(1-03)
◆
「納得がいきません! 処分を決定した人に、今すぐ会わせてください!!」
スフィールリアが意気も消沈して宿で眠りこけ始めたそのころ。
<アカデミー>教職員棟の入り口前で、ひとりの教職員に詰めかかっているフィリアルディの姿があった。
騒ぎから数時間。新入生たちはとっくのとうに寮の自室に帰り着き、落ち着ける私服に着替えて、それぞれの自由時間に入っていた。
しかしフィリアルディはいまだに入学式当時の礼服のまま。着替えのことも頭になく、まさに必死といった様子で目の前の教師に懇願している。
だが教師の態度はにべもない。なだめるような気配すら見せず、ただ厳しく、彼女に向けて首を振るだけだった。
「規則なのだ。フィリアルディ・マリンアーテ。分かりたまえ――学院規則特別禁止事項1条の226項。<アカデミー>に所属する全学徒は<アカデミー>が〝綴導術〟と定めたその全技能を、武力として<アカデミー>外部の人間に対し振るってはならない。これを破った者は今までも、例外なく厳しい措置が取られてきた。君の友人だけが特別というわけではないのだ」
「で、でも! ……わたしだって校則は少し調べました! 自身の生命の危険などを始めとし、止むを得ない場合には正当防衛としてこれの内容をしかるべき機関によって精査するって――」
ややうんざりと手を振り、封じるように教師があとを引き継いだ。
「――精査した結果、そのように判断されたのだろう。判断するまでもなかったのじゃないかね?」
「それは……」
「学院内の乱闘騒ぎまではまだいい。しかしわざわざ自分から<国立総合戦技練兵課>へと〝追い討ち〟をかけにいって、正面ホールを壊したあげくに練兵課の生徒十七名に軽症を負わせた、と。これのどこに正当防衛の要素があるというんだね。これは君の口から聴取した事実だったかと記憶しているが?」
「それは……でも、それでしたら! ホールの設備を壊したのはほとんど練兵課の人たちが武器を振り回したせいだともお話ししました! 第一スフィールリアはわたしと同じ新入生で、ああいうことが普通に起こるんだって知りませんでした! わたしたちからすれば、あの人たちは充分に得体の知れない不法侵入者で、あの子はそれで、あぶない状態だったかもしれないわたしを――!」
「ああ、はいはい、いい加減にしたまえ」
それまで教師の目にあった厳しさが消えて、次にはそれは、冷たさと呼べるものにすり変わっていた。
「君がどうしても納得できないというのなら、それはつまり君がこの<アカデミー>の理念、そして存在理由というものを理解できないということなのだろう。どうしても彼女と連帯責任を取りたいというなら、その方面でなら融通を利かせられないわけではないが――どうなんだね?」
「っ――、そ、それは」
押し黙る。
それは最後通牒でもあり、彼女のような『一般生徒』を黙らせるには最良の手でもあった。
「フィリアルディ・マリンアーテ。君の願書と内定記録も見た。――地方学部で優秀な成績を納めた君をここに送り出すため、君のご両親はずいぶんとご無理をなさったそうではないか。莫大な入学金を稼ぐために法規定の、まあ……『ぎりぎり限界まで』副業を増やし、そんな激務の合間において奨学金を申請するための数々の手続きや審査にも赴いたのだろう」
「……」
「そして、君はそんなご両親の苦労や苦心を理解できる人間だ。違うかね?」
「……違いません」
「よろしい。まだ最初の講義も受けていないのだ。他人の心配よりも自分の学業に専念したまえ」
「……はい」
「では速やかに寮に入って、寮長から寮則の――」
と促してくる教師の言葉をうなだれて聞く彼女の脇を通りすぎて、数名の教師につき添われ、見覚えのある女性が建物へと入ってゆく姿が見えた。
女性は少しだけ訝かるような視線をこちらに投げ、対応する教師がいることを確認してか、ついと目を逸らして教職員棟の入り口へと姿を消してゆく。
その足音に向かって、顔を上げかけたところで、機先を制するように教師の声がかけられた。
「――あー、なんだ。学院長に直談判などということは、」
「いたしませんわよね?」
「え……」
二重に出鼻を挫かれて振り返ると、そこには、先刻自分を助けてくれた金髪の少女が立っていた。
彼女も今は礼服を脱ぎ、白のフリルをふんだんにあしらったドレスに着替えている。こうして日傘を差して佇んでいる姿を見ると、本当に貴族然とした少女だと思えた。
「君は?」
その彼女に教師が簡単な誰何を投げ、アリーゼルも特に取り乱すことなく、ちょい、と優雅なしぐさで片方のスカートを持ち上げて見せた。
「アリーゼル・フォア・フィルディーマイリーズでございます。ご機嫌うるわしゅうございますわ、教頭先生」
「ああ、君か――フィルディーマイリーズ家秘蔵の末っ子というのは。会うのは初めてだね。いや。先日は君のお父君とも、学院運営への寄付金に関することの食事会で大変、いろいろなお気遣いをいただいたばかりでね」
「存じ上げておりますわ。そのことでも父からも、学院長と教頭先生には改めてご挨拶をしておくようにと託っておりましたものですから」
「それは恐縮の至りというものだ。本来ならばこちらから改めて出向くのが筋だと思っていたのだが、いやはや恐れ入る。学院長ならばつい今しがた戻られたところでね、君がくると分かっていたならお引き留めしておくのだったよ」
「いいえ。それでしたらちょうどすぐそこでご挨拶の時間を頂きましたので問題ありませんわ」
「そうだったのかね?」
と、ここまで会話を交わしたくだりになって、教頭の機嫌は完全に上昇方向に持ち直しているようだった。
教職員棟に戻る手前の学院長と挨拶が済んでいたのなら、ではアリーゼルはなぜ、用の済んだはずの教職員棟に? という無言の疑問符を浮かべた彼にアリーゼルはにこりと微笑みかけ、すぐ隣にいるフィリアルディの肩を持った。
「実はこのあと彼女とお茶会をご一緒する約束がありましたの。学院長と挨拶をしている折に、こちらに彼女の姿を見かけましたものですから。ねぇ?」
「え?」
まったく覚えのない約束にフィリアルディが目を丸くしている間にも、教頭が「そうだったのか」とうなずき、アリーゼルが「そうなんですの」なんてうなずき返している。
「そういうことですので、わたくしたちはこれでお暇させていただきたく存じます。教頭先生も、激務お疲れ様です。ご自愛なさってくださいね」
「ああ。君たちも体調管理には気をつけるように。期待しているよ」
などと定型句のやり取りも手短に、フィリアルディの手を引き、アリーゼルは速やかにその場をあとにした。
「……あの、」
いくつか角を曲がり、教職員棟が見えなくなったところで、ようやくフィリアルディはおずおずと声を出した。
「自己紹介、まだでしたわね。アリーゼル・フォア・フィルディーマイリーズ、ですわ。よろしければ以後お見知りおきを?」
「えっ、あ――フィリアルディ。フィリアルディ・マリンアーテ……です。ごめんなさい、名前も教えていなかったなんて」
「構いませんわよ。お互い様ですし」
とここで、アリーゼルは引いていたフィリアルディの手を離した。
学院内にいくつも存在する運動場、実技演習場……それらのグラウンドを囲ったまばらな雑木林の道を、ふたり。当てもなくゆったりと歩いてゆく。
「あの。二度も助けてくれて、ありがとう」
「二度ではなくて、これで一度目ですけれどね。とはいっても別に恩に着せようと思ったわけでもなし。なんでしたら本当にお茶会を開いてしまってもよろしいですわ。この辺りのカフェは詳しくないけれど、自宅に戻ればふさわしい茶葉なんていくらでもありますのよ?」
振り返って茶目っ気ありげに笑いかけてくるのは、彼女なりの照れ隠しだったのかもしれない。
「ええっと、貴族……様、なんですよね?」
しかし、今度はつまらなさそうに眉を寄せるだけだった。薄青に縁取った日傘を、くるくると回し、
「ですわ。ですけどそれはあくまでわたくしの家名がそうというだけの話であって、わたくし自身の価値が尊く、高貴なものであるという証にはなりませんわ。ディングレイズ王家に使える序列七位の公爵家としての我が家を維持しているのは父上と母上ですし、王宮や、各地にてその実績と名声の蓄積に貢献しているのは兄上や姉上たち。……まだなにかしらの実績も残していない末子であるわたくしが、だれかから無条件に敬われる言われはございませんことよ」
「……ええっと?」
「要するに、敬語なんてお使いにならなくてけっこうですわ。ということです」
傘をぴたりと止めて顔半分だけ振り返った彼女の顔は、今度こそ赤らんでいた。やっぱり照れているみたいだった。
「じゃあ、普通に接することにするね」
「ええ、ぜひそうなさってくださいませね」
くすりと笑って宣言すると、アリーゼルも素直に笑って答えてくれた。こうして見ると、ずいぶんと幼くも見えるから不思議である。
アリーゼルは日傘を折りたたんだ。ちょうど差しかかっていたベンチに腰を降ろして、フィリアルディも隣に座るのを待つと、ぽつり、つぶやいたのだった。
「それに、フィリアルディさんの方が年上のはずですからね。わたくしも家柄とは無関係にあなた方と同じく、一般生徒として入学した身ですもの。当然ですわ」
「えっ? どうして?」
驚いて聞くと、アリーゼルは特に引っかかりを覚えた様子もなくすらすらと答え始めた。それは入学初期には必ず聞かれるものと思い、彼女があらかじめ頭に思い浮かべていたことだったからなのだが。
「代々の慣わし……というほどたしかなものではありませんけれど。わたくしの家では<アカデミー>に入学する際は、だいたいそういうことにしていますの。世界の様相を正しく導く綴導術師として真の技量と心を身につけるため、家柄という〝言い訳〟を捨てますの。」
「……」
と語ってから、アリーゼル。空いた方の手をぱっと広げ、別の言い方をしてきた。
「なんて大仰なこと言いましたけど、実際は、『フィルディーマイリーズ家なのだから普通にのし上がれて当然だ』という意味合いの方が本当なのですけどね。
それに、真に一から学院内における学業成績と研究成果を収めることができれば、平民・貴族の出自なんて関係ありませんもの。わたくしの場合はどちらかというと、家の決まりごとではなくてこの理念の方にこそ心傾けてそうしたのだ、と言うことにしていますわ。
……ただでさえ高等教育を飛び越して入学することになったんですもの。親や家の威光であるとささやかれ続けるのが、嫌だっただけなのかもしれませんが」
「立派、なのね」
「そうでもありません。これはあなたが思っているよりも、もう少し〝切実な〟問題なのです」
「?」
「じきに分かりますわよ」
ちょっと疲れた風に息をつき、アリーゼルは春風が雲を運ぶ空を見上げ始めた。
「そういうわけですから、あのびっくり人間さんにも期待しているんですけれどね……」
「スフィールリア……」
「そういうお名前だったんですの?」
「あっ、うん――先生に事情を話したり、いろいろしている間に聞いたから……でも」
フィリアルディは顔をうつむかせる。
「あんなに一生懸命になって助けてくれたのに、わたし」
「まあ一生懸命が有り余って、余波の方が大きかったような気がしますけれど」
「う、うん」
「まあ、打てる手は打っておきましたわ」
「え?」
すっと立ち上がると同時、それが同一の動作であるかのように傘も開いている。しなやかな手つきで日傘の骨を肩にかけ、アリーゼルはひとり立ち去る気配を見せていた。
「だから、あとはまあ、あの子次第。あなたが気に病むことはありませんわ。それが伝えたかったんですの。もう夕方ですし、お互い、帰った方がよろしくてよ。お休みなさいませ。また始業後にお会いしましょう」
◆
「……以上が明日の式の日程になりますね。まあリーデンコーラル家の意向通り、ご息女を新入生挨拶の筆頭にしておきましたので、進行自体はつつがないかと」
「分かりました」
翌日の日程のひとしきりを教師が告げ終わるころと同時に、フォマウセン・ロウ・アーデンハイト学院長は自室の席についていた。
薄紫に染めた白髪を肩口手前にカールし、飾り鎖を垂らしたメガネのよく似合う女性である。ふくよかな体格に、飾りすぎない正装をまとい、理知的な空気をかもし出している。
が、隙のない雰囲気を維持するのは生徒や貴賓の前だけで充分である。外したメガネをデスクの脇に置き、しわの間に溜まった疲労をこすり落とすかのように、目じりを揉みしだいた。
「さすがにこの時期ばかりは疲れますね。気をもむ機会ばかりが増えて、時間も心労も持ち出し一方とくるのだから」
「王城警備も物々しくなりますからね。国王も御礼賛されますし、かといって生徒たちに表立った活動の自粛を促すとなっても、一筋縄でいくような者たちでもありませんし」
「それでこそ当<アカデミー>が<アカデミー>たる所以というものです。たかだか王侯貴族を前にしたくらいでその志向性・活動性が損なわれているようでは我々が教職の鞭を取る意味もなくなるというもの。王宮の気難し屋たちの相手はわたしたちがすればよろしいこと。くれぐれも彼らの自主性を損なうことがなきように。頼みましたよ、ミスター・タウセン?」
名前つきで念を押された教師、タウセン・マックヴェルはイエスともノーとも言わず、肩をすくめるだけして答えた。
「えー、それで? 入り口で教頭先生相手に頑張っていたのが、例の?」
「はい。フィリアルディ・マリンアーテ。と言いましても事情の聴取は完了して、彼女自身の素行にもまったく問題ありませんでしたので。お咎めはなし、ということにしてあったはずなのですが」
「ですが?」
「……『もうひとり』の処遇について意見があったようですね」
「ああ――例の、しょっぱなから放校処分になったという子ですね。どれ、先に報告書類を見ておきましょうか」
「差し出がましいようですが。学院長がお気に留めるような事例ではないかと。こういったことは、毎年あることですし」
と面倒ごとがごめんなタウセンがそれでも一応はファイルを渡しながら言うと、学院長はあからさまに目をむいて、さも心外だと言う風に口を開いた。
「毎年? 毎年もあることでは、ありません。えーと、どれ? 入学初日に特禁事項への抵触行為を働き? お隣の<国立総合戦技練兵課>の訓練兵十七名をタコ殴りにしたあげくにあそこの戦技教官一名にまで手傷を負わせ? ホール施設および調度品を……三割破損…………して、退学処分になるような子、ですよ。そんな子供は、ここ二十年ほどは現れませんでしたが?」
「……だからこその、放校処分なんでしょう。巻き込まれた中に貴族出身者がいないのが幸いでした。おかげで騒ぎが明るみになる前に処理を完遂できるでしょう。<国立総合戦技練兵課>の修繕費に関しては特別予算を組んでも?」
「ええ、構いません」
「では、この件は終了ということで」
学院長が手の中にもてあそぶ報告書類をやんわりと取り上げようとして、しかしスイっと避けられる。
「一応、最後まで読みますから?」
「学院長」
物言いたげなタウセンにもきっぱり片手を差し出して、学院長は書類を再度めくり始めた。
「フィルディーマイリーズ家のお嬢様にああも言われれば、気に留めないわけにもいかないでしょう。彼女の家には毎年、無視できない額の膨大な寄付金と、値段では推し量れない後ろ盾をいただいているのです」
なにより、有望株筆頭の生徒ですからね? ――というダメ押しの言葉に、タウセンは小さな頭痛を覚えて目頭を押さえた。
学院長とは行動をともにしていたのだから、当然ながら彼も、彼女との挨拶には立ち会っていたのだ。
その短い会合の折に、アリーゼルは学院長に今日に起こった事件の簡単な触りを聞かせ、次に、こう言ったのである。
――その生徒さんを調べたら、なにかしら面白いものでも出てくるのではないでしょうか?
――なにせ入学時点で〝綴導術〟を習得している女の子ですから。背後関係になにもない方がおかしいのでは……ありませんか?
その時、タウセンは――これは毎年働くかなり精度の高いセンサーなのだが――非常に嫌な予感を覚えたのである。
これがあった時はたいがい今後において生徒に関する面倒ごとが起こる。そして、その面倒ごとの〝面倒〟は、自分に回されてくることになるのだ――
「えーと、どれ……当該の生徒は新入生であるにも関わらず〝綴導術〟を行使し……ここまでは聞きましたが、なになに……<国戦課>生支給のプロテクト・アーマーを触れただけで破損……物質分解ですか? それも予備装置や工房結界の助力なしに? 報告書に書いてないということは、周辺環境への余波汚染もまったくなかったということかしらね? どうやったのかしら。これを見ていた教師クラスはいないのですか?」
「報告はありませんね」
「なるほど新入生としては破格どころでない技量の持ち主ですね。これほどの実力を我流で身につけられるわけもなし、よほど高名な術士が背後にいることも察せずに、わたしの耳にもそのことを一切通さずに単なる特禁事例として処理を進めようとしていたとは……嘆かわしい。あっ。ミスター・タウセン。今、舌出しませんでしたか?」
「いえ?」
「まあいいでしょう。しかし、となると、それほどの術者とその生徒の名前を、よりによってわたしが知らないということはないはず……この子の名前は? どういった経路から<アカデミー>に?」
「わたしも詳しくは存じませんが、どうやらその生徒は〝しかるべき資格を得た後見人〟の証明によって、入学試験はパスしていたようですね。入学金・入学支度金についても経理部から特に横槍がなかったところを見ると、問題なく支払われていたのじゃないですかね。名前は……本人の願書が。後ろの方に」
「ふむ、やはり優秀ということですね。どれ? あらとっても可愛らしい子。名前は、スフィールリア…………アーテル………………ロ、ウン…………?」
「学院、長?」
すらすらと書類を読み進めていった学院長。やがてスフィールリアの簡易経歴に差しかかり……その顔から、さっと血の気が引いていった。
「アーテル……ロ、ウ、ン……」
「お顔が、真っ青ですが」
「……ミスター・タウセン」
「はい」
「あなたは、わたしの〝旧姓〟を知っていますよね?」
書類を握りつぶした学院長の手は、なおブルブルと震えていた。
「あー、学院長の旧姓は、たしか……アーテル……」
たらりと冷や汗ひとつ流れるのを待ってから。
「ロウン……?」
顔を向けると、学院長と目が合った。
ダムッ!! と書類を握りつぶしたままの拳をデスクに叩きつけ、学院長は憤怒にも似た形相で次なる言葉を発していた。
「この子の経歴と入学経路をすべて、細大余さず洗い出しなさい……それと現在宿泊している宿っていうか現在位置! 今すぐ! 最優先!!」
◆
王都全域に強い影響力を持つ<アカデミー>調査機関が、学院長直々の命令によってスフィールリアの滞在する宿を特定するのは造作もないことだった。当日の夕暮れには<アカデミー>の追跡要員が差し向けられることとなり……。
そして、翌日。貴族出身枠の新入生の、入学式日程を終えた昼下がりである。
コン、コン――
「お入りなさい」
「えーっと、あー、失礼しまー……す」
スフィールリアは呼び出されるままに、学院理事長執務室の扉をくぐっていた。
足取りもぎこちなく室内を進めば、正面の執務机には、入学式の際にも見た、才気溢れる学院長の姿がある。
彼女の机の三歩ほど手前の壁際には、ハーフリムタイプのメガネをかけた男性教師が控えていて、スフィールリアに顔を向けることもせず、ただ横目だけで無遠慮な眼差しをぶつけてきていた。
それほど長くない茶髪をきれいに中分けしていて、高身長で背筋もぴしっとまっすぐしている。美形なのだが、なんだか融通も利かなさそうだし、神経質そうな先生だな……という印象だった。
「……」
部屋そのものは、国王も訪れることすらあるという教職員棟の清掃のおばちゃんから聞かされた噂(学院長室の場所を尋ねたついでに、教えてもらったのだ)でスフィールリアをビビらせたにしては、質素……というか、〝普通〟な感じである。
広さは一般的な民家の居間ていど。中央の一番奥に、大きな窓を背負って学院長の執務机。両端の壁側には重厚な黒塗りが光る木彫り調度の棚と、同じくらい立派な造りのドアがそれぞれ。
男性教師が立っている右側の棚は、主に分厚い本で埋め尽くされ、扉には応接室と書かれたプレートがかけられている。左側の棚は写真の入った写真立てや、いろいろなサイズの木箱、紙箱、金細工の飾り天秤……。
もっと表彰状だとかトロフィーだとか勲章だとかそんな感じのようなもので学校の権威をビシバシと訴えてくるものだと思っていたので、なんだか意外だった。こちら側の扉にはプレートがかかっておらず、ひょっとしたら私室的な部屋なのかもしれない。
総合して、普通な印象だった。いや、立派は立派だし、彼女などが出てきた家に比べれば大宮殿にも等しいほどなのだが、まあそこは前情報の大仰さとのギャップということだ。
「ようこそいらっしゃいましたね。さあ、遠慮せず、お座りなさい。わたしも座ったまま失礼するわ」
「え……あ、はい。失礼、します」
言われるまま、執務机に対面して置かれた椅子に座り込む。椅子も隣の部屋かどこからか持ってきたのか、簡易の折りたたみ椅子などではなく、繊細な彫刻が施された立派な代物だった。背もたれにもふんだんにクッションが使われていて、ものすごく座り心地がいい。
それでもまったく居心地がよくならなかったのは、薦めてくる学院長の目が、少しも笑っていなかったからだと思う。声音は穏やかなのに、机の上に組んだ指で口元を隠し、底知れぬ光をたたえた眼力でこちらを射抜いているのだ。
かてて加えて、右側にいる先生。
入室した瞬間からそれはもう身体中、全身くまなくジロジロと見られているのだが、それでもまったくいやらしい視線にさらされているという気持ちにならない。
値踏みされているというよりは、『この爆発物を解体したいのだが、まずどこから手をつければいいか、そしてどういったリスクがあるのかを把握したいな』という感じの目つきだった。
考えて見れば、乱闘騒ぎを起こして退学処分を言い渡された翌日の呼び出しである。
さすがのスフィールリアも緊張してきた。
「スフィールリア・アーテルロウン?」
「あ、はいっ。そうです」
不意に名前を呼ばれ、びくっと居住まいを正してスフィールリアは肯定した。
「似てない……」
「え?」
これまた不意打ちでなんのことだかさっぱり分からないつぶやきが漏れる。
しかし横目で盗み見れば、男性教師も今のひと言で明らかに緊張したようで、ほほに一筋の汗をたらしている。
これはなんだかいよいよヤバいな、と胸中へこみ上げてくる不安に身体をもじもじさせていると、学院長。次にまったく関係のなさそうなことを聞いてきた。
「本当は昨日の内に会いたかったのだけど、宿を留守にしていたそうね?」
「へっ? あはい! その、ちょっと――飲んだくれてまして」
ばつ悪く頭をかいて白状する。
その通り。スフィールリアはあのあと夕方ごろに目を覚ますと、その足でまっすぐ酒場に向かったのだった。本当はこの街の情報収集をするつもりだったのだけど実のところ途中からは酒を浴びすぎてさっぱり記憶が抜け落ちている。
こうなった時の自分はまず正確に道のりを歩ける状態にないはずなのだが、次に気がつけば朝で、ちゃんと自分のベッドで眠っていた。
途中で意気投合でもしただれかが送り届けてくれたのかもしれないが、まあともかく、部屋の入り口脇の簡易机の上に、宿の主人が<アカデミー>スタッフより預かった言伝を置いておいてくれたのを見つけたのだった。
「感心しませんね。未成年の、それもあなたのような可愛らしい女子が、ひとりで酒場に足を向けて深夜まで酔いつぶれるなんて。今回は知り合いだったようなのでよかったですが、相手が見知らぬ男だったらどうするのです。どんな時でも自暴自棄になってはいけませんよ?」
「す、すんません」
と頭を下げてから、「ん?」と疑問が頭をよぎる。知り合いって、だれのことだろうか。というかもしかして、監視されていた……?
ちょっと怖い想像をしてしまい、慌てて記憶を探ろうと頭を巡らし始めたところで、また、学院長が不意打ちで質問を投げてきた。
「で、あなたのお師匠様って、ヴィルグマイン・アーテルロウン?」
「へっっ? あ、はいっ、そうですっ」
ガタン――!
学院長がすごい音を立てながら机にヘッドバットをかまし、スフィールリアと男性教師が『ビクゥッ』と肩を縮こまらせた。
次に教師が、恐る恐るといった様子で、
「あ、あの、学院長。ヴィルグマインという名前はわたしも聞いたことがあります。で、まさかアーテルロウンということは、彼女はあなたの……?」
「……生き別れたわたしの子供、などではありませんよ」
「あ、そうなんですか、てっきり」
顔を起こした学院長。盛大に額を打ちつけた衝撃で外れたメガネを、震えた手つきで元に戻しつつ、あくまで平静を装った様子で声を絞り出した。
「ヴィルグマイン・アーテルロウンは、わたしの〝兄弟子〟に当たる男です」
「ええっそうなんですかぁ!? あのロクデナシの!?」
素っ頓狂な声を出した瞬間ギロリと目を向けられ、スフィールリアはまた身をすくめて硬直した。
一方の学院長。かけたメガネをまた外し、相変わらず震えた指でフレームをもてあそびながら、
「そ、そう……ふぅん、ロクデナシ、ね。ロクデナシ……ふ、ふふ……で、でもまだ、それだけでは〝彼〟を形容するにこと足りているとは、と、とは、い、言えない……あの男が、あの男が弟子を取るだなどと、うふふ。冗談もほどほどにしてもらわなければ困る」
うふふ、ともう一度笑う、学院長。
なにやら自分に言い聞かせている風でもある。しかし指先の震えは強くなるばかりだった。
「あのー、なにがマズいのか知らないですけど、ヴィルグマインはたしかにあたしの師匠ですよ?」
おずおずと挙手して言うと、学院長は〝くわっ〟と目を引ん剥いて机に乗り出してきた!
「あの人が弟子とか取るわけないでしょ! あの男にだれかの面倒見させるとか不可能ですっ!」
「うぇっ? でででも弟子ですし! それに面倒なんて見られてません。稼ぎも全部自分でやってました!」
「道理は通っています! では人違いだったとか!!」
「え? ほええっ? だれと!? えっと銀髪ぼーぼーの野生動物みたいなヤツです!」
「けっこう! もしくは若気の至りとか!!」
「あ、あたしまだ処女ですっっ!」
「ある真夏の日の夜に見た夢だったということはっ!?」
「すんませんもうわけ分かんないです!」
椅子の背もたれいっぱいまで後退し、スフィールリアは両手を上げて降参の意を示した。
「学院長、落ち着いてください生徒の前です」
「ふ、ふむ? よ、よろしい……」
なにがよろしいのかはさっぱり分からなかったものの、ゼェー、ゼェー、と息を荒げていた学院長も、椅子へと戻ってフレームをいじる手を再開している。まだ納得してくれていないらしい。
「学院長? ですが本当に、あのヴィルグマインなのですか? あの伝説の綴導術士の弟子? この子供がですか?」
「まだそうと決まったわけではありませんっ。軽はずみな発言は慎むようにミスター・タウセン!」
「あ、あのー。あの人、そんなに有名人なんですか? 悪名が伝説級とか……?」
「うぐっ! な、なんという迫真の演技……入念かつ繊細な事前情報……!」
余裕を演じる作り笑いのままで硬直する学院長。しかし脂汗がいっぱいで、どこも余裕めかせられてなんかいない。
「演技っていうか……小さいころから一緒だったし」
もう帰りたい……という気持ち目いっぱいに男性教師の方に顔を向けると、事情を知らないこちらの『事情』を察してくれたのか、彼は嘆息して口を開いた。
「ヴィルグマイン……アーテルロウン。言うまでもないだろうが、綴導術士だ。彼が伝説と言われているのは別に悪名が高いとかそういうわけではない。純粋にその類稀なる実力を称えての称号だ」
「は、はあ。まあ腕がたしかなのは分かります……あたしは師匠以外の人を知りませんけど、あれはなにかと比べなくても完成したものなんだなって分かりますしね」
ぴたり、と学院長の指が止まった。
「む、そうか。まあともかく伝説というのは、こうだ。彼はその類稀なる実力で幾多の王国の問題を片づけ、数多の有力者から〝お召し術士〟の誘いを受けるのだが、そのどれにもなびくことなくまたいずこかへと放浪の旅に出る」
「根無し草ですからね、それこそ根本的に。あの人をひとつの場所に引き止めておきたいなら焼いてすりつぶして灰にして七つの箱に分けて別々の倉庫にしまってでもおかないと。その上で、あたしなら倉庫内は蒼型魔素硬化樹脂で満たして扉は溶接しますけどね」
ぴくり、と学院長の眉が動いた。
「? ……彼はしかしそういった自分の功績の数々を表ざたにしたがらない。むしろ自分の名を出さないことを条件にわずかばかりの期間の助力を約束するのだそうだ。自らの地位にも名声にも固執しない。そのために彼の姿は〝表〟の綴導術士たちの間ではほとんど知られず、その姿勢ゆえに、各地の王侯貴族たちからは、〝賢者〟の異名も――」
「ウソなんじゃないですか、それ? たぶん、王宮の女の人に片っ端ぱしから手ぇ出して、王様とかが表ざたにできなかったんだと思いますよ。たま~に帰ってくると、お土産話がみーーんな女の人の話ばっかりなんです。やれあの人はよかったどれあの女の尻はよかったとか、女の人と『えっち』した時の詳細を事細かに話して聞かせてくるんです。おかげで性知識だけはバッチリですよ」
ぴくん、と学院長のほほが引きつった。
「……いや、それこそウソだろう?」
「ほーんとなんですってば! あの人、無類の女たらしの、女好きなんです。久しぶりに帰ってくるとどれくらい成長したかってあたしのお尻だって触ってくるんですよ? 十四歳の時に師匠ってロリコンなんですかって聞いたらなんて言ったと思います? ――なんで女をロリとそうじゃないものに分けなきゃいけないんだ? ですって。初潮を迎えててシワクチャのばばあじゃなければ幼女も少女も聖女だろうが立派な〝オンナ〟だって。それ聞いた時、なんか『ああ、なるほどなぁ』って納得しちゃって」
「納得しちゃったのか」