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「タウセンちゃんできた! 三百二十番と三百十一番もすぐ仕上がるよっ」

「三秒遅れだな。アリーゼル君、メモと修正追記。それと器具の交換を鞄から。こちらも終わるが――イガラッセ先生、記述の進捗は」

「は、はいですの」

「ぎ、ギリギリやってるよ~。順番はまだ変えなくて、いいかなっ?」

「それはこれから確認を――エスタマイヤー君、どうかね!」

「……」

「フィリアルディちゃんとエイメールちゃんの部分刺繍が間に合ってないね。――こっちを二十秒遅らせて、五分稼ごう。大丈夫、焦らないで、失敗しないことだけ考えてればいいからね」

「は――はい」

「スフィールリア君、練成維持、教えたロジック・ペースで十秒。今向かう」

「は、は~い!」


 タウセンが頼もしい手のひらを重ねてくると同時、キャロリッシェ教師が汗だくの顔を跳ね上げてきた。


「刺繍パーツ入ったよっ。最終調整!」

「間に合わせますので――作業に入ってください!」

「……そろそろエルマノ国王も、王都中央区にでも到着する頃合いか」

「ソッチを遅らせることは、できないのかにゃ~あ?」

「無理だな。あちらも急を圧しての来訪なので、トンボ帰りなのだ。朝いちにはくる」

「こ、国王がくるっていうから、使者さんも今日まで待ってくれてたんだよね。そうじゃなければ一週間は前には、し、痺れを切らしてたよ、うん」


 タウセンが、一度だけ、確認するようにスフィールリアの顔を覗き込んでくる。

 覚悟を決めてうなづき返すと、彼は顔を振り返らせて最終号令を出した。


「パーツの数も保持限度だな。始めよう――割り振ったタグの順番に、部品をこちらへ」


 作業を終えたフィリアルディとエイメールも加わり、アリーゼルとともにどんどんと部品が運ばれてくる。

 彼女たちが起動したパーツを晶結瞳の内部に挿し入れ、それらをタウセンと分担しながら、彼の指示した通りの秒数をかけて組み上げてゆく。

 組み上がったパーツの保持限度を調整しながら、またキャロリッシェが仕上げ、イガラッセが記述した次のパーツを、晶結瞳の中へ。

 秒刻みの危うい綱渡りの最終段階に待つのは、リノ教師が仕上げるはずの旗地との合成作業だ。これがスフィールリアたちの手がけるの最終合成に間に合わなければ、すべてが破綻することになる。

 こちらが組み上がるのが、残り三十分といったところだろう。

 しかし構成の総量だけで言えば、旗地の方も勝るとも劣らない。リノ教師は、それをほとんどひとりで受け持っている。


「……」


 彼女は蒼く煌めかせた双眸を一点に結び、まばたきひとつせずに集中している。

 そうしている間にも次々と素材が運ばれ、その度にすべてを把握したタウセンが、頭の中の膨大な設計図を組み替えて指示を出してゆく。


「ウィスタフ君。四百番の回路成形をひとつ増やしてループさせろ。保持限界ギリギリでひとつ潰して、二十秒稼ぐ」

「はい、はい……軽く言うんだにゃ~ん」

「イガラッセ先生、四百三十番の記述A-1を繰り下げ。以降修正表の通りに仕上げ時間の調整を」

「ひえぇ~え。わ、分かったよ、うん」

「しかたがないな。久々に俺が力を貸してやるか――」


 それまで、興味なさそうに工房隅で寝そべっていたフォルシイラが、のそりと身を起こしてゆく。


「先生、今の固着練成、あと十秒いけますよ」

「でかした。連鎖して二十秒は稼げる。――よし。どうやった」

「昔師匠がやってたのを……応用できるかなって。ちょっと構成が似てたんで」

「エスタマイヤー君、総計で五分追加だ。焦るなよ」

「は――い」


 綱渡りのように、作業は続いてゆく。




「これ以上は、ム~リ~! 仕上げなきゃオジャン! 運んでいい!?」

「コッチもムリだぞ。これ以上修正詰めはできないからな。感謝しろよ」


 工房に響いたふたつの勧告が、計画の限界を告げた。

 窓の外の空は、白み始めている。


「仕方ないな――運べ。……エスタマイヤー君!」

「もう……少し! です!」

「こちらでどうにかタスクを増やして、三秒稼ぐ。それが最後だ――スフィールリア君、やるぞ」

「う、うぃっす!」


 最後のパーツが運ばれてくる。

 それを、タウセン教師と共有した情報領域内で慎重に受け渡し合い――最後の合成を完了する。


「あと六秒だ。エスタマイヤー君!」

「こっちは、あと――五秒で!」


 最後の時間が、ジリジリと――矢のごとくすぎてゆく。


「……!」


 立ち上がったリノ教師がタペストリー領域を掌握して引きつかみ、 


「でき――ました!」


 次の瞬間、完全に修復された『ウィズダム・オブ・スロウン』の旗地が、実体化とともにはためいた。


「こちらへ!」


 そして――



「では、これは我々が責任を持って学院長室まで送り届ける」


 日が昇る前の庭先で、タウセン教師が、見送りに出たスフィールリアを振り返った。

 旗地を巻きつけた長大な『ウィズダム・オブ・スロウン』。担ぐように抱えたそれを、ぽんと叩いて示す。


「ギリギリだったが……まぁ君たちも、よくやってくれた。誇っていい結果だ」

「残り、一秒未満だったね、うん……」

「急場ごしらえの寄せ集め工房としちゃあ悪くないデキだったっしょ……リノ、平気?」

「……」

「ありゃりゃ。ダウンしてるわ」


 キャロリッシェの肩にぶら下がっている彼女と同じく、三人の生徒陣も、すでに工房内で泥のように眠りに入っている。


「……」


 スフィールリアは、顔を落としていた。

 しばし彼女に目をやり、タウセンは問いかけた。


「これを、自分の成果だとは思えないという顔だな。結局はすべて強がりの、はったりにすぎなかったと?」

「先生たちがこなかったら、なにもできませんでした」


 反抗するように顔を上げてくる彼女の感情は、手にしている国宝に頼らずとも分かりすぎるほどだったので、タウセンは内心で苦笑を返した。


「だが、我々はきた。さまざまな者が君の下に集い――『ウィズダム・オブ・スロウン』の修復はなされた。これが事実だ」

「でも……」

「『つながり』こそが、綴導術の本質だという者もいる」


 語り出すタウセンへ、スフィールリアは不思議そうな目を向ける。


「物質のつながり。情報の循環。因果のめぐり。そして……人のつながり、だ。君が関わって影響を与えたさまざまな人間たちが、また集まり、時に通りすぎ、交差し、君に力を貸してゆき……できあがったのが、この品だ。事実というのはそういう意味だ。胸を張るべきだと思うがね」


 日の出と森の風が同時に訪れ、彼女は目を見開いていた。


「これが、今の君の綴導術(タペストリー)だ」


 タウセンは、突き立てた柄から旗地をほどいて見せていた。

 壮大な刺繍面が、色鮮やかに、誇らしげにはためいていた。陽の光を受け止め、世界が色づき始めてゆくかのように。


「起動の最終確認をしてみよう」


 よい機会だと、タウセンは目の前のスフィールリアを実験台にすることにした。

 起動した『ウィズダム・オブ・スロウン』が読み取ってゆく。

 見えたのは、まず、(かね)。そして(かね)。主にお金――次にメシ。鶏肉、豚肉、牛肉。ステーキ、串焼き、バーベキュー……それと、人気。


「問題ないようだな」

「なんでせせら笑いながら言うんです? 失敗してるんじゃないですか、それ?」

「そんなことはない。これほど見事な品はほかに類を見ない」

「だいたい、起動チェックなんて一時間前にしたじゃないですか――」


 その通りだった。その時にタウセンは、同意を得た上でエイメールを試験対象に選び、今回の事件を報告するためのあらましを得たのだ。

 だが、これくらいのズルは許されてもいいだろう。

 腰に手を当てむくれっ面で構えているスフィールリアの、さらに深層側へと潜ってゆく。

 人気。友達――彼女を褒めそやしてくれる友達。彼女をマッサージしてくれる友達。彼女を養ってくれる友達――


「……あー! 今『ふへっ』って笑ったでしょ! いつまで見てるんです。えっち! 変態!」


 ――彼女を必要としてくれる、友達。離れてゆかない――そして――

 ――これからのこと。


「……」


 タウセンは、旗地を巻き取って畳み込んだ。

 スフィールリアは顔も真っ赤に身体の前を隠して「フーッ、フーッ」と、威嚇とも知れぬ息を荒げている。


「まぁ、問題はないようだ」

「うくっ……まったく無意味な辱めをぉぉ…………!」

「ちなみに言っておくが、今回の修復に我々教師陣は『関わっていない』。そのようにしてもらうことになる。『ウィズダム・オブ・スロウン』は壊れていなかった、のだからな。交換条件に君たち全員への処罰を始めとした、学院側からのなんらアクションもナシだ。いいね」

「……でも」


 タウセンはうなづいた。


「学院内では、そうもいかないのは当然だがね。直るはずのないものが直ったというのは事実だし、学院も一旦は放棄したのだから。それを可能な段階まで押し上げた君たちの名は知れ渡ることになるだろうな。いろいろと、注意はした方がいい」

「あっ! そうそう、それよそれ!」

「?」


 とそこで唐突に、キャロリッシェ教師が弾かれたように指を突き立てたので、スフィールリアは疑問符を浮かべた。

 リノ教師を担いだままで寄ってくる。

 そして、こんなことを言った。


「ね、君。ウチの教室に入らない? このためにきたのよ、わたし」


 その言葉を、数秒間、吟味して……


「……え?」

「まだどこにも入ってないんでしょ? っていうか今回の事件のことで、どこの教室も君のこと敬遠してたみたいだしね。君もいくつか講義回って、勘づいてたでしょ」

「は、はぁ。たしかに」

「その点! ウチならだいじょーぶ! ウチは熱意と実力さえあればだれでもオッケイのオープンスタイルだからっ。教室に入ってればなにかと融通も利くし、生徒互助や、後ろ盾になることだってあるのよ? 今回、リノが、フィリアルディちゃんを助けに奔走してくれたみたいにね」

「な、なるほどぉ。それは便利だし、願ってもない、なことなんですけどぉ」

「……どしたの?」


 たじろいだスフィールリアは、きょとんとしたキャロリッシェから目を逸らして、タウセン教師を見た。


「なんだね?」

「その……あたしてっきりタウセン先生の教室に入ることになるのかなって。強制で。ほら、例の……あたしって」

「ああ」


 と、タウセンも合点のいった顔を向けた。


「別に、それは関係ない。君がどの教室を選ぶかは自由だ」

「あ、そうなんですか。なんだ」

「君は、わたしの教室に入りたいのかね?」


 改めて聞かれ、スフィールリアの胸に浮かんだ結論は――よく分からない、だった。


「なら、自分のしたいこと、目指したいことは、素直に見つめればいい。それが合致した上で扉を叩いてくるならばわたしから言うことはなにもない」

「……」

「その点、彼女の教室は君には最適かもしれないな。完全結果主義の、分野を問わない総合実践教室だ。あらゆるものに触れられるし、あらゆることを学べる。……君がまだ自分の向きを理解していないのなら、身を置いておくのも悪くない」

「……」


 キャロリッシェ教師はもはや言うべきことは言ったという感じで、近づけたままの顔をニンマリ顔で固定している。

 スフィールリアは、さらに十数秒、考えて……


「そ、それじゃあ、お世話に……なっちゃいます!」

「うん! おっけぃ!」


 キャロリッシェは快活に笑い、姿勢を戻した。

 と、また唐突に顔を近づけてくる。


「あ、ちなみにわたしのことは、『ウィスタフ教師』と『キャロちゃん』――どっちがいいと思う?」


 これにスフィールリアは「えっ!」と冷や汗をたらした。

 なにかのテストなのだろうか? あるいは、そうではないのかもしれない。

 ただし、本能が言っていた。

 彼女は、絶対に敵に回してはいけない類の人間であると。


「じゃあ……ウィスタフ教師、で」

「……」


 それらをよく吟味し、スフィールリアは現状もっとも最善と思われる回答を選んでみた。


「うん。やっぱりイイ子だ」


 笑顔のまま、顔を離す。

 スフィールリアはほっと胸をなでおろした。


「ではいくか」

「お、お昼の講義まで、あんまり眠る時間ないなぁ」

「スフィーちゃんも今日はしっかり休むんだよ~」


 三人(プラスひとり)の教師が、朝もやの中を歩んでゆく。


「タウセン先生!」


 スフィールリアはその背中を呼び止めた。

 少し歩を遅れさせて、『ウィズダム・オブ・スロウン』を担いだタウセンが、そこから振り返ってくる。


「なにかね」


 三名の教師たちは先に森の小道へと入っていっている。


「その……」


 スフィールリアは言うべきことを考えていた。いや、用意はできている。しかしそれをどう言えばよいか分からずに、胸の前で組み変える指と一緒に、必死に言葉をかき混ぜていた。

 結局、そのまま言うしかなかった。


「その……先生、あたし。先生と学院長に、ウソ、つきました。……話したことが、あるんです。昔に。あたしが〝帰還者〟で、〝金色〟の素養を持ってるって…………こと」


 しばしタウセンは黙っていた。

 聞こえなかったかと危ぶんだが、タウセンは、


「知っているよ」


 と、簡単にうなずいてきた。スフィールリアは驚いた。


「えっ」

「学院の調査能力を甘く見ないことだ。君の入学処理を済ませてからも調査は進めて、フィルラールン以前の君の古巣も、そこで起こったできごとも、すべて把握している。王都にも村とのやり取りの一部が残っていたからな。当然、学院長も知っている」

「そ……っか。そう、ですよね」


 スフィールリアは震える胸を見下ろした。謝るつもりだったのに言葉も出てこない。

 事実を知った彼女は、どんな顔をしていたのか。どんな話をしていたのか。

 それを思うと、泣きたい気分だった。


「君は、なぜ今、そのことを我々に話す気になったんだ」

「え?」


 顔を上げると、そこにはタウセンの静かな眼差しがあった。

 担いだ旗を揺すって、示してくる。


「君は、君のこの綴織(タペストリー)もが、簡単に崩れ散ってしまうものだと。そう思っているかね?」


 スフィールリアは、なにも言えずに彼を見つめていた。

 言わんとしていることは、分かるようであり、分からないのが真実だった。

 だがタウセンは答案を寄越してはくれず、そのまま、立ち去る気配を見せる。


「わたしも、ゲートの外で話は聞いていたよ。――話をしてみればいいんじゃないか? 扉が開かれているのかどうかは、自分でノブをつかまなければ、分からないのだから」

「…………」

「学院長室にもいずれ謝罪にきたまえ。彼女は焼き菓子が好きなので、手土産を携えてな」


 そう言ってタウセンも、朝もやに光る小道の中に消えていった。

 しばらく、彼女はその小道を眺めていた。

 そして、胸の前の手を握り締めて……


「……」


 ゆっくりと、小屋の玄関を振り返った。

 そこに、フィリアルディたちの姿があった。




「お帰りになりましたの?」

「起こしてくれたら、お見送りできたのに」


 彼女たちは、ちょうど今まさに起き出してきたところらしかった。

 隣り合い、フィリアルディとアリーゼル。少し離れたうしろに、エイメールがいる。

 それぞれほほに袖のしわ跡やおでこに赤い斑点などを残し、まだだいぶ気だるそうにあたりの森を見回している。ついでにアイバたちは、玄関前の壁際に座り込んだままだった。

 スフィールリアはタウセンの言葉を思い返して、苦笑した。


「ゆっくり休んでくれってさ。みんな、ほんとにお疲れさま」

「講義を入れてたんですけど。そうさせてもらおうかしら」

「ちゃんとお礼が言いたかったね。あの人たちがこなかったら、本当にわたしたち、なにもできなかった……」


 スフィールリアも全員と同じ方を向き、「ん~~!」と思いっきり屈伸のびをした。


「……ほんとに、コテンパンだったな~。挑戦受けたなんて大口叩いておいて、結局、全部先輩の手のひらで騒いでただけだった気がするよ」

「……。それでも。『ウィズダム・オブ・スロウン』は直して見せたのですわ。なにを利用しようとも目的は果たしたのですから、茶々入れされる言われはございませんわよ」

「そうだね。これで退学もなくなったし、みんなこれからも学院に残っていけるし。なので、これにて一件落着! ……って、言いたいところだけど」

「……」


 スフィールリアは、もう一度、フィリアルディたちを振り返った。


「その前に、あたしがケジメをつけなくちゃ、終わらないよね」


 彼女の顔を見て、フィリアルディがはっと表情を緊張させる。

 アリーゼルが、少々ばつが悪そうに視線を逸らした。

 スフィールリアはうしろ手に、震えを握りつぶしていた。


「……別に。いいですわよ。ご無理などなさらなくて。だれにだって話したくないことの、ひとつやふたつ、」


 スフィールリアはかぶりを振ってはっきりと拒否をした。


「ありがと。でも、このままじゃみんなに迷惑かけちゃうし」

「なんですのそれ――」


 怒ったように顔を上げてくるアリーゼルの言葉が終わる前に、スフィールリアは告白をかぶせた。




「あたしね、〝帰還者〟なの」




 はっきりと、言った。

 それで、全員、黙った。なにも言えなくなった。踏み込んでしまった。

 フィリアルディが前に出かけると、スフィールリアは目に見えて震えて、下がってしまう。


「……!」


 言わせるより先に、こちらが口を開かなければならなかった。フィリアルディは彼女がこれから告げようとしていることを漠然と察し、激しい後悔と畏れを渦巻かせながらその場に留まるしかなかった。


「エイメールが先輩から聞いた通りなんだ。99.9999パーセントっていうのは知らないけど……。故郷も身体もなにもかも消えちゃって、最後に残った〝心〟だけが、消えかかっちゃってたところを……助けてもらったの」


 スフィールリアは告白を続けてゆく。


「すごい、よね……世界中探しても、そんな状態から『帰って』きた人なんて、いないよね。ううん。それだけじゃない。みんなも見たかもしれないけど、あたしは。ほかの人が持っていない〝色〟を持ってる…………ほら」


 スフィールリアは前に出した両手を開いて見せた。

 そこに、彼女固有の蒼導脈である〝金〟が、現れていた。

 息を呑む音。

 小さな反応があるたびに、彼女の身体はびくりと震える。


「スフィール、リア、さん! ……わたしはっ」


 顔を真っ青にして前に出たエイメールに、彼女はさっと手を出してさらに一歩下がってしまった。

 まるで、すべての言葉を怖がっているみたいに。

 スフィールリアは、坂道を転がり落ちるように、震える声を隠せなくなっていっていた。同じように、独白も止められないでいるようだった。


「違うの! エイメールは間違ったこと言ってないんだ……『オランジーナ・ミッシェリカ』は、あたしも知ってる……本で何度も何度も見た。……あは、は……! 構成情報の20パーセントを失って〝帰還〟しただけでも、あんな風に、なっちゃうんだもん」

「……」

「今普通にすごせてるのがなにかの間違いで、いつかタガが外れて、みんなをあんな風にしちゃうかもって、ずっと思ってた。おまけにこんなわけの分からない力を持ってる。危険かどうかも分からない。そりゃあ、だれだって怖がるよ。当たり前で…………怖いに、決まってる! だから……!」


 息がなくなりつんのめるほどに一気にまくし立てて、スフィールリアの言葉は一旦止まった。

 前髪に隠れた表情は見えない。

 泣いているのだと思ったけど、顔を上げた時、彼女の目には涙はなかった。


「だから……みんなももう、あたしには近寄らない方が、いいと思う」

「スフィールリア……!」


 結局、彼女の言いたいことは、それだった。

 違うのだ。

 そんな必要はないのだと伝えるためにここまできたはずなのに――


「もう一度きてくれて、うれしかった。でも、だから、これ以上あたしと一緒にいたら、いつかあたしのことがバレて、みんなも嫌われちゃうかもしれない」


 それが、今の彼女の畏れだった。

 いつだって彼女は自分の何歩も先をいってしまう。

 彼女の言葉を否定できない。そうならないなんて保障はない。これじゃあ、言おうと思っていたことを伝えても、彼女には届かないじゃないか。


「あたしはそんなのは、絶対に、いやだ……!」

「スフィールリア!」


 顔を覆って泣き出してしまう彼女を見て、フィリアルディは、もう考えることを止めた。

 駆け寄って、逃げられる前に体当たりをして、抱き締めていた。


「――」

「わたしは、怖く、ないよ!」


 時がすぎて、人が去っていっても、思い出は残る。残り続ける。

 長い間、長い間、怖がり続けて……傷つき続けて……その重さに、心が固まってしまっている。勇気を出して話してくれても、身体がついてきてくれない。

 どれだけつらかっただろうだなんて考えても、意味がないことだった。

 それでも、きっと、彼女は別のことを言おうとしてくれていたのじゃないのか。

 ゲートで聞いた言葉を、彼女の本当の望みを。

 フィリアルディは信じることにした。


「で、も――でも、あたしは――」

「怖くなんかない! 馬鹿にしないで!」


 もう一度きつく腕に力を込めて、フィリアルディはスフィールリアに顔を突き合わせた。


「わたしも、うれしかったよ。ひとりきりのあの部屋にきてくれた時。真っ暗で、世界の全部がドロドロになってしまったみたいで……だからすぐにでもすがりついて、泣き出したかった。――たしかにわたしはあの時は、あなたのこと知らなかったかもしれない。あなたの言う通り、あなたは危険で、恐ろしい存在なのかもしれない。わたしにはなにも分からない」


 スフィールリアの顔には怯えの亀裂が走っていた。彼女にこんな顔をさせる自分はサイアクの人間だと思った。それでもフィリアルディは、彼女に回した腕をほどかなかった。


「それでもわたしは、あの暗闇に飛び込んできてくれたあなたを、信じたいって決めたの。だから――それを否定しないで」

「――」

「契約した、じゃない! わたしたちは、お互いを認め合って一緒のことをするんだって。それを反故にするなら、スフィールリアはわたしの気持ちを否定する資格、ない!」

「まったくおっしゃる通りですわ。フィリアルディさんの完勝です」


 振り返ると、アリーゼルが近くまで寄ってきていた。


「まったくなにを怖がっているのかと思えば……フィリアルディさんのおっしゃる通り。ここは学院。甘くみないでくださります? 〝帰還者〟ですって? 上等じゃないですか。むしろそれくらいのお相手でなくては張り合いに欠けるってものですわよ」

「アリーゼル……」


 フィリアルディが苦く笑うと、アリーゼルはとたんにばつが悪そうに視線を下げて、もじもじと、口の中ではっきりとしないことを言った。


「それに、別に……困ることなんて、ありませんじゃないですの。周りになに言われたって。だって、その……お、おっ、おと………………もにょ…………だち……なんですから」

「そうだよ。だから悲しいこと、言わないで。あの時、あなたをひとりぼっちになんかさせないって言ってくれたあなたを、絶対に、ひとりぼっちになんかさせたくない」


 フィリアルディは、もう一度スフィールリアを強く抱擁していった。


「だってもうわたしは、あなたのことが、大好きなんだから……!」

「ふっ――くっ――ぐす――」


 そして、抱き締められたスフィールリアの瞳に、涙が膨れ上がっていって――


「ぶえええええええええええええええええええええええん!!」


 一気に泣き出し始めていた。

 そのあまりの声量に、アリーゼルがギョギョっとあとずさった。


「なっ……なんですのその泣き方っ!? 美しくない!!」

「ぶえっ……だっ、らっで! あ、あたじもフィリアッ……リーゼルのごと、だっ……大好きだよおおおおおおおおぶええええええええええええ!!」

「だからって! こういう時はシトシトと美しくっ。鳥のさえずりのようにお泣きになってキレイに締めくくるものなんですわよ! ほらまず一旦止めて、鳥のように! 深呼吸、深呼吸ですわよっ!!」

「アリーゼル、無理言っちゃダメだよ――よしよし、怖かったね」

「うえええええええええええええええ……!」


 スフィールリアは泣き続ける。

 三人のうしろで、エイメールは、自分も飛び出させかけていた足を下げて……微笑んだ。


「一件落着、でしょうか」

「だな」


 背中側のやり取りに、心よりうなづいた。

 似たもの同士が寄るのだ。フィリアルディはスフィールリアの心の暗闇へたしかに小さな光の橋を届けて、傷ついた心をほんの少しだけ、癒した。

 彼女も、尊敬すべき立派な綴導術士だった。


「ぶおおおおおおおおおおわあああああああああああああああ…………!」

「美しくないですわああああああああああ!?」



<アカデミー>学院長室。

 フォマウセンはデスク上に横たわる長大な『ウィズダム・オブ・スロウン』を見下ろし、ため息ながらに片肘をついた。


「なるほど、いきさつは分かりました。ギリギリだったわね……」

「ええ。エルマノ国王ご到着と五分差とはね。で、茶はどれを? 先日購入したこれなどが最上級ですが」


 あら? とフォマウセンは片眉を上げる。


「それね、封を空けてしばらくしてからが一番香りがいいのよ?」


 と、言うのだが、


「では、ちょうどよいでしょう。まぁ高級品ですし、いいんじゃないですか?」


 タウセンは不明なことを言いながら、すでに缶の封を開けてしまっている。


「? まぁ、お任せするわ? ――いらっしゃったようね。お通し差し上げて」


 タウセンが隣室へ茶を汲みにゆき、フォマウセンが身なりを整えてから、学院長室の重厚な扉は開かれた。

 相手の姿を見てから立ち上がる。


「これはこれは、お久しゅうございます。<ディングレイズ・アカデミー>総理事、偉大なる賢者、フォマウセン・ロウ・アーデンハイト殿。急な来訪にも応対していただき、光栄の至りというものでございますな」

「ええ。こちらこそ、このたびは当<アカデミー>の不手際で貴国へ多大なご迷惑をおかけした上に、国王様直々にご足労をいただくこととなってしまい。恐縮の至りですわ」


 何人かの従者をともなって入室してきたのは、まだ壮年と言える年頃の男だった。

 大柄で、着飾らず、精悍な顔立ちによく刈りそろえられたあごひげだけがこの男の人柄を主張していた。

 と言っても、簡素だがしわひとつないこのシャツ姿は正装というわけではなく、あくまでも事態を大きくしすぎないための、お忍びな来訪であったためだ。


「さっそくですが、ご査収ください。当学院がお預かりした貴国の宝『ウィズダム・オブ・スロウン』でございますわ」


 相手が無理を()しての急ぎの来訪であることは分かっている。無理に椅子を勧めたりはせず、机の上に鎮座した大旗をフォマウセンが率直に示し、従者が二名がかりで持ち上げて、その旗地を広げてみせる。

 エルマノ国王はうなづいた。


「たしかに。間違いなく、寸分たがわず、我が国の国宝でございます」

「余計なことかと思いましたけれど、機能の確認もできておりますわ? その折に、多少のメンテナンスは加える必要はありましたが」


 とそこで、フォマウセンは訝しく小首を傾げた。

 エルマノ国王が、隣に控えた側近と顔を見合わせ――苦笑していたからだ。

 そして彼女へ向き直ると、こう言った。


「いやはや――わたしは、お恥ずかしい」

「……?」


 危うげなものを感じ取ってフォマウセンが黙っていると、タウセンが茶を運んできて、両者の間にある机の上へと置き、勧めていった。

 それを契機としてか、エルマノ国王。側近に小さくなにごとかを命じた。

 そして、受け取った小箱を手に、デスク前まで歩み寄ってきたのだ。


「本日わたしは、これをあなた方へお渡ししようと思い、はせ参じたのでございます」

「……」

「これは」


 国王が開けた箱に収まっていたものを見て、フォマウセンとタウセン教師が、静かに目を剥いていった。


「『ウィズダム・オブ・スロウン』の――コアパーツ」


 卵大の力場の中で、スフィールリアたちが命がけで手に入れた昏紅玉(ルビー・ナイトメア)を中核に、流体化した王竜金が常に高速で流動している。――それと、まったく同じものが。

 この場にあるはずのない物品だった。

 これがなければ、そもそも国宝は起動しない。

 逆説的に、この場に完成品の『ウィズダム・オブ・スロウン』があるのでは、理屈が合わないことにしかならない――

 学院長は、タウセンとともに顔を見合わせた。


「座っても、よろしいでしょうか」


 デスク前に置いた瀟洒な椅子を示し、エルマノ国王が請うてくる。


「……どうぞ」


 国王が感謝の言葉とともに座り、同じく手で薦めてくるので、フォマウセンも慎重に腰を降ろしていった。


「まず、コレがここにある理由からお話させてください」


 エルマノ国王は膝の上に置いた小箱へと視線を落とし、かすかに微笑んだようだった。

 しかしそれは、自虐にも近い笑みだ。

 国王は語り出す。


「ご存知の通り、我が国はこの宝具によって傾国の危機を脱し、他国へ対する信頼を取り戻しました。しかしこの旗が本当にその役目を終えるのは、もう少しだけ、あとのことでした」


 手を取り合うべき国々を見極めたエルマノ国だったが、残る陰謀の選定、そして交易に関わる新たなパワーバランスが安定するまでの間は、この旗を抑止力として頼るしかなかったのである。

 そうすることで、大きすぎる力によって強引に危急を打ち崩したかの国は、少しずつ本来の平穏な暮らしを取り戻していったのだ。

 もう『ウィズダム・オブ・スロウン』に頼らずとも歩いてゆける。そんな時代が訪れた。

 しかし、そこで彼らは、ある単純な問題に気がついたのである。


「どうやってこの宝具を止めればよいのか、分からなかったのです」

「……はい?」


 だが次の国王の言葉で、合点がゆくことになる。


「エルマノ国は綴導術という学問には、本来疎い国家でした。だから賢者の指示の元、必要となる人材や素材を外部から呼び集める必要があった」


 つまり……平和になったころ、この品に関する知識を有する者がいなくなっていたのだ。


「この品を伝えたという『賢者』は、停止方法を残してはくださらなかったので?」


 分かっていつつも問うてみれば、やはり国王は苦く笑ってかぶりを振るのだった。


「そして、祖先たちが取った方法が、コレなのです。コアパーツを取り外すことで、強引に『ウィズダム・オブ・スロウン』の機能を停止させた。……以降に玉座うしろへ象徴として安置していた『あの旗』は、ですので、最初から不完全品だったのです……というのが『裏の』対外的事実なのですが」


 もう一度、学院長はタウセンと顔を見合わせた。

 彼の話はまだ終わりではないらしかった。


「やはり、アレを。ここに」


 王に命じられ、一旦は室外に出た従者が、長大な獲物を包んだ布を運んでくる。

 包みがデスク上で解かれて……ふたりはまたも驚くこととなった。


「『ウィズダム・オブ・スロウン』……」

「そうです。これが当国正真正銘、オリジナルの国宝『ウィズダム・オブ・スロウン』なのです」


 ふたつの『ウィズダム・オブ・スロウン』が並んでいた。

 ひとつは、数百年を経ても鮮やかさを失うことなく、また、タウセンらの手によってよみがえった『ウィズダム・オブ・スロウン』。

 もうひとつは……砕け散り、ズタズタに引き裂け、真っ黒に経年劣化を果たした『ウィズダム・オブ・スロウン』だった。

 まるで、修復する以前の品が、時間を飛び越えて戻ってきたかのようだ。

 あるいは、それよりもひどい有様だったが……


「……」

「これが、真実です。我々の祖先は――『畏れ』を、完全には取り払えていなかった。

 当時の王たちの手記には、こうありました。彼らはどうにか『ウィズダム・オブ・スロウン』からきれいにコアパーツだけを抜き取りたかった。

 ……しかし、魔剣の刃すらこぼすこの旗を、知識もなく上手に解体することができなかった。それが、三百年間続く我々の〝嘘〟の始まりだったのです」

「……」

「公的な資料としては、偶然的に掘り起こしてしまった有毒ガスの鉱脈の埋め立てという名目になっています。しかし実際は、取り寄せたAランクの攻性兵器にてこの『ウィズダム・オブ・スロウン』を破損して、コアパーツを取り出すのが真の目的でした」


 そして、今度は逆に加減を失敗して、『ウィズダム・オブ・スロウン』は――全損した。


「では、この『ウィズダム・オブ・スロウン』は?」

「これは試作品です。なんらかの問題が露見して破棄された、失敗作なのです。オリジナルの、完成品の『ウィズダム・オブ・スロウン』ができあがる前までの。ですからこの品をどれだけ忠実になぞったとしても、そのままでは実物はできあがらなかった。一ではない。ゼロからのスタートだったのです」

「なるほど、道理で……」


 タウセンが漏らした苦い息は、それに思い当たる苦労があったということなのだろう。

 エルマノ国王は、椅子の上から、深く頭を下げてきた。


「――申し訳ない。つまりこれまでの三百年間に行なわれた学術交流行事において、我々は、常に不完全な品をお渡ししてきていたのです。国宝であるがために。深い階層まで解体して覗かれることはないと、あなた方を欺いて。あなた方の偉大なる至宝と交換に、です」

「お顔を上げてくださいな……」


 恐縮した声を出してフォマウセンが促すと、国王は悼み入るように彼女の顔を見返してきた。


「しかし、なぜ今、わたしたちにそのことを?」

「このことの本質は、我が国の抱えた『病』が取り払われていなかったことにこそある。わたしはそう思うのです。なぜ、彼らは当時のあなた方――ディングレイズ国、そして<アカデミー>を頼ろうとしなかったのか? そのような疑問を、抱きませんでしたでしょうか?」

「……ふむ?」

「彼らは、恐れたのです。いずれ裏切られる日がくるのではないか。色あせぬ友好などないのではないか。その時――再びこの力が必要になるのではないのか、と。そして、もはやオリジナルがその手に残されていないことを隠すために、もっとも構造がオリジナルに近かったこの品を、すり替えで玉座に飾った……祖先の手記には、以後、ずっとそのことを悔やみ、それが露見した時に対するまた別の畏れについての苦悩が、綴り続けられていました」


 それが、『ウィズダム・オブ・スロウン』の伝説の、続き。

 それが、真実だった。


「わたしは子供の時分、『ウィズダム・オブ・スロウン』の伝説を聞くたびに心を躍らせていたものです。だからこそ王位を継ぎ、この事実を知った時――恥ずかしいと思った。

 しかし、我が国は嘘を重ねすぎてしまっていた。ならばせめて、大恩あるあなた方にこのコアパーツだけはお届けしなければならない。そうしてコレの損壊などなかったこととして、すべてを丸く収めるのが最善だと。そう考えていたのです」


 エルマノ国王も、学院と同じことを考えていたのだ。

 だがここにオリジナルの『ウィズダム・オブ・スロウン』があるのならば、王は出発時点から、このたびの告白を考えていたはずだ。

 視線で問いかけると、エルマノ国王はさびしげに微笑してうなづいてきた。


「しかしそれだけでよいのかと、わたしはずっと旅の中で考えておりました。それでは大恩あるあなた方を、悔やむままに逝去した祖先同様に欺くままになるのではと。そして、この場で見事に完成されたこの旗を見て、打ちひしがれたのでございます」


 王は立ち上がり、新しい方の『ウィズダム・オブ・スロウン』へと手を触れた。


「これを手がけたのは、まだ歳若い生徒さま方だったと聞き及んでいます。

 砕け散ったというこの品を見た時――どれほど恐ろしい思いをしたか。どれだけ必死の思いで立ち向かう気を奮い起こし、ここまでこぎ着けたことか。

 その子供たちは、まさに我々の祖先たちと近い立場に立たされていたのです。助けを得られず、だれに請えばよいかも定かではなく、時間も、力も金もなく。……だからこそ、なおさらこのコアパーツが必要だと思った。

 しかしそれはとんだ思い違いだった。その子たちはこんな〝もの〟がなくても、自分たちで正解にたどり着いて見せた。いや、コレも、本来はウソなどではなかった。輝けるものは、常にそばに。あのころの祖先たちの輝きと同じものを、彼らは自らの力で見出したのです。

 そう――幼いころのわたしを、そして国民たちを幾度となく勇気づけ、誇りを与えてくれた祖先たちと、この旗のように、ですよ!」

「輝けるもの、ですか」


 そうです。と国王は、やや興奮気味だった調子を戻して、うなづいた。


「輝けるものは、いつでもそばに――この旗を築いた時の手記に記された言葉です。

 わたしは、いえ……わたしも、思うのです。実のところ我が国は、こんなものに頼る必要などなかったのではないかと。

 ……この品の作成に動き出すに当たり、その前に祖先たちは必死に考えなければならなかった。だれに助けを求めればよいのか。それこそ、この品を作り上げるのよりも、死に物狂いに。

 そして当時に快く力添えをくださった国々は、『ウィズダム・オブ・スロウン』が起動して以降も国交に残った国々だった。最初から〝絆〟はそこにあったのです」

「……」

「あとは、ちょっとしたボタンのかけ違えだったのです。『ウィズダム・オブ・スロウン』は、そこにかかった目の曇りを拭い、あとは、ほんの少しの露払いをしてくれたまでのことにすぎない――それだけの道具だったのではないかと。

 だからこそわたしは、この旗にかかる問題にばかり頭を取られていた自分が恥ずかしい。その前に横たわるウソを取り払ってからでなければ、我々にはなにを問う資格もないではありませんか」


 次に、国王は、このような決断を告げてきた。


「わたしは当国と貴学院間において、新たな学術交流を提案したい。――このふたつの旗を再度あなた方に託します。そしてこのレプリカの『ウィズダム・オブ・スロウン』を、ここに残されているオリジナルから読み取れる限りの情報で、再構築してやってはくださりませんでしょうか」

「それは、かまいませんというより、願ってもないご提案ですけれど。しかし、それでは……?」


 うなづく。


「わたしはこの旗の真相を公表しようと思います。国民には落胆を与え、世界中からは笑い者となってしまうでしょうが……。しかしわたしは、この旗を完成までこぎ着けた当時の祖先をこそ誇りに思い、信じようと思います。

 それだけが、我々が真の『ウィズダム・オブ・スロウン』と誇りを思い出し、あなた方との絆を取り戻すための唯一の手段だと思うからです。そして……祖先の霊を、この悪意なき嘘から、開放してやりたい……」

「あなたほど誠実な王ならば、きっと国民の方々もついてきてくださることでしょう」


 フォマウセンが笑い、王が頭を下げた。


「恥を忍んで、もうひとつ、お願いを聞き届けてはいただけないでしょうか」

「? なんでしょうか?」


 そして国王は、もう一度、深く頭を下げた。


「今こそお願いしたい。わたしに呪縛を解く勇気と、誇りを思い出すきっかけを与えてくださった生徒諸兄らへの一切の咎を、なにとぞ問わずに済ませていただきたい、と。

 このたびの件にかかったすべての損失の責任と、費用については、すべて当国に持たせていただきます。そして彼女らが再びこの学び舎ですごせるよう、そのために必要なあらゆる根回しと手続きにかかる費用も、当国が用意いたしましょう」

「分かりました」


 フォマウセンはうなづいて立ち上がると、回り込んで王の手を取った。


「生徒たちに関しては問題ございません。ご希望通りに叶えましょう。費用に関しても、問題はございませんわ? 今回の一件で思わぬ副収入が得られましたものですから。……あとは、お互いの了承だけがあればいい。シンプルにいきましょう?」


 王の畏敬の眼差しを一身にするうしろで、タウセンが「よくもまあ抜け抜けと」とでも言いたげな息を漏らすのが聞こえたが、彼女は内心だけで舌を出してごまかした。

 学院が総力で嘘をつこうとして大冒険を繰り広げた事実は変わらない。ただ、最後にエルマノ国の嘘へ便乗した形だ。


(だけどまあ、おあいこという考え方だってあるでしょう? 大人同士ですもの、ねぇ?)


 握る手を離すと、エルマノ国王は緊張が解けた風に微笑んで、茶を飲んでよいかどうかを聞いてきた。タウセンが淹れ直しを提案するも、王はカップをぐいと一気に煽って飲み干してしまった。こちらが本来の姿なのかもしれない。

 そして晴れやかに息をつくと、フォマウセンに笑いかけてきた。


「ご立派な人材が育っているのですな。偉大なる始祖フィースミール様の志は、今もたしかにこの地に根づいていると感じました」

「いえいえそんな、恐縮してしまいますわ? 手のかかる子たちばっかりで」


 ほんとになというタウセンの悪意あるつぶやきは彼女にしか届かず、王は、ゆるりとかぶりを振る。


「そのようなことはない。どれほど優れた綴導術士でも、独りでは直せないものがあるのだという、我が国に『賢者』が残した言葉がございます。それを、あなたの生徒たちは直してくださった」

「……というと? それは?」

「それが〝絆〟です」

「……絆、」


 どれほど手が伸ばされていたとしても、その手を取る側の者にもそのつもりがなければ、引き上げてやることも叶わない。

 踏み出す勇気を与えてやれなければ、互いの手が結ばれることはあり得ない。


「独りでは、決して作り上げることも、修復することもできないもの。……それが、絆ですから。

 同じく『ウィズダム・オブ・スロウン』もまた、一人では決して直すことのできないアイテムだったはずだ。手を取り合い、それをなしたことを示すことで我々に真の『ウィズダム・オブ・スロウン』の姿を思い出させてくれたあなたたちの生徒は、だから、偉大だ」

「なるほど」

「わたしも、わたしの〝偉大なる作業〟を行なう前の勇気を得るために、その輝かしい原石たちの姿をひと目でも焼きつけて帰りたい。これを手がけたというその生徒のお名前を、教えてはいただけませんか?」


 フォマウセンは、しばし迷い、スフィールリアの姓名を王に伝えた。

 国王は彼女の名前をかみほぐしてたしかめるように、繰り返し吟味して……

 顔中から、ダラダラと汗を流し始めた。


「アーテル、ロ、ウ、ン…………」


 彼のうしろで、側近も、たらりと冷や汗を流している。


「……?」


 そしてしだいに肩を震わせ始め、やがて押さえきれなくなったように噴き出し――最後には天井に向かって大音声で大笑を浴びせかけていた。


「……? ……?」


 ひたすら分からず、タウセンと小首を傾げ合う。


「あー、その。大丈夫ですか?」

「くっくっくっ……ふは、いや申し訳ない」


 涙を拭い、一旦、真顔に戻ったエルマノ国王。

 次に子供のように無邪気に破顔し、こう告げた。


「どうやら、お会いしてゆく必要はなさそうだ」


 その言葉に、学院長と、タウセンは、


「……?」


 やっぱり分からず、首を傾げるのだった。


「よい学び舎です。今もこの広がる敷地のどこかで、さまざまな夢が花開こうとしているのでしょう」

「はぁ」

「えぇ、そうでしょうとも。ここでなら。そのお方もきっと窮屈なぞせず、伸びやかに伸びて、きっと偉大な術士になる」

「……そうね? かしら?」

「はっはっは」


 とりあえず、タウセンに茶の淹れ直しと気付け薬の仕込みを密に命じて――

 こうして事件の一連は、一応の終端を見たのだった。



 広がる学びの城の片隅に、古い、桜の樹が立っている。

 ずっと立っている。

 桜のそばには、ともにいくつもの夢を育て、ともに見送ってきた質素な小屋と、古ぼけた庭がある。

 そこに新たな夢が芽吹くのを、桜の樹が見守っていた。

 スフィールリアは、まだ泣き叫んでいた。ずっと泣き叫んでいる。

 フィリアルディがひたすらあやして、アリーゼルが頭を抱え、エイメールはそろそろオロオロとし始めており、そしてやはり、スフィールリアは泣き叫び続けている。

 また、騒がしい日々が始まる。

 いや、今から、始まる。

 彼女の心の〝根〟は、ようやくこの地に根ざした。

 この小屋はようやく、彼女にとって離れがたい、第二の〝家〟になったのだ。

 桜の舞うこの庭で。

 今、初めてスフィールリアは、新しい生活をともにする友達と出会ったのだから。


「ぶおっわああああああおうえおあうばっはあああああああああ…………!!」

「よしよしよしよし……」

「もはや公害ですわあああああああああああああああ――!?」


 夏の訪れを告げる風が吹き渡る。

 桜の樹は長い満開の時期を終えて、まばらになった淡い花弁の隙間から、力強い新緑を芽吹かせ始めていた。





<1>始まりの出会いと桜庭の章  了

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