(1-07)
◆
買い物から戻り……。
「ええと、それでは早速、監察最初のステップなんですが」
心持ち首を低く、微妙にビクビクしつつもフォルシイラが最初の提案をした。
「はーい! 待ってました」
「あっその前に」
「? なぁに」
フォルシイラが傍らに置いていた風呂敷包みをくわえて、スフィールリアの前に置いた。その中には、一年生用の教科書、簡易調合・調剤キット、成型器具などなどの初期教材セットが詰まっていた。
「あ……これ……」
「教材の買い出しは今日までだって小娘が言ってたので……」
「わーっ、忘れてたーー! 買いにいってくれてたのっ? ありがとーー!」
がばっと抱きつくが、今度はフォルシイラも怒らなかった。ちょっとビクッとしていた。
「う、うん。人間嫌いだけど、頑張った……」
「ありがとうねー、ありがとうねー。よしよしよし。スンスン……うーーん、まだちょっと臭いな」
「ご、ごめんなさい」
「いいよっ。だいぶマシだし。あとで一緒にお風呂入ろうね! それに敬語なんか使わなくていいんだよ?」
「ええー、で、でもぉ」
「もう。同居人で、一緒に活動してく相棒なんでしょ。乱暴なこととか横柄なことさえしなきゃ、あたしだってそこんところはちゃんと認めるってば。ねっ?」
「そ、そう? じ、じゃあそういうことなら普通にしま……させてもらおうかな」
すっかり機嫌の戻った彼女に優しくなで回されている内に、最初はビクついていたフォルシイラも下手なことをしなければ怒られる心配はなさそうだと分かり始めて、だんだんとまんざらでもなさそうな表情に変わってきた。
すっかり、調教され始めてきていた。
「それで、活動監察の最初って?」
「あっ、そうそう。ええとです……だな、まずは〝綴導術士〟と〝綴導術〟の簡単な触りから……いい?」
「うんっ。あたしもタウセン先生いわくモグリだったらしいし、師匠以外の人は知らないから、ちゃんとした綴導術士ってよく考えたら知らないや。えへへ」
「まあアイツがそんなこと丁寧に教えるわけないもんな……ごほん。では。まず結論から言うと、現在の綴導術には〝二種類〟の意味が存在する」
スフィールリアの学院生としての活動の第一歩が、始まった。
「……二種類?」
「そう。あくまでも意味であって、綴導術というくくり自体はひとつだ」
スフィールリアが椅子を引き寄せて座り、向かい合ってフォルシイラは練成釜を固定する大台の上へ。授業をする講師と生徒のような位置取りになった。
「まずひとつは、古代綴導術士の理念としていた〝霧〟への対症法としての綴導術。もうひとつが、物質を変成して、人間社会にとって重要な様々な物品を作り出す、〝職種〟としての綴導術になる」
「あー……なるほど、ね」
「うん。まあ実践してたならそれくらいは分かるよな。それで、今回触れておきたいのは、後者の方だ。アイテム作成に関する最基礎項目――綴導術士が綴導術士たる、その所以とも言える部分だ」
スフィールリアが「うん」とうなづくと、フォルシイラ。半身を振り返り、練成釜に前足を当てて見せた。
「世界は、〝情報〟でできている。綴導術士はみな、物質と世界を形作る〝情報世界〟を知覚し、実際に触れて影響する力を持つ。この〝情報〟の流れを〝蒼導脈〟と言う」
もう一度スフィールリアは、うん、とうなづいた。
綴導術理論において、この世のすべての物質には、その存在をつかさどるありとあらゆる〝情報〟が宿っているとされている。
この〝情報〟があって初めて、元素は元素、物体は物体、物質世界は物質世界としての様相を保っていられる。――と、されているのである。
「〝蒼導脈〟というのは、この情報世界に偏在する〝情報〟そのもの……情報世界上にたゆたう〝大気〟のようなものだ。綴導術士はこれに直接手を触れて、干渉する力を持っている」
その〝情報世界〟のことを、<アーキ・スフィア>と呼ぶ。
今、彼女たちが見て触れて立っている物質世界のすべては、この<アーキ・スフィア>に刻まれた情報と等価値の、再生投影像のようなものにすぎないのであると考えられているのだ。
「まあちょっと長くなったが、以上が〝蒼導脈〟の概要だ。綴導術士から見た世界は〝蒼導脈〟でできていると言って過言じゃあないってことだな、うん」
ある賢者は言った。我々は、世界の見ている〝夢〟なのである。と。
スフィールリアは、無言で、うなづいた。
彼女たち綴導術士は、<アーキ・スフィア>に記述された〝情報〟を〝蒼導脈〟として『視』て、触れることができる。
世界の根幹に働きかけ、物質の新たな形を綴り織り、導いてゆく――
だから、〝綴導術士〟なのだ。
「綴導術士の源流となったのは、さらに古代の〝魔術士〟と呼ばれた、綴導術士とは根本から理念を反する連中たちだ。コイツらから受け継いだ、世界を変容させる能力で、今では綴導術士たちは、人間世界の流通になくてはならない業種として各国から手厚い待遇と厳重な監視を同時に受けている」
「師匠も、そうだったのかな……」
「アイツはまた別だろ。アイツの首根っこ捕まえておけるよーな人間は、俺にはひとりしか心当たりがない――あー、いやえーと、ともかく。そんな綴導術士たちが、主になにをする職業なのかっていうのが」
「はいっ。アイテム作成!」
ぴっと手を挙げスフィールリア。ちょっとビクっとしたフォルシイラが、忙しなく「そうそうっ」とうなづいて肯定した。
「作物を育てる。ノミで打って彫金する。金属を溶かして混ぜ合わせて合金を作る。木や石を削って家を建てる。
……世界を変容させるっていうのはけっこう簡単だ。綴導術士じゃなくてもできる。
だけど、綴導術士が行なう〝変容〟っていうのは、これらとはまた、一線を画している。――〝蒼導脈〟を知覚して世界へ根本の〝情報〟から働きかけることができるからだ。
だから、綴導術士が作る道具や物品には、余人には作り出せない特別な〝力〟を〝付与〟することができる」
ゆえに、綴導術士の作る物品は世界中の人々の生活にとって、大変重宝されることが多く、需要が尽きることはない。
だから、世界中ほとんどの人々にとっての〝綴導術士〟に対する認識とは、〝特別な品物を製作する職人集団〟という風なのである。
「うんうん」
「そうやって作られる物品っていうのはそれこそ膨大なもんで、王宮に召し上げられたり、貴族や大金持ちの家にしか下賜されないようなものから、一般家庭の生活消耗品まで、とても把握しきれたもんじゃない」
だけど。と、フォルシイラは紫の双眸を細めて真面目な声音になった。
「そのどれを作るにしても絶対に通らなきゃならん道が、綴導術には、ある」
「えーっと、それって……『水晶水』?」
こくこく、とうなづく。
「そうそう。どんな道具を作る場合でも、『水晶水』。これだけは絶対に作って使うことになる――まあそりゃ分かるよな――というわけで、最初の査定が、それだ。『水晶水』を作ってもらいます」
「……へ?」
一拍ぽかーんとした表情になってから、スフィールリアは気の抜けた声とともに挙手した。
「『水晶水』を、作ればいいの?」
「そういうこと。これが俺の最初の仕事。おま……げふん。スフィールリアが作った『水晶水』のできばえを見て、とりあえずタウセンに報告することになってる」
「そっか」
と言って、スフィールリアはスカートのしわを叩きながら、あっさりと立ち上がった。躊躇なく工房壁沿いにある備品棚の前まで歩いていこうとする。フォルシイラも後ろをついてゆく。
「まあそうだよな。おま……スフィールリアなら楽勝だろうな。フツーの一年生がいきなりこんなこと言われたら、途方に暮れるか、泣くけどな」
「うん……田舎でも毎日作ってたからね。それに師匠って『水晶水』の品質にだけはもんのすっっごくうるさかったんだぁ――あ、別にお前でもいいよ? なんだか、まだカタいなぁ」
「えぇっ、……、じ、じゃあ遠慮なく」
「――うんうん。それにしても『水晶水』作らせる前置きにしては妙に長かったね。いつもそうしてるの?」
と彼女は言うものの、一般的な新入生ならば、まず概要の触りだけでも最初の一日は講義に費やされる項目である。
「ああ。これが俺の仕事だ。『ピルクレオルムス曰く、綴導術士の人生は水晶水に始まり水晶水に終わる』――基礎中の基礎だからな。特監生でもちゃんと把握できてるかどうか、確認するんだ。一応こういう授業込みで、俺は毎日の食い物の配給もらってるんだ」
「なるほどねぇ」
などなどと返事をしつつも、スフィールリアの棚から器具を取り出す手によどみはない。すべての器具を知っているわけではないが、自分の経験の中から『使えそうなもの』を選択しているにすぎない。
両手に足りる器具を流し台でよく洗い、よく拭き、順当に机の上に並べてゆく。
「あとは作業しながら聞いてくれればいい。
――綴導術士は物質の蒼導脈に働きかけることで物質を分解し、様々な形に変容させたり、いろんな情報を〝付与〟することができる。
でもそのためには『水晶水』による蒼導脈の調整が必要不可欠だ。いわゆる〝調整剤〟だな。
物質の正しい変成の道のりをこれによって示せなければ、変成した物質は不安定になって、最後は〝霧〟になっちまう」
次にスフィールリアは薬剤棚の前に立っていた。これもまたラベルに目を通すだけで、すぐになにが必要なものかを見分けて、手持ちカゴの中に置いてゆく。
その手が止まったのも、数秒だけだった。
「……そう、だね」
「? まあともかくだ、『水晶水』には行なう練成の種類と用途によって三種類に分けられる。青、赤、緑だな。それぞれの性質は、」
「安定、変化、増幅」
「――そう。合成元素をより安定させたい時は青を。元素や効果の元々の性質を変化させたい時は赤。性質を特化させたり効能を増やしたい時は緑の『水晶水』が適してる。複数の用途を同時に実行するなら複数の『水晶水』を用意しなきゃいけない。上級の綴導術士になればそれぞれの色の性質を併せ持った特別な『水晶水』も作れるようになるが、別に今はそれはいい。……ん。準備完了か」
「うんっ。じゃあ、瓶一本分でいいよね」
「ああ。一滴でもいいぞ」
それは逆に難しいってばと笑いながら、机の上の薬品各種を順々に手に取ってゆく。
「じゃあ基礎色で、青の『水晶水』でも作ろっかな。あとで使えるかもだし。えー……『蒸留水』と『安定固形剤(青用)』……さすが王都。便利なものあるんだね……ついでに、『小さな結晶』も、と。お次は」
(ぜいたくだな。アイツらしい)
なんてフォルシイラが思っている間にも流れるように作業は進んでゆく。
それぞれをそれぞれの対応するフラスコに注ぎ入れ、ガラスパイプとゴムパッキンを装着し、すべてを手持ち用の盆の上へ。盆ごと持ち上げ、『ある機材』の元へ。かぶせてあった布を静かに取り払う。
工房隅に、ほこりをかぶらないよう厚手の布をかけられていた器具は――
「お前の田舎にも〝晶結瞳〟はあったのか?」
「うん。さすがにね。これがないとなにもできないし」
それは台座に固定された、ひと抱えほどもある、大きな水晶のような玉だった。
綴導術を知らない余人がこの機材を見れば不思議がっただろう。これが水晶やガラス玉だったなら向こう側が歪曲して見えるはずだったが、この玉にはそれがない。
どの角度からどう覗いても、まるで透明な板一枚挟んでいるだけのごとく、対面側の風景がクリアに映るのだ。
そして、その玉を〝本体〟として、上部や下部にパイプが繋がれている。
――水晶水とは、物質を分解して作られる〝純粋な〟蒼導脈の抽出物である。見た目は水のようであるが、本質は物質ではない。
このように物質を純粋な蒼導脈へと還かえすこと、抽出を行なうことを〝祖回術〟という。
そして、この祖回術などを行なうための装置が、この晶結瞳だ。
「それじゃ、調合開始ねっ」
「ああ」
各種の加熱器具に火が入り、各々の成分がパイプを通じて晶結瞳に集まってゆく。
晶結瞳の内部も『水晶水』に近い――つまり〝蒼導脈の状態〟になっている。その中心へ、水中へ落とし込まれた油分のように各種の成分が集まってゆく。
晶結瞳を包み込むように両腕をかざし、スフィールリアが、すう……と呼吸を整えて集中を始める。
同時に玉の内部が蒼い光輝を揺らめかせ始め、徐々に、成分たちがひとつの蒼い液体へと変わってゆこうとする――。
これはすぐにすみそうだな、とフォルシイラはのんびりあくびをしようとした。
コン、コン――
玄関口の方からノックの音が響いたのは、その時だった。
「? だれだろ? まだ始業もしてないのに」
「俺が見てくる」
という金猫の提案に、スフィールリアはうなづきつつも断りを入れた。
「あ、いいよ。あたしも出る。ご近所さんのご挨拶かもしれないしねっ」
「ご近所なんていないと思うが……練成の途中だが、い、いいのか? 『こういう時』の失敗も査定だとマイナスにしなくちゃいけないんだが……」
「うん、大丈夫。このていどなら止めておいてあとから再開できる」
「ほう……それならいいけど」
スフィールリアが晶結瞳から離れても、言葉通り、玉から蒼い輝きが失われることはなかった。
正味の話、『水晶水』の練成ていどでの離席であるならば、コツさえ掴めば入学半年未満の一年生でもできないことはない芸当だ。
しかし、こうも自然と離れられるようには、そうそうなれない。
こればかりは、職業〝現場〟としての経験がなければ身につかないことだった。
「あ、あのぅ。どなたかい、いらっしゃいませんかぁ……?」
声。男のようだった。
コン、コンコン――
「ああ、はい、はい。今出まーす、からー」
小走りになって玄関のドアノブをつかみ――スフィールリアの手が、ぴたりと止まる。
「……」
「どした?」
「フォルシイラ……最初の仕事よ」
「えっ」
と短い声を上げる間に、彼女は唇に指を当てるジェスチャーをしながら、顔を近づけていた。
「昨日言われたばかりだし、用心しなくちゃ。……いいこと? 今からあたしが『ちょこっとだけ』ドアを開けるから、外にいるのがアヤしい人物だったら、次に開けた時に猛烈に飛びかかるのよ!」
もう一度「えっ」と言ってから、フォルシイラ。これはスフィールリアから評点を得るチャンスだと思いついた。
「た、タウセンのヤツだったらどうすればいいんだ?」
「そしたらなにもしないで。悪者なタウセン先生以外の悪者だったら、飛びついて!」
いつの間にか、外の人物は悪者に確定していた。
「わ、分かった」
「いくわよ……」
コン、コンコンコン――
「あ、あのぅ――さっきから声が聞こえてるんですけどぉ、い、忙しいのかな? あ、怪しいモノじゃないんだけどぉ……え、えへへへ……」
続く声は無視されて、ドアノブをつかんだスフィールリア。ドア前にスタンバイしたフォルシイラ。両者の間で緊張が高まってゆく……
そして!
ガチャバタン!
スフィールリアが電光石火の素早さでドアを開け閉めした。構えたフォルシイラの体躯がびくっと震えた。
「え。あ、あの」
もう一度。
ガチャバタン! びくっ!
「あ、いや、だから」
ガチャバタン! びくぅっ! ガチャバタン! びびくぅっ!
ぐぐぐぐぅっ……!
フォルシイラの体躯が引き絞られてゆく……!
「その、」
もう一度……と見せかけて、スフィールリアは玄関を大きく開け放った!
ガルアァッ――!!
瞬間、緊張の限界に達していたフォルシイラが飛び出していた。金色の突風のような勢いで隙間から流れ出てゆく。スフィールリアはすぐに扉を閉めた。
「わぎゃあああああああああああああああああああああああ!?」
ガルルルルゥッ! ゴシュ、フシュ、グルアアアアア!!
「ぎゃあああ! ぎゃああああああああ! ぎゃあああああああああ!? ころっころさっ殺さないでええええええええええ!? フォルシイラ、わたし、わたしだからああああ!!」
「……?」
最後の部分を聞き咎めてスフィールリアは顔半分だけドアを開き、外を見た。
そこにあったのは、半泣き状態で地面を転がっている中年男性の姿だった。フォルシイラの顎に振り回され、服がずたぼろになっている。
「ひいぃぃぃぃ、うひぃぃぃぃぃぃぃ……!」
「……知り合い?」
きょとんとした顔で振り返り、フォルシイラ。
「……イガラッセだった。ここの教師だ」
「えーーー!」
「だ、だってあんなにフェイントかけるから」
フォルシイラが、しゅんと耳と尻尾の位置を落とした。
「と、とりあえずだいじょぶですかっ」
「う……うん、な、なんとかね。え、えへへ」
スフィールリアが駆け寄るよりも前には教師は立ち上がっていた。ぽんぽんと叩いているのはたしかに教師の正装(ボロだが)だった。
「す、すんません……」
「ああ、い、いいのいいの、うん。さすがは特監生だね。それくらい気をつけるのが正解だよ」
イガラッセという教師は、なんというか……非常に地味な男であった。
やや中年太りした体躯は猫背気味で、高くない彼の身長をさらに小さく丸っこく見せている。中途半端に禿げかけた頭髪、常に気弱そうに下げられた眉。人懐っこそうな微笑……。
なんとも言えない哀愁が漂っている気がする。
しかし男は今〝特監生〟と言った。その存在を知っているということは教師に違いないのだろう。
「そりゃどうも……。ええっと。それでその先生が、なんのご用件だったんです?」
首を傾げたスフィールリアにイガラッセ教師は大仰に手を振って、
「ああっ、そんな大げさなことじゃないの! い、いやね、ほら。この工房に新しい特監生が入ったって聞いたから、どんな子なのかなと、お、思ってさ。きたの。えへへ」
そうなんですか? と聞くと「そ、そうそう。そうなの。ね、フォルシイラ?」と金猫に話を向ける。
「まあな……そういえばそろそろくる頃合だったな」
「そうそう、そうだよね。……ね?」
「はぁ。なるほどです」
やや呆れた風に息をつく以外、フォルシイラにも態度の変化はない。危険の匂いは嗅ぎ取れなかった。
しゃべり方や態度が妙に忙しいのは、別にやましいことがあるのではなく、これがこの男の〝素〟であるらしかった。
「あ……お、お取り込み中、だった?」
「ああ、忘れてました。今、最初の監察っていうのやってて」
「へえ。な、なに作ってるの?」
『水晶水』です。
と答えてやるとイガラッセ、なぜか「おお!」と嬉しそうに目を輝かせた。
「見ていってもい、いい? だ、ダメ?」
それにはどういう意図があるのだろうとフォルシイラを見る。金猫はもう一度ため息をつき、
「ああ、問題ない。特に害のあるヤツじゃない」
「そ、そうそう。えへ」
「はぁ。それじゃあどうぞ。まだお茶もお菓子もないですけど」
いいの、いいの。と言いながら嬉しそうについてくる教師を伴って、スフィールリアは再び工房の扉をくぐっていた。
「おっ……〝練成維持〟ですか。さ、さすがだね」
「って言っても、もう終わっちゃうところですよ? ――はい、できあがりっ」
晶結瞳がひときわ大きく輝き……次にはパイプから『水晶水』専用の小瓶へ、うっすら蒼い輝きを宿した不思議な液体が満たされていった。
「はい、フォルシイラ。どうぞ」
「いや。見るまでもない。普通に合格。グレードS。上級術士に渡しても驚くか喜ぶ品質だ」
「やったねっ!」
スフィールリアは、その場でぴょんと跳ねて喜んだ。
「うん、うん……これは……すごくいいものだね。最近入った特監の子が作ったものの中でもこれは一番い、いいものだよ、うん、うん……!」
「ずいぶん贅沢に素材を使ったからな。逆を言うと、普段はこれほどの品質は必要ない。赤字になるしもったいない」
「なるほどー、そっかぁ」
「うん、うん、そうだね、うん……!」
しきりとうなづきつつ、しかしイガラッセは小瓶をためす眇めつ眺め回す手を止めない。その子供のような目の輝きには惜しみのない賞賛と傾けるべきものを知っている情熱が宿っているように思えて、この時だけはスフィールリアも、いい目をする人だなと素直に感心した。
「えと……気に入ったなら、差し上げますけど、それ」
あんまり熱心に見つめてくれるのでむず痒くなって提案すると、意外なことにイガラッセ教師は「あっ、いいのいいの、ごめんねっ」と、やたらあっさり小瓶を机に置いてしまった。
「それで、そのぅ……アーテルロウン君? でい、いいよね? それでね、そのぅ」
「?」
「仕事の依頼だ。『水晶水』作って欲しいそうなんだぞ」
と、唐突に言ったのは、フォルシイラだった。
「……」
一拍の間を置き、
「……さ、先に言わないでよぉ、フォルシイラ。えへへ……」
「いつものことだろうが……」
「え? 『水晶水』ですか?」
「そ、そうなの、えへへ……」
仕事の依頼――
教師から――
タイミングとか内容とかいろいろと突拍子もないことだったので、スフィールリアは首を傾げる。
「なにに使うんですか?」
「け、研究とかね。教職もしながらだとな、なかなか自分の分を充分に用意する時間が、と、取れなくてね、えへへ……。報酬はけ、けっこういいよ、わたし? えへへ」
「それで、あたしみたいに『作れる』生徒に依頼してるってことですか?」
イガラッセは気弱くうなづく。
「でもあたし生徒なんですけど、いいんですか、そういうのって?」
「いや、本当はダメだぞ。ダメってことになってる。どこがダメかっていうと、生徒と職員間の個人的な金銭の受け渡しがダメだ。校則にも書いてある」
「そうなんだ……じゃあ、」
「あーーっいや、で、でもね! それは表向きの話であって、そ、そんなに珍らしい話じゃないんだよ。自分から言ったりしなければだ、大丈夫なの。うん、うん。当然わたしも言わない」
「……そなの?」
「まあ、な」
フォルシイラが疲れたようにうなづくと、イガラッセはパッと表情を輝かせて言い募ってきた。
「け、けっこうね、ほんとにね、ほかの先生方もやってらっしゃることなんだよ。だから先生同士の間でもあ、暗黙の了解ってことになってるし。それに普通は弟子にした生徒さんに『手伝わせる』っていう形を取る人がほとんどだから。たとえ〝裏〟でも報酬を渡すわたしの方が生徒にとっても、う、嬉しいんじゃないかな~。えへへ」
「なるほど……それで? どれくらい必要になるんですか?」
イガラッセが立てたのは、両手の指全部だった。
「十本ですかっ? それだと瓶がちょっと、買い出しにいかないと……じゃあひとまず今作ったこの一本を」
「あ、いや、ち、違うんだ、えへへ」
「? ? ?」
微妙に焦れつつまた首を傾げると『耳貸して』なジェスチャーを送ってくるので、顔を近づける。
「十本じゃなくてね……」
「――荷車十台ぃっっ!? なんに使うんですかぁーそんなのぉ!?」
「わ、わ、わっ」
さすがのスフィールリアも度肝を抜かれて叫んだ。
イガラッセは慌てて辺り(特に窓)を見回す。
「ふぅ。と、というわけだからさ。今一本持ち帰ってもこ、こちらとしては大して変わらないんだよね。だから、納品はできるだけまとめが嬉しいかなって、えへへ」
「……」
スフィールリアは答えられず、腕を組んで唸っていた。いろいろと偉そうな人や裏がありそうな人との大型な取引も多かった師を手伝っている時にだって、こんなに大量の『水晶水』を要求されたことはなかったのだ。
なにに使うのだろうか?
「あ……だ、ダメ? む、無理強いはもちろんしないから」
「……いえ。ちょっと。待っててください」
「?」
と言ってスフィールリアは机の上に残っていた素材の小瓶を手に取り、流し台に向かった。
一転なにかをすぱっと決断したような歯切れのよさに、今度はイガラッセとフォルシイラが小首を傾げていた。
なにを始めるのかと思えば、スフィールリア……流しの蛇口にホースを繋ぎ、練成釜へと大量の水を注ぎ始めた。水が溜まる間に小脇にしていた瓶類から、無造作に素材を落とし入れてゆく。
え……。と、イガラッセがびっくりした声を出した。
「ひょっとしてい、今作るの? 今じゃなくてもいいんだけど……ご、午後の講義もあるし」
「はい。蒸留水はないですけど。すぐだから。ちょっと見ててください」
「……?」
最後に釜に専用の密閉蓋をかけ、ハンドルで空気を抜き、パッキン部分にパイプを挿して晶結瞳に連結。
スフィールリアが両腕をかざし、晶結瞳が強い輝きを放った!
『――!』
イガラッセとフォルシイラが閉じていた目を開けると……
「……ふう」
今度こそ、ふたりは驚いた。
「こ、これは!」
ふたりが見ているのは、彼女の前にある晶結瞳。
そこから、アメ玉のような小さな球体が、次々とこぼれ出してきていたのだ。スフィールリアは脱いだ上着を袋にして、それらをいくつも取りこぼしながらあたふたと受け止めている。
玉はビー玉くらいのサイズで、それぞれが青、赤、緑色の透き通った輝きを灯している。
青、赤、緑色……それは、つまり――。
「こ、これって――『水晶水』、か、かな? アーテルロウン君?」
「あっはいそうです。小さいですけど、これひとつで小瓶一本分くらいなんです。あわわ……久しぶりでちょっと加減間違えた……!」
イガラッセとフォルシイラは、それぞれ手元に寄せたそれを、不思議そうに眺めた。
「ふ、ふむ? これは、面白いね。面白いなぁ。表面部分に『〝硬質〟を振舞わせる』ことで、小瓶を使わず純粋に水晶水のみで保管ができるわ、わけだね。うん、うん」
「圧縮もしてあるのか……たしかに面白いな。これもアイツが?」
「うん。『水晶水』は物質としても振舞うから水みたいに見えるけど、本当は純粋な情報世界のソースだから。表面だけ固めてあげちゃえば、瓶も必要ないでしょ? お金かかるし――あ、床に落ちたものは捨てちゃうんで放っておいてくださいね。一度汚しちゃうと、ひと粒ずつ洗わなくちゃで面倒でしょ?」
「そういう欠点もあるわけか」
「うん。品質を維持するならやっぱり瓶使うのが一番って師匠も言ってた。調整はデリケートだし、表面の変成の分手間も二重だし。これは非常時用」
スフィールリアは抱えた袋いっぱいの『水晶水』を教師に差し出して、こともなげに首を傾げてみせた。
「これなら持ち運びの手間と、保管のスペースも少ないと思うんですけど……どうですか?」
一時、きょとんとした顔をしていたイガラッセ教師だったが、
「うん、うん……!」
すぐに満面の笑顔になって、何度もうなづいてきた。
「ぜ、ぜひ、これで頼むよ!」
本当に嬉しそうな笑顔だった。
「了解ですっ。それじゃこれで作りますけど、どこにお届けすればいいんですかね?」
「えっ、あいやそれは悪いから、時期を見てわたしから引き取りにうかがうよ……報酬もその時に。できばえ見て、良いものだったら色もつけるからね、え、えへへ」
「はあ、そりゃ助かりますけど留守にしてる時もあるだろうし……一応、あたしからも連絡できる場所とかって、ないですか?」
「それなら、そ、そうだね。……第三研究棟っていう建物に『イガラッセ室』っていう部屋があって、一応そこ、わたしの研究室になってるの。講義のない時なんかはた、たいていそこにいるから、受け取れるかな」
「分かりました。じゃあ、届けられそうな時はお届けにうかがいますね」
「そ、そう? た、助かるよ。えへへ」
そういうことになり、講義に向かうイガラッセを見送って玄関を開けると、
「わわっ」
開けた瞬間、ドアのすぐ外に立っていたのは、タウセン教師だった。
驚いた声を上げたのはイガラッセ教師だ。
「……イガラッセ先生。またですか」
タウセンもノックをしようとした姿勢で面食らった顔をしていたが、すぐに呆れた表情に変わっていた。
「え、えへへ」
「もはや毎度のこととは言え、せめてわたしにひと声かけていただけると助かるのですが?」
「え。えへへ。い、いいじゃないタウセンちゃん。わたしとタウセンちゃんの仲じゃない」
「はぁ~。もう毎度のことなんで細かいことは言いませんけれどもね……トラブルだけは勘弁してください。頼みますよ」
うん、うん……! とひとしきりにうなづいてから、イガラッセ教師は小走りに立ち去っていった。
「まったく……あの人は」
一旦メガネを外し、タウセン教師は目尻を揉みほぐした。
「……タウセン先生。なんかマズいところでもある先生なんですか、あの人?」
「いや? これといってトラブルの経歴や、悪評のある人ではない」
「じゃあなにがダメなんですか? なにも悪いことしてないのにそんな態度取ることないじゃないですか」
と言うと、タウセン教師。また疲れたように目尻を揉んだ。
「『水晶水』の作成を依頼されたんだろう?」
「はあ、ええまあ」
「言っておくが、それは校則違反ギリギリのグレーゾーンな行為だからな」
「うぐっ」
「……とはいえ、あくまでもグレーだ。教師と生徒間と言えども、正式な校内クエストとして依頼をする分には物品と金銭の取引も問題のない行為だ。両者の違いは、学院に正式なクエスト登録申請をしているかしていないかということにすぎない」
「じゃあなにが」
言い募ると、タウセンはため息をひとつだけ。次には至極真面目な表情になって彼女の目を見返してきた。
「わたしから言えることは、ただひとつだ。どのように仕事をこなそうが自由だが、イガラッセ先生には気をつけなさい」
「? どゆことですか? 悪い人じゃないんですよね? っていうか仕事はしていいんですか?」
矢継ぎ早とも言える質問にも、タウセンは冷静にうなづいた。
「仕事は生徒の自由……というか、推奨項目のひとつだ。自分から積極的に仕事をしてゆくぐらいでないと、この学院ではやっていけないぞ」
「そうなんだ……」
「そうそう。これから言おうと思ってたんだけどさ、学院の<総合クエスト掲示板>っていうのがあって、そこで学院内・学院外から集まった仕事がわんさと掲示されてるんだ。中には、もう卒業とかそっちのけで仕事だけして暮らしてるヤツもいるって話だ」
と口を挟んだのは、スフィールリアの脇に行儀よくお座りしていたフォルシイラだった。
昨日までとの態度の違いにきょとんとした顔して、タウセンはふたりをよく観察する。
「そうなんだ……それで? イガラッセ先生に気をつけろっていうのは?」
「ああ。先ほども言ったが、彼の素行や人間関係に問題のあるところはまったく見受けられない。そこだけは勘違いしないように」
「じゃ、なんで」
もう一度、繰り返す。
「いいかね、スフィールリア君」
「は、はい」
名前を呼んでまで前置きをしてくるタウセン教師。その表情と声音があまりにも真面目だったため、スフィールリアもやや緊張して姿勢を正した。
本当に真面目な――真摯な眼差しだった。
「こればかりは、わたしや周囲の印象を率直に伝えてもしかたのないことだ。これからの学院生活の中で、君が、君自身で嗅ぎ取り、学んでゆくしかないことだ。なにも〝彼〟に限った話じゃない。だからわたしからは、このことだけを教えておこうと思う」
「は、はい……」
そしてタウセンが告げてきたのは、短く、ひと言。こんなことだった。
「わたしは君がこの小屋へ割り当てられたことを、彼に教えてはいない」
一拍の、間。
「……え?」
と呆けた声を出したのは、意味がよく分からないためだった。
この無理解はあらかじめ想定していたのか、タウセン教師。メガネの位置を指で直しつつ、よどみなく続けてきた。
「君たち特監生の人数や、割り当てられたそれぞれの寮の場所……これは、原則として教師に対しても秘匿情報となっている。もしもこれらの情報を制限なくだれに対してもつまびらかにしておけば、君たちのような特監生は、その立場の特殊性と性質上、さまざまな悪事や陰謀に巻き込まれかねないからだ。これは君たちの身の安全と有意義な学院生活を、保護するための意味合いも含まれている」
聞いてから、「え?」ともう一度、疑問の声。
「じゃあ、なんでイガラッセ先生はここにきたんですか?」
タウセンはため息をついた。
「だから、それが分からないから気をつけなさいと言っているんだ。――いいかい、スフィールリア君。先ほども言ったが、これは彼個人の人格や素行に注意を払えという意味ではないのだ。この学院は『普通の学校』とは違う。王室とも直接の繋がりを持ち、時には協力し、時には渡り合うようなことまでしている〝組織〟なのだ。王室とは、つまり、〝国家〟だ。そんなものと渡り合うような組織なんだ」
「は、はぁ……」
「……当然、そんなところに所属するあらゆる人間も、ただ者だとは思わない方がいい。ひとくせもふたくせもある人間ばかりだ。たとえ〝表〟の顔がどれだけ品行方正だったとしても、〝裏〟ではどんなことをしていたとしたって不思議じゃない。教師も、生徒でもだ」
「……」
「だから、〝だれ〟が〝どのような〟類の危険を持っているのか。〝だれ〟の〝どこ〟までが自分が安全を確保できる領域なのか。それは、君自身でしか獲得してゆけない情報なのだ。……だから、気をつけなさい」
「……わ、分かりました」