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「状況を整理しましょう」


 学院の中央広場と呼ばれている一角のベンチに隣り合って。受講をしていない生徒たちの行き交う穏やかな喧騒を聞くこと数分して、アリーゼルが最初に口を開いた。

 スフィールリアは、怪訝に彼女を見た。


「あたしを止めにきたんじゃなかったの?」


 アリーゼルはなにをつまらないことをとでも言いたげに、肩をすくめるだけだった。


「もちろんですわ。しかしマックヴェル教師殿のおっしゃられた今現在の学院の状況のことと、わたくしたちが見なければならない状況とは、また少し、違うものなはずです」

「……」

「ひとつに、まず重要なことは、事件の真相つまり『犯人』の究明や捕縛などをしたところで、すでに事態の収拾は不可能だということです。わたくしたちにとって重要なのは、フィリアルディさんの処遇がどうなるかという一点のみにすぎないのですから。

 相手国さんはたしかにお気の毒ですけれど、国宝のことも、犯人の目的手法のことも、ですからわたくしたちにとっては大した問題ではありませんわ」

「でも……」


 分かっていると言う風に、アリーゼルもやや渋面でうなづいた。


「わたくしも、まさかエイメールさんがあそこまで堂々と表に出てきなさると思ってはいませんでした……事件のすべてが不明の脈絡なしということで一応、フィリアルディさん周りのあなたつながりという線で彼女の経歴や行動なんかも調べてはあったんですけど」

「……あたしは、全然考えてもなかったよ。あたしを攻撃するために、あたしの周りの人を追い詰めるだなんて」

「……。むしろあなたのことをよく見て、よくご理解された上の手だと思いますわ。ですが逆のことを言わせてもらいますと、わたくしが不本意にも家の力を使って調べ上げた彼女の環境や力量、そして当時の所在など。すべてを取っても『ウィズダム・オブ・スロウン』の破壊工作は不可能でした。そして、あれほど露骨にあなたを挑発しにきたというのなら、実際に事件の解明は不可能なのでしょう」


 スフィールリアの顔には納得まではいかないにしても、理解の色だけはあった。アリーゼルはうなづいた。


「ですからわたくしたちにとっても、それ自体は無意味なことです。彼女が出てきたことでこちらにとっての状況も、一時間前よりは少しばかり変わってしまったという点だけは認めるしかありませんが」


 スフィールリアも、うなづいた。

 視線は正面の青々とした芝風景にやって、まぶしそうに、つぶやいた。


「分かってるよ……フィリアルディの気持ち、でしょ」


 広場の景観は平和そのものとしか言えなかった。陽気はよく、希望にあふれている。始まった生活と競争に熱意を湧かす新入生も、彼ら新しい風に沸き立つ上級生も。蒼い空も。

 今も学院の片隅で失意に沈むフィリアルディがいるなんてことも、まったく感じさせないくらい。まったく――いやになるくらいに。

 アリーゼルが、小さく吐息をつくのが聞こえた。


「ですわ。ついでに言うなら、お互いのことについてもです。それをこそ、彼女は気になさっているのですから」

「…………」

「今の状況でわたくしたちが、なんらかの方法でフィリアルディさんを助けようとするなら、それはあなたがしようとしたように『ウィズダム・オブ・スロウン』の修復に手を貸すか、もしくは彼女が退学になった時のために日銭を稼いだり、あるいはそのお仕事を退学までの期間、彼女自身がするための手助けや仲介をするくらいです。……ですけどそれは、彼女にとっては脈絡のない『施し』にしかならないことなんです」


 スフィールリアは、フィリアルディの声を思い出していた。――うれしいだなんて思わない。


「そうですわ。そうでしょう。彼女とて数々の試練を乗り越えてこの<アカデミー>の門扉をくぐったおひとり。試されるべきなのは自身の力で、伸ばすべきは自身の力という覚悟と自負を抱いてきているのです。見た目や見かけの性格になど惑わされないことですわ。

 ――わたくしたちが互いに関わるのなら、わたくしたちは、互いになにかを手渡せる同士でなければなりません。それは互いの前進や気鋭を示し合って得られる刺激であったり、日々をさびしくなくすごせるための温もりであったり。……ですが『それ』で済ませていてよいのは、それこそ日常の範囲までです。今の状況がそれを大きく逸脱していることは、彼女自身がよく分かっているのですわ」

「……うん」


 それに。と、アリーゼルは声音を一段暗くして、力なくつぶやいた。


「それに――今の彼女は学院でほぼ完全に孤立しています。わたくしたちが中途半端に近づいたり力を貸したりすれば、わたくしたちにまで有形無形の害がまとわりつくことになります。彼女は、そちらをこそ恐れているのでしょうから。……そういうお人だって、分かってらっしゃるでしょう」

「うん。――うん。分かってるよ。ありがとう、アリーゼル」


 スフィールリアも、もう、この目の前のとても聡明な少女が目的に必要なもの以外は見ない単なる冷たく乾いた綴導術士だとは思っていなかった。


「ごめん。アリーゼルに八つ当たりしてた。アリーゼルが一番、フィリアルディのこと考えてあげてたのにね」

「別に。どうってことありませんわ。謝罪ならフィリアルディさんにどうぞ」

「うん。――だから、しっかり考えるよ」


 スフィールリアはもう一度、強くうなづいた。


「あたしが本当にするべきことが、なんなのか。なにができるのか。本当にそれをしていいのか……全部しっかり考えて、分かってから、決めるよ」


 そしていく分かはすっきりとした表情になって、こちらを見てきていたアリーゼルに目を合わせた。


「だから、三日ちょうだい。こういう時は、だいたいそれくらいで結論出るから」

「……」


 その時――彼女らの座るベンチのうしろにあった木の影から、押し殺した声がかかった。


「失礼――お嬢様。そろそろお取引の時間が」


 口元までを隠した黒装束の鋭い目つきをしたその男に「分かりましたわ」とだけ返事をして、アリーゼル。スフィールリアから顔の向きは外さないまま立ち上がり、こちらも微笑して、両手を広げて見せたのだった。


「分かりましたわ。ちょうどわたくしもいろいろと準備で少し慌しいので。それくらいでちょうどよいでしょう」

「忙しいの? なんかごめん」

「構いませんわよ。正直に白状しますけど、わたくしはあなたにも期待はしているのです。つまらない理由で学院を去られても困るのですわ。ですから……色よく聡明なご判断が得られることを、願っておりますわ」




 それからスフィールリアは、考えを整理するつもりで<アカデミー>内を、つらつらと歩き通っていた。

 考えるつもりでいながら、気がつけば視線は<総合クエスト掲示板>の依頼各種に、図書館では『ウィズダム・オブ・スロウン』の文献を、<アカデミー・ショップ>や<アカデミー・マーケット>では販売されている素材の品々の値段、販売期間などを眺めて、細かい計算などを組み立てている自分がいた。埒が明かないので自室に戻ってみたところで、結局は同じだった。イガラッセの依頼を消化する気分にもなれず、机に突っ伏して、いろいろなことを考えていた。

 いろいろなことが頭をくるくると巡っていった。ここにきてから今までにあったこと。ここにきて出会った人たちの顔も。


 学院長やタウセンなどといった、自分などでは及びもつかない頂点にいる者たち。師と暮らし、師の背中しか見てこなかったころの自分では想像もしたこともない広い世界だった。イガラッセ教師は今も自分の水晶水を待ちわび、同時にほかの有望な生徒へも依頼の打診に回っているのだろう。彼だけの、なんらかの目的に向かって。

 家の威光を頼らずに真の綴導術士を目指すためにがんばっているアリーゼル。故郷の活性化を助けたいと望んでいるフィリアルディ。今、どんな気持ちで、自室で作業に挑んでいるのだろう?

 そのほかにも、今この瞬間もそれぞれ知らない目標や情熱を持ってそれぞれの生活を送っている生徒たち、教師たち、街の人々……。

 フィリアルディのように挫折に暮れている人もあり、成功に湧き返っている人もいるだろう。あるいは一度は苦境に立たされながらも、再起の道を見つけて立ち上がろうとしている人も――。


「……」

 



 気がつけばスフィールリアの足は<国立総合戦技練兵課>へと向かっていた。




「よっ。久しぶりってほどでもねーな。どーしたんだ?」


 その正門前で退屈そうにしているアイバの顔を見つけたので、スフィールリアは少し戸惑いつつも残りの距離を近寄っていって、彼に笑い返した。


「うん……ちょっと、どんな調子かなって。でも入り口で会えるとは思ってなかった。見張り?」

「そんなとこだな。小さなとこからこつこつと。今まではサボってきてたこんなこともしていかねーと、教官たちの心象も戻んねーし、ロクなこと教えてもらえねぇ。今までの倍以上で技も悪知恵もブン取っていかなきゃなんねーからな!」

「がんばってる、ね」

「おう、借りは実績で返すぜっ。……お前は、少し元気がねーな。どうした? 大丈夫か?」


 スフィールリアは顔の向きを落として、なにを言おうか考えた。

 もともと、なんとなく様子を知ろうと思ってきただけで、なにを話すというつもりでもなかった。自分の状況を伝えてどうなるでもない。直接会わなくてもよかったのだ。


「ねぇ、アイバ……なるべく行動の秘密を守って、ちょっと危ないところでも黙ってついてきてくれるような『裏方面』に強そうな戦士さんとかに心当たりとかって、ある?」

「……」


 気がつけば、そんなことが口をついて出てしまっていた。しまったかなとは思いつつも、


「あー、それかこないだ言ってた<猫とドラゴン亭>の紹介屋さんとか。ひょっとしてあそこなら、そういう人、いないかな。あたしのこと、マスターさんに紹介してもらうことって、できる?」


 話すごとに、アイバの眉が怪訝にひそめられていった。


「……ヤバいのか?」


 スフィールリアは慌てて手を振り取り繕った。


「ああっ、違う違う。ちょっとまだ、考えの整理がついてなくって。まだそうって決まったわけじゃないんだ」

「……。って言われてもな。お前の言う通り護衛の求人紹介もしてるよ。だけど『裏家業の経験アリ』つったって、具体的にどんなことなのか分かんねーと、薦めることもできねーぜ。いくら連中だって完全非合法でやってるってわけじゃない。できることと絶対できねーことがあるからな。

 具体的になにしてほしいのかは、むしろはっきり言わなきゃダメだ。俺もマスターへの義理とかあるし。あとで突拍子もない要求されたとか契約側から言われたら、マスターの看板にもドロ塗っちまう」

「……」

「言えよ。俺に言うだけならタダだろ」


 スフィールリアは、白状した。


「こないだいった〝霧の杜〟にね、もう一度いく……かも、しれないの」

「……素材の調達、か? だけどあそこはほとんどの範囲が監視レベル上がっちまって、だいぶ手前の段階から立ち入り禁止区域になってるぞ。それなりの資格がないと、歩けるのは、お前が見た通り地面と木しかないところだけだ」

「うん。だから……護衛はそこまででいいの。護衛がいないと入場許可自体が出ないでしょ。そこから先は、あたしだけでいくから」

「はぁあっ!?」


 思った以上の大声が返ってきてスフィールリアはビクリと顔を上げた。


「おま、お前! なに考えてんだそんなのダメに決まってるだろーが!?」

「い、言うだけならタダって言ったじゃない! 怒らないでよ。それにまだ絶対そうするって決まったわけじゃないんだってば。……無理そう、かな?」


 怒らねーとは言ってねぇ! と一旦はそっぽを向いたアイバだが……そのまま思案するような顔つきを浮かべ、次に、向き直ってきた。


「絶対に無理ってわけじゃない。だけどほとんど無理だぜ。考えてみろよ――〝護衛〟職なんだぜ? そんな雇用者を頼まれて見捨てるような仕事は仕事じゃねーし、だいいち、表向きはあくまで〝護衛〟として受けて出かけるんだから、依頼者を護りきれずに帰ってきたら自分の評判に傷がつくだろ。だから、無理だ」


 死ぬつもりはないのだが、そこは言い募る意味のある点じゃないと思い、スフィールリアは気まずくうつむいた。仕事を募集している戦士職にとっての事情は、まさにアイバが語った通りだからだ。


「分かった。紹介だけはしてやるよ。その代わり、交換条件な」

「え?」


 アイバはポケットから取り出したメモ帳に速記でなにかを書きつけながら、こう言ってきた。


「もしコイツが必要になったら、その時は<猫とドラゴン亭>いく前に、かならず俺んところに相談にこい。そんな無茶な要求するはめになるよりはよっぽどいいだろ。お前の護衛、だれも受けてくれなくなるぞ」

「そんな。だからってアイバは巻き込めないよ。せっかく合格できたんだよ」

「ほかのヤツなら巻き込めるのか?」

「……」


 アイバは破った紙片を差し出しながら、返事がどうくるのか分かっているみたいに笑った。

 スフィールリアは紙を受け取った。彼女を紹介屋に通したい旨と、アイバの署名が記されたそれを。しかしなんと言ってよいか分からなかったので、礼の代わりに息を抜いて笑いかけた。


「……なに、これ。顔?」

「俺の顔だよ。そしたら俺の紹介だって間違いなく分かるだろ」

「たしかに、すごい独特だわ。これなら間違えないよ」

「う、うるせえっ!」


 絵心に関する自覚が一応はあるらしいアイバは、一度赤くした顔面を咳払いで戻して、念を押すように紹介状の紙片を指差した。


「いいか。とにかく、そういう危ない橋渡るんだったらまず絶対俺んとこにこいよ。そのヘンのヤツらなんざに任せておけるか。っていうかもう絶対やるだろお前。っていうことは絶対俺んとこにくるってことだからな。絶対だぞ。すっぽかしたりしたらタダじゃおかねーからな」

「……そんなに突っ走りそうに見えてる?」

「ああ見える。お前はそーいうヤツだ」


 釈然としないながらも反論が思いつけずにいると、


「だれか、助けてやりてーやつがいるんだろ」

「……え」

「分かるって。入学式ん時と同じ顔してやがる。最初っから全部決まりきってるみたいによ」

「……」

「そうしなきゃ、ダメなんだろ」

「……」

「そうしたいんじゃない。絶対に必要なことなんだろ。ここくる前から、必要なこと全部、分かってんだ――そういうヤツだって言ってんのさ。お前のそういうとこ、俺は気に入ってるんだぜ。だからむしろ、ヘンに気ィ遣ってがっかりさせんなよ」


 最初から全部、分かってる――そうかもしれない。と、スフィールリアは思った。

 状況が示す意味。必要なこと。結局のところ、そんなことはアリーゼルと話をしているうちに洗い出してしまっていたのだ。師が不在の時もどこぞの有力者の依頼を代わりに受けて、自然とそうすることが身についてしまっていた。彼らがわざわざ師を訪ねてまで求める品に、たったふたりで挑まなければならなかったのだ。

 相手は貴族。標的は自分。目標は国際問題の力学渦巻く国宝『ウィズダム・オブ・スロウン』。

 手を出せば最後、その破けた旗地が巻き込む騒乱の渦に、自分も捉われる。それだけではない。多くの顔も知らぬ教師や役人、タウセンや学院長にまで迷惑が及ぶ。自分と仲良くしてくれていたフィリアルディと、アリーゼルにも――

 スフィールリアが気にしていたのは、入学式の日に引き続いて彼女の行動を、学院がどう思うか――ひいては、フィリアルディやアリーゼルに嫌われてしまわないか。

 それだけだった。


「傷つけちゃわないかな」


 それは、ただの確認にすぎなかった。


「分かんねーよ。でも、『それも』、分かんねーはずだろ。お前が教えてくれたんだ」

「うまくいかない方が大きいの。がっかりさせちゃうかも」

「いいだろ。そう思った上でも必要だからここにいるんだ。うまくいったら笑えばいい。嫌われたら一緒に笑い飛ばしてやる。借りは、返すぜ」


 今、告白していることも。きっと、ここにきたことも。だけどそんな回り道な階段にも、目の前のアイバは嫌な顔ひとつせずにつき合って一緒に登っていってくれる。


「そう、だよね!」


 つき合いがよすぎるなとスフィールリアは思った。だからあれだけ街の人たちにも好かれるんだろう。うわべだけのつき合いのつもりな人なんて、きっといやしないのではないか。

 だから、アイバは巻き込めないなと思った。

 スフィールリアは、こぶしを握り込んで前に出した。


「やるか!」

「おう! ぶっ飛ばしちまえ!」


 スフィールリアはうなづいた。その片方のこぶしをアイバの差し出してきたこぶしに打ち合わせて、ぱっと走り出した。


「よぅし。やるか……アイバ、ありがと!」

「がんばれよー!」


 と、追いすがってきた声に一度だけ振り返って、元気よく振り返した。

 また走り出し、空を見上げた。

 陽は落ちて、長くなった昼を名残すように夕と夜の堺が溶け込み、澄み渡るような薄紫の天幕が広がっていた。この空も、どこまでも続いて自分の未来へとつながっている。もうこの空をうすら寒く冷たい色だなんて思わなかった。

 どこにだっていける。あの人に会える自分になるためならば。少なくとも本当に好きになった友達を見殺しにしてまで学院にいなければいけない理由なんて、あるはずがない。出会った日にちなんて関係ない。これが本当の気持ちだ。

 人間は、とても賢くて、とてもバカな生き物なんだなと思った。やりたいことや必要なことはほとんど最初っから分かってる。だけどその賢い自分は早すぎて、いつだって今の自分は置き去りにされていってしまうのだ。

 だから『本当に』大切なことを立ち止まって見つけることだってできるし、逆に損をしたと思ってしまうようなことにも見舞われる。

 スフィールリアは今回、目の前のソイツを全力で追いかけることにした。


「やったるぞー! ぶっ飛ばしてやる! えいえい、おー!」


 空を翔る渡り鳥が追い越してゆく。その白い影にこぶし突き出し、スフィールリアは全身全霊で走り込んでいった。



 そして、翌日の朝。


「たのもー!」


 バタン!

 と派手に開かれた扉の音に、飛び上がりそうなほどびっくりしたフィリアルディの姿があった。

 スフィールリアはかまわずにヅカヅカと室内に侵入していった。


「お邪魔しまーす。おはよフィリアルディ。あ、まだ作業してたんだね。ちゃんと眠ってる? やっぱりカギかけてなかったね。ちょっと見せて……あーあーこれも全部ダメだよ無理しちゃダメだって言ったのに。ダメだよ戸締りはしっかり用心しなくちゃ。あ、朝ごはんもう食べた?」

「え? ……えっ? あの、スフィールリア、突然なにを? えっと、ごはんは昨日からずっと眠ってなくて、カギがのどを通らなくて、作業を食べてて? ……え?」


 ひたすら目をぱちぱちさせている彼女から駄目になっている無駄な刺繍細工を取り上げてうしろに放り投げ、スフィールリアはベッドの上に散乱したままの『ウィズダム・オブ・スロウン』のパーツに身を乗り出した。

 片っ端から選別を始める。


「なにを……しているの」


 スフィールリアはなんということなく即答した。


「選別」

「お願いやめて……昨日あんなに言ったのに! お願い、ちゃんとお話しよう?」


 ぞっとしたようにフィリアルディが肩を掴んでくる。彼女の声は怒ってすらいたが、今度はスフィールリアも退かなかった。


「ごめん、時間が惜しいの。話なら作業しながらでいい?」

「だから、そんなことをしたらあなたまで――」

「――と分かった上で出した答えが、それですの?」


 顔を上げると、アリーゼルがいた。

 つい先日もあった構図だが……立ち上がり、今度はスフィールリアが肩をすくめて見せた。


「三日も経ってないけどね」

「ですの」


 まったく同じように肩をすくめるアリーゼル。違う点と言えば、抱きかかえているものがポートフォリオでなく重量を感じさせるリュックサックというところだけだ。

 そのまま、厳しい眼差しになって投げかけられてくる彼女の言葉を、スフィールリアはまっすぐ受け止めた。


「学院にいられなくなりますわよ。それどころか、二度とこの王都に足を踏み入れられなくなりますわ」

「分かってる」

「あなたに期待をかけているすべての者を裏切ることになります。あなたを拾い上げた学院長先生のお顔にも泥を塗ることになるんですのよ」

「それも。でもここの人たちは、そんなに弱くないって信じる」

「自分勝手の極みとはこのこと。フィリアルディさんのご好意も無駄になさるんですのね」

「うん。悪いけど、ここは譲れない。どの道ここを通らないと、あたしは学院にいられなくなるのと同じだから」


 睨み合う時間は数十秒ほどもあった。ぶつけ合われた圧力は、この場でもっとも怒りを表明してよい立場にあるはずのフィリアルディが、泣き出しそうになるほどだった。

 そして――


「そこまで分かっているなら、仲間外れにする理由もなくなりましたわね」


 と、お手上げのポーズを作って力の抜けた笑みになる。


「え……?」


 呆然とした声を出したのはフィリアルディだった。

 かまわず入室して丁寧に戸を閉めたアリーゼルが、スフィールリアの隣へかがんで選別済みの金銀取り取りな部品を、さらに半分ほどにかき分けた。彼女がどういう視点、どういう基準で選り分けていたか、分かっていたように。

 降ろしたリュックサックから取り出した空の袋へ、そのもう半分を大雑把と落とし入れた。

 スフィールリアに目を合わせて、アリーゼルは断じるように強く言う。


「ここまでは、不要です」


 部品が立てた音は、リュックを降ろした時の音と、ほとんどが一緒だった。


「――分かった」


 たしかなものとなった確信に、スフィールリアは満面の笑みでうなづいていた。


「なにをしているの……ふたりとも……」


 押し殺した震え声と、肌にできるほど湧き立ってきた怒気に……ふたりは一旦下がってフィリアルディの正面に立った。

 フィリアルディもベッドから立ち上がる。

 果敢にも最初に口火を切ったのは、アリーゼルだった。


「アリーゼル・フォア・フィルディーマイリーズ。ゆえありまして、この純正A級国宝『ウィズダム・オブ・スロウン』、手を出させていただきますわ」

「どうして……!」


 昨日以上の爆発を思わせる震えに、フィリアルディの肩幅が一回り大きくなるほどの錯覚を覚える。しかし彼女はすぐにしぼんでかぶりを振ると、とことん失望した風に、泣き出す手前の声で拒絶の意を示してきた。


「これを動かせば、いくらあなただって――ううん、もういい――本当は違うの。ふたりとももう大嫌い。最初から好きじゃなかった。本当はひとりで静かに勉強したかったの。だから出ていって――」


 扉を指し示した彼女がたじろいで下がったのは、スフィールリアがさびしそうに笑い返してきたからだった。


「分かった。出てく。今までごめんね、フィリアルディ」

「……っ」

「でも、『ウィズダム・オブ・スロウン』は預かっていく」

「…………スフィールリアッ!!」


 ついに張り裂けたフィリアルディの憤怒の声にも、スフィールリアは簡単に手を出して否定するだけだった。


「勘違いしないで」

「っ……!?」

「これは、あたしにとって必要なことなの。あなたのためだけじゃない。――今回のコレは、あたしを攻撃することが狙いだったんだ。だからコレは、あたしが片づけなくちゃいけない問題なの」

「え……?」


 フィリアルディがまだ落ち着かない表情の中に不審を混ぜてふたりを見やると、ふたりは顔を見合わせて肩をすくめ合っている。


「今を黙ってやりすごしたところで、同じことですわね」

「そういうこと。それどころか、今回の手でうまくいかなかったって分かったら、次はもっと直接的で強い手を打ってくると思う。だからここでどうにかしなくちゃダメ。……巻き込まれたフィリアルディには、本当に悪いって思ってる。だけど今回のことをどうにかできたら、少なくともフィリアルディは大丈夫になると思うから」

「ですわ。むしろ純正Aランクの国宝に手を出すなんてことは、そうおいそれとできることじゃありませんわよ。ここでこの問題を解決することは、最大級の危機にして、一転最大のチャンスですわ。周囲に本気で面白くない目をしている方がいましても、まず手を出そうだなんて思わなくなります。無駄なやっかみを一掃する絶好の機会ですわ」

「そうだね――」

「ちょっと、待って……スフィールリア。なにを言っているの、アリーゼルも――」


 怒りの行方もろとも完全に置いてけぼりにされておろおろとし始めるフィリアルディ。彼女に――


「フィリアルディは、どうする?」

「――――」


 ふたりの静かな眼差しが重なって。フィリアルディは、なにも言えなくなってしまった。

 ここに至り、両者の立場は完全に逆転してしまっていた。もはやフィリアルディにふたりの介入を拒否する権利はない。いや、最初からなかった――『ウィズダム・オブ・スロウン』の保存責任を持つのは学院であり、彼女はただ学院の独断でこのアイテムを預けられているにすぎない。

 でも――


「……でもわたしは、ふたりにしてあげられることが、なにもない…………」


 ふたりの返答は、軽かった。当たり前のことを告げるだけのように。


「だったら、『借り』は返してくれたらいいよ」

「ですわ。わたくしたちとて学院生。そこはしっかりと借用証書でも用立てればいいだけのこと。しかしその約束さえしてしまえば、ほとんどの問題はクリアできるでしょう。未来の分も含めて不公平分を帳消しにすれば、わたくしたちは対等です」


 スフィールリアとアリーゼルは互いの手を重ねて、もう一度、フィリアルディを見た。


「一番いいのはこのまま放っておくことかもね。そうすれば失敗しても、少なくとも退学だけで済む」

「退学にしかならない、とも言えますわ」

「でもあたしたちはこの状況を引っくり返す。だからここからは、フィリアルディ次第」

「わたし、は……」


 フィリアルディは、しばらくふたりの手を見つめていた。

 乗るか反るかの大一番。と、呼ぶにはあまりに小さく、繊細でやさしいふたりの手。

 一分、見つめて。


「わたしは……」


 そこに、彼女は自分の手を、重ねた。

 うなづく彼女の瞳は、力を取り戻していた。


「わたしは――わたしも、やるよ」


 普段は表に出すこともない、その内に秘めた熱意の光に。

 ふたりも、うなづき返していた。




「そう……エイメールさんが。そんなことを……」


 三人がまず取りかかったことは――宣言通り、三人分の借用証書の作成だった。

 素材の工面費および作業工程における三人の負担は決して等分にはならない。このことへ対して、フィリアルディが将来の金銭か仕事での代替支払いを約束する証書だ。


「わたし、絶対にふたりに借りは返すよ。絶対に、返せるわたしに、なるよ」


 三枚目の証書への署名と拇印を完了したフィリアルディが、静かと書記机に筆を置く。

 その手が握り締められることはなかったが、双眸に宿る光は強くなっていた。


「わたし、すごく――悔しい。だってこういう手を選んだっていうことは、スフィールリアじゃなくわたしだったら、簡単にどうこうできるって思われてたってことだもの。わたしを使ってスフィールリアをどうこうしようって、そんな道具にされたことが、すごく、悔しい」

「そう。ですからこれは――証明書なのですわ。わたくしたちが決してだれかひとりが劣る者というわけではない、対等な学院生であることの。これは取引です」


 アリーゼルの言葉に、スフィールリアとフィリアルディもうなづいた。


「あたしたち三人が今まで通りの関係でいるためにも、これは絶対に必要なこと」

「今のわたしが絶対じゃない。それでも――今できるすべてを、ここで出し切ってみせる。ふたりに並んだわたしに届くために」


 今ここに、三人の意思はひとつとなった。

 ――と。


「――なーんて、ほんとはフィリアルディのこと助けたいだけなんだけどねっ」


 スフィールリアが唐突に気楽な調子に戻って、身もふたもないことを言ってきた。


「スフィールリア……」

「せっかく気合が入ったところだというのに、まったく……」

「でもそーいうアリーゼルだって~。アリーゼルが一番、手ぇ出さなくっていい立場なんじゃないの~?」

「……なにを言っているのか、分かりませんわね。わたくしも。わたくし自身ののっぴきならない事情があるんですの。今の環境がわたくしにとってはベストなんです。それをくだらない理由で邪魔されたり、壊されたりするのは非常に不都合なんですわよ」


 気まずく眉をしかめたアリーゼルの〝逃〟弁を、スフィールリアはにやにや笑いを浮かべて聞いていた。


「…………。それに純正Aランクの品に手を触れることができるなんて、一学年ではまずお目にかかれないチャンスなのです。これをなんとかすることは、学院中の注目を一手とすることになるんですのよ。あなただけなんかに独り占めされてたまるものでしょうか」


 にやにや。

 にやにや……にやにや……。


「~~~~~~っ」


 ついにアリーゼルは真っ赤にした顔と涙目でスフィールリアに食ってかかった。


「――なんですのっ! えぇわたくしだってフィリアルディさんを助けたいって思ったんですの! ……だって、入学して、初めての……わたくしを敬遠しないでお話してくれるお友達だったんですっ!!」

「かぁいいなぁ…………」

「なんですの……よだれが垂れてますけどなんですのそれは……近寄らないでくださいまし……!」


 ジリジリと……睨み合い……。

 その横で、フィリアルディが、ついに顔面を覆って大泣きし始めてしまうのだった。


「――フィリアルディ~っ」


 スフィールリアごと巻き込まれてベッドに倒れ込んでも、彼女はもう泣き止むことができなくなっていた。彼女たちに押しのけられて落ちる国宝の残骸たちをアリーゼルが文句を言いながら回収する。


「ごめん――ふたりを巻き込んじゃって。わたし、本当はすごく怖くて――さびしくて――」

「大丈夫だよ、フィリアルディ」


 胸の中で泣きじゃくるフィリアルディに、彼女は快活に笑いかけた。


「絶対になんとかなるよ。なんとか、しよう! あたしたちを巻き込まないために、ひとりぼっちで戦おうとしてくれたあなたを、絶対にひとりぼっちになんかさせない」

「なんとかなりますかねぇ」


 と、こちらもベッドに腰を下ろしてため息をつくアリーゼルにスフィールリアは「するの!」と反論しつつ――もう一度フィリアルディを見た。


「なんとかならなくても、なんとかなるよ。ダメだったらさ――一緒に旅にでも出ようよ。一緒にいろんなところにいって、物が壊れた家を回って……腕を磨くことだってできるよ。師匠のヤツを探すのもいいかも。ふん捕まえて、女グセも治させて、今度こそしっかりお仕事させるの。ついでにいろいろ教わればいい」

「うしろ向きですわね。国宝に挑む前に夜逃げの算段ですの?」

「必要な可能性を考慮していると言ってくださいまし――大事なのは、ここで終わりなんかじゃないってことだからいいんだもん。学院はすごいところかもしれないけど、あたしみたいなのだっているんだし。大事なのは、なにをどこで学んだかじゃなくて、なにをするのかでしょ。あ、お金はちゃんと払いますとも」

「……」

「違う?」


 それは実際、とても魅力的な提案だとフィリアルディは思った。毎日、毎朝、目を覚ませば隣に彼女がいてくれる。明るい彼女とともにその日どうするのかの計画を立て、時に暴走する彼女を全力で止めにかかり。まだ見ぬ夢を語り、またまだ着かぬ場所を目指して、そして次の風景へ――

 アリーゼルにも、それは退屈しなさそうな毎日に思えた。

 ふっと息を抜いて、彼女も手放しのポーズを作った。


「ですわ。それじゃあ、その時はわたくしもご一緒させていただこうかしら」

「アリーゼルはおうちの力でなんとかなるんじゃないの?」

「なりませんわよ。学院に入った時点で家はノータッチです。それにどの顔下げて戻れるって言うんだか。しょせんこのていどのことでつまづいて潰されるような者ならそれまでのこと。フィルディーマイリーズの名にふさわしくなかったものと思って、どこから文句が届こうが、どこへゆこうが知らん顔ですわよ」

「そっか。んじゃあ~決まりねっ。――方針が決まったところで、フィリアルディは、まず休んでよ」


 フィリアルディは彼女の腕の中で強くかぶりを振ったが、ふたりの返答は意外なほどに淡白だった。


「そう言われましても。こんな証書は作りましたけど、裁縫技術については、すでにフィリアルディさんが一歩先をゆかれていると言うしかありません。『ウィズダム・オブ・スロウン』の主機関である旗地の部分をご担当なさってもらう――主戦力は、あなたなんですのよ」

「そういうこと。ずっとロクに眠ってなかったんでしょ。まずは少しでも疲労を取ってもらわないと。ちゃんと眠るまであたしたちも動かないからね」


 その通りと、スフィールリアとアリーゼルは、彼女が泣き疲れて眠りに就くまで一緒にいてくれたのだった。




 フィリアルディの部屋の鍵をドアポストの内側に投げ入れてから。

 スフィールリアは野次に近い声でアリーゼルに笑いかけた。


「意地が悪いよ~、アリーゼル~? 自分だけ最初から手を貸すつもりだったんだもんな~」


 目の前の怒りやもどかしさにいっぱいで、最初は気がつけなかった。

 思えばアリーゼルは本当に最初っから、そのつもりですべての行動を起こしていた。スフィールリアにかけてきた言葉の数々も、そうだった。この人数で。問題――わたくしたちにとっての。わたくしたち。


「別に。ウソなどついておりませんでしたわ。なにもご自覚なさらない無様なままの体で関わって潰されるようならお断りするつもりでした。それに、このようなことでお友達を見捨てて尻尾をお巻きになる方など、さっさと見限って別の相応しいライバルを探しに出かけるだけでしたから」

「お友達、って言ってよ~」


 アリーゼルはそっぽを向いて赤い耳を見せた。

 だが、すぐに真顔に戻る。


「ですけど実際、時間は少ないですわよ。わたくしも持てる全力で素材品を用意していましたけれど、まだ半分にも遠く及びません」

「……あたしが、もっと早く戻ってきてれば」

「大差はなかったと思いますけれどね。問題は、そういう問題『ではない箇所』がいくつあるのかという点です。少なくともフィリアルディさんが復調なさるまでの間にはそれを洗い出しておく必要がありますわ」

「…………」


 スフィールリアは、黙って、顔の向きを落とした。

 廊下に降りた沈黙の静謐さは彼女の認識の正しさの表れと言えただろう。


「分かった。あたしも、できる準備はできるだけしておく」

「わたくしもですわ」


 しかし触れざる部分には、今は触れず。ふたりは事務的にうなづき合った。


「もっとも――その中には旅立ちの支度も含めておいた方がよろしいのかもしれませんけれど」

「……」


 別れ際にそう言い残してゆくアリーゼルの背は、本当に当たり前のことを伝えたというように気楽だった。

 彼女の言葉を考え……スフィールリアはうなづき、まず最初に取りかかるべき作業を洗い出した。


「……ぃよっし」


 頬を叩き、スフィールリアは自分の工房に戻った。

 そして――まず、第三研究棟へと足を向けた。




「え……い、依頼を、ぜ、全部、キャンセルで、ですか?」


 頭を下げたスフィールリアの前でイガラッセは繰り返した。


「えと、そ、それってひょっとしなくても例の国宝の件かな……? エスタマイヤーさんとこの、マ、マリンアーテ君の」


 スフィールリアは深く頭を下げたまま、なにも言わない。


「……そ、そっか。こ、困ったなぁ」

「すみません。今まで作った分だけでも台車に乗せてきました。お詫びにもならないと思いますけど、受け取ってください」

「えっ。い、いやいや。それはむしろ悪いよ、う、うん、うん……」


 スフィールリアはその姿勢のままからもう一度頭を下げ直した。

 自分のほかにも、イガラッセは何人もの生徒に同様の打診を同時に行なっているという話は彼女も聞き及んでいた。

 それはつまり、自分が作るはずだった分でも到底足りないということだ。なにに使っているのか本当に検討もつかない量としか言えないが、それだけに彼にとってはとても重大なことで、とても困らせてしまうことなのだろう。自分は彼の信用を裏切り、彼に損害を与えることになるのだ。


「……止めておいた方が、いいと思うよ? 無理だと、思うよ?」


 イガラッセ教師の声はむしろ真摯だった。自分の依頼の行方ではなく、彼女自身を気遣ってくれていると分かるくらいには。

 彼とてこの学院で教鞭を取る『教師』だ。その彼をして、真っ先にそんな提案が出てくる。してくれている。彼女はその事実を決して軽んじてはいなかった。

 それでも――


「それでも、本当に、必要なことなんです」


 頭を上げると、なぜかイガラッセは表情をハッとさせる。寝耳に水滴でも落とされたみたいな、静かな、驚きの顔だった。


「……大切な、ことなんだね?」

「はい」


 そんな彼女をしばらく黙って見つめて、イガラッセ。やがて「うん……うん……」とうなづいた。


「それなら、しかたがないねぇ――頼んだ日からの概算分だけだけど、これ。持っていってよ?」


 懐から取り出してなにごとかを書きつけ――差し出してきたのは、小切手だった。


「そんな。でもあたしが放棄した分を埋めなくちゃいけないのに。受け取れません」


 イガラッセは「い、いいのいいの」といつもの調子に戻って折りたたんだ紙片を握らせてきた。


「君たちは、やっぱり『そう』なんだね。げ、元気づけられてるよ」

「……」

「と、特監の子ってさ。知ってる子なら怖がる子も多いけどね、わ、わたしはけっこう、好きだよ? わたしみたいなファン、け、けっこういるの。えへ。だからコレは気にしないで持っていって。……がんばって、みてよ?」


 スフィールリアはもう一度、深く頭を下げて、イガラッセ室をあとにした。




「自分が馬鹿なことをしているという自覚はあるかね」


 第三研究棟を出ようとすると、どういうつもりか、玄関口でタウセンが待ち構えていた。

 スフィールリアは自分のこめかみをガードしながら、石柱に背を預けた彼に言い放った。


「ありまっすぇ~ん!」


 この際だからとことん嫌われておいてやろうかと思ったのだが、タウセンは動かなかった。ゲンコツもウメボシもため息も返ってはこない。ただ、笑うように、


「ふっ」

「んなっ!」


 一生見ることはない……要するにそんな顔をするような人じゃないと思っていたので、スフィールリアは多少どぎまぎしながら後ずさった。


「……なんですか。釘刺しにきたんじゃないんですか?」

「そのつもりできたのだ。――いいかねスフィールリア君。君が今から取りかかろうとしていることは、真っ先に学院が検討した上で放棄した案だ。無謀と呼ぶのも甚だしいことだ。

 入学したての一学年が、素材ひとつ取ってもAランクの品に触れようというだけでも異常なことだがね。……しかしアレは、『それだけ』の品などではない。素材さえそろえればどうにかなるものなんかじゃない。君になら、分かっているだろうが。

 ゆえに現時点で、学院は君に一切の助力は考えていない。手加減もだ。その上で、聞きたまえ」


 タウセンは組んだ腕も解かないまま、指だけを差し向けて言ってきた。


「夜逃げなどという馬鹿なことだけは考えるな」

「……あぅ」


 見事に目論見のひとつを言い当てられ、スフィールリアは岩でも落とされたみたいに肩を落とす。しかしタウセンはいつもの渋面も見せず、変わらない調子で続けてくる。


「もしも早い段階で無理だということが分かったとしても、それだけは絶対にするな。背負うことになる補償額は莫大なものになるだろうが、しかし学院としても、なにもいきなり君たちを取って殺そうとまでは考えてはいない。意味がないし、ブラックイメージは避けたいからな」

「……」

「だからなにがあろうともかならず、まずは必要な手続きをするためにわたしのところまできなさい。そうでないならば、わたしやほかの手練までが君たちを追い回す立場になる。いいね」

「了解っす」


 両手を挙げて理解を示したのも一秒足らずだ。スフィールリアはその手をそのままうしろ背にやって、気楽に歩き出した。

 今度は、ため息が返ってきた。


「これだけ脅かしてもやはり動じないんだな、君たちは。理解が難しいな……それほど、大切なことかね?」


 スフィールリアは振り返った。


「君は、特監生だろう?」

「はい」

「学院と取引をしてでも、この場所にいようと決めた理由があったんだろう?」

「はい」

「それは、いいのか?」


 もう一度、スフィールリアは淀みない返事を返す。

 次には少しだけ力を抜き、白状した。


「……あたしも、なんです。あたしもアリーゼルと同じで……フィリアルディが友達になってくれて、本当にうれしかったんです。だって、あたしは――先生なら、分かってると思いますけど……えへへ」

「……」

「だから、あたしはここで逃げるわけには、いかない……逃げたらあたしは、あたしを許せなくなる。許して『くれなくなる』。友達がいなくなったあとの学院で明日もあさっても『しかたなかった』ってすごす内に……離れていってしまう。二度と今のあたしに会えなくなる気がするんです。もう一度会いたいって思った、あの人にも……。

 ――だからあたしは、学院でなくてもいい。あたしがここにいる理由をなくさないためなら。そうすれば、どこにいったって、絶対にやり遂げて見せます。それに――」


 一旦は言いよどんでから、彼女が見せた微笑に、今度はタウセンが意表を突かれて「ん」と声を押し漏らすことになった。

 それくらい大人びた表情にあったのは『諦め』の笑みだった。たったのそれだけに、彼女が決断までに考えていたこと、これから言おうと考えていること、すべてが納められているように思えたからだった。


「困ってる人を助けてあげるのが、綴導術士だと……思うんです。あの人があたしにそうしてくれて、今のあたしがいるんなら。あたしもだれかに、友達にくらいはお返ししていかないとって思うんです。先生たちには迷惑かけちゃいますけど、でも、だから……ごめんなさい」

「そうか」


 肯定も否定もせず、タウセンは、簡素にうなづいてくるだけだった。


「ならば、やってみたまえ。ただしわたしの忠告だけはかならず守れ。いいね」


 もう一度「了解っす!」と返事をして、スフィールリアは第三研究棟をあとにした。

 彼女の姿が見えなくなってから。

 タウセンは自分の対面側にある柱の陰へと語りかけた。


「……これでよろしかったんですね、学院長」

「えぇ。もちろん」




 あの場でタウセンに会えたのは予想外ではあったが、ちょうどよくもあった。最後には会いにいこうと思っていたからだ。ただしじっくり言葉は用意してから挑もうと思っていたのでやはり面食らいはしたのだが。よくしてくれた清掃のおばちゃんにも教職員棟に向かったついでにお礼を言っておこうと思っていたので、その予定も狂ってしまった。

 なんだかお別れのあいさつに回ってるみたいだなぁと感じつつも、これでいいのだと、スフィールリアの胸中は平静だった。

 これから自分は、全力であの伝説の品に挑む。

 師と暮らしていた時も最初から最後までは取りかかったことのないものだ。なぜならそれは当然のことで、言えば師でさえ呆れて止めにかかってきたことだろう。無駄だから止めておけと。

 イガラッセでも、タウセンでも。だれであってもそう言うに決まっている。その理由があるのだ。

 だからこそ、これが、最初に必要な作業だった。禍根や気がかりの一切は、残してはおけない。

 これから挑む自分だけの最大の力。最高の秘術。この危機を乗り越え、この場所で。まだ見たことのない、自分だけの――あの人へと届く――初めてのタペストリーを紡ぎ、綴り織ってゆくために。


「……あとは、ひとり」


 だからこそ――そのために。向かわなければならないもうひとりの人物がいる。

 スフィールリアはアリーゼルから聞き及んでいた、〝彼女〟がもっともよく好んで居座るというその場所へと足を向けた。

 この学院の『貴族生』――その中でもっとも輝ける地位にいる、尊き人物。

 エスレクレイン・フィア・エムルラトパという魔女がいるところに。



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