(1-06)
「おい、これはどういうことだ小娘……」
フォルシィラがうなり声を上げ、視線で学院長の双眸を貫いた。
「フォルシィラ」
「〝金〟だと……そんなことがあるもんか。ふざけるなよ!〝それ〟は、ずっとアイツが探していた――」
と、そこまでを言いかけて、止まった。
三人の人間の視線――とりわけ学院長の静かな視線に気がついたせいだった。
「……なんでもない」
そのまま机を降り、部屋の隅までいくと、ふてくされたようにうずくまってしまった。
「……。学院長。いくらなんでも、これは。故障ですかね……?」
「導宝玉板に故障という概念はあり得ません。分かっているはずです、ミスター・タウセン」
ずれた眼鏡を片手で直すころには、学院長の顔色はすっかり平静に戻っていた。
「スフィールリア?」
「は――はい?」
「あなたは自分の〝色〟を、ずっと昔から知っていたのね? ヴィルグマインに試されて? おそらく、自分の仕事をあなたに手伝わせ始める、最初のころに」
「そうです……」
「〝それ〟が、この世界に存在する他人の〝だれ〟とも違う〝色〟であることも?」
「はい……」
「よろしい。では、この〝色〟のことを、ヴィルグマインと、今この場にいる三人以外の者に口外したり、見せたりしたことは?」
ばっと顔を跳ね上げ、スフィールリアもここばかりは必死に近い声を出した。
「い、言ってないです! ――だって、そんなことしたらあたし、また……」
「けっこう」
とだけ言って、彼女は自分の手のひらを乗せて水晶の〝色〟を上書きし、スフィールリアの〝色〟の痕跡を消し去った。そのままなにごともなかったかのように紙箱へとしまい込む。その時にちらりと見えた学院長の〝色〟は、〝紫〟だった。
紙箱を抱えて、学院長。
「このことは一切の部外秘といたします。この度の測定で、この子の〝色〟は〝青〟だという結果が出ました。よろしいですね、ミスター・タウセン?」
「承知いたしました」
次にもう一度スフィールリアを見て、そっと、その肩に手を置いた。
「悪いのだけれども、あたなたの始業はほかの子たちより三日か四日ほど遅れることになりそう。許してちょうだいね? 王室に登録するために作らなくてはならないダミー・データが増えてしまったようだから」
「え……あ、はい。分かりました」
よく分からないままうなづくと、学院長も「よろしい」とだけ言って紙箱を抱え直した。帰るらしい。
「まあ、ね。家の掃除の期間ができたと思ってゆっくりしていてちょうだいな。あ、それと、始業の準備も怠たりないように。初期教材の校内販売は明日までだから逃すと取り寄せるまでの間は手ぶらで講義を受けることになりますからね」
「わたしも用が済んだのでもういくが、これだけは言っておくぞ。くれぐれも入学式の時のような問題行動、引いてはあらゆる問題行為には及ばないように。フォルシィラとも上手くやっていくんだぞ」
「は、はぁ……分かりました」
「はい、けっこう。さぁさ、それじゃいきましょうかミスター・タウセン? ああ忙しい忙しい!」
「運搬用の使い魔を連れてきておけばよかったですね」
などというやり取りが、小走りで森の中に消えてゆくまでを見送って……
「ほう? 俺様と上手くやっていく、か」
「はっ……!?」
「そうかそうか。そいつは殊勝な心がけだなはっはっは」
「わわっ、ちょっ、待ってください先生ー! まだ話終わってないんだったーー! 戻ってきてーー!」
「俺様の言うことはなんでも聞くんだぞ。全部俺様優先。ここは俺様の城だからな。逆らったら退学だぞ」
「せーーんせーーーーい!!」
「はぁーーっはっはっは!!」
◆
「全然ダメ。やり直し」
「……」
ダバー。
とフォルシィラが床に吐き出したホットミルクを、スフィールリアはなにも言わず、傍らに立てかけてあったモップで拭き取る。
「あー、それもそんなんじゃ全然ダメだ。モップの洗いが雑すぎて牛乳の臭いが残ってるじゃないか。すぐ洗い直してこい。俺様の寝床がクサくなっちゃうだろうがホラ早くしろ」
「……」
また文句のひとつもなく、裏の井戸へと向かうべく足を向け――
「おい、何度言わせれば分かる。返事はちゃんとしろよ返事返事」
「……はい。もっぷそうじ、いってきます」
「ふん、グズめ。五分以内な」
「……」
スフィールリアの新生活が始まっていた。
「なに? もう淹れ直すミルクがないだと? 買ってこいそんなもん。学院から金が出てるんだろーが。俺様のために使え俺様のために。お前の勉学なんぞ知ったことか」
ついでに宣言通りとフォルシィラによる〝いびり〟も始まっていた。
まずだが、掃除と最低限の生活用品を買出しにいった際のミルク缶は、帰宅一時間ですべてモップの糧へと消えた。
食べ物を粗末にするというのは彼女の中では最大に近い禁忌と言える行為だったが、
『フォルシィラと上手くやっていけないなら退学』
この言葉により、スフィールリアは拳骨どころか文句のひとつすら出せなくなっていた。
「お、やっとるな。はいはい。ちょっと通りますよっと」
夕方。ようやく玄関口廊下の掃除に取りかかったところで、散歩に出かけていたフォルシィラが戻ってくる。
明らかに出かける前よりも泥だらけになっている。
まだ乾ききっていない床に、大きな肉球型の泥跡が刻まれてゆく。
「おっ、ここは一番キレイになってるじゃないか。ちょうどいい。ここでごろごろしてゆこう。ふははっ」
ごろごろ。ごろごろごろ。
ベチャベチャベチャ。
玄関口は、あっという間に泥まみれに戻った。
水分が新鮮なだけ……臭い。
スフィールリアの持つモップの柄が、ぎしり、と鳴った。
「こん、の……クソ猫…………」
「はん? 今なんか言ったか?」
「この……クソね……クソ……く、く、き…………ぐぬぬっ」
「ほーらほら聞こえなーいぞっ。きっちりはっきりきっかり俺様の耳に届けてみせろよ、その言葉を」
「…………。……なんでもありません」
「ふふふ……はぁーっはっは! お散歩さいこーう! ホラそこの掃除終わったら次は俺様の寝床を整えておけよ。お前の晩飯なんぞ最後の最後だ。言いつけたこと全部ちゃんと今日中にするんだからな」
「は、いっ、グギゴゴ」
決して年頃の女の子が出してはいけないような声を絞り出して、スフィールリアはどうにかこらえることに成功した。
「おいなんだこの粗末なタオルはこんなもんを俺様の寝床に敷くつもりだったのか。買い直してこい。あ、今すぐな?」
「遅いんだよ。あんまり帰ってくるの遅いから次の買い出しを思いついてしまったぞ。いってこい」
「おい散歩したから足の裏が疲れた。揉め。あ? 掃除の続き? 寝る時間を削ればいいだろう頭を使えグズめ」
「まずいなんだこれ。やり直しこんなの俺様の夕食じゃない。べっ」
その後もフォルシィラの要求はいやらしいほど執拗に繰り返され、また数時間……。
「だっは……!」
工房の椅子に腰というよりは全身を投げ出して、スフィールリアはぐったりとしていた。
体力にはそれなり以上に自信を持っている彼女だったが、さすがにいくらなんでももう、精根尽き果てようとしていた。
というのもフォルシィラの嫌がらせ、量がすごいのだ。で、注文を、こなした時点で引っくり返す。
難癖ひとつひとつはさほど回りくどくもなく、陰湿すぎるというほどでもない。
要は、とことん露骨なのだ。タウセンの言葉を共有しているから、まったく隠さず悪意を披露してくる。繰り返すこと自体が目的なのだと、あからさまに表明してくる。
だからこそタチが悪い。苛立ちがすごい。
「初日でこれなんだもんなぁ。あんの、くっそ猫め……うぐぐぅ」
そんな言葉も、今ばかりは、まったく声に覇気がこもらない。
「キーアの手紙……きてないかな」
そんなもの、きてるわけない。
あのあとすぐに書いてくれていたとしたって、辺境中の辺境なフィルラールンからでは、届くのは一月近くかかってからだ。
そんなことが分かっていても、確かめにいきたくてしようがない。
これは、早めになんとかしなくてはならない。
だけど、どうすればいいんだろう。
タウセン先生に一生懸命お願いして住む場所を変えてもらう? 昼間に聞いた特別監察特待生制度の内容を鑑るに、難しいような気がする。第一、あの先生は面倒ごとがすごく嫌いらしい。
ではフォルシィラとの和解? それは、もっと難しい気がする。そもそも最初に自分が特別なにかをしたということはない。抱きついただけだ。彼は自分が部屋に入った時からもう不機嫌だったし、これはどうやら初めてのことじゃないらしい。
いっそのこと……こんな学院なんて去ってしまうか……?
「……っ。それはダメっ」
ガタッと音を立てて立ち上がり、またすぐに体力が尽きて、椅子にへたり込んだ。
でも、気持ちだけは下がっていなかった。
それはダメなんだ。ここを去ってしまったら、もう二度とフィースミールには会えなくなってしまうような気がするのだ。
なんとしてもここで学び、彼女のことを少しでも多く知っていかなくては!
彼女の残した知識――だけでなく、無形のものまで含めて、もっともっと多くのものを……!
「でも、じゃあ、どうすりゃいいってのよ……」
前途の暗澹さに再び目を覆ってぐったりし始めたところで、コン、コン、と控えめなノック音が届いた。
「?」
外はもうすっかり暗い。いったいだれだろう? ――とりあえず出なければ――ああそういえば、ノッカーの修理もまだだった――
疲れきった頭でグルグルと。取るに足らない考えを巡らせながら玄関へ。
そのまま特に深い考えもなしにドアを開けると、そこにいたのは、
「……タウセン先生?」
「感心しないな。こんな時間の訪問者に誰何もなしにドアを開けるなんて」
だったらこんな時間にこないでくれればいいのに、とは言わないでおいた。たしかにここは森の中だし、ひとりきりだし、危険がないとは言えないかもしれない。無用心だった。
やっぱり、疲れていたらしい。
「なんだなんだタウセンか。どうした。なんの用だ俺様の城に。コイツ引取りにきたか」
スフィールリアの隣で声を出したのは、耳ざとく二階から降りてきたフォルシィラだった。
「いや。上手くやれているかどうかを見にきたのだ。初日が肝心だからな」
「ちっ。なんだ」
「なんだはコッチだってぇの……」
つぶやくとまた耳ざとく「はん? なんだってぇ?」と嫌味を言ってくるので「なんでもないッス」と姿勢を伸ばして事務的に答える。
「……とりあえず、大丈夫みたいだな」
数秒だけこちらを観察してそう言うタウセンの冷たい口調に、スフィールリアは「ああ、やっぱり」と落胆を覚えた。この人はやっぱり面倒ごとには関わりたくないのだ。なにかを頼んでも、無駄だろう。
「ではわたしはいくが、戸締りには用心するように。この辺りの森は〝採集地〟にもなっていて、少々危ない獣もいないこともないからな。あとはしっかり暖まるようにして眠ること。いいね」
「……はい」
うん。とうなづき、タウセンはきびすを返して、きた道を歩き出した。
なんとなくすぐにドアを閉める気になれず、スフィールリアはしばらくタウセンを見送っていた。
ドアからの漏れ灯が作る細い道から、その背中が消えようとした時、
「あ……」
彼女は思わず声を出していた。
タウセンが立ち止まり、半身だけ振り返ってくる。
「どうした?」
「あの、えと……」
なにを言おうとしていたのか。なんて言えばいいのか。分からずに迷っていると、横から金猫の巨体がわざとらしく押し出されてきて、体を揺らされた。
「……。ごめんなさい。なんでもない……です」
「そうか」
そうしてまた歩き出し、タウセンの姿が森の闇の中に、消えた。
「おい小娘こっちこい。時間も時間だからな。お前の眠る場所を割り当ててやるぞ」
ドアを閉めると、すでに階段を上がりかけていたフォルシィラが振り返ってくる。
「え……でもあたし、工房で眠ろうと」
「工房? ばか言え。タウセンのやつだって言っていただろう、暖かくしとけと。まあ俺様だって鬼じゃない。せっかく人間用のベッドがあるんだから使わせてやるよ」
フォルシィラはそこまで言うとあとは顎をしゃくり、二階のドアをくぐってゆく。
正直意外だった。むしろありがたい申し出だと言えた。今日一日で疲労困憊してしまったので、せめて固くない場所で足を伸ばして眠れるならば――
そう思いながら二階へ上がり、寝室へ入ると――
「……」
「さ、どうした? これがお前のベッドだ。遠慮なく使え」
昼間、綺麗に敷いたはずのシーツが、くしゃくしゃになっていた。
それだけじゃない。シーツは真っ黒な泥と脂に汚れていた。まるで、フォルシィラがあらかじめ入念に転がって戯れたかのように。
「ちなみにここ以外で眠ることは許さんぞ。もしも破ったら、今後のお前の査定を全部マイナスにしてやるからな」
そんなベッドの脇で、どこか誇らしげに顔を向けてきている金猫。
「そんな露骨なことできないって思うか? ふふ。実のところな、小娘。一週間くらいまでなら頑張って耐えた生徒だって何人かいるんだぞ。そんなやつらは全員それで去ることになったんだ。さ、分かったら早くしろ」
「……」
黙って、大人しくベッドの上に丸くなる。
一斉に、脂をたっぷりと吸ったシーツのねっとりした感触と、もう何年洗ってないのか分からないフォルシイラの獣臭が包み込んでくる。
「うう……臭いよぅ……」
「なんだどうした? ここは俺様の城だ。ご主人様の匂いが臭いわけないよな? ふふふ。今日は俺もここで寝る。しっかりここから見張っていてやるからな」
床に寝そべったフォルシィラの声は、どこまでも嬉しげだった。
臭いを気にしないよう早く眠ってしまおうと故郷のことや幼馴染のこと、とにかく別のことを考えようとしていた頭に、さらにフォルシイラの言葉が飛び込んでくる。
「明日は、嫌がらせを今日の二倍に増やしてやる」
「!!」
「ああ、楽しみだなぁ。考えたアイデアがいっぱいあるんだ。早く明日にならないかなー。それじゃお休み」
(もう……ヤダ…………かも)
それでも疲労しきった心身は休息を求め、眠りは、ほどなくして訪れた。
――だが、限界は、思っていたよりも早くやってきたのである。
「おう、おはようだな小娘。よく眠れたか?」
翌朝――
目を覚ましたスフィールリアの目に映ったのは、あのあと自ら敷いたのであろう布に包まった、フォルシィラの姿だった。
布は、スフィールリアの服だった。
「あ……、それ。あたしのお気に入りの服……」
も、あった。
「ああ。こいつはいい生地使ってるな。お前が買ってきたタオルはどいつもこいつも粗悪なものばかりだったし、トランクの中にいいもん入ってたから使わせてもらってるぞ。ありがたいだろう?」
「……」
スフィールリアは力尽きたように、ベッドの上で両手をついた。
「……。…………も……るの…………やだ」
「おっ! そうかもうヤダか! そいつはいい! さささ、早く荷物をまとめるんだな! はっはっはっは!」
しかし、スフィールリアが繰り返した言葉は……
「もう……ガマンするの、ヤダ」
だった。
「え?」
返事はなかった。
ゆらりと立ち上がり、スフィールリアは、静かに寝室を出ていった。
……。
シャ……シャ……。
シャ~コ、シャ~コ、シャ~コ…………。
ほどなくキッチンの方から、そんな音が聞こえてくる。
「……?」
荷物をまとめにでも入るのかと思いきや、違ったようで、フォルシィラも小首を傾げた。朝食でも作るのだろうか? しぶといヤツめ。
「まあいい。まだまだアイデアはいっぱいあるんだ。今日か明日には、あいつも従順な子羊さ」
それは、果たされることはなかったのである。
そして、昼時。
コン、コン――
「あのぉ~、フォルシィラさん?」
「なんだどうした? もう一階の掃除は終わったのか? 昼飯の準備はどうした」
おずおずとドアの隙間から話しかけてきたスフィールリアに、厳しい声を投げる。
すると彼女。恐縮した風に、こんなことを言ってきた。
「あっハイ。それはもう終わってます。お昼ごはんも今、煮込みをやっていて時間があるので……そのぅ、よろしかったらその時間で、フォルシィラさんのお足を揉ませていただけないかと。マッサージです、マッサージ」
「ほう? マッサージだと?」
「そうそう、そうなんです! あたしこう見えましても田舎じゃけっこうテクニックに評判がありまして。師匠の猥談とか聞いてる内に筋肉や神経の構造がよく分かっちゃって。だから疲れをよくほぐす方法とかも知ってるんですよ。……そこで、ぜひっ! フォルシィラさんの日ごろの疲れを癒して差し上げたいと思いましてっ!」
急に、妙~~なくらい殊勝になった彼女の態度へ若干の違和感を覚えつつも、フォルシィラは先日に自分の脚を揉ませた時のことを思い出した。口には出さなかったものの、あれはたしかに気持ちよかった。
なるほどあのヴィルグマインの性格と総合すれば今の話も理屈が通っているというものだ。
「ふふ、なるほどな。いいだろう。さ、早くしろ」
「あっ、いえいえ。よろしければ一階の工房に降りてきてくれませんかね? そこにマッサージをもっとも効果的に行なうための座布団を敷かせていただきましたので。お昼ごはんの準備もそちらでしているんですよ、うへへへ……」
「ほう……あれより効果的なのか……ほう……ふふ、いいだろう。案内するといいぞ」
「ははーっ」
手で示されるままに、スフィールリアのあとを追い一階工房へ。
そこにはたしかにふかふかな藁束がふんだんに敷かれていて、大変に寝心地がよさそうだった。
さっそく、藁の上に寝そべりながら、
「んん、昼飯の準備ってお前、これ練成釜じゃないか。こんなもので煮込みやってるのか」
フォルシィラの言う通り、普段は練成に使うための大釜いっぱいにお湯が張られていた。
ごぽごぽと音を立て、とても芳わしい湯気を立ち上がらせている。
「はい。ウチの故郷にある特製・野菜コンソメスープですよ。お肉をたっぷり入れた鍋にするとおいしいんですよぉ――あ、それじゃあお脚をすべて前に出してください。はい、そうです。それじゃちょっとばかし失礼しますね」
「ほう、鍋か。春の昼間っぱらから鍋なのか。――ん。なんだその縄は。なんでそんな風に脚を縛る?」
これも指摘の通り、フォルシィラの足首を手に取ったスフィールリア。小なれた手つきで、妙なくらい複雑で厳重な結び目を作りながら縛り上げてゆく。
「はい、最初は薄く大量に作って、じっくりじっくり煮込んで凝縮するんです。丁寧に取られた出汁がギュギュっと濃縮されてすっごくおいしいんですよぉ――あ、これはですねー。関節のあたりを適度に縛ることで血を集めて、マッサージするところの神経を少し刺激しておくんです。こうすることでマッサージの効果が何倍にもなるんですよ」
「ほう、それは美味そうだな、肉も好きだぞ俺は。ジュルリ。……ほうほう何倍もか。楽しみだな。でもけっこう強く縛るんだな」
実際、ちょっと痛いかな、と思うくらいだった。
「これでよし、っと」
きゅきゅっ!
仕上げに二、三度ほど力を入れて結び目を確かめ、前作業は完了したようだった。
「お次はこの棒を、よいしょっと」
「ん?」
横から取り出した長い木の棒を、前足とうしろ足の結び目に差し込む。
フォルシイラの前足とうしろ足は、しっかりと固定された。
「お次、に、よいっしょっと――!」
「お?」
気合一声、棒を思いっきり持ち上げる。すっかり固定されているので、フォルシィラの体躯もセットで浮かび上がった。普通の腕力じゃない。
「――こら……せっとぉ!」
最後に、大釜の両脇にセットされていた、これまた練成加工に使うための物干し状の道具に引っかける。
フォルシィラは、煮え立つ鍋の上にいた。
「……え?」
「これで準備完了だわぁ。あー、お腹減った!」
「え?」
と、もう一度、呆けた声。
なんだ? とフォルシィラは、優越感でハイになり油断していた頭をようやく働かせ始めた。
なんだ、これは? なぜ俺はこんなところにいる?
――この小娘、今なんて言った!?
「お、おおおま、お前、これ、どういうことだこらっ!? なにしようとしてるっ!?」
「なにって」
スフィールリアは心底不思議なことを聞かれたと言いたげに風に眉を下げ、こう言った。
「下ごしらえ」
がし。
スフィールリアが、棒をセッティングした道具の、ハンドル部分をつかんだ。
ロック器具を外し、
バシャーン!
「わぎゃあああああああああああっ! がべごぼごべらぼべば」
フォルシィラは鍋の中に沈んでいた。
「ぶくぶくぶくぶくぶく……!!」
そのまま、ハンドルをゆっくりと回し始め……
「おいしくなぁれ、おいしくな~れっ♪」
「がべらごぼごばぼ――ぶはっ! おい小むすごぼほごぼごぼ――ぷはっ! だからこれはどういうぼべぼぼごぽぶくぶく――ぶっはぁ! ちょ、一回止めろぉ頼むからぁ!!」
軸棒と一緒に回転して湯面の上下を行き来していたフォルシイラの身体が、止まる。
「うるさいなぁ、もう……なに。どうしたの」
「どぉおしたのじゃなあああーーーい! どういうことなんだこらぁ!」
「えっとねー、これねー、野菜のスープじゃなくってねー、特選香草オリジナルブレンドの特製スープなんだー。これで煮込めばどんなに獣臭のキツい動物のクサミもばっちり取れるんだよ。すごいでしょっ」
「そんな解説は聞いてな――ごばごぼぼぼぼぼぼぼぼぼ…………!」
「おいしくなぁれ♪ おいしくな~~れっ♪」
「だから、ごぼ――やめ、がべらぼ――ひぃひぃ……!」
「あっ、いけない」
またハンドルを回す手を止め、スフィールリアはピタンと両手を打ち合わせた。
「火ぃ通す前に包丁の準備しておかなくちゃ」
「!!」
工房のドアをくぐり、軽快なステップで二階へと上がってゆく。そんな背中へ、フォルシイラは息も絶え絶え、声だけで追いすがった。
「ぜぇぜぇ……火を通すって……下ごしらえって……お肉たっぷりってお昼ごはんってお前まさかお肉ってぇ!」
調理器具をまとめているらしいガチャガチャした音。
やがて、彼女が台所から降りてきた。
「むろん、お前だ」
その手には――粘つくくらいにギラギラした銀光を放つ、研ぎ澄まされた包丁が!
「っっっっぎゃあああああああああああああああああ!!」
フォルシイラは絶叫した。
スフィールリアの眼に光はなかった。まるで包丁の輝きにすべて吸い尽くされたとでもいうように。
眼だけがただ笑っていたのだ!
スフィールリアは包丁ほか調理器具を作業机に置くと、ハンドルを回す手を再開した。
「おいしくなぁれ、おいしくなあれっ」
「ごぼばばばはっ、ぶはっ、わ、分かった、悪かっぶくぶくぶく、ぷはっ、謝ぐべべべべべ」
「おいしくなーれ、おいしくなーれっ、よいしょっ、よいしょっ、ぐーるぐる♪」
「ぶべぼばぶぼぼぼぼぼ、ぶは、それじゃおま、俺が死んだら今後の査定とかごぼぼぼ、どうするつもりぐべべ」
「あ、そっか」
停止。
「ごほっごほっ。そうそうそう! 俺様査定めっさ頑張ります! 常に満点目指しますから!」
「……ついに挑戦する時がきたか……昔師匠が話していた……禁断の人造生命……毛皮……利用……猫の仕草……インプット……」
「あああああああああ」
再開。
「がべらぐべべべべべべ……! ごはっ、なんでもするっ、ごぼぼぼぼ、なんでも、言うことっ――聞きますからああああ! スフィールリア様ああああああああ!」
ここに至り、フォルシイラの意地やプライドはもはや完全に粉砕されきっていた。
野生と妖精としての超直感が告げている。
この女は、本気だ。まじりっ気なしの本気で俺を食おうとしている。謝罪も報復も求めてなどいやしない。
この女にとって、これはただの〝排斥〟と〝捕食〟行動にすぎないのだ――!!
そして、魂の底からの叫びが響き渡り……
ピタリ。
「ぜぇぜぇ……ごっほごっほ! ……?」
「なんでも言うこと聞く?」
フォルシイラはぶんぶか首を縦に振る。
「ちゃんとお風呂入る? わがまま言わない?」
ぶんぶん!
「あたしの監察も嘘言わないでしっかりやる? あたしのお仕事も手伝う?」
ぶんぶんぶんぶんぶん!
「……」
ドキドキドキ!
神にすら祈りながら、汗と出汁をたっぷり鍋(練成釜)に落とすこと十数秒。
「よし」
フォルシイラは、開放された。
「それじゃあたし昨日の買い直しいってくるから、お留守番しててねフォルシイラっ!」
バタン! ふんふんふーん♪
すっかり(通常の意味で)上機嫌に戻ったスフィールリアの足音が、遠ざかってゆく。
…………。
工房の床にぐったりと貼りついて。
「へくちっ」
二度とあの娘には逆らうまいと心に決めたフォルシイラなのだった。
◆