(1-25)
◆
結局、〝霧の杜〟に到着するまでの五日間は問題なく消化されていった。
エイメールたちも特になにをしてくるでもなく、食事も食後の歓談時も従者のフィオロとすごして、近づいてくることはなかった。
ただ従者の彼女の方は時折スフィールリアたちを見てなにかを言いかけることがあったが、アイバが常に厳しい視線を送っていたため、やはり近寄ってくることはなかった。
しかし、本当になにもしてこないとはアイバを除く三人も微塵ほども思っていなかった。
「また、ここにくることんなるとはな……」
なにかをしかけてくるのなら、ここ――〝霧の杜〟。だれもがそう確信していた。
現地で入場管理をする駐留兵は、こんななにもないような場所に<アカデミー>生が四人も足を運んできたことを多少は訝しがった様子だったが、規則の上では問題がなかったために、あっさりと検問を通ることはできた。
しかし――
「なぁ、スフィールリア……」
〝霧の杜〟内部に足を踏み入れた瞬間に空気が変わって……スフィールリアも暗い面持ちに緊張を混ぜて、うなづいた。
「なんですの?」
「ふたりは、〝霧の杜〟に入るのは初めてか?」
うなづくアリーゼルとフィリアルディ。
「じゃあ、気をつけろ。なにか、前にきた時と違う……こいつは〝敵意〟だ」
「まさか……こんななにもない場所ですのよ。〝霧〟が敵意を持つだなんてあり得ませんわよ」
「〝霧の獣〟とか……? 出るって聞いたことはないけど……」
アイバが冗談抜きに真剣な面持ちで全周に警戒を巡らし始めるので、ふたりは若干以上に怯えた様子を見せる。
「あたしたちのせい」
スフィールリアも〝霧〟全体の気配を探るようにして目を閉じていた。
「なにか、分かるのか?」
「……すごく、深いところから……〝見〟てる。『ここ』じゃない。とても遠いのに……怯えてる……? くるな、って言ってるみたいな」
「……」
スフィールリアはなお神経を溶かし込むように耳を済ませていたが、ふと目を開き、エイメールへと向き直った。
「ねぇ、エイメール」
「はい、なんですか。スフィールリアさん」
エイメールは、出発時からずっと続けている粘っこい笑みを絶やさない。
「ここから先は、ほんの些細な変化でも危ないかもしれないの。だから、正直に教えて……エスレクレイン先輩から、なにか、受け取った?」
はっとしてフィオロが隣のエイメールを見下ろすが、彼女の方は特に動じた様子もなくあっさりと首肯してきた。
「ええ。いろいろと」
「お嬢様、なぜそれを、わたくしに――」
「見せてくれない?」
「ええどうぞ」
彼女が防寒着の首元から取り出したのは、一見するとどこかの民芸品にすぎないようなネックレスだった。丁寧に編まれた平型のかけ紐に、貝殻とよく似た形の石の飾りがついている。
「爆弾か?」
という言葉にエイメールが我慢の利かなくなった風に噴き出し始めるので、アイバはなおさら苛つきを強めたようだった。
直接は触れずに覗き込んでいたスフィールリアが顔を上げて吐息をつく。
「爆弾とかじゃない……でも構造が分からない」
「そうでしょう。しょせんは、あの人とあなたの、これが力量の差というものですよ」
「そりゃお前にも分からねーってことじゃねぇか。ざけんな」
食ってかかろうとするアイバを止めつつ、スフィールリアはかぶりを振った。
「そうじゃない……ソレ、中枢の蒼導脈が『ない』の。ねぇ、ソレがなんなのか、先輩から聞いてない? 聞いてるなら、正直に教えてほしいの」
「さぁね……どうだったでしょうか」
「お願い。そうじゃないなら、あたしたちもこれ以上は進めない。なにを起こすか分からない道具を抱えたままじゃ、本当に危ないかもしれないの」
「なにをしでかすか分からないって点なら、お前ら自体がそうなんだけどな」
「なんなら、この場に置き去りにして差し上げてもよろしいんじゃないですこと? 〝霧の杜〟に入場さえ果たしたのですから、あなたたちは用済みですわ……ご自分たちの立場、お分かりですの?」
エイメールはわざとらしくもったいぶって彼女から視線を外す。しかし食い下がるスフィールリアに続いてアイバとアリーゼルも同調し、
「お嬢様。わたしからもお願いいたします。自分たちの状況を正しく認識できないことは〝霧の杜〟では、本当に危険なことなのです」
「……」
「お嬢様」
侍女のフィオロからも厳しい声が投げられて、エイメールは、ふっと息を抜いて種明かしのポーズを作った。
「別に……大したものじゃありませんよ。お守りです。〝霧〟への抵抗力を持つ特別な造りをしているからと。フィーロまでそんな顔をして。でもあなたたちの滑稽な様が見られたのでよしとしておきます」
彼女を囲む四人は、しばらく、なにも言わなかった。
「……〝霧〟への対抗法はゼロではない。むしろ大小挙げればご満とありますわ。でも、〝霧〟へ直接の抵抗力を持つ品などというのは聞いたことがございませんわ。ましてやそんな小さな物品で」
「そうですね。でも関係ないんじゃないですか? どの道あなたたちはわたしがなにを言ったところで信じられないでしょう? だから最初から、こんな確認作業、無駄なんですよ」
「それは……」
「いいですよ。別にこの場で置き去りにしてくれても。むしろその方がわたくしたちも……動きやすいかもしれませんわ。そうよねぇ、フィオロ? ふふふっ」
「お嬢様……」
「うあああああイライラするうううううう!!」
アイバがバリバリ自分の頭をかきむしるも強行な判断に出なかったのは、侍従の彼女が部分的にでも彼ら側に協調する姿勢を見せたためだろう。
スフィールリアは大きくため息をついて、この場での判断を保留にすることにした。
「いつまでもここで睨み合っててもしかたないね……いこう。アイバ、悪いけど見張りだけしっかりお願い」
「……分かった」
と、いうことになった。
そこからは、ほとんど無言の行進が続いた。
〝霧の杜〟に入ってから『例の調子』でスフィールリアが寡黙になったことも大きい。
だがそれよりも、完全に、間が保たせられなくなっていた。
いつ、なにをしかけてくる――?
だれもが一番後ろで不気味な静けさとともについてくるエイメールへ注意を払い、そのことだけを考えるようになっていたからだった。
やがて、どこまでも続くかのように思われた〝霧〟と地面と木立ばかりの風景に、変化が見え始める。
以前にスフィールリアたちが見た〝街〟の一部だ。
まだ数時間しか歩いていないはずだったが――こんなところにまで、散らばってきていたらしい。
「なんですか、なぜこんなところにこんなものが」
その街の欠片へ不思議そうに歩み寄って手を触れようとするエイメールに、スフィールリアとアイバが、同時に顔を上げた。
「おい、なにしてる。やめろ!」
「エイメール!」
しかしエイメールはあらかじめそうするつもりであったかのように、伸ばしかけた手を危なげなく引っ込めた。ふたりを見て、くすりと笑う。
「冗談ですよ」
「てんめぇ……」
スフィールリアも安堵の息とともに小走りに寄っていった。
「冗談になってないよ。下手に近寄らないで。それと、もうちょっと離れた方がいい」
そう言って手を伸ばしたのはエイメールの手を引いて建物を離れるためだったのだが、彼女はすばやくスフィールリアの手をすり抜けると、むしろその手をこそ怖がるような機敏さで数歩分の距離を取った。
取ってから、わざわざ一拍の間を置き、自分の手を抱き寄せて、
「おっと、危ない」
と、言った。
スフィールリア以外のだれもが、なんのつもりなんだという怪訝な顔をする。
だが、そのしぐさに、笑みに。
「……」
スフィールリアだけが、暗い予感とともに表情へ不穏な陰を落とした。
エイメールも、なにかをたしかめたように笑みを深める。
スフィールリアは素早く彼女から視線を外して、歩き出した。
「……とにかく、街の残骸からはなるべく距離を取って。気をつけてね」
「えぇ、ご忠告どうも」
アイバが憤然たる態度でスフィールリアのうしろを歩き始めたエイメールの背後に陣取る。
隊列が変わったことを機に、アリーゼルはつと隣を歩くフィオロへ顔を向け、話しかけた。
「ひとつお尋ねしたいんですけど。エイメールさんは普段、いつもあんな調子なんですの?」
侍女は答えない。
「あなたはいくらか正常なご様子ですので、お伝えしておきますわね――<アーキ・スフィア>のアーカイヴ領域への接触時に構築をトチりますと、わたくしたちだけでなく最悪あなたとご主人様も死にますわよ」
「……」
かまわずにアリーゼルは視線を正面に戻し、少し前をゆくフィリアルディに追いつくために足を速めた。
「冷静なご判断を願っています。それだけですわ」
「……」
「このあたりかな」
そう言ってスフィールリアが立ち止まったのは、街の破片たちがずいぶんと目につくようになってきたためだった。つまり、街が崩壊した中心部に近づいてきている――〝霧の杜〟の〝深度〟が深い位置に到達したということだ。
荷を降ろして小物やらなにやらを取り出して準備を始める三人の少女らを眺めながら、アイバは深いため息とともに吐き出した。
「ついにここまできちまったな……」
ここというのは場所のことではない。場面のことだ。ちらりと横目に流し見たのは、三人からは離れてたたずむエイメールと侍従の姿――
下手に目を離すくらいなら手元に置いて監視した方がよい。その判断は分かる。
だが一番肝心なこの場面にまでこのふたりを連れてきてしまってよかったのだろうか?
答えは、いいわけない、しかあり得ない。
それでも、手が足りなさすぎるのだから、しかたがないというしかなかった。これから三人はゲートとやらを開くのにかかりきりになる。そこへ置き去りにしたこのふたりが二方向から同時に飛び出しでもしてくれば、身体ひとつきりしかないアイバの手では防ぎきれない。
結局、近くから見張るしかないのだ。
あるいは問題の〝国〟とやらに入ってからことを起こすつもりなのかもしれない――その可能性の方が高いという話は、〝霧の杜〟に入る前の旅程で聞き及んでいた。
ゲートの構築中に破綻を与えるような妨害は自殺行為でしかない。ただでさえ〝霧〟に包まれている状態で、自分たちの周囲に『消えかかっている』存在の情報を呼び出そうというのだ。
破綻したゲートがもたらす〝衝撃〟は周囲にいるすべての者の存在をかき消してしまいかねない。呼び出されかけた土地の情報が再び〝霧〟の深奥へと沈んでゆく、その濁流に、巻き添えを食ってしまう。渦潮に飲まれて沈みゆく船と、投げ出された人のように。
人間の足などでは逃げられないということだ。
(なにもしないでくれよ)
しかしそういった理屈の上での話とは別で、アイバは神にともなく祈る心地だった。
戦闘に身を置く嗅覚が、いやな予感しか運んでこない。いざとなればどんなことをしてでも護りきってみせるという覚悟はあった。しかしことが起こらないうちは、振り払っても払いきれない悪寒については、祈りでもするしかないのだから。
「始めよう」
思った以上に早かったその合図に、アイバは心の準備を裏切られたような心地で、円陣になって立つ三人へ視線を戻した。今からでもこのふたりを縛るなりした方がいいのではと提案しようか、悩んでいたのだ。
が。
「わたしも手伝いますよ。手は多い方がいいでしょう?」
アイバの心中を見透かしたかのようにエイメールが円陣に加わった。
「うしろにでも立っていたら、心配ですものね?」
「……見張ってるからな」
アイバは、自分をエイメールとフィオロの二点をつなぎ、三角形になる位置に構えた。
その場にて長大な『世界樹の剣』を突き立てて固定し、腰の剣に手をかける。
一直線にしなかったのは、いざという時どちらかが盾になって妨害してくるのを防ぐためだ。二兎を同時に追うのではなく、最優先目標を有機的に判断してひとりずつ撃破するための。
「あと、アンタ。アンタは一応両手を挙げとけ」
フィオロは素直に従った。
「じゃあ、始めよう」
スフィールリアが防寒着の下から取り出したものを見て、アリーゼルとフィリアルディが驚きの声を上げた。
「出でよ」
呼びかけると、彼女の<縫律杖>は淡い輝きとともにするすると伸張してその真の姿を現した。
スフィールリアの背よりも半分は高く、白亜の塔のようにそびえた杖。頂点の台座からこぼれるように咲き誇る大輪の花々。そのふもとに、眠るように座して微笑む乙女の像――
「あなた、それは」
「<縫律杖>、なの? すごい、きれい…………」
スフィールリアは少し照れて笑うと、気を取り直し、杖を自分の前に突き立てた。
自分のタペストリ領域を杖に拡張してアクセスを試みる。すると、杖の方から言語ではない〝言葉〟が返ってくる。
まず、名前。――<神なる庭の塔の〝煌金花〟>
それ以外、にも、次々と。純粋意味の塊である、情報たちが――
「っ……!」
会えてうれしい――
あなたを待っていた――
あなたの――を――るために――――
始まりの、庭の――――を――――超えて――――
世界――――あなたを――――すまで――――――
「う、くっ……!」
散り散りになりそうになった意識を呼び戻し、スフィールリアは頭を振った。
返ってきた〝言葉〟は、彼女が飛ばしたタペストリ情報への単なる〝反響〟だ。
そのおびただしい内部領域の広大さの、ほんの一部が知覚されただけ。だからすべての〝言葉〟を聞き取ることはできなかった。
(今のあたしじゃ、扱いきれないんだ。フォルシイラが開放してくれた部分にだけ、上手く意識を合わせないと、保たない)
ほんの少しアクセスしただけで、これだ。この杖の全機能を使おうと思えば、たちまちに彼女の意識は広大無辺な情報領域に投げ出されて霧散してしまうかもしれない。
似たような現象は聞いたことがある。<アーキ・スフィア>への直接アクセスを試みた時、術者が帰り道と自身の存在基点を見失う――アゴラフォビック・アウト・シンドローム。それと、まったく同じものだった。
でも、これなら――いける。
この杖なら自分のタペストリ領域を無駄なく発揮して、必要となる領域への道をも紡いでくれる――!
スフィールリアは自身のタペストリ領域を一気に開放した。
小さき工房――<縫律杖>。スフィールリアの〝金〟の素養はこの〝工房〟の内部へ余すことなく注ぎ込まれて外に漏れ出ることもない。どころか、巡り、溜まり、ゆらぎ……彼女を導くかのように力強い循環となって、彼女の指示を待ち始める。
普段は自分で意識しなければならないさまざまな制御も、まるでほんの意識の切れ端を何十倍にも増幅して顕現させるように、圧倒的な処理能力でこなしていってくれる。
自分の身体が何倍にも拡張されたような全能感だった。
その感覚を信じ、意識を先鋭化させる心地で、膨大なタペストリーを編み上げてゆく。
〝青〟〝赤〟〝緑〟〝蒼〟〝紫〟〝緑〟〝碧〟――一の意識が十の流れとなり、十の流れが数百の蒼導脈の〝糸〟となり、数千、数万通りの情報干渉力の網を形作り、さらに折り重なって数十万通りの〝色〟の組み合わせの〝道〟を伸ばしてゆく。
「すご、い」
「……下手に手を出す気にはなれませんわね」
<縫律杖>からこぼれ出して円陣の中央を雪風のごとく舞う、七色の光の破片たち。その輝きの荘厳さに魅入られ、ふたりの少女が声を押し漏らした。エイメールすら、目を見開いて息を呑んでいた。
「大丈、夫。ふたりは『呼び水』の情報化を、お願い。中央……晶結瞳と同じに、なってるから」
「大丈夫なの、スフィールリアっ?」
「あまり無理をなさらないでください。わたくしたちもこの術は初めてなのです。段取りとタイミングをしくじらないという自信は、そうありませんのよ」
スフィールリアは集中に閉じていた目を薄っすらと開いてうなづきかけた。
「大丈、夫。なんとか維持するから、三人はゆっくり……確実に〝欠片〟の情報を抽出し、て」
あまり大丈夫そうには見えないその様子に、むしろふたりは潔く従う判断をした。
「分かりましたわ」
「足を引っ張らないよう、がんばるからね」
「それぞれ一番近い位置の欠片を担当します。エイメールさんも。よろしいですわね。しくじれば全員お陀仏ですわよ」
「……ええ」
三人が晶結瞳化している中央の空間へと、それぞれ腕を差し向ける。
最初の準備が早かったのは当たり前だった。円陣の中央には、民芸品、小瓶に入ったガラス球のような石、どこかの壁かなにかの破片らしき石片、などが置かれているだけだ。
これらは、触媒となる。物質世界は情報とイコールだ。呼び出すべき土地の情報の〝欠片〟たるこれらは、そのまま、呼び出したい土地の情報の断片だと言える。この『呼び水』となる情報は多ければ多いほど、たしかならたしかなほどよい。極論をすれば、ある国を呼び出したい時、その国『丸ごと』を持ってくるのが理想なのである。
しかしそれはあらゆる意味であり得ない理想だ。〝霧〟に消えてしまったからこその〝アーティファクト・フラグメ〟なのだから。
だから、言ってみればこれらは『写真の断片』なのだ。これから呼び出すべき、半透明のフィルムに投影される消えかかった〝像〟へ、手元に残されているたしかな〝像〟を重ね合わせて、少しでも情報の確度を確保して、再記述の補助ともなる。
少しでもかつての姿に近いたしかな記述をすることで、<アーキ・スフィア>に在りし日の姿を『思い出させる』。
〝喚起術〟――これは、そういう儀式だった。
「……いきますわよ、スフィールリアさん」
三人が三様に展開した祖回術により、ひとつ、ふたつ。〝欠片〟たちが青や緑の輝きとなってスフィールリアの渦巻く『タペストリー』に取り込まれてゆき、また、組み変わり続けるその文様に変化が現れる。
だが、アリーゼルたちの表情にあるのは、焦りだった。
「どうしますの。やはりこの〝欠片〟だけではとうてい足りていませんわよ」
「分かってる――ここから、核になる〝アーティファクト・フラグメ〟を使う」
「どこにそんなものが――」
「大丈夫。一番外側を、分かるように切り離してある、から。みんなはそこの維持を、お願い」
「……分かりましたわ」
アリーゼルたちは意識をタペストリーの最外周部へと切り替え、綴導術師にしか分からないその知覚領域で手を触れさせた。その、瞬間――
「――――っ!!」
ずん、と衝撃すら錯覚する勢いで降りかかってきた重圧に、三人は一気に膝を折りかけた。
「これっ、はっ……」
「スフィール、リア、これ……!」
あっという間に顔面を脂汗いっぱいにし始めるふたりを確認しながら、アリーゼルも呆然とスフィールリアを眺め果てていた。
(ひとりで、これだけの領域を維持して編み込み続けていますの……!?)
それは、彼女の祖父にも不可能なことだと思えた。それを言うならそもそもたったの四人で行なうような術式でもないのはたしかだが――
「お願い、がんばって。ほんの何十秒かで、いいの」
「簡単に、言ってくれますわね。どれだけ途方もない数十秒なんだか」
だが、一番最初に立ち直ったのはフィリアルディだった。
「わたし、やるよ」
ぐっと力を込めて両腕を突き出し、彼女は自分が担当すべき情報部位を定めたようだった。
「大丈、夫。ちゃんとわたしたちにも理解できるようにパーテーションを分けてくれてる。一度よく見たら、ふたりにも、できる、よ!」
彼女のかなり無理をした笑顔を信じて、アリーゼルもうなづき、折りかけた膝を元に戻した。
「織り込みの始点を定めます。各自タペストリー投射のパターンを安定させたら、ご報告を。三、二、一、の合図で受け渡しを行ないますわよ、スフィールリアさん」
スフィールリアがうなづくのを確認してから、アリーゼルは最外周部で切り替わり続ける時化の海にも似た膨大なタペストリーの一部に、自分の意識を重ねた。
「よろしいですわ」
「こっち、も!」
「やれやれ。こちらも、ですよ」
「では、いきますわよ、スフィールリアさん。三……二…………一!」
一瞬だけスフィールリアと三人のタペストリーが重複する。スフィールリアがすぐさま自分の投射を止めて、術式の受け渡しは完了した。
「ありがとう」
スフィールリアは片手で<縫律杖>を保持したまま、ポケットから一枚のメモを取り出した。
練成を維持しながら、どうにか読み上げてゆく。
「――那由他の果てに沈みし都。宵の明星、分かたれし。其らは億の星。万の風。千の夢に一の花。運河は巡り、風車が廻り、空は白妙の霊峰の頂に昼と夜を繰り返す。エルカドカナルの鐘の音が、時告げ、其らは帰路に足跡を刻む。それは天空の都。失われし――」
「〝詩〟、ですの……? でも、それは……」
スフィールリアも、詠唱は止めないまま、うなづいた。
それは、大図書館から書き写してきた詩篇の一部だった。
おそらくアリーゼルが所持しているであろう知識と同じことを、スフィールリアはフォルシイラから聞いた。有名な詩だそうで、これは『別の国』の都のことを吟じる詩であるとされている。はるか昔にどこかの大地をさすらい、訪れた地、慈しんだ風景を吟じて廻っていたという(一説では)酔狂な綴導術士の残した。
だが――
「――黄昏の庭に咲き誇る」
「……え?」
知識にない続きが読み解かれて、アリーゼルが眉をひそめる。
そう。
エスレクレインから聞いた場所にこぼれだしていた古い本。その中に書かれていたのは、まさにスフィールリアたちが求める昏紅玉のことだとしか思えないいくつもの隠喩が含まれていた。
こちらが、オリジナルだったのだ。
長き時間、幾多もの人間の解釈を経て、別の都の詩とすり替わっていたのだ。
忘れ去られし亡国の〝ミスリード〟
かの地を直接訪れた詩人の詩は形を変えて数多の生活に溶け込み――今ここにオリジナルがよみがえることにより、呼び起こされるべき記憶は膨大にして曖昧模糊な三人称複数から、単純な二人称単数へと復元される。
詩人の背をスフィールリアは見ていた。都を詠う彼を通すことで、この単なる〝詩〟は、間接的な関係を持つ物品よりも強い結びつきを持つ〝アーティファクト・フラグメ〟として世界へ在りし日の姿を呼び起こさせる鍵となる――
スフィールリアは詩を吟じると同時に、言葉の意味情報をタペストリーの中に編み込み続けた。
――白き夢魔たちが咲き誇る。すべてが夢に沈む。
――水は止まり、風は溜まり、時すらも永劫に留まらずにはいられない。久遠の夜が訪れていた。
――其の夢を覗き見る者はいない。其らを起こす者はない。わたしの声もあなたたちには届かない。
――ここをあとにしよう。
――あなたたちに墓標は要らない。
――ここは墓所ではないのだから。ここは楽園なのだから。
――人の子らがあなたたちを忘れても。この世に朝が訪れても。始原の海に夢は残るだろう。
――いつか昼のまどろみに出会うことがあるのなら。それはあなたたちの夢であると。
――わたしが語り継ごう。
――時果つるまで。
「滅んだ、都市の、詩……」
ぞっとしたようにつぶやくフィリアルディへうなづき、スフィールリアは必要となる、詩にはない最後の文言をつけ加えた。
「其の名は、夢魔の花の都。黄昏に沈みし煌きの都市――<ルナリオルヴァレイ>」
光が、弾けた。
「っ――――!!」
スフィールリア以外の全員が目を覆い、組み変わる七色の輝きの中枢に、明らかに様相の違う白色の光が灯り始める。
よく目を凝らせば、その内部に、どこかの時計塔らしき影が見えるような気がした。
「やりました……のっ……?」
途方もない圧力と脱力感に抗いながらアリーゼルが祈りすら込めてつぶやく。
だがスフィールリアはかぶりを振った。ゲートの内部の風景は目まぐるしく入れ替わり、ノイズだらけで、安定していない。
「まだ――ここからじゃ〝深度〟が遠すぎる! もう一度、届くまで。詠い続けるっ」
「急いで、くださいな……わたくしもう、意識が遠く、て…………!」
「わたし、も……!」
実際、ふたりの膝はもうかなり低い位置にまで落ちてきている。あるていどの制御は<縫律杖>が自動化してくれているとはいえ、使用しているのは彼女たち自身の情報領域だ。大波に揺られる大海の上に板切れ一枚で乗りかかり姿勢を維持し続けるようなものだった。そう長くは保たない。
スフィールリアはうなづき、逸る気持ちをこらえて二順目の詠唱を開始した。
だが――
「っ――!?」
突如として圧倒的に増してのしかかってきた負荷に、アリーゼルは立っている力もすべて奪われてその場へ片膝をつく。
フィリアルディは、声もなく倒れ伏していた。
「この期に……及んで! あなた、は!」
エイメールが一歩下がり、術式維持を離れたためだった。
スフィールリアは破綻しそうになる外周部のタペストリーをすんでのところで引き寄せて、再び自分の制御下に戻した。
「エ、イ、メー、ル…………?」
「――大したものですね。このままじゃあ、成功しちゃうじゃあないですか……先輩の言う通り。やっぱりあなたは『そう』なんですのね」
エイメールは、笑っていた。
向き直り、その足を、練成維持にいっぱいになっているスフィールリアへと一歩――
「ちぃっ」
アリーゼルは自分の担当する術式を維持しつつ、どうにか腰のポシェットから道具を取り出した。下手から投げつける。
『スタン・チェイン・バインド』――!
複雑に絡まってどうしようもなくなった飾り鎖のような塊が地面を転がり、しかしあっさり解けると同時にのたうつ電光となってエイメールの上体をがんじがらめに捕らえた。
「あら」
しかし鎖は彼女へ少しの痛痒を与えることもなく、彼女が腕にはめた金の飾りを鳴らすと、それだけであっさりと力を失って地面へと落ちてしまう。
「んなっ」
「よくもまぁそんな状態でこんな芸当を。――お眠りなさいな」
「きゃあっ!?」
エイメールが腕を振り向けると、いったいなにをしたのか。それだけでアリーゼルの小さな身体が十数メートルは吹き飛んで……転がり……立っていた枯れ木の幹に激突した。
そのまま、動かなくなる。
「決まりだな。覚悟しやがれ」
事態に呆然としていたフィオロの横を走りすぎ、抜剣したアイバが迫っていた。
走り出しの足音に、エイメールもフィオロも、間違いなく気づいていなかった。完璧な静音。完璧なタイミング。運動能力の差から、もう彼女がスフィールリアへ到達して危害を加えることは絶対に叶わないはず――
「――邪魔をしないでくださりますうぅうっ!?」
「がっ――――!?」
だがアイバが見たのは、同一人物とは信じられないほど凶悪に歪められたエイメールの笑みだった。彼女は最初からアイバしか見ていなかった。
アリーゼルにしたのと同じように腕を振り向けられると、まだ一メートルは距離が開いていたというのにアイバの体躯はあまりにあっさりと宙を舞っていた。
「がっ――あが――ぐは――――!」
短いようで長い数秒間。必死に受身を取って転がり、最後に強引と靴底を食いつかせて地面に踏みとどまる。顔を上げれば、彼女たちの円陣はゆうに五十メートルは離れてしまっていた。
「ウソだろ――くそっ」
剣もどこかに取り落としてしまっている。いや、受身を取るために自分で捨てたのか。いやそんなことはどうでもいい。アイバは全力でエイメール目がけて疾駆を開始した。
「無粋な……フィオロ。彼の足止めをしておいてちょうだいね?」
「お嬢、様……しかし。このような!」
フィオロはさまざまな違和感や疑問をない交ぜにしつつ、それでも彼女を止めようと一歩を踏み出しかけた。
しかし。
「フィオロ、お願い――わたくしを助けてください」
あの日と同じ顔を向けられて――なにも、言えなくなってしまった。
「これが成功してしまえば、わたくしたちは今度こそなにもかも失ってしまうのです。だから――お願いです」
彼女の両親と、彼女の一家に暖かい手を差し伸べてくれたエイメールの両親が亡くなってしまって。
護ると決めたこの少女の泣きはらす姿を見ているしかできなかった無力感と――罪悪感が。
エムルラトパ家に後見を賜り、勉強を重ねて……もう一度、立ち上がろうとしてくれた。その時に見た希望が。
「どきやがれええええぇぇい!!」
「――――ッ!!」
彼女に刃を抜かせていた。
置き去りにしていた聖剣を引き抜いてすぐ数メートルまで迫っていたアイバへ、三本のスローイングナイフを投げ放つ。小刃はアイバの掲げた聖剣に遮られて、その包み布をいくらか切り裂いただけだった。
だが彼の足を止めるには充分だった。
たしかに自分では彼に勝てないかもしれない。だがそれでも素通りができるかということとではまったく別次元の話だった。
全力で戦うなら、彼はこちらを完全に排除した上でなければ主に危害を加えることはできないはずだ。
実際にアイバは憎々しげな形相で歯をむき、うなるように恫喝の声を上げてきた。
「どけ……!」
フィオロは苦渋に満ちた表情を硬く引き締め、答えない。
「それが……あなたの、答えなんです、の」
ずっと後方で、アリーゼルが土だらけになった顔だけを上げていた。
「見れば分かる、はず……今のエイメールさんは、とても正常などではない、ですのよ。彼女がなにをしようとしている、か。考えられませんの……!」
フィオロは、かぶりを振った。
「申し訳ございません。わたしにその資格はありません」
「どけ。今だけだ。女に傷は残したくねぇ」
掲げた左腕に聖剣の刀身を乗せ、アイバは臨戦態勢で最後の警告をした。
「聞けません」
「どけぇ!」
フィオロが短剣を構える。
アイバの舌打ちとともに、攻守目まぐるしく入れ替わる剣戟が始まる。
「ふふっ。そうそう。お願いいたしますわね、フィオロ」
再びスフィールリアへと歩み出そうとしたエイメールの足が、また止まる。見ると、はいつくばって足首を捕まえたフィリアルディの姿があった。
「お願い、エイメールさん。やめて……」
エイメールはかがみ込み、慈しむように微笑んで彼女の頭を抱き寄せた。
「お休みなさい」
バシンと弾けるように頭から足先までを痙攣させ、フィリアルディは動かなくなった。まだ意識は失っていないが、苦しげな表情でエイメールを睨むのが精一杯のようだった。
「あら〝抵抗〟。見かけよりおやりになるんですわね?」
「フィリアルディ、さん!」
「フィリアルディ……! お願いエイメール、もう止めて!」
「い・や。ですよ」
エイメールは、一歩、また一歩とスフィールリアへと近づいてゆき……その背後へと立つ。
スフィールリアは<縫律杖>と術式の制御で、一歩も動けない。
「くそぉ!」
アイバは聖剣を振り抜いた。
圧倒的な体格とリーチの差があったが、フィオロは踊るように大と小の円弧を描いて立ち回り、遠心力と角度の変調も利用して大剣の軌道を逸らしていた。
アイバの殺気がまだまだ本気ではないというのが大きい。殺す気でないなら、あるていどのダメージを覚悟さえすれば受け流せる。なにより彼女からすればエイメールの妨害さえさせなければよいのだから、常に主を背にする位置取りだけに専念していればよい。
アイバが強引に抜けようとすれば、今度は背後から投擲剣が投げつけられる。胴体は防寒着の下のプロテクト・アーマーが護ってくれるが、踏みとどまらなければ首筋や足の大動脈を切り裂かれる。結局、振り返ってフィオロの無力化に戻るしかない。
そして――ほとんど捨て身だから、通常ならば恐ろしくて潜り込めない大剣の取り回しの〝隙間〟へも、こうも簡単に飛び込むことができる。
「ぬがっ」
プロテクト・アーマーの構造の隙間を縫って肉をそぎ落とされ、アイバが苦悶と怒りに表情を歪めた。
「くそ、が! スフィールリア、逃げろッ!」
「ダメ! ――『呼び水』の予備はないの。ここで術を棄てたら、二度とたどり着けない!」
「そうそう。好都合ですよ。ね?」
エイメールが、ゆっくりと、その背に手を伸ばしてゆく。
「エイメール。お願い、勝負ならゲートを開いてから聞くから。今だけは止めて! どうしてこんなこと……どうしてここまでするの!」
「どうして? 決まってるじゃないですか。みなさんを救って差し上げるためですよ――あなたから」
「……っ?」
そして、彼女の背に触れる直前で手を止め、エイメールは。
スフィールリアが一番恐れていることを、言った。
「あなた――〝帰還者〟なんですってね」
ぐらり――と。
足元が崩れてゆくような錯覚を覚える。
時間が、凍りついたようにも、スフィールリアには思えた。
「…………どう、し、て……それを」
肩越しに見るエイメールの顔が、とことん愉悦に歪んでゆく。
「どうして? ――それが答えなんじゃないですか。あなた、ここにいるみんなを騙してたんですよね」
「ちが――違う、あたしは」
かぶりを振った拍子に、目を見開いているアリーゼルの表情が見えて――スフィールリアは視線を逸らした。
それを察知してか、エイメールはこらえきれないように嗤いながら、アリーゼルへと種明かしじみて手のひらを振って見せた。こちらを見ている、フィリアルディにも。
「恐ろしいでしょう? 知らなかったでしょう? 〝帰還者〟と言いましてもその〝帰還深度〟はまちまちなんですけれども。彼女の場合は、なんとね――その全存在情報構成の99.9999パーセントまでを、一旦は失ってから『帰って』きているんですのよ」
「そんな……!」
「……そんな、の。生きて帰ってこられる、はずが」
うふふと。
ふたりの表情が驚愕に染まるのを見てから、エイメールは心底おかしそうに嗤った。
「ねぇ、そうでしょう、アリーゼルさん。あなたなら〝オランジーナ・シンドローム〟は知っていますよね。有名な話ですものね」
「わけ分かんねぇ……なに言ってやがんだ、てめぇは!」
斬り合いを止めて呆然とこちらを見ていたアイバたちへと、エイメールは待ち構えていたように妖艶な笑みをこぼし……再び、スフィールリアに視線を戻す。
「本当に――なんて恐ろしい。バケモノじゃないですか」
スフィールリアの肩が、びくりと、震えた。その顔面はすでに蒼白で、すぐにでも倒れてしまいそうなほどに姿勢の平行が定まっていない。
「なんだと……!」
「〝帰還者〟の本質がソレなんです。〝帰還者〟は自己の欠損を補うために、周囲にいる他者を取り込もうとする。……存在のほとんどを消されたあなたがそれを補うために、いったいどれほどの生贄が必要なんです? いつか取り込んでやるつもりで、この人たちに近づいていたんですか?」
「ち、ちが……あたしは、そんな、こと」
「本当にそう言いきれます? あなたが〝帰還者〟の理を変えられるとでも? たとえばあなたの言葉と、あの有名な〝オランジーナ・ミッシェリカ〟なら、皆さんどちらを信じるでしょうね?」
「ちが、う……」
「説得力、ないですよ。あなたがこんな風に出会ったばかりの他人のために身を投げ出すような向こう見ずをするのだって、すでに他者との混同が現れる兆候なんじゃないですか?」
「ちが、う……よ。あたしは、ただ、うれしかったから……それだけで……」
「あぁ、それを言うなら――あなたが普段からやたらとこの人たちと距離が近かったりスキンシップを取りたがっていたのも……そのため、だったのかしら」
「っ……」
スフィールリアは膝から力を抜かして<縫律杖>にすがりついた。その背を追い、エイメールはぴたりと手の位置を合わせる。逃がさない、とでも言うように。
「どうですか、アリーゼルさん、フィリアルディさん? どんな気持ちでしたか? 今まで気楽につき合ってきていたこの人の正体を知って。今までずっと、危なかったかもしれない。その事実を知って。ずっとあなたたちを騙していたんです」
答える声は、なかった。
ふたりはただスフィールリアとエイメールを見比べている。その表情が険しいのは、エイメールに打たれた苦悶か。それとも――
スフィールリアも、もう、なにも言えなかった。だれも見られない。どちらかだなんて考えたくもなかった。ただ地面へ水平に顔を落として、涙と汗の混じった水を落とし続けることしかできない。
「やっぱ、わけ、分かんねぇ……なんなんだよお前。なんでなにも言わねぇんだよお前ら……なんでソイツはそんな泣いてるんだ! なんか言ってやれよ! 全然、分かんねーよ!!」
聞こえよがしに舌打ちをしてくるアリーゼルに、アイバは強い視線だけを叩き返した。アリーゼルはさらにやり返すみたいにその場の地面へこぶしを叩きつけたが、やはり、言葉はなかった。
「おバカさんがここにひとり、ですね。ことの重大さがさっぱり分かってないんですよ。ねぇ、アリーゼルさん?」
「……」
「ソイツはソイツだ。なんかわけ分からんリクツ並べ立てようがそれは変わんねーだろ――結局、テメェはなにがしてーんだ!」
「ええ、それは」
アイバは自らの失敗を悟った。アリーゼルの舌打ちの意味も。今は話の内容にかかわらず、時間を稼ぐべきところだった。
思い出したように、あまりに唐突とスフィールリアに向き直ったエイメール。その背に合わせていた手のひらを触れさせ――グイと押し込み始めたのだ。
「こうする――つもりなんです、よ」
「……っ!? や、め……ダメ、エイメール!」
しかしエイメールは聞かず、スフィールリアの背を追い立てるように押し続けた。たたらを踏み、徐々に彼女の身体が、術式の内部――不完全なゲートへと近づいてゆく。
七色のタペストリーが、その球形をたわませ始めた。
スフィールリアの集中が乱れただけではない。その手首にはめられた腕輪が、なんらかの強力な妨害を働いているのは明らかだった。
「てめぇ!」
踏み込んだアイバの前へ再びフィオロが立ちふさがる。アイバは手加減を棄てた。
今まで前面に掲げていた聖剣を手首で翻して、異様な型の構えを取る。半身を引いた右肩に大剣を担いだ異形の上段。しかしフィオロはそれを見ただけで己の敗北を悟った。自分はこの一合で死ぬ。それでもここで彼は止める。刺し違えてでも――
だがアイバが次に取った行動は、彼女の予想をまるで外したものだった。
「お願い、やめて――みんな死んじゃう!」
一方のスフィールリアは、エイメールに押されながら、必死に術式を維持し続けていた。今このゲートを弾けさせれば間違いなく全員死ぬ。
「大丈夫です。このお守りが護ってくれますから。死ぬとしたらあなただけ」
一歩。また一歩。押し込まれてゆく。
なお、スフィールリアは懇願した。
お願い――
謝るから――
学院を去ってもいい――
あなたの前から消えるから――
「ダ・メ、です。そう言って、ただ逃げたいだけなんでしょう――卑怯者。ここで消えてください」
エイメールが最後のひと押しをした。スフィールリアの細い身体がゲートへと吸い込まれる、その、直前に。
「うおおおおおおおおッ!!」
「っ!?」
突進するままにフィオロの身体を股下から掬い上げて担いだアイバが、エイメールたちの背に体当たりを食らわせ――
エイメールの腕輪の拘束が解けた瞬間、スフィールリアが直感だけで強引にゲートの練成を完成へと向けて突き走らせる。
その成否を確かめる暇も余裕もなく、四人の身体が組んず絡まり、もつれ込むようにゲートへと沈んでいって。
「っ!!」
その場で雷が発生して弾けたとでも思うような激烈な閃光と轟音を立て、ゲートが弾け飛んだ。
アリーゼルたちが顔を上げると、もうそこに、四人の姿はなかった。
淡い光をこぼす、こぶし大なゲートの残滓だけを残して。
ゲート周囲の土の地面に刻まれた幾条もの螺旋の傷痕が、起こった衝撃のすさまじさを物語っていた。
「そんな……スフィールリア、は」
「まさ、か」
答える者はない。静寂だけがあった。
しかし、変化は終わっていなかった。
ゲート内に揺らめいた影に、ふたりが目を見開く。
そして、そこから――ソレが現れたのだった。
◆
「…………ぅ」
全身を蝕む痺れと、痛みに、スフィールリアは意識を覚醒させた。
ごう、と音が聞こえてきそうなほどに質量を感じさせる〝霧〟が鼻先をすぎて。
スフィールリアは両肩を抱きながら立ち上がり、痺れと痛みの正体は『寒さ』だったのだと気がつく。
防寒着は失われ、ノンスリーブと、上着。そしてスカート。――普段着の姿に戻ってしまっていた。
同時に、気がつく。
周囲の、風景に。
「……」
スフィールリアは倒れていた芝の地面を踏みしめ、その断崖の縁から見下ろせる景色を呆然と見渡した。
「たどり、着いた……」
霊峰の頂に失われし、天空の都。
すべてが眠りについたまま〝霧〟へと消え去った、黄昏の庭。
そして――今は。
「〝霧〟の鐘楼…………」
そびえる尖塔。渡される架け橋。段連なりの田畑と、色鮮やかな屋根の群れ。
見果てる壮麗な都の影を隠して、険しく複雑な山間に、雲海よりもなお深い〝霧〟の海がたゆたう。
「……………………」
その寂寥の風景を前に。
スフィールリアは、ただ、立ち尽くし続けていた。