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(1-28)


「おっ……メシ。人。メ、メシ。ヒト」


 十数メートル高はある牛頭の巨人が地面を揺らしながら走り迫ってくる。

 その圧倒的すぎる光景に、女子生徒の全身が完全に硬直する。

 はるか頭上から両手にした結晶の斧が振り下ろされて――


「ッ――!」


 割り込んだ聖騎士が肉厚の剣を振り上げて、結晶の斧と衝突した。

 爆弾でも炸裂させたような音。足元へ衝撃が伝播する。


「ぬあぁッ!」


 騎士が剣にまとわせた青い光を爆発的に高める。足元の地面を砕きながら斧を弾き返す。ころには、牛頭の後方へさらにふたりの騎士が回り込んで抜剣を完了していた。


「三点包囲!」

「セット!」

「動きを! 合わせます!」


 正面騎士の肩越しの合図で彼女は我に返り、自分の役割を思い出した。


「は、はいっ。いきます! ――地封弾、クラスB、三発!」


 みっつあるカートリッジへそれぞれ対応する試験管をセットし、すかさず構えた短銃の引き金を三回。

 圧縮ガスで射出した薬液注入弾が牛頭の足元で弾けて、牛頭の挙動が軋るように鈍った。


「お……おっ……!」

「情報構成が壊れていく……こんなに早く? ……あ、あと十秒くらい、です!」

「――上等! です!」


 瞬間に騎士たちの身が沈んで、次には弾丸のように飛び出していた。

 ひとりが腕を斬りつけ、ひとりが胴を薙ぎまたひとりが大腿部の大半をこそぎ取ってゆく。


「おっ――オガッ――オッ――」


 残像の線しか見えない圧倒的な連撃。

 無限に狭まってゆく三角形の結界だった。


「ォ、」


 十秒後。牛頭の巨人は一辺が一センチメートルにも満たない小さな細切れの破片となり果てていた。その劣化情報の、仮初の整合を維持できずに……

 ザラ――と、粒子になって崩れ散っていった。

 煙のように広がった粒子も、破損して本来は実領域上に投影できない情報として消えうせる。


「……すっごい…………!」

「ありがとうございました。劣化チェックをお願いしたいのですが」


 なんということもない作業を終えた風に騎士たちが歩み寄ってくる。

 見とれるみたいにして固まっていた少女は、また慌てて鞄から透明のボードを取り出した。


「へっ? あ――あはい、今! 今すぐ! すみません、遅くて、すみませんっ」

「充分助かっていますよ。自信を持って。そのままでいい。フォローは自分たちがしますので」

「い、いえ。ありがとうございます、そのぅ……か、格好良かった、です」


 腕を上げさせ、一回転してもらい、三人分の鎧と剣にチェックを宛て終えてOKのサインを送ると、騎士たちは礼を告げて次のローテーション場所へと歩み出していった。


「女学生にかっこいいって言われちゃった!」「馬鹿俺だ俺」「俺は隊長一筋~」


 ……なんて小突き合いのやり取りを残しながら。

 くすりと笑い、次に気を引き締め、少女は自分の周囲を見回した。

〝霧〟にかすんだそこかしこの風景からいくつもの金属音、炸裂音と地響き、そして連携のためのチーム内でのかけ声が聞こえてくる。


「スマッシュ・ブレイド、セット! 十秒!」

「了解。稼ぐぞ新兵!」

「二十秒後に範囲付与いきます! 装甲強化、半径二十! 入れる人はこちらへ!」

「ありがたい――」


 作戦が始まっていた。

<ロゥグバルド国立監視公園>への進攻を開始した<薔薇の庭>聖騎士団と<アカデミー>綴導術士(ていどうじゅつし)の混成部隊は、ゲート処理班である教師陣と一部の補佐役の生徒たちを中核に、ほとんど滞りない速度で歩を進めていっている。

 物資もギリギリの一日分しか用意してはいない。

 目標への到達を最優先に。

 目的を完遂して即座に離脱する――

 ここは『本隊』が出会う端から〝霧の魔獣〟を屠って進んでいったあとの、しんがりの部隊だ。本隊が前方へと集中するために。物音を聞きつけてやってくる後続の牛頭たちによる、挟撃を防ぐための。

 地面に穿たれた戦闘痕は、本隊が残していったものの方が圧倒的に巨大で、多い。


「本隊との距離が開いてる! 信号弾を!」

「ダメだダメだ、弱音じゃなくてガッツを届けろ! これくらい編成直して余裕で追いつくんだよ!」

「言っとくが学院生には毛ほどの傷も負わせるなよ! タルむな、ルーキーどもぉ!」


 彼女は激しく踊る動悸の感触に高揚しながら、実感をかみ締めていた。

 これが本場の空気。

 これが、本場の速度。

 これが――〝本物〟との距離。

 自分もいつか超上級の採集地へとおもむけば、こんな光景が当たり前になる。本隊の現状はきっとこんなものではない。自分はどこまでやれる?

 ごくり、と喉を鳴らすと同時にうなづいて――


「負傷者三名! 処置を、どなたか!」

「はいっ、わたしが! 今向かいます――!」


 少女は手を挙げきっぱりした声で宣言をし、駆け出しながら鞄の中の救急キットを探り当てた。




 その――ゲート処理本隊陣営。


「でかいな」


 ズシン、と。

 大地を揺らして現れたニ十メートル高の〝霧の魔獣〟を見上げて、タウセン・マックヴェルは淡白に感想を口にした。

 イガラッセ・ミュッヘルクェイン教師も、しきりとハンカチで汗を拭いながら隣へと並んでくる。


「す、すごいねぇ。わたしあんまし、せ、戦闘はぁ……得意じゃないんだけども」

「同感です。しかしゲート処理のために力は温存しておきたい。ひとつ――頼みます」

「や、やれやれ。し、しかたない、よね」


 うなづいて、あっさり一歩前へ出たイガラッセ教師。

 ポケットから赤みを帯びた六面体を取り出した。紅色に発光して浮かび上がり――

 一瞬の光の軌跡を残し、『レベル10・キューブ』が炸裂した。

 ものも言わず、胴体に大穴を空けた牛頭のモンスターがうしろ向きに倒れる。

 すかさず懐から金属の棒を取り出してイガラッセが駆け寄っていった。


「さ、さてさ~て、なにか使えそうな素材は残って、いるかなっ?」


 タウセンはため息をついた。


「イガラッセ先生。危ないですよ」


 こと切れた牛頭の後方の〝霧〟から、さらにひとつ。ひと回り以上は巨大な牛頭のシルエットが滲み出してきていた。

 しかし、イガラッセ。

 そちらへチラリとだけ顔を向けると、


「うん、うん。大丈夫、大丈夫……!」


 と言って、金属の混ぜ棒でモンスターの死骸を漁る作業を再開してしまった。

 タウセンはもう一度ため息をついた。懐に手を入れつつ、


「いえ、そうではなくて――危ないですよ。そこ」

「へっ?」


 そして――タウセンの取り出した数個の黒色立方体を見て――

 数秒前の態度とまるで反転して顔を青ざめさせ――転がるように死骸から飛び降り――タウセン目がけて退避を始めて――


「あわわ――!」


『レベル20・キューブ』が解き放たれた。


「のわぁ!」


 爆音、というよりは大範囲の蒸発を思わせる轟音が上がる。煮え立つ油のプールに同量の水を投げ込んだような。破滅的なまでの蒸気音と破裂音の狂騒。

 イガラッセは後方からの猛風に吹き飛ばされて地面をごろごろと転がった。止まると、ちょうどタウセンの足元のあたりだった。

 振り返れば、もはやそこにはなにもない。

 後続のモンスターも。ついでにイガラッセが漁ろうとしていた死骸も。そこにあった地面もろとも。


「……」

「ご無事ですか」


 イガラッセはぞっとした表情のまま起き上がり……にへらっと笑った。


「こ、怖いなぁ……戦闘が苦手だなんて、う、ウソじゃない。えへへ」

「いえ――」


 そこへ少し離れた場所から「危ない!」という声がかかってふたりは顔を上げる。

 今しがた葬った牛頭の持っていた棍棒――五メートル大はある――が、大気を唸らせる回転とともに落下してきていた。

 タウセンが懐から追加の『キューブ』を取り出そうと身構える。

 しかし棍棒ははるか手前の虚空で、見えない壁に衝突したかのように弾かれていった。どこか遠くの地面に突き刺さる轟音が届く。

 ふたりの前には、いつの間にか駆け寄ってきていた聖騎士の姿。

 分厚い大盾を空へ押し出した体勢でいる彼に、タウセンは会釈をした。


「……ありがとうございます」

「いえ」


 簡素にうなづいて他班のフォローへと戻ってゆく彼を見送ってから、


「ほらね」

「いやはや」


 タウセンは肩をすくめ、イガラッセは汗を拭き、また歩を進め始める。

 タウセンはちらりとうしろを見て声をかけた。


「大丈夫かね」

「は、はい」


 フィリアルディは、自分でもあまり大丈夫そうには聞こえないなと思える返事を送った。

 特別自分から言うべきことも思いつけない。人も、扱われる技の応酬も、なにもかもが規格外すぎて……とにかく離れすぎず、なおかつ邪魔にならないようにしているので精一杯だった。


「でも、わたしも――なにか、お手伝いをしたくて」

「大規模な戦闘は初めてだろうし、一年生の君たちにそこまで期待してはいないよ。ゲート跡に着くまでは自分の身の安全だけを考えた方がいいな。君たちの役割はそちらにこそあるんだからね」

「そ、そうそう。タウセンちゃんのうしろが一番あ、安全だよ。聖騎士の人たちまで別格扱いで、もう盾役ぐらいしか、し、してこないし。ヘタに前に出ると…………うん、うん」

「でも」


 ちらりとななめ後方を見る。

 そこには戦う聖騎士たちのすぐうしろで奮闘するアリーゼルの姿があった。

 目まぐるしく変わる戦況の中で騎士たちに必要な個別の援護処置を見極め、臆することなく自分も声かけに参加し、時間もかけずに次々と手持ちのアイテムを起動していっている。


「まぁ、あれはまた別格の類だろう」

「う、うん、うん。さすがはフィルディーマイリーズ家の秘蔵っ子と言われてるだけはあ、あるね。支援慣れしてるよ。きっと小さなころから何度も危険な採集にも、ど、同行してるんだね」

「でしょうね。――だけどいいかい、マリンアーテ君。本当に大切なのは、必要な時に、自分に必要とされている力を発揮できるか否かだ。その結果が得られないのなら中途の過程においてどれだけ優秀な働きを収めたところでしようもない」

「はい……」

「今はできないことでも、いつかはできるようになる。今は己にできることだけを見据えろ。……君は、そこへたどり着くためにきたんだろう、ここに。〝彼女〟と」

「……はい!」


 フィリアルディは落としかけていた顔を上げて、はっきりとうなづいた。


「急ごう。敵性モンスターの脅威度が思いのほか高かった。スフィールリア君たちの編成と装備では、十中八九、太刀打ちできないだろう」



 スフィールリアは短剣を抜き払った。

 同時に、〝霧の魔獣〟が動き出す前に『レベル3・キューブ』を投げ放つ。

 牛頭の頭部で爆炎のような紅い光の花が咲いて巨体がかしいだ。


「オ……!」

「エイメール、走って! 逃げて!」


 しかしいったいどういうことか。かけ声とはまるで正反対に、エイメールはその場にペタンと座り込んでしまった。腰を抜かしたのか。


「……! ――きゃあ!?」


 牛頭がハンマーを振り下ろしてきていた。

 状況に愕然とする暇もなく、スフィールリアは足元へ炸裂した衝撃に飛びのいた――というより、吹き飛ばされていた。

 ごろごろと転がって顔を上げると、牛頭はエイメールではなく、こちらの方を見てきていた。


「!」

「……今、い、今の。ウマ。ウマい。メシ」

「いいじゃん! それじゃあもう一発食らっとけよ、この牛ヤロー!」


 痛む腕を鞭打つようにしならせて、もうひとつの『レベル3・キューブ』を投げつける。

 また爆光。牛頭は避けなかった。まるで効いていない。

 しかしスフィールリアはすでに次のプランを決めていた。

 弾ける紅い雷光に頭部を包まれた牛頭は、窒息してあえぐみたいに口をバクバクとさせている。だが違う。

 ――食べているのだ。『キューブ』の蒼導脈を。


「もう、一、発!」


 開いた口の中へ『レベル3・キューブ』が飛び込む。炸裂の衝撃に地面が揺れた。


「ウ、ウマ……うま……ウマアアアアアアアアッ!!」


 牛頭が咆哮し、狂った勢いでスフィールリアへの突進を開始した。


「よし!」


 短剣を構えてスフィールリアが待ち構える。


「ウマッ!」


 ハンマーが振り下ろされる前に、跳び下がる。


「ウマ! ウマァ!!」


 もう一度。もう一度――

 地面を転がり、起き上がり、また飛び跳ねて転がり……エイメールとの距離が離れてゆく。

 牛頭は標的をスフィールリアへと定めていた。

 これでいい。このまま自分を追わせて、ナイトメアの咲いている崖を攻撃させる。その間はエイメールも安全でいられる。

 そこからは賭けになる。

 落ちてきたナイトメアを拾い、一気に駆け抜けてエイメールをかっさらって逃げるのだ。

 自分と同じくらいの重さの彼女を引きずって追いつかれない保障はまったくないが、少なくとも自分たちが入ってきた道へと逃げ込んでしまえば、あの牛頭の巨体では追ってこられなくなるはず――


「わぅっ!」


 しかしもうひとつの懸案事項があった。

 いなしきれなかった衝撃に、スフィールリアの身体は地面をバウンドする。

 肺中の空気が固化したかのような猛烈な痛みと窒息感。全身の痛み。


(強化符、が……!)


 スフィールリアの身体能力を補強していた指輪が、砕け散った。

〝霧の獣〟に近づけば、ただそれだけで装備や自己情報に破損が生じる。戦士なら〝奏気術〟、綴導術師ならさまざまな術や効果付与の品で自身を保護して挑まなければならない。

 当然スフィールリアも両方の応用で自分を保護していた。だがこの牛頭は通常の〝霧の獣〟よりも周辺へもたらす影響力が強いらしかった。

 咳き込み、腕を立て、懸命に顔を上げる。すでに牛頭は目の前。スフィールリアの身体を丸ごとすっぽり覆えるほどの、ハンマーの底面が――


「――ぁうっ!?」


 打ち落とされた。

 かろうじて四つん這いから跳ねてひき肉(ミンチ)化は避けられたものの、さっきの倍には相当する衝撃に、スフィールリアは涙を漏らしながらもだえた。

 体格差がありすぎた。

 少し腕を伸ばすだけでかなりの範囲への攻撃を可能とするこの牛頭を誘導するには、こちらもそれ相応の距離を走らなければ駄目だ。

 だが、紙一重で即死は免れても、衝撃までは逃がせない。

 弾け飛んでくる土と土中に混じった石が、容赦なくスフィールリアの全身を叩き、体力を奪っていった。

 すでに身体中が痣だらけだった。身体強化ももうない。そう何撃も持ちこたえられない。

 ナイトメアが落ちてくるのと、彼女の体力が尽きるのと、どちらの方が早いのか。

 それ自体が賭けだった。


「ウマッ!」

「っ――!」


 回避の失敗と方向修正を重ね、何度目かの挑戦。

 スフィールリアは、牛頭にナイトメアの咲いている崖を叩かせることに成功した。

 しかし、まったく思っていたように身体が動かせない。予想以上に消耗してしまっていた。

 頭上からバラバラと降り積もってくる土砂と落石を避け切れなかった。


「……ぅ」


 目の前の土には一株のナイトメアが埋もれている。

 自分も身体の半分以上を埋もれさせて、スフィールリアは痺れる腕を花へと伸ばした。

 これが、自分たちには必要なんだ。帰るために。これさえ手に入れば。

 こんなところからは離れられる。フィリアルディだって助けられる。エイメールだってずっと罪の意識に苛まれなくていいし、自分だって、きっともう一度、歩き出せる――

 その希望を握り潰すかのように、大きな手が白い花を鷲づかみにした。


「おっ。ウマい花。これウマい」

 そのまま持ち上げて、ナイトメアを飲み込んでしまう。

「……!」


 そしてまた手が伸ばされてきて、スフィールリアは捕まりかけながらも『キューブ』を炸裂させ、慌てて土砂を抜け出した。




「あ、ああ……!」


 ナイトメアが飲み干されるのを見て、エイメールも思わず声を上げていた。上げてから、なぜだと疑問に気がついた。自分はあんなもの、本当はどうだってよいはずなのに。

 そして、スフィールリアだ。

 ナイトメアが駄目になってしまったにも関わらず、彼女はまだ牛頭から離れようとしていない。なぜ逃げない? 離れるだけの体力がなくなったのか?

 どうやらそうではない。両手で短剣を構え、慎重に間合いを測り、牛頭のハンマーをさっきまでと同じように避け始めている。

 いや――まったく同じというわけでもない。

 今度は遠くへ飛びのいたりはせず、むしろ牛頭にはりつこうとしているようでもある。その分だけ飛んでくる土砂の打撃も強まっているはずなのに。

 そして、牛頭の足元まで駆け寄って、その足を切りつけているのだ。

 切りつけた場所から、血液の替わりのように、なにかがぽろぽろとこぼれ出しているのが分かった。

 フラフラなはずなのに。まだ諦めていない。なにかを企んでいる。

 どうしてそこまでがんばるのだ――!?

 ちらりと目が合い、真意のひとつに気がつく。彼女は、なんとか立ち上がって逃げろとこちらに言っている。おとりのつもりなのだ。


「……っ!」


 エイメールは壁画にすがりつきながら、懸命に足腰へと力を込め始めた。

 何度も失敗しながら、生まれたての小鹿のようにガクガクと足を震わせて、少しずつ起き上がってゆく。

 これが正しい選択であるか否かを見極める余裕もない。

 急がなければならない。

 ただその思いだけがあった。

 だけど――本当に逃げていいのか? という疑問も、ずっとずっとつきまとい続けていた。

 道徳や倫理観の訴えもあったろう。

 だけど、もっと、別の。

 もっとずっと欲望に近く、熱望にも似た正体不明の希求が、エイメールの胸を動悸とともに激しく焦がし続けていた。

 ここで彼女を見捨てて本当にかまわないのか?

 なにか、なにか。

 非常に不味い気がしている。

 あの〝予感〟が、どんどんと膨れ上がってゆく。

 ここで彼女を見殺しにしたら――なにか――自分はとんでもなく大切な『なにか』を失ってしまう気がするのだ。今度こそ、一生取り戻すことはできない。


(なんなの――!?)


 確信ばかりが増してゆき、エイメールは、スフィールリアから目が離せなくなっていた。

 ふと……

 背後を振り返ったのは、単なる勘とも言えないほどの、小さな偶然にすぎなかった。

 自分たちが入ってきた崖と崖の隙間のような道。

 そこに、別の牛頭の顔があった。


「ウマそう」


 牛頭は目いっぱいに腕を突っ込んで、エイメールを捕まえようとしてきていた。




「っ…………くぅ!!」


 スフィールリアは目の前に打ち据えられたハンマーの衝撃に叩かれつつ、歯を食いしばって耐えしのいだ。


「……!」


 盾にするように押し出した短剣の刃に触れた土の中に、異質な色の物体が混じる。

 キャンディだった。ピンク色の包み紙の。

 それを見て、スフィールリアの顔に強い手応えの色が浮かんだ。


「もう……少し!」


 その時だった。

 エイメールの絶叫が響き渡ったのは。

 振り向くと、崖の隙間から伸ばされた別の牛頭の巨大な手に、エイメールが捕まっているところだった。


「エイメールっ」

「あ、それダメ。それ俺の。ダメ」


 牛頭が大量の土を蹴立てて跳び上がり、その土に埋もれかけてから、スフィールリアも駆け出した。


「ダメ。ダメ」


 牛頭はひと飛びでエイメールの前に着地すると、隙間から伸びた腕へ巨大なハンマーを容赦なく叩き降ろした。

 何度も何度も。骨格と肉がひしゃげる凄惨な音と、腕をつぶされた牛頭の絶叫が響き渡る。二者が暴れ回って崖崩れが起こり、辺りは地獄絵図のようになった。

 ほどなくエイメールをつかんでいた腕が千切れて、彼女は嗚咽を漏らしながら這いずって巨大な手を脱出した。第二の牛頭の姿も土砂に埋もれて見えなくなる。

 だが――

 もう一頭の牛頭が、エイメールを見下ろしていて――


「おしとやかなほうもウマそう」

「――」




 すべてがスローモゥになった視界と思考の中で。

 まるで虫でも叩き潰すみたいだなとエイメールは思った。人間に見下ろされる羽虫の気分というのは、こういうものなのだろうか、などと。

 非常にゆっくりと巨大な握りこぶしが降りてくる。ああこれで父や母に会えるのかと安らぎさえ覚えて――目を閉じようとして――

 それを妨害したのはスフィールリアだった。肩から突き飛ばされて、石ころだらけになった地面を転がり、痛みが広がる。この女はどうしてわたしから安寧を奪ってばかりゆくんだろう。今だって、先輩のことだって――

 だけど浮かびかけたその罵倒も消える。

 こちらを見ているスフィールリアの顔が、なぜか――笑っていたから。

 人様を突き飛ばしておいて、なぜそんなに安心した風に笑っていられるのか。でもその顔は、いつかどこかで見たことがあるような気がして。


「――」


 そして、つぶれていった。見えなくなった。

 思い直せばすべてが一瞬のできごとだった。

 見たものどこまでが正しかったのかも分からない。

 ただたしかなのは――いつの間にか目の前にスフィールリアがいたらしいこと。今はその場所が巨大なこぶしに埋め尽くされていること。

 そして恐ろしい力が加わったことが分かる地響き。濡れぞうきんを叩いたみたいな、湿った、いやな音。

 それだけだった。


「おっ……捕まえ、た。ウマいの捕まえた」


 赤く湿った土をぼたぼたと落としながらこぶしを持ち上げた牛頭は、できあがったクレーターからスフィールリアを拾い上げて、丁寧に握り締めた。

 だらりと下がった彼女の腕は、ぴくりとも動かない。

 エイメールは真っ白になった思考とともに、彼女が持ち上がってゆくのを目で追っていた。

 彼女を握るこぶしが、ぼぅ、と淡く三色に発光する。

 その瞬間、こぶしからはみ出したスフィールリアの腕や足が跳ね回るように痙攣を起こした。

 ――食っているのだ。

 ――彼女のタペストリ領域を。


「う……うまぁ……これっ、こっ、これウマアアアアアアアアッ!!」


 悲鳴もない。ただ血と肉が化学的に暴れ回っているだけというような光景に、エイメールの身体もまた自動的に反応して、胃の中のものを吐き出していた。

 そして……スフィールリアが動かなくなる。

 その上がりかけた腕が、落ちていって――


「あ――――あ、あ」


 エイメールの頭の中で、なにかが、弾けた。


「……ああああああああああああああアアアッ!!」


 立ち上がり、駆け寄り、牛頭の足を殴りつけていた。


「あああ! うああッ! うわああああああああッッ!!」


 分かったのだ。全部――今。

 スフィールリア。彼女のことがなぜあんなにも気になっていたのか。

 彼女が何者だったのか。『だれ』と重ね合わせていたのか。

 失いかけて、ようやく、あの玄関の光景と重なった。

 彼女は――両親と同じ種類の人間だったのだ!

 どうしようもないお人好し。

 自分よりも他人のことばかり見ている。自分ではなく、他人が報われるのを見て喜んでいる。

 そんなことで、いつか意地悪なだれかや運命に足元を掬われたとしても、笑ったまま――


「――離せ、離せッ、離せえええええッ!!」


 エイメールは、渾身の力で、エスレクレインから預かった法具の腕輪を叩きつけていた。

 予感は、本物だった。

 自分は、ニセモノだったのだ。

 なにが一般生と貴族生だ。そんな違いなんかない。

 見ないようにするための言いわけだった。両親が戻ってこないという事実から。

 意地汚い道具にすぎなかったのだ。収まらない憎しみをごまかすための。

 なにが――なにが両親のような術士になる、だろうか。自分は彼ら一般生のようにはならない、などと!


「この、こ、このっ――この、ぉ!」


 スフィールリアは、同志だったのだ。

 どんなに両親の高潔さを説いても結果ひとつに捉われて振り返ろうとしなかった大人たち。

 どんなに大切なことでも、どれほど求めていることでも、決して自分の声は聞き届けられない。だれも信じない。手は振りほどかれる。みなが、去ってゆく――

 その同じ悲しみを持つ者がすぐそばにいることからも、こんなにぎりぎりになるまで目を逸らして!

 心の底から嫌悪した彼らと同じものになって! それに気づきもせずに嗤い続けて!

 そんな自分は、エスレクレインから見放されて当然だったのだ。


「離せ! 離せ! 離せ、離せ、離せ、…………!」


 教わった法具の制御法もなにもない。ただ恐怖と興奮と、働かない脳内の熱を無我夢中に振りかざして。腕ごと手首を叩きつけ、開かない扉をなじるように。


「わああああああああ……!!」


 エイメールは、自分の腕をぶつけ続けた。

 牛頭は、びくともしない。

 自分が弱いせいだとエイメールは思った。真実(ほんとう)を見ようとしなかった。自分の望み(こころ)にウソをついた。

 ニセモノな自分の力を届けられるところなんて、どこにだってない。

 それでも――


「お願い、お願い、いかないで……!」


 それでも、ダメだ。

 ここでスフィールリアを見殺しにすることだけは、絶対に、ダメだ。

 そうじゃないと、自分は今度こそ『本物のニセモノ』になってしまう。


「父さん、母さん……!」


 最後に見た玄関の風景。最後まで自分を慈しんでくれていた両親の、見送った背中たち。


「先輩、フィーロ……!」


 一緒にいてくれた人たち、笑いかけてくれた人たち――

 今度こそ本当に、帰ってこなくなる。

 帰ってこられなくなる!

 自分はもうどうなったっていい。ここでスフィールリアを助けられなければ、自分は――

 彼らを想う資格さえ永久に失ってしまうだろう。

 幸せをくれたあの人たちの手を、暖かさを、今度こそ本当に振り払ってしまう――!


「――スフィールリアッッ!!」


 エイメールは最後の力で腕輪を叩きつけた。

 瞬間、法具が輝いて――


「オヴッ!?」


 牛頭が、全身の血流が逆転でもしたかのように、大きな痙攣を起こした。

 引きつった拍子にスフィールリアをつかんでいた手も開かれる。


「……! スフィールリア!」


 真っ赤な塊にしか見えない彼女が落ちてくるのを見て、エイメールは無我夢中で駆け寄って受け止めた。

 重さに耐えきれず一緒になって地面へと沈むが、エイメールは離さなかった。グシュリ、と人のものとは思えない濡れそぼった感触に全身の肌が粟立つ。

 新たに涙がこみ上げてくると同時に、悔恨と愛おしさから、彼女はスフィールリアの身体をつぶしてしまわないように抱きしめた。

 そして――すぐ目の前から届いてくる地響きに、ぎくりとして顔を上げる。


「……!」


 腕輪は、およそこの世に存在する綴導術(ていどうじゅつ)的物品のうち大半に対し有効で、記述された〝蒼導脈(あおどうみゃく)〟の活動を停止させる。エスレクレインはそう言った。その働きはこの目でも見た。

 だが牛頭への効力は一瞬きりだった。


「おっ……そっ、ソレ返して。それウマい。それ、ウマ」


 巨大なモンスターが覆いかぶせるように手を伸ばしてくる様は、威容としか言えなかった。 胸の奥からくる震えとともに涙と鼻水が溢れ出してきて、力の替わりに一斉と股間の布へ暖かいものが漏れ広がってゆく。

 それでもエイメールは必死に首を横に振り、スフィールリアを抱く力を強めた。


「おっ……! そ……そう。一緒にく、食うたべ、たべ食べる。そそ、そう。それいい」


 牛頭が、丸ごと鷲づかみにしようと手を伸ばしてくる……。


「それでよ、それ……」


 覚悟は決まっていた。エイメールは目を瞑ってスフィールリアにかぶさった。

 せめて一緒に死のう。最後の最後なこの瞬間だけは、同じ痛みを分かち合ってあげるべきだ。少しの贖罪にもならないけれど……。


「っ……!」


 そして、音が聞こえた。

 自分たちが握りつぶされるにしては、あまりにも鋭く――猛々しい轟音が。

 驚きに目を開くと、目の前で、牛頭の手の甲が串刺しにされていた。

 エイメールの背丈近くはある――

 薄汚れた白い布地から――

 漏れ出でる紅き波動をまとわせて――

 その大剣は、まるで天から撃ち落とされてきたように、〝霧の魔獣〟の手を大地へとつなぎ止めていた。

 その出所を探るように顔を上げたエイメールの視線と入れ違いに、剣と同じくらいの勢いで落ちてきたであろう男が、力任せに牛の面を殴りつけた。

 砲弾の直撃のような衝撃。巨体が引っくり返って頭から地面に衝突する。辺りに猛烈な粉塵が舞い上がった。

 噴煙が去り……。


「あ、ぅ、あ……!」


 口を、ぱくぱくとだけさせる。

 目の前に立っていた男の名前を、エイメールはなぜだか思い出せなかった。

 ただ真っ先に思い浮かんだ、別の言葉がある。

 ――勇者。

 世界樹の聖剣を携えし。世に救いの手をもたらす――

 だが、すぐにその印象も取り払われた。


「……」


 そこに立っていた男。

 アイバ・ロイヤードは、激情も凍てつき果てたと言わんばかりの冷たすぎる相貌を、ただ無言で背後のモンスターへと振り返らせたのだった。



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