(3-26)
◆
「好き勝手に動き回って、少しは気が済んだかしら?」
「……」
学院の正門を入ったところに、学院長が立っていた。
王都が誇る王立<ディングレイズ・アカデミー>学院長フォマウセン・ロウ・アーデンハイトその人が。
頭上から無数の使い魔がまばゆいライトを当ててくる。落ちる雨筋がきらきらと反射して彼女たちを囲うフィールドを闇から切り離した。
学院長の周囲には十数名の教師、そして先日に見た全身黒衣の学院秘密工作部隊――たしかカラスと言ったか――らの姿。だけではなく、カラスと同種のコンセプトを匂わせる白装束の、知らない部隊も控えていた。
「……」
なかば予測できていた状況ではある。とは言えここを乗り切らなくては、テスタードたちとの約束はおろか、その準備にすら取りかかれない。
スフィールリアはかまわずに歩を進めて学院の敷地に入っていった。
とたんにカラスたちが音も立てず、カーテンでも引くような動きで彼女を囲う。
同時、学院長背後にいる教師の撃ち出した攻性武器が破裂して、スフィールリアの傘を弾き飛ばしていった。
「それ以上近寄るな。立場をわきまえろ」
「……」
重たい雨粒があっという間に全身を濡らしてゆく。背中の正門が、閉じられてゆく。
スフィールリアは、学院長だけを見ていた。
「寒くない?」
自身はうしろに控えた教師に傘を差してもらって腕組み泰然と構えつつ、学院長が少しも同情していない様子で問うてくる。スフィールリアも表情を動かさず、全員へよく通るようにはっきりと答えた。
「いいえ。ぜんぜん大丈夫です」
「そう」
そして、もう一度、最初の問いを投げてきた。念を押すかのように、やや低めに。
「それで? 好き勝手に動き回ってくれて、少しは気が済んだのかしら?」
スフィールリアは非常に微細に、ぴりと眉を動かした。
この質問の答えは単純ではない。
今おとなしく捕まるつもりがあるのか、そうでないのかと問われている。
第一声の判断を間違えれば学院長の返事を待たずの即座で自分は捕らえられることになるだろう。自分をここで捕まえることは確定事項なのだ。
それを留めて、覆させる言葉を選ばなければならない。
どう取り繕ったところで自分がまったく言いわけのできない身であることも事実ではある。
学院長の好意を跳ね除け、おとなしく待っているという約束を破り、今はそれ自体が危険行為であるテスタードへの接触を行なった。そして、それは、この場にいるだれからも望まれておらず、頼まれたわけでもない行為だった。
どこにも言いわけの余地はない。
「……」
さまざまな言葉、そして状況のことが一瞬で頭を巡ってゆく。
テスタードから預かってきたカード。タウセン教師の存在。学院長のこと。今しがたの攻撃の意味。自分のこと。友人たちのこと。これからしなければならないこと。必要なこと。そのために必要な条件。それらの中で今の自分に少しでも有利に働く要素――ほかにも、ほかにも――
なにを第一声に選べば、学院長、および周囲の戦力たちを動かさずに済むのか。どの言葉がこの状況にもっとも適しているのか。
そもそも彼らのだれひとりとして望んでいなかった行動の結果としての彼女の言葉を、彼らはどうあっても受けつけはしないかもしれない。彼らが飛びかかってくる時間が、今か、数秒後に先延ばしされるかだけの違いにすぎないのかもしれない。
その場合は勝ち目はほぼない。
自分の力を全力で開放すれば教師陣ぐらいは押さえられるかもしれない。
しかしカラスは駄目だ。先日に見た黒衣たちはどう見ても戦闘のプロであり、対象への隠行とイリーガルな対応による奇襲・暗殺行為に長けた集団だった。
これが加わるだけで戦力バランスのシーソーは直角近くまでかたむく。おまけに、うしろには詳細不明な白い部隊まで控えている。
いや。それ以前に自分が全力を出したところで教師陣すら下せないのかもしれない。自分のタペストリー領域の広さは学院の教師をも軽く上回るはずだが、しかし彼らは綴導術士の総本山で教鞭を取る〝教師〟だ。どんなアイテムや論理を使ってくるのかは計り知れないし、そもそも全力なんて出したことがなかったから本当のところは分からない。
純然な力の総量で問題なくごり押しができるなどと考えるのはむしろ愚かだろう。綴導術とはそれほどに奥が深く、相手取ると恐ろしい分野なのだ。
スフィールリアは枝分かれしてゆく対応策に心の中でかぶりを振って打ち止めをかけた。
なにより、ここで教師陣に敵対することは学院長を敵に回すこととほぼイコールなはずだった。それは駄目だ。今の自分に彼女の力は必要になる。それは、避けなければならない。
三秒が経過した。
「……っ」
スフィールリアは覚悟の息を飲み下した。
「まだです。まだこれからです。学院長――」
一歩を踏み出す。カラスと教師たちが身構える。
それが終わる前に、スフィールリアは正面の彼女へ言葉を届けていた。
「学院長。あたしと――取引をしてください」
「…………」
学院長は、眉ひとつ動かさなかった。スフィールリアも目を逸らさなかった。長い沈黙の間、雨の音を聞き続ける。
やがてフォマウセンは心底呆れた風にがっくり顔を落とし、長い長いため息をついた。
それを見た教師たちとカラスがまた身じろぎし、それを顔を落としたままのフォマウセンが片手を出して制する。
「本当に……馬鹿ね。これほどのリスクを踏んで言い出すことがそれとは」
顔を上げた彼女の表情に同調の色はない。あるのは、取り返しのつかない過ちを犯した子供を見る母親のような目。友達に大怪我を負わせるところだった子供を叱る眼差し。昔に町で見たそれとそっくりだった。
「先の一撃で分かってもらいたかったわ? 現在のあなたの立場、そしてこのわたしの立場というものも」
「すみません。でもあたしは、ここで退くわけにはいかないんです。お願いです、話を聞いてください」
まだ目を逸らさず、退かずにスフィールリアは言う。
フォマウセンはかぶりを振る。
「なら、こちらの言い分だって聞いてもらうわ? あなたひとりが勝手を働いて、この場にいる者全員を押しのけて、あなただけの一本線を貫き通すと言うのであれば。それはこの学院には元々不要な綴導術です。こちらも今使えるすべての力を使ってあなたたちを潰すわ? 子供の駄々につき合っている暇はないの」
「……」
スフィールリアはかろうじてうなづく。胸の中を握り潰されるような痛い思いとともに。
「聞きなさい、スフィールリア。わたしはせめてあなたたちだけでも、もっとも安全かつ確実に助けてあげたくて、あたなたちへの措置を強引に進めたわ? それがわたしにとってなにを意味するのか……それはまぁ、いいでしょう。しかしながらこの危急の時に、その他の大勢の者たちの段取りが狂った。あなたがいなくなったことを知って、学院の上層部は恐慌状態にもなったのよ。忘れてはいないでしょうね?」
忘れてはいない。
次にフォマウセンは、視線でスフィールリアの瞳を射抜き、彼女がもっとも痛がるカードを切ってきた。
「あなたのお友達も巻き込んだのよ?」
スフィールリアは唇をかみ、続く言葉を耐えた。
「ただあの小屋であなたひとりが駄々をこねてくれているだけならまだよかった。でもあなたが逃げ出したことで、彼女たちへの処置も先送りにせざるを得なくなった。当時の記憶を持つあなたたちのうち、あなたひとりが欠けただけで無意味になるから。彼女たちだけに処置しても結局あなたという〝穴〟から情報をたどられて、彼女たちはなにも知らぬままに各方面からの危険に晒されていたかもしれないのだわ。学院を出て、自分たちの日常に戻ったあとにね?」
「……」
情報の〝穴〟という意味はよく分かった。
自分が学院の外に出てさえいなければ、学院長はどうにかしてそのていどのほころびぐらいは埋めてくれていただろう。
しかし自分は外に出た。そして、キャロリッシェやフェイトが暗躍してかき集めた情報の糸に『触れ』てしまった。
ないものをないと言い張るのは容易である。宝物が入っている箱を見せろと言われても、箱の中身が空っぽになっていれば問題はないのだ。すべて王に渡してしまったと言えばよいだけなのだから。
学院長の処置は宝箱の存在が余人に知られる前にその箱の中身を空っぽにして、どのようなものが入っていたのかの痕跡までを消し去る行為だった。
しかしスフィールリアは匂いという痕跡を残した。箱の外にこぼれ出して。
かならずあると分かっていて、探す者が存在するならば、多くの場合それは発見される。
「フィルディーマイリーズ家は、まぁ、大丈夫でしょう。彼らが滅多なことで出し抜かれることはないかもしれない。でも、マリンアーテさんとアーシェンハスさんは、どうかしら? 彼女たちを明確に庇護する力は存在しない。人知れず監視はつく。けどそれは決して彼女たちの身の安全を保障するものではないわ? 彼女たちはもしかしたらこの後、あなたの知らない場所と時間で、魔王の情報を求めるなりふり構わぬなに者かに狙われ、口封じのためにわけも分からぬうちに殺されるかもしれない。あるいは監視の目も盗まれ……連れ出され……情報を引き出すために、その人間性をも剥奪されて…………」
「っ……」
じっくりと染み入らせるように積み重ねられてゆく言葉に、スフィールリアはついに決然と構えていることができなくなって目を逸らしてしまった。
そんな彼女を見て、学院長は短く吐き捨てるように息をついた。
「想像するにも唾棄すべきことだわね? まったく最低の発想。わたしもあなたにこんなことを突きつけて、悦に浸っている風に構えたくはなかった。でもわたしは、なににおいてもその可能性だけはあなたたちから排除しておいてあげたかったのよ。そのためには、あの時のうちでなければならなかった。それ以降では、もう、どうあっても不完全で不確かなことでしかない……」
「……」
「それだけではない。今この王都、そして学院、そして王室は、あの魔王の使徒への対策に全力を注いでいる。何度も命がけの情報収集を行ない、互いに出向いて情報の受け渡しを行ない、対策を何百何重にも協議し、同時に市民や諸国への対応までも考えなければならない」
王都にいる自分たちが全滅した時のための市民たちの各領地への避難流入経路にその分散と段取り。王都の外に出た使徒への二次対策。自分たちが得た戦闘情報。そしてそれを諸国へ託すための文言に方策。逆に使徒を撃退できたとして。なぜあんなものが召喚されたのか、あれほどのものを撃退するにはいくつかの重要な協定も無視しなければならない、その場合のあらゆる対外的な事後報告の対応――
「それらがどれほどの重圧とストレスに満ちたことであるか、理解できるかしら? ――できるわけがないのよ。彼らと同じ問題の詳細に直面しておらず、個人という範囲のために彼らからひとり逃げ出したあなたには」
スフィールリアに反論はなかった。
戻る前にタウセン教師から聞いた話によれば、現在の王政府側の事情はなかなかにのっぴきならない。
<アカデミー>という超巨大な綴導術士の総本山を国元に抱えるということは、どんな超兵器も生産できる強大な〝力〟を保有することと同義である。よって、いくつもの重大な条約と複雑な力学の織り成す壮大稀有なタペストリーが下地にあって初めて成立することなのだ。
国が〝力〟を持つ時、周囲の国は清廉な経歴と完璧な管理責任能力を求める。力をうまく制御して扱い切れないのであればたちまちにして糾弾の対象となり、学院の存在意義はそのものが疑われ、つないでいた手は離されてゆくだろう。学院は維持されなくなり、ディングレイズは大きく国力を減じさせてゆくことになる。
綴導術士たちは散り散りに国を離れてゆき、この国へ綴導術関連の品を送りたくない国が取引を止めれば生活にまで浸透していたアイテムも出回らなくなり、全国民の生活までも様変わりしてゆくのだ。
魔王の使徒などという存在が学院のど真ん中に召喚された事態は、まさにそれを容易に引き起こしかねないことであった。
とても隠し切れる規模の事件ではないし、仮にうまく撃退できたとして、自分で片づけましたのでもう大丈夫ですとはいかない。召喚が起こったこと自体が問題なのだから、この後ディングレイズ国は各国から厳しく問い詰められることになる。
もしもディングレイズほどの国が闇に堕ちて魔王の力を兵器として使い出したならおそらく魔術士の文明崩壊以来と言えるレベルでの未曾有の世界危機となるし、ディングレイズの意思でないにしても膝元の学院内にそういった意思が芽生えたというだけで致命的な問題、そして魔王の力を呼び出すノウハウが外部の悪意ある者の手に漏れた可能性が存在するのかどうかということだけでも、各国を震え上がらせるのには充分すぎる要素だ。
ことの釈明を求めてこぞって詰めかけてくる各国政府の恐慌状態を、彼らは充分に納得できる理屈と結果を以って治めなければならない。
そのためには、スフィールリアという因子は果てしなく余計で邪魔な存在にしかなり得ない。
召喚の中心であり固有素材でもあるテスタードと、彼を見出す発端となったタウセン・マックヴェル教師それぞれの処分。これで済ませられれば一番よかったのだ。
召喚の瞬間を目撃していたメンバーへの独自の処置に関しては事後承諾にて、偉大なる綴導術士の始祖フィースミールの直弟子である大賢者フォマウセンへの、かなり無理を圧した最大限の譲歩といったところで手打ちだろう。その予定であった。
召喚の具体的なノウハウ自体は把握していない段階ということもあり、その記憶まで封印してしまえば、なんとか必要充分な処理であろうと納得させられたのだ。先日の段階までは。
だがスフィールリアがテスタードに接触し、〝目撃〟以上の深度で魔王への理解を得てしまった。これではスフィールリアには違った対応を考えなければならない上、ほかのメンバーに関しても絶対に目撃以上の知識を有してはいないという弁が立てられなくなってしまう。対外的問題として、ひとり例外がいるのなら、例外がひとり限りとは言い切れない。
彼女がわずかな期間であっても監視の目を離れたのなら、その間に情報が漏れ広がっていないという保障はなく、疑いも尽きることはない。
解決の難しい毒をまかれたようなものだ。
学院の立場も忘れてはならない。
スフィールリアたちへの処置の報告を王室へ上げるのは、事後承諾の予定であった。
最悪のタイミングだったのだ。
学院は、学院長は、事件中核を構成していた要素としてテスタードとタウセン教師の身柄を『これですべて』であるとして王室へ引き渡した。
しかし政府直轄である幽閉機関にてスフィールリアがテスタードに接触して記録を残した以上、学院がついた嘘は遠くないうちに露見する。
未来の対応に関わるすべてがきわどい緊張下にあるこの状況の今、使徒への対応が終わらずなにも解決していないこの段階で学院の嘘が露見することは、政府に対する重大な裏切り行為以外のなにものにもならない。
その釈明を求められた時に学院側がどれだけ苦しい思いをすることになるのか、またそのことが学院の実際的な運営にどれほどの影響を及ぼし得るのか、スフィールリアには想像だにできないことだった。
学院長は先ほどそのことに関しては言及しないと言ったがとんでもないことだ。
それこそが自分の行動がもたらした最大の爆発だったはずだ。学院にとっても、フォマウセン自身にとっても。
学院長が最初から自分に監視をつけるなり拘束しておくでもなかったのは、本当のところは分からないが、同じアーテルロウンの名を持つ者としての、彼女なりの温情か信頼であったのかもしれない。
それを自分は破ったのだ。
フォマウセンだけではない。おそらく彼女にも把握できないもっと多くの教師にも影響を与えることなのだろう――
「これが、あなたのしたことだわ?」
フォマウセンはむしろ周囲すべてに聞かせるように手のひらを巡らし、スフィールリア以外の全員を示した。
照明の領域の外側にいる教師たちのスフィールリアを見る表情はみな一様に厳しく、重い。本当なら冗談にもならないふざけたことをしでかしてくれたこの娘を有無も言わさず今すぐにでも引っ張っていって、本来の問題へ戻りたいところだろう。学院長のこの言葉があるから、かろうじて自制されている。
「……とはいえ。一応学院の境界は最低限の監視ぐらいさせていたつもりだったのだけれど。正直キャロの実力は見誤っていたわね。もう面倒だったのでわたしが直接出向いてとっ捕まえてしまったんだけど、まさかあなたをけしかけたのがあの子だったとは。彼女の行動については学院側の落ち度。これも認めはしましょう」
「……犯行声明出すって言ってましたけど」
「届いたわよ? あの子をふんじばったあとにね?」
先生、南無。
スフィールリアは心の中で無念の教師に祈りをささげた。たぶん手も足も出なかったのだろう。
「まぁそういうわけなので、こちら側にもまったく落ち度がなかったわけでもない。なので今ならばまだ、残されているわたしの権能で元の道に戻してあげられないこともないわ?」
学院長は再び怜悧に、彼女へ問いかけてきた。
「それでもあなたは、まだ己の意思を貫くおつもり?」
まだ彼女の友人たちの安全もぎりぎりこぼれ落ちてはいないという意味だった。それは彼女の意思を容易に折りかねないカードだった。
「事情は、分かりました。分かって、ここまできました。でもごめんなさい。無理です」
自分だけの勝手で大切な友だちを危険な目に合わせている。
学院長のやさしさにつけ入って多大なダメージを与えた。
国家の事情も知った。学院の事情も分かった。
すべては生き残ったみんなが安定して生きてゆける未来を作るための方策。人間の〝善性〟が行なう犠牲。
だけど、スフィールリアは悲しい表情で笑って首を横に振った。
「だってその事情には、テスタード先輩だけが、いないじゃないですか」
今度は教師たちも身動きはしなかった。暗い表情は変わらないがたしかに別種のものを混ぜて、なにもせず、彼女を見つめている。
沈黙の時は長かった。雨の音を数分間、聞き続けた。
王都の空にかぶさる大きな暗雲の下、互いに抜け出せない問題の圧力に、言葉もなく身もだえるかのように。
やがて学院長が観念したように首を振る。
「そう……そうね。……その通りだわ?」
それは彼女の言を認めると同時、自分に言い聞かせる自戒のようでもあった。
「だから」
スフィールリアは胸を張って前へ出る。視線は学院長へと。声は全員へと。
「あたしは、だから『あの人の分』を持ってきました。この中で一番悲しい想いを引きずっていて、この中でだれよりもあの魔王との戦いに直面していたあの人ひとりだけを怖がって、切り捨てて、蹴り落として、未来を得るのなら、それはもうあたしが目指していた、あたしにとっての綴導術士なんかじゃありません。――フィースミールさんの綴導術じゃありません!
たとえ記憶を消したって目をつむったって今日のことは消えない。どんなに立派ですばらしいアイテムを作っても、どれだけの人たちに感謝されても、その下にはあたしが犠牲にしたあの人の亡骸と絶望が埋まっているんです。綴導術士の力って、そんなものですか? そんなことをするために学ばなくちゃいけないんですか? あたしはそうは思いません。だからあたしは、あたしたちが負うリスクが増えても、あの人も助かる道を選びます」
「……」
「仕方がないことは分かります。一番不都合が少なくて済むんだってことも。それでも、この国がしようとしていることは〝生贄〟です。だから、お願いです。少しでもあたしが言っていること、しようとしていることにうなづける点があるなら――最悪でも力は貸してくれなくていい。でも、見逃してください」
「……」
言うべきことは言った。あとはスフィールリアは、ただ、待った。
ここから先は彼ら自身が判断するところだ。ここで話を聞いてもらえないなら、どれだけ一方的にこちらの手札の具体的な有効性を説いても無理だろう。
「……」
教師たちは、やはりまだ動かない。
学院長もまっすぐ視線を外さない。
「……聞いてみたいのだが」
と口を出してきたのは、学院長に傘を差している教師――教頭教諭だった。
「君がどうこうするまでもなく、綴導術という分野には、我々の下には、すでにおびただしい数の犠牲と亡骸が詰まっている。君にとってそれらはすべて無価値なのか? 君はまだ失敗をしていないのかもしれないが、君だっていつかは失敗をするかもしれない」
「……」
「挫折をするかもしれない。信念の変更を余儀なくされるかもしれない。その時の君は、今日の自分にどう決着をつけるのかな。また、すでに失敗してしまった者は、それではもう志を捨てるしかないのかね? それが君の言う――フィースミール師の綴導術なのか?」
こういう冷や水の作り方は嫌いだ。
スフィールリアは一時だけ視線を彼に移して毅然と言い返した。
「違います。未来も含めて、あたしが分かっていないことがあることも認めます。でも、自分を曲げなければならない理由にはならないはずです。それが本当に自分を預けるに足るものなら、何度だってあたしは挑戦します。みなさんのことはみなさんで決めてください。思索と独立独歩も綴導術士の基礎理念なはずです」
「まぁ……そうだな」
肩をすくめて引き下がる教頭から、再び学院長に視線を戻す。
今の会話で、彼女も言うことを思いついていたようだった。
「調和もまた、わたしたちの基本理念だわね?」
「はい」
「今この場であなたと無理に争って、余分な被害を出している場合でないことも事実。では、あなたの言う調和……わたしへの取引というものは、なんなのかしら?」
うなづく。
スフィールリアはタウセン教師の言葉を思い出すとともに、自分の考えを言い放った。
学院の頂点、王都最高の術士へ。少しも臆さずに。
「あたしが王室にセンパイとの取引を持ちかけるために、あたしを王様に会わせてください。その替わり、あたしは王様との取引の条件の中に、学院長のこれまで通りの〝続投〟も含めてあげます!」
ざわめきは、小さくなかった。
「…………」
学院長は目をぱちくりとさせていた。ふんと息を巻いているスフィールリアを見て、呆れたような顔になり、次に怒ったような顔になり、最後に残ったのは……苦笑だった。
「そういうのはね、スフィールリア……脅しって言うのよ?」
「そうですか? ちゃんと学院長にとっても見返りがあると思いますけど」
「わたしが今回の責を取って退陣するという話は噂話であって、確定情報ではないはずよ? そもそもそれが本当にわたしにとって益なのか。この二点の保障があって言っているのかしら?」
勝負だ。と心の中でつぶやく。スフィールリアは彼女へやや不敵に笑みを作ってうなづいた。
「確定情報として知ってます。タウセン先生から聞いてきましたから」
「ミスター・タウセンが? あなたに?」
また学院長がぱちくりとする。いける。スフィールリアは自分で考えていた押しの一手の準備をする。
「そうですよ。学院長はこんなことで学院を手放せるような無責任な人じゃないって言ってました。いいんですか? タウセン先生の期待を裏切っちゃっても」
「……」
「本当にこのまま辞めちゃってもいいんですかねぇ? タウセン先生はあたしに、取引の条件に自分の学院への復帰も含めておいてくれって頼んだんです。――学院長先生といたいから」
ざわ――
さすがに教師たちがうろたえた。集まる視線の中、学院長が目を見開いて立っている。
スフィールリアは悪い顔――もっと言うと下卑た顔――を作って、とどめとなる一言を放った。
「いいんですかねぇ~? タウセン先生とずっと一緒にいられますよぅ……!?」
言い切って。
「……………………」
重い沈黙が落ちた。
だれも身動きしない。できない。
スフィールリアだけが片手の指で作った輪っかの中にもう片手の指を出し入れしている。「うりうり、うりうり」なんて言いながらちょっと赤い顔で学院長にニヤニヤ笑いを送っており、見かねた教師のひとりが「や、やめたまえ女の子がそんなことは君……」などとかすかな声を絞り出してくるばかりだ。
やがて学院長が、ちょっと困った風な顔で問うてきた。
「あなた、わたしと彼がそういう関係だと思っていたの?」
ぴたり。とスフィールリアが卑猥な動作をやめた。
「……いつも一緒にいるし」
「まぁ、学院にくる前からの間柄だし、ここでのメインの役職はわたしの秘書だしね?」
「……ふたりとも結婚指輪してるし」
「ああこれね? たしかにわたしは結婚しているけれど、これはわたしが王都での戸籍その他の下地を得るために昔の貸しを使って結婚してもらったっていうだけよ? 彼のは完全に偽装ね。そうでもしないと彼に寄ってくる女性は多いから。どちらも飾りがまったくないからペアに見えるのかしら。――あなた、ミスター・タウセンにそのあたりの情報は確認してこなかったの?」
「……そんな面白いこと聞いたら絶対怒られそうだし」
「でも、わたしたちがそういう関係だと思っていたと?」
「……この場合、そうだったら非常に都合がよいなと」
学院長は疲れた風に、非常に長く息をついた。
次に両手のひらを持ち上げて苦笑を見せた。
「残念、はずれ。わたしと彼がそういう関係を持ったことは一度もないわ?」
周囲の教師たちが明らかにほっとした様子を見せる。
スフィールリアは、無念の表情とともにうずくまって顔を伏せた。重力に勝てる気がしなかった。
「はずれか……もはやこれまで。ごめんなさいセンパイあたしはここまでです」
「さっきまでのはなんだったんだね!?」
そんなことを言われたって世の中は精神論だけじゃ成り立たないのである。
学院長の欲望を揺さぶれなかった時点で勝敗の九割は決したのだ。彼女の助力が得られないのなら自分みたいな一般人が王様に会うなんてこと自体不可能だし、ここで捕まってしまうか教師たちと争うかすれば学院内での活動が不可能になり、敷地内でまだしなければならないことも片づけられない。
終わった……ほぼ終わった。できることはしてあげたかったけど限度もあるのだ。これからどう動こうか……
などと思っていると、「んー……」とうなっていた学院長。顔を上げ、スフィールリアに確認を投げかけてきた。
「ミスター・タウセンが復帰を望んでいて、あなたに託したというのは本当なのね?」
「あ、はいそうですねそうです。……そういえば先生のデスクにある回復薬全部くれるって言ってたんですけど、それだけでももらっていーですかねぇ?」
「ミスター・タウセンがねぇ……ふぅむ」
スフィールリアの都合よく曲解された言葉には答えず、学院長はほぼ真っ暗闇の中に落ちた学院を振り仰いだ。
「フィースミール師から学院を預かって百年…………わたしも、自分で思っていた以上に『ここ』に愛着が湧いていたっていうことかしらね……?」
「……?」
その、瞬間だった。
学院長が木っ端微塵に爆発した。
「!?」
――と、思えるほどの光の奔流が彼女から膨れ上がり、彼女を包んだのだ。
一瞬後にはまばゆい光の粒子の爆発は収まり、そこに……立っていた。
「よろしい」
教師陣も驚いていた。カラスたちも飛びのいていた。スフィールリアも、尻もちをついていた。
学院長の姿はいなくなっている。
入れ替わりに立っていたのは、長大な縫律杖『オーロラ・フェザー』を持ち、若々しく長身で、豊満な肉体を神秘的なローブに包んだ絶世の美女だった。
学院長と同じ飾り鎖つき眼鏡をかけた相貌は二十代前半のそれであり、しかし幼さを残した少女の可憐さと成熟した女性の艶やかさを同時に併せ持っているかのような不思議な美しさがある。紅い――光そのものを宿したように輝く髪の毛が、ゆったりと揺らめいていた。
スフィールリアは彼女を知っていた。以前に会ったことがある。
そう。
自分がこの王都にやってきて学院に入学して間もないころ。<ネコとドラゴン亭>の前でぶつかって出会った『美人のお姉さん』その人だった。
いや。髪の毛の色ってこんなだっただろうか? 別人? 姉妹? 学院長どこ……?
混乱する頭でぐるぐる考えていると、美女。さらにこんなことを言って彼女の混乱を加速させてきた。
「このフォマウセン・アーテルロウン。わたし個人の意思と思惑により、あなたの目論見に協力いたしましょう」
「え……? え……!?」
スフィールリアが尻もちをついて絶句している間にも状況は進んでゆく。
紅い髪の美女がうしろを振り返ると、傘を差していた教頭がため息をつき、肩をすくめた。その傘の持ち手を彼女に差し出す。
彼女は胸の谷間からひもつきの古い鍵のようなものを取り出し、教頭教諭に手渡すと、入れ替わりで傘を受け取った。
「すまないわね」
「……いいえ。個人的には応援いたしております。ではご武運を」
鍵を受け取った教頭教諭がそれですべて承知したとばかりにきびすを返し、去りながら片手で号令を下す。
「……」
カラスが静かに地面の闇へと身を沈めてゆき、白装束たちは薄っすらと姿をぼやけさせて消えていった。
教師たちも、教頭教諭のあとに従い、歩み去ってゆく。最低限の照明だけに絞った使い魔たちを連れて。
「…………」
あとにはスフィールリアと、美女と、大雨の音だけが残った。
「……さ! これで学院におけるわたしの力の大半は失われたわけで。今のわたしは単なるフォマウセン・アーテルロウンよ?」
浮かせた『オーロラ・フェザー』に光を灯し、美女がさっぱりした風に手を見せて振り向いてくる。
「あ、あ、あ……あがが……ががが、学院長がっ」
スフィールリアはそれどころじゃなかった。
「大丈夫?」
「あが……お、お姉さん、いつぞやの酒場の前の……! ……学院長がいなくなっちゃった! 学院長を返してくださいお願いします!」
「はぁ?」
同性から見てもとても魅力的な表情と声で美女は首をひねった。
「前にこの姿で会ってるじゃない。そうね、酒場でね? ……あなたひょっとして気づいてなかったの? わたしよわたし。王立<ディングレイズ・アカデミー>学院長。フォマウセン・ロウ・アーデンハ、イ、ト!」
「え……」
フォマウセンを名を騙った美女はくいっと腰を曲げてスフィールリアに向けて顔を落とし、とてもかわいらしく自分のほっぺを指している。
豊かで肉感的な双丘が揺れる、揺れる。
フォマウセン・ロウ・アーデンハイト。ふくよかな『おばさん』の姿は、そこになく。
彼女の言葉が、ゆっくりとスフィールリアの頭に浸透していって……
「…………えええええええええ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~え!?」
スフィールリアは彼女を指差して大絶叫していた。
「……はぁ。気配で相手の性質くらい読み取りなさいな」
がっくしとあごの位置を落としたフォマウセンが気を取り直して差し出してくる手を取り、スフィールリアは立ち上がった。まだ、やや呆然としながら。
「え……変身ですか? 変身したんですか?」
「ぎゃーく。『こっち』がわたし本来の姿なのよ? 変身しているというのなら、普段のあの姿こそがそう」
「え、な、なんでですか!? 絶対こっちの方が美人でかっこいいのに!?」
「あの方がいろいろと都合がよいのよ。<アカデミー>学院長としても、まぁ、ほかにも……いろいろと、ね」
微妙に苦々しく遠い目をする彼女の横顔は、追求しがたい気配を漂わせながらも、いつまでも眺めていたいような魅力にあふれていた。普段の姿とのギャップのせいかもしれないが。
フォマウセンは見とれているスフィールリアの肩を引き寄せて、傘の領域へと招き入れてくれた。
「さてと。話までは聞き逃していなかったわよね? あなたに協力するわ? でもその代わりに学院長としてのわたしの権能は、これでもうほぼなくなった。今のわたしは単なるフォマウセン・アーテルロウン一個人。ごめんなさいね、学院長としてでなくて? でもわたしの勝手で学院そのものまで道連れにするわけにはいかないしね?」
ようやく回転を取り戻してきた頭で、彼女にも理解できていた。
あの鍵のようなものと一緒にフォマウセンが手渡したのは、おそらく、学院長の席。
スフィールリアを出迎えた時点で、彼女の権限はほぼないに等しかった。だから彼女の言葉を待たずに教師たちが攻撃してきたのだ。それでもフォマウセンが同行し、教師たちが彼女の言葉を待っていたのは術士個人としての敬意、恩義。それとスフィールリアを無抵抗で捕縛するための説得材料として、だ。
さらに、これから王宮への裏切り行為をさらに助長しようと決断したフォマウセンについてくる人間は少ない。ついてゆきたいと考える者は多いかもしれないが、それでは彼女が取り戻したい学院長の席にも意味がなくなってしまう。学院は王立の名の下に、無事無傷で彼女の管理下に戻らなくてはならない。
教師たちにとっても同じことだ。彼女が強引に権能を振りかざせば、まず学院が学院長派閥とそれ以外とで真っ二つに割れる。その後は王城との抗争まで起こりかねない。魔王の使徒を膝元に抱えたこの状況下でだ。
そんなことは、絶対にできないことだ。
だからフォマウセンは『縫律杖』とともに自身の封印を解き、真の姿をさらした。
それが教師たちに向けた彼女の〝宣言〟だった。
真の姿に戻った瞬間から彼女は一個人に戻った。同時に、学院長としての力は捨てる替わりに、フォマウセン・アーテルロウン個人が持てる力はためらわずに使うと。わざわざ『縫律杖』を現したのにもその意味が含まれていた。
教師たちはフォマウセンの命令で退いたのではない。彼女の意思を尊重したいという念もないではなかったろうが、それ以上に、彼女と争ってまでスフィールリアの身柄拘束を断行することを避けたのだ。
「でもこれで、わたしとしても確実にあなたを王室まで届けられるとは言い切れなくなった。これからきたる戦いの主力を担う<アカデミー>の長としてならまだしも、個人的にあなたを助けるために私的に権限を乱用して政府を欺いた経歴と強大な力も持つ危険な大綴導術士……とでは雲泥の差があるとすら言えるかもしれないわね。臨時理事会も即座にわたしの行動とリコールの事実は王室に上げるでしょうし。……でも、なんとしてもあなたを陛下の下まで送り届けてみせるわ? だからあなたも、わたしの今後のこと、くれぐれもお願いね?」
学院長としての彼女の籍は公式には残っているが、学院は非常時の規則により彼女の権限を剥奪した。次の学院長が就任するまで、定められた臨時の管理機構が機能して王政府に寄り添う……
茶目っ気を込めて片目をつむってくるフォマウセンに、スフィールリアはかぶりを振った。
考えれば、自分がこの場を切り抜けるにはこれしかなかった。
「いいえ、大丈夫です。充分に頼もしいです! たくさん頼るので、よろしくお願いします!」
「いいわよ。あなたはわたしのかわいい妹分ですからね!」
あの学院長ににっこりと笑い返されて、スフィールリアの中にむずがゆい気持ちが這い上がってくる。
「大丈夫? ずぶ濡れになっちゃって。まだこの学院でなにかするつもりみたいだけど、ただでさえ非常時な上に今日はもう遅いからだいたい無駄になると思うわよ? とりあえず王城への乗り込みの準備も含めて全部は明日。今日はもう休みなさい。大変だったでしょう?」
「は、はい。恐縮っす」
「そうね。でもあなたの小屋って壊れちゃってるのよね。とりあえずわたしの隠れ家にいきましょう。火を入れるのは久しぶりだけれど、手入れはさせているから。そこでゆっくり、身体も温めながらお話でもしましょうか――」
背中を持たれて、まだ雨の降り止まない石畳の上を歩いてゆきながら。
――ひょっとして、〝家族〟って、こういう感じなんだろうか。
スフィールリアは、そんなことを考えていた。
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