(3-19)
◆
魔王の使徒が出現し、一日目の朝になって。
あの巨大な球体の存在を知らない者は、もはや学院にはひとりとしていなくなっていた。
雨を落とし続ける曇天の下に浮かんだ純黒の球体は、明るくなってみれば、本当に巨大なものだと呆れさせられる大きさだった。
噂によれば直径で60メートルはあるらしい。
そんな生物としては規格外もいいところな物体が、学院敷地のほぼ中心に浮いている。
最初は<大図書館>跡地の上に浮いていたのだが、微妙に移動して、今の位置になった。
王都に向けて侵攻を開始するのかと危ぶまれたが、あの使徒はなにを考えなにを思ったのか、いまだ<アカデミー>敷地内から動こうとはしていない。
生徒たちの間で囁かれる推測としては、この学院にはいくつもの強力な宝具が保管されており、それらの物品のパワーが絶妙の均衡を保って張り巡らされている。また、綴導術的な技術を凝らして建造された建物も多く、土地の蒼導脈も調整されている。
結果、魔王使徒にとって居心地がよい環境なのではないだろうか。というものであった。
現在、王都には非常警戒宣言が発令され、段階的に市民の避難活動が進められていっている。
具体的な詳細は、まだ市民たちには明かされていない。表向きは学院で起きた詳細不明の事故による環境汚染の危険性、ということにされているそうだ。
まさかこの世の終焉をもたらす魔王の使徒が王都のど真ん中に現れました、とは、おいそれとは宣伝もできないことだろう。言えば即座にパニックになる。避難を進め、あるていどの安全域を確保するまではしかたがない。
肝心の<アカデミー>だが、現在は厳重封鎖状態となっていた。
情報統制状態のために、ほとんどの学院生徒も、外に出ることすらかなわない。一部の貴族生徒のみが、優先的に家族とともに避難を済ませているていどだ。
が、スフィールリアが思うのもなんだが、学院全体の空気は意外なほど落ち着いていた。ノルンティ・ノノルンキアを刺激すまいと息を潜めている状態とも言えるのだが。
一般生の大半は急いで学院を出たところで、学院以外に身を寄せるあてがないということもある。また、今はおとなしい球体が突然動き出したとしても、足元の学院を根こそぎていねいにブチ壊して人間を皆殺しにしてから王都に侵攻するわけではないだろう、むしろ学院内に留まっていた方が安全だと考える者も少なくないようだった。さらに一部には、学院という自分たちの根城を明け渡してたまるかという気骨のある面々もいるようで……。
しぶといというかしたたかというか、そんな学院の一面が、スフィールリアには好ましく思えていた。
「……」
それはともかくとして、ノルンティ・ノノルンキアが居座る学院中央は聖騎士団によって完全封鎖されている。
つまり、学院中央を横切ることができない。
円形に近い学院敷地の中央を切り取られたことで、どこへいくにも最大の遠回りをしなければならなくなっていた。果てしなく不便だった。
「売れますか?」
<アカデミー・マーケット>は閑散としていたものの、まだしぶとく露天を開いている生徒もちらほらといた。通りかかったスフィールリアの問いに、露店の内側であぐらをかいていた生徒は力なく首を横に振って答えてきた。
「ぜんぜん」
「……こっちは?」
緑色の液体が入ったタンクは、残りも少ないようだった。
「これは特製『リラ茶』。バカ売れ。休憩の騎士団の人たちが買ってってくれる」
苦笑いするスフィールリアに生徒が「なんか買ってく?」と期待していなさそうな声で問うので、『リラ茶』を注文すると、生徒は盛大にため息を吐きながら紙コップに茶を注いでくれた。
生徒はどこからでも見ることのできる球体を忌々しげに睨め上げて悪態をついた。
「くっそ……なにが魔王だよ。こちとら待ちに待った二年に一度の祭典の前なんだぞ。ジャマなんだよ……」
「…………」
スフィールリアはその場をあととし、フィリアルディからもらったメモ書きが指示する場所――第三講義棟、エスタマイヤー教室を目指して歩き始めた。
フィリアルディ、アリーゼルのふたりとは無事に寮棟で再会することができた。
そこでお互いの少ない情報を交換し、彼女たちが置かれた現状についても話し合った。
『ふたりは……それでも、いいの?』
学院長の決断はすでに彼女たちにも伝わっており、彼女たち自身も落ち着いて内容を受け止めているようだった。少なくとも表面の上では。
『……仕方がありませんわよ。ことがことですし、どれほどの上層部の人間や機関が動いているのかも分からないほどの事態ですのよ。命があるだけ、マシだと思わなければ』
『そう、よね。正直わたしも悔しいと思ってる……だけど、噂だと、学院長先生も退陣を余儀なくされるかもしれないってお話なの。だから本当に、これは学院長先生の最後のお力で、ご厚意なんだと思う。無駄になんかできない、よね』
『これから……どうするの?』
『わたくしは実家に戻されるでしょうね。その上で、しばらくは監視つきということになるんでしょう。記憶が失われているのなら、そのことを意識することもないのでしょうけど』
『わたしも実家に戻ると思う。これ、スフィールリア。わたしの実家の住所。引越し先が落ち着いたら教えて?』
『……』
『手紙、書くから』
『わたくしもお願いいたしますわ。フィルディーマイリーズ家に送っていただければ、確実にわたくしに届きますので』
メモ書きはその時に重ねて手渡されたものだった。
寮棟を出てしばらくしたあとに開いて見ると、内容はリノ・エスタマイヤー教師からのものだった。いわく。キャロリッシェ教室が起こした騒動によって損壊された当教室備品の修理費における各生徒の負担分について、エスタマイヤー教室は速やかなる支払いを要求する。という旨のことだった。
「……」
正直、なんのことかさっぱり分からなかった。分からなかったが、とりあえずこうしてエスタマイヤー教室の前まできてみたわけである。
メモ書きの内容はあくまで支払いの要求のみで、教室に出頭せよとまでは記されていなかった。が、手渡してくるフィリアルディの顔と内容の唐突さに、なにかのメッセージ性を感じたのだ。
扉の小窓からうかがえる教室内部に、明かりは灯されていない。
この薄闇の中に待ち構えているリノ教師が怒り顔なのかそうでないのかはともかくとして、請求の正当性についてはぜひとも問いかけなければならない。
そう決意して、ノックののち、扉を開いた。
「スフィールリア・アーテルロウンです。あの……失礼、します、ね?」
そして面食らった。
教室内にリノ教師の姿はなく。
「キャロちゃん先生。フェイト先輩」
薄暗い教室の中、適当な机の縁に腰を預けていた両名が、片手を上げて挨拶してくる。
「や、スフィーちゃん」
「大変だっただろ。アーテルロウン」
「どうしてふたりが。り、リノ先生は?」
キャロリッシェが上げていた手を振ってからからと笑ってくる。
「あはは、ありゃブラフだよ。リノに頼んでおいたのさ。気づいた? 隣のウチの教室、今、侵入者を見張るトラップが仕掛けられてるからさぁ」
「テスタの関係者が教室に接触してこないか見張られてるんだ。王室からね」
「というわけで、リノに頼んで教室借りたの。いやー、それにしてもよくまっすぐきてくれたねぇ。さすがは我が教室の生徒だわー。息ぴったしよね!」
「は、はぁ。そりゃわけわかんない請求でしたし。全額キャロちゃん先生が持たないとおかしいでしょって思って……」
「えぇ!? わたしを擁護しにきてくれたんじゃないの? なんでよ!」
キャロリッシェが心底心外そうな顔をして、フェイトが「だよね」と噴き出し……一時だけ、三人の間に和やかな空気が共有された。
そののち、キャロリッシェ教師とフェイト上級生はまじめな顔つきに戻り、彼女を見た。
「とはいえ、あまり長くここにいるのも美味しくないのよね。スフィーちゃん。こっちもテスタ君が連れてかれたことだけはつかんでる。さっそくだけど情報交換、いい?」
「は、はい。でもあたしも、なにがなんだかまださっぱりで……」
「俺たちも、今はこの学院で起こっていることのアウトラインからしか状況を見れてないんだ。君が昨夜、テスタとなにをしていて、なにを見たのか。それを教えてくれないか」
「あの。……でも。このことを知ったら、もしかしたらふたりも巻き込まれるかもしれなくって。記憶を消されるって。学院長の話だと」
「かまわないわ。気にしないで」
「わ、分かりました」
スフィールリアは昨夜のできごとをなるだけかいつまんでふたりに語って聞かせた。
『……』
事情を知り。
彼女たちの沈黙は長いようでいて、短かった。
「なる、ほどね。テスタ君が連れていかれたのはそういうわけだったのか」
「あの。ふたりは、センパイと、その……魔王の使徒のことを、知っていたんですか……?」
ふたりはあっけらかんと首を横に振った。
「いんやこれがぜんぜん」
「あいつは自分のことほとんど話さないからねぇ」
「踏み込みすぎるな。これもウチの暗黙の掟のひとつだしなー」
「でも、たぶん、あいつ自身も知らなかったんじゃないかな。自分の中にあの使徒がいたことは」
「……」
黙っていると、キャロリッシェが文字通り歯噛みするようにして親指の爪先を噛み、雨に煙る窓の外へ目をやった。
「魔王の使徒、か……そんなものを抱えていたなんて。辛かったろうな。テスタ君」
「センパイ、どうなっちゃうんでしょうか……?」
「うん」
うなづき、キャロリッシェとフェイト。
「次はわたしたちの番ね。スフィーちゃん。ここからは、わたしと、フェイト君が家の力も使ってつかんだ話。学院と王都が大変なことになってるってのは分かると思うから、『わたしたち』についての話をする」
わたしたち、というのは、キャロリッシェ教室としての話という意味だろう。
スフィールリアはうなづいた。
「テスタと、彼の後見人だったタウセン・マックヴェル先生は学院側で拘束されたあと、速やかに王室直轄の機関に引き渡された。その後記録の上ではいくつもの機関をたらい回しにされて、消息をうやむやにされた」
「でも実際のところはその手の専門のセクションに直行コースだったろうな、と、わたしたちは思ってる」
「うん。そして、たぶんこのままだと、ふたりが学院に戻ってくることはないだろう」
「そんな」
「テスタ君の内側に魔王の使徒が隠されていたことは、おそらく本人やタウセンちゃんも把握していなかった。魔王の使徒なんて存在を察知していたのなら、慎重なタウセンちゃんがあの子を学院に引き入れることもなかっただろうからね」
それでも学院がここまで速やかに行動できた理由には、まず、テスタードが特監生であることが挙げられた。特監生はほぼ全員が日常素行ないしは行動の監視を受けている。
彼が『召喚機』に類する装置を作っていたことは学院も当然把握していただろうし、<大図書館>に発生した情報爆発のログ解析などとも照らし合わせて、テスタードが〝召喚〟の中心であったことを察したのだろう。
「それと、あの使徒から放出される〝気〟とテスタの〝邪黒色〟の性質が合致したっていう情報もある。たぶん〝召喚〟と〝邪黒色〟の一致というふたつの事実から、テスタは魔王の使徒と同一の存在として見なされて、警戒されたんだと思う」
「本当のところは分からないけどね。でもそれは王室のおエラ方にとっちゃ関係ない話でしょうね」
「そう。現在の王室と付近の上層部は恐慌状態にあると言っていい。だから、魔王使徒の媒介となり得る存在であるテスタは可及的速やかかつ秘密裏のうちに処理される。これは情報の筋からほぼ確実なことだけど、彼はエルゴパッケージング凍結――永久封印処理になる。情報面から生物としての最小単位にまで解体されて、殺されることもなく分離保存される。無限の深さを持つ情報の檻だ。二度と出られない」
「そんなの!!」
叫びに、ふたりの話が一旦、止まる。
淡々と、そして恐ろしい速度で進んでゆく話に、スフィールリアはこらえ切れなかった。
「そんなの……ひどすぎます」
「……」
顔を覆って泣き出してしまう彼女を、ふたりはしばしの間見つめていた。
やがて、キャロリッシェがぽつりと、語りかけてきた。
「……みんな、怖いのよね」
「……」
「そして、必死なのよ。今ある状況をなんとかしなくちゃいけないって。そりゃそうだ。わたしだって正直怖い。わたしさ、昔に遠くから魔王って存在は見たことがあるのよね。だから彼らの感じている怖さがよく分かるよ。今ある状況の怖さを、きっとわたしは、ここで怖さを感じているだれよりもよく分かってると思う。テスタ君のような人間の存在を知れば、全力で封じ込めたいって思うはずだよ。王都民の人たちに知られれば、みんなもそう言うかもしれない」
「……」
「だからこれは、『仕方のないこと』なのよ」
「……」
次に、フェイトが。
「なにもかもを放り出して逃げることができない立場の人たちだっている。今、状況を必死に制御しようとして、今の現状を作り出している人たちだ。彼らは今回の事態に関連してかかるあらゆる内外の政治的なことから、時間、全王都民の生命、今後の世論、そしてあの魔王の使徒への対策までの全部を背負って縛られた中で、できることを見つけて成そうとしている。だれも、なにも、悪いことをしようとしているわけじゃない」
「……」
「結果、彼という個人はすり潰され、封殺されるだろう」
「っ……」
彼のことを知っただれもが彼を恐れ、彼に怒り、悲しみ、彼をなじる。
怖いから。ほかにどうしようもないから。
遠ざけて、封じ込めて、なかったことにするしかない。
その辛さ、その恐ろしさを、スフィールリアは知っていた。
だからどうしようもなく涙があふれてきて止まらなかった。
「だけど、それでわたしは納得してやったわけじゃあない」
「え……?」
キャロリッシェの強い言葉で、スフィールリアは顔を上げた。
教師と上級生は、ふたりとも、彼女のことだけを見ていた。
「納得なんてしてやるかよ。――わたしの教え子だぞ。なに勝手な理由で勝手に連れていって、わたしたちの手の届かないところで勝手に全部終わらせようとしてんだ。ふざけんな。…………と、言ってやりたいのよ、わたしは」
「俺もアイツとはまだなにも話してない――話せてなかったんだって、今回のことで分かったからね」
そして次の言葉で、彼女は目を見開いた。
「だからわたしたちは、全力でテスタ君の居場所を探し出そうと思うのよ」
「ちょっ、先せ、そ、それって……!」
慌てるスフィールリアに教師は「いやいや」と手を振って懸念を否定する。
「別に脱獄させようとか亡命させようだなんて考えてるわけじゃないのよ。さすがにそんなに甘くはないだろうしね。とにかく、テスタ君に会う算段をどうにかつけてみようってわけ」
「それこそ、言うほど甘い試みじゃないだろうけどね」
スフィールリアはようやく理解した。
細かい事情はともかくとして、ふたりは最初からそのつもりでここに参集していたのだと。
「……それでなにができるってわけでもないかもしれない。でも少なくとも、今、絶望の中に放り込まれようとしているテスタ君をひとりぼっちにはしたくない。余計なお世話かもしれないし、それであの子の心になにかを残してやれるのかとか、自分でも傲慢なのかなとか、思うんだけどさ、はは」
キャロリッシェは自嘲気味に笑いながらポニーテールをかき回して、次に指ひとつを立ててスフィールリアに向き直った。
「それに、スフィーちゃんたちのことだってそうよ。学院長先生もそうするしかなかったんだってのは分かってる。けど、それと納得してやることとは話が別よ」
「えっと、で、でもそれは……」
「スフィーちゃん」
キャロリッシェは彼女の肩をつかんできた。
「本当にこのままでいいの?」
「でも……」
教師のまっすぐな瞳から力なく視線をそらすスフィールリア。
キャロリッシェは彼女に、優しく強く、うなづいた。
「たしかにこの状況はわたしたちじゃなんともできないかもしれない。結局なんにもならないまんまで、テスタ君たちは帰らず、スフィーちゃんたちは学院を去らなくちゃならなくなるかもしんない。でも、なにもしないままで、いいの? わたしはこんなことで君たちとお別れするのは、嫌だ。なんにもしてあげられないままでお別れになるのは、絶対に嫌だよ」
「先、生……」
「もう少し、もう少しだけ、がんばってみないかい?」
その問いかけで、彼女の目に、再び大粒の涙がこみ上げてきた。
「先生、あたじ……まだこの学校にいたいでずぅ…………!」
「よしよし、それでこそわたしの生徒だ!」
ぼろぼろと涙をこぼすスフィールリアを、キャロリッシェは力強く抱きしめてくれた。
「というわけで、一日ちょうだい、スフィーちゃん。その期間でなんとしてもテスタ君の居場所を突き止めるから」
「そのあとのことは、もしもよければ、君に任せたいんだ。アーテルロウン」
「……へ?」
鼻をすすりながら、やや呆然とふたりを見やる。
「この状況をなんとかする鍵を持っているとすれば、それは魔王の使徒を秘めていたテスタ君自身にほかならないと思うのよね。もしかしたら、昨日から今日までのうちに、まだだれも知らない魔王の使徒に関する情報も手に入れているかもしれない」
「今、王室と学院はあの魔王の使徒に関して、殲滅戦も含めた対応模索のまっただ中にある。たぶんチャンスはそこにしかなく、そして時間もない。彼から魔王の使徒に対する有益な情報を引き出して、王室との司法的取引にまで持ち込めれば、もしかしたら全員が助かる道が見えてくるかもしれない」
「でも……」
「分かってる。テスタもそんな情報は持ってないかもしれないし王室が耳を貸すかどうかも分からない」
「でもそれしかないんだよ。それでもわたしたちは、間違いなく特監生の中でもトップなあの子のしぶとさと、可能性を信じたい」
「……」
スフィールリアは、しばらく、黙っていた。
そして、ひとつだけ分からなかった疑問を尋ねた。
「どうして……あたしなんですか…………?」
ふたりは、確信めいた表情で彼女を見ていた。
「んー。それはやっぱり、」
「アイツが最後に頼ったのが、君だったから、かな」
スフィールリアは、また少し黙って、考えた。
なぜ自分だったのか。
自分になにができ得るのか。
「……」
結局、少し考えても回答は得られなかった。
スフィールリアは無言のまま決意して、ふたりにうなづきを返した。
それと同時に、教室前後の扉が開かれた。
数名の屈強な男たちが荒々しく踏み込んできてはたちまちにスフィールリアを取り囲み、彼らに比べれば痩せ型の男性が彼女の前に轟然と立ちはだかる。
「スフィールリア・アーテルロウン。抵抗するな。学院の者だ。君ひとりなのかね」
「……はい」
スフィールリアは視線を動かさないようにして肯定した。
包囲の輪の外側にいるキャロリッシェとフェイトは潮時とばかりに机から腰を離し、悠然とした足取りで、開かれた教室扉へと向かっていった。
「ここでなにをしていた。だれかと話していたのか? なぜキャロリッシェ教室ではなく、エスタマイヤー教室などにいたのかね」
教室を出る最後。伏せった視界の中にキャロリッシェ教師のウィンクを確認してから……彼女はようやく状況を察した風に弱々しい表情を作り、学院のどこの者とも名乗らない目の前の男に笑いかけた。
「あの……備品の修繕費を請求されちゃって。学院を出ていく前に支払えって。それで、ここにきたら先生に会えるかと思って」
受け取ったメモ書きを胡散臭そうに通読してから「確認しろ」と部下に手渡す男は、明らかに落胆して怒りを覚えたようだった。
「まったく余計な労働を強いられた気分だ。君はもう少ししっかりと現在の自分の立場をわきまえるべきだな。学院長殿のせっかくのご温情を無駄にはしたくないだろう――」
その後スフィールリアは彼らに同行された上で小屋まで戻らされ、くれぐれも安易な行動は自重すること、外出も控えることなどをしつこいほどに言い含められ、ようやく解放された。
◆
二日目。
<アカデミー>と王室直轄の綴導術士機関である<国立真理探求院>共同による、ノルンティ・ノノルンキアの観測調査活動が開始されていた。
『1番から20番までのすべての機材の設営完了。動作問題なし。周辺生徒の避難、聖騎士団の再配置も完了しています』
『仮設lft型三重結界、三層ともに問題なし。待機中』
『ノルンティ・ノノルンキア周辺の界面偏向曲値、802768。誤差2700で安定しています』
『環境タペストリ偏向曲差、修正完了』
「始めてちょうだい」
モニタリングに使われるさまざまな機材が寄せられた学院長室には<アカデミー>学院長フォマウセン・ロウ・アーデンハイトを始めとして、本作戦に関わる各チームの責任者が集結していた。
学院南東方面にある第二講義棟の屋上に急造設置された十メートル大の巨大な〝傘〟型装置が、ゆっくりとノルンティ・ノノルンキアに向いてゆく。
各人が固唾を呑みながら、モニタリングされる機材の状況を見守っていた。
王都民の避難が予定していた一定の段階を満たしたことで、魔王使徒の本格的な調査が実施段階へと移されたのだ。
学院および王室も、魔王使徒に関する実際的なデータはほぼ所有していないと言える。そんな状況の中でまったくの幸いであったのは、あの魔王使徒がどういうわけか学院敷地をいまだ離れようとしていない点にあった。
一日。もしも一日間、魔王使徒が微動だにしなかったら。
という絵空事と言っても過言ではない希望観測的な条件設定の下、祈るように進められた避難活動は、当初の予想を超える円滑さで進められることとなった。
それにより最優先項目にあるていどの光が見えたところで、予定されていたさらなる試練がこれである。
魔王使徒に対するいくつもの対応策が同時に検討される中で、いずれにしても必須となるのが使徒の〝実物〟としてのデータだ。
これにより、せっかく今までおとなしくしていた魔王使徒をわざわざこちらの手で刺激してしまう可能性は高レベルで存在する。
もしもこれで魔王使徒が動き出せば、ぶつけ本番で聖騎士団と綴導術士チームによる総力戦が開始されることになるのだ。
しかし魔王使徒がいったいいつ動き出すのかがまったくの未知数である現状の中で、一日という待機期間はすでに各機関が感じているプレッシャーという面においても限界を超えていた。このまま情報一切なしで会戦されれば高い確率で人間側が全滅する。やるしかない。
『観測子の照射を開始。界面反響構成スタート。一次結果までの推論値、残り二十秒』
「……」
じりじりと、時間がすぎてゆく。
『十……九……』
「本当に大丈夫なのかね……」
「神よ。我らを守り給え……」
『一次構成完了』
その瞬間。魔王使徒が動いた。
「!」
むずがるように全身を微振動させ、遠目からは分からないほど滑らかに球体が反転。その真ん中にぱっちりとした割れ目が開かれ、出現した巨大な〝目〟が第二講義棟を捉えた。
第二講義棟が爆裂し、上層半分ほどが消し飛んだ。
『観測機蒸発!』
「っ……! 状況をっ!」
この場所まで伝わってくる激震にフォマウセンも思わず立ち上がっていた。
『ノルンティ・ノノルンキア周辺の界面偏向曲値、4706760に上昇!』
『目視による追加の動きナシ! ノルンティ・ノノルンキア、座標移動はありません!』
「しかけるな! まだしかけるな! 聖騎士団は後退しろ!」
「観測班も下がれ!」
「設営チームはすぐに周辺機材を破棄しろ! 最優先だ、これ以上ヤツを刺激するな!!」
室内はなかば恐慌状態に陥り、各人が各所への指示をがなり立て、または部屋にある唯一の窓にへばりついて必死の形相で様子をうかがっていた。
『2967812……1828468……次第に、落ち着いていきます……』
「収まった……のか……?」
使徒の目が、ゆっくりと閉じてゆく。
さらに十秒を待ち、二十秒を待ち……要人たちは慎重に肩の力を抜いていった。
「ことなきを、得たか」
「驚かせるな、まったく……」
『一次データの解析とフィルタリングを完了』
同時、学院長デスクに置かれた端末に、魔王使徒の存在規模を記したデータが転送表示される。
一時の安堵を得たのもつかの間、その数値の羅列を見て一同がどよめいた。数値の意味が分からない軍部や内政関係者が分かる者に説明を請い、無数のひそめき声がこだまする中で。
学院長はただ静かに、目の前の情報を受け止めていた。
「……」
先ほど蒸発した観測機は、『オランジーナ・ミッシェリカ』が入院している<特別特殊病理研究センター>にてフォマウセンが私費を投じて開発させたタペストリー測定機の拡張版だ。
採算度外視の潤沢な費用で再構築し、理論値の上限を撤廃した。
それにより精密性という点では以前の品を下回ることになったが、巨大すぎる存在の観測においては誤差だということで無視を決め込み、構築が強行された。
その装置が返してきた回答が、ここにある。
タペストリ領域範囲49842765
タペストリ領域深度34968664
タペストリ術儀界密度80437766
最大境界存在幅径値108944729
「……」
<アカデミー>に所属する教師クラスの綴導術士資格保有者のうち、<金>までの階梯術者の平均値はおよそ40万である。
だれも、なにも、具体的なコメントができずにいた。
「フォマウセン殿、これは……」
「……」
真理院統括席次長が、息を求めてあえぐように声を絞り出す。
フォマウセンは答える言葉を持たず、深く苦く、口の端を歪めたのだった。
「まったく……大したバケモノだわ」
◆
夕刻の<近くの森>。
王都に雨を落とす雲は、まだ、晴れないでいた。
「……」
スフィールリアは雨音がすべての雑音を均一にならす静謐に満ちた森の中、小屋の玄関口で時がくるのを待っていた。
やがて雨音の中に水の跳ねる音が混じっていることに気がつき、顔を上げる。
小屋のある広場に駆け込んできたのは、男性用のスーツとハットに身を包んだキャロリッシェ教師だった。ちょろんと巻いた口ひげまでつけている。
「やー、参った参った。土砂降りだねこりゃ」
「先生。どうして男装なんか」
傘をくるんと回し、教師はなぜかふふんと胸を張ってきた。
「今のわたしはここにはいないことになってるからねぇ。王都の三箇所で絶賛追跡され中よ」
「こっちは四箇所ですよ」
と、小屋の裏手側から歩み出してきたのは、レインコート姿のフェイト上級生だった。
「……と。今、三箇所になりました。時間がないです」
キャロリッシェがフェイトに向き直る。
「こっちはハズレだった。てことは?」
フェイトはうなづいて答えてから、スフィールリアを見た。
「見つけましたよ。でもちょっとマズいことになってます。渡りをつけたところで横槍が入って。――アーテルロウン。そういうわけだから、すぐに動いてほしい。今から四十分以内に向かえば、面会まで全部の段取りは整ってる。テスタのところまで直行できる」
スフィールリアはうなづいたが、懸念事項も伝えなければならなかった。
「分かりました……でも、あのあと通達があって。あたしたちへの〝処置〟を今日行なうって。もうすぐ迎えがくる時間なんです」
ふたりの決断は早かった。
「……このまま送り出しても、アーテルロウンがいなくなってることはすぐに勘付かれて補足されますね。俺がいくと、家の名前が相手に露出して、ちょっとマズいことになります」
「かといってわたしがいってもスフィーちゃんが連れ去られちゃうしな。分かった。わたしが表に出る。スフィーちゃんを誘拐して王都に潜る……てことにする。あとでキャロリッシェ教室名義で学院長宛に抗議文と犯行声明を出す。それで少しだけど、スフィーちゃんがテスタ君に会えるぐらいの時間は稼げるでしょ」
「で、でも! それじゃキャロちゃん先生が捕まっちゃうじゃないですか!」
叫ぶスフィールリアに、彼女は軽快なウィンクを返して微笑んだ。
「その後のことは、うまく調整してくれるとうれしいなっ」
「でも……!」
「大丈夫よ。わたしの教え子はしぶといんだ。そうでしょ?」
「……」
スフィールリアはうなづき、キャロリッシェと抱擁を交わした。
「じゃあ始めよっか。フォルシイラー、出ておいでー! お毛毛が焦げちゃうよーん!」
「な、なんだなんだ!」
「ど、どうしたっちー?」
ただならぬ気配を察して玄関口から慌しく出てきたのはフォルシイラとイェルだ。
「フォルシイラ! イェル!」
そのふたりに、スフィールリアは、強く呼びかけた。
「あたし、もうちょっとだけがんばってみることにしたので!」
「……」
「……」
ややあって、
「ん。そっか」
「その方がスフィーっちらしいよ~」
フォルシイラがうなづき、イェルも緩い笑みを返してくれた。
「あとで弁償するからね」
と言うと同時、キャロリッシェが工房に『レベル4・キューブ』を叩き込んだ。
大爆発が起こって工房窓が内側から吹き飛び、フォルシイラが「あああ~~~」と悲しそうな声を上げた。
上がる黒煙を見て、学院の使者もほどなく異常を知るだろう。
「あ、あたいっちはここにいない方がいいよね! じゃー適当に飛んで逃げてるがよ!」
がんばってね~~! と声援を送りながら、杖に跨ったイェルが森の上空へと姿を消す。
「やれやれ……俺も森のどっかに隠れてるか。まぁ心配するな。この森で俺様をとっ捕まえられる人間なんていないからな」
のそのそと、フォルシイラも森の茂みに潜っていった。
「さて。それじゃわたしもフケるから。あとは頼んだフェイト君!」
「いこう。アーテルロウン」
スフィールリアはうなづき、駆け出すフェイトのあとをついていった。
自分はまだ、なにも知らない。
この場所でなにが起こったのか。自分の知らない場所で、なにが起こっていたのか。
テスタードのことも。なにも。
だからそれを、たしかめにいく。
なにも分からないまま、無関係のままで退場なんてしてなるものか。
自分で知り、自分で関わって、自分の道を決める。
そのために。
◆