■ 2章 ようこそ、古と水の都へ!(2-05)
早朝の<ディングレイズ・アカデミー>
「――と、いうわけで、ここが<近くの森>。綴導術の最基礎素材なんかは、ここにくれば、学院生はタダで調達できる」
「はいっ、先輩!」
その敷地の隅に広がる広い森に、連れ立って材料採集に出向いてきている学生の姿があった。
「『水晶水』作るんだったらこのアストラ草だろ。アツ草は加工するといい油になる。変り種はマツリキノコだけど、これはその名の通り食べるとアタマがお祭り騒ぎになる上に、この通り見た目がシイタケによく似てる。この辺は山菜採りにも適してるから間違えないよう注意な」
「は、はい! あ、ありがとうございました!」
この時期、手ごろな各採集地では、こういった光景がよく見られる。
だいたいの新入生が主に自分の学ぶ教室を選び、そこにいる教師や上級生とも話し慣れてきた。綴導術の最基礎練成である『水晶水』の作り方も学び、そろそろ、自分で自分の材料を調達するノウハウを獲得しようというころだ。
「先輩に教えていただいて、よかったです」
なんてことを言われて、上級生の男。ほんわかしつつ、これからの学院生活にバラ色の思いを馳せたりする。
「いや、これぐらいだれでも知ってることだし。でも危険な生き物もいるから。コケコックルとかワンオーとかな。言えば護衛くらいつき合うかな。は、はは」
「ほ、本当ですかっ?」
「あ、ああ。ははは」
「ぐすっ……。わ、わたし、田舎出で、同じ地方の人なんていなくって。戦いなんててんでしたこともないし。王都は怖いし。先輩たちだってすごい人たちばっかりで……わたしみたいなのが出てきたのが間違いだったんじゃないかって……せ、先輩みたいないい人に出会えて、ほ、本当に……う、ううう」
「お、おいおい」
そして、ホームシックにかかりやすい時期でもあった。
こんな話も、まったく珍しくはない。
毎年、世界中から、何千人もの綴導術士の卵が集ってくるのが<王立ディングレイズ・アカデミー>だ。
教職の鞭を取る綴導術士の数、および機材の高級さという点から、ただでさえ綴導術という学問の敷居は低くない。ゆえに、地方ごとの受験者の母数自体が非常に少なくなる。
同じ出身同士などというものの大半は、よほど大きな町にある高等学院か大学院、もしくはそういった町をいくつも擁するような大領地の出なのである。
単に広さだけがものすごくある地方領の、遠方同士であるという例も、実は多い。
それでも彼女などはまだいい方で、遠い外大陸からやってきた奨学生などは、言葉も通じないところからのスタートだったりするから大変だ。
同郷のコミュニティが自発的に設置されたりもしているのだが、その国の貴族が牛耳っていたり、そのため奇妙なカースト制が定着していたり……。
……ともかく。気持ちはよく分かったので、しみじみしてしまうのだった。
自分も最初のころは上級生に対して、なにを澄まして偉そうにしやがって、と何度も思った。
しかしこうして自分なりにも一年間生き残ってみれば、分かることもある。
後輩と言えどライバル。培ってきた知識やノウハウだって安いものじゃなかった。だれかれ構わず、無条件に、手渡してやろうと思えるものでもない。
たしかに学院は競争社会色が強い。がしかし、だからといって、勘違いをして露骨に競争心や盗み心をむき出しにしてくるような新入生には関わりたくもないと思うものなのだ。
「落ち着いたか?」
「は、はい……すいません」
要するに、こういう後輩は、かわいい。
自分に手渡せる範囲なら、もっといろいろ教えてやろうと思う。
「……でも、すごく静かな森ですね。こんな時間ですけど、でもただで素材調達できるんなら、もう少しは人を見かけてもいいと思うんですけど」
ぴたり。と。
上級生が、微妙にそわそわとさせていた体を停止させた。
「そう、だったな……これは、知っておいた方が、いいだろう……」
「え?」
照れ隠しの世間話ていどな気持ちで切り出していた後輩は、思っても見なかった反応が返ってきて、緊張した。
「この森にはな……『いる』んだよ」
「え、え? あっ――い、いやだなぁ、先輩」
最初は、からかわれているんだと思った。
だが、上級生の顔は、真面目すぎた。
「……」
「あの……」
森は静か。風もない。
満たされた薄闇の中、地より染み出した朝もやが、ゆったりと揺らめいている。
さほど密度が高いわけではない木立や茂みの隙間に、なにかが動いた気がした。
そして、
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――」
「……ひっ!?」
聞こえてきた声に、後輩は肩を震わせて上級生の袖を持った。
少しずつ、近づいてくる……?
「ヤバい。長居しすぎた。きたかも」
「せ、せせ先輩っ? せ、戦闘ですかっ? どうしましょう、わたしオバケと闘ったことなんか!? 」
「は? 違う! オバケなんかじゃないっ。もっとヤバいやつだ。いいから早くこんな場所からは離――」
しかし、その判断は遅かった。
「ぁぁぁぁぁああああ!! どいたどいたあーーーー!?」
「っご!?」
瞬間、木々の隙間から弾丸のように飛び出してきた影から膝打ちを食らい……
「っ…………せっ!」
上級生は、猛烈に倒れ伏した。
「せんぱーーーーーーーーーーーい!?」
「三、二、一……くる!」
「くる、ていうかきたっていうか、あ、ああ、あなただれですか!? 先輩になんてこと」
と言い切るころには上級生を蹴り倒した人物は、飛び出してきたままの勢いで、すでに別の茂み向こうへと走り去っていってしまっている。
「ごめんねーー! ふたりも早く逃げた方がいいよーー!?」
女の子の声だった。今度見かけたら正式に文句をつけようと、そのシルエットだけを脳裏に焼きつけ。上級生の肩を揺する。
「先輩、せんぱい、しっかりしてください!?」
「……はっ!? ばか! 離れろ!」
「えぇっ? ――ひゃあ!?」
がばっと跳ね起きた上級生に突き飛ばされる。数歩よろめいて尻餅をつき、その是非を問う暇もない。慌ただしく鞄から取り出したなにかの道具を、
「覚えておけ戦闘の心得その1! 倒れたヤツには近寄らない! そんなことよりまず周辺確認と第二波に備えた防御強――」
構えようとした彼の姿が、消えていった。
突風が可視化したと勘違いするほど猛烈な――火炎放射の中に。
「……え…………」
炎が通りすぎたあとには、やはり、上級生の姿があった。
「…………覚エてオくとイイ」
一瞬前と変わらない体勢。
ただし、全身からはぶすぶすと黒煙を上げていて。
「今のガ、こノ森のヌシ。コケコックル、の、女王、そしテ」
その手に構えた護符が、崩れ散り。
「特、監――生」
倒れた。
「先輩ーーー!? だだっ大丈夫ですか!? トッカンってなんです!? なにか言って……ひとりにしないで!? …………いやあああああああ!?」
上級生の顔は笑っていた。護るべきものを護った笑みだ。
残された者の悲痛な叫びをあざ笑うかのように、さらに、森を揺るがす轟音が鳴り響くのだった。
ドズン――!!
「ぬううううううううううううう!!」
ゆうに自分の数倍はある怪鳥の突撃を受け止め、スフィールリアが二度三度と踏ん張る地面の土が掘り返されてゆく。
対峙するは、この森の女王。首領・コケコックル。
激しい追走戦の末、場所は会敵現場に戻って<女王の広間>――首領・コケコックルの巣だ。
恐るべき『コケコッコ=フレイム』はすでに制した。幾度にも渡る挑戦の末に集積した戦闘情報の示す通りに女王の炎は尽き、同時に、スフィールリアが綿密に立てた作戦も、攻防用のアイテムも、使い果たされていた。
広場外周のしげみには、戦いのゆく末を見守るようにして大量のニワトリ――ではなく。コケコックルたちの視線。
なにもかも、決戦には相応しい舞台が整っていた。
「ぬおおおおおおおおおおおおおおお!!」
〝キュルコッ……コオオオオオオオオオ、ッコオオオオオオ!!〟
スフィールリアの指にある、身体能力増幅機能を持つ指輪が光る!
完全に優勢にあった女王の首が、持ち上げられてゆく……!
〝キュッ、キュオッ!? っ…………コケエエエエエエエエエエエエ!!〟
「うぬおあああああああああああああああああ!!」
さらに優れた戦闘センスがもたらすバランス感覚はスフィールリアに『力の流れ』を教える。
巧みな重心移動、筋力操作により、首領・コケコックルの巨躯が、徐々に真横方面へと倒されてゆき――
「どおおおッッッらああああああああああああああああああ!!」
〝キュオオオオオオオン!〟
均衡が破れれば、あとは一瞬間だった。
首領・コケコックルの角を持ったスフィールリアが巨躯からかかる力学すべてを逆利用した上で、身体ごと跳んでの空中三回転ひねりにより――巨大な怪鳥の全身は、すさまじい回転とともに地面へと打ちつけられていた。
〝……!〟
倒れ伏し、コケコックルの女王は、見た。
――覇王。
たかが愚かな人間の少女とあなどっていたその背中が負う、覇者のオーラの揺らめきを。
「……」
静かに――この森新たなる覇王――学院野生動物の頂点となったスフィールリアが、首領・コケコックルの巣へと近づいてゆく。
そして、大小いくつもある〝タマゴ〟のうち、もっとも輝かしくも巨大なものへと、その手を触れた。
〝……!〟
その〝タマゴ〟は、ダメだ。それは、この森の次なる王の――!!
〝……〟
首領・コケコックルは一時だけ瞑目し、〝タマゴ〟をあきらめた。しかたがない。もはや森の王は彼女であり、自分ではない。
〝タマゴ〟より生まれくる者もまた、王者の器足りえる者ではありえなかったのだ。
「……」
しかし女王は目を見開く。
スフィールリアが手に取ったのは、二番目に大きな〝タマゴ〟であったのだ。
〝……!〟
スフィールリアは、なにも言わない。振り返りもしない。
ひと抱えほどある〝タマゴ〟を細い肩に担ぎ、ただ、広間の出口へと歩んでゆく。
そこで一度だけ、振り返る気配を見せたが……
「……」
やはり視線も、言葉も、なにも寄越すことはなく。静かに、コケコックルの群れが空けた道を帰りゆくのだった。
〝…………〟
彼女の背が見えなくなってからも、女王は、彼女の去った道を眺め続けていた。
学院敷地のはずれには、広い森がある。
その森の一角に一軒の小屋が建っていることを知っている学生は、多いとも言えるし、少ないとも言える。
「知ってるか? また<近くの森>で犠牲者が出たらしい」
「〝特監〟か……」
「センパイ、〝とっかん〟てなんですか?」
「それはな――」
「よしいいか後輩君、いいことを教えておいてやる――」
「そうそう思い出した。これだけは知っておいた方がいいんだけどね――」
「学院の隔離指定危険児――」
「実在を確認した者は少なく――」
「学院においてすらはぐれ者――」
……という按配に。
運よく知ることができた上級生から後輩へ。そしてまたその後輩へ。
〝特別監察特待生〟という存在は、連綿と語り継がれてゆくのだ。
つまり、知る人ぞ知る、ということだ。
<近くの森>と呼び交わされるその森にある目立たない道を通ると、突然、魔法かなにかのようにぽっかりと開けた場所に出る。
たどり着けない者もいるんだとかいないんだとか言うその奇妙な空間に座す古い桜の大樹と、寄り添うようしてにたたずむ青い屋根の一軒家。
「ん~~っ、いい天気! 暖かくなってきたなぁ!」
そこが、その特別監察特待生――――略して特監生であるスフィールリア・アーテルロウンに宛がわれた〝寮室〟なのであった。
「……っとぉ! ……ふあふ。おふぁよう、フォルシイラ~」
学院生からどんな目で見られているのかもまだよく把握していない暢気なスフィールリアは、小屋の裏手にある井戸から汲みたての冷たい水をひと掬い、顔に浴びせかけて息をついた。
「おう、おはようだな。昨日は帰ってきて一眠りするなり、しばらく作り貯めしてたアイテム使い果たしてたみたいだけど。今日は休むのか? 今月厳しくないか?」
と、ちょうど朝の散歩から帰ってきたところで挨拶を交わしたのは、体長二メートル以上はある巨大な猫。
金色の毛並みを持つ〝妖精〟フォルシイラだ。
学院の創設者に頼まれて、何百年も前から建っているこの小屋と生徒を見守り続けてきた。古い古い大妖精。それが彼だ。
「ん~ん。今日はフィリアルディたちも帰ってくるから。ミルフィスィーリアに会って、品物とアイテムの受け渡し。あと授業にも出るよ――」
と、顔を拭いてからフォルシイラに向き直ろうとして――
彼が森の一方を向いていることに気がついた。
スフィールリアも、そちらを見る。
「……」
茂みの向こうに、異様な影。
大きな大きな鳥が、そこにいた。
全身はほぼ硬質のウロコに覆われ、真っ白い羽毛が残っている部分は、むしろ少ない。凶暴性の内にも一筋の意思の光を見せる鋭い眼差し。
先日スフィールリアが打ち倒した、首領・コケコックルである。
〝……〟
「なんだアイツまだ生きてたのか。俺様がいると分かってここにくるとはいい度胸だ。ふふ。いいだろう。久しぶりに実力の差ってもんを」
と、フォルシイラが前に出かけて、しかし。
「ん~?」
〝……〟
こちらも茂みを抜け、一歩分だけ広間へと出てくる巨大怪鳥。
戦闘姿勢を取るのかと思いきや、その場へスッと足をたたみ、行儀よく『お座り』をしたのである。
しばしそのまま、見つめ合う。
次に巨鳥が立ち上がると、そこには、一玉の大きなタマゴが生まれていた。
「え……」
フォルシイラが拍子抜けした声を出すが、鳥はそれが当たり前であるかのようにタマゴを放置し、元の茂みへと戻る。
〝……〟
そして、スフィールリアを一瞥して……去っていった。
「……ふっ」
始終巨大コケコックルと目を合わせていたスフィールリアも、なにもかも分かっている風な雰囲気を醸しながら、タマゴへと近寄ってゆく。
「いや、なにがなんだかさっぱりなんだが」
「今日はとってもおいしいタマゴ三昧ってことよ。うっふっふっ」
「お前、タマゴ料理好きだもんな」
「ふっふふ~ん♪」
バタン。
タマゴを回収し、機嫌よく小屋へと戻ったスフィールリアに置き去りにされ……フォルシイラ。
「……なんで学院の魔獣を手なづけてるんだ?」
首を九十度かたむける。
ともあれ。駆け出しの学院生がまず最初に恐れることになる<近くの森>のヌシ、首領・コケコックルは、この日から毎朝、タマゴを産みにくるようになったのである。
「ねぇフォルシイラ。あ、あたし、ヘンじゃないよね?」
「あぁ、普通だぞ」
「そ、そうかな? この辺なんかいつもより五ミリほど、心なしか、寝癖が」
「いや、その髪の毛の位置は昨日と比べて誤差二ミリ以下だ。あれだけ入念にセットしてたもんな」
「あっ。素材の確認を」
「十回もしたぞ」
「いやー、でも。でもなぁ。いやあー」
「遅刻するぞ。全力で走って三分差だ」
「えっ、あわわ……! いってきます!」
「おう、いってらっしゃいだ」
バタン! ガチャーン!
わぐがああああ……!
…………。
「……数週間ぶりに同級生に会うのって、そんな大イベントか?」
また首を直角に倒して、フォルシイラ。
今日も、学院の朝が、訪れようとしていた。
◆
学院に、朝が訪れていた。
とある大型授業の行なわれる講堂前の芝上に、しきりに髪の毛や服装などを気にしながら何度も周囲を見回す、スフィールリアの姿があった。
「スフィールリア」
穏やかな声に呼ばれ、びくっと震えて、振り返る。
「あ……」
そこには、同年代の、メガネをかけたやわらかい物腰の生徒が立っていた。
「ふぃっ、フィリアルディ!」
うんとうなづき、大きな荷物を提げながら近づいてくるフィリアルディ。
フィリアルディは、亜麻色の髪をゆったりと波打たせた、やさしそうな瞳の少女だ。
そして、スフィールリアの〝正体〟をすべて知った上で受け入れてくれた――学院での最初の親友の、ひとりだった。
でも、それ以降はお互いにやることがあって、しばらくは会っていなかった。
だから、緊張してしまっていたのだ。
だが……。
「えといやあの、本日はお日柄もよく、マリンアーテさんにおかれましてはご清栄が敬具で具沢山はいいことでっその!」
「うん」
ともう一度フィリアルディはやさしくうなづいて、スフィールリアを待ってくれる。
ちゃんと分かってるよ、とでも言ってくれているように。
「えっと、えと……」
彼女の微笑に当てられて、スフィールリアは、徐々に落ち着きを取り戻していった。こんな包容力は、きっと自分には持てないだろうななんてことも、思いながら。
結局、気恥ずかしさは取れなくて、照れ笑いしながらの挨拶になってしまった。
「お、お帰り。フィリアルディ」
「ただいま。スフィールリア」
でも、こんな友達の『仕方』も悪くない。そう思わせてくれるのが彼女なのだった。
「え、えへへ……」
「ふふふっ」
「お恥ずかしいお友達ごっこはお済みですのっ。おはようございます」
と、すぐ横合いから首を突っ込んでまたスフィールリアをびっくりさせたのは、彼女にとってもうひとりの親友。アリーゼルだった。
「わっ! あ、アリーゼル! 脅かさないでよぅ!」
アリーゼルは幼い丸みを残した鼻をふん! と鳴らす。
「わたくしの接近にもお気づきにならないほど緊張なされたり、かと思いきや真逆にふにゃっと弛緩されたり驚いたり。相変わらずお忙しすぎなんですのよ、あなたが。貧乏ったらしいったらありやしませんことですわ!」
彼女はこの王都ディングレイズにおいては頂点から数えた方が近い大貴族――にして綴導術の名家でもあるフィルディーマイリーズ家の末娘で、中等部を途中飛び越しして<アカデミー>に入学してきた。
スフィールリアと同じく、すでに道具を『作る』領域にいる。今時期の新入生の中では、かなりの少数派に属する〝精鋭〟と言ってもいい。
いわゆる、天才児である。
だけど、すごく小さくて綺麗で、かわいいのだ。
スフィールリアは至近距離のアリーゼルを、そのまま極めて自然に抱き寄せていた。
「でも、はぁー。アリーゼルがいると和むよ~。かぁいいな~」
「はいぃっ!?」
アリーゼルが顔を真っ赤にして心外の意を示す。
「ちょっとなにをものすごくナチュラルに失礼なことしてくれてるんですのお放しなさい!」
「スンスン」
「あ、ちょっ、なんで匂いまで……なでないでくださいまし!!」
ガバッと離れてフーーッ! と威嚇めいた息を飛ばしてくる。
「わたくしがあなたに近づいた理由をお忘れのようですわね…………あなたはわたくしのラ・イ・バ・ル! 候補なんですのよ! だのになんで馴れ合いどころかこのような愛玩動物じみたこんな、こんな――――フシャーー! あと一歩近づいたら攻撃いたしますわ!!」
「はい、そこまでね。スフィールリア?」
「えっ、あ、いやっ……えへへ。はぁい」
ぽんとフィリアルディが肩を持ち、とりあえずその場は丸く収まる。
久しぶりに三人がそろった、学院の朝だった。
『情報記述総合Ⅰ』の講義項目を終え、休み時間。
ざわめきが立ち始めた講堂で、隣り合って座っていた三人は、息をついていた。
「はぁ~。授業も久しぶりだねっ。でも用語を照らし合わせてみれば、だいたいもうやってることばっかりだったなぁ。もっと先に進んだ方がいいのかなぁ?」
それもそのはず。
スフィールリアは、学院にくる前までは『伝説の賢者』と謳われるヴィルグマイン・アーテルロウンの弟子として、師の不在がちな工房の切り盛りをしていた。
教科書とか公式といった概念とはほど遠いヴィルグマインを師に持ったため、スフィールリアは、こういった〝授業〟で受け渡される用語のほとんどを知らない。
だけど実践したことはいくらでもある。彼女が首をかしげた用語に関して懇切丁寧に説明をした上で用例なども入力してみると、ぱっと顔を明るくするということが、いくらでもあるのである。
だからアリーゼルは、呆れとともにため息をついて彼女へ釘を刺すのだった。
「だからこそ、あなたはこういった基礎的な授業をこそ積極的に受けてゆくべきなのですわ。工房経営もひとりきりでするものじゃなし。いずれ自分の工房を持てば部下も持つし、正規な教育を経てやってくる彼らと、あなたはそのお師匠様とやらと同じやり方でやっていく自信がおありなんですの?」
ついでに言えば、他工房や依頼主との取引のやり取りにおいても成り立たなくなるだろう。
などなどということは、アリーゼルもすでに、何度も彼女に言い聞かせていることだった。
逆にアリーゼルの方は、こういった綴導術の〝公式〟全般に関して、すでに詳しい。
スフィールリアとは真逆の方角から伸びてきている〝天才〟なのだ。
「わ、分かってるよ~」
「ふん。どうだかですわね。第一、これは二年生だってまだまだ受けにくるような項目ですのよ。ごらんなさいな、むしろこの時期では一年生の方が圧倒的に少ないんですの。基礎だ基礎だと思って甘く見てらっしゃると、半年・一年後にはひどい目に遭いましてよ」
「でもほら! 分かりやすい授業だったじゃない。わたしでも理解できたぐらいだもの。ほかの基礎項目の授業と合わせて、しっかり考えながら受けていたら、ちゃんと分かるようになっているもの。スフィールリアだって大丈夫よ」
「フィリアルディさんは組み立て方がお上手なんですのよ。〝教室〟のエスタマイヤー先生の授業組み立てもしかり、なんでしょうけれども」
にっこりと笑ってアリーゼル。
「うぅ……あたしとのこの態度の差はいったい……」
それは、日ごろのアリーゼルへの接し方が原因なのでは……という事実はフィリアルディも口には出さないでおいた。
ふたりのあのやり取りは、実はけっこう、好きなのだ。
「でも、そうじゃなくってさー。こういうことしてる間に、ほかの人も、アリーゼルも、どんどん先にいっちゃうんじゃないかなって。それって、ちょっとさびしい」
「さびしさ紛らわすために学ぶような学問じゃないですわよ……」
再度呆れて、アリーゼル。
次は意地悪に笑って、周囲へ手のひらを向けて示して見せた。
「それに……認識がなっていないんではなくて? あなた、自分が今、周りからどんな風に思われているか。考えたことありますの?」
「? どゆこと?」
なにも言わずに耳を澄ますポーズなんかを取る彼女に合わせて、スフィールリアも周囲のざわめきに耳を立ててみる。
「……」
ひそ……
ひそひそ……
「どんな高度な話してるんだろうな……」
「悪だくみの方じゃないの……?」
「ひょっとしてエムルラトパ家への報復を……」
〝霧の魔獣〟数千体を一瞬で滅ぼしたってマジ――?
次はなに作るんだろうな――
って言ったらお前そりゃやっぱランクSの――
いやさすがにそれは――
でも今は三人でなんかとんでもない量の素材を集めてるって――
じゃきっと今はドラゴン殺し級の超兵器を――
ひそひそひそ。
「……」
スフィールリアは聞こえた方へ片っ端から顔を向けた。全員が素早く顔を背けていった。
「なんなの?」
「そりゃあ、幻の特監生……特別監察特待生ともなれば。知ってる人間からならば、注目もされるし、畏怖の対象にもなるってもんでしょうよ」
「でも、アリーゼルたちだって見られてるじゃない」
「それは……わたくしたちがなにをしたのか忘れましたの? ――エルマノ国の国宝『ウィズダム・オブ・スロウン』。純Aランクの建造物を修復してしまった新入生組という称号が、今、わたくしたちの頭上には輝いてしまっているんですのよ」
「……」
「……こほん。たしかに実際には四名もの高名な教師様方もがご参加されて、ようやく完成したというのは事実ですわよ。
ですが、あれも事実なら、これも事実。政治的な問題からも、あの品の修復に教師が関わるはずはなかった――絶対に直るはずがなかったんですの。だからあるていど真実まで食い込んでる者にとっても、関係はないんですわ。覆らないことを覆してしまったんですのよ、わたくしたちは」
と、いうことだった。
特監生。そして国宝の修復。
このふたつのワードから、今スフィールリアは、表層からうかがえる以上の注目を集めてしまっているのだった。
「う~ん。そういう話は苦手なんだけどなぁ」
「そうも言っていられませんわよ。あなたは当時の、このメンバーの中心人物だったんです。放っておかれる方がどうかしています。現にわたくしのポストでさえ、各サークルから名指しの勧誘状やアプローチがわんさなんですのよ」
そこにはアリーゼル自身が元から持つ有名分も含んでいたのだが、フィリアルディも少し困った風に、おずおずと手を挙げた。
「……わたしのところにも。毎日たくさん届くのよ。サークルってあんなにいっぱいあるんだね。正直わたしは基礎的なことで手一杯だし、そんな余裕ないんだけど……」
「……ウチのポストにはそんなの一通も届いてないんだけど」
そうなんですの?
とかなり疑わしげに首をかしげるアリーゼルだが、
「考えてみれば、あなたの住所は正式には学院寮として登録されてないじゃないですの。居場所が割れれば、そのうち、わたくしたちと同じ目に会いますわよ。覚悟なさっておくことですわね」
また意地悪に、今度は微妙に執念も込めて。笑うのだった。
どうやら、問題を片づけて順調に学院生活のスタートを切ろうと思っても、別の方面で別なものがいろいろと動き出してしまっているようである。
困ったなと思っていると、そんな彼女たちの着く机に近寄って、影を落とす人物があった。
ざわ――
それで、三人を注視していた者たちの間の緊張が、一段と高まる。
「その子の言う通り。君はもう少し、全周囲へ向けて警戒心を持った方がいい」
「はい?」
彼女の前に立ったのは、ふたりの男女。
どちらも初対面、そして上級生だ。雰囲気で分かる。
いや――男の方は、そうでもなさそうだった。
伸ばした髪を後ろで束ねた、大柄で、ちょっと横柄そうな中年の男。彼は手首に巻きつけた学内階級証である<青銅>のネックレスを、それで分かる挨拶であるかのように、スフィールリアへと掲げて見せた。
それで、スフィールリアも「あ!」と笑顔で声を上げた。今はアイマスクをつけてはいないが、こんな特徴的なネックレスのつけ方もそうないだろう。
「地下サークルのオジサン!」
女子の上級生がブッと噴き出し、地下サークル<ヘイロウリスの森>首領の男が、ズイとペンダントを前に出してきた。
「セ、ン、パ、イ、だ」
「いやー、でも……」
「どこにためらう要素がある。これは学院生のみに渡される階級証であり、よってわたしは学生。君の先輩だ。違わないはずだ」
「えぇと、では、先輩……」
うむとうなづき、上級生。
「そして、ここは学校。であるならばして後輩である君は、先輩であるわたしに、お弁当なるものをを作ってきてもよい。これも、違わないはずだな?」
「はぁ。いえ作りませんけど」
「そうか」
「一般的良識ぐらいは持っているみたいね」
大柄な彼の居場所をのけるようにして、スフィールリアの机に手を置く女子上級生。
「えっと。あの……」
なんだか、全然違うのに、「男装の麗人みたいな人だなぁ」という印象をスフィールリアに抱かせた。
たしかにぱりっとした白シャツにパンツ姿だが、別に男装をしているわけではない。金の長髪なども、いかにも女性然とした整えられ方で、むしろ美人の部類に入ると言える。
それでもスフィールリアがそう思ったのは、彼女が衣装のように肩のあたりにまとう〝雰囲気〟のようなものを、感じ取ったからかもしれない。
この人は、男の人のように歩くのではないだろうか。
そう思ったのだ。
「君のことを見ている人間は多いよ、スフィールリア・アーテルロウン。君があまりに暢気な様子だから、ひと声、注意を呼びかけてあげようと思って。きたの」
「はぁ、そりゃあどうもです。なんですけど……」
なんだか、こちらを遠巻きに見る集団の一部から異様な熱量の視線を感じて、スフィールリアは居心地悪く肩を縮こまらせた。
気配で分かるが、そういった視線の全部は、この上級生の彼女が集めているのだ。
わけの分からなさにさらなる拍車をかけたのは、うしろの首領の男が、こらえ切れずと言った風に笑い出していたからだ。
「すまんな。以前はあんな大見得を切っておいて、結局我慢がきかずにきてしまったので、恥ずかしいのだ。許してやれ。引っ張られてきた、わたしもまた被害者のひとりだ」
そちらへジロリと一瞬だけひと刺しをやって、女子上級生。次にアリーゼルに視線を流し、こほんと咳払いをした。
「でも、わたしだけが君を知っているのも不公平だと思うので、同じ教室の君が紹介などをしてくれてもかまわない。アリーゼル・フォア・フィルディーマイリーズ」
「はぁ。……ラシール先輩」
「えっ」
隣を振り返れば、なんとなく疲れた風に、あごの高低だけでうなづいているアリーゼルがいた。
そなの? と聞くと、そうなんですのなんて返して、アリーゼルは手のひらを彼女へと向けて、言われた通りに紹介を始めた。
「ラシィエルノ・クル・フォイマンハンセ……先輩、ですわ」
「よろしい。ほかには? なにか特筆しておけそうなことはある?」
「はぁ、そうですね……学院内階級最高である<金>の称号を持つ、数少ない最上位生徒でいらっしゃるとか。非常にマイペースなお方でらっしゃるとか」
「ふむ」
「……そんなところでしょうか」
「だ、そうだ」
今のが自分の仕事であったかのように、誇らしげに自分の胸を示すラシィエルノ上級生。
「そ、それでー……注意とは。あたし、またやっかいな人に目をつけられていたり……?」
「……やっかいというのは、エムルラトパのお姫様のこと?」
「うえっ? いやあのその決して一概にそのような断定はできないと申しますかあくまで可能性の一部という話と言いますか」
スフィールリアはぶんぶんと勢いよく首を巡らせて周囲を見た。今のところそれらしい気配はないが……。
一方で、そんな彼女の焦りっぷりを見たラシィエルノ。
にこりと笑って、スフィールリアの横髪に指を通してきた。
「……君、思ったよりもいい子かもね。それに、とてもきれい」
その瞬間、ギラリと突き刺さるような視線の気配がスフィールリアに殺到する。耳がいいので「あぁわたしにも……」とか「スフィールリア・アーテルロウン……!」とか、そんな声も聞こえてくる。
ひょっとして、やっかいなのは、この人なのではないだろうか?
と思ったが、彼女はエスレクレインのように顔を近づけてくることもなく、あっさりと手を離してくれた。
「まぁ、それは冗談として」
「ほっ」
「本題。さっきも言ったけど、気をつけなさい。この学院には無視しない方がいい組織というのが、いくつかある。学院の生活は自由だけど、目をつけられたなら、適切な対応を取らないと一時的あるいは恒久的に、その限りではいられなくなるから」
「適切な対応というのは、適切に所属する組織を選択するという意味だ。くくく」
「そういうこと。君がその意味を考えずに対応することで、わたしのところにまで迷惑がかかるのはごめんなの……というつもりできたのだけれど…………気が変わった」
「は、はぁ」
「君が今後にどこかしらからアプローチを受けて、その是非を判断しかねるという時は、ここを訪ねてくるといいでしょう。対処の方法論くらいは相談に乗ってあげる。タダではないけどね」
そう言って、丁寧に折りたたまれたレポート用紙の手紙を差し出される。
スフィールリアが手紙をすぐには受け取らずに視線を注ぐのを見て、ラシィエルノは、むしろ満足そうに表情を緩めて微笑みかけてきた。
「……」
「身の丈に合った慎重さも持っているみたい。だから、これは受け取っていいよ。本当は、このタイミングでわたしが声をかけただけで、獰猛にうなり声を上げるような連中を五、六は立ち上がらせてるはずだから。だからこれは、わたしの好意と見てもらっていい」
スフィールリアは考える。
きれいに閉じられている紙片。これは、あらかじめ用意されていた〝好意〟ということになる。
それはつまり、この人もそんな『連中』のひとりということを意味するのではないだろうか。
うしろにいる首領の男を見ると、彼は皮肉げに、大きく肩をすくめている。
さらにしばらく、考えて……
「……ではこれは、ありがたく」
結局は、無理に跳ねつけてもよいことはなさそうである。という結論しか出せず、スフィールリアはその手紙を受け取ることにした。
上級生はうんとそっけなくうなづくと、用件はそれで終わりとばかりに席から身体を離した。
「ではな」
と声をかけていったのは首領の男だ。
彼女の方からは、挨拶もなにもない。お互いに分かっているのが当然とでも言う風に、注目の視線もまったく気にせず、つかつかと生徒たちの波を分けて歩いてゆく。
やっぱり思った通りだという感想を、スフィールリアは抱いていた。
「……そういえば、もうひとつ、つけ足せる項目がございましたの」
スフィールリアらよりは、やや取り残された感の少ないアリーゼルが、ぽつりと追加の情報を寄越してくる。
「あの人。一部の人からは『王子様』なんて呼ばれてますの」
「なるほど」
心底納得してうなづきつつ、スフィールリアはこうも思っていた。この学院の人たちは、ひょっとして果てしなく暇人だったりするのだろうか?
というのも、〝王子〟の異名を持つ<金>階梯の上級生は、スフィールリアの教室にもいるからである。まさか一教室にひとりいるなんてことはないだろうが……。
(あるいは、趣味人ね)
それが決して間違いではないことは、嫌というほど知る機会に恵まれているのがこの学院である。それは、すぐに彼女も知ることになる。
それはともかくとして、ちょっと疲れた風に頭の位置を落としがちにしていたアリーゼル。一転してにやりと笑って、手紙を指差すのだった。
「ほら、さっそく、わたくしの言った通りになりましたの」
「ううう……サークル、かぁ。断りづらいなぁ」
「その点、心配なさることはありませんわ。あの人が本格的にお誘いになる時はもっと有無を言わせませんわよ。まぁ、いつかくるのが当然、といったところですわね、アレは」
アリーゼルはすっかり機嫌を戻している。さっそく自分と同じ体験をスフィールリアがしたので、うれしいのだ。
「でも、あの方のお誘いには、慎重になった方がいいですわよ。それを言うならサークル選びそのものもそうなんでしょうけど」
「……なにか、あるの?」
家系の人間が<アカデミー>卒業生ばかりな家にいたアリーゼルは、学院内部の事情にも明るい。彼女のふとした一言が、なにも知らない上京したての新入生にとっては金言にも等しいといったことは、よくある。
「なにか、と言えば、学院においてなにもない方が珍しいですわよ。ただあの人の場合は、れっきとした『貴族生』ですから。家柄から言っても、はっきりと上級貴族なんですの」
「ふ、ふむ?」
「学院内にも貴族生同士の互助的組織と言うべきものがいくつかありまして、ラシール先輩がおっしゃっていた『無視しない方がよい勢力』というもののひとつが、それです。――彼女のうしろにも、当然、そういった貴族絡みな自治組織の影がありますの。……彼女と関わるのなら、接触は避けられません。はっきり言って、面倒くさいですわよ」
しかしアリーゼルはあまり心配はしていないといった風で、特別多くを言い募ってくるということはなかった。
ぱっと気楽に手放すように手のひらを見せて、
「ま、なんと言いますか。学院が貴族に与える特権を最大限に活かした後援会や、サロンといった風体で。『吸っている空気が違う』感じですわ。あなたには根本から肌に合わないところでしょうから、覗けば一時間で根を上げてヘロヘロになって逃げ帰ってくること請け合いですわよ」
「そ、そうなのかー……」
そう言うアリーゼル自身も、その『肌に合わない人種』の一派らしかった。
その時スフィールリアの脳裏には――だれもかれもがひらひらした服を風に遊ばせながら歩き、すれちがえば「ごきげんよう」「ごきげんよう」と挨拶を交わし、昼下がりなんかにはタウセン・マックヴェル教師を花に喩えて詩などを吟じ合い、ウフフオホホと互いのセンスを誉めそやす…………なんて光景が浮かんだりしていた。
実際、思い浮かべただけで、背筋が凍りつくようだった。
「関わるのはやめておこう」
「いろんな人がいるんだね」
苦笑いを浮かべているフィリアルディも、きっと似たようなものを見ていたのだろう。
「あれ?」
とそこで、スフィールリアは気がつく。
渡されたその手紙に、ぴったりと、もう一枚の紙片がくっついていたことに。
こちらは本当に、どこかの本から破り取ってきたとでも言うような印象だ。たまたまくっついただけだろうか? よく見てみると、インク移りかなにかか――かすれた文字列が、数種類。重なって、印字されているようだった。
なんだろうと思って見てみると、
『薔薇の花束よりも 君の居場所を 案じる 方がいいだろう。」 を、探す? なら』
と、読めた。
「……?」
警告文のようにも見える。
しかし、なんのことか、さっぱり分からない。
ラシィエルノからの秘密のメッセージかとも思ったが、そもそもこちらは活字だ。端にはかなり深めな折り目がついており、長らく三角形に折り挟まれて、数ページ分の印字が移ってしまったような感じだ。
当然、手紙の方の署名は彼女の手書き。こんなちぐはぐなメッセージの渡し方もないだろう。
やはり、メモ書きかなにかがくっついてしまったのか。
ラシィエルノの姿を探すが、彼女の姿は、すでにない。
「どうかしましたの?」
とりあえずこちらの紙片に意味はないなと判断をつけて、スフィールリアは手紙と紙片の両方をしまった。
「ううん。なんかごめんね、あたしのせいで時間食っちゃって」
「その点も、ご心配なく。ちょうど、お約束の時間のようですわよ」
と、彼女が示した先には……
「…………」
「あ、ミルフィスィーリア!」
ぱっと笑顔を向けたスフィールリアに、無言でこくりとうなづいたのは、純黒のローブをまとった黒髪の少女。
これまた、新入生中で筆頭注目株のひとりである、マテリス・A・ミルフィスィーリアだった。
「見て見て! 依頼の品。こぉーんなに持ってきたんだからっ!」
傍らに置いていた大きな荷物を叩いて見せる。
事情を知らない生徒たちまでもが彼女たちを注視してきていたのは、実は、三人が持ち寄ったこの大きな荷物たちのせいだったりもしていた。