争曲の章
89/123

(3-32)


 多くの貴族たちが謁見の間に集っていた。その数は、それぞれの伴侶や跡継ぎなどを含めると三百名をゆうに超えている。

 彼らはほとんどが王都においても上級の貴族であり、あまりにも急な召集であったにも関わらず、皆が可能な限りの正装で身を飾っている。


 それだけではない。

 玉座にもっとも近い列には、この国の頂点と言ってよい王庭十二翼家紋の当主たち。当然、十二翼中でも最大の貴族である七大・大公爵家の姿もある。彼らの姿はみなひとりひとりが王なのではないかというほどに気品高く、威厳に満ちている。

 さらに十二翼家紋の〝子〟に当たる二十六家紋の面々も控えている。


 そして、玉座まで続く赤い絨毯の両側にずらりと控えるのは、ディングレイズ国が誇る武の最高峰――<聖庭十二騎士団>ラウンド・オブ・ガーデンズが第一騎士団と第二騎士団。

入り口近くの配置には第三騎士団が。玉座のもっとも近くには第(ゼロ)騎士団とも通称される王家直護衛の近衛隊の面々もある。


 騎士の姿は総勢にして百六十五名。

 聖騎士団の装備は儀礼用であり、全身を純白にも近い白銀色の全身鎧(フルプレート)で覆っている。多くの者たちは金天獅子の(たてがみ)から作られた尾のように長い房のついた装飾槍を不動の姿勢で垂直に構え、またある者たちは最高級の仕立てで作られた国旗、団章旗、七大公爵家の紋章旗、各省庁旗に各家紋、各領地紋章の旗などをそれぞれが掲げていた。


 正規武装に身を包んでいるのは、玉座前の左右に控えた各騎士団長と副団長格の数名のみ。

 ひとりは、第一聖騎士団長。紛れもない聖ディングレイズ国最強の騎士『白竜皇』アルフュレイウス・ディウヴォード・パルマスケス。

 最強である第一騎士団の長という地位にありながら年齢は三十半ばと若い。眉目秀麗な目鼻立ちだが、表情と雰囲気が(いか)めしく、美というよりは勇という印象が圧倒的。肩甲骨あたりまで伸ばした白金の髪を上品な髪留めで束ねている。

 ディングレイズ王家より下賜された白金(しろがね)全身鎧(フルプレート)は通常の全身鎧に比べて特異であり、関節各部の隙間がない(・・)。そして傷ひとつもない。普段は使わず大事に居室で保管しているのかと思われるほどに。


 しかし彼にまつわり歌われる数々の英雄譚、幾たびにも及ぶ魔獣との戦い――そのどれもが一国を壊滅せしめる大魔獣――に彼がこの鎧を着て赴いた事実は多くの者が知っている。彼の鎧には伝説の神鉄『ルシル・エル・タイト鉱』とやはり伝説級の魔法金属『パルテミオン』がかなりの比率で使用されており、さらに王室直轄<真理院>の技術の粋が込められている。

 伝説に歌われてきた数々の武具・秘宝にも比肩し得る一品だった。


 それだけでも彼の存在を伝説たらしめるには十二分であっただろうが、彼が『白竜皇』と謳われる所以は腰に提げられた剣にこそある。

『剣鱗アルコ・ティコ・ユラスト』――ランクSSS認定を受けた伝説の魔剣である。

 柄の先にある竜頭の装飾はいくつもの刃のごとき鱗が突き出し、それだけで凶悪な武器になりそうなほど大きく、剣というよりは鎚と評した方が近い形状をしている。そしてその竜の顎から生える刀身には、鞘がない。

 というよりそれを着装した彼を初めて見る者には刀身そのものがないようにも見えただろう。

刀身は、まるで生きた大蛇のように、彼の腰部に巻きついているのだ。


 この世で最強の武具といえば『薔薇の剣』を始めとした『ガーデンズ武器』であると言われているが……世界基底部たる<始原の庭>(ガーデンズ)の界面流路末端部の〝化身〟(アバター)でしかない武具としての『ガーデンズ』に対して、こちらは完全に闘争・攻撃の意思により形成されている。その分、攻撃性・破壊性という点では比べ物にならない危険を秘めている――と主張する者もいる。

 彼がこの剣を振るった姿を見た者は極端に少ない。しかし彼が『剣鱗』の力を解放した時、その武力はディングレイズ王国全軍を超えるとさえ言われている。


 そんな彼の背後に控える二名の副団長格。ひとりはともすれば戦斧と見まがう巨大な穂先を持つ長槍を携えた金髪の女。もうひとりは左右の腰に双剣を提げた男。


 玉座前のもう一方で待機しているのは『白竜皇』とは一転して黒い全身鎧を着用した巨漢だった。第二騎士団長『崩撃の砕禍』ガランドール・ミーズ・バズマ。公式試合においては『白竜皇』相手にさえ無敗を誇る最強格の戦士だ。彼の武装は身の丈以上もある超巨大な漆黒の戦斧だが、さすがに巨大かつ持っている姿が禍々しすぎるため、背後に控えた補佐の者が大事そうに抱えている。


 その者とは別に、同じく副団長格が二名。彼と同じほどの体躯で、両腕それぞれに身が隠れるほどの戦鎚を装備した壮年の男。だがこれは鎚ではなく()である。

 もうひとりは、彼らふたりの存在感にかき消されて見逃してしまいかねないほどに小柄な、そして明らかに戦士然としていない、深紫色のローブをまとった枯れ木のような老女。


 まさに、大陸頂点が第一騎士団と第二騎士団。

 この二者が一同に会する機会は滅多にないと言える。十二翼家紋にしても同じだ。それこそ、北や東の大陸の王家の国を挙げての訪問があった時ぐらいだ。


 さらに入り口付近の配置には第三騎士団と、団長『薔薇の剣聖』アレンティア・フラウ・グランフィリアの姿もある。<聖庭十二騎士団>の由来のひとつでもある聖なる『薔薇の剣』を携えた彼女の姿は、玉座より離れて騎士団の列を指揮する位置にありながらもひときわの存在感を放っている。


 謁見の間における儀礼とは、国威の発露にほかならない。この謁見の間に訪れる相手をどのていどに見ているかという意思表示でもある。

 そういった意味では、これは国賓待遇の中でも最高位に位置する歓待の準備である。まぎれもなく、我が国のすべてを挙げて、これから訪れる者を歓待するという意思にほかならない。


 当たり前だった。

『あの部屋』を通ってこの場に訪れる者がいるというのは、この国にとって、そういうことなのだから。


「………………」


 威風堂々たる聖騎士団、そして最高位の儀礼。あまりにも荘厳な姿を見せる謁見の間の様相に目を奪われながらも、優雅に着飾った多くの貴族たちの顔には困惑の色があった。実際、小さくざわめいてすらいる。

 普段から数多くの人間の上に立ち、導き、また自身もその務めに強く誇りと自負を抱いている者たちが、萎縮している。

 これも無理からぬことだった。

 ここにいる者の多くは国の中でも王家の信頼篤く、この国、王家が抱える偉大なる秘密の一端にもいくらか通じている者たちだ。だから、自分たちが集められた理由も理解している。知らない者には知っている者たちがこの場で教えていた。

 だが知っているということと実体験があるということは別だ。


 伝説だと思っていた。

 由緒正しき家柄の歴史にあって、実際にこの召集を受けたことがある者はほぼ皆無だったのだ。

 だから不安があった。軽い後悔もあった。こんなことがあるならば普段より専門の従者を、いやクローゼットごとでも連れ回していればよかったと。あまりにも急な呼び出しであったために、自分の身なりは本当にこの場にふさわしく整えてこられたのであろうか、と。

 彼らのような上級貴族は貴族の例に漏れず平民とは比べ物にならない贅ある暮らしを許されている。しかし、その真の理由とは、こういった時(・・・・・・)に国の恥にならぬよう、いつでも万端の準備を整えられるようにしておくためでもあるのだ。だからどのような時であっても百点満点で応えられなければおかしいのだ。たとえそれが数十年から数百年に一度あるかないかという通過儀礼であったとしても。


 そして不安。これから王へと会いにくるのは、どのような人物であるのか――

 やがて、静かな喧騒は収まる。

 玉座横手方面の扉から歩み出してきた男が――この場を取り仕切るのがこの老人、儀典庁長官だ――玉座前の聖騎士団長らの横に立ち、一同を見回したからだ。


「これよりエストラルファ・ファル・ディムオール=ディングレイズ陛下がお成りになります」


 全員がそろって姿勢を整える音が、小さく響いた。

 次に、聖騎士団一同が一斉に装飾槍を床へ打ちつける音。

 それを契機に指揮者が指揮棒を振り上げ、宮廷音楽隊が一斉に入場礼賛のテーマを奏でる。最初は高らかに、次になだらかに。

 音楽の進行に合わせるようにして玉座右手奥の扉より、数名の供につき添われて、王装をまとった男性が歩み出してきた。


 エストラルファ・ファル・ディムオール=ディングレイズ。

 第三十二代ディングレイズ国王は、偉丈夫であった。

 玉座前に控える第二騎士団長よりも大きい。二メートルはあるだろうか。

 そして、マントから始まり、何重にも着込まれた厚手の衣装の上からでも分かるほどに筋骨隆々とした体躯をしている。

 老いなどというものとはまるで無縁の力強さしかないような風体ではあるが、反して五十代になる彼の頭髪や口ひげはすでに真っ白である。

 王のうしろには供回りのほかに、執政にたずさわる何人かの上級貴族と七大大公爵の姿もあった。王も含め、彼らはみな今の今まで魔王の使徒対策を論じる会議に出席していた者たちだ。そんな彼ら全員すらもが、国の存亡を決める席を中断してまで、こうして参列してきたのだ。


 貴族たちはますます高まる緊張に、表へ出さぬように息を呑む。

 聖騎士団長と貴族全員が頭を下げた前を王が悠然と進み、やがて曲が終わるのと完璧に同じタイミングで、ゆっくりと玉座へと座した。大公爵はじめ各省庁の長官たちは途中で玉座寄りの列に入る。供周りの者たちは左右に分かれて玉座のななめ後方へと歩み、いつでも王を補佐できるよう待機する。

 そして王エストラルファは、その異様なまでのたくましさとは不釣合いなほどに柔和な笑みを浮かべると、


「頭を上げてくれたまえ」


 と、お願いごとをするように優しい声音で一同へ声をかけた。

 貴族たちの面が王へと集まる。


「友人たちよ。皆、多忙な中、急な依頼にもかかわらず、よくぞこれほど集まってくれた。わたしは感謝の念でいっぱいだ。本当にありがとう」


 王が玉座の上からしっかりと頭を下げると、上級貴族たちはみなが押し殺した声でうろたえの念を示した。


「王よ。そのようなことをなさる必要はございません。我ら王下十二翼二十六家紋、以下、翼下七十二羽紋および執政議会八賢会議、このエムルラトパ大陸の民、そして人類の安寧にこの身を尽くす者ども。その筆頭であらせられる陛下のお求めへ応えるに、いったいどのような苦労や不都合がございましょうか」


 もっとも玉座に近い列にいる貴族――七大大公爵家が序列二位の男が深々と礼をした。王は鷹揚にうなづき、全員へと――騎士たちにすら――目を配り、もう一度、小さくうなづくように会釈をした。


「ありがとう」


 次に儀典庁長官とうなづき合うと、やや笑みの温度を友好的なものから義務的なものに変えて一同へと告げる。


「さて、さっそくだが、今回の用件について皆に伝えておきたい。お願いをしたい。今、我らが国家が置かれている状況はみなが知っていると思う。これはこの国、この大陸の、未来へとかかわる歴史の〝分岐点〟であると知ってほしいのだよ」


 王の前――それも最高位の儀礼の前であるにもかかわらず、貴族たちから漏れる声は小さくなかった。

 分岐点。その単語の意味が比喩の類ではないと分かったからだ。

 同時に、この王都が置かれている現状のことも。ほかにありはすまい。いまだ穴のない解決策を見出せずにいる魔王の使徒への対抗策のことだ。


「これから訪れる方々は、高きところより我らが国を見守る偉大なる祖霊たちによって見極められた者であり、彼らの大切な友人でもある。なにより、この国のもっとも善き未来をたずさえてきてくださるお方々だ。我らの持てるすべての礼節を以ってお迎えしたい。皆の協力がほしい。古よりの定約に従い――なにとぞ、よろしくお願いいたしたい」


 王は、もう一度、頭を下げた。

 どよめきはもはやなく、全員が一様に、うやうやしく頭を下げて忠義の証とした。


『因果審問の間』――そう呼ばれる一室が、王城の地下浅い部分には存在している。

 王はそこを通って訪れる者との面会を決して拒まない。なぜならば、そこを訪れることができるのは、霊廟にその身を並べたる偉大な歴代王族の祖霊に見極められた者のみであるからだ。

 そこへ招かれる者は、例外なく、この聖ディングレイズ国の岐路を左右する『なにか』を携えてやってくるという。

 それこそがディングレイズ王国が抱える偉大なる秘密の一端だ。過去の英知を抱き、未来の因果を読み解く彼らの声に真摯に耳を傾けてきたからこそ、今の聖ディングレイズという超大国が存在する。

 そして、今――


「古き約定に連なり、因果審問の間より、偉大なる祖霊のご友人がご来場いたします」



「古き約定に連なり、因果審問の間より、偉大なる祖霊のご友人がご来場いたします」


「大丈夫?」


 フォマウセンは最後にもう一度だけ、隣に並ぶスフィールリアを見下ろした。

 声は返ってこなかった。弱気の声も、うろたえの声も、なにも。

 彼女はただ静かに前だけを見ていた。特別な気負いもなく、媚びも、反骨の気配もなく。しかし意思の光だけは煌々と瞳に灯して。

 その横顔が、ひとつ、たしかにうなづいた。

 よい強さだ。時々で弱音を吐いたり気合を入れ直したりといったことを繰り返していたのも、すべては本番でむき出しにする心の奥底を維持するためのもの。言ってみれば皮膚のような部分にすぎず、心臓は絶えず変わらぬ鼓動を刻み続けている。こういったタイプはたしかにいる。

 フォマウセンは微笑み、同じく前を見て、最後の確認を告げた。


「基本的な挙動は、言った通りのことだけをすればいい。あとはすべてわたしたちがフォローする。あなたはただ前だけを見ていなさい」


 もう一度、うなづきが返る。

 扉が、開く。



「ご来場者――フォマウセン・アーテルロウン(・・・・・・・)様、スフィールリア・アーテルロウン(・・・・・・・)様、キアス・ブラドッシュ様にございます!」


 扉の前に控えていた地下通路の支配人が静かだが不思議とよく通る声で告げ、扉へと一礼をした。

 扉が、開く。以前にこの道が開かれたのは百年近くも前だ。

 指揮棒の挙動を一拍挟み、一斉と広間に入場のテーマが奏でられて、貴族たちの万雷の拍手が唱和する。

 謁見の間の正面門が、徐々に開かれてゆく。その向こうにいた来訪者の姿が見え始める。 

 彼女たちがゆっくりと踏み出してきて、拍手の中にどよめきが交じり合う。


 まずひとり――元<ディングレイズ・アカデミー>学院長。フォマウセン・ロウ・アーデンハイトの姿が目に入ったために。

 王都の権威、そして有識者においては知らぬ者などおらぬ大賢者のひとり。偉大すぎる綴導術士の始祖フィースミールの直弟子でもある。紛れもない生ける伝説だ。

 だが、彼女を王城で見かけること自体はそう珍しいことではない。なにせつい先日までは〝王立〟学院の長を務めていた人物だ。当然だ。

 どよめきの理由は、ふたつ。


「お、おぉ……あのお姿は……?」


「……今、なんと? アーテルロウン(・・・・・・・)? 学院長殿ではおられないのか。べ、別人……?」


「愚か者っ、知らぬのか。フォマウセン殿の旧姓だ。あのお方は<アカデミー>学院長殿で間違いない」


「逸話には聞き及んでいたが……」


「なんと麗しい……」


 拍手の音に隠れて、貴族たちは口々に囁き、ため息を漏らす。

 フォマウセンは普段知られている姿を〝解〟いていた。

 見た目の年齢は二十代前半。整った目鼻は成熟した女性の艶と少女らしい愛嬌が同居しているかのような、奇跡的な造形美がある。肩に触れるかというほどの美しい赤の髪。すらりとした肢体は瑞々しさに溢れており、豊かな胸元を惜しげもなく晒す青基調のドレスはしかしまったく扇情的な印象など与えることはない。胸元のうっすらとした青から足元にかけてまで、まるで本物の星の瞬きを宿しているかのような深い蒼へと変じる神秘的な衣はいくつかの文化圏の神話に彼女が登場する時の描写と寸分違わぬ美しさだったからである。

 片方の手に携えられた縫律杖<オーロラ・フェザー>から発生した荘厳な輝きを放つ七色の翼と光輪も相まって、彼女こそが天上の遣いなのではないかと思わせるほどの気品をまとっていた。


 女性としてのすべてを持っているかのような彼女であったが、負けずに別種の存在感を放って目を惹く人物もいた。


「キアス……ブラドッシュと言っていたのか? 間違いなく?」


「あれが噂に聞く、青き工房騎士か」


「これはまた話とはずいぶん……」


「――見事だな」


 呑まれるように、だれかが、言った。

 王城でも最大の巨漢である王さえ上回る巨躯で、威風堂々と進んでくる。その姿は今は黒のスーツに包まれている。


「なにがだね?」


「見て分からぬか。普通の〝仕事〟ではないぞ、あれは」


 貴族が示したのは、彼がまとっている服だった。


「う、うむ……あれだけの巨大でたくましい巨躯を包んでおきながらあの全身の見事なシルエットはどうだろうか。もしも普通の仕立て方をしていたなら、ぶくぶくのゴツゴツに膨れ上がるか、のっぺりと筒のようにそびえるかのどちらかになってしまうに違いないぞ。だがあの凛として威風堂々とした出で立ちはどうだ!」


「あ、ああ。〝鬼神〟などという圧迫感は微塵もない。涼風のような爽やかさまで届いてくるようではないか」


「あのような御仁だっただなんて……」


 何名かの令嬢も熱のこもった息をついている。

 見る者が見れば分かる。

 キアス・ブラドッシュの出で立ちは、伝説の人物フォマウセン・アーテルロウンと比しても目を奪われざるを得ない存在となっていた。


 ――スーツを始めとしたいわゆる『紳士服』は平民の間では最上の礼服である。

 時代とともに平民も上流社会層や政治に取り立てられるようになり、元は貴族衣と呼ばれた貴族の正装が人体の美しさを各部ごとに切り分けて追求しつつも融和してきた様相を、彼らも着られる正装として華美な装飾や気位を表す要素を取り払って最小限にまとめた姿から発展してきたものだ。

 結果として魔術士の時代に着られていたスーツと酷似する傾向もあることから、基本的には貴族には倦厭される嫌いもあり『貴族衣』とは区別されるが、貴族の中にも好んでこれをまとう者も少なくはない。


 人体を美しく見せる要素とはすなわち首から胸元にかけるVゾーン、肩幅のライン、上半身から腰までのラインなどなど――人体の部位(パーツ)を三角形で捉えて、その組み合わせを曲線で表現する技法のことである。これの幅や角度を個々人の体格にうまく合わせて表現することでエレガントな『紳士のシルエット』が生み出される。

 女性のように化粧やドレス、小物(アクセサリー)、色の多様性が制限される男性の『格好良さ(エレガンテ)』は、〝シルエット〟で大勢が決すると言っても過言ではない。

 主張できる箇所が少ないからこそ、注目される。こだわる。そこに人柄までが見出される。

 そういう世界だ。

 体格に沿わない服を着れば無駄な余剰の『だぼつき』やシワ、動いた時の『引き攣れ』が生じてそれらは台無しになってしまう。高級な生地や仕立てであろうとも一転して野暮ったさに変じてしまう。彼のような筋肉の塊の巨漢であればなおさらだ。


 だが、彼の歩く姿は完璧だった。あまりにも。

 甲板のような肩幅。大きく分厚い胸元のVゾーン。すさまじい逆三角形の上体。そこから伸びる丸太のようにたくましい腕はむしろ筋肉の筋をうっすらと浮き立たせており、美しい装飾剣か、はたまた樹齢数千年を誇る巨木の表面が描く大自然の驚異のようでもある。

 であると同時、スーツと言えば上半身の造型がいかにもメインであるように思われるが、パンツも立派に重要な部品となる。これもまた彼ほどの巨漢であるならなおさらの話だ。

 ここまで上体のラインをむき出しにしたのだから隠れがちな下半身のラインにも少しの妥協でもあればたちまちに不恰好な〝筒〟ができあがる。

 当然だが、しかしそのような隙は皆無だ。キアスの脚のラインはたくましくも見事な流線を保ち、むしろそのおかげで、ドラゴンのように膨れ上がった彼の全身にすらりとした印象さえ与えている――


 職人たちは彼の巨躯を恐れず、隠さず、踏み込み……彼の体格が持つすべての要素を充分以上に引き出していた。

 だというのに引き攣れもない。シワもない。これほどの巨躯のラインを芸術のように描き出すには極限まで体格に沿わせたはずだが、そんなことをすれば絶対に各部が引っ張り合って矛盾としてのシワが出る。だが彼が歩けばまるで流水をまとっているがごとく生地が動いて新たな表情を生み出すではないか。

 見えないどこかに生地や裁縫の『遊び』をふんだんに用意していなければ、これはできない。

 人間の常識――美意識に当てはめるために、型に嵌めるために、いったいいくつの『型破り』を注ぎ込んだというのか。


 これは、〝鎧〟だ。

 職人たちは、柔らかで気立てのある布地で、あの青き工房騎士の鎧を仕立て上げたのだ。

 伝説の剣豪へ、とある刀匠がひと振りの剣を鍛えて贈った。その者のためだけに研ぎ澄ました一品を――世界中を探せばフィクション・実話を問わずにそんな話を聞くこともあるだろう。

 だが服はどうだろうか。

 彼が入り浸る酒場へ毎日、何年も足を運び続け、闘争に明け暮れる背中をものも言わずに見つめ続け――棲み家に帰り着くとまたいつものように針を持ち、黙々と磨き続けた。

 そんな逸話を保有する貴族はこの場にはなく、しかしてこのすばらしすぎる〝鎧〟にまつわるエピソードを芳しく匂わせ、期待させずにはいられない。そんな存在感を放っている。

 キアスの姿は、彼らの目を惹きつけてやまないものだった。

 そして、それは、彼が噂以上の人物であるという情報をも周囲にもたらす。


「あれは、どこの仕事だ?」


「あのような尋常ならざる仕立てができる工房が存在していたとは」


「そして、そういう『つながり』も持っているというわけか。人外との闘争以外に興味を示さない〝鬼神〟とは……市井(しせい)の評価もまったくアテにならない。そうと分かってさえいれば、物陰からでもひと目見に出向いていたものを」


〝鬼神〟の美しい体格を存分に堪能すると、視線は自然とある一点に落ち着いてゆく。

 胸のポケットに挿された、目も覚めるような青いスターチスの花に。


「その通りだな。見ろ。青き工房騎士――キアス・ブラドッシュは、その名の由来となった色の花を身につけたり示したりすることを嫌うと聞いていたものだが……」


「いやそもそも彼は、特定の何者かに組することはないのではなかったのか?」


「そうだとも。此度の決戦戦力としての王室の打診さえあえなく蹴ったというではないか」


「では、彼を連れてきたのはだれだと言うのだ?」


「…………」


 最初のざわめきとは、おおむねがこのようなものであった。認識が可能な、見聞きしたことがある者たち。言及や類推が可能な者たちについて。

 言及が不可能な者(・・・・・・・・)については――沈黙し、ただただ目を奪われるしかなかった。

 そして、それは、場の貴族たち半数以上を占めていた。

 三人のうち、中央を歩み進む白いシルエット――ひとりの少女の姿に。


「う――つく、しい」


 ぽつり――と。

 歓待のための拍手すら忘れ、つぶやく者がいた。

 隣にいた貴族が見咎めて爪先で小突いて注意するが立ち直る様子がない。しかしそれも無理からぬことであるかと、彼自身もまた視線を彼女に戻すしかなかった。


 それほどの〝美〟が、そこにはあった。

 広間のほんちょっとの気流にも揺れて流れるほどに繊細な、色味の薄い金の髪。――完璧な計算の基に構築されたはずの七色の煌びやかな光を降らせる照明も、恐れおののいて退いてしまったのかと錯覚させるほどに、静謐で高貴な輝きを秘める一色。

 その頭を飾るのは、慎ましやかな、たったふたつの金。

 わずか爪の先ほどの青の宝石を宿した、小指ほどの全長しかないティアラ。

 左の横髪に絡めて垂らされた、ともすれば見逃してしまいそうなほどに細い飾り鎖と生成りの粒のような、ほのかな緑の宝石。

 本来ならばその輝きを以って所有者の品格と威を示すはずの黄金や宝石の装飾が、これほどまでに小さくささやかであることが絶対の正解であると、だれの目にも分かる。美の貴族である黄金宝石が、まるで彼女という真の〝美〟にかしずいているかのようだった。


 衣装もまた同様である。

 フォマウセンとはまた少し違い、こちらは紛れもなく少女のものである白い素肌の胸元と肩を晒すドレスは、まだなにものにも染まってはいない純白。

 高原を走る涼風を思わせるわずかばかりな金の縁取りを施されたその布は、自身が風そのものであるかのように軽やかに、少女にまとわれている。同じ素材で編まれた二の腕までを包むスリーブドレスには多少のひだがつけられ、ドレス本体の軽やかさと相まり宙を泳ぐ羽衣のような印象を与えている。

 唯一の装飾は、その胸元を飾る、やはり親指ほどのサイズしかない深い赤の色を湛えた宝石のみだ。


 そして――その相貌である。

 恐ろしいほど整ったその顔に、化粧はほとんど施されていない。

 目に見えて分かるものと言えば――ルージュを、一本。うっすら桜色に一線、引いただけ。

 ただそれだけのことで、彼女の美しさのすべてが集約され、完成へと至らしめられていた。

 真に美しい者には余計な色も飾りも不要でしかないのだと――ドレスも、装飾も、化粧も――すべてが証明してしまっていた。


 隣を歩くフォマウセン・アーテルロウンにも劣らぬ…………いやむしろ、彼女こそが天の遣いにつき添われて光臨した天上そのものなる存在なのではないか。

 その場にいたほとんどの者にそう思わしめてしまうほどの気品が、そこにはあった。


 彼女が携える、衣装とは一転して色鮮やかな『縫律杖』の存在がその印象をより強めている。

 繊細にして長大な白亜の杖先からこぼれ落ちる、目をみはるほどに青々と茂る葉と色取り取りの花たち。

 その様は、楽園を引き連れて現れた天の子を想起させずにはおかなかったのである。


「――――っ」


 ごくり、と。

 知らず緊張の限界から乾いていた喉を鳴らしてから、ひとりの上級貴族が隣の貴族の腕を掴んだ。大事な式典の最中に巻き込まれてぎょっとした貴族は迷惑そうにしながらも叱責するだけの余裕がない。


「どっ……あれはどこの国の、どの家のご息女だっ!? 聞いていないぞ、あのような人物が出てくるなぞ……!」


「わ、わたしが知るか!」


 彼らだけではない。動揺に満ちたひそめきは、抵抗限界を超えた雷撃のようにどうしようもなく会場中に伝播してゆく。


「いや、あのような娘がいれば話題にならないはずがない。大陸の者ではないのかもしれないが……」


「では、北方大陸か、東方か……?」


 またひとりの上級貴族の喉が鳴る。

 ――ほしい。

 彼女を我が子の伴侶にでも迎え入れられれば。その者は三大陸一の果報者と謳われることだろう。いやあと二十年は若ければ自分が――

 似たような考えを抱く者は数多くいた。

 ぜひ彼女を自分の家に。彼女の出自、家柄、情報を――ほかの家よりも先んじて――

 会場内の貴族たちの動揺は、もはや拍手と奏楽の音だけではごまかしが利かないほどに大きくなってしまっていた。

 ゆっくりと、彼女たちは進んでゆく。




 この場で彼女を知っている者はそう多くない。

 その中のひとり、彼女に服を贈った貴族の男は、王に近い列にあってひとり口の端に笑みを浮かべていた。――当然だ、と。

 初めて彼女を見た時から思い描いていた将来像が見事に当たったという己の審美眼。そして普段気位の高さを誇りとしている貴族たちの動揺。洞察の足りなさ。すべてが心地よい。勝利者の気分だ。

 どこの、何者であるかだと? そのような問いにどんな価値があるだろうか?

 彼女は、彼女なのだ。彼女の師が、彼女の師であるように。

 強いて言うならばドレスと同じく贈った――身に着けてくれた――装飾品が親切に物語ってくれているではないか。青、赤、緑の輝きが、彼女が綴導術士であること以外のいったいなにを示していると思っているのだろうか?

 彼女は、いたいところにいる。ゆきたい場所にゆく。救いたいものを救い、寄り添いたいものに寄り添う。かのウィルグマインと同じように。

 彼女の振る舞いに、怒る者もいるだろう。押さえつけて、つなぎ止めてみようとする者も。

 それがこの場のどれぐらいになるのかは知らない。

 だが――

 ちらと柔和に笑みをたたえる王を見る。

 その結果としてこの国が互いに益なしと見限るのか。彼女たち(・・)になにかを見い出し、手を取るのか。

 見せていただく。




 騎士の列に並ぶアレンティアもまた、スフィールリアが現れたことに多少驚いた表情を浮かべていた。

 しかし、自分の前を通りすぎてゆく彼女が一心に前を見ている横顔を見て、得心した風に体勢を直した。

 目だ。

 並み居る貴族たちの心をも呑み込む彼女の神秘性は、容姿ではなく――食い入るような数多の注目さえものともせずに一点に視線を結んだ気高い態度によって完成されている。それが崩れさえすれば、たしかに彼女は並外れて美しくはあるが、それでも愛嬌にあふれた一少女にすぎないのだ。

 あれは集中している時の彼女だ。彼女の教師によるところの聖域に入っている状態。

<ガーデン・オブ・スリー>にて薔薇に囲まれ、絶望的不利な状況にあってもあきらめず自分に文字通りの全身全霊を預けてくれた時の顔と同じものにしか思えなかった。

 であれば答えはひとつだ。彼女は戦いにきたのに違いない。

 この城、この場に存在するなにかが、彼女の戦いの意思に触れたのだ。だからきた。

 研修中のアイバの言葉が思い起こされて、心底から同意する。

 コレ(・・)と対等に並んでみたい。肩と背中を合わせている自分を感じてみたい欲求を抑え切れなかったから、自分は彼女に剣を預けたいと思ったのだ。それこそが自分が旅の中に見出したいものだと思ったから。


(うしろは任せて)


 だから副官のウィルベルトが聞いたらまた頭を抱えそうな立場完全無視の意思をたっぷりと込めて、アレンティアは、ほんのわずか首をかたむけ彼女に笑いかけていた。

 彼女は、やはり一点だけを見つめていた。




 彼女を知る者が、ここにもひとり。

 玉座――の裏手には、実は玉座を飾る天鵞絨(ビロード)などに隠されて、小さな一室が存在している。

 宗教その他の事情から『王は後ろ暗いことを持たない』という意思を示すため、玉座のうしろには通路などの隠し要素を設けない慣習や様式が多くある。が、ディングレイズ、そしてこの部屋は例外のひとつだ。

 この部屋は生きた人間のためのものではない。本来は王家の祖霊が控える間であり、現王はここから囁かれる助言を受け取って数多くの困難を切り抜けてきた。

 この部屋に今、三人の若い男女が控えていた。むろん生身の人間である。

 部屋は、外から内は見えないが内部から外は見えるようになっている。


「う、美しい……!」


 つぶやきとともに。まるで吸い込まれるように、よろよろと。

 兄が危うく外部からも気取られかねない位置まで進み出る様子を、彼は苦笑とともに見つめていた。仮にも迎える妃が決まっている者が見せていい態度じゃない。


「兄貴、落ち着け。少し下がれ」


「そうですわお兄様。お兄様の背中に隠れてよく見えないじゃありませんか!」


 信じられないことを言われた、とでも言いたげに麗しの美貌を青ざめさせて兄が振り返ってくる。


「お前たち、あれを見てなぜそう落ち着いていられる? 美の結晶ではないか……あのお方は果たして人間なのかな?」


 そりゃ知ってるからな――と、思わず言いたくなる口元を押さえる。

 むしろ途中まで言いかけてしまって失態のフォローを考えるが、兄は詰め寄った妹と取っ組み合っていて聞かれずに済んだようだった。


「だからそれはお兄様が独占してよく見たいのによく見えないせいじゃありませんか。ほらお下がりください、おどきになってくださいスポーンと! わたくしももっとよく見てみたいですわ!」


「ちょ、待った待った、そう言いつつ押したり引いたりする風味で微妙に押してる! 分かった、分かったから。こんな場面でぼくらが押し出されでもしたら大変だよ。スポーンて、それ一番ダメなやつだ!」


「それでは今度はわたくしが一番前ですわ!」


 妹が、きらきらした眼差しを玉座うしろから投じ始めた。

 一番うしろの壁にもたれかかる彼に、珍しく冷や汗を流した兄が並んで怪訝な顔を向けてくる。


「やれやれ……で、珍しく食いつかないんだね。絶対に君の好みのはずなんだけど」


「ふぅん? そうか。じゃあ兄貴にとっても、あの人以上のドストライクってことだな。気をつけなきゃな(・・・・・・・・)


「からかうな。あんな美しい人なら心をつかまれない方がおかしい。保障するよ。見ないのかい?」


「よく見えてる」


「ふぅ……ん?」


 面白がるように、測る視線は無視して。

 彼は腕組み壁にもたれたまま、正面から歩いてくる少女の顔を見ていた。

 視線は一点、玉座の王へと固定されている。ほぼ真うしろにいる位置取りから、ほからならぬ自分自身が彼女と見つめ合っているような感覚さえある。そのため最初からこの位置を譲るつもりはなかった。

 たしかに兄の気持ちはよく分かった。

 あの時は呆れるようなジト目だった――それも悪くはなかったが。

 あんな目で至近距離から見つめられたら魂を奪われてもおかしくないだろう。すべてを差し出してしまいかねない。現にこの位置を動きたくないぐらいだ。


「……」


 だが、すでに彼は知っている。それ以上のことを。調べさせたから。

 口の端は、知らず、つり上がっていた。


(面白い――な)




 いつしか貴族たちの間にあったどよめきは鎮められていた。

 どんな大物がきても気圧されないだけの覚悟はしていただろう。しかし、理解の埒外にあるものに関しては手の施しようがないということだ。


 神代の女性フィースミールに連なる者が連れてきた神秘的な少女。だれにも懐かぬはずの巨大な獣を伴ない、王と視線を絡ませながらも悠然と進んでゆく。

 それこそ、神話の世界にでも迷い込んだ気分だろう。


 実のところ、それは本来隣り合って進むはずのフォマウセンが微妙に歩を遅れさせてスフィールリアよりもうしろに陣取っているせいもあった。キアスも同じだ。

 スフィールリアには王だけを見ていろとあらかじめ含めてある。彼女に『縫律杖』の封印を解いて渡しておいたのも演出の一環だ。身分の差や場の空気に圧されないよう少しでも箔をつけておこうという。


 男も女も関係ない。だれもが目を奪われ、見たこともない美を前に夢見心地になり、文字通り夢中になって手を叩いていた。中には拍手も継続できぬほど心を奪われている者の姿もちらほらとある。胸のあたりの服を握りつぶしながら、通りすぎたスフィールリアの姿を追って横に上にと首を伸ばしている。


 フォマウセンは静かに微笑む。当然だ。控え室でこの子を見た瞬間に受け止めた、衝撃さえ伴った予感に間違いはなかった。

 王城が抱える最上の理容師の手によって繊細な髪に鋏を入れ、化粧を施されたことにより、彼女の印象は激変している。微細な違いだが、完璧(まんてん)と完璧の一歩前(99てん)の間には無限遠に等しい差があるのだ。

 この美しさに加え、王都最高峰である自分と対を成すように最上級法具である『縫律杖』を携えたこの姿。

 もはや、彼らにとっては地位も身分も意味はなすまい。今このふたりがいる場所。ここから先は神域だ。

 その確信に満ちた笑みが、また周囲の者たちに畏敬の念を起こさせる。


「……」


 やがて、たどり着く。奏楽の終わりとともに。

 玉座前。

 先頭を歩くスフィールリアは教えた通りにカーペットの円形文様の端で止まった。しっかりと周りも見えている。

 フォマウセンは内心でうなづいた。

 玉座前を護るように控える大臣数名、そして聖騎士団長たちが、気圧されたようにあごを引くのが分かった。




「っ……!」


 玉座前に到着した三名を前に、法務大臣は瞬時に声を出すことができなかった。

 己までもが気圧されたわけではない――しかし周囲は違う。

 拍手は止み、どよめく声はもはやない。が、動揺はより大きくなって残されている。波の揺り返しのように。

 形式上はこちらが声をかけてから一度ひざまずいてもらわなければならない。だがそれを即時実行してしまってよい空気とは到底言えなかった。

 すっかり呑み込まれてしまって、酩酊したように顔を赤らめている者が多く見られる。中には『まさかそんなことはするまいな』という不穏な気配を醸している者までも。冗談ではない。お前ら全員大口開けながら外に出て水におぼれてこい――と言いたかった。

 とはいえよくない状況だ。許される限り、ひとりでも多くの者が目を覚ます時間を稼ぎたい。それがわずか一秒に満たない幅であったとしても。大臣は儀典庁長官に、この意図よ伝われと祈るに近く視線を注いでいた。


 と黙っていると、列の横合いから若い女性の咳払いが聞こえてくる。位置が位置だったので彼を含めた貴族たちがぎょっとしてそちらに目をやった。

 もっとも玉座に近い位置。列の先頭。来訪者らの真横にいるエスレクレイン・フィア・エムルラトパは、白いドレスの少女に熱的視線を注ぎながら何度も咳払いを断行していた。

 超然としている少女の無表情は崩れなかったものの、身体がぴくりと、わずかに振動するのが分かった。

 空気を読まず、エスレクレインはなおも咳払いを続ける。


「……」


 やがて根負けした(らしい)少女がギギギといった感じでエスレクレインの方にわずか首を向けた。エスレクレインはにっこりと微笑み、彼女に片手を振る。

 少女もあごを揺らすていどに会釈を送ると、エスレクレインも真紅のドレスのドレープを持ち上げて挨拶を返した。満面の笑みだ。

 さすがにどよめきが起こる。


「エスレクレイン様。その……ご存知なので?」


 隣にいた序列二位の大公爵が、口の中で振動を起こすような小声で聞く。こういった場でも聞きとがめられることなく相手に声を届ける必須の特技だ。

 しかしエスレクレインはいかにも普通に返答した。


「ええ、とってもご存知なのよ?」


 その声は静まり返った謁見の間にとてもとてもよく響いたものだった。

 またどよめきが起こる。


(なにを考えておられるのだ!)


 七大大公爵家という同じ序列の中で数えられてはいてもエムルラトパ家はまるで別次元の存在だ。なんならいっそエムルラトパは番外として第二位から序列が始まるのだと言ってもなんら問題はない。

 そんな大公爵家の当主が個人的な知り合いであり、王を差し置いてまで挨拶を交わすほどの間柄だなどと周知すればどうなるか。

 少女に注がれる視線の色がまた複雑になった気がした。

 エスレクレインはと言えば、一月前から楽しみにしていたおやつをついに口に含んだ子供であるかのように喜色満面である。表情が雄弁に物語っている。わたくしがこの中で一番のお知り合いなのよ。

 少女の方はどうだろうか。すでに不遜にも王へと視線を戻し、心が波立った様子はない。

 しかし瞳に見える水分量が心持ち増えているようにも思えた。感動でもしているのだろうか。


(くっ……)


 エスレクレインの闖入もあり、十秒が経っていた。さすがにこれ以上の儀礼の空白はどのような理由があろうとも致命的でしかない。


「……王の、御前でございます」


 儀典庁長官が告げると、女性二名はまず『縫律杖』を収納サイズに戻した。

 次にドレスの両端を持ち――ふわりとシワを作らぬように広げながら、その場に膝をついた。


 あぁ……!


 少なくない落胆の声――というより押し殺した悲鳴か――がおぼろげにこだまする。

 キアス・ブラドッシュは片膝の姿勢だが女性二名は『縫律杖』を前に置き両膝を着いている。古いタイプの跪礼(きれい)だ。現代においては挨拶を捧げるべき格上の者が望んでもいないのに過剰に礼を示すことはかえって失礼とする風潮があるのであまり見ることはない姿勢である。

 が、今回は真逆の方向に働いてしまった。普通あることではない。


 汚してはならないものを地に着けて汚した。

 そんな非難じみた視線がどこからともなく、儀典庁長官へ向け、チクチクと投げられてくる。


(仕方がないではないか!)


 彼でさえ一瞬『過ちではなかったか』という胸の締めつけがあった。

 だがこればかりは本当に仕方がない。儀礼とはそういうものであり、これを行なわないなら儀礼そのものにも意味はなくなるし、双方にとって困ったことになる。儀典庁長官には一切の落ち度なぞない!


「……」


 しかしこの時は王でさえ大変無念そうに首を振っていた。

 居たたまれないように目をつむり、段上の玉座から声をかけた。


「どうか、楽にしてくれたまえ」


 王の言葉を受けて、少女たちが、ゆっくりと立ち上がってゆく。

 法務大臣は内心で胸をなで下ろす。これでようやく予定していた通りの運びに戻れる。

 予定とは、ゆるやかなる排斥だ。

 相手を適度に認め、おだて、持ち上げ――必要な助力だけを引き出したら退出を願う。

 見た目など関係ない。相手の身分が特に高貴なものであるとか後ろ盾があるとか、そういう事実がないことは調査済みだ。そうした輩は得てして欲望から褒美をほしがる。あるいは保身か。

 王に有形無形のものをねだりたがる者なぞいくらでも見てきたし、あしらってもきた。今回もそうするだけだ。定型句の感謝状とともに小金ぐらいなら握らせてやってもいい。だが、そこまでだ。

 もっとも、本当に『国の未来に必要なもの(そんなもの)』なぞを携えているのなら、という前提であるが。

 ともかくこれ以降の主導権(ペース)はすべてこちらが握らせていただく。


「……」


 と思えていた、その瞬間だった。


「王様」


 それまでのたおやかでゆったりとした動作を裏切って、だれの機先も制して、スフィールリア・アーテルロウンがすっくと立ち上がる。

 聖騎士団長たちが身構えたほどに、それは素早く、力強い振る舞いだった。


「!」


 しかし彼女は立ち上がっただけだった。

 背筋を伸ばし、まっすぐ王を見上げる。

 よく通る声で、だれが止める間もなく、はっきりと口上した。


「わたしはテスタード・ルフュトゥムの名代で、王様に取引の提案に伺いました。彼にはこの状況を打破する鍵の用意がございます――」


 無音の衝撃が一同に走る。

 王は、片眉を上げている。


『――――』


「――彼を罰することは愚かな間違いです! 彼の力添えがあれば被害は最小限に抑えられます! 助力を行なう見返りに、彼の罪を消し、彼が望む褒美を与えてください!」


 数秒の沈黙が、謁見の間を支配した。


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