(1-32)
「スフィールリア!」
三人の下へと戻ったアイバが、そこで力尽きて、膝を着いた。
彼が取り落とした白い花が、静かにスフィールリアの胸の上へと降り立つ。
エイメールは奇跡を見たように表情を呆けさせた。
そして心の底から安堵して、胸をなで下ろした。
この領域にきてから、スフィールリアがナイトメアにこだわり続けた理由が、今のエイメールにはやっと理解できていたからだ。
もう一度、両親の言葉をかみ締めた。
自分の手がけた品が、それを手にした人物の人生の一部になる――
それを求めた先のその人物に、どのような人生が現れるのか――
そこを考えないのならば、それは綴導術である必要がない。魔術と変わらない。未来を思い、未来を作る。それこそが綴導術の真髄なのだから――
「……」
政治の問題なんかじゃない。彼女は友人を救い、そして、この自分までもを助けてくれようとしていたのだ。
もしも『ウィズダム・オブ・スロウン』が直らなければ、暗示が解けたあとの自分は、今後ずっとこの罪の意識に苛まれ続ける。フィリアルディたちも、破滅した自分の影を背負ってゆくことになる。きっと、そう考えて――
この花の先に未来を描いた彼女は、間違いなく、そんな両親と同じ理念を受け継ぐ『綴導術士』のひとりなのだった。
スフィールリアはほとんど閉じそうな目をやわらかく曲げて、微笑んできた。
「ありがと……アイバ。エイメール」
エイメールは顔を真っ赤にしてかぶりを振った。
「あぁ……すまねぇ、な。待たせちまって、よ」
ふがいなさよりは体力の限界から青い顔をうつむかせたアイバに、スフィールリアもかぶりを振って微苦笑を返す。
その時、四人のすぐ横合いに発光する球体が膨れ上がり、内部からいくつかの歓声と呼びかけが届いてきた。
「スフィールリア!」
「無事ですのっ?」
続いて、タウセンの声。
「全員、無事だな――救援だ。早く通り抜けたまえ」
「あ、ありがてぇ……よし。待ってろ、今、起こしてやる、……っ? あれ?」
スフィールリアを抱えようと身を起こしかけたアイバがその場で倒れてしまう。フィオロが彼の脇と、聖剣を重そうに拾い上げた。
「わ、わりぃ……」
「さすがに無茶です。彼女はお嬢様がお願いします」
うなづいてエイメールが伸ばしかけた手に、スフィールリアの手が重なる。
「待っ、て……」
「スフィールリア、さん?」
スフィールリアは、戸惑って見つめ返すエイメールの腕を手探りするように伝って、胸元まで手を伸ばしてきた。
その手が触れたのは、彼女がかけた質素なロケット・ペンダントだった。
「げ、ゲートが……た、たわむね、うん……!」
「どうした。なにをしている。急ぎたまえ」
タウセン教師の声にも焦りがにじみ始めている。
「こ、これが欲しいんですか? あげますから、今は急がないと」
だがスフィールリアはゆっくり、たしかにかぶりを振った。
「〝声〟が、聞こえた……ここでしか、伝えられない……」
彼女がペンダントを握り締め、かすかな綴導術の輝きが灯る。
そして――
「泣かれてしまったなぁ」
エイメールは、そこに現れていた風景に、視線を奪われていた。
「――」
居間の扉から漏れる暖炉の光。そこの椅子で対面して座る両親の姿。彼女の、かつての家。
その風景を、エイメールは知っていた。
正しくは、知っているはずのない光景だった。
この時、自分は、フィオロにともなわれた寝室で泣き疲れて眠ってしまっているからだ。
だけどこの空気を、身体がたしかに憶えている。思い出してゆく。
これは、両親が出立する前日の夜。ふたりに留まってもらおうと必死に取りすがって泣き喚き、暴れて物を壊して、叩かれて……そのあとの居間の姿だ。
そんな知っているはずのない光景を、こっそりと起き出して覗き見をしているかのような気分で――あるいは夢でも見ているような心地で――
エイメールは、視線を釘づけにさせていた。
「……泣かせてしまったなぁ」
「二度言わなくても。聞こえていましたよ」
「そうなんだがなぁ」
「そんなに気に病むなら、ちゃんとあの子にも、お話をしてあげればよかったじゃないですか」
次の言葉に、エイメールは、
「わたしたちは、彼らに罪をつぐなってもらいにいこうとしているんだよ、って」
「……」
顔から、一斉に表情を抜け落ちさせていった。
「……え」
両親の談話は続いてゆく。
「そんなことを言ったら、余計に心配させてしまうじゃないか。それに君ね。君だってさっきはそれを言ってくれなかっただろう?」
「わたしは、あなたについていくと決めましたから」
「君はずるいな。昔からずるい」
「だからちょうどよいんだと思ってますよ。でもね、あの子だってきちんとお話をすれば、理解できる年頃ですよ」
「わたしだってそう思ってるよ。そうなんだがねぇ……恥ずかしくて、ね」
「人様を悪しざまに言うものじゃないよなんてえらそうなこと、言ってしまいましたものね」
「そうさ。……わたしだって知っているよ。わたしや、わたしのやっていることが、先進の研究界隈の一部から笑われているということは。あの子の耳にも届いているだろう」
「……」
「でも、わたしは『これ』がやりたいんだよ。だからこそ、このまま素直に間違いだけを認めるのが恥ずかしいのさ。
こんなわたしでも、自分の尻拭いぐらいはしっかりとしてきているつもりなんだよと表明してやりたい。そうじゃないと、あの子にまで恥ずかしい思いをさせてしまうじゃないか? ああ、わたしの父親は、周りが言ってる通りの人物なんだって」
「だったらあとは司法の手に任せればいいじゃないかと、あの子は言うでしょう。あの子は賢いですから」
「そうかもしれない。それが一番正しいだろう。でもわたしは、できれば彼ら自身から自首をしてもらいたいと願っている。だからいくんだ」
「その結果、彼らに拒否されて対決することになるとしてもですか?」
父は、快くうなづいた。
「彼らが志なかばで挫折を味わったのだとしても、綴導術を扱えるということは、すでにそれだけですばらしい財産なんだ。
たとい詐欺まがいの小銭稼ぎだとしても、綴導術や無資格という要素が絡むだけで罪は何十倍にも膨れ上がる。せめて自分たちから申し出ることで、再起の道を少しでも残してやりたい。
そしていつか、自分たちがだました人々に、少しでもいいから、別の形で返してあげていってほしい」
「未来を作る力。それがあなたの綴導術、ですからね。だからあなたはお人よしなんですよ」
母は、呆れた風に微笑んだ。
「彼らの余罪についての証拠はエムルラトパ家の方々に預かっていただけている。昔の研究のよしみさ。万が一のことがあっても処理はしてくれるだろう」
「そこまでしたなら、あなた。きちんとすべてを終わらせて、あの子を安心させてやってくださいね」
「ああ。ちゃんと話をするよ。そのあとはごちそうでも振舞ってあげて、機嫌を直してもらわないといけないな」
「そのお料理を作るのはだれなんです?」
「君ね。君だって同罪みたいなものだろう――」
暖かい笑い声とともに、暖炉の光が遠のいていって……
「……」
エイメールは、涙を流していた。
「思いは……伝わって、いた」
とめどなく流れる涙が、手の中のペンダントへ落ちてゆく。
このペンダントを自分に預けて、翌朝、両親は出かけていった。
帰ってくるために。きちんと話をしてくれるつもりで。
「声がね……聞こえたの」
ペンダントに注ぐ視線の向こう側で、スフィールリアが、暖かいものに触れたように、穏やかに微笑んでいた。
「さっきまで、夢を見てた。暗くて寒くて……ほとんど憶えてないけど。でも、小っちゃくて暖かい光が、ずっとそばで抱きしめてくれてた……どうかこの子をお守りくださいますように。どうかこの声を伝えられるまで……って」
「……」
「それでね、なんとなく、分かっちゃった。エイメールのこと。……立派なお父さんと、お母さんだったんだね」
エイメールは震える手で、ペンダントとスフィールリアの手を包み直した。
悪夢が晴れてゆく。
ずっと、昏く彼女を苛んできた感情が、疑問が、未練が――洗い流されてゆく。
輝けるものは、いつもそばに。
いつでも近くにあるから、見えなくなっている。
変わってしまったのは、自分。
それでも思い出は、変わらずに、
「そばに……いてくれたんだ……!」
心を置き去りにしてきていた、あの暖かき家の、あの光差す玄関。
ずっと迎えてあげられないでいた両親が、今やっと、彼女の下に帰ってきてくれた気がした。
「お嬢様……」
だけどスフィールリアの術は、彼女が呼ぶつもりでなかったものまで呼び起こしたようだった。
にじみ出すように聞こえ始めてきた子供の泣き声に、エイメールは顔を上げた。
泣く子供がいる。
すり傷だらけの少女が歩いている。
がんばって家まで歩けば〝シショー〟がいる。でももしかしたら〝シショー〟も、もう自分のことを嫌ってしまっているかもしれない――そんな不安に足を鈍らせながら。
あの崖で見た幻の続きなのだと、彼女の手に触れているエイメールには分かった。
少女は家路の途中のあぜ道で、小さくもじもじと動いていた物影に気がつく。
見つかってしまったと分かって石垣の物陰から出てきたのは、同い年の少女だった。
彼女は、このころの少女の親友だった。
彼女はぬいぐるみを抱えていた。少女が貸してあげたものだ。
村の女の子がみんな持っているのに自分だけ持っていなかったから。ダメかなと思いつつおねだりしてみたら、ある日突然〝シショー〟が持って帰ってきてくれた。
それは村の女の子が持っているどの子よりも大きくて、ふかふかだった。一番の宝物だった。
いつでも一緒にいた彼女にだけ、貸してあげた。彼女のお母さんに頼んで同じのを作ってもらうんだと。友情の証みたいに思っていた。
彼女は、そのぬいぐるみを、大切そうに抱えていたのだ。
スフィールリアは、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ろうとした。
だけど彼女はびくりと震えて下がってしまう。
怯えて、差し出すみたいにぬいぐるみを放り投げると……さっと駆け出していってしまった。
「!!」
あとは、ずっと、少女の泣く声が続いていた。
それも、だんだんと遠ざかって、消えてゆく。
「どうして……!」
エイメールは顔を青ざめさせてスフィールリアに向けた。スフィールリアは困った風に顔を苦くして笑っていた。
「恥ずかしいとこ、見られちゃった。これでおあいこだね」
「どうして、こんなに悲しい思いをしてまで、そうでいられるんですか……!」
だれにも声を届けられない。振り向いてもらえない。あの悔しさがよみがえってきて、エイメールはスフィールリアの手を強く握り締めていた。
スフィールリアの手が、ほのかな力で握り返してくる。
「そうでもないよ。あたしには師匠がいるし……それにね、エイメールのお父さんとお母さんの声を聞いて、思ったんだ。ひょっとしたらあの子も、あたしに、ちゃんとあの子を返すつもりで、お話するつもりできてくれてたのかもしれない、って」
「そんなの……!」
分かんない。と、彼女もゆるやかにかぶりを振って引き継いだ。
「でも……もしかしたら、そうかもしれなかったねって、思ったの。あたしが急いであの子を怖がらせなかったら、お話くらいしてくれたかもしれない……だとしたら……ずっと怖がってばかりきたけど……悪いことばっかりの思い出じゃない、よね」
そう言って穏やかに息を抜くスフィールリアの顔は、どこか晴れやかだった。
「もう少しだけ、お互いがお話するつもりでいてあげられたら……今とは少しだけ違う今に、なってたのかもしれないね」
「……」
その言葉の意味を考えて……エイメールも、力を緩めて、うなづいた。
だけどスフィールリアは、すでに目を閉じていた。意識がどんどんあいまいになっているようだった。
「スフィールリア、さん……?」
「エイメールは、間違ってないと思う……ふたりのために怒ってあげる気持ちは……いつかあの子にも、謝ってあげられたら、なにかが……」
言葉も途切れ途切れで、順番が定まっていない。それでもエイメールには不思議とすべてが理解できていた。
「だから、エイメールが……エイメールの人生なんだから……選んでいい、と、思う。エイメールのお父さんとお母さんが立派な人、だったのは、本当。エイメールの気持ちも、本当。だから。……だからもしも、エイメールも、ふたりを大切に思う気持ちを本物だって思ってあげられるなら……」
「スフィールリアさん? しっかりしてください、スフィールリアさんっ?」
「この花を、困ってるみんなのところに、届けてあげて……」
スフィールリアの手がぱたりと落ちる。
その胸の上で、今……白い花が塵のように崩れ散ってしまう。
「そんな……!!」
「……すまねぇ。やっぱ、俺の容量とかいうのが、足りてなかったんだ」
だがエイメールは、すぐにそんなことも言っていられなくなってしまった。
スフィールリアの身体が淡く光り始めている。それだけでなく……
……透け始めている!
「……スフィールリアさん!?」
「なにをしている! もうゲートが崩れるぞ!」
「助けにいってあげたいけど、ソッチの容量がもうズタズタで、ひとりも送れないんだにゃあ~。あ、あと、わたしたちもぶっちゃけげ、限界、で……」
「も、申し訳ないけど、けが人は、無理をしてでも運んでもらえるかな……!?」
さらにそのうしろから、なにかの調整を指示し合う、切迫した喧騒が届いてくる。
「お嬢様、急ぎましょう。早く彼女を」
「でも……でも! せっかくここまできたのに!」
「バカ。ここまできた、は、お前なんじゃねぇのか。コイツがお前に、届けてくれたんだろうが。なにからなにまでよく分からんけど」
「……!」
「帰れりゃ、なんとかなる。なんとかする。コイツの持論だ。……信じてみろって」
「っ……」
エイメールはうなづき、スフィールリアの身体を起こして背負った。
さすがに苦痛の声を上げる彼女に、懸命に呼びかけた。
「少しだけ、辛抱してくださいね」
まずはアイバに肩を貸したフィオロが、ゲートの中へと踏み込んでゆく。
先の安全をたしかめるように慎重に数歩進んでから振り返り、うなづいてくる。
エイメールも彼女たちの足取りをまねて、ゲートをくぐっていった。
情報世界が視覚化されてうねるゲート内部に入ったとたん、ふたりの姿が一気に遠のく。
空間が歪んでいる。〝深度〟の浅いところから無理やりにゲートを開いたため、一瞬での移動とはいかないのだ。
急がなければならない。
疲れきって悲鳴を上げる全身を鼓舞して、エイメールは、はるか先にある光に向かって歩き出した。
あの光の先に出て――したいこと、謝りたい人が、たくさん待っているのだから。
◆
ぐにゃりと歪んでから、這い出すみたいにゲートを抜けてきたフィオロとアイバの身体を生徒たちが受け止めた。
「よ、よし! まずはふたり、なんだね、うん……!」
「は、早くしてほしいにゃあ~~……!」
残り、ふたり。
しかしエイメールは、なぜだかゲート出口の手前で、途方に暮れたように立ち止まってしまっていた。
「どうした。問題はない。急ぎたまえ」
エイメールは呆然としたままかぶりを振った。
「だ、ダメ。近づくほど、どんどん〝重さ〟がなくなってる……スフィールリアが、消えてしまう!」
「なんだと? 自分の領域に<ルナリオルヴァレイ>をひもづけでもしていたのか。……ならばまず君だけでも早く通りたまえ」
その後に彼女を救い出す手をタウセンは考えていたが、エイメールはもうひとつの思惑の方を察してか、顔を青ざめさせて一歩を下がっていった。
「どうして……。わたしが貴族だから、ですか。そんなの関係ない! ――そんなくだらないものに縛られて手を離すくらいなら、ここで彼女と一緒に死にます!」
「ヤバ……も……無理ィ!」
タウセンは舌を打ち、自身も膨大な汗を流しながら周囲を見回す。
「な、なぁ先生さん。なんとかしてやってくれよ! アイツ他人のことばっかでさぁ! このままじゃあんまりだろぉ――」
そして視界に入ってきたアイバの身体を捕まえて、ボロ同然になっている防寒着を剥ぎ取りにかかった。
「君のその服にも彼女の領域が使われているな。脱ぎたまえ」
「あががイデデデ!? だから全身がヒビ入ってるみたいに……って、アンタいきなりなにを……ハッ! まさか、俺がイイ身体してるからって、この場で俺を……!? イデデ止めて!? せめて下は自分で脱ぐから優しくして!?」
「なにを馬鹿なことを抜かしているんだ。君たちは彼女を聖人かなにかだとでも思っているのかね。甘く見るな。ほらっ、早く脱げ!」
「あぎゃ!」
最後は本当に強引に剥ぎ取って、タウセンは防寒着をゲートに突き込んだ。
「わたしのしようとしていることが分かるな――『視て』いるなら、さっさと『掴み』たまえ!」
その瞬間、防寒着がぼぅと金色に輝いて、分解された。
同じ色合いに発光して、透けていた彼女の身体も元に戻る。
「走れ!」
慌ててエイメールが走り出す。ゲートが歪む。どんどん縮んで、最後はタウセンの突き込んでいる手首ぎりぎりの大きさにまで縮小してゆく。
「手を!」
つかんだエイメールの手を、タウセンは強引に引き上げた。
バシィッ! ――とゲートが弾ける音がして、次の瞬間にはエイメールは、タウセンの手に吊り上げられる形で通常領域へと復帰していた。
「せ、先生。て……お手が……!」
タウセンの肘から先の手は、燃え尽きたように白化していた。
「たかだか人間ふたり分の〝予備〟を持っていかれただけだ。気にするな」
「……」
エイメールはへたり込んだ。
そこに涙目になったフィリアルディとアリーゼルが駆け寄ってくる。
「スフィールリア!」
「なんでこんなケガを……あわわっ……どなたかこの中にお医者様……いえ! 医学の本様はいらっしゃいませんこと!? すぐお薬の作成に取りかかりますの!」
「アリーゼル落ち着いてお医者様が先よ! 産婆! わたし産婆お手伝いの経験あります!」
「……」
あまりの騒々しさに、エイメールはあっけに取られて……次に、穏やかに息を抜いた。
今なら、楽しそうな人たちだなと思える。
背にいるスフィールリアの吐息が、暖かかった。
「悪いがここで休息させてやることはできないぞ。彼女もここでは治せん――ただちに撤退する。信号弾! 騎士団に退路の安全確保の要請を。機材はここに放棄。すべて抹消してゆく――!」
すべてが慌しく動き出す。
――と、その時だった。
「先生さん!」
大声を出して走り寄ってきているのは、聖騎士団長の少女だった。
腰の剣に手をかけている。
「そこ離れて! 『なにか』――くるよ!!」
「なに――」
タウセンが言いきる前に、その場にいる全員、吹き飛ばされていた。
まず見えたのは薔薇。地面から爆発的に盛り上がった大量の薔薇のツタが自分たちを引っかけて、津波のように押し流してゆく。
薔薇の棘は自分たちを傷つけもしない。これには覚えがあったので、心配はないとタウセンは判断した。
問題は次だった。
ゲートが所在していた空間がたわむのを見た。
「え――」
薔薇が消え。
だれかが惚けた声を出した。タウセンもその空を見上げていた。
ゲートが閉じた場所から、唐突に――風船でも膨らますみたいに、現れていた。
「そ、ソレ、返して」
牛頭だった。
ただし、全高で百メートル以上はある。
「しつっけええええええええ!!」
横を見る。アイバ・ロイヤードが頭をかきむしりながら叫んでいた。
「『ゆらぎの向こう』とかいうのにブッ飛ばしたんじゃなかったのかよおおお! しかもなんかデカくなってるし――あ、ダメだ……」
そして、バタリと倒れた。タウセンはフレームの位置を直しながら、冷静に、拾い上げたキーワードの分析を終えた。
「『ゆらぎ』だと? ――そうか、有と無の確率の『ゆらぎ』を逆利用されたな。それか、存在情報の一部を残していたか。詰めが甘かったな」
「なんなんですの――」
「今やあのモンスターは、<ルナリオルヴァレイ>という国家領域、そのものだ」
「はら、ハラ、ペコる」
そんなやり取りは聞いていない風に、牛頭が巨大なハンマーを振りかぶる。
莫大すぎる情報領域が開いていた。
これは王都の学院長室ギリギリまでの範囲が吹き飛ぶなと、タウセンは検討をつけた。
「これは、ちょっと。わたしの〝薔薇〟でも間に合わないですね」
タウセンは隣に並んでいた騎士団長に向き直った。
すんでのところを助けてもらった礼を言いたかったが、時間が差し迫っている。
「その剣は防御にも特化していると聞き及ぶ。あなたにはそちらを頼みたい……アレはわたしが打ち消します。急場すぎるので存在を残せる可能性は低いですが、それがベストだ」
「……いいんですか?」
タウセンは肩をすくめた。
「世話になったと。<アカデミー>の長に、伝えてください」
「……分かりました」
一歩を下がり、騎士団長が、抜き払った剣を大地へと立てた。
入れ代わりにタウセンが前に出て、ネクタイの戒めをほどく。
きわめて正確に牛頭の領域を測り、同じ分だけの情報領域を解き放った。
――直後。
「……っ!?」
開放しようとしていたすべての領域を根こそぎ閉じられて、タウセンは恐ろしい喪失感とともに膝をついていた。
なにものかの〝手〟が、タウセンの背広に触れてきていた。
「スフィール、リアッ、君……!?」
だった。そこにいたのは。
いつの間に近づいていたのか分からない。突然現れたのかもしれないと、後方で彼女を抱えていたはずのエイメールが泣きそうな顔を右往左往させているのを見て、タウセンは思った。
(相殺――いや。奪った、のか! わたしのタペストリーを、一瞬で。余波もなく……!)
それだけのことをしておきながら、スフィールリアは顔色ひとつ変えていない。いや――表情がない。タウセンは愕然と、苦しげに汗を流しながら彼女を見上げていた。
「意識が、ないのか……!?」
「……」
返事もなかった。
ただ全身を淡く〝金色〟の輝きに包ませて、立っている。
その〝色〟を表すことだけが、自身の存在を明かすすべてであるかのように。
そう。花のように。
「待ち……たまえ!」
「……」
彼女は透明無垢な眼差しをタウセンから離し、牛頭の方へと歩いていった。
ふと途中の地面に、なにか便利な木切れでも見つけたみたいな手つきで腕を伸ばす。
自ら浮揚してスフィールリアの手に収まったのは、彼女の<縫律杖>だった。
するすると伸張して彼女の倍ほどの長さになる。
その頭頂で咲き乱れる花の大きさに、息を呑む。
色とりどりの花、そして中心の金色の花。
どれも、先ほど見た時にはない姿だった。――あの<縫律杖>の領域を、今の彼女は完全に掌握している。その証のように思えた。
「……」
スフィールリアは満開になった<縫律杖>の先端を、ぴたり水平と牛頭に向ける。
「修正をかけて、いる? のか……?」
「す……スフィールリアっ!」
だれもがあっけに取られて固まる中で、駆け出したフィリアルディに、タウセンが腕を突き出して制止した。
「手を出すなっ。もうこの場であの術を扱える者はいない。邪魔をすれば助かる手はなくなるぞ」
「……!」
牛頭は、すでにハンマーを振り下ろし始めていた。
巨大すぎるため、非常にゆっくりと見える。
しかし数秒後には解き放たれた莫大な情報領域が、大陸に、衛星軌道上からも視認できる巨大なクレーターを形作ることになる。
「間に合わん」
牛頭に対して六秒ほど遅れて、スフィールリアも<縫律杖>を振り上げていた。
どう見ても圧倒的すぎる質量差がある。
だれの目から見ても、駄目だという思いしか浮かばなかった。
そのハンマーの底面と、杖の先端が触れ合い――
あっさりと、すり抜けていった。
水でも切るみたいに、あまりにも軽く。
「……!」
杖はすり抜けたのではなかった。杖に触れた端から、ハンマーは白い花へと〝変換〟されていっていたのだ。
だからハンマーが地面を叩くことはなかった。
そして、スフィールリアが<縫律杖>を振りきる。
広がった光景に、全員が息を呑んでいた。
牛頭の威容はすでになく。
空に、おびただしい数の白き花が咲き誇る。
雪のように、舞い降りる。
巨大な牛頭の質量すべてが、ナイトメアという白い花に変換されていた。
「きれい……」
だれかがつぶやいた。
タウセンもしばし見入っていたが、その声にハッと気がつき、顔を青ざめさせた。
「この量のナイトメアは……不味い! イガラッセ先生、ウィスタフ君!」
「はいな!」
「も、もったいないけど。し、しかたがないね」
三人の教師が<キューブ>を始めとした手持ちの攻性武器をありったけ投げ放ち、白い花を塗りつぶすほどの火炎の華を閃かせた。
吹き荒れた熱波がさらにナイトメアを巻き込んで燃え散らしてゆき、地上の面々が悲鳴を上げながら身を伏せる。
大半のナイトメアを焼却し終え……タウセンは、正面の少女を見据えていた。
スフィールリアは、舞い落ちる白い花の一輪を、その手に受け止めているところだった。
「スフィールリア君、なのか?」
やはり返事はなかった。
再び、感情のない、透明な眼差しを向けてくる。
「……」
しばしタウセンを見つめていた彼女が、ほんのかすか、錯覚と思うほど、小さく微笑んだような気がした。その姿を、タウセンは純粋に美しいと思った。
そして、眠るようにまぶたを閉じて――倒れた。
「スフィールリア!?」
フィリアルディが呼ぶころには、駆け寄ったタウセンが、地面に落ちきる前に彼女の肩を抱きとめている。
今も降りしきる花と一緒に前髪をどかして見ても、スフィールリアの表情に笑顔の名残はない。やはり錯覚だったのだろうとタウセンは思い直した。
彼女の手から落ちた<縫律杖>に花々の姿はなく、すでに元のサイズに戻っている。
「こ、これどうすればいいんでしょうか、先生……?」
「……」
途方に暮れた様子で、生徒のひとりがきょろきょろとしている。
あたりの地面を絨毯のように敷き詰めてゆく雪のような花景色の中で、タウセンは彼女の寝顔を、しばらく真剣な面持ちで見下ろしていた。
◆
真夜中の<アカデミー>正面門。
作戦を終えた秘密の救援部隊が、人目を避けるように、しかしにわかに慌しく通ってゆく。
「帰ってきたようだ」
その一団を正門横にある大食堂の二階から見下ろして、二名の生徒が秘密の対談を交わしていた。
うちひとりの大柄な男は、スフィールリアに融資を行なった『地下サークル』の頭領その人だった。
「本当に、ナイトメアを手に入れて帰ってきたんだ」
「面白い人材だろう?」
「いや、別に」
「そんなはずはない。気になるはずだ。なにしろ君のライバルである、エスレクレイン・フィア・エムルラトパ嬢のお気に入りなんだからな。なぁ、黄昏の金姫よ」
「……スフィールリア・アーテルロウン」
ライバル、のあたりに込められた微妙な含みには触れず、もうひとりの女は気だるそうに窓ガラスへと肩を預けた。
「たしか、学院長先生殿の古いお名前が同じだった気がする。気になると言えばわたしはそっちの方が気になるかしら。それとその呼び方やめてね? 嫌いなのよ、二つ名って。実際言われると恥ずかしくない? 眠りの森の鍵守さん? 先輩、の方がキく?」
「それは初耳だな。センパイの方はうれし恥ずかしと言う感じだ。……いずれにしろ今回の一件で、彼女の名は学院はおろか、王都の地下にまで広まるだろう。できるはずのないことを覆したんだ、当然だな?」
「……」
「――上がってくる。そう思わずにはいられないだろう?」
「まだ、『ウィズダム・オブ・スロウン』が修復されたわけではないわ」
その通り。と、男は笑った。
「だがわたしは、今のうちから目をかけておこうと思う。今日までただの石コロか、原石か……観察に徹していた連中も裏で動き出すだろうからな」
「あなたの思惑に関係する者も、まったく無関係な者も含めて、ね。つばをつける、の間違いでしょうに。ご苦労なことだわ」
「そうかな? だからと思って呼んでやったのになぁ。わたしは君がいつだか持ち込んだ商談を、忘れてはいないぞ」
「……」
「まあ君が<焼園>の連中に道を譲るというなら、止めはしないぞ。なんにせよ学院の秘法は我々が手に入れる」
「いいわ」
女が、窓から身を離した。
「でも彼女が〝上〟まで上がってくるかどうかについては、わたしは干渉しない。エムルラトパも関係ない」
「そうか? ふふ」
「でも、もしも彼女がわたしのサークルに――『偉大なる鍵』の作成に、ふさわしい力と理由を携えて関わってくると言うのなら、歓迎しましょう。それまで〝森〟の守護、なにとぞよしなに」
「いいだろう。お待ちしている。くく」
それは、学院によくある企みごとの、ほんの一端のできごとだった。
本当にありふれている、ただ、それだけの。
◆
「正門の方、なんかうっせーな」
「ああ。帰ってきたらしいからね。例の秘密部隊」
「国宝がらみか。どうでもいいけどな。関係ねぇし」
「でも、新しい仲間が増えるかもしれない。キャロちゃん先生がメンバーに入ってるからね。ということは」
「特監か……」
「仲間が増えるね」
「いや俺はどうでもいい。騒ぐとしたら特連の連中くらいだ」
「もう騒いでたよ。タウセン教師を葬る刃がまたひとつ増えるかもって。まぁ、その子をどこが引き込むかで、また学院のバランスが変わるかもしれないね」
「くだんねぇなぁ……クソだどいつもこいつも。みんな死ねっ。いや俺の代わりに生きろ、クソ」
「君はもう少し、楽しくつき合える友達を増やした方がいいと思うんだけどね」
「……」
「……」
「じゃ、いくわ」
「ああ。気をつけて。次はコンペの時だね。ちゃんと生きて帰ってくるんだよ~!」
「ケンカ売ってんのか。ま、そんだけホネのあるモンスターの骨なら、持ち帰ってやってもいいんだけどな。お前も自分のことしっかりしろ。そんじゃあな」
◆
「隊長。帰還隊全員の身体検査、終わりましたよ」
「おっ、ありがとね。……んー! 久しぶりに運動できたし、いい気分転換になったかな。みんなも楽しそうだったでしょ」
「なに言ってるんです。みんなグロッキーですよ。最後は装備品だってギリギリだったでしょ。残存するモンスターの掃討部隊も編成しないとだし、でもこのていどの作戦でこの疲労度だと、フォーメーションも見直さないとな……訓練体制も……相談して……」
「そうかな? 悪くなかったと思うけど……。さて、それじゃウィル君。事務処理はよろしくね」
「まーた王城探索ですかぁ? 隊長の体力は無限ですか」
「この時間に歩き回ったことって、あんまりないからね。面白いもの見つかるかもよ?」
「ヘンなところに入って大臣さん方に睨まれるのは勘弁願いますよ」
「隠された財宝とかなら」
「怒られますから」
「折半では……」
「ダメですって」
◆
そして――よくある話が、ここにもひとつ。
アリーゼルは夜の講義棟を歩き、その一室の扉をくぐっていった。鍵が開いていることは分かっていた。
かつて、自分たちが講義を受けていた初期クラスの教室だった。
そして、窓際の席に腰かけていた人物が振り返ってくるのを、待った。
「あらぁ……いーけないんだ。時間外の講義棟に無断で忍び込んじゃうだなんて」
「先ほど、スフィールリアさんを医務室に搬送する手前で、窓に影が見えましたもので。お互い様ですわ」
「そうよね、うふふ……」
そこで、彼女は振り返ってきた。
長い黒髪に上半身を包むエスレクレイン・フィア・エムルラトパの姿は、月明かりに照らされてなお、教室の闇に溶け込むかのようだった。
「ご用がおありなのね?」
「ええ。――やってくださいましたわね。と言ってやりたくて。ここまで大事になるだなんて、きっとあなた以外のだれもが思っていなかったでしょうよ」
きつい視線を送ると、エスレクレインはふざけているのか心底なのか、分からない態度で、悲しげに口を手で隠した。
「あなたが悪意的でないことは薄々ながら感じ取っていましたわ。……でも、だからこそタチが悪い。あなたの悪ふざけで、今回、何人もの死者が出ていたのかもしれませんのよ」
自分の言葉とともに、事件の発端からこれまですべてのことを思い出し……
アリーゼルは重く息をついた。
「……なぜ、ここまでする必要があったのです?」
「でも、スフィールリアさんは無事に昏紅玉を入手できたでしょう?」
「……」
「エイメールも、あの子を苛んできた呪縛から解き放たれて、大切なものをひとつ取り戻した。ここであの子を見ていましたもの。分かりますわ」
「それが、あなたの目的だったとでも?」
「どうして、そのようなこと……それを疑う要素がおありだとでも言いたげなよう」
「ほかにやりようはいくらでもあったはず。エイメールさんのことにしたって、時間は、かかっていたかもしれませんが」
「そう。そうよね。時間は無限。あるいは、有限かもしれない……」
「……。それでも、命を天秤にかけてまで釣り合うほどのことじゃありませんでしたわ。ましてや、彼女を洗脳? までして。学院を敵に回すようなことまでさせて」
「まぁ……」
「そして、スフィールリアさんのことに関しては論外。彼女も『ウィズダム・オブ・スロウン』も、丸っきり無関係ではありませんか。彼女の退学の危機は、まだ終わってはいませんのよ。あなたの目的がそれだったとは、どうにも納得がつかないですけれど」
「それはそうでしょう。だってわたくし、スフィールリアさんなら絶対に退学になんかならないって、知っていますもの」
アリーゼルは、一旦、わけが分からないといった顔を見せた。
そして気を取り直し、ポシェットから一通の封書を取り出して見せた。
「わたくしが出かけている間に、あなたのことを調べさせていましたの」
「まぁ。わたくしを告発なさるおつもりで?」
「いいえ。まさかこのていどの事件で、エムルラトパ家のあなたに痛手を負わせられるとは思いませんもの。わたくしが知りたかったのは、理由の方」
「なにか、お分かりになりまして?」
アリーゼルはかぶりを振った。
エスレクレインが笑っているのは、要するに、アリーゼルが使った諜報員の動向が筒抜けだったということだろう。王都での活動のすべてにおいて、向こうが何枚も上手であることは分かりきっていた。
だがアリーゼルは、この時だけは勝ち誇って微笑を返していた。
「たしかにあなたと『ウィズダム・オブ・スロウン』、そしてスフィールリアさんを結びつけるあらゆる要素……どころか、あなたに関するあらゆる〝埃〟ひとつも見つけることはできませんでしたわ。でも、フィルディーマイリーズ家のスタッフの能力、甘く見なさらないでいただけますこと?」
アリーゼルはその場から封書を投げ渡した。教室の入り口と窓際ほどの距離があったが、エスレクレインはあくびをかみ殺す片手間に指をついと動かして、空中の封書を自分の手元まで引き寄せた。
腰かけた机を封書がすべり、その中身の何枚かが躍り出す。
「あらぁ……本当に優秀」
「――あなた。何者なんですの」
封書の中身は、写真だった。
色合いの違いがそれぞれの撮影された年代の違いを思わせる。しかしそれらのすべては、エムルラトパ家の面々を映し出す品だった。
エスレクレインは写真を拾い上げ、愛おしそうに順ずつ眺めていっている。この品々に、もうひとつの共通点があることを、彼女自身が気がついていることだろう。
最新は一年前のもの。内輪で開いた小さなホームパーティーのような場面だろう。笑うエイメールと、少々退屈そうにあくびをするエスレクレインの姿がある。
だがそれ以外の写真は、どれも数十年から、数百年前のものだ。
貴族年鑑に掲載する集合写真の失敗品。あるいは歴史的な調印式が行なわれた一場面。
そして、もっとも古い品は、絵画を撮影したものだ。だから写真としての品質は、実はこれが一番新しい。
「こんなもの、どこに残っていましたのかしら」
「すべてに、あなたが映っていますのね」
「……」
笑顔のまま、エスレクレインは、否定を送ってこなかった。
「先ほどは勝ち誇りましたけれど、一番優秀なのは、それを手がけた絵師様ですのね。現実の姿をこれほどまでに正確に描き留めてなさったのですから。……ご先祖代々、あくびの時に立てる指の角度まで受け継がれるだなんてこと、ありませんわよね?」
と、いうことだった。
古代から近年に至るまでのすべての写真と絵画の片隅には、黒髪の女が映っている。
彼女たちすべてが――よほど退屈しているのだろう――今さっきのエスレクレインとまったく同じに、小指を離した手を充て、あくびを漏らしているのだ。
「本当、どこに残っていたのかしら……ねぇあなた、よろしければ教えてくださらない?」
あまり困っていなさそうに微苦笑を流してくるエスレクレインに、アリーゼルは油断ない目つきを返した。
「たしかに、このこと自体はそれほど驚くに値することではないかもしれませんわね。優れた綴導術師は、やがて自身の存在を情報面へと純化させて永劫の時を渡る存在にまでなることがあると聞きます」
「この絵を手がけたのはテルムだから、当然そのあとはパグラム、次はロイェルのお家、その次はピルクスの家の地下、それから……それから……」
エスレクレインは、ぶら下げた足をぷらぷらと揺らしながら、指を立てて数え上げている。
アリーゼルはかまわなかった。
「でもすべての綴導術が術者の存在を書き換えるものでもなし、実際にそこまでの存在へと登り詰める方というのも、歴史上にほとんど類を見ませんわ。それまでの間に人生に幸福を得るか、飽いて、自ら人生を閉じるからです」
「マリィクリス、ファルカッソリウス、ジジエイジャ、ふふ……」
「では、あなたが存在しているのは、いったいいつから? ひょっとして、この王都に大陸が引き継がれるよりも前から? これまであなたはあの家でどのような立場でいたのか?
それらに興味はありませんわ。
――それほどの時をかけてまで王都に留まるあなたが、なぜ今の時代になり、ご自身でエムルラトパ家の令嬢を名乗りなさいましたのか。それほどの存在であるあなたが、なぜ、あれほどまでスフィールリアさんをお気になさって、こんなことをしでかしたのか。
わたくしは、そこにこそなにかの意味があると感じるのです。彼女は、あなたにとって、何者なのか? ――いいえそれもさほど重要ではないのかも――」
「ジルオギウス、ふ、ロマウス、ふふ、ふ、ふふふふ……」
「――わたくしはあなたに、これを伝えにきたのですわ。あなたが何者でなにを企んでいようとも関係ない。もしも今後わたくしのお友達に同じようなちょっかいをおかけになるんでしたらば、このアリーゼル・フォア・フィルディーマイリーズ、たとえ王都頂点のあなたの挑戦でも――」
「ふ……あはははははははははははははははははははははははははははははははは!! ――数えるのやーーーーーーーーめたあ!!」
エスレクレインが、机の上から飛び降りた。
予想していなかった声量に、アリーゼルはぎょっとして動きを停止していた。
ゆらりと、正面を向いてくる。
「ねぇ……アリーゼルさん。本当に有能なんですのね。あなたのお家のスタッフさんって」
「――」
そして、アリーゼルに向かって、歩み始めた。
「どのような立場だったか? ですって。本当に、優秀。ということはあなたの部下さんは、わたくしについて、『そのようなこと』までを看破してお伝えになったのですわよね?」
だが、アリーゼルは……動けなかった。
彼女の姿を見失っていたからだ。
いや、正しくは、右手前五十メートルのところに彼女はいた。
「なんて言ったのかしら」
いや、それは間違いだった。彼女は左の三十メートル先にいる。
「まるで、皮膚だけの人間?」
「中身のない。なんの歴史も見えない」
いや、それも間違いだった。いや、それも――
「――」
アリーゼルは完全に空白となった思考で、目の前を見つめ続けていた。
「からっぽの、器だけの」
「姿だけがある」
「まるで亡霊?」
「そう」
「こんな風に」
気がつけば、エスレクレインは――
「いい匂い……」
真後ろで、アリーゼルの髪の匂いを嗅いでいた。
そうではない。最初から正面に彼女なんていなかった。自分は今まで、だれもいない空間に空しく話しかけていたのだと、今さらながらに〝自覚〟が――
「わたくしね、アリーゼルさん。あなたのことも気にしていたんですよ?」
髪を掬い取られている。まだ嗅がれている。
いつから、嗅がれていたのだ?
ゾワリと、未知のものが下腹から沸き上がってきても――
アリーゼルは、動けずにいた。
やがてエスレクレインは感極まって狂ったかのように、アリーゼルの匂いをむさぼり始めた。
「だってね。こんなにいい匂いがするんですもの。わたくしが思っていた通り。あなたはスフィールリアさんに相応しい子だから。だから…………これからもスフィールリアさんのおそばに寄り添ってあげてくださいね。これからもスフィールリアさんのよき友人でいてくださいね。これからもスフィールリアさんのよいライバルでいてくださいねこれからもスフィールリアさんとその綺麗な魂をみがき合ってくださいねこれからもスフィールリアさんを輝かせてくださいね? わたくしを許さない? そんなことはどうでもいいの。もしもあなたがスフィールリアさんに相応しい子であることをやめてスフィールリアさんを翳らせることがあったら、わたくし、わたくし、あなたのこと」
次の声は、普通に顔を寄せて、耳元で聞こえてきた。
「許さないから」
「――――」
髪にかかっていた手の感触は、すでにない。
気がつけば、静寂が満ちていた。
そこで、アリーゼルはようやく身体を傾がせて、机の縁にもたれかかった。
しかし、エスレクレインの気配が完全に消えうせていることを空気で感じ取ってからも、
「……!」
アリーゼルはそこから一歩も動けず、うしろをたしかめることも、できないままでいた。
◆
「るん、るん、るん。うふふ。ふふふ。今日は記念日。輝かしい記念日。なんてなんてすてきな日」
エスレクレインは浮き足立って廊下を進んでいた。
だれもいない廊下を、弾み、歌い、回る。
「〝金色〟の夢は、いまだ飽くることなく、世界の果てのその向こう……さぁ、歌い始めましょう、踊り始めましょう。だれもかれもが飽きるまで。世界があなたを思い出すまで」
突然、ぴたりと足を止める。
「……く、ふっ。ふぐっ……!」
次に、肩を震わせてぐずり出した。
「ぐすっ……わたくし、ひぐ、かわいらしい後輩も欲しかっ……仲良く……だのに。あんなに怖いお顔を向けてくるだなんてぇ……!」
そして、バッとアリーゼルのいる教室の方を振り返った。
「そんなに部下に自信がおありなら、最初にエルマノ王家をお調べになればよろしかったんですのよーーーーーーだッ!!」
目いっぱいの声がこだましてゆくのを、耳に手を当て、たしかめてから。
「そうよね。うん♪ わたくし悪くありませんわ」
満足そうにうなづき、また、弾み出した。
「ふん、ふん、ふん♪ らん、らん、らん♪」
とても楽しげに進んでゆく。
もしも大声に釣られて警備員が駆けつけたとしても問題はない。
ここでは、いつでもだれかが囁いている。企みごとが渦巻いている。
学院は眠らないのだから。
王都は眠らないのだから。
なにより――彼女は、そこにはいないのだから。