■ 9章 暴君(2-22)
スフィールリアが起き上がる。
その貌には、一切の表情が、なかった。
「始まるぞ」
「スフィールリア……ちゃん……?」
薔薇たちの包囲も、限界まで狭まってきていた。
鋭い茨が、スフィールリアの肩にかかろうとする。
その、瞬間だった。
〝――――――!!〟
薔薇から絶叫が上がる。
スフィールリアが、そのツタに、そっと手を触れさせた。
それだけのことだった。
それだけのことで――半径にして数十キロ四方もの範囲に渡り、薔薇たちが砕き散らされていた。
盛大に紅い花弁が舞い散る。
アレンティアや、ヴァルケスの攻撃の比ではない。
彼女が触れただけで、数億もの薔薇が散らされてしまったのだ。
「……」
地面を突き破り、地中からおびただしい量の薔薇が増殖し、スフィールリアに迫る。
しかし、これも攻撃を始める前に、彼女の視線を受けただけで枯れ果ててしまった。
「うっそぉ……!」
キャロリッシェがぞっとしたような声を上げる。
「攻撃……ではない。情報解体……純粋情報記述だけで、あんなことを……!?」
続いて、スフィールリア。
なにかを呼び求めるかのように、その片腕を、天へ。
そして。
「っ……、……?」
なにかを言おうと口を開きかけ、しかしよく分からないといった風に口ごもる。
「……」
そして思い出すように三秒間瞑目し……次は、たどたどしく、こう言った。
「……お、い、で」
◆
<アカデミー>学院長室。
「!」
執務の途中であった学院長の真横で、デスクの引き出しが爆発した。
「学院長!」
フォマウセンは座標置換でテレポートし、難を逃れている。
デスクを爆散させて現れたのは、スフィールリアの『縫律杖』――<神なる庭の搭の『煌金花』>だった。
その杖に向けて手をかざしたまま、フォマウセンが叫ぶ。
「押さえられない! ミスター・タウセン、扉側の壁を!」
「は!」
すかさずタウセン教師が『爆縮型・レベル10キューブ』を投げ放った。
壁に大穴が開く。
「っ――――!」
ものの三秒と経っていない。わずかその間にフォマウセンの力を破った<神なる庭の搭の『煌金花』>は、タウセンの開いた大穴から、王城方向の空へと飛び立っていった。
<神なる庭の搭の『煌金花』>は猛然とした勢いで空を飛翔し王城へと向かう。
高速接近する異物を検知し、王城周辺を浮揚する翅――防衛機構が起動。花のような形に折り重なり、『縫律杖』の進路を阻んだ。
しかし。
〝……〟
翅の直前で一旦停止したかのように思われた<神なる庭の搭の『煌金花』>は、すぐさまその情報構成の解析を完了。そして――。
ゆっくりと回転をしながら前進し――防衛機構の翅が、紙でもちぎるかのように破り散らされてしまった。
〝……〟
そのまま前進し、王城の外縁へと到達。
主の待つ<薔薇の庭>を目指して、王城の壁へと潜り込んでいった。
「あ、ああ~~~、一枚数億アルンはする防衛機構が~~~~……!」
その一部始終を見届け、頭を抱えながら膝をついたのは学院長である。
「驚きですね。エンシェントドラゴンのブレスをもたやすく弾く防衛機構が、ああも簡単に」
自分たちで壁に穴を開けてやって正解だったなとタウセンは冷静に思う。
もしも<神なる庭の搭の『煌金花』>が手を下していたら、どんな強引な手段で壁を破っていたか分からない。あるいは、この教職員棟丸ごとが消滅していたかもしれない。
「いち、にい、さん……ああ~~、合計で四枚もおしゃかに……」
「……」
「……あれ、やっぱりウチが弁償しなきゃダメですよね?」
「……ええまあ。王室側もログを取得していることでしょうしね。ウチから飛来した『なにか』が、あれを吹き散らしたということは」
「いくらぐらいになると思います?」
「そうですね……ちょうど、スフィールリア君からなかば強引に徴収した『ナイトメア』により当学院が得ることになる収益と同額……を、少しばかり上回るぐらいでしょうか」
それを聞き、学院長はクスンと鼻をすすった。
「……悪いことはできないものですね」
「……そうですね」
◆
スフィールリアが手をかざした天に、亀裂が入る。
その亀裂を、雲を、大気を破り、今――彼女のかざした手の上に<神なる庭の搭の『煌金花』>が到達した。
三メートルは下らない、長大にして荘厳に輝く杖。
そこにある花弁は、こぼれ落ちんがばかりの満開となっていた。
「……」
そして、再びスフィールリアが動く。
手を下ろすに合わせて<神なる庭の搭の『煌金花』>も彼女の動きに追従する。
彼女が、ゆっくりと、腕を一閃させた。
〝――――――――ッッ!!〟
杖の延長線上にある数億もの薔薇たちが、次々と、跡形もなく滅んでいった。
「な、なんちゅう規格外な……!」
薔薇たちは全力で増殖を繰り返して対抗しようとしているようだが、まるで相手になっていない。
世界最強の宝具『薔薇の剣』を構築する薔薇たちが、なす術もなく滅んでゆく。
それを見て、キャロリッシェは愕然とつぶやくしかなかった。
「す、スフィーちゃん、どうしちゃったの!?」
呼びかけるが、スフィールリアからの返事はない。
「まさか、また『あの時』と同じに……!?」
キャロリッシェたちの脳裏をよぎったのは、〝霧の杜〟にて<ルナリオルヴァレイ>の領域を取り込んだ〝霧の魔獣〟をいともたやすく滅ぼし去った、スフィールリアの姿だった。
今の彼女は、その時とまったく同じ状態に陥っているように思われた。
「そう」
紳士然とした男の声が被さる。
「今の彼女には、純粋な〝欲望〟しかない。最初に『目覚め』た時は、友人を救うため、『ナイトメア』という花を手に入れる――そのことだけが、彼女の頭にはあった」
「……」
「今の彼女はあの〝城〟へとゆきたがっている。そのためには、この領域を支配する薔薇が邪魔だ。だから、彼女はここに在る薔薇をすべて滅ぼすだろう――彼女には、その力がある」
「そんな……」
「……惹かれ合っているのだよ。あの〝城〟と」
老紳士の視線は、スフィールリア一点へと固定されている。
「ち、ちょっと待って! この領域にある薔薇を全部って……それって、この領域が滅びるってことじゃないの!?」
「ご名答。彼女はこの領域を壊して、〝城〟を完全に現出させるつもりだろう。そして、この領域が滅びるということが、なにを意味するか」
「だから、それって」
うなづく。
「世界を十二の庭に分かつガーデンズ……それが滅びるということが意味するところはひとつ」
神話に寄ることろ。
太陽神は、世界を十二の庭に分け、そこに自らが寵愛する十二の花を住まわせたという。
そのひとつが、この<ガーデン・オブ・スリー>である。
綴導術士である彼女たちにとってみれば、ガーデンズとは、〝世界〟の基盤――根源領域だ。
それが、ひとつ、壊れるということ。それは、
「っ……!!」
スフィールリアがひときわ大きな力を振るい、世界そのものに激震とノイズが走った。
それが収まるのを、こらえるように待ち――。
「世界が、滅びるというの……!」
キャロッリッシェは呆然と、杖を振るうスフィールリアを見果てた。
「その通り」
老紳士は、いとも簡単に彼女の言葉を肯定した。
「あ、あり得ないでしょ! 蒼導脈がなんで〝蒼導脈〟って呼ばれてるのか……! それは、この世が――<アーキスフィア>が常に無限の値を取っているから……〝安定〟方向に向かい続けているからで! それが崩れるなんてことが」
「それが彼女の力だよ、教師殿。君なら〝視〟れば分かるはずだ――視たまえ。彼女は今、薔薇を攻撃しているのではない――書き換えているのだ。薔薇を消した片端から、この領域を。薔薇が存在しない世界へと。そう、彼女が望む姿へと」
「そんな……そんな力が、あるわけが……」
「〝万天創造〟――それが、彼女の〝金〟が持つ真の特性なのだよ」
それは、神の力だ。
神にしか、許されない力だ。
「……」
キャロリッシェは、なにも言えなかった。
「そこで、だ」
彼がぴんとひとつの指を立て、シルクハットの縁を持ち上げる。
「君たちに、ぜひお願いがある。――彼女を止めてほしい」
「……」
「今の彼女には〝城〟へ行きたいという、シンプルなただひとつの欲望しかない。その望みを叶えるに至るプロセスにより、世界がどのようになってしまうかということは、一切考えていないのだ。だが、それは、きっと彼女も望むところではない。滅んだ世界を見れば、彼女は悲しむだろう。――頼む。彼女を正気に戻してやってくれ」
「そんなこと言われても……こっちも今、それどころじゃないんですけど……」
「ダメかね?」
「い、いや! そうじゃなくて。今わたしたちは離れられないというか、」
呆然と言うアレンティアへ、シルクハットをかぶった老紳士は、ひょいと片眉を上げて見せた。
「ハート・オブ・ガーデンローゼスかね? それならば、わたしが停めているが」
「え――」
そこで、アレンティアたちはようやく思い至った。
今まさに全力で薔薇の女王と競り合っていたはずの自分たちが、なぜ、悠長にスフィールリアの様子を観察などできていたのか。
〝――――――〟
紳士が、女王の白い肩の上に、ステッキを乗せて触れている。
そのせいなのか。薔薇の女王は虚空に視線を固定し、完全に沈黙していた。
「あなたは、いったい――」
「急ぎたまえ。わたしがこうしていられる時間も、世界に残された時間も、無限ではない」
「っ……!」
「いこう、アレンティアちゃん。――おじいちゃん、ここは一時任せた!」
「うむ。頼んだ」
アレンティアの肩を一度引き、ひと足先にキャロリッシェがきびすを返して走り出した。
「その白薔薇の剣は残していってくれたまえ。わたしの〝力〟の触媒に、使わせてもらっているから」
うなづき、白い女の腹に刺したままの『白き薔薇の小剣』を手放し、アレンティアも走り出す。
その彼女たちの背に、老紳士の声がかかる。
「そうそう。彼女を元に戻すには、〝ショック療法〟的な手法をお勧めする。彼女の人格や人生経験を大きく揺さぶるようなできごとを与えることができれば、彼女はきっと目を覚ますだろう――薔薇たちへの対処も必要だと思うので、援軍も呼んでおいた」
「援軍っ?」
その時だった。
スフィールリアを挟み、アレンティアたちの進行方向の虚空に、いくつもの斬線が走る。
「ど――っせぃやぁ!」
その空間を破って現れたのは、『世界樹の聖剣』を担いだ姿のアイバ・ロイヤードだった。
《<ガーデン・オブ・スリー>領域へと接触。アーキテクチャーモード、継続起動中》
「クッソ硬かったな! 腕が痺れた!」
「こ、ここにスフィールリアさんがいますの!?」
彼の後ろには、アリーゼル、フィリアルディ、エイメールらの姿もあった。
老紳士が声を大にして言う。
「アイバ・ロイヤード君! 君には彼女たちの護衛と、薔薇の処理を頼みたい――今の薔薇たちはこの場にいる者を皆殺しにするぞ!」
「ば、薔薇ぁ?」
すっとんきょうな声を出すアイバの視線の中。
今まさに、アレンティアたちのすぐ背後の地面を破り、大量の薔薇が増殖発生したところだった。
「――ってアレか、くそ!」
即座に駆け出すアイバ。走るアレンティアたちとすれ違い、
「手ぶらかよ!!」
「ごめん勇者君、あと任せた!」
「なんだよくんだりきてみりゃ、こんな役回り――かよ!」
アイバの姿がかき消え、一瞬後には、薔薇の直前に現れていた。
《アーキテクチャーモード起動中。〝時間流先行〟〝オーラブースター〟》
「――けりゃい!!」
アイバが聖剣を一閃させ、薔薇たちが散っていった。
が、すぐにまた別方向の土中から薔薇が生え出してくる。
「キリがねえじゃねーか!!」
一方で、空間の裂け目を抜け出したアリーゼルたち三人とアレンティアたちが、スフィールリアの下に合流する。
「……!」
すぐさま傍に寄ろうとしたところ、彼女の周囲に張られていた不可視の障壁に阻まれた。
アリーゼルがごつんとおでこをぶつけたのだ。
「あぃた! なんですの、この壁は!」
「スフィールリア……またあの時と同じに……!」
その彼女たちに、無表情のままのスフィールリアが、ゆっくりと腕を振り向ける。
「っ……!」
身構えた五人だったが、
「……」
スフィールリアは彼女らの姿を認めると、無表情のまま、その腕を下ろした。
「スフィールリア……?」
「……」
スフィールリアは、そのまま。彼女たちに体を向けたままだ。
「わたしたちが、分かる……んですか?」
うんともいいえとも言わない。
しかしスフィールリアの透明な眼差しになにかを察したフィリアルディは、障壁に手を当て、彼女に呼びかけた。
「スフィールリア、わたしたちだよ。お願い……この壁をどかして。あなたの傍にいきたいの」
やはり、うなづいたりすることはなかったが、
「……」
スフィールリアは<神なる庭の搭の『煌金花』>を自らの頭上に浮かべさせてから、障壁を解除した。
「ありがとう」
小走りになってスフィールリアに寄る一同。<神なる庭の搭の『煌金花』>はスフィールリアの無言の命令により、薔薇に対する攻撃を続けている。
遠方の平原を、光条が薙いでゆく。
次々と――数千万株単位で、薔薇たちが滅んでゆく。
猶予がそれほどあるようには、思えなかった。
「スフィールリア、しっかりして、わたしが分かる? スフィールリア!」
フィリアルディが彼女の両のほっぺたを包んでぺちぺちと叩くが、スフィールリアは無言で見つめ返してくるだけで、反応はまったくない。
「あのおじいちゃんは、ショック療法がいいって言ってたけど……」
「では、もっと強く叩いて差し上げればよろしいのですわ! おでこのお返しですの!」
ぺちん! とアリーゼルが背伸びをしてスフィールリアのおでこを叩く。
しかし、彼女はむずがゆそうに目を瞑っただけで、やはりなんの反応も返してはこなかった。
「く、くやしいですの!」
「おいしいものを食べれば目が覚めるのでは? はいスフィールリアさん、これ、食べます?」
と、エイメールが抱えていた紙袋から一本のスティックタイプの食べ物を取り出して、スフィールリアの口元へと運んだ。
「……」
「……」
一時、それを不思議そうに眺めてから……
「……」
スフィールリアはエイメールが持つそれをくわえて、もむもむと食べ始めた。一心に。無言で。
「……」
やがてそれを食べ終わり、スフィールリア。二本目を要求するように、エイメールへ向けて口を小さく開けて待機状態に入った。
「あ、お気に召しました? どうぞ」
再び、もむもむとスティックを食べ始める。
「うふふっ。スフィールリアさん、ひな鳥のようでかわいいっ」
「……って、なんの解決にもなってないじゃないですの! ふざけていますの!」
「ふざけてなんかいませんよ。プリンの時みたいに、おいしいものを食べた衝撃があれば元に戻るかもと思って」
「……ていうか、お昼ごはんの時からそれ食べてますわね。その棒状の物体はなんですの?」
「なにって。パンの耳を揚げたものですよ」
「パンの耳? なぜそんなものを」
「うちの主食のひとつですから。フィーロがアルバイト先からもらってきて作ってくれるんです。砂糖がまぶしてあってとてもおいしいんですよ。おひとついかが?」
「けっこうですわ!」
「あーはいはい! ふたりとも静かに、落ち着きなさいって!」
ぱんぱんと手を打ってキャロリッシェがふたりを止める。
「う……うおおおおおお! だ、だれか手を貸してくれええええーー!!」
目を向けた先では、増えすぎた薔薇に追いかけられて死に物狂いで走るアイバの姿が。
本当に猶予はない。
「せ、先生。さ、さっきのおじいさんの言うことを信じるなら、このままだと世界が滅んでしまうんですよね?」
「どうやら、そのようなのよね。信じがたいけど」
フィリアルディが慌てて、もう一度スフィールリアの頬を撫で始める。
「スフィールリア、お願い、もうこの世界を攻撃するのは止めて! このままだとわたしたち、みんな大変なことになっちゃうの! あの杖を止めて!」
その言葉で思い出したように、頭上の『縫律杖』へ目を向けるスフィールリア。
彼女がかざした手に、ぽぅ、と〝金〟の光が灯る。『縫律杖』へ、〝金〟の輝きが移ってゆく……。
ぱっ――
ぱぱっ――
光が、瞬き、
「っ……!!」
杖から放たれた光条が、数十キロ先の地殻ごとを掘り返して、数十億の薔薇を爆裂させてゆく。
すさまじい激震とノイズが世界を揺らした。
「そ、そんな! スフィールリア……どうして」
「どうやらあのおじいちゃんの言うことが本当みたいね。最初に抱いたひとつのこと以外は、頭にないんだ」
「ひ、ひとつのこと?」
「……あの〝城〟よ」
キャロリッシェが視線で示した先――
大気の青に霞む、シルエットだけの〝城〟は、いまだに不気味な鳴動を立てながらもその空に浮揚している。
「あれは、<ルナリオルヴァレイ>で見たのと、同じ。いったい……きゃ!」
その時だった。
再び大きな時空震とノイズが走り、世界から、〝色〟が――消えた。
すべてが、灰色に。
滅びつつあるのだ。この<薔薇の庭>という領域、そのものが。
そして、世界が。
「ヤバいかもね」
「いったい、どうすれば……!」
と、それまで「うーんうーん」と難しそうに考え込んでいたアレンティアが、意を決した風に顔を上げた。
「ひとつ、有効な手があるかもしれません」
「なにっ? いやもういい、すぐにやっちゃって!?」
光明を得たように目を合わせてくるキャロリッシェに、しかしアレンティアは迷うように顔を伏せてしまう。
「いや、しかし。う~~ん。これはスフィールリアちゃんの大切なものをひとつ、なくさせてしまう可能性があって」
「なんでもいいから早くしてくれぇ~~~~!!」
と、話が聞こえていたわけではないだろうが、アイバの絶叫が響き渡る。
彼は、前方の薔薇を片っ端から切り払いながらも、背後に迫る薔薇から全力疾走で逃走するという器用な芸当で立ち回っているところだった。もはや涙声である。
が、それだけではない。
世界が、だんだんと、暗くなってゆく。
灰色から、闇の世界へ――
その中で、スフィールリアがまとう〝金〟だけが、まばゆく輝いていた。
「そんなこと言ってる場合じゃないって! ほらすぐにやっちゃって! なにか手伝うことはある!?」
必死の体で叫ぶキャロリッシェに、アレンティアは今度こそ意を決してうなづいた。
「それじゃあ……彼女の肩を持って。こっちへ向けて」
「うん」
「しっかりと押さえつけておいてください」
しかとうなづき、スフィールリアの両肩を持つキャロリッシェ。ぐっと、彼女の身体を、アレンティアの正面へと向けた。
「スフィールリアちゃん」
「……」
頬にそっと触れてくるアレンティアの顔を、無言で見つめ返すスフィールリア。
「えーと、えへへ。……ごめんね?」
そして、次の瞬間――
「きゃ」
フィリアルディの悲鳴が短く響く。
起こったことといえば、それ自体は簡単である。
アレンティアが、スフィールリアにキスをした。
しかしただのキスではない。
スフィールリアの唇にかぶりつくように、激しく――深く。
アレンティアがさらに強く彼女の頭を抱き寄せて、ふたりの頬が内側からもごもごと艶かしく蠢く。
「……」
最初はやはり表情にも変化はなく。されるがままにしていたスフィールリアだったが……。
「っ……?」
やがてその両の目が、驚いたように見開かれてゆく。
「っ……むー! んむっ、ふ、むー、むーむーー!?」
じたばたと手を暴れ出させる。
それでもアレンティアは、自分をよりスフィールリアの奥へと潜り込ませていった。
頭上の『縫律杖』がスフィールリアの変化に合わせて、なにかの頂点に達したように輝きを増して――
「むーーーーーーーーー……!!」
「……ぷあっ」
アレンティアが口を離すころには、元のバトンサイズに戻っていた。ゆっくりと、地面へと落ちてゆく。
薔薇への攻撃も止まり、世界が〝色〟を取り戻していた。
「あ……アレンティア、さぁん……!」
潤んでとろけ切った瞳を向けて、スフィールリアがアレンティアの身体に取りすがった。
完全に腰が砕けた彼女の身体を、アレンティアが支えて、笑いかけた。
「お帰り、スフィールリアちゃん」
「……なるほど、女の子からのディープキス。これは人生の経験揺らぐわ」
「いやー、昔、実家で従姉妹にこれされた時、衝撃を受けたんですよねぇ。これなら目を覚ますかなって」
「なるほど~」
あっはっはっは!
と笑うアレンティアとキャロリッシェ。
「は、初めてだったのにぃ……! わけが分かんないうちに……はう……」
涙目になっているスフィールリアの腰を、やんわりと地面に下ろし。
まじめな表情に戻り、アレンティアは背後を振り返った。
歩き出す。
「……」
「……きゅう」
大量の薔薇に絡まれて気絶しているアイバ……の横を通りすぎ。
薔薇の女王の下へと。
謎の老紳士の姿は、いつの間にか、消えていた。
「アレン、ティ、ア」
「うん。ハートローズ」
薔薇の女王は、現出していた薔薇の大半をスフィールリアに滅ぼされて、自身もまた枯れ果てる寸前にまでなっていた。もはや力を残してはいまい。
しかし女王は微笑みを絶やさず……ふわりとした動作で、アレンティアに向けて両の腕を開いていた。
「アレンティア……しかたのない子。こんなところにまで、会いにきてくれて」
「うん」
うなづく。女王の前に立つ。
そして女王の腹に残されていた『白き薔薇の小剣』の柄を取り、真上一直線に一閃した。
「……」
切り裂かれた白い女――彼女の母の形を模した女王は、それを機に、一気に枯れ散っていった。
ぽぅ、と彼女の胸の一点に緋色の光が灯る。
〝継承の儀〟を修了した『薔薇の剣』の継承者は、初代『緋薔薇の剣聖』の絶対色を受け継ぐことがあるという。
その真実が、これだ。
ヴァルケスの語ったところによる真の継承者――その者たちだけが、こうして、薔薇の女王からこの光を受け継いできたのだろう。
「ありがとう、ハートローズ。……お母さんの姿を、見せてくれて」
その光を握り締めて、アレンティアは、スフィールリアたちの下へと戻っていった。
「お城が……」
「消えてゆく……」
「なんだったんですの……」
同時に、はるか遠方の天に浮揚していた〝城〟もまた、その甲高い駆動音を遠ざけさせていっていた。
「っ……」
思わず追いかけようと立ち上がりかけて、がくんと膝を落とすスフィールリアの肩を、キャロリッシェが支えた。
「無理だよ。あれは、こっちの領域に完全には現出していない。それに、力を使いすぎたんだよ。……今は休んで、スフィーちゃん」
「……」
返事をする余裕もなく、スフィールリアの意識は深い眠りへと落ちてゆく。
こうして、『薔薇の剣』と王城にまつわる<薔薇の庭>を巡る冒険は、終幕を迎えたのだった。
◆
甲高い音。
城の音が聞こえている。
自分を呼ぶ声がする。
意識の目を開いたスフィールリアは、それで、あぁまた夢の中に迷い込んだのだなと思った。
深い深い眠りの海へと沈んでゆく途中。
ここはその、ほんの刹那の、空隙の時間――
「きたね」
音も、温度も、色も天地もない。暗闇の中。
「こっちだよ」
「……」
その姿だけがはっきりと見えているフィースミールの背を、スフィールリアは追っていった。
「世界が滅んだ日のことを、覚えている?」
「……」
彼女が進む暗闇のはるかはるか先に、ほのかな七色のプリズムが見えている。
スフィールリアはただかぶりを振る。
「世界が生まれた日のことを覚えている?」
スフィールリアはこれにもかぶりを振る。
「そう」
「あなたは、まだ、思い出していない」
「世界は、まだ、あなたを思い出していない」
「わたしたちは、まだ、あなたを知らない」
いつの間にか、彼女たちの進む〝道〟の両端に、女たちが立っていた。
夢の主であるスフィールリアは、彼女たちがだれであるのかを理解していた。
「……」
世界を十と二に分けた始原の庭。神々によって選ばれたという、その最初の管理者たち。十二人の乙女。
すなわち――プリージア。エルトルリアム。カルアローゼ。マハトリゼクス。リア。ストーリア。アルムス。クリシュナージャ。アリアロス。サンローネ。エリスティア。ティアルージェ。
『どうぞ、こちらへ』
「……」
十二の乙女たちが導くように、道の先へ、手を。
彼女たちの示すままに、スフィールリアは、フィースミールの背を追っていった。
暗闇の中を七色のプリズムが煌き、その中にいくつもの風景が揺らめいては、消えてゆく。通りすぎてゆく。
どこかの国。どこかの文明。どこかの時代。
生まれ、栄え、変わり、滅んでいった。
それらのすべてをスフィールリアは知っていたし、また、知りもしなかった。
そうしていくつもの歴史をたどりながら、どれだけを進んだだろう。
いつの間にか、スフィールリアはフィースミールの姿を見失っていた。
「きたのか……スフィールリア」
たどりついた暗闇の果てのプリズム。
それが変化して、彼女の前に現れている者の姿があった。
「フォルシイラ」
名前を呼ぶ。
しかし彼は彼女の呼びかけにもこれといった反応は見せなかった。
目の前に立つ金色の猫の瞳を見て、スフィールリアは悟った。
ここにいるフォルシイラは、フォルシイラではない。
ただこの領域に留められているだけの、〝記録〟――そして彼女自身の記憶に記された彼の姿との、混合体なのだと。
「〝ここ〟までだ。〝ここ〟から先には、いけない」
断崖の淵に、彼女は立っていた。
「……」
「だれも、いけない。〝ここ〟がどこだか、お前には分かるか?」
スフィールリアは、自然にうなづいていた。
「世界の果て」
「そうだ。お前は今、開錠された<ガーデン・オブ・スリー>の深層領域から〝ここ〟にアクセスしている」
「……」
「お前の表現は、ある意味で正しい。だれもこの先まではさかのぼれないのだから。そう。ここは、世界の果て――歴史の終端」
「……」
「ここを、多くの綴導術士たちが訪れた。綴導術士たちは、ここのことを、そう呼ぶ。あるいは単に、〝ヴィジョン〟と」
「魔術士たちの、文明……」
「そう」
フォルシイラが、なにかに呼ばれたように顔を上げる。
彼が見上げた先に――巨大な塔が立っていた。
巨大な――とても巨大な。
その大きさに比べれば、スフィールリアたちなど砂粒よりも小さな点にすぎない。
そんな塔がいくつも、何千、何万とそびえ立っている。その空に、彼女たちは浮かんでいた。
「魔術士どもの文明は栄華の頂点を極めた。いくつもの〝都市〟を内包した塔を立て、その中で昼と夜、天候さえも自在に操った。そんな塔を、何千、何万と建造しても、足りることはなかった。彼らは満足することはなかった」
「うん」
「いこう。もっと、上まで」
雲と煌きの都市を抜け、フォルシイラとともに、さらに上空へ――
そうして、見えてくるものがあった。
巨塔の群れを突き抜けて、さらに天空高くそびえる黒き塔。
世界を管理した十二の塔。『魔術士の杖』――神の塔。
そのひとつが――最後のひとつが、崩れ落ちてゆく。
「世界が滅んだ日。それはなんの変哲もない――穏やかに晴れ渡ったある日のことでした」
いつの間にか、彼女の隣にはフィースミールが浮かんでいた。
歌が聞こえる。楽しげで、どこか気の抜けていて、穏やかな。そんな鼻歌。
だれが歌っているのか。それも、スフィールリアにはよく分かった。
「プリージア……」
隣に並んだフォルシイラが、耳を落とし、悲しそうに顔を伏せた。
崩れ落ちてゆく神の塔。そこに記された文字を、スフィールリアは読むことができた――フォルシイラと。
「彼女が、わたしの、最初で最後の搭乗者だった」
スフィールリアは、フォルシイラの頭を抱きしめた。
崩れてゆく。なにもかもが。〝霧〟に没してゆく。
崩壊する〝都市〟のただ中を、おびただしい〝霧〟を噴き出しながら蹂躙する獣の姿。
「四柱の〝霧の魔獣〟。その最初の獣。フェルクフェストゥオルム。ヒトのつけた名に、意味などがあるのかどうか」
「世界は、滅びました」
フィースミールの言葉が届くころには、スフィールリアたちが浮かんでいた領域にも崩壊の手が及んでいた。
いつの間にか、スフィールリアはひとりになっていた。
フィースミールの声だけが、聞こえてくる。
「願わくば、あなたたちに受け継がれるこの力が、二度と同じ過ちへと向かわぬよう。世界が、安定して存続してゆける手助けとなるように……」
「……」
世界の砕片とともに、ゆっくりと、ゆっくりと。断崖の奥深くへと、落ちてゆく。
甲高い音が聞こえる。
城の音が聞こえている。
自分を呼ぶ声とともに。
落ちてゆく断崖の中――崩れてゆく数々の歴史の欠片たちを見下ろすように――巨大な〝城〟のシルエットが浮揚している……。
スフィールリアは手を伸ばすが、届かない。
まだ、届かない。
このままでは、届かない。
その思いだけを胸に紡ぎ出し、彼女の意識は、断崖の深奥へ。
深い眠りの暗闇へと、沈んでいった。