(3-15)
◆
学院内、『貴族組』の寮棟。
その一室のドアを、上品にノックする音が響いた。
「お入りなさい」
「失礼いたします」
主の許可を得て入室する。デスクの前まで進み、ワイマリウスは主に一礼をした。
「して、いかような御用向きでございますでしょうか。エスレクレインお嬢様」
主――エスレクレイン・フィア・エムルラトパは振り返らない。その視線は今はただ物憂げに、窓の外に投げかけられていた。
「夏ね……」
「……は?」
「そう。夏……夏ですわ。夏と言えば、なにか。お分かりでして、ワイマリウス?」
そこで椅子ごと振り返ってくる。問いかける彼女の表情は真剣そのものであった。
瞬間、ワイマリウスの脳裏に閃くものがあった。
「海……ですかな?」
「海……悪くないわ。でも、それは完全ではない。完全ではないの」
ほぅ……と想いを馳せるようにため息をついてから、彼女はワイマリウスを正面から見返した。
「お泊り会よ」
「おお」
「よろしくって? 夏なの。レジャーの季節なの。青春がもっとも力強く輝ける時。お友達と煌く陽光の下を駆け抜け、弾ける汗を称え合うの。そして存分に交友を暖めたあとにあるもの……それが、お泊り会なの」
「感服いたしました。お嬢様。しかしながらひとつ、問題がございますかと」
この期に及んではワイマリウスにもすべてが分かっていた。だからこそ、言う。
「なに?」
「スフィールリアお嬢様は現在、きたるコンペ祭に向けての製作にかかり切りになっておいでです。先日の湖の一件のように、お遊びに出かける余裕はないかと」
「そこよ」
「は……それは」
「遊びに遠征する余裕がない。それがなにを意味するか……そう。現地で遊ぶしかないのよ。現地――つまり、スフィールリアさんのお宅でね!!」
「なん、と……!!」
「あぁ、スフィールリアさんのお家。なんという甘美な響き。交友に余念がない彼女は忙しい中でも、きっと、その機会を作り出してお友達にお声をかけるでしょう。そのロケーションは……まさしく、スフィールリアさんのお家で……ふ、うふふふふふふふ……!」
ワイマリウスは彼女に惜しみない賞賛の拍手を送った。
その間にも彼女の妄想は加速してゆく。
「まずはスフィールリアさんのお汁がたっぷり溶け出したお風呂のお湯がぶ飲み大会でしょう?」
「すばらしいです、お嬢様」
「次にスフィールリアさんの匂いがたっぷり染み付いたお布団の匂い吸引大会でしょう?」
「ブラボー」
「そして最後はなんといっても添い寝! ……添い寝!? あああああ、そんなん絶対鼻血が止まらな……うぶっ」
ぶぱっ! と赤いものを噴き出し、エスレクレインは止まった。
そして、
「先手を打っておかなければなりません」
「……」
「あとは……お分かりね。ワイマリウス?」
「はいっ! さっそく提案と交渉に赴いてまいります!」
ごう、と全身を黒い煙に変えて、ワイマリウスの姿が消える。
そして一分後。一歩も動かぬ位置に再び、現れた。
「首尾は?」
「はいっ! 断られてしまいました!」
「なん……ですって」
「スフィールリアお嬢様はまず、わたくしめの姿を認めますと『ひえっ』とお声がけくださいました」
「まぁ、優しいお方……」
「次にエスレクレインお嬢様のお名前を出しましたところ『ひぃっ?』と驚かれ、」
「うふふ」
「エスレクレインお嬢様のご提案を告げましたところ、ご体調が優れなかったのか全身を震えさせ、『ひえぇ~~え』と悪寒を表明されまして」
「なんということでしょう」
「最後にわたくしめに高速で十回ほど謝罪のお言葉と許しを請う言葉をかけられたあとに、お断りの言葉をいただき、いずこかへと走り去っていってしまわれました」
「きっとあなたへの感染症を心配していただいたのね」
「マスクを着用してゆくべきでした。すべてはこのワイマリウスめの失態。いかような処罰もお受けいたす所存にございます」
「いいのよ、ワイマリウス。いいの。あなたの失態すべてを許すわ。それにしても……うふふふ。相変わらず奥ゆかしいお方」
「……」
「今ごろ、どうおすごしになっているのかしら」
◆
その瞬間。
テーブル上に突っ伏していたスフィールリアは全身をぶるると震わせ、警戒の眼差しで周囲を見回した。
「どうしたの、スフィールリア?」
「いや、なんか急激に寒気が」
と言って彼女は周辺の安全を確認すると、再びテーブルの上に突っ伏してしまった。
場所は昼食時に賑わう大食堂の一角。
フィリアルディとアリーゼルが顔を見合わせ、心配そうに声をかけた。
「風邪ですの?」
「大丈夫……? 最近、あんまり眠ってなさそうだし」
なんとか組んだ腕の上に頭を起こし、スフィールリアは「うん……」と覇気のない声で答えた。
「こないだ、やっとテスタードセンパイのお手伝いがひと段落ついたんだぁ……工房に入ってからロクに寝かせてもらえなかったよ……あの人の体力すごすぎ……」
その時、近くの席から「きゃっ」という声が聞こえてきた。
「?」
彼女がそちらを見ると隣接していたテーブルに着いていた女子数名が慌てて立ち上がり、そそくさと立ち去ってゆく。彼女たちは小走りに去る間も「きゃー」などと黄色い声をささやき合っていた。
「なんだったんだろ」
「さぁ」
「それより、首尾は順調なんですの」
スフィールリアは若干隈の残る顔をニヤリとさせて、グッと親指を立てた。
「だいぶ進んだよ。空いた時間であたしの出展も見てくれるって」
「そっかあ、よかったね!」
「そうでなくては、わたくしたちの時間まで使ってお手伝いした甲斐もありませんからねぇ。奮闘を期待していますわ」
音も立てず紅茶を上品にひと口煽って、アリーゼル。
カップを置いた時には、やや真剣な眼差しになっていた。
「ですけど、やはり気をつけた方がいいですわよ。スフィールリアさん」
「? なにが?」
〝黒帝〟殿ですわよ。と、彼女は小声でささやいた。
「今さらかもしれませんけれど、いろいろと調べましたの。――あの人、かなり危ない人物ですわよ」
「そうかなぁ? 割といい人だと思うけど」
「暢気な」
アリーゼルはため息をついてから、気を取り直してスフィールリアの方に身を乗り出した。
「いいですか。たしかに最近はおとなしくなったと評判ですが……それはあくまで過去と比べての話です。一年生の時の彼のお話なんて、すごいですわよ。『貴族組』の寮棟を爆破したんですから」
「貴族様の寮を!?」
フィリアルディがびっくりした声を上げ、アリーゼルが『シーッ』と押さえる。
内容も内容だったのでさすがにスフィールリアも惹かれて、三人で顔をテーブルの中央に突き合わせる。
「ご、ごめん……」
「『貴族組』に聞かれると目をつけられるかもしれませんからね。続きですが……しかも、もっとも人が多かった深夜を狙って、ですわ」
「うわぁ……夜襲だ……」
「そう。まさに夜襲ですわ。最初のころの彼は、不思議なくらいに一般常識や教養に疎いところがあって……『貴族組』に目をつけられて、嘲笑の対象になっていましたの。まぁ端的に言って、嫌がらせの日々、というやつですわね」
「……」
「取引などの面でも不手際や衝突が多かった。そういったトラブルから発生した暴力沙汰なども。結果として『貴族組』以外の、さまざまな方面からも疎まれていたと言います。話をうかがったお方の印象としては、『今思えばあれは、とにかく金を稼ぎたくて必死だったんだけどどうにも話が合わなくて、本人も強引に話をまとめようとしてたってカンジだったのかも』ということですが」
「そういえば、センパイってお金にはうるさいもんね。どうしてそんなにお金が欲しかったんだろう」
「さぁ。それはわたくしにも。……とにかく最初の半年はそんな調子で『やっかいな問題児』という風でしたの。それが次の半年にはパタリと事件などは起こさなくなり――取引などのトラブルは相変わらずでしたが――彼のウワサ話はそこで一旦、途切れますの。敵対勢力からの嫌がらせは続いていたようですが、彼はひたすら無視を……いえ、きたるべき日のために〝力〟を蓄え、我慢をしていたのですわ」
「うわ。この時点でもう怖い」
しかり、とうなづき、アリーゼルは続きを口にした。
「そして一年の最後の月に……〝黒帝〟という名前が知らしめられたのですわ。彼は手始めに、自分に散々嫌がらせを施した『貴族組』の寮棟の爆破を慣行し、そして次々と、それまで存在していた敵対勢力への報復活動を展開していったのです。その圧倒的な力を前に『貴族組』のグループも武闘派サークルも地下サークルもなすすべがなく。わずか三日で、当時の学院内の勢力図は大幅に塗り変えられたと言います。教職員サイドも彼の行動があまりに迅速であったために、対応と追跡が追いつかなかったというほどです」
昼はどこかに身を潜め、復讐は夜に決行される。分かっていても、どんなに防備を固めていても――防げない。朝になればまた三つ四つの組織が消えている。
このことから当時の事件は〝ブラック・インパクト〟として語り継がれ、今でも一部の人間(特に当時彼に敵対していた関係者)たちからは口にするだけで恐れられる〝禁句〟となっているのだとか。
「ひえぇ……」
「でも、そんなに真っ向切って貴族様を攻撃したのに、どうして今も学院にいられるのかしら……」
「そこですわ、真に恐ろしい部分は。それだけの大規模かつ派手な事件だったにも関わらず――事件の事後処理は事件が発生していた三日間よりも短く完結してしまいましたの。被害者ほぼ全員が、特に貴族生徒たちから、事件を表ざたにしないようにという嘆願がなされたのですわ」
「えっ。被害者本人たちから? なんで?」
「それについてはだれもお口を割りませんでしたの。でもおそらく、なんらかの『弱み』の類を握っていたんでしょうね。その上で動いたのですわ。〝黒帝〟殿は」
そしてその事件を境に〝黒帝〟の名は広まり……
ほとんどの者が、彼に敵対することはなくなった。
「と、いうわけですの。でもこんなのは始まりにして、ほんの一部にすぎませんわ。その後も彼はありとあらゆる邪魔者を問答無用で排除してかかり……現在の〝金〟の階級まで上り詰めたのですわ」
「……」
「……」
でも。と、スフィールリアは頬をかいた。
「気をつけるって言ってもなぁ。どうすれば」
「強いて言うなら、関わり合いになること自体を気をつけるべきですけど」
「う~ん。でもなぁ。やっぱり、悪い人には思えないし。なにか事情があるのかもしれないし」
と考える素振りを見せるスフィールリア。
「それにあたしが今の状態から<白磁>の階級になるにはこれが最短だしね。……なんとか食らいついてみるよ」
アリーゼルとフィリアルディも、答えを聞く前にはもう笑っていた。
「そう言うと思いましたわ。生半可な相手でないということだけ覚えておいていただければ」
「なにかあったらわたしたちもまた手伝うよ。がんばって、スフィールリアっ!」
ふたりに礼を言って、スフィールリアはキャロリッシェ教室に向かっていった。
十分後。
「……」
スフィールリアは教室へ向かう途中の廊下で、テスタードの姿を見つけていた。
「おらっ、並んでチンタラ歩いてんじゃねー。邪魔なんだよっ!」
と前方にいたふたり組を脅して道の隅へ追いやったかと思えば、
「テメーなに突っ立ってコッチ見てんだコラ。ケンカ売ってんなら買ってやろうか」
いきなり顎の向きを反転させ、丸メガネのひ弱そうな生徒を震え上がらせて退散させている。
そんな〝黒帝〟の横暴ぶりを見て、廊下をゆく生徒たちは自然と波が引くように道を空けてゆく。
人々の視線は、だいたい、冷たい。
それはそうだ。道を歩いているだけでどうしてこんな風に脅されたり怯えたりしなければならないのだろう? と思うのが普通だろう。それに彼の態度は知識の城と言うべき<アカデミー>にあって到底ふさわしいものではない。
だが、スフィールリアはずんずんと進んでゆく彼の背中を見て首を傾げていた。
(うーん。あれってやっぱり、そうだよなぁ)
テスタードは、また廊下の端に固まっていたひとつのグループを脅しつけている。少しだけ彼の進路にはみ出していたのが気に食わなかったらしい。
それはともかく、スフィールリアはあるひとつの法則に気がついていた。
なにも彼とて、道ゆくすべての人間に声をかけてゆくわけではない。
彼に対してある一定範囲の距離に入ろうとした者が〝威嚇〟の対象になるのだ。
初日、彼から痛い目に合わされた彼女には、その〝範囲〟の持つ意味が分かったのだ。
その一定範囲というのが――テスタードの持つ〝邪黒色〟の〝気〟が漏れ出す範囲だということに。
「……」
スフィールリアが看破したように、テスタードは無数の強力なアイテムを身に着けることで制御が難しい〝邪黒色〟を強制的に押さえつけている。一見豪勢に飾りつけているように見えるあれらは、半分以上がそのためだけに用いられている拘束具なのだ。
だがそれも完全ではない。もしもうっかりすれ違ってあの範囲内に入り込みでもすれば……真っ向から相対して倒れてしまった自分ほどではなくても、気分や体調を崩すことはあるのではなかろうか。
あるいは〝気〟に当てられやすい体質だったり、病弱だったりする者だったら……?
ひょっとしたら、彼が一年の時にあった暴力沙汰というものの一部には『それ』も含まれていたのかもしれない。
やっぱりそうなんだと、スフィールリアは自分の考えに確信を持った。
だから彼は、普段からあんな態度を取るようになったのだ。
だれも自分に近づかなくなるように。
「……」
それに――彼の〝色〟を模倣したスフィールリアにだから分かる。あれは保有者であるテスタード自身をも蝕んでいる。模倣した内側に〝金〟の〝気〟で保護層を作って自分を守っていた彼女とて〝邪黒色〟はそう長い時間は模していられなかった。
周囲にいるだけであれなのだから、その力の中心いる彼自身の苦しみは、いったいどれだけのものだろう?
制御の利かない力を強引に押さえつけて。だれにもその苦しみを理解されずとも、それでも他人を傷つけないように――孤独の道を、選んだ。
それを思うと、すべての者を攻撃的に跳ね除けて疎まれながらも進むあの背中が――とても力強く、尊いもののように思えてくる。
「……」
スフィールリアは笑みを浮かべて、テスタードの背中に追いつくべく小走りに駆け始めた。
今日も今日とて実技実習に明け暮れるキャロリッシェ教室の休憩時間にて。
スフィールリアは一緒だったエイメールに声をかけて別れてから、とてとてとテスタードの席に近寄っていった。
〝黒帝〟の特等席は教室の一番うしろ、窓際にある。
「センパイっ」
今日も今日とて実習には参加せず雑誌を開いている彼に声をかけると、ギロリとすごまれた。
「またお前か。気安く近寄るんじゃねーよ」
「あはは、あたしは大丈夫ですってば。ほらね?」
と両腕を広げて見せる。彼にならば分かったはずだ。スフィールリアが三色のタペストリーを配色して体表面を保護していることが。
「……」
「ずいぶん『慣れて』きたみたいだね、アーテルロウン」
にこにこした顔で声をかけたのは〝黒帝〟のすぐそばに椅子を寄せて座っていたフェイト上級生だ。
こうした休憩時間、しばしば教室隅で見られるのがこのコンビだ。たいていはフェイトが一方的に話しかけて、〝黒帝〟が雑誌を読みふけりながら生返事をしているという風景だが。
最近ではこの中にスフィールリアの姿も追加されるようになっていた。
フェイトの言葉の意味が分かるので、彼女もニカッと笑ってもう一度自分の姿を見せた。
「はいっ。工房でみっちりコキ使われてる間に学習しましたよ! バッチリじゃないですか?」
「うんうん。やっぱり似たような〝回答〟になるんだね。興味深い結果じゃないか、テスタ?」
「ケッ」
そう言うフェイトも、スフィールリアにかなり近い構成のタペストリーを展開していた。
最初のうちは気づかなかったが、彼もテスタードの前では常にこの〝式〟を展開していた。
ではこの彼に中和法を教えてもらおうかとも思ったのだが、彼女は思い直して独力で構築法を模索した。〝黒帝〟に食らいつくなら、これくらい自分でできなくてはだめだと思ったからだ。
テスタードに話しかけるフェイトはどこかうれしそうだ。
「中和っていう選択肢を考えつけはしても、こうして自然に呼吸と同じように展開しておけるのはやっぱりすごいと思うよ。やっぱりアーテルロウンを紹介して正解だったね。よかったじゃないか、テスタ」
「ぜんぜん、よくねーよ。うっせーのがまた一匹増えやがった……」
「素直じゃないなぁ。前から言ってるだろ。君はもう少し腹を割って話せる友達を増やすべきなんだよ」
「言っておくぞ。俺はお前に腹割ったつもりなんざ一度もねーからな」
「あ、そうそうアーテルロウン。その術式どうせなら物理媒体を使った方が断然楽になるよ。けっこう小さくまとまるんだ。今度教えてあげるよ」
「おぉっ、ほんとですかっ? ぜひお願いします!」
「流すなタコがッ」
とすごんでもふたりはからからと笑うだけなので、〝黒帝〟はうんざりした風に息をついた。
雑誌を机に放り投げて、スフィールリアに目を向けてくる。
「……。で? お前はそろそろ例のプレゼンは用意できたのかよ」
「はいっ。って言っても、まだまだぜんぜん概要の段階なんですけど」
「まぁ別にそれでもいいわ。ダメかどうかはそんくらいの段階でだいたいはっきりしてるもんだからな」
「そういうものですか……!」
「お、ついにアーテルロウンの出展物も始動するのかい? どんなのをやるんだ?」
「うるせーぞフェイト。コイツを俺に丸投げしたてめーに関与する権利はねぇ」
「うわ。独占欲だ。気をつけた方がいいよアーテルロウン。こういうヤツに限って普段の寂しさから、求め出すと止まらなくなるんだ。なにかされそうになったらすぐ言うんだよ」
「よっし分かったお前のメッセージたしかに受け取ったぞ! 今すぐ決着つけてやるから立てやゴラァ!」
「ちょっ……落ち着いてくださいふたりとも!? ほらみんな対ショック体勢取ってますよ!?」
フェイトとテスタードが立ち上がったのを見て、教室生のほぼ全員が一斉に机の下に隠れていた。
が、結局はフェイトの方が笑ってごまかしたことで事態は収束したようだった。
珍しく笑い声が響くその一角を、ジルギット三年生が呆れた眼差しで見つめていた。
「すげーなぁ、スフィーは。だれとでも打ち解けるヤツだとは思ってたけど。まさかアイツにまで近寄っていって無事でいられるとは」
机の下から這い出して、エイメールがおずおずと声をかけた。
「ジ、ジル先輩は隠れないんですね。すごいです」
「ん? ああ。もしフェイトのヤツが本気だったら立ち上がったりしないさ。予備動作なんかなしにいきなり攻撃してただろうからな。絶対にフェイトの方が先手を取る。〝黒帝〟が相手でもな」
「そ、そういうものですか~」
見れば、前方の教卓のキャロリッシェなんかも「青春だね~」なんて言いながらニコニコと日和見を決め込んでいる。
「しかし、大丈夫なんかね~、スフィーのやつは」
「な、なにかテスタード先輩のことで、危険なことでも……!?」
もしも彼女に危険が起こり得るなら相手が〝黒帝〟であっても放ってはおけない。というつもりで意気込んで詰め寄ったのだが、ジルギットの答えは少し違うものだった。
「い、いや。アイツのことって言うか……まぁアイツのことなのか。なんかな、最近妙なウワサが流れてるから、さ」
「……ウワサですか?」
「ああ。近いうち、アイツ――〝黒帝〟が『とんでもないことをやらかす』ことになるだろうとかなんとか」
「とんでもないこと、ですか? よく聞くいつものトラブルとかではなくて?」
頭をかく彼も、腑に落ちない様子だった。
「まぁ、そうなんだけど……どうも違う気配なんだよな。俺も詳しいことは分かんないけど。たしかなのは、アイツの敵対勢力がまた動き出したらしい、ってことだな。そいつがウワサを流してるんだろ」
「……」
「……っと。いや、テスタードのことはどうでもいいんだけどな。でもスフィーのことは心配だから、今度知らせておいてやってくれよ。巻き込まれるところは見たくないしな」
しかし、その警告は少しだけ遅かった。
◆
放課後の時間のことである。
コンペ祭の出展案をテスタードに見せるために彼の工房へと向かう途中で、スフィールリアたちを呼び留める声がかかった。
「久しぶりだね、テスタード・ルフュトゥム。いや今は〝黒帝〟だったか?」
夕焼けを背後に、彼らの前に割り込んできたのは男子生徒だった。
夏用の白のローブを着込み、線は太くなく、戦闘などは得意そうではない。標準的な綴導術士のスタイルということだ。
印象の薄い男だが、その瞳に宿った光は妙に粘っこい。
そんな男だった。
「なんだ、お前?」
「あれ、センパイのお知り合いじゃないんですか?」
テスタードの第一声に、男はビキ、とこめかみを引きつらせたようだった。
「ぼくだっ。イルジース・マルコットーだ! 一年のころ初期クラスで同じだったろう!」
「あぁ? 一年……? 一年、一年、初期クラス…………」
十秒、悩んで……テスタードは顔を上げた。
「で、なんだお前」
「あきらめてるんじゃないっ。思い出せよ! ぼ・く・だっ!」
言い切る前にテスタードがひょいっと『レベル1・キューブ』を放り投げていた。顔の前で炸裂して男が「ぶわぁあ!?」と大げさにのけ反り尻餅をついた。
だん! と〝黒帝〟が一歩を踏み出す。
「ひぃっ!?」
「なんだ、お前は、つってんだ」
「ひっ……やや、やめろ! ぼぼぼ、ぼくは貴族だぞっ。手を上げたらどどどうなるか分かってるだろうな!?」
「はぁ~~ん、貴族様だぁぁぁああん!? そぉおおおおですかあああああ!」
「ひっ、ひひひひひぃぃいい~~い!?」
まったく怯まずポケットに両手を突っ込んでズンズンと進み寄るテスタード。
イルジースと名乗った男もずりずりと尻をひきずって高速で十メートルほど離れてゆく。
離れていってから、ようやく立ち上がった。平静さを装いつつもかなり無理をしているようだったが。
「ふ、ふふ、ふ! 二度ならず三度までもぼくをコケにしてくれるとは、本当にいい度胸だ。だがまぁいいさ。〝黒帝〟だのなんだのと呼ばれていい気になっているようだが……お前のその栄光も、じきに終わるのだからな」
「はぁ~あ? いきなり初対面で話しかけてきておいてなに言ってんだお前。アタマおかしいんじゃねーのか?」
「初対面じゃ、ない!! って言ってるだろ!!」
だんだん! とその場で地団太を踏むイルジース。
一方で〝黒帝〟の横にいるスフィールリアは、あぁ、だんだんヤバくなってきたなぁ……と焦りを覚え始めていた。
テスタードがどんどんイライラしてきているからだ。
彼のポケットの中で、ジャリ、と音が鳴る。このままでは高レベル『キューブ』の炸裂もあり得る……。
が、しかし。
次の言葉で、その熱が一気に――冷めた。
「ふ、ふ、ふ。ま、まぁ待ちたまえよ……『学院の秘宝』を狙ってるんだってなぁ? そうなんだろう?」
「――」
テスタードの顔から表情が退いてゆく。
その様子を見たイルジースは、ここでようやく余裕を取り戻したようだった。
「うふ、ふふ! そうだろうそうだろう」
「へえ」
〝黒帝〟の顔に凶悪な笑みが宿っていた。
「なるほどな。それなりに調べて、ケンカ売りにきたってわけだ。いいぜ」
今度こそ本気の戦闘態勢で一歩を踏み出した〝黒帝〟に、イルジースがまたも「ひっ!?」と怯えて後ずさる。
「ま、待て待て! いきなり攻撃態勢に入るやつがあるかっ。い、い、いいのかっ? 俺がなにを知っているのかを知らないまま吹き飛ばしてしまっても!?」
「……へぇ?」
ぴたり、とテスタードが動きを止めた。
「ま、まったく。これだから野蛮人は」
「まるで、俺が知らない『なにか』まで知っているぞって言い方じゃねーか」
「その通りだよ、〝黒帝〟くん」
自信たっぷりと胸に手を当てつつ、心なしかまた少し距離を取っている。
「今日はね、警告をしにきてやったのさ」
「警告、ねぇ。なんかデジャヴなんだが……。で?」
「悪いことは言わない。『学院の秘宝』はあきらめるんだな。お前には無理だ。お前はアレに対して大いなる勘違いをしている」
「……」
「……ふふふ! その様子だと、心当たりがあるんじゃないか? そう、ラシィエルノの<賢者の茶会>の連中にも同じことを言われたんだろう? だがね、ぼくにはヤツらが知らないことまで知識があるんだ! お前すらも知らない、お前自身のこともなぁ!」
はぁ? とテスタードが拍子抜けした声を出した。
「俺がなんだって?」
その様子までもがうれしいのか、男のボルテージはぐんぐんと上がっていっているようだ。
「っふふふふ! なにも知らない愚者の姿のなんと滑稽なことか! お前の〝召喚〟はかならず失敗するんだよ。かならずだ! お前は舞台に上がる前に引きずり降ろされるだろう。ふ、ふふ、ふ! それだけじゃない。<賢者の茶会>だって出し抜いてやる! そう――」
男の高揚は最高潮を迎えていた。
だから、スフィールリアとテスタードが自分を見ていないことにもかまわないようだった。
「…………」
ふたりは、空を見上げていた。
ひょるるるるるる…………
風を切って、なにかが猛烈な勢いで飛んでくる。
男がガバァ! と両腕を広げて宣言した。
「『学院の秘宝』は――ぼくのものだッ!!」
その姿が、猛烈な爆炎の中に消えていった。
芝がめくれ上がり、樹の枝がびちびちと音を立てて爆風に煽られる。
もうもうと立ち込める粉塵が立ち去ってゆき……クレーターの中心に元のポーズのままのイルジースの姿が現れる。
「………………っかは、あ、…………が…………」
そして。
「…………なんだ、今の…………は」
煤まみれ泥まみれになったその体躯を、ドサリと倒れさせた。
『………………』
ふたりしてやや唖然としていること、三秒後ぐらいだろうか。
「おおおおおおおおっほっほっほっほっほっほ!!」
という高笑いに振り返ると、そこには二十数名からなる女子生徒の軍団が到着していた。
「お初お目にかかるな、スフィールリア・アーテルロウン! 我ら誉れ高き〝黒帝〟FCの急進派閥が一! 『〝黒帝〟様に近寄るクソメス虫どもを完全駆逐する会』の面々よ!」
ギクリ、とスフィールリアはあとずさった。
「げええええええええ、き、急進派!? あ、あの、穏健派の人たちでなく!?」
「なんだコイツら」
「あぁっ! 〝黒帝〟様の視線と意識がわたしたちにっ」
「で、ではテスタードセンパイ。あたしはこれで……どーぞファンクラブの人たちと友好を暖めてクダサイ……」
「逃がすかっスフィールリア・アーテルロウン! 標的は貴様だっ――わたしたちの〝黒帝〟様に言い寄ったばかりでなく工房に転がり込み……あ、あまっ、あまつさえ! 〝黒帝〟様と一夜をともにして寵愛を得るなどと…………ぅぅううきイイイイイ――――!!」
「なんのことですかっ!?」
「白々しいっ! 貴様が食堂でこれみよがしに自慢して回っていたとすでに学院内はその話題で持ちきりなのよっ! 覚悟せぇやあああああああ!!」
「ひょええええええ!?」
ちゅどん! ちゅどどどん!
女子生徒たちから次々と攻性兵器を投げつけられて、スフィールリアはたまらずに走り出した!
「待たんかいコラァァアアア!!」「往生せぇやーーー!」「命取ったりゃれりゃーーーー!!」
ズドドドドドドド…………!
嵐のようにすべてが走り去り……
あとには女子軍に踏みつけられて足跡だらけになったイルジースの抜け殻だけが残っていた。
「お、のれ……どこ、ま、でも、このぼくをコケに…………〝黒帝〟テスタード、そし、て……!」
ぎっ、と顔だけを起き上がらせて、男は瞳に憎悪の炎を燃やした。
「スフィールリア・アーテルロウン……!」
◆