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スフィーと聖なる花の都の工房 ~王立アカデミーのはぐれ綴導術士~  作者:
<2>はるかなる呼び声と薔薇園の章
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■ プロローグ(2-01)

プロローグ


 風が吹く。

 枝葉のさざめく音が、冴え冴えと。どこまでも響き渡ってゆく。

 彼女はその音で、意識の目を開いた。

 そして広がる緑の園の風景に――ああまた『ここ』に迷い込んだのだなと、小さく吐息をつくのだった。

 風が吹いている。枝葉がさざめいている。

 ここには、いつでもその音だけがしている。


「――」


 空がある。無限に蒼く澄み、雲は留まることなく流れ続けてゆく。

 ここではいつでも、この蒼がよどむことなどない。


「――」 


 果ては見えない。

 あるのは、ただ果てしない空と、果てしない原。

 そして地平の彼方まで続く、薔薇の群れ――

 それだけだった。

 所在なくたたずむしかない。

 ここに果てなどないということは、もう分かっている。ほかにはなにもないということも。

 ここには、すべてがある。時間も、空間も。世界を満たすに足るすべての源が、尽きることなくそろっている。

 だけど人はいない。ここにはすべてがそろっているけれど、その代わり、余分なものも一切が取り払われている。

 だから、時間にも、空間にも、意味はないことだった。

 それでも待つことには意味があると、彼女は知っていた。

 待ってさえいれば、かならず、彼女を呼ぶあの声がするのだから。


「きてくれたのね――」


 何時間、あるいは何百年待ったのか。

 無限にも近い孤独の中で聞こえてきたその声に、彼女は取り立てて感動を示すこともなく顔を上げ、口を開いた。


「あなたは、だれなの? なぜわたしを『ここ』に呼ぶの?」

「わたしはここにいるわ――」


 やはり、声は答えてはこない。彼女は嘆息した。

 いつも通り、直感で声の主が在ると思われる方向を目指して歩き出す。

 これもまたいつも通り、返されることはないと分かっている呼びかけを続けながら。


「あなたはどこにいるの?」

「わたしを見つけてちょうだい――」

「いつから『そこ』にいるの? わたしになにをしてほしいの?」

「あなたをずっと、待っている――ここで――ここで――」

「なんのために? ここがどんな場所なのかは、なんとなく分かってる。でもそれじゃあ、わたしではないのに、ここへ立ち入れるあなたは、だれ?」

「近くにいるのが分かるわ――」

「それとも――ずっと――ここにいたの?」

「早く会いにきて――」

「呼び続けていたの?」

「愛しているわ――」

「……」


 彼女はあきらめとともに吐息をつき、立ち止まった。

 見回せば、いつの間にか、薔薇園のただ中に迷い込んでいた。

 ここではいつでもそうだ。気がつけば薔薇たちが取り囲み、位置を入れ替わり、方向も座標も見失ってしまう。

 ここに自分はいない。

 夢を通じて迷い込んだ自分の身体は『ここ』に存在してはいない。

 声の主に『ここ』で出会うことは、不可能なのだ。

 それでも、胸にチクリと刺さる感触はあった。


「愛……」


 風が吹く。枝葉がさざめく。

 赤い薔薇の花弁が舞い踊り始めて、彼女は夢の終わりを知る。退場の時だ。

 ふと気配を感じた気になり、彼女は視界を埋めつつある薔薇の隙間へと振り返って視線を注いだ。

「あなたは――」

 そこには結局ただ蒼穹が無限に広がっているだけであり、なに者の熱も存在はしていなかった。

 ついに目の前すべてが薔薇の紅で染まり、彼女は意識を覚醒させた。



 目を覚ませば、そこはいつもの宿にすぎなかった。

 古びて味わいを帯びた木造の天井組み。

 狭い四角の部屋。

 窓から差す光は――朝。


「また、あの夢……」


 ベッドの上で半身を起こしたまま、しばらくぼぅっとしていると、今日も今日とて夫婦の口論が耳に届いてきた。

 話題はいつでも決まっている。客に出す朝食の調理具合に関することだ。


「……!」

「……!」


 今朝は、目玉焼きの火通し加減についてのことらしい。

 彼女は「ふへ」と笑ってベッドから立ち上がった。


「今日はタマゴねー、わたしは卵かけご飯とかもいいと思うけどねー、オショーユはこの辺じゃあまりないからねー」


 ベッド角に引っかけていた赤い軍装を拾い、床に放り出してあったシャツに袖を通し、ベルトを探し、次に装着するものを思い浮かべ、シワのままだとまたウィル君に怒られてしまうななどといったことも併せて、つらつらと巡らせてゆく。

 次は物書き机の上の髪留め。次に身分証。通行証。剣帯。

 次に、


「最近、多いんだよなぁ……」


 ベッド脇に立てかけてあった〝剣〟を見やった。

 思考は再び元の位置に立ち戻り、彼女はなんとも言えない息を吐く。

 ――薔薇の剣。

 剣を、人はそんな銘で呼ぶ。


「お前が、見せているのかな?」


 近寄り、その柄を指先でこつんと、いたずらをとがめるみたいにして弾いた。

 剣は、答えない。

 そりゃそうかと笑い、朝日の差し込む窓を開け放った。


「さあ、今日は大捕り物の日だ!」


 すでに動き始めている街の空気をめいっぱいに吸い込み、そして剣を取って食堂へと続く階段を降りていった。

 剣を持つ彼女のことを、人は、こう呼ばわる。

 薔薇の剣聖。

 アレンティア・フラウ・グランフィリア。

 それが彼女の名前であり、彼女の母親が唯一、彼女に与えてくれたものだった。


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