(1-31)
◆
状況は、彼女たちの目から見ても明らかにかたむきつつあった。
「か、彼は、どうしてしまったんですかっ?」
スフィールリアへの処置を終え、服を着せ直した上から自分の防寒着をかぶせたフィオロが、苦い顔のままで答える。
「〝霧の獣〟の特性です。壊れた情報の集まりである〝霧の獣〟には、近づいただけで存在の情報にダメージが蓄積します。勇者でも悪魔でも関係がない。〝奏気術〟でも使わなければ、いかような存在であってもこれを避ける術はありません。しかし、彼は……」
アイバは牛頭から距離を取り始めていた。
地面を逃げ転がり、聖剣を構え直し、なにかの機を見計らうようにもどかしく足を止めては、また逃げ回る。
やり取りに飽きた牛頭の注意がこちらに向き始めたところで慌てて駆け寄り、その足へ聖剣を叩きつける――といったことを、繰り返していた。
そのたびにアイバの表情に苦悶が滲む。聖剣の輝きも、次第に弱まっているようだった。
「彼は今まで、あの類まれな身体能力と聖剣の守護、そして、担剣術の対応力だけで戦っていたのです。ですが明らかに〝奏気術〟を未修得です」
「そ、そんな馬鹿なことが。それでは彼の存在情報は! 今も!」
「今は、かろうじて自分でも〝気〟を使い始めています。信じがたいことに、おそらく彼の師かあの聖剣の守護の力の、見よう見まねかなにかで。……普通〝奏気術〟の習得には、〝気〟の自覚だけでも優秀な教師の下についた上で数年はかかると言われているのですが」
フィオロは結論を口にした。
「ですが、それでも全然使いこなせていない。このままでは彼は死ぬ」
それは、彼女たち三人の死も意味していた。
「申し訳ありません、お嬢様」
「フィーロ?」
「わたしも助勢に向かいます。おそらく太刀打ちはできないでしょうが、せめて彼を離脱させる隙ぐらいは作らなければ。その後はできる限り時間を稼ぎますので、お嬢様方は、なんとか逃げ延びてください」
「だ、だめっ!」
立ち上がりかけたフィオロの肩にエイメールが飛びかかって押さえつけた。
「そんな――そんな。お願い、やめて、フィーロ。そんなことは!」
「お嬢様、申し訳ございません」
震える肩を引き剥がそうとしたが、エイメールは思いのほかに強い力でしがみついて、フィオロの胸の上で激しくかぶりを振ってきた。
「おとりだったらわたしがなればいい! あのモンスターが食べたがってるタペストリー領域だったら、綴導術士のわたしの方がずっとマシ! 彼とあなたでスフィールリアを運んだ方が、逃げられる可能性はずっと高いでしょう!?」
「お嬢様、それは……」
とうていできない相談だ。
と言いかけて、
「もう、わたしを、置いていかないで!」
跳ね上げられてきた彼女の顔を見て、なにも言えなくなってしまった。
彼女たちの両親が死んだ日と、同じ泣き顔だった。
「――」
「やっと分かったんです。見えなくなっていただけで、大切なものはずっとそばにあったんだって。なのにそのあなたがいなくなったら、わたしはどうしたらいいんですか。また目の前で大切な家族を失うだなんて、そんなのは、絶対に嫌……」
「……」
「ひとりに、しないで……!」
再び胸に埋まって泣き出してしまう彼女を抱き留めながら、フィオロは途方に暮れて戦場を見つめていた。
家族という言葉が胸に突き刺さっていた。自分にそんな資格があると思ったことは一度もなかったが、それでも、自分も彼女を家族のように大切に思っていた。
そしてエイメールがそう思ってくれて、今こんな顔をさせてしまうのなら、もはやそれは絶対にできない方法となってしまったのだ。
それに、思えば四方は崖が崩れて道がふさがってしまい、逃げ場などなかった。
馬鹿な考えだったと、フィオロは自分を笑った。
「ありがとうございます。お嬢様」
彼女の髪を愛おしく梳いて、フィオロは決然と顔を上げた。
(なにか、手立ては……)
――とはいえこのままでは全員が確実に死ぬのだ。彼女と自分の希望を正しく叶えるためには、理想的な心中という選択肢を絶対的に排除した上で、助かる方法を編み出さねばならない。
フィオロは必死に辺りを見回した。
なにを探すのかも分からない。とにかく手当たりしだいに目に映るものを右に左に流していって……
「……」
巻き起こる粉塵の中にきらりと光るものを見た気がして、フィオロは数秒間、その地面に目を留めていた。
「……フィオロ?」
「大丈夫です、お嬢様。すぐに戻ります」
彼女の不安をやんわりと笑顔で否定して手をほどくと、フィオロは一瞬だけ見た輝きを目指して駆け出していた。
突然の乱入に叱責するようなアイバの一瞥とモンスターの真横を危うく走り抜け、到達した場所の土砂を必死にかき分けて探す。
そして、あった。
「……!」
フィオロは即座にそれを拾い上げてエイメールたちの下まで駆け戻った。
「フィ、フィーロ! 危ないことは……!」
「お嬢様、これを」
問答の時間も惜しくかがみ込み、彼女は拾ったものを泣き顔な主の前へと差し出した。
「これは……」
それは、スフィールリアの短剣だった。
牛頭に倒される寸前まで手にして、なにかの攻撃手段にしようとしていたものだ。
刀身は本来の研ぎ澄まされた白金のまばゆさとは別に、淡い三色の輝きをまとっている。
「タペストリー――綴導術の輝き」
「彼女はこれを用いて、あのモンスターへのなんらかの切り札にしようとしていたのではないでしょうか」
エイメールが驚いたように顔を上げる。
フィオロはうなづき、そして、こう告げた。
「お嬢様。お嬢様が、この術を、引き継いでください」
「え……!」
エイメールの表情が、さらなる驚きに見開かれてゆく。
それは、つまり。
この場で、作る。
あのモンスターを打倒する、起死回生の品を――!
「……!」
「わたしたちには、この短剣に込められた力の構成がまったく分かりません。〝奏気術〟は感情とイメージ力で、直感的に情報へ干渉するだけのものですから。今この場で彼女の術を完成させることができるのは、綴導術士であるお嬢様以外にはいらっしゃいません」
「む、無理です! だってわたしは――先輩から教わったこと以外、まったくただの一年生で」
エイメールは怖がる風に激しくかぶりを振った。それはそうだろう。
たしかにエムルラトパ家の教育は学院同期の何歩も先をいってはいる。しかしこの時期の一年生と言えば、今ようやく水晶水の作成に慣れ始めているというのが本来の姿なのだ。
彼女とて総合面で言えば大差はないと聞いている。ましてやなんの機材も教材も存在しないこんな場所で、〝霧の獣〟に対抗するための、いっぱしな完成品としてのアイテムを作成するなどと――
なんの経験もないのに、坂道を転がり落ちる馬車の御者席を任されたような心地なはずだ。
しかしフィオロは彼女の肩に強く手を置いた。
「分かっています。ですがこの状況を打破し得る可能性があるとすれば、この剣しかないのです。彼女がなんの見込みもなく、退路を捨て、戦う道を選んだとは思えません。少なくともなにかがあるはずです」
「わ、わたしは」
見上げてくるエイメールの瞳を、フィオロもまっすぐに見返した。
怯えにも近い眼差しは、その中に映る自分そのものだった。
今まで自分は、エイメールのことを恐れてきていたのだと思う。
自分が味方をしてあげられなかったばかりに、取り返しのつかない失敗を背負わせてしまったと。
その負い目から顔を逸らすために、彼女に対して常に従順であろうとしてきたのだ。
そのことが彼女へさらなる負担を課していたと、心のどこかで、気づいていても……
だけど、エイメールは自分を家族だと言ってくれた。
一緒にいたいと願ってくれた。
だから彼女の真の幸せを作るために、自分は今、従者の立場を捨てて指示をしなければならない。
わたしたちがともに生き残る道を、切り開いてほしいと――
「エイメール。お願いします。わたしも、あなたとともに生きたい」
エイメールの双眸が、見る見ると開かれてゆき……
「フィーロ……!」
そして。
「わ、わたしが、やります!」
エイメールが決然とうなづき、フィオロが短剣を手渡した。
「これって……!」
受け取った短剣のタペストリー情報を読み取り、エイメールは驚愕に目を見開いていた。
スフィールリアのしようとしていたことを、理解したのだ。
あんな状況で。こんなことを考えていただなんて。
それは、たしかにこの自分たちが置かれた状況を打破するための一手だったのだ。
エイメールはうなづき、術式の再構築を始めた。
「あとは、彼の戦況をなんとかしなければ……!」
集中を始めたエイメールの顔を一時見守り、フィオロは立ち上がって前へ出た。
アイバはいまだに自身の〝気〟の制御に苦しんでいるようだった。
聖剣の輝きは、今も栓が壊れたガスのように噴出したり、とたんに止まったりしている。
「アイバ・ロイヤード!!」
フィオロは大声で呼びかけた。
「集中ができていないのです! もっと一点に! きつく目を閉じて、胸と視界の中心が合致したような感覚を得るのです!」
はぁっ!? ――とアイバは、ハンマーの一撃を飛び避けながら怒った声を上げた。
「わけ分かんねー! こんな状況で目なんか閉じられっかよ!」
「あぁ……! だから、うぅ……! やらなくてもいいのです。感覚! 感覚です! イメージしてください! こう……『モニョモニョ』、からの、『グワワワァ~!』って感じで!」
「……」
彼女の後ろで、エイメールは申し訳ない気持ちで顔を伏せていた。
かつて服の繕いを手伝うと申し出た時もそうだった。
彼女は、人に教えるのが、とても苦手なのだ。
「胸の奥から、波を強めてゆくような感じで――今です! モニョグワァ~ア!」
「!」
アイバが一瞬だけ、試すように動きを止めた……ように見えた。
「……どうですか!?」
そして、恥ずかしい思いをしたとでも言う風に肩をわななかせ始めた。
彼がしていた手つきは、奇跡的なことに、フィオロのそれとまったく同型だった。
直後、牛頭のハンマーから飛びのいた。
「分っかるかああああどうですかじゃ・ねぇえええよ! テメェからは絶対に教わんねえええええええええ!!」
「で、ですかー……直感だけでそこまで扱えるならと思ったんですが……」
フィオロがかなり傷ついた風に肩を落とした。
「では、荒療治的付け焼刃ですが……!!」
気を取り直し、フィオロがハーネスから抜き取った短剣を、流れるようなアンダースローで――投げ放つ。
狙いはアイバの首筋。特殊処理済みの刀身には赤色の〝気〟が充填されている。アイバの横顔に一瞬だけ裏切られたような驚愕が走り。
担いだ聖剣を軽くひねり、短剣は弾き返された。
そして。
「!」
放出されていたアイバの〝気〟が、一気に聖剣へ向かって収束した。
「おお――りゃあ!!」
その剣を、今まさに振り下ろされてきていたハンマーに向けて逆袈裟に切り上げた――直後、ハンマーのみならず牛頭の胴体丸ごとが真っ二つになっていた。
「ウォガアアアア!?」
「よっしゃあ!」
「よし!」
「すごい!」
たしかな手応えに、三者が三様に声を湧き立たせた。
「でも、いきなりどうして」
「わたしの奏気をまねたのです。さすがは聖剣。かなり細かなところまで、わたしの〝気〟を伝導してくれたようですね」
まだ、アイバが聖剣に伝える〝気〟の『吹かし』は、だいぶ強い具合で残っていた。
「〝手本〟があれば、彼は学習できる。あとはこれを繰り返してアイバ・ロイヤードが聖剣への最適化をこなしていければ……!」
しかし。
《モード・チェンジを確認》
牛頭の断面から、再び紅色の脚がせり出していた。
〝キ・リ・リ・リ・リ・リ・リイイイイイイイイイイイイッ!!〟
《警告。反・干渉子第四波動を検知。コルニコス-カルコス半径内における虚絃入滅子励起による投影領域の無限縮退転移》
聖剣が伝えてくる〝直感〟は、この<ルナリオルヴァレイ>そのものを引きずり込んですり潰しにかけるようなものだった。
つまり、全員死ぬ。
「またかよっ!?」
《対応値を導出。限定起動。アーキテクチャー・モード。〝時間流先行〟〝強攻因果記述先頭子〟〝画一地平掃討翅〟〝時空破断〟》
「やるしかねぇってことだろう――が!」
再び一歩で蟲の元へと踏み込んで、アイバが突撃剣のような頭部を両断する。
一瞬後にすべての空間がずれ込み、万華鏡のように、幾重もの風景とアイバたちの姿が入り乱れた。
これらは幻影などではなく、ひとつひとつすべての領域において聖剣を振り下ろした結果なのだとアイバは直感で理解していた。
〝ギュリリリリリリリリリリリリ!!〟
いくつもの悲鳴とともに風景が収束してゆき、ひとつになる。
自分が無限の広さにまで希釈されていたような感覚に、アイバはしばらく目まいか放心のような状態から復帰できなかった。
《敵性体がモード・チェンジ。アーキテクチャー・モードを終了。警告。度重なる敵性体の変異と相互特性により投影領域の空間連結と意味連結に連続破断。再度警告。あなたの現在のポテンシャルによるアーキテクチャー・モードの部分強制起動の使用限度はすでに超過している。情報崩壊の恐れあり。アーキテクチャー・モード第四層の強制凍結を実行する》
「くっそ……!」
牛頭はすでに完全復活を果たしている。ふらふらと酔っ払いじみた動きでハンマーの一撃を避けながら、アイバは引きずった聖剣に問いかけた。
「無限に再生する、とか……ヘタに攻撃すっと紅いのが全殺しにかかってくる、とか……ざっけたことヌカしてんじゃ、ねぇっつの。なんか、アレをブッ倒す大技とか、ねぇのかよ――のわっ!?」
地面を転がりながら聞いた回答は、淡白なものでしかなかった。
《――ない。当該敵性体は虚次元矛盾地平に保存された擬似無限情報体の投射体であり、つまり、討伐するための方法は原則としてゼロである》
「んなっ」
《――撤退を強く推奨する。その他の手段は投射情報の流出路を完全滅却するか、この投影領域の全放棄による当該敵性体情報の意味消失以外にはあり得ない。どちらにおいても守護対象の死滅は免れない。
なおかつ、現状においてこの不完全投影領域は敵性体の虚次元矛盾地平にひもづけされており、内側からの通常領域への脱出、および外部からの干渉は不可能である。
なんらかの方法にて外部への救援要請を送信されたし。唯一の方法は、当該敵性体の情報遮断と同時に外部から脱出路の情報の上書きを行ない、脱出ののち、当該敵性体情報の流出対象である当領域を完全破棄することだけである》
「どうにもならねーってことじゃねぇのかよ、それは……!?」
ハンマーが爆裂させる地面から飛びのきながら、アイバは悲鳴にならない悲鳴を上げた。
聖剣の言っていることは無茶苦茶である。
あの敵がいる限り、逃げることもできない。
しかも敵は無限に再生する。
つまり、救援の要請など無理だ。
よしんば都合よく、だれかが仕組みでもしない限りはあり得ないような奇跡でも起きて外側に救援が駆けつけていたとしても、外部からの干渉も封じられているならどうしようもない。
ついでに、あの敵が存在する限り、この空間は破損し続けてゆく……。
アイバも、この再生領域も、耐久の限界だった。
――もはや、エイメールたちの手段に賭けるしかない。
「馬鹿女ぁ! なにかするなら、早くしやがれ!」
もはや体力の限界から常に上向いているあごをさらに突き上げて、アイバは声を、張り上げた。
◆
「……なんだこれは」
その、救援部隊であるタウセンたち。
三人の教師陣は、目の前に現れた完成直前のゲートの姿に顔を青ざめさせていた。
「時間流がメチャクチャだ。座標構成もなにもかも不確定可能性の分岐状態。しっちゃかめっちゃかだ」
「こ、このままじゃどうつないでも意味消失しちゃうよ~ん!」
ゲートの先にある風景は、次々と入れ替わり、時間が猛烈に逆戻りか加速をしたり、あるいは重複したりといった変化を繰り返している。
「まるで虫食いね。文字通り、投影領域を食い散らかしてるのがいるみたい!」
「戦っているのか。その、何者かと」
「世界樹の剣が戦ってるって杖ちゃんは言ってる。剣の周りだけは正常値を維持してるけど、それ以外はハリボテの状態。今ロイヤード君にターゲットして開いても、その瞬間にそれ以外が意味消失を起こして、四人は消えるっ!」
タウセンは舌を打った。
流れ込んだ汗ににじんだ視界の中で、すでにイガラッセが、地面へ両手をついた状態になってしまっている。
実践派ではなく、普段は研究室で理論構成に没頭するのが彼なのだから、充分すぎるほどによくやってくれたと言うしかない。
「打つ手なしか」
「――うんにゃ。そうでもない、らしい」
キャロリッシェ教師が、ついにガクリと膝を落としながらも、真剣な眼差しをタペストリー上部に浮かぶ<縫律杖>へと向けていた。
「かならずチャンスがくる。投影領域のパラレル状態が収束した瞬間なら、ゲートは……開ける! スフィールリアちゃんなら、かならずこの状況に一石投げてるはずだって、杖は、言ってる……」
「そ、そう言われてもぉ。し、正直もう限界が、うん」
「待てば、かならず…………」
キャロリッシェはすでにきつく目を閉じていた。イガラッセと合わせて、ふたりの情報処理許容量は限界を迎えつつある。
それはタウセンも似たようなものである。ふたりの分担が破綻すれば、彼にとてこれだけ高度な術をひとりで維持する余力は残っていない。
杖の言葉を信じるにしても、なんにしても、結局のところは彼女だ。
発端から発展までスフィールリアが中心にいたならば、最後の鍵まで彼女が握ることになるのだとしても、まったく、これっぽっちも不自然な気は起こらなかった。
(……起爆力か)
学院長の冗談めかした言葉に、こんな形ですがることになるとは思っておらず――タウセンは状況に似合わず深い苦笑いを漏らして、待つことを決めていた。
◆
「馬鹿女ぁ! なにかするなら、早くしやがれ!」
切迫したアイバの声が届く。
ほほに伝った汗が落ちてゆく。
実際のところ、術式の本体となるべきもっとも難しい部分は、とっくのとうにスフィールリアが完成させていた。
あとは、単調な繰り返し。中核となる術を再起動して積み重ねてゆくための、その『繰り返し』に当たる単純な記述の反復だ。
最初のパターンだけはできている。これをなぞり続けて、彼女が見込んでいた値まで満たすことができれば。
できる。
作れる。自分にも。
まるでスフィールリアが後ろから手を取って順序を示してくれているみたいに感じられた。
それほどに丁寧な作りをしていたのだ。外国語の直訳にも似ている。手馴れた術者なら省略かアレンジでもしていそうに思える記述も、飛ばさず、略さず、回りくどいほどに積み重ねてあった。
もしかしたら、彼女自身が万が一にでも倒れてしまった時、自分にこの術を託すつもりであったかもしれない。
こんな自分に。いや、それどころか――
エイメールはかぶりを振って集中を戻した。
「……」
だが、スフィールリアが想定していた『繰り返し』の総量は、膨大だった。
なおかつそれらを円滑に循環起動させるための記述の連結は、素人同然の彼女にとっては一歩間違えればすべてが破綻しかねない、難解な立体パズルと同じだった。
「……」
汗が、したたり落ちてゆく。
《モードチェンジを確認。警告。敵性体に異常を検知》
再び現れた紅い装甲の〝蟲〟から、アイバも得体の知れぬ悪寒を感じ取っていた。
《敵性体の情報流出路に虚弦方向の異常スピン。180秒後に敵性体の内部方向に向けて、当投影領域もろとも情報縮退が行なわれる》
「なんだと……」
聖剣の言葉に対する理解よりも先に、脳裏には、老人の顔が残した言葉がよぎっていた。
――お土産、だよ。
アイバはようやく理解した。
最初から、そのつもりだったのだ。あの〝アリ〟は、戦力ですらなかった。
絶対に死なないモンスター。暴れるほどに空間が壊れてゆく。そして、極めつけが――
冷え切った汗を飛ばしながら、アイバはあごを跳ね上げてモンスターの威容を見上げた。
「……自爆、か!」
《限定起動。アーキテクチャー・モード》
アイバは七色の輝きをまとった聖剣を構え、雄たけびを上げながら走り出した。
「間に合わ、ない……?」
戦場を見つめるフィオロが、本能からそのことを察知し、呆然とつぶやいていた。
紅かった〝蟲〟の装甲面は時間を追うごとに薄暗くなってゆき、今はほとんど真っ黒に近い色になっていた。
周囲の光をも吸い込んで、まるでこのまま、この景色がある世界丸ごとを引きずり込もうとしているかのようだった。
アイバに投げてやれる短剣のストックも尽きている。
時間そのものが、尽きようとしているのだ。
「くそ。こっちも、もう保たねぇ。……逃げろ! できるだけ遠くに!」
「無理です! 降りてくる時に渡したザイルも落ちてしまっている――」
「ごたくはいいから登るんだよ――」
「……」
切迫した声も遠く、エイメールは祈るように閉じた手の中で、必死にタペストリーの編み込みを続けていた。
短剣内部の情報構成は最終段階に到達している。
一の術を繰り返して二に。二の繰り返しを繰り返して四に。次は十六。次は二百五十六。六万五千五百三十六……。
この単純反復を重ねた最終段階で、エイメールは最後の階層を閉じる作業に手間取っていた。
自分が一度に開放できる領域が、圧倒的に足りていない。
とてつもない高さから風景を俯瞰しても、360度全部の風景を目に収めることができないのと同じだ。だからまぶたの範囲の許す限り――自分の情報領域いっぱいの許す限りの処理能力で、少しずつ情報の終端を集めて閉じてゆくしかない。
だけどその作業も、もう少し。
あと少しでこの手が届くのに。
間に合わない? そうだとしても、この手だけは離さない――!
その瞬間、自分の手に重なる温もりに驚いて、エイメールはきつく閉じていた目を見開いた。
見えたのは苦悶の表情で身を起こしているスフィールリアの姿だった。
なにかを言う前に彼女がエイメールの手を強く握り締めてきて、一気に莫大な情報領域が開かれる。
同時に背中をぐんと押されるにも似た感覚。エイメールは彼女の意図を理解して、感覚の中だけでうなづいていた。
「っ――――!!」
情報の中でスフィールリアと〝手〟がつながったと感じた――瞬間に、ふたりで情報の圧縮を押し込んでゆく!
一気に手の中の短剣の輝きが凝縮する。
刀身が七色の光そのものに変化して、ふたりの綴導術は完成した。
「やった!」
「よし!」
ふたりの歓声に驚いてフィオロが振り返る。
「――完成したのですかっ!? これを、どうすれば!」
「あとは、これを――あぅ。ダメだ眠い。なにこれぇ……フォルシイラぁ……水ぅ」
「えぇっ!?」
スフィールリアの手がぱたりと落ちる。
フィオロが驚愕の声を上げてうろたえた。
「かか、肝心な時に! どうすればいいのですかっ? フォルシイラってだれです? ぶつければいいんですか、あのモンスターに! そうですよねっ? 投げますよ、いいですね!?」
「違……フォルシイラを投げちゃらめへぇ……だからそれを、……あぁ、頭が回らな……エイメー……」
手をふらふらと泳がせて、スフィールリアの言葉はとにかく定まっていなかった。寝ぼけているのではなく、貧血だろう。
しかしエイメールは彼女の手を取って、きっぱりとうなづいていた。
短剣をフィオロに手渡して、ぶつけるほどに強い眼差しで訴えた。
「これを、彼の剣に! 今すぐ!」
虹色の刀身は、すでに形状を保てずに溶け始めていた。
「……! はい!」
フィオロは状況の是非も問わずに立ち上がり、数歩の助走で最高の投擲体勢へと移行した。
「アイバ・ロイヤード!!」
投げ放った短剣がアイバの担いだ聖剣に跳ね返り、そして、耐久の限界を迎えたかのように砕け散った。
聖剣が予言する投影世界の崩壊まで、残り三十秒を切るところだった。
《外部情報をロード》
「!」
その瞬間、聖剣から、莫大な虹色のタペストリー情報が巨鳥の翼のように噴き上がった。
「こいつは……!」
《高高度の階層型・擬似無限圧縮情報パッケージ。対象の存在情報に対して極短時間内における構造的最小限度を超える回数での縮畳圧縮を実行し、意味崩壊を起こした情報球面上の限定範囲に擬似的な無限崩壊連鎖を誘発する。最終的に対象の存在値情報は高確率で虚数方向に再構築され、存在しない実領域上に実体化した結果の処理として〝インフレーション〟の逆プロセスをたどり、『ゆらぎ』の『向こう側』へと放逐される》
アイバは聖剣の伝えてくる意味情報を直感だけで解釈した。
「――つまり、相手は死ぬ。そう言やぁいいんだよ」
《把握した》
アイバはニヤリと笑って目の前の〝蟲〟に構え直した。
《本情報パッケージの実行に当たる注意点と問題点を提起する。回避運動に専念しつつ、実領域上で6秒間の傾注を希望する》
意味情報である聖剣の〝声〟は、ひとつひとつの応答に一秒の時間も要さない。
アイバ自身が理解し、言葉を返信するのに必要とされる時間ということだ。
どの道あと一撃を加える分の時間しか残されてはいない。もはや黒色になっている〝蟲〟の脚を跳び避けながら、慎重に注意を傾ける。
《注意点。本情報パッケージの効果により相手は死ぬ。ただし、本情報パッケージ中枢構成には、もうひとつの『おまけ』が付属している》
「なに?」
残り、二十七秒。
慎重に機を見計らってゆく。
どの道、アイバの体力も、時間も、残り一合が限度だ。
《矛盾した連鎖縮畳中に生じる無意味化された対象存在情報の断片を、発動時にキャプチャーした対象存在情報からピックアップした特定情報に照らし合わせて変換し――つまり、敵性体を望む形状に変化させる。変化対象の名称設定は『ナイトメア』である》
「あの、バカ……!」
《この変換術式について、破棄を強く推奨する。理由1。当該の情報処理すべてを実行するには、あなたの存在情報の耐久度がすでに不足している。理由2。理由1と同様の根拠から、本パッケージ実行に当たりあなたの使用できる〝気〟の総量が不足しており、容量不足による術式の不発が危ぶまれる》
「……」
《――破棄を強く推奨する。あなたは敵性体の排除を最優先とし、変換術式を取り除いてコンパクト化を望むか?》
「……ひとつ、聞かせろ」
六秒経った。
残り二十四秒。
アイバは立ち止まった。
真っ黒を通り越して真っ暗闇になった〝アリ〟は、自身が内側に向けて発している『重み』で、ほとんど動けなくなっているようだった。
ここが〝アリ〟の首を切り落としにかかる、最善にして最後のポイントだった。
「アイツは最初から、お前に……俺らにこの術を託すつもりで、戦ってたんだよな?」
《破棄を推奨する》
「教えろ」
《不明。ただしロード元の情報媒体では、圧縮データの仮想保存まではできても、実行には耐久し得なかったと断定する。実行可能値は現在保持する容量のおよそ半分だが、その場合の敵性体の討伐達成確率は80パーセント減少する》
「……」
《敵性体の存在値を察知した情報作成者が、途中で作戦目標値を修正したと洞察するならば、それは100パーセント正しい判断である。そして、それがあなたを含めた部隊全体の生存を目的とする行動であったならば、あなたはその理念をも継承するべきである》
アイバは瞑目して、もう一度、スフィールリアの顔を思い浮かべた。
そして目を開き、まっすぐに眼前の〝蟲〟を見据えた。
残り、十五秒だった。
「……分かった。帰ろう」
《アーキテクチャー・モードにコードを仮登録》
輝く聖剣の〝翼〟が、ひときわ長大に伸び上がっていった。
「あれほど巨大な術を……彼女は、あんな短剣で……?」
聖剣から放出される莫大なタペストリーを見て、フィオロが呆れた風につぶやく。
しかしエイメールはかぶりを振っていた。
アイバも気がついただろう。
スフィールリアは、途中から、聖剣に託すつもりで短剣の練成を続けていたのだ。
全員が生き残るため。そして昏紅玉を持ち帰り、『ウィズダム・オブ・スロウン』を修復するために。なぜならば――
「未来を、作る力……」
「お嬢、様?」
エイメールは立ち上がり、前に進み出ていた。
それは、両親の残した言葉だった。
今ならその意味が、よく、分かる。
苦しそうに投げられるアイバの肩ごしの一瞥に、エイメールはすべてを理解し、さらに一歩を踏み込んで、うなづきを返していた。
「かまいません! 彼女もそれを望んでいます!」
視線の交錯は一瞬のこと。ウソではない。でも、彼が信じたかどうかは分からない。
それでもエイメールは、今までの情けない自分すべてを吹き飛ばすつもりで、叫び上げていた。
「『それ』を手にした人の、先の人生を形作ってゆくのが……綴導術、だからっ! 彼女が託したわたしたちの、その先に広がる未来の絵図へつなげるために! お願い、振るって――!」
残り、六秒――
「未来ね」
届いた声に背中を押されたわけではない。
しかしアイバは聖剣を振りかぶった。
〝蟲〟の内側から、純黒の波動が膨れ上がってゆく。
「そうだよ、お前は、バカやって騒いだりゲラゲラ笑ってたりしてるのが一番いいんだ……こんなシケたとこで死んで、たまるか!!」
光刃が黒色の波動を切り裂き、続いて〝蟲〟の首を両断した。
〝蟲〟が崩れ散る。
さらに切り返す手で剣を引き戻し、修復を終える直前の牛頭に振り下ろした。
《仮コード〝反創潰滅破断〟》
「オッ――!!」
牛頭の巨体が七色の輝きに変わり、多重のプリズム模様が巻き起こる。
いくつもの色と、風景と、人物とが渦巻いて、それらが一点に凝縮されてゆき――
「お――あ――――、は、らへ……った――――――」
最後にはふたつの輝きとなり、その中に映る初老の農夫と、牛の姿も、無限に収束して消えていった。
牛頭の消え去った虚空から落ちてきた白い花を、アイバは駆け寄って拾い上げた。
《敵性体の討伐見込み値を保守し得る範囲で変換術式を実行した》
「……」
なにも言わなかった。
最後の輝きの中に見た、男の姿。そして、その前に見たいくつもの風景と、男の歩んだ人生の記録。それをこの花の姿に重ねていた。
「……悪く思うなよ。これがアンタたちの、業だったってこった」
すぐに頭を切り替えて、アイバはスフィールリアたちの下へ駆け寄っていった。