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■ 6章 記憶(こころ)のありか (1-26)

「なるほど、状況は分かりました。以後の対応は学院が預かります。おふたりは下がりなさい」


<アカデミー>学院長室。

 聴取を終えたフォマウセンは咎め立てる気配も見せず、簡潔にそう告げた。

 なにかを言いかけて顔を上げたフィリアルディへ、労わりを込めた面すら向けて。


「……大変だったでしょう。休んでちょうだい」

「……」


 結局、言葉もなく顔を下げたフィリアルディの二の腕を、アリーゼルが持って退出を促した。どちらも衣服がズタボロに避け、顔と言わずそこら中に泥と擦り傷をつけた有様だった。

 静かに学院長室の戸を閉め、気も重苦しい沈黙が降りること、三秒――


「わたし……知らなかった」


 フィリアルディがすぐに耐えきれなくなって、その場の廊下にへたり込んでしまった。


「スフィールリアが、そんなに怖い想いをしながら、今まですごしてただなんて……。なのに少しも表に出さないで、こんな大変なことに力を貸してくれてただなんて……!」


 覆った両手は顔面を握りつぶすかのように閉じ込まれ、元から歪んで駄目になっていた眼鏡のフレームをよじらせていった。


「どうしてなにも言ってあげられなかったの……!」


 砕けていたレンズが食い込んで血がにじむのを見、アリーゼルはそっと手を重ねて指を解かせた。


「しかたがありませんわよ。あそこまで重度に麻痺させられていたのでは」

「……」

「……このままでは終われない。もうひとつの理由ができてしまいましたわね」


 問いかけともつかぬつぶやきに、フィリアルディは顔を伏せたままで、ひとつ。たしかに強くうなづいたのだった。




 一方の学院長室内。

 ふたりが退出してからも、フォマウセン学院長は顔の前に指を組んだ姿勢のまま。視線もやらず、執務机前に控えるタウセン・マックヴェル教師へと語りかけた。


「状況は厳しいですね?」

「まさか、〝霧の獣〟とはね……」


 タウセン教師の声も苦りきっていた。ハーフリムの内側にある厳しい表情。きつく閉じられた双眸は、そのさらに内側へと感情を押し込めようとしているようでもある。


「<ロゥグバルド>から<ルナリオルヴァレイ>へのゲートを構築しようだなどと、無謀にもほどがある」

「しかしそこまではわたしたちにも予想の範疇だったわ? あの子が状況をなんとかするには、あそこに向かうしかなかった。わたしたちもそのことを期待していた。……問題はそのあと」


 タウセンもうなづく。落ちた気とともにハーフリムのフレームを持ち上げ、先ほど回収した現地情報の一部を読み上げる。


「現在、近隣の町村にまで進出してきた〝霧の獣〟は聖庭十二騎士団の対応によって完全に駆逐できております。――情報封鎖も。近隣の避難も完了し、緊張状態ではありますが、これ以上の情報拡散は防がれるでしょう」


 肩をすくめ、注釈をつけ加える。


「……しばらくはね」


 あれから六日の期間が経過している。

 ゲートの練成に失敗したアリーゼルたちは、そこから這い出してきた無数の〝霧の獣〟に遭遇した。

 疲弊し、護衛もなく、手持ちの攻性アイテムも不足していた彼女たちになす術はなかった。麻痺したフィリアルディを引きずって、必死にここまで逃げてきたのだ。


「〝霧の獣〟ではないわ。アレは、〝霧の魔獣〟――知恵を持っている」

「はい。形状は牛頭の人型魔獣……サイズは二メートルから五メートルほど。一部は言語を操り、意図的にヒトのタペストリ素養を知覚・選択して捕食しようとする固体も確認されています。武器も扱い、聖騎士団の〝奏気術〟にも対応する能力を持つ個体も見られたそうです。……まったく未確認の新種ですよ」

「〝霧の杜〟内部には、まだ、もっと大きな固体もいるのだそうね? 今も残されたゲートから次々と生成されて、這い出してきている。とするとゲートの奥には、ひょっとしたら、まだ〝魔神〟級も残されているかもしれない――まずいわね」

「……ですが<ロゥグバルド>は元より、<ルナリオルヴァレイ>にだってそんなものが出現するなどという報告はありませんでしたよ。過去数百年間ね」

「そう」


うなづいた学院長が言外に触れたことを、タウセンも察していた。


「やはり……彼女、ですか。彼女自身を〝素材〟として取り込んだことで〝金〟の素養がゲートを変質させた、と?」

「ほかに考えられるまっとうな理由はないでしょう? だとすれば、あの子の持つ〝金〟の特性にはそれだけ危険な部分も含まれるということになる――あるいは、あの子が失った故郷。あの子自身を素材としたことで、ゲートがそこにつながったのかもしれない」

「どこだと言うんです。あんな怪物がはびこって滅んだ地の記録などというのは、どこの歴史書にだって残されてはいませんよ」

「わたしたちの知らない歴史なのよ。あの子は、そこからやってきたの。フィースミール師に連れ出されてね」

「……」


 タウセンは反論も思いつけずに閉口した。

 この世界の始祖とでも呼ぶべき存在は、魔術士たちの文明だと言われている。

 しかし、そこへ遡るまでにあるすべての歴史が明らかになっているというわけでもない。〝霧〟によって存在を根源から消し去られた文明は数多く、むしろ〝智〟の最先端にいる綴導術士たちにとってすら、半分も解明されていないと言ってよい。

 ゆえに魔術士の文明崩壊から今までにいったいどれだけの年月が経ち、どれだけの歴史が存在していたのか。それすら分かってはいない。綴導術士たちにも把握ができていない未発見の歴史など、いくらでもあるということだ。

 あるいは――


 しかしタウセンも、学院長も、それ以上に深い部分にまでは踏み込まなかった。問題は目の前にこそ山積している。

「肝心なのは、これが我々の事情からくる意図によって引き起こされたということ。迅速に手を打たなければならないわ」

〝霧〟に関するあらゆる事物は人々にとって恐怖の対象だ。

 とりわけ〝霧の獣〟はその筆頭にある。

 今までは安全であった土地に〝霧の獣〟が現れた。それだけで、局所的な情勢不安に陥ることすらある――


「このことが露見すれば『ウィズダム・オブ・スロウン』修復を図るためにあえて学院があの子たちの行動を見逃していたという事実もひもつながりで明かされてしまうわ。わたしたちはあの子の行動を監視できていた――していなければおかしいのですから」

「彼女らが〝霧の杜〟で消息を絶った……というだけならば工作も容易だったでしょうが。〝霧の獣〟なんてものが出てきてしまえば、そうもいきませんね」

「そうなれば、国際問題だけではない。保身のために呼び出さなくてもよいものを呼び出してしまったという致命的な汚点を、我々は今後恒久的に全世界へと発信し、そしてそのようなそしりを受け続けてしまうことになる」


 そういうことだった。

 本当に不幸中の幸いであったのは、メンバーの中にアリーゼルがおり――名家の秘蔵っ子としての英才教育を受けた彼女の判断の、なにもかもが迅速かつ的確であったことだ。

 彼女は脱出前の真っ先に手持ちの攻性武器を使い果たしてゲート近辺にいた〝霧の魔獣〟たちが自分たちを追跡することを防いだ。襲われそうになってすぐに一目散と背走したのではなく、自分よりも大きなフィリアルディを抱えたあの状況下にあって〝霧の魔獣〟たちを引きつけ、ゲートから後続の〝霧の魔獣〟が出現する兆候を見張った上で、それらすべてに対してもっとも効果的なタイミングを計って攻撃を行なったのだ。


 結果、彼女たちが脱出してしばらくも〝霧の魔獣〟たちは〝霧の杜〟内部をさまようこととなる。

 そして駐留する現地管理官にフィルディーマイリーズ家の名前を用いて騎士団の出動を要請、緊急連絡用の長距離通信設備が稼動した。ことはその日のうちに学院と王室の知るところとなり、彼女の名前の功もあって、即座に聖騎士団が動かされる運びとなった。

 彼らが現地へ到着するタイミングと、〝霧の魔獣〟たちが監視公園を這い出してきて近隣の町村に到達するタイミングは、非常にタイトではあったものの、間に合わせられることとなったのだ。

 タウセンは、深く長く息をついた。


「まったく……とんでもないものを引き出してくれたものです。これだから特監生というのは」


 フォマウセンは特には返答せず、タウセンへ、厳しい眼差しのままで告げる。

 タウセンも、姿勢を正して向き直った。


「幸い王室との折衝はすでにつき、第三騎士団――<薔薇の庭>の助力を得られています。わたしたちは事態が公となる前に、〝霧の杜〟内部に残された〝霧の魔獣〟と詳細不明の変性ゲートを処理し、すべてをなかったことにするしかない。そこで、あなたに指令を伝えます」

「はい」


 学院長も、うなづく。


「ひとつ。守秘義務の完全遵守が可能な信頼できる手の者を少数精鋭で集めて<薔薇の庭>とともに〝霧の杜〟へおもむき、内部に残された〝霧の魔獣〟と変性ゲートを滅却処理すること。これが絶対前提です。ふたつに、ゲートに取り込まれた四人の救助ですが」

「ええ」


 学院長は、顔色ひとつ変えず、次の条件を口にした。


「これについて、特にエイメール・トゥールス・アーシェンハスの救助を最優先とします。ゲートの状態が思わしくなかった場合――彼女を最優先にゲートから回収してください」


 タウセンはイエスともノーとも答えない。


「事態を秘密裏に処理するには、貴族生からの行方不明者が出ることだけはなんとしても防がなければなりません。最悪、死んでいたとしても、亡骸か遺品の回収だけは果たすこと。情報工作が難しくなりますから。いいわね?」

「……難しい要求ですね」


 タウセンが視線を逸らしたのも、一瞬だけだった。


「そうね? でも、やってもらうわ。……で、ここからは〝裏〟の本題」

「……ええ」

「スフィールリア・アーテルロウンの〝金〟の特性を、表へ公表するわけにはいかない」

「……」

「特に〝霧の魔獣〟に関しては、その残骸一片も残さず。だれにも持ち帰らせてはなりません。〝金〟を取り込んだゲートから現れたあれらを調べられた場合……学院が彼女という、綴導術にとって重大にして危険な異分子(アノマリー)を囲い込んで隠匿していた事実まで露見しかねない。その時、学会、政界が、どれほどの大騒ぎになることか。まるで予想がつかないわ」

「つまり、いざともなれば彼女を殺害してでも証拠を隠滅せよ、と?」


 困ったような苦笑いとともにフォマウセンは吐息をついた。


「できれば彼女も助けてあげたいわね? 本当になにごともなかったことにするのなら、全員無事が一番。そのためには変性したまま破裂したというゲートを、修復した上で安定させてあげなければならないわ? ……それも、<ロゥグバルド>という深度の浅い場所から。あの子がやってのけた力技と同等以上の技術を以ってね」

「やれやれ……」


 彼女の笑みに含まれた意味が分かっていたので、タウセンは目頭を揉みほぐす。


「もちろん、気が重いというのならあなたにも強要はしないわ? 裏仕事が専門な例の部署にも準備はさせてありますから。わたしとて、なにも特監のすべてをあなたに押しつけようなどとまでは思っていないのよ?」


 タウセンは、この要求(クエスト)受領に関する正当性について、黙考する。

 この依頼が、まず自分にとって有益であるのか否か。

 彼とて生徒へ対する愛着が皆無なわけではない。しかし綴導術士というのは自分も含めて大半が利己的な人種であるとタウセンは思っている。綴導術を、自身の力を制御するというのは、あらゆる価値を計る能力にほかならないからだ。


 その中核へ自分という絶対的基準を置くことのできない者は三流以下である。その発生由来となる座標を持たぬ力など、どれほど崇高な使命や価値観を与えられたところで、どうせ自身の及ぼす影響のサイズも見渡せないままに、膨大な範囲へ無意味な損得をばら撒くことになるだけだ。あるいは、だれも、得をしないことさえある。

 そういった者に、綴導術士としての価値はない。

 タウセンは、最後に会った彼女の顔と言葉を思い出していた。

 ――困ってる人を助けてあげるのが、綴導術士だと……思うんです。


「……」


 ――だからあたしは、学院でなくてもいい。あたしがここにいる理由をなくさないためなら。

 ――あの人があたしにそうしてくれて、今のあたしがいるんなら。

 タウセンは、ため息をついた。


(しようがない生徒だ)

「どうしますか?」


 タウセンはいたって冷静に彼女を見つめ返した。


「やりますよ。新入生にできることが、わたしにできないはずがないでしょう」

「……そうね?」


 あいづちする学院長の表情には、これといって特別な肯定や否定の色もない。

 炊きつけるだけ炊きつけてくれた上でこの反応である。彼女にややむっすりした視線を送りつつ、タウセンは執務室出口へと向かい歩み出す。


「しかしまぁ、専門外であることも考慮して、別途手当てくらいは請求させてもらいますよ。危険手当諸々もね。では手配にかかりますので、失礼いたします」



「……」


 スフィールリアは断崖の縁で、しばらく――眼下に広がる<ルナリオルヴァレイ>の風景を見つめていた。

<ルナリオルヴァレイ>――

 そこは、高山のただ中にある、断崖の街だった。

 なにか巨大な鉤爪に切り刻まれでもしたかのように、切り立った断崖が林立した、剣山のような地形をしている。

 その崖のひとつひとつに建物を築き、渡し橋でつないで街と成した。

 だが、スフィールリアの知識にある<ルナリオルヴァレイ>と、目の前に広がる地形は、どこか、食い違うところがあった。


「っ……」


 しかし感じた違和感の正体を見極めるよりも前に、冷たすぎる風が通りすぎて、すぐに上着の前を引き寄せて身をすくめた。


「荷物は…………そうだ、みんなはっ?」


 スフィールリアは自分が倒れていたあたりを振り返った。

 荷物の姿はない。ゲートの生成時には足下へ置いていたあれがないということは、同じく円陣の縁沿いにいたフィリアルディとアリーゼルも巻き込まれずに済んでいるかもしれない。

 まずはそのことがスフィールリアにほんの少しの安堵をもたらす。次に――


「……」


 荷の代わりに見つけたのは、気を失って倒れ伏したエイメールの姿だった。

 ――なんて恐ろしい。バケモノじゃないですか。


「……」


 数分前のやり取りが脳裏をよぎり、駆け寄ろうと出かけたスフィールリアの足が止まる。

 高地の浅い芝は、うつ伏した彼女の顔を埋め隠すでもなかった。その横顔には、憎しみに染まりきった先ほどまでの形相の名残も、ない。

 今度こそ駆け寄ったスフィールリアは、手をかざして外傷ほかの状態を確認した。


「存在情報は破損してない……よかった。――エイメール、目を覚まして。エイメール」


 慎重に肩を揺すると、エイメールはすぐに眉を寄せてうめき、覚醒の兆候を見せる。

 そして、うっすらとまぶたを開き、


「エイメール、大丈夫?」

「アーテ、ル、ロウン……さん…………?」


 スフィールリアへ焦点を合わせると、「ひっ!?」と引きつり声を漏らして身を翻し、彼女の手を弾き返した。


「い、いやっ――こないで!」

「……」


 ひと息で半メートルほども這って離れた彼女を落ち着かせるために、スフィールリアは自ら数歩、退いた。あとはただ顔をうつむかせる。


「こ、ここは――フィーロは!?」

「ゲートの先の投影領域、だよ。今いるのはあたしたちだけ……直前までの記憶は、ある?」


 話しかけられてまた怯えた表情を向けてくるエイメールだったが……それでも言われた通り記憶の照合を始めたようだった。

 その双眸が、見る見る焦りと驚きに見開かれてゆき――


「わたし、は。どうしてあんな――恐ろしいことを」


 混乱しきって頭を抱え始めるその姿に、スフィールリアは暗い面持ちへ確信を混ぜた。


「たぶん、ずっと、認識を歪められてたんだと思う。暗示みたいなのをかけられて、恐怖とか罪悪感とか、ごまかされてたんだよ。あたしへの苛立ちとか、ほかにもエイメールの中にある攻撃的な意識や価値観も過剰に増幅して。……全部、このために」


 だれが、とは言わなかったが、エイメールは視線に込める敵意をたしかに増やしていった。


「先輩が、わたしにそんなことするはずが」

「でも……じゃあエイメールは思い出せる? ゲートを邪魔したことも、『ウィズダム・オブ・スロウン』を壊した時のことも……その時のエイメール自身を思い出して、納得できる?」

「それ、は」

「封印保管庫とかはあたしも見たよ。どんな強力なアイテムを渡されてたのかは知らないけど、それでもあんなものが発動してる中に入ってなにかしようだなんて普通は思えない。あたしのことが嫌いだったとしても、本当に、そこまでしなくちゃいけないことだった? ――そうする理由の、エイメールの認識は、今も変わってない?」

「わた、し……は」


 エイメールは今にも再び倒れてしまいそうなほど、顔面を蒼白にしていた。胸に手を当て呆然としている様は自問の結果に驚愕しているようにも見えるが、実際はただのショック症状だったろう。呼吸も深く浅く、安定していない。

 がしかし、結局はエスレクレインへの信頼が勝ったらしい。

 そして強い眼差しで彼女を睨みつけてきて、口を開きかけたところで――その変化が起こった。


「な――なに――っ?」


 エイメールが胸元へかけていたペンダント。その貝殻型の細工が淡く輝き出し、どんどん光を強めて……


「っ――――!」


 ついに直視できないほどの光量に達すると、光はペンダントを離れ、一条の閃光となって天高くへと走り去っていった。

 数秒後。はるか〝霧〟のかなたの空で弾けて、一瞬だけの太陽のような明るさを地上へともたらした。

 その空を見上げ、スフィールリアが苦い顔でつぶやく。


「安定した……」

「な、なに――今のは」


 彼女自身がすでに気がついていることは、泣き出しそうな表情から分かっていた。だからスフィールリアも、無駄な慰めは入れずに自分の見解を伝えることにした。


「……それも、お守りじゃなかったんだよ。たぶん、最初からそういう動作をするよう作られてたんだと思う」


 なお反駁をしようとしたエイメールの胸元で、ペンダントが乾いた砂細工のように崩れて、膝の上へと降り積もった。役目を終えたと言わんばかりに。


「…………」


 エイメールは糸が切れたみたいに肩ごと沈んで、顔をうなだれさせてしまった。

 最初から最後まで利用だけしかされていなかった。という宣告に、ほかならなかった。

 なんと声をかけるべきか、思いつけなかった。望まれていないことも、分かってはいたが。 アリーゼルから聞くに、彼女にとってのエスレクレインは、スフィールリアにとってのフィースミールのような存在だったのだろうから。


「……それでも、わたしは、あなたが嫌いです」 


 やがてぽつりと、エイメールが押し漏らした。


「……うん」


 スフィールリアは、ただ、うなづいた。

 燃え尽きて、灰になり、熱を抱く理由もなくなり――それでもその中に残された唯一形状を留めているものが、それだったのだろう。

 その根源にあった理由までは、スフィールリアにも分からなかったものの。


「あなたたちが嫌いです。周りを利用して、押しのけることばかり考えているあなたたちが」

「うん」


 またうなづくと、エイメールは、勢い強く顔を上げてスフィールリアを睨みつけてきた。


「わたしのこの思いは本当! あなたを追い詰めようとしたのだってわたしの意志! あの人がわたしになにをしたからってそれは変わらない! あの人がわたしを助けてくれたことだって! それがなにを……分かった風に! わたしはあなたを殺そうとしたんですよ!?」

「エイメールは、そんな人なんかじゃない」


 かぶりを振って否定するも彼女の激昂は収まらない。


「っ……! 本当は笑ってるんでしょう!? 見る目がない女だって。見境のなくなってる、一般生というだけでだれかれ構わず当り散らしにくる馬鹿なヤツだって!」

「……」

「それでも、抑えが利かなくて……自分の感情も制御できない。利用されて当然だって……こんな恐ろしいことをして。みじめに捨てられて……馬鹿みたいだって……」

「……」

「馬鹿に……して…………」


 そして急速にしぼんで、また、元の姿勢に戻ってしまった。


「あたしは、そんなこと、思っていないよ」


 嘘ではなかった。

 フィリアルディへしたことを許せないとは思ったが、事態の大きさを知るほどエイメールの犯行理由には懐疑的になってゆき、ゲート生成の妨害に至ってそれは確信へと変わった。文字通り、正気の沙汰ではなかったのだ。

 しかしエイメールは力なくかぶりを振るだけ。それがスフィールリアへの拒絶か、自分自身への否定か、どちらであるのかは分からなかったが。

 スフィールリアはあるかなしかの小さな嘆息をして、もう一度、俯いたままのエイメールに語りかけた。


「エイメールが、あたしたちを本当に嫌いなのは分かった。……でも、今はそういうことを言ってる場合じゃない」

「……」

「この再生領域は、少し、変――先輩がなにかしたのかもしれない。領域自体もまだまだ不完全だし……これ以上変なことが起きる前に、あたしはアイバと昏紅玉ルビー・ナイトメアを探したい。エイメールだってフィオロさんを探さなくちゃいけないでしょう? 帰るためにはこの世界のどこかにあるゲートも修復しなくちゃいけないけど、ひとりじゃ無理。……あたしたちは、今は、協力し合わなくちゃだめだと思う」

「……」


 エイメールは答えない。しかしスフィールリアはうなだれたままな彼女の様子から、肯定を示す無音の変化をたしかに受け取ったと思った。

 だから手を差し伸べることはなく、ひと言だけ、呼びかけた。


「いこう」



 貴族棟と呼ばれる、寮とは名ばかりの『庁舎』とでも称した方が相応しそうな建造物がある。

 その一室。


「……」


 学院敷地を遠望できるテラスの縁へと腰を預け、エスレクレインは、自らの手のひらに置いた貝殻型の細工を見つめていた。

 エイメールが持っていた品と寸分違わず同じ造りをしているものである。

 それが、今。砂のように崩れて五指からこぼれ落ちてゆく。


「……うふふ」


 手のひらの砂を愛おしそうになでさすり、また、さらり、さらりと。風に広がり、絹地のようにきめ細やかなカーテンを降ろしてゆく。


「ご成功召しましたようでございますな。おめでとうございます。おめでとうございます」

「ええ。最低限の目的は、これで果たした――エイメールはよくやってくれたわ。わたくしが目をかけた子ですもの。最高の妹よ」


 テラスの中ほどに控えるワイマリウスへと笑みを投げ、彼女は次に振り返って、はるか遠方の空を見渡した。<ロゥグバルド国立監視公園>がある方角の、曇天の空を。


「あとは皆様方、ご無事に帰還されることをお祈りいたしますばかりです」

「そうね。なんの因果か、ちょうど、一緒に迷い込んだ『世界樹』がいるじゃない? 期待させていただこうかしら……それくらいの役には立っていただかないとね。うふふふ、ふ、ふ」


 エスレクレインは、それからしばらくも、同じ空を眺めたまま。

 手のひらに残る砂粒を、ずっと、なで続けていた。



 アイバの意識を覚醒させたのは、何者かに見られている、というある種の危険信号だった。

 裏町の路地を警邏に回っている時……市外の実地訓練で姿なき獣の気配を意識した時……どこかの影からこっそり覗かれているような。そういった時に喚起される、戦士の感覚。

 しかし実際に目を開いてみれば、その何者かの気配は消えうせていた。寝起きの錯覚かなにかだろう。

 替わりに、仰向けに倒れたままの彼の目に映るものがあった。


「……」


 世界樹の聖剣。

 アイバのすぐ右脇の地面に突き立った大剣が、半端にはだけた包み布の隙間から、ぼう、と淡い蒼色の輝きを漏らしていた。

 やがてその輝きも、彼が覚醒するまでを見守っていたかのように、消える。


「護って、くれた、のか……」


 アイバは自分たちの直前までの状況を思い出して苦々しく息をついた。

 綴導術の観点において青系の色には〝安定〟を司る意味があるらしい。ゲートとやらが不完全なままで飛び込んだにもかかわらず、自分が無事でいられたのは、この剣の干渉があったおかげらしいと。


「っ…………つつ」


 次に、頭痛。全身に溜まった猛烈な疲労を自覚する。

 戦闘前より疲れている。まったく最悪の寝覚めだ。まるで滅茶苦茶な体勢なままで眠りこけてしまったあとのような。

 その理由もすぐに判明する。


「……おい、起きろ。どけ」

「ぅ……ん」


 絡みつくように自分の体躯の上で気を失っていたのは、フィオロだった。

 足や肩で揺さぶると、ほどなく目を開いて、彼女はこちらを視認してきた。


「アイバ、ロイヤード……?」

「いいからどけ。邪魔だどけ」


 反駁も逡巡もなかった。すぐさま状況を察し、彼女が気だるそうに身を起こしたので、アイバも立ち上がって世界樹の聖剣を引き抜いた。


「ここ、は……」

「地面も風景も違う。なんとかたどり着いたんだろ」


 フィオロが見回した周囲を、アイバも眺めた。

 どこかの崖下……というより、地形の隙間とでも言うべき場所だった。まばらな芝の地面。ところどころで突き立った崖の壁面。そこへ中途半端に埋まった、明らかに人工物と分かる壁……意識を失う前とはまるで違う。

 そして、聖剣を担いだアイバと、フィオロ。ふたりは示し合わせるでもなく自然と、対峙するような形で視線を合わせていた。


「……お嬢様はっ!?」


 やがて愕然と目を見開く彼女へ、アイバはため息とともに肩の緊張を抜いて、そのままを告げた。元よりこの状況で争うつもりは、彼にもなかった。


「いねーよ。スフィールリアもだ。俺たちが無事だったんだ。アイツらもこの世界のどっかに、いるんだろ」

「し、しかし……!」

「いるつったらいるんだ。てめぇが否定すんじゃねーぞ」


 づかづかと歩み寄ったアイバはフィオロの防寒着の襟胸をつかみ上げ、そのまま背後の壁面まで押しやった。苦痛というよりは後ろ暗さからと分かるように、彼女の表情が、ゆがむ。


「俺らだけ無事で術者のアイツがどうにかなってるとか、そんなん許さねぇ。――どんな状況だろうが、お前らがやったこと、忘れたなんて言わせねーぞ。お前は真っ先にあのバカお嬢様を止められるところにいたはずだ!」

「っ……わたし、はっ」


 視線だけは外さず、しかし空気を求めるような彼女のかすれ声に、アイバははっとして腕に込めた力を緩めた。

 互いが気まずく目をそらし、数秒。


「……わたしには、その資格がありません」


 再開されたフィオロの言葉に、アイバはまたも苛立ちを強めた。

 しかし今度はどうにか自制を保って無言でいると、続きを促したということでもなかったが、フィオロは暗い声音で滔々と独白を始めた。


「わたしは……失敗したのです。わたしはあの人に賛同するべきだった。あの人が幼いという、ただそれだけの理由で、わたしは。……あの人の助勢を求める声を、無視してしまった……」

「……」

「彼らは怪しい。邪悪な人間に違いないと。破滅の道へと向かうご当主様方を止めようとしておられたのに。……ご当主様も、父も、わたしも。……子供が外界の人間に抱く、ごく普通の不信にすぎないと軽んじた。違う――ごまかした。本当は心のどこかで、間違いなく、同じ思いを抱いていたのに」


 斜めに俯いた彼女は、泣いているわけではなかった。だが変わらないくらいに歯を食い閉め、震えていた。


「もしかしたら止められていたかもしれないのに。――少し年下のあの人と同じに見られたくなかった。なにも分かっていなかったくせに。澄ました顔で大人たちに追従して。認めて欲しかった。そんなくだらない幼稚さで……! すべてをうしなってしまった……失わせて、しまった……だから…………」

「…………」

「わたしはもう、二度とあんな思いをしたく……させたく、なかった…………」


 アイバは彼女から手を離した。

 彼女が言うことはさっぱり分からなかったし、たとえ理解したとて許せる気もしなかった。ただここで延々と問答を続けるのは無意味だからだ――少なくとも、そういうつもりで。


「お前らの事情なんて、知らねーよ。お前のお嬢様がしようとしたことは殺人未遂だ。そいつを差し置いて正当化できる理由なんてあるかよ。あったとしたってクソ食らえだ。アンタはお嬢様を止めるべきだったんだ」

「……」


 彼女は無言で聞き入りながら、はだけた襟元を直している。そこへは視線をやらず、アイバは決まりきらない態度で指を突きつけた。


「アンタたちにはきっちり落とし前をつけさせる。だけど今はとにかくスフィールリアたちと合流して、さっさと脱出するのが先だ。アンタにも協力してもらうぞ」


 しばし、フィオロは悔恨の表情とともに視線を落としたままだったが……。

 やがて意を決した風に顔を上げアイバを見返すと、しっかりとひとつ、うなづいたのだった。

 とりあえずの落としどころを得られてアイバも息をつき、聖剣を担ぎ直した。


「……。よし。とりあえず、まずは見晴らしのよさそうなところに出るぞ。そんで状況を確認して、アイツらが通った痕跡でも――」


 気を取り直したつもりで、崖に切り取られた空の適当な方角を指差したところで、アイバの言葉が、止まった。

 フィオロもその変化を目視していた。


「なんだ……?」


 ふたりが見上げた〝霧〟の空。

 そこに、巨大な――山よりも巨大な〝影〟が、浮かび上がっていたのだった。



「なに……?」


 アイバたちが気づいた〝異変〟は、スフィールリアたちの位置からも見えていた。それほどに巨大な影だったのだ。

 先頭を歩いていたスフィールリアは、目を細めて天空にそびえる威容を見つめていた。


「今度は――なんなんですか!?」


 疲弊しきったまま、自制なくうろたえるエイメールの声も、どこか遠い。

 胸が、ざわざわする。

 頭の中枢に深い穴が開いたような感覚。目まいにも似た。――遠い遠い記憶の奥底。そこに眠るなにかが呼びかけている。


「お城……?」


 かろうじて押し漏らしたつぶやきは確信と疑念の両方を生み出した。

 とてつもなく大きな人工の構造体。――それだけは間違いがない。しかし、そうと断言するには途方もなさすぎる巨大さだった。

〝霧〟に隠れ、どれくらい遠方にあるのかも分からない。<ルナリオルヴァレイ>が所在する数千メートル級の山影の頂すら覆い隠す構造体のシルエットには、たしかに尖塔や渡し橋を思わせる突起構造が確認できるのだ。

 少なくとも、全高全幅ともに数キロメートルはある、城のようなシルエット。

 そんなものが〝霧〟のかなたから滲み出すように現れて、<ルナリオルヴァレイ>の天空に浮揚しているのだった。

 そして――頭の奥か、そこらの岩陰か。どこかから〝声〟が聞こえてきて。


〝――に――――すと――――のか〟

「!!」


 その瞬間、スフィールリアは弾かれたように天空の〝城〟を目指し、駆け出していた。


「アーテルロウン、さん!? ま、待って――ひとりにしないで!」


 うしろからどこまでも不安そうなエイメールの声が聞こえてはいたが、足を止めることはできなかった。非常に緩やかに見えるが、〝城〟の影はたしかに急速と遠ざかり始めている。

 まるで芸術もなにも理解していないような子供が乱暴な創作意欲のままにこね上げたような、不自然にいびつでか細く切り立った断崖の道を、息急きながら駆け上がってゆく。

 影を追いかける彼女を追いかけるように、〝声〟もまた、浮かんでは消えてゆく。


〝わ――たち――作――でき――――った――――〟

〝だか――――と言――か――――こんな――まだ――子に〟

(だれ――だれなの!? 聞こえない……分からないよ。あなたたちは――!)


 思い出さなければならない。ぽっかりと開いた思い出の空隙と『あの影』の場所が、つながったような気がして。

 鼓動とともにどんどんと高まってゆく心細さに、スフィールリアは突き動かされるまま、走った。

 時に階段があり、遺跡のような壁画があり、また地面が続き、橋が現れる。

 その不自然さに気を配る余裕すらなく。

 駆け上がっていった。


〝願――ば。こ――子――未来――世――が、あら――――を――――〟

「――――お父さん、お母さんっ!!」


 まったく無意識に飛び出した自分の叫びに驚いて、スフィールリアは立ち止まる。

 崖の道はそこで途絶えていた。

 大気のうなりか、それとも、城を浮揚させる機関の駆動音か。たとえの難しい、奇妙な甲高い唸りを残し……巨大な城のシルエットが〝霧〟へ沈むように消えてゆく。


「…………」


 眼下数十メートル下には目まいを起こしてしまうような町の遠景が見えている。

 その終端へつま先半分までをはみ出させ、スフィールリアは肩で息切らせたまま、呆然と城が去っていった空を眺め果てていた。


「だれ、だった、の……」


 あれは、この土地に縁のあるものではなかった。

 あれは、たしかに、スフィールリアが知っているものだった。

 だけど、思い出せない。いや――分からない。


「…………」


 そして足元への恐怖すらなく、顔をうなだれさせてしまった。

 城の影が消えうせても、心に開いた空洞はそのまま。

 今まで自覚しないよう、日々の中。懸命に明るく振舞って押し込めていたのに。

 スフィールリアの胸のうちにあった途方もない虚無感が、彼女の危機感や恐怖心を消し去ってしまっていた。


「あたし、は…………」

「お化け」

「ウソツキ」


 唐突に投げかけられた声に、力なく視線を流せば――

 今も彼女の記憶に冷たく(こご)る、見知った思い出の住民たちの姿があった。

 ふたり。三人。四人。男の子も、女の子もいる。みんな、幼い子供たち。かつては友人だった――


「――お前、〝きかんしゃ〟なんだってな!」


 足場などない。しかし幻の彼らはスフィールリアを取り囲み、そしるように指を差し、口々に彼女の罪状を並べ立てては糾弾をしてゆく。


「センセーが言ってたんだぞ。お前みたいなヤツは絶対にありえないんだって。死んでなきゃおかしくって、この世にいないはずのものなんだってさ!」

「あたし、は…………」

「アーテルロウン、さん……?」


 振り返れば、立ち止まり、目の前に広がる光景に戸惑っている様子のエイメールの姿が。

 心が弱っている。疲弊し、自己の認識があいまいとなったために思い出が『溶け出して』起こる投影現象。だけどそういったことが分かっていたとて、今のスフィールリアに、状況の収集や防衛を行なう一切の気力はなかった。説明を行なうことも。


「おかーさんがいってたんだ。おまえみたいなヤツってニンゲンなんかじゃなくて、バケモノっていうんだ!」


 当時はもっと、一生懸命に違う違うと訴えていたと思う。

 違うよ。そんなことはしないよ。大丈夫だよ。……と。

 それでも、聞く耳は持ってはもらえなかったが。そしてそんな自分も、なじられるまま立ち尽くしているしかない。

 子供たちの声は続いていた。


「ウソついたってダメだかんな! ニンゲンのフリして近づいて、触っただけでニンゲン溶かして食べちゃうんだって! もう絶対に近づいちゃダメだって!」

「やめようよぅ、怖いよぅ、逃げようよぅ……!」

「みんな怖がってる。おとーさんもおかーさんも、そんちょー様もおとなたちみんな!」

「今までずっとだましてた! 俺たちのこと食べる気だったんだ!」


 気がつけば、子供のひとりが彼女のすぐそばに現れていた。


「バケモノ」


 どん、と身体を押す小さな衝撃。今ほどの体格差があっても、スフィールリアは力なく崖の縁沿いにもつれた。


「バケモノ」

「出ていけ」


 もうひとり。またひとり。右へ。左へ。左へ。押されるままに足を滑らせ――

 ぱらぱらと土くれが落ちてゆく。

 スフィールリアの身体は、あと半歩で崖下へと投げ出される位置まで追い込まれていた。

 それでも、どうしても、後ろへ下がる意味が見出せなかった。下がればまた続く意味不明の生が待っている。

 自分にはなにもない。親も、過去も、由来も。

 望めず、望まれず、どこから現れてどこへゆくのかの展望も持てない――生きてゆく意味とは、果たして本当にあるのだろうか?

 普通の人間はそんなことを気にせずとも生きてゆけるものらしい。たとえ生まれた瞬間のことまでは思い出せなくても。昔のことを忘れても。……少しずつ、忘れていってしまったとしても。

 だけどスフィールリアにとってそれは、まさに地面と同じくらいに重大なものだった。


 なければ立っていることすら叶わない。存在の基点が得られない。

 食事をすること。体を洗うこと。眠ること。

 家族のこと。友達のこと。自分のいる場所。自分がきた場所のこと。

 人間は、普段は気にしなくて済む、ほんの小さなあらゆる習慣や記憶によってその精神のデティールを支えられている。

 そんなものがないだけで、人間の心は本当に、いともたやすく形を失い溶け去ってしまう。

 そんなことを自覚しながら生きている自分は――本当は存在しないはずの自分の存在は――本当の意味での『生者』たちへの、冒涜なのではないか。

 そうでなければ彼らをこれほどまでに怒らせる理由など、説明がつかないではないか。


「ごめん、なさ、い……」


 気がつけば、彼らに囲まれていたその時とまったく同じ言葉が口をついて出ていた。


「あやまったってだまされないからな!」

「ぼくたちが村をまもるんだ!」

「ほら、バケモノははやくこの村から出てけよ――!」


 最後のひと押しが繰り出される直前で、凍りついた空気も引き裂くような大絶叫が響き渡って、子供たちの動きが止まる。

 スフィールリアは一命を取り留めた。

 子供たちの包囲の外側からひとりの母親が現れて、恐怖に引きつった顔で彼らをスフィールリアから引き離していった。


「危ない――早く離れなさい――こっちへッ!! なにをしているの!! 近づいたらダメだって言ったのに――誘い出されたのね? 怪しい術でも使われて逆らえなかったのね? そうなのねっ!?」

「う、うん。そう……」

「怖かった……」

「なんて、恐ろしい。お前の始末は騎士団がしてくださるわ……!」


 子供たちを囲ったまま、恐ろしい形相の母親の姿と、あいまいな村の風景が遠ざかってゆく。


「…………」


 スフィールリアは子供の泣き声を聞いていた。自分の声だ。

 泣きじゃくったちっぽけな自分の頭をなでている、師のうしろ姿を、彼女は見ていた。

 ――お前、ポカやらかしたんだってなぁ。しゃべっちまったんだって?

 ったくよぉ。だからって火までつけるか、フツー? おかげさまで作りかけの依頼品も金んなる書籍も台無しだってんだ。どこに請求すりゃいいんだ、こりゃよ――?

「ごめんなさい……」

 ――ああ? ああいや、いいんだ。俺もな……人づき合いテキトーすぎたんだわ。

 あのクソ医者野郎、締め上げてきたんだ。前々から怪しんでて、ずっとお前に導宝玉板触らせて、俺らのことゲロさせる機会を探してたんだと。

 てわけでこの村はもうダメだ。今すぐにでも出てかなきゃなんね。ヤブ医者の記憶はいじったが、今から手紙を始末すんのも無理だ。中央から、ちぃとばかり面倒な武器持たされた連中がわんさと押し寄せてきやがるからよ。

 そうだな……今度は高いところにでもいくか。山だ、山。

 バカと煙はなんとやらって言うからな。バカばっかが集まって町作ってりゃあ、ちょっとぐれぇアヤしかったりヘマこいたりしたってバレやしねぇさ。お前ももう気をつけろよ?

 それでたぶん、いけるだろ――


「……」


 幻が、消えて。

 スフィールリアはその場にへたり込んだ。

 疲弊しきるままに心と身体を停滞させれば、自責の念ばかりが渦巻き始めた。

 なにをしているんだろう。なんなんだろう、自分は?

 自分の素性と、他者に怯えながらすごして。ひとたび知られれば周りすべてを怖がらせて、師の居場所を奪って。こんなところにまで出てきて。

 明るく振舞う裏ではいつでも疑われているんじゃないかと疑っている。

 いつかまたあの村のようになってしまうのではないか。いずれだれもかれも離れていってしまうのではないか。

 それがどうしようもなく怖い。ほんの些細な他人の態度の変化が。

 だからいつだって必要以上の善意を与えることで補おうとしてしまう。だれかが笑ってくれるたびに舞い上がって、少しでも不安なことがあれば突き走って必要以上の力で蹴散らそうとしてしまう。

 思い込みの方が多かった。喜ばれることもあれば、戸惑い、気味悪がられることもあった。それでも、やめられなかった。――それこそエイメールに指摘されたごとく、〝帰還者〟としての己の欠損と、他者への融解の発現なのではないか?

 自分はたしかにウソツキだ。彼らの言うように。ずっとだましているのかもしれない。エイメールの言ったように。

 なにがフィースミールに並び立つ者を目指すだ。彼女が自分にしてくれたように? 全部が保身と欲求でしかないではないか――


「だ、だめ!」


 スフィールリアの懊悩を中止させたのは、エイメールの金切り声だった。

 もう一度振り返れば、エイメール。蒼白にした顔面に手を当て、叫んだ体勢で、スフィールリアよりも前にある虚空を見つめていた。

 そちらを見ると、さっきまでは彼女の過去が投影されていたあたりに、別の風景が現れていた。

 今度は、エイメールの記憶だろう。

 おぼろげだが、どこかの屋敷の玄関口。三人の大人と、ふたりの子供が立っている。子供のうちのひとりが、これから出立らしい三人に取りすがっている。

 彼らがだれであるのかは、うしろに立つエイメールが教えてくれた。


「父さん、母さん……!」

「お父、さん。お母、さ、ん…………?」


 馴染みのない不思議な言葉の響きを、スフィールリアは目の前の風景を眺めるとともに反芻していた。両親。家族。自分を生まれる前から知ってくれていて、ずっとともにいてくれて、いつまでも思い出の中に住み続けてくれる人たち。

 知識としてしか知らない、大切な絆の欠片たち。不思議だった。――そういえば自分はさっき、どうしてあんなことを言ったんだろう?

 少女の思い出の風景の中。彼女の父親が、服の裾をつかむ子供の手をやんわりと引き離した。小さな手に、身に着けていた質素なペンダントを外して、握らせて。


「駄目――いっては駄目です! お願い――!!」


 玄関をくぐってゆく彼らへ転がるように駆け出して追いすがったのは、うしろにいたエイメールだった。

 あっという間にスフィールリアを通りすぎ、その足が崖の縁を外れて――


「――エイメールっ!」


 すんでのところでスフィールリアが飛びかかって彼女の胴を抱え込んだ。

 だがとっさの上かなり無理な体勢だったせいで彼女の身体を取り落としそうになる。

 ずりずりと腕の中をすり抜けてゆく彼女の身体から、無我夢中でつかめそうな取っかかりを探し、スフィールリア自身の身体も崖縁を引きずられながら……


「っ……!」


 二秒にも満たない時間がすぎたあと。

 スフィールリアは彼女の手首をつかみ、ぎりぎり胸下までを崖縁に飛び出させた位置で、停止していた。


「エイメ……ルっ。手、つかん、でっ」


 一瞬だけ呆けていたエイメールは下方に目をやって「ひっ」と短いうめきを上げ、次に、驚愕の表情でスフィールリアの顔を見上げた。


「どうし、て……!」

「下、見ないで。いいから、手、つかんで……早く!」


 まったく踏ん張りの利かない体勢で、どうにか腹に力を込めて耐えしのぐ。

 エイメールは従順に従って彼女の手首をつかみ返した。

 力に余裕が生じたのを機に少しずつ体勢を直してゆき、エイメールに自分の身体を登らせる。

 数分後には、ふたりは崖の縁へと復帰してへたり込んでいた。


「…………」


 互いに、なにも言わない。気まずい沈黙をさらに数分間すごしたのち……スフィールリアが立ち上がった。


「……ごめん。ひとりで突っ走っちゃって。あたしのせいだね」

「わ、わたしは」


 エイメールはなにかを言いかけたが、一旦、口をつぐんで、


「どうして、わたしを助けたんですか……?」


 そう言い直してきた。

 スフィールリアは返答に困って小さく苦笑いを漏らした。


「……分かんない。いろんなこと。見捨てるなんて考えてもなかったし、そうする理由も考えてなかった。でも、さっきのを見たら、なんだか……嫌いになれなくなっちゃった気がしたの。エイメールのこと。なんでだろ」

「…………」

「たぶん……きっと、エイメールもだれかを助けてあげたかったんだなって、分かったからだと思う。あたしにはそれがだれで、なんのためだったのかは分からないけど。そういう人と戦う理由は……今のあたしには、ないから」


 エイメールはこぶしを握って、解いて、力なくうなだれた。

 勝てない。という思い。それはそうだろう。相手に見られていないどころか、自分自身の行動もが、作られたものにすぎなかったのだ。

 自身の行動原理も、姉のように慕っていた人との絆ももはや失っている。ただ行なったことの結果として、理不尽の権化となったこの身ひとつが、この場に投げ出されていた。

 あるひとつの予感が――ずっとずっと前、この少女に出会うよりも前からあった予感が――目を覚まして首をもたげたような気がしていた。


 一方でスフィールリアも、苦笑を消し去ったあとには少しだけ晴れた表情を取り戻せていた。

 間一髪を乗り越えたことで気分にリセットが働いたのかもしれないし、懐かしき師の温みを思い出せたおかげだったかもしれない。

 全部が全部、悪いことばかりでもなかった。その事実さえ見捨てなければ、自分はまだ、歩いてゆける。フィースミールが救い上げてくれた命だ。見限るのはまだ早い。

 それが今限りの空元気だったとしても、かまわなかった。


「……いこう。まずは帰らなくちゃ。帰って……やり直そう。あなたのことも、あたしたちの勝負も。今度は、先輩は抜きで。見つめ直せるよ」


 スフィールリアを見返すエイメールの眼差しに、もはや先ほどまでの激情のひと欠片も宿す気力は残されていなかった。ただ、疲れ果てているだけだったが。

 それでもひとつうなづいて、エイメールは――今度は差し出されてきた彼女の手を拒否することなく取って、立ち上がったのだった。


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