■ 7章 王庭前荘・a(3-30)
魔王の使徒が出現して、四日目の朝。
<ネコとドラゴン亭>までキアスを迎えにいくと、彼は普段通りの戦闘衣装で待っていた。
どうしたのかと聞くと、彼は受け取った服の入った紙箱を扱い切れなさそうに抱えながら、到着までの間に着崩れたりすると困るから王城についたら着つけ師に頼んで着せてもらうのだ……などと言う。
大変弱った様子で白状する彼を見て、スフィールリアは面白おかしく笑った。これなら大切にしてもらえそうである。
しかしながら、わざわざこのために早起きをしてきていたマスターは非常に不機嫌だった。
「これからは、ツケでの飲みはナシにしてもらうかもしれないね」
「…………」
「あははっ、服代も稼がないとだし、キアスさんもこれからは少しはマトモな料金取らないとですね!」
「……その。それの話、なのだが」
「はい?」
彼には非常に珍しく、とても弱り切ってはっきりしない様子で、しばらくもごもごと切り出せずにいた。
ややあって、
「その……だな。実は昨晩、あのあと親方たちから、王族にまで面通りするならだのなんだのと……いろいろと理由をつけられて、だな」
「はい」
「ボタンだのタイだのと、いろいろと高いものにつけ替えて追加……されて、しまって……あと手入れの道具だのなんだのと…………」
「……」
キアスは観念したように、ぐっと頭を落とした。
マスターはもう笑いがこらえ切れずに震えている。
「……金がない!」
スフィールリアも笑い、財布を取り出した。
「おいくらですか?」
絶望的に落ち込みながらキアスが述べた金額――金貨四枚を、そんなに気にしなくていいのにと思いながらスフィールリアは取り出した。同じだけの金額と言われたら、さすがに支払い能力は別として後日問い詰めにいかなければならないところだったから、ほっとしたぐらいだ。
が、キアスは差し出した金貨を非常に申し訳なさそうに差し止めて、
「…………その。三人で分担の分だけ分けるので、銀貨でと言われて……」
「後日、崩して持ってきますね」
あの老人たちも容赦がない。さすがに苦笑しながら金貨をしまうと、彼はついに耐え切れなくなってか、深く頭を下げてきた。
「まことに――申し訳ない」
「いいですいいですって。キアスさんだけ服がなかったらあたしも個人的に困るし。昨日も言いましたけど、必要経費ですよ。だいいちキアスさんが本来の相場でお仕事したら、こんなのすぐじゃないですか!」
「……いや。それではあまりにも申し訳が立たなさすぎる。親方たちの言ではないが、これからは最低料金の半額未満でいい。借りた額に足りるまで、好きなように使ってほしい」
「……」
しばし眉を下げて黙り、スフィールリア。
腰に手を当て、昨晩のように宣言した。
「ダメです! 最低賃金だったらもうキアスさんにはお仕事頼みません。借金も永遠にこのままです!」
「……!?」
「キアスさん、もうちょっといい生活しましょう。いつまた今回みたいなことがあるかもしれないし。だいいちそんな料金でお仕事して、ほかのまっとうな賃金でやってる戦士さんたちからいい目で見られてないじゃないですか。でも同じチームは組まないからって。いざっていう時の、とっておきで使い切りの、捨て駒用みたいな見られ方して。そんな使われ方してちゃダメですよ。自分から損ばっかりするやり方で、ほとんどだれも得してないじゃないですか」
「い、いや。いろいろと痛み入る話だが、しかしそれについては、いくら君の話でも――」
「そうですか? たしかにそうかもしれないです。あたしもキアスさんの昔のことについて踏み込むつもりはないですけど。でも――あなたの価値は、あなただけが決めるものじゃない。そうも思います」
「……」
「あなたのことを見ている人はたくさんいます。親方さんたちの服だって、そうじゃないですか。ずっとずっと待っててくれて、手間をかけ続けて、うしろで見守っててくれてて…………『あの日の原型はもうない』だなんて言ってたけど、あたしはそんなことないと思います。その服の〝価値〟にふさわしい人でいた方が、いいんじゃないでしょうか」
キアスは、無言で考え入るように、紙箱を見つめていた。
「……」
「偉そうにごめんなさい。でも、キアスさんがどういうつもりでいても、その服に嘘をつくやり方をしたら、いつかキアスさんがすごく嫌な思いをするんじゃないかなって。そんな気がしたんです」
「そうなのかも――しれない」
「あたしとしても、何度も頼っておいてこんなことは言っちゃいけないのかもしれないんですけど、同じチームを組まないキアスさんに何度も融通を利かせてもらっていると、だんだんほかの護衛職さんに頼みづらくなってくるって事情もあるんです。
それに……あたし自身、そんな素敵な想いが込められた服を贈られるようなキアスさんを、貸しがあるからって今までみたいな賃金で使い倒すのは嫌だなって思いました。さっきは不用意には踏み込まないって言いましたけど、でも、知らずにその人やその人を大切に思ってる人の尊厳に関わる部分を踏みにじってしまうのもなるべくお断りしたいところです」
「ああ。――ああ。その通りだ」
「ですので、もしも次以降の賃金について納得いただけないなら、キアスさんへの依頼は今回限りにしようと思います。せっかく今までいろいろと気を回してもらったのに――ごめんなさい!」
きっぱりと頭を下げた彼女へ、キアスはひとつ、たしかとうなづいた。
「いや。すべてが君の言う通りだ。なにからなにまで痛み入る――申し訳なかった」
今度は、彼の方が深く礼をした。
頭を上げてから、彼ははっきりとスフィールリアへ目を合わせ、もう一度「本当に申し訳なかった」とつぶやいた。
「わたしは、わたしの都合だけを押しつけていた。今まで、ほかの都合を持つ本当にたくさんの人間に、不都合を与えてきていたのだな……」
「……」
「だが、この服を受け取って――いや。この服のことを知った時点で――もう、逃げることは許されなくなったのだと思う。そうでなければ、そんなやり方でやってきた『今まで』さえ否定してしまうことになる。わたしにはなにも残らない」
「そんなことないですよ」
キアスは静かに笑ってかぶりを振った。
「君が言うならそうかもしれない。だが、そういうことにしておいてほしい。申し訳なかった――これからは、君の申し出てくれたやり方でやっていってみようと思う。いきなりではむしろ今まで以上の反感や戸惑いを招くだろうから、徐々に。という形には、なると思うが」
「……!」
スフィールリアは表情を輝かせた。
「ついては、借金返済のための依頼についても滞りなく回していただきたく、切にお願いしたい」
再び頭を下げてから、次に彼は、少しだけ気恥ずかしそうに、
「それに、わたし個人としても、そのだ……君のような人間との関係が、まだ切れずに続いてくれるのなら、うれしく思う……」
「――はいっ。これからもよろしくお願いしますねっ!」
うれしくなって、スフィールリアは渾身の力でうなづいていた。
「高いよ? 彼ほどのランクの、本来の仕事となると」
マスターの茶化す声に、スフィールリアはファイトポーズを取って意気を示した。
「一日でも早く相応しいランクになれるようにがんばりまっす!」
「……だが、困った時はまずは遠慮なく相談してほしい。かならずしてくれ。わたしの手の届かないところで友人に去られてしまうのは、もう心底からゴメンなんだ。そのためならツケでもなんでも融通は利かせる。だから――絶対にお願いしたい」
「分かりました」
きつく目を閉じて頭を下げられては、スフィールリアもこれ以上の押しつけはできなかった。
真摯にうなづくと、キアスは心から安堵したように微笑んでくれた。鬼神、闘神などと謳われてはいるが、彼には優しい表情が似合っている。そう思った。
「じゃあ、これも遠慮なく渡してよさそうですね」
「うん?」
彼女がバッグから出した長方形の紙箱を受け取り、中を見て……キアスが見る見ると目をみはってゆく。
そこに納まっていたものを取り出す。横で見ていたマスターも「ほう」とうなる一品だった。
それは、スターチスの花を象ったブローチだった。
美しい艶を持った石が全体的には淡く青味を帯びており、深い紺色から白色に向かって、穏やかな諧調を描いている。まるで、夜明けの空の色を示すように。
青き工房騎士。キアス・ブラドッシュを象徴する花だった。
控えめながら上品な曲線を描く金の飾り櫛に取りつければ、今回彼に仕立てられた服の胸に挿すこともできる。
「これは――」
「お守りと、お祝いです。これからのキアスさんへの。デザインは……コンセプトだけ伝えてアリーゼルに丸投げの特急仕事なんですけど。素材と練成はあたしが。今できる心づくしにしたつもりです」
「……」
「これからすごい人たちの前に出るんだし、迫力を利かせるならやっぱりコレがないと! ですよ! たっぷり胸を張ってお仕事お願いしますねっ?」
キアスは、まだしばらく、手の中の品を眺めていた。
そしてかみ締めるように包み込み、うなづいた。
「約束しよう。大切にさせてもらう」
「じゃ、いきましょっか!」
「ああ」
「本当に剣はここに置いていくのかい?」
「ああ。あんなモノは、どう考えても城の中まで持ち込ませてはもらえないだろう。見ず知らずの人間に預けて物珍しがられるぐらいならここに置いていった方がマシだ。よろしく頼む」
「いいけどねぇ……言っておくが、ちゃんと取りに戻ってきておくれよ? あんなモノをどかすのはさすがに骨が折れるからね」
キアスに目を配られて、スフィールリアはマスターへ向け、びっと手を挙げた。
「善処しまっす!」
「だ、そうだ」
苦笑するマスターに見送られ、スフィールリアたちはフォマウセンに合流するべく王都の坂を登っていった。
◆
「困ったわ」
戻ってきての姉弟子の第一声に、スフィールリアは早くも計画が頓挫しかかっていることを察した。
王城の入り口前にて合流を果たし、いざ往くかと意気込んで入場許可の審査を受けにいったところ――受付窓口から許可が出せないと言い渡されてしまったのだ。
フォマウセンが何度も自分の名前と、約束の概要と、約束をした上級貴族の名前を出しても、申し訳なさそうに首を横に振られるばかり。
埒が明かないとフォマウセンがスフィールリアたちにその場で待つよう言い渡し、強引に城内まで強行突破。しばらくして戻ってきての言葉が、それだったのである。
「ダメだったんですか?」
がっくしと美しい顔を傾けながら、フォマウセン。
「約束をしてくれた方にはどうにか会えたの。どうやら彼とは別の思惑を持つ部署に横槍を入れられてしまったようでね? なんとなく検討はつくし、本当に心底といった風に謝られてしまったので嘘をつかれていないのは間違いないのだけれど……はてさて困ったわ?」
「……ほげぇ~」
「待って。待ってね? そんな声と顔して見ないでちょうだい? 姉的な存在としての誇りとか威厳というか、プライド的アレみたいなものにビンビンときてるわ?」
フォマウセンは耐え切れない風に片手で覆った顔を逸らし、もう片方の手を出して牽制までしてくる。
「あのね? 本当にね? 術士としての階梯や名声が高いことと、政治的な発言力や権能の高さは直結しないのよ。よしんばそういったものを持っていたとしても、正規の道のりで、正統な立場を得ていなければ、口を挟めないものなの。ましてやこういった事務的な手続きが必要なことがらではなおさらねっ?」
「そ、そんなつもりじゃないですけどもぉ……でも、ひょっとして、え? それじゃああたしたち、ここで回れ右して帰らなきゃいけないんですか? こんなお話にもなってない段階で? ほんとに? え?」
途方にくれて――まさに途方にくれて――スフィールリアは信じられないといった気持ちを、整理し切れない言葉そのままで表現していた。フォマウセンの気持ちはよく分かる。自分だって今、うしろにいるキアスの顔を見られない。
あんなに格好つけまくっておいて、王様にひとこと言ってやるとか大見栄まで切っておきながらである。このままでは超安全に彼を剣の下まで帰すことになってしまう。いや、安全なことは別にいいのだが。とにかくだ。
このままだと、すごく、かっこ悪い。
「……それは、わたしの意地が許さないだわよ…………」
長く、静かな息を吐き出し、フォマウセンの顔色は変わっていた。
ちょっと据わった目で、
「……」
「ふ……ふふ、ふ! たしかに当<アカデミー>は、今までに続く大きな改革期において、数多くの屁理屈と、有無を言わさぬ実績を以って、あなた方の口を塞ぎ、時に開かせ、莫大な予算と無理を押し通してきた。……だけどね、それ以上の信頼と実利をも生み出してきたつもりだった。それをこんなにも簡単に、握り潰させるとは思わないでいただきましょうか……!!」
「学院長、こわいです」
ぎっ! とフォマウセンはそびえ立つ王城の威容を睨みつけた。
「そうだ、わたしは栄えある王立<ディングレイズ・アカデミー>学院長! 誇り高くも偉大なアーテルロウンの名に連なり、あの人から学院を受け継いだ女っ! このわたくしを無視して、成り代わって、学院を御せるおつもりにはならないことねっ!」
「……」
言い切ってから。
ぷしゅーと音が聞こえてきそうな感じで元の状態まで力を抜いていったフォマウセン。
スフィールリアの肩に手を置き、なんだかちょっと疲れた風味で、言い渡してきた。
「……と、いうわけだから。これからちょっと進めるところまで進んでみて、話ができそうな知り合いを捕まえてみるわ? なんとしても陛下までの道を作ってみるので、それまで離れすぎない場所で時間を潰していてちょうだい。それまでドレスを濡らさないようにね? 王城の敷地内だったら感知できるから出ないこと。ごはん食べててもいいわ? はいこれお小遣い。退屈でしょうけど、ごめんね?」
「あ……はい。うっす。はい。大丈夫ですけど……先生は、大丈夫なんですか?」
フォマウセンは勝気に片目をつむって笑いかけてきた。
「わたしをだれだと思っているの?」
「あたしたちの学院長っす!」
「よろしい。ではね」
つかつかと歩いてゆく。
フォマウセンの姿を見た衛兵たちが「またきた!」といった感じでうろたえているのが見える。
「……」
それはともかく。
スフィールリアは照れ隠しで頭をかきながらキアスを振り返った。
「い、いやぁ~。なんだかすいませんね、いきなり段取り狂っちゃってて」
「わたしのことは気にするな。それより君のドレスだが、わたしが持っていようか? たしかに濡らすわけにはいかないだろう」
キアスが特大のレインコート(彼を雨から防御できるサイズの傘がないのだ)の前を広げて、自分が抱えている紙箱を示してくる。一緒に抱えていようかという意味だ。
「すみません、お願いします」
ドレス一式を収めた紙箱を袋ごと預け、スフィールリアは、自分たちが立つ王城の玄関口を見渡した。
雨に煙る広大な敷地は、以前アレンティアと訪れた時とは打って変わって、ほとんど人の姿は見られない。一般人の姿は皆無だ。まぁ、当然だろうが。
「お金もらっちゃったんですけど、ごはん食べられる場所なんてあるのかな?」
「敷地内に、見学者・訪問者向けに開かれたレストランがある。宮廷の料理を体験するというコンセプトなので少々お高いそうだが、それを見越した金額を渡していただいたようだな」
「おお……!」
「こんな時に開いているかは疑問だが、いってみるか?」
「いきまーす!」
元気よく手を挙げフォマウセンに感謝の念を送りながら、店に向かう。
王城外壁の上階部分、正面門の真上に居を構えている。真下には正面門の広場と、右手には壮麗な王城を見上げ、左手には王都の景色を一望できるという好条件だ。
店は営業していた。客の姿などひとりとしてないというのにまばゆく明かりを灯し、スタッフの配置は抜かりなく、塵のひとつも落とさずに自分たちを待っていた。宮廷の名に恥じぬプロの矜持を感じさせる光景だった。
店内のフロントまで案内されると、給仕長という肩書きの紳士が交代した。
現在ひとりも客がいないこと、そのためどの席に着いてもらってもかまわないことなどを冗談めかしながら告げられ、次いで青き工房騎士キアス・ブラドッシュを迎えられた誉に一番よい席へ案内させてほしいと提案され、あれよあれよという間に通されてしまった。
そこは店舗の最奥部、テラスのように半円形にせり出した外壁終端部。
外壁は分厚く店のある上階でも二十メートル幅はあるのだが、この位置の席なら、左右の景色を同時に見ることができる。いつきても埋まっている最高の席だそうだった。
「大仰だな、しかし」
「これもキアスさんの価値ってやつですよー。役得、役得っと~」
「ふ、む……」
「さてー! 好きなもの頼んじゃいましょーよ! 学院長はお金持ちなんだしハンパな市民感覚で遠慮しても損するだけですよ!」
「そうさせてもらうか。だが謁見のことを考えると、体型を変えるほど食べてしまわない方がいいだろうな。特に君は細いからな」
「うぐ」
だが彼女の自制は打ち砕かれた。
料理長という人が出てきて、保存が利かない食料があり、腐らせて処分するぐらいなら振舞ってしまいたいからという理由で格安にて昼向けのコース料理の提供を申し出られてしまったのだ。
渡された金額に不足はまったくないというのに、格安という言葉に惹かれて了承してしまった。
「……キアスさん。ボーリューミィなやつは半分食べてください」
「……分かった」
ちなみにその際、向かいの城壁終端にあるテラスのガラス張りの向こうで、こちらの料理長および給仕長と同じ格好をした男性たちが悔しそう張りついている姿を見かけた。
「ああ、愚弟です」
「愚兄でございますな。なんという滑稽な姿」
当然、悔しそうな彼らのうしろに客の姿は見えない。
「向こうにもお店ってあったんですね」
「……わたしが聞いていたのは、こちらの店だけだったな」
「はっはっはそうですかそうでしょう。あの青き工房騎士殿がこちらを。……はっはっは!」
「これは愉か、よい宣伝材料」
「……」
「……」
「では、腕によりをかけて当たらせていただきます」
「彼らの愉快な姿を眺めながら、どうぞくつろいでお待ちくださいませ」
思いっきりくつろげない言葉を吐いて二名が去ってゆく。
「魔王の使徒の真上で、よく睨み合ってられますよねぇ!」
「言っただろう。ここは、並ならぬ者たちぞろいだと」
「門前でこれだと、王様はどうなるんだろ……ああ、あたし自信なくなってきたかも……」
スフィールリアは頭を抱えた。そもそも、これから乗り込んでやるぞという気概をたっぷり込めてきたのに初っ端からおあずけを食らって、時間が経てば経つほどに不安と緊張が高まってきているのだ。
「ディングレイズ王、か」
つぶやきとともに顔の向きを変えるキアスに合わせ、彼女もまた王城の姿を見上げていた。
「……」
暗雲の下にある王城ロ・ガ・プライモーディアルは、普段であればこんな薄暗い日であってもライトアップが施され、蒼穹との組み合わせとはまた違った美しさを誇っているはずだった。
しかし、今は真下にいる魔王使徒の気を極力引かないために、用いられる精霊灯のほとんどは落とされ、最低限の灯りだけが残されている。その最低限の灯りというのは、主に空を往く空中警備やワイバーン便にそれ以外の野良の飛行生物といった者たちの王城への激突事故を防ぐためのものだ。今は後者ふたつは除外されているので、空中警戒勢力のためのものということだ。
――灯りのない王城は、そのあまりに巨大な概観に同様のスケール感で刻まれた文様や、そのスケール感を遠近法にてさらに際立たせるようにして並ぶ小さくたくさんの窓、そして叩きつけられる雨に煙ってぼんやりと古ぼけたようにかすみがかった姿から、古の偉大なる神殿のような佇まいを見せている。
こんな王城というのも、これはこれで乙なものがある。
「王について、君はどれぐらいのことを知っている?」
問われたことで一度視線を戻すも、彼の顔の向きはそのままだったので、スフィールリアもまた視線を王城に戻してから首を左右に振った。
「あんまりは。少しは予習してからきたかったんですけど、そこまでは時間が取れなくて」
「ならば、いい機会だ。わたしが知っているていどの知識でよければすり合わせていってくれ。これから話し合おうというのなら、相手を知っておくことはなによりも重要だ」
「ありがとうございます」
向き直った彼女へ、今度は、キアスも顔を向けてうなづいてきた。
「と言っても、わたしが知っていることもあくまで王都民の一般常識という域を出ないがな。だが、これだけは言えることがある。まず最初に君が言った――王とは何者であるかという点だ。少なくとも、ただ者ではあり得ない。歴代ディングレイズ王族すべてに言えることではある」
「……」
「当代ディングレイズ王……エストラルファ・ファル・ディムオール=ディングレイズ。彼は三十二代目の国王だ。歴代の傑出した一族の中でも治世者としてはさらに秀でた王であると言われている。絶対王政の世であれば、おそらくだれよりも優れた君臨者として、今のディングレイズ王国にも比肩し得るほどの礎を築き得ただろうとも」
「世であればって……お、王様は、一番偉い人じゃないんですか……?」
うなづく。
「現代のディングレイズにおいて、王は絶対者ではない。主権者は国民であり、市民は国政を左右する力すら持っていて王らの政策すべてに対して基本的に裁量権を有している。市民の権力は設置された市民評議会が集約して代表しており、これの評議員は国民からのみ、国民の声のみによって選出される。これに関して王が持っているのは、国民によって選出された者に議員の席を与える任命権のみだ。ものすごく砕いて言えば、国政を左右する力の半分は我々国民自身が握っている形だ。もう半分はこの王都における中央貴族会議。王というのは、さらにその中でのたったひとりのことにすぎない。王とは、政府の代表者にすぎないのだ」
「……」
「だが、その上で、当代国王の持つ求心力は尋常ではない。彼が歴代から受け継ぎつつも行なって実現してきた多くの功績は、今この場でわたしが知っている範囲のみで語ってもこの場の時間が足りなさすぎるほどだ。少なくとも言えることは、彼が目指して行なおうとする統治には現状としてほとんど口を差し挟む余地がなく、市民評議会も貴族会議も含めて実質上、王個人に忠誠を誓っている形と言って差し支えない。実際に市民と王室の間に起こる衝突も六百五十年の歴史の中でもっとも少ないと言われているほどだ」
それが本当なら尋常な話ではない。
他者に権力を譲り渡した状態で、その者たちの心と忠誠を一身に集める。美談の一種としてなら簡単に飲み込めるが、現実問題として組織というのが決して一枚岩にはなり得ないことぐらいはスフィールリアにだって分かる。彼女が出てきた人口百名ていどの町会でさえそうだったのだから。スケールが違いすぎて比べるのもむしろ変かもしれないが。
「権力ではなく、能力と、人格で慕われているんですね」
うなづくキアスの表情にも、そのことに対する疑いは微塵も感じ取れなかった。
「そうなる。彼は人々より〝暖王〟と称され、その知性と強力なリーダーシップにも関わらず、驕らず、どのような者にも敬意を払い、しかして卑しき悪意にも決して屈しない。ある時、視察に訪れた王へ路地裏から飛び出し、彼の顔につばを吐きかけた浮浪者がいた。――しかし王は怒り狂った警備や町の住民すべてを制し、すべての視察を中止し、その場に座って彼の吐き出した批判すべてに耳を傾けた。聞き終えると、国の現状を教示してくれたという礼とともに、浮浪者に深く頭を垂れた。という話もあるぐらいだ」
「聖人君子ですか……」
「それだけで終わっていればな。だが王はその者に対してはなにも施しを与えることもなくその場をあとにした。その後、視察の日程を終えた王はなぜか王都へ帰らず、さらに一ヶ月間ほどその町周辺の地域を、そして近領を回遊してすごした。とも回りの者だけを連れてな。
それを知った市民たちは不快を表明して王室を糾弾した。執政の放棄であると。だが市民たちが責めたのもあくまで当時の王の姿勢にすぎない。王はすでに自分を抜きにした場合の執政の機構も作っており、実際に執政に生じた滞りは皆無だった」
「……」
「一月経ち、王が城に戻ると――視察先であった町から、スラムが消えた」
「……へ?」
「新しい政策を王は打ち出したんだ。根回しも終えており、戻って一月も経たないうちに計画は始動した。当時彼につばを吐きかけた浮浪者も金を得て、浮浪者ではなくなった。それだけではない。その町だけでなく、その領地、さらには周辺の領地すべての町から、浮浪者であった者はほとんどいなくなった」
まったく意味が分からない。スフィールリアはただ絶句して話の続きを待った。
「ただ金を配ったという話ではない。まるで魔法のように、新しい〝事業〟を見出し、興してしまったんだ。生み出された〝仕事〟は莫大な富を生み、貧困者たちは職を得て、近隣の領地は潤い発展していった」
「うっそ……」
「信じられるか? わたしには難しい話は分からないが、充分な民たちが潤うだけの〝仕事〟を、たった一月土地と文化に触れて見て回っただけで作り出してしまったんだ。しかも、軌道に乗せて成功させてしまった。
――それを受けて宮廷の内部にも事業対象の領地に対する税の引き上げを唱える声も挙がったが、王は事業に対する特定税の作成と、それに対する規定通りの徴税しか認めなかった。実質上の税率は据え置きということだ。王は領主たちに余剰発生した富については各個の裁量において福祉や新たな公共事業に注いで今の事業が枯渇した時に備えるように打診した。領主たちは頭を垂れて承諾した。王は、自分が事業の発案者であり、発見者であり、最大の出資者であったにも関わらず結局最後まで個人的利権をひと欠片も主張しなかった」
「……」
「まぁそのような実話をいくつも持つ人物だということだな。つい話が逸れてしまった。今は、彼個人について知り、その彼を見る周囲の目を知ることが大事だろう。……この時点でディングレイズ王がただ者でないことは、もう分かるだろう?」
「そ、そうですね」
「だが光があれば影もある。そういった面でも彼らはおそらく普通ではない。今しがたの話を聞いて、君が貧しい辺境の領民か領主であったなら『そんなことができるならぜひ自分のところにも』と思わないか?」
「――たしかに」
――そう思うかもしれない。
「実際に、彼や似たような功績を持つ歴代の王たちに対しては常にそういう招聘の声が途絶えない。しかし彼らディングレイズ王がそれらに答えて各地を訪れることは、むしろ少ない」
「ま、まぁそれは……キリもない、でしょうしね……」
「それもあるだろうな。加えて、いくら彼らが尋常ならざる知性と傑出した才覚を持っていたところで、まさか本当に魔法そのもののように、訪れたすべての土地へ富を生み出してやれるわけもないだろう。彼らだって限界のある人間だし、やることには種も仕掛けもある。種すらない場所には芽も出ないだろうし、そんなことばかりしていて統治自体がおろそかになっては本末転倒でもあるしな。しかし今わたしが言いたいことはそれではない。……彼ら歴代ディングレイズ国王は、例外なく、ほとんど王都を出ないんだ」
「えと、王都を愛してる、的な?」
キアスは苦笑した。
「いや、違う。違ってはいないのかもしれないが。より正確には、王城……〝玉座〟を離れない、というんだ」
「……?」
スフィールリアは首をかしげて素直に疑問を表明した。
どうにも話の飛ぶ先が読めないというか突拍子もなく感じるのは、別にキアスの話し方が悪いというわけではなく、彼ら王族自体が取り留めようがなくて不思議な存在だからなのかもしれない。
実際、続きを話すキアスの顔にもうまく話せないことをむずがるような、苦笑めいた色がある。
「実はわたしもよく分からない。怪談めいた噂話のレベルだ。だが実際現実としてディングレイズ王は、即位してからの人生の半分以上は物理的に玉座の上ですごすのだそうだ。これも本当なら地味に尋常でない話だ。王にだって執務室ぐらいあるし、こなすべき会談や表敬も多いだろう。むしろ玉座に座っている時間の方がはるかに少なくてはならないはずだ。
しかし王は、時には書類仕事も執務室ではなく玉座で行ない、会議なども参加者に頭を下げて机を運ばせて謁見の間で開き、さらにある時は城が公務を終えて翌日の開城時間になるまで座ってすごしていて出勤した家臣が驚いたという話まである。どこまでが本当かは知らないが……彼らが玉座を離れられない理由があるのだ、という噂話だ」
「あ……」
スフィールリアは、思い出していた。アレンティアの依頼に関わった時のことだ。
王城にまつわるさまざまな不可思議な怪談。それに関わる王族たちの名前。その中で実際に出会ってきた、実在するいくつかの事象。
予言をもたらす肖像画の回廊。封印された〝霧〟。<ガーデン・オブ・スリー>へと至る門――
「……」
それらと今の話を直接結びつける要素はない。
しかし、『なにか』が実在している。今聞いた話もそんな王城にまつわる〝逸話〟のひとつなのだと確信させるなにかが。
見るものすべての目を焼き、焦がれてしまいそうなほどにまばゆい光。
そして、同じだけの圧力を持って潜んでいる影――謎。
コインのように表裏一体として存在しているそれらを、同時に統べているのが……彼ら。ディングレイズ王族なのだ。海外の大国たちさえもが一目を置いて敬意を払う一端もきっとそこにあるのだろう。
そもそもアリーゼルなどから講釈された話では国の歴史の始点からして王家は偉大だった。かつてこの南方大陸を統治していて今では王家に忠誠を誓う第一位の大公爵であるエムルラトパ家から大陸の統治を正統に引き継ぎ、建国の際には綴導術士の始祖フィースミールもその〝契約〟に関わったとまで言われる――
スフィールリアが焦がれてやまないフィースミール。その彼女が約束を交わした一族の末裔。
それが、ディングレイズ王家。
「そんな人たちが、どうして……」
スフィールリアは腿の上に置いた手を握り込んだ。
そんな彼女に、キアスが静かな調子で告げる。
「たしかに彼らにまつわる謎や影の話も多いが……しかしこのことが示す問題の本質は、それらを抱えてなお、彼らの選択した性質が〝善〟であるというところにあるとわたしは個人的に思う」
「……」
「彼らは絶対な聖人君子でも完全者でもないが、しかしだからこそ、彼らが実現しようとしている治世が紛れもなく我々全国民の未来のためであると信じることができる。少なくとも言えることは、王は、善を為すための悪を選ぶことはあっても悪を為すために悪を選ぶ者ではないということだ。そして彼に忠誠を誓う臣下たちも、それが分かっているからこそかしずいている」
少し間を置いて、彼の顔を見つめてから。
「キアスさんは……キアスさんも。王様のことを尊敬しているんですね」
笑いかけられて、キアスは少々気まずそうにどもってから……認めた。
「む……仕事は、するぞ。それは間違いなく約束する。信じてほしい。…………だがそうだな。君には嘘はつけない。わたしは関わりは持たないが、個人的にこの国の王に敬愛の念を抱いている」
「……」
「うらやましい、と思っているんだ。わたしは夢を語り合ったたったの数人さえ護れなかった。しかし彼らはわたしなぞよりもはるかに重く圧倒的な数の生命と責任を背負っているにも関わらず、こんな小さな手なんかはるかに及ばない大勢の人々を助け、その使命を果たし続けている。その彼らの庇護の下に生きて、職を得て……ほかのだれに敬意を払えばいい?」
「分かります。あたしだって今回の用件がなくって今の話を聞いたら、素直に尊敬していたと思いますもん」
「そう、だな。そうだろうと思う」
キアスが同意して彼女を見るその顔は……王を語った時とまったく変わらないものだった。
「先ほど、当代王の求心力はそれほど高く汚点も少ないという話をしたが……だからこそ、なのかもしれないとわたしは思う。魔王の使徒が召喚されたことの、この国にとっての〝意味〟というのはわたしも聞いている。……だからこそ、そんな王へ致命的な泥を投げつけた者を許せない感情もあるのではないだろうか。王自身ではなく。王の周辺にいる者たちが……だ」
スフィールリアは黙して、キアスの語った言葉を反芻した。
王個人の持つ力は一部でしかない。そのすべての力と心は自らの意思で王の下に集い、歩を進めている。
彼らを見ずして、王の説得は果たされないのかもしれない。
そして王は、悪を為して人を殺す人物ではない。そんな彼を信頼した傑物たちが、玉座の下には集っているのだ。
「ありがとうございます、キアスさん」
頭を下げたスフィールリアにキアスがすべてを察した風でありつつも、問いかける。
「もういいのか?」
「はい。向かい合うべき人たちの、向かい合うべきな姿を見誤るところでした。でも、もう大丈夫です」
「そうか」
「そんな人たちなら、きっと、分かってくれると思います。これからお話することが多くの人たちを助けるものなんだって。少なくとも、あたしにそう信じたいって思わせてくれるお話でした。だから、もう絶対に負けません」
「ならば、君が全力で前だけを見ていられるよう、わたしも全力を尽くそう。なにものにも君に手出しはさせないと約束する。それがたとえ、権力であろうが、武力であろうが、」
「……」
「王であろうとも、だ」
最後にキアスが見せた笑みは、優しく、頼もしくもあり――しかし今まで見たこともないぐらいに恐ろしい力も秘めているように思えた。
さすがのスフィールリアも一瞬だけ底冷えして硬直した。
次ににへらっと笑って茶化すといつもの彼に戻ってくれはしたが。
「……争いなんかにならないのが一番いいですけどねぇ~」
「まったくだな」
王宮の昼食は最高に美味しかった。
しかしゆっくりと食事を終えてもフォマウセンからの連絡はこず、愉快そうなシェフたちが次から次へと新メニューの試食を勧めてくるので、このままでは本当に衣装が着られなくなってしまうと危惧したスフィールリアたちは雨の中の王城敷地に退散することになった。
今度はあたしが案内しますよと言ってスフィールリアたちが向かったのは、門前敷地の隅にある小庭園だった。
以前にアレンティアに連れられてきた時に迷い込んだ場所である。
ここなら小さな屋根つきの休憩所があるのでだれにも邪魔されずに時間を潰せると思ったのだ。
「おやおや、かわいらしいお嬢さん。またお会いしたね」
入り口をくぐって少し歩いたところで出くわしたのは、以前と変わらぬ立派な衣装を身にまとった老人だった。
ジョウロを手に、傘も差さずに庭の手入れをしている。
「ああ、おじいさん。こんにちは、こんな時でもお庭のお手入れですか?」
歩み寄ろうとする彼女の肩を、キアスが存外に強い力で引き留めてくる。
彼の顔は緊張したように汗ばんでいた。
「キアスさん?」
「待て、スフィールリア。この者……いや、この御仁は?」
「ええっと、この人は」
言いかけて、なんと説明しようか一拍だけ口ごもる。
この庭を管理しているらしい人であること。以前に親切にしてもらったこと。
はっきりとしたことはひとつも把握してはいなかったが、少なくとも危険な人ではないということを伝えようと決断したところで、雨の中の老人が立ち上がってキアスに向き直った。
「なに、『悪いもの』ではありません。自分で言うのもなんだとは思いますが」
「っ……」
言われて、キアスの緊張がさらに高まるが……ちらと見下ろしたスフィールリアがうなづくのを見て、力を解いていった。
「おふたりともずいぶんと気を張っておられるようだ。この王城は、国民皆にとって心寄せられる場所であるとよいのだが。まだまだ、我々は力不足のようだ」
「あっ、いえあの! ……それは、今のあたしたちが、ここの人たちにとってよくないものかもしれない……から。っていう、意識があるから……かも」
「……うん?」
表面上は首を傾げつつも、すべてを見通せている風な不思議と力強い眼差しを老人は見せている。
スフィールリアの心は自然と、この優しげな老人の姿に惹かれていっていた。
雨の中、見つけた小さな温もりに、子猫が慎重に寄り添ってゆくように。
「……あの。少しの間でいいので、ここで雨宿りをさせてもらえませんか? 待っている人がいるんです」
「もちろんかまわないとも。なにか、大切なご用件があったとお見受けするが」
「は、はい。王様に謁見をお願いしたくて……でも止められてしまって。それで今、知り合いがもう一度説得に向かってくれているんです。だから、敷地内で待っていないと」
「それは大変だね。よろしければ、わたしにもお話を聞かせていただけないかな?」
「は、はぁ……いえ! 場所を貸していただけるんですから、もちろんお話はします!」
老人は優しくうなづき、休憩所のある方へふたりを手招きした。
「それは困ったね」
「はい……」
十数分後、すべてのあらましを語り終えたところで、老人は鷹揚にうなづいて彼女の労をねぎらってくれた。
「でも……結局ここの人たちのだれも、あたしがくることなんて望んでいないのかもしれないんですよね。みんなが、あたしのしたことに怒ってて……迷惑だと思ってて。お願いだからもうこれ以上、自分たちと王様の邪魔をしないでくれ、って。言われてるような気がしちゃって」
しょんぼりとうなだれたスフィールリアが、つい、フォマウセンと別れてから感じていた弱音を漏らす。
いつまで経っても彼女の姿が現れないことが大きく響いていた。
彼女ほどの人物が、今、これだけの時間をかけて必死になって自分を導こうとしてくれている。なのにそれでもうまくいっていない。その証明であるような気にさせられて。
「……そのようなことはないよ、お嬢さん。あなたはあなたが手をとった未来が、より多くの人たちを助けると信じてくれたから、ここに訪れたのだろう?」
「……。はい。それは、もちろんです」
スフィールリアは顔を上げて老人にうなづいていた。
そのこと自体をあきらめたつもりも、あきらめるつもりもない。
……でも。
最初の頭ごなしにすらならないこんな段階からこれだけの拒絶を受けていると、やはり不安は大きくなってゆくのだった。うまくいくためにきたのだから、うまくいかない可能性をどうしても無視できないのは当たり前のことだった。
「……時の流れ、因果の廻りというのは難しいものだ。ひとつひとつのできごとは些細な偶然の積み重ねでしかなくても、何百、何千年と膨大に積み重ねて見渡してみれば、壮大で美しいタペストリーを見せてくれることが分かる」
「……?」
石製の小さな休憩所。円形の座席。
彼女たちの対面に座った老人は、小庭園を見渡しているようだった。
庭園の姿は雨の中にあっても美しかった。
曇天の下で葉陰の鮮やかさは鈍り、雨粒の重さにすべての花々が頭を垂れているように見えている。しかしそれは与えられた生命の恵みをよろこび、今は粛々と自分を抑えて受け止め続けているようにも感じられる。
人の手を加えられて人造の楽園の姿を与えられた花々。その内側にはそれでも消せない野生の生命の力強さに満ちていた。
この楽園には彼女たちの三人しかいない。
自然と、静けさは圧力となって彼女の耳に庭園の真の姿を届けてくる。
幾万、あるいは幾億もの雨粒が絶え間なく降り注ぎ、そのうちのいくらかが枝葉を叩き、集められた水滴が雨音とは違ったリズムで静かな音色を重ね続ける。花の形、葉の大きさ、伸びる方向――庭園にある植物の種類の分だけ。違った音の数々を。
まるで小さな小さな、人ではないものの演奏会に迷い込んだような不思議な雰囲気があった。
「もう一度、その視点からさかのぼって、さかのぼって、たぐり続ければ……それは、ほんのひとつの小さな出会いや選択から始まっていたということも、珍しくはないのだよ」
いつの間にか聞き入っており――老人の声ではっと我に返ると、対面にいる彼は先ほどとは反対方向に首を向けていたようだった。
反対方向――庭園の入り口の側を。
「スフィールリアっ!」
生垣の向こうから、見覚えのある傘の模様と声がこちらを目指して走ってくる。
ほどなくして小庭園の迷路を踏破して現れたのはフォマウセンの姿だった。
「スフィールリア――ああよかった。ずいぶんと端の方まできていたのね? さっそくなんだけどすぐにきてくれる? どうにか強引に理由を作ってこじつけてきたの。今から謁見のための審査と用件の聴取があるから、予定していた使いどころとは違うし、厳しいと思うけど、ふたりとも正装をして――」
つかつかと歩きながら手招きをしてくるフォマウセンは、やがて、スフィールリアの対面に座っている老人の姿に気がついたようだった。
「スフィールリア……その人……は…………?」
言いながら、休憩所のすぐそばまで寄ってきて……フォマウセンの顔色が一気に変わった。
「っ……!!」
まるで取り返しのつかない失敗を働いていたことに気づいたかのように。顔を真っ青にして――その場に膝をついて臣下の礼を取った。
「せ、先生っ?」
スフィールリアは慌てて立ち上がりかけた。
ただごとではない雰囲気を感じ取りすでにキアスもその場にてフォマウセンと同じ姿勢になっている。
「……早く! 頭をお下げなさい! このお方は――」
頭を上げぬまま鋭く叱責を投げられて、スフィールリアもおろおろとしつつ、キアスの隣に並んで膝を着こうとした。
その彼女の肩を細い手で受け止めて、老人が困ったような声をフォマウセンに投げた。
「ああ――やめておくれ。困ったね。困った、困った。どうか頭を上げてくれたまえ。そのようなことはしてくれなくていいのだよ。わたしは、そんなに大層な人物ではないのだから」
「……」
フォマウセンが、恐る恐ると顔を上げる。
その視線の先で、スフィールリアが老人の手に抗って必死にひざまづこうとしていた。
「そんなこと言われてもぉおおお! あたしだけ突っ立ってるわけにはいかないですから! ひざまづかせてく・だ・さ・いぃいいい~~~…………!!」
「だ、だから、よいのだよ? ……おお、おお、なんという力だ!」
フォマウセンはくらっ……と眩暈を起こした風に頭をふらつかせスフィールリアに強い眼差しを突き刺した。
「なにをしているのっ! ご本人がよろしいと仰っているのに抗うおバカがどこにいますかっ!」
「え……だ、だってだって、あの……先生があんなに怖い声で言うからぁ……!」
「はっはっは」
鷹揚に笑い、老人は休憩所から歩み出し、フォマウセンの投げ出していた傘を拾って彼女に手渡した。
「……ありがとう、ございます」
「いやなに」
そのまま数歩、歩き、休憩所広場の出口に体を向ける。
「……美しいお嬢さん。あなたがここにきたことは、偶然ではない。無駄なことでも、求められていないことでも、決してないのだよ。陛下にお会いしたいのだったね。審査? そのようなことをしている時間が、果たして今のこの国に許されているだろうか?」
その背が、薄ぼんやりと揺らめき、星の瞬きのように弱く明滅を始める。
スフィールリアはようやく気がついていた。
雨粒は老人の身体を通過し、彼の衣装を微塵も濡らしていなかったということに。
「だから、言おうとしたんだ。――少なくとも、生身の人間ではない、と」
「……!」
「友人たちよ。よくいらしてくださった。陛下に会わせて差し上げましょう――さぁ、美しいお嬢さん。こちらへ」
こちらへおいで……。
そう言い残し、老人はゆらりと歩き始めた。
消えたと思ったら蜃気楼のように数歩進んだ場所に現れ、彼女たちを導こうとしている。
「……」
ぽんと軽く肩に触れられたことが思いのほか衝撃的でスフィールリアが振り仰ぐと、いつの間にか隣まで寄ってきていたフォマウセンが、覚悟を秘めた表情でうなづき返してくるところだった。
「いくわよ――スフィールリア」
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