(1-20)
「……だから、早くいこう」
強い表情のスフィールリアに、アイバも同じく、うなづき返して荷を背負った。
スフィールリアたちは、また十時間を歩き詰めた。
彼女が〝修復〟した道は彼女の言葉の通り、進めば進むほどに断絶の頻度と距離が増えていっていた。崩壊はすでに〝霧の杜〟全域に広がり始めていると考えた方がよさそうだった。
ついに十分少々探したていどでは『次』の道を見つけられなくなったので、引き返し、〝刀傷〟のほど近くに残された大きめの枯れ木の下で野営を取ることにした。異変を察知してから数えて丸一日近くは歩き通していた。スフィールリアの体力も考慮しないわけにはいかなかったからだ。
お互いを元気づける雑談と食事もほどほどに。少しでも早く休息を取ろうという向きになってアイバが彼女の寝袋を用意してやると、彼女はそれをクッション替わりにアイバの隣へ座り込み、彼の肩に頭を預けかけた。
「ここで寝るね」
「お、おいおいっ……!」
彼女と抱き合った感触と距離を思い出し、かなりドギマギと動揺を見せるアイバだったが――彼の想像とは裏腹に、彼女の返答は冷静かつ合理的なものでしかなかった。
「さっきくっついてたでしょ。あれと同じ……〝霧の杜〟で迷った時は、こうするのがいいの」
「え。……」
「ほかのちゃんとした訓練受けた人たちがどうしてるのかは知らないけどね。……師匠にね、教えてもらったの。お互いの存在をつなぎ止めるならこうしてお互いの体温とか、感触とか、感じられやすいようにしているのが一番いいんだ、って。だから小さい時、あたしたち、ずっと、こうしてきたの」
「…………。そ、そうだったのか。なるほど。は、はは、は……!」
「? どうしたの?」
「な――なんでもねぇよなんでもっ。実は俺も気づいてた、うん! プロだから!」
「そっか」
しかし実際のところ、彼女の〝方法〟は絶大だと認めるしかなかった。肩肘にかかる彼女の体重と、耳に届くかすかな息遣いにさえ、どうしようもない安息感を覚える。
「ふがい、ねぇ……」
だから、生じた余裕の分だけ、再び己の情けなさを見つめることにもなった。彼女が寝息を立て始めるのを待って、アイバは……こみ上げてくる悔しさを握り潰すように顔面へ片手をあてがっていた。
なにもできずじまいだった。彼女がここまでやってくれたのに。あと一歩で届いていたのかもしれないのに。
〝霧の杜〟を舐めていた。力押しでなんとかなるようなものなんかじゃなかった。こんなにも広大で、取り留めがなくて、理不尽なものだっただなんて。
もっと授業を真面目に聞いていれば。もっと最初から、訓練も任務もくそったれサド教官のいびりにも立ち向かっていれば。
この試験で『終わる』こともなかったのだ。
せっかく――会えたのに。再び心の底から尊敬できるかもしれない友人に。
成果を、彼女に見せてやりたかった。胸を張って報告をして。そこから先は、彼女の前進も聞きながら自分も日々の糧にして――彼女の仕事を手伝ってやるのも悪くないだろう――そして休日にはまた<猫とドラゴン亭>で落ち合って、旨い料理と、仕事を終えた馬鹿野郎たちの清々しい騒音を肴に互いの苦労と目標を教え合って。星空の下で手を振り合い、また明日へ――
だけど今は、こんな悔しさしか、自分は持てていない――
「ここで……しまいなのかよ…………!」
たとえ駄目でも、たとえ死んでも、今すぐ自分だけでも取って返して最後まであがいてやりたいという衝動に胸が焼ききれそうになる。
「大丈夫、だよ」
だがそんな荒れ狂うちっぽけな業火の嵐も、まるで大海の水のようにかき消す静かな声がかかる。
寝言かと思って見やれば、スフィールリアのまぶたは、薄っすらと開かれていた。
「起きてた、のか」
うなづく替わり、彼女はかすかに微笑を浮かべていた。
「大丈夫だよ……帰ればなんとかなる。なんとかすることが、できるよ。だれもいなくなってない。――アイバさえ戻れば。みんな変わらずに、そこにいるよ……」
「……だけど俺はもう、アイツらに合わす顔が、分からない」
スフィールリアはかぶりを振った。
「そんなの、考えなくていいよ。変わることがあるとしても、それはアイバだけだよ。どうにだってできる……ここは、綴導術士の総本山でしょ。アイバ強いし。腕っぷしがあれば、王都で暮らし続けることだってできる。なんだったら王都で無理しなくたっていい。どこにだっていけるよ。帰りさえすれば。がんばる気持ちを見放さないでいてあげれば。
呆れられたって、怒られたって、挽回できる。できなかったら、がんばってるところを見せて、それでもだれかが離れていっちゃったら、しかたがないねって笑ってあげればいい。あたしも、それくらいならつき合うよ。あたしも、ミスしたからね」
「……」
「だから、帰ろう……」
うとうと、つらつらと。語るその内容が、単なる表面的で定型的な励ましの類ではないということは、アイバにももう、〝霧の杜〟の厳しさとともに身に沁みて分かっていた。
『これが』〝霧の杜〟に挑むということなのだ。
帰ろうという言葉の重み。『ここ』で帰れなくなるということの、その意味。
この場所で『失ってしまう』ことと、外の世界で失ってしまうものは、決してイコールではない。
外の世界の厳しさの、なんと温もりに満ちていることか。変わってしまっても、失ってしまったと思っても、それはそこに在り続ける。望む結果も、望まない結果も、どうでもいい結果まで――なんだってある。望んだものに近い結果へ、再び挑むことだってできる。
彼女は幼いころからずっと、こんなことと隣り合わせな生き方をしてきていたのだろう。
何度も挑み、何度でも帰り、〝ここ〟と〝外〟に通い続けて――その本質に触れていったんだろう。本当の孤独と寒さを知っているから、こんな風にふるまえる。
彼女は優しいのではない。単に理解ができる人間なのだと。
アイバは、彼女から感じていた強さの一端を、垣間見た気がした。
「そう……だよな」
だから悔しさは自然と、笑みへと昇華できた。
「まだ、やれるよな」
「うん」
「いくらでもあるよな。なんぼだってマシだぜ」
「そうだよ」
「……じゃあ、ひいきにもしてくれよな?」
「ん。値段しだい」
「言ったな。うっし。腕磨くわ。帰ったら筋トレだな!」
「その前に、教官さんと、お話しようねちゃんと……」
「あ」
と気づき、アイバは苦笑いを返した。可能性を捨てないと決めたばかりの、この指摘だ。処世術に関しては、まだまだ彼女の方に上手をゆかれているらしかった。
「だよな。はは……」
「ほんとだよ……じゃ、お休み……」
お休み。と返した次には、パチンという音で目を覚ました。
背にしていた枯れ木の枝を折って作った焚き火が、最後の焦熱を弾けさせて崩れたところだった。見張りをしているつもりが、船を漕いでいたらしい。
つくづく自分のうかつさに腹が立つ心地だったが、それ以上に、どうしようもないレベルで疲労が溜まっているのだと認めるしかなかった。
「アイバ……」
同じく浅い眠りから覚めたスフィールリアが後ろを見ているので、振り返り……呆然とする。
「ここに、あったよな……。木が、たしかに」
木が、なくなっていた。地面が抉れた様子もなく。
「……今すぐ出発しよう。荷物は食料以外は全部、ここに置いていく。…………『追いかけてきてる』気がする」
なにが、とは聞かなかった。
「……分かった」
「ロイー! スフィールリアー…………!」
「師匠ぉォ~~…………!」
さらに十時間近くの時間を踏破した時、その声は聞こえてきた。
「アイバ・ロイヤードーー! スフィールリア・アーテルロウンーー! いるなら返事してくれぇー!」
「なんだっ。まさかまたさっきの幻影か……!?」
彼女たちの前方の〝霧〟から呼びかけてくる声に、アイバは身構えた。
「ちょっと……違う気がする。……! アイバ、いこう! ――おーーい!」
はっとしてスフィールリアはアイバとともに駆け出した。
だが返事はこない。変わらず、遠いのか近いのかよく分からない距離感から、こちらの名前を呼んでいるだけ。
「聞こえていないのかもしれない――アイバ、信号弾! 前方ななめ上になんでもいいから手当たりしだいに撃って! おーい!」
残りのあらゆる弾種に煙の尾を曳かせながら、ふたりは声を張り上げて走った。
やがて〝霧〟の向こうから薄っすらと、ふたつの人影が滲み出してきた。
「ロイっ、スフィールリアかっ!?」
「――そこで一旦止まれ! お前ら、本物……か!?」
剣を向けられた<国立総合戦技練兵課>のふたりは、両手を挙げつつとことんうろたえたようだった。
「なっ、なんだよ……こっちゃ必死で探してやってたっていうのに!」
「はっ、まさかお前……師匠を独り占めするつもりで…………シショオォオオォ~~ゥオッ!! 早くコッチへ! ソイツは危険だァ!」
「…………」
しばし、睨み合って……。
アイバが剣を収めて、両者は再び駆け寄った。
「そのセリフは聞いたことがねーな。うし、本物だ」
「俺もンなこと初めて言われたよ……それよりよかった。無事だったんだな。いや、とにかく今はここを出よう。こっちだ」
ふたりが残していたコップやら保存食やらの目印の〝道〟を辿って、スフィールリアたちは〝霧の杜〟を脱出した。
さらにすぐ外につないであった二頭の騎馬に便乗して、〝霧の杜〟を囲う三重の柵の二番目の区域にたどり着くと……そこは、展開した部隊の物々しい気配に満たされていた。
「無事だったかね」
言葉ほどには心配した様子もない態度で声をかけてきた教官の姿に、スフィールリアは想像がつきつつ尋ねていた。試験官が彼だと思っていたらしいアイバは驚いていたようだったが。
「〝霧〟が……成長したんですね」
「そうだ。帰還したメンバーの一部から変化の報告を受け、試験組の半数が予定していた期間内に帰還しなかったことから、連れてきていた救援班と残存メンバーを合わせて出動させた」
彼が手で示したのは、部隊に同道していた輸送装甲馬車だった。今は扉も開いており、訓練兵たちよりは場慣れしていそうな雰囲気の者たちがそこかしこで報告や活動方針のやり取りをしている。
試験内容に関わるためか搭載物資の内容は秘匿されていたが、乗っていたのは彼らのようだった。
あらかじめ、〝霧〟の変調には想定に入れていたようだ。
「予定していた期間? なに言ってるんです教官。まだ三日には少し届かないでしょう。俺たちは全体から見れば先発組の方だったし」
「……なに言ってるんだよ、ロイ。お前らが〝霧の杜〟に入ってから、もう一週間目だぞ。もうダメだって思ってたんだからな……マジで……くっ」
隣の同期生の言葉に、アイバは「え……」と言葉を詰まらせた。
スフィールリアも少し後ろでこのやり取りを見て、呆然とつぶやいていた。
「〝時間〟も……飛び越えちゃってたんだ……」
「んなっ…………」
わけの分かっていない同期生たちは置いて、ふたり。重苦しく沈黙していると、教官が前に出てスフィールリアの前に歩み寄ってきた。
「今の話は本当かね? 君たちへ最初に渡した時計があったはずだが、それを見せてくれ。それとアーテルロウン君。君の見た異変の詳細と、事態についての見解を聞かせてほしい」
アイバが横合いから手渡した筒状の時計を目配せもせず受け取り、視線はただ彼女へ。
スフィールリアは暗い面持ちで、取り出した紙片を教官に見せてやった。
「街に……入ったんです。最初の一日は異常もありませんでした」
「街に? なるほど」
「そこで……街の各所の座標がバラバラになってることに気づきました。この、中央の〝碑石〟のところまで引き寄せられてしまって。
たぶん、街から人がいなくなったあとも稼動し続けていたこの〝碑石〟の影響力が、街と、街周辺の表面的形相をつなぎとめていたところに、街の日常とはまったく異なる認識系を持ったあたしたち異物が進入したことで、一気に崩壊が進んだんだと思います。
それからは、もう街も崩壊してしまって。あちこちに散らばっちゃったり、入れ替わっちゃったり、してました。
〝霧の杜〟の中心寄りにあって、情報クラスターとして一番大きな領域を持っていた街が崩壊したことで、〝霧の杜〟全体に侵食が進んだんじゃないかって……思います。――今、街は〝霧の桟礁〟になってしまっています」
「〝霧の桟礁〟に? 事実か」
時計の内部表示を確認した教官に目をやられてアイバも慌てて同意した。
「マジですよ――見たんだ。幽霊みたいな街に迷い込んじまって! 生きてるヤツとか死んでるヤツとかもいて、アンタもいたから俺はてっきり……そうだ、試験官!
――教官っ。今すぐ市街区に救援部隊を送ってやってくださいよ! 街があんなムチャクチャな状態になっちまって、素材かなんかと一緒に俺らを待ち伏せしてたソイツも遭難しちまってるかもしれねーんだ!」
はっとしたアイバから一気にまくし立てられた教官が、言葉の途中で眉をひそめるのをスフィールリアは見逃さなかった。
次に彼女を見て、面白そうに笑うと、その顔のままでふたりに、
「心配はいらない」
と、確信に満ちた声でうなづきかけた。
「え……な、なんだよ。もう帰ってきてるのか……? なんだ……」
「……」
「しかし、アーテルロウン君。存在の主体たる市街区の物質としての形相がまだ保たれているにも関わらず、先に世界法則の基盤たる〝座標〟や〝距離〟〝時間〟が優先して消失するなどということは、そう簡単に起こり得ることなのかね? わたしは聞いたことがないが」
「……六十年っていう年月だけを考えれば、〝霧〟が〝霧の桟礁〟まで成長することは充分にあり得ると思います。でも世界法則が乱れ始める順番としては、あまりあることじゃない。はっきり言って、この〝霧の杜〟は異常です。
でも、もしかしたら……中央大陸の〝霧の鐘楼〟クラス以上の〝霧〟が、『飛び地』してきたのかも…………って」
最後の言葉に、話が聞こえる範囲にいた救援メンバーが、少なくないどよめきを発し始めた。
「……そのようなことが、あり得るのかね?」
「〝霧〟は、すべて『ひとつながり』なんじゃないか、ていう説があります。
存在が劣化して無意味系クラスターになって、それが意味消失を起こして意味消失クラスターになると……情報面として見た時、〝霧〟はある一定の段階ですべて『同一のもの』として振舞うようになるっていう説です。あくまで情報の集積である<アーキ・スフィア>から見た話です。
<アーキ・スフィア>に在るすべての情報が〝有〟だとすると、それらの〝有〟の情報に対して〝無〟である〝霧〟は、それら〝有〟の情報が持つあらゆる〝差〟や〝値〟といった〝個性〟を持っていません。すべて『同じもの』だと見るしかないんです。
だからこの実領域上での見かけ上の距離や座標、発生由来が異なっていたとしても、ある一定以上の成長を遂げた〝霧〟にとっては関係がない……〝霧の杜〟が深すぎる場所では、すべての〝霧の杜〟がつながっているんじゃないかって、一部では言われてるんです」
ある日〝霧〟に迷い込んだ若者が〝霧〟を抜けると、そこは別の大陸だったなどという逸話がある。本人の聴取もなにもない、単なるフォークロアの類だ。しかし、こういった現象は、このような基盤から起こり得るのではないかともささやかれる。
当然だが、そのことを実験的に証明した者は存在しない。それほどの『深い』領域に踏み込んで事実をたしかめるだけの期間、存在を保てないからだ。
「……」
「それで、昔……師匠と一緒に、見たんです。師匠が〝養殖〟してた素材のひとつが〝霧の杜〟の中で消失しちゃって。でもその隣にあった別の骨董品の壷が、ただの粘土になっちゃってたんです。壷になる前の。
師匠が言うには、消えた素材品のひとつが、かつてとっくの昔に消えてしまった文明群のどれかに関連した要素を、持っていたんだと。
影響元になった文明が消失してしまったことで、ある一定の段階で文化の変遷を辿れなくなるポイントを〝存在のミッシングリンク〟って言います。でもそれが本当に〝存在のミッシングリンク〟であったのかどうかを見極めるのは、すごく難しくて。実はまだこの世に残されてるかもしれない――ていうか残されてる〝情報のひも(外部記憶)〟のことを〝ミスリード〟って言うんだそうです。
その〝ミスリード〟はあたしたちが気がついていないだけで、今も〝霧〟による消失の一途にあります。
もしもあの街のどこかに、すごく古い文明の〝ミスリード〟を持った品か、文化があったら、それが消失してしまった段階で、その文明が巻き込まれたのと同じクラスの〝霧〟が現出したっていう可能性が、あります」
「君は、その現象を、たしかに見たんだね?」
うなづく。
「あの街の記録は、かなり詳細に残されてました。……逆を言うとそれだけ〝外堀〟がたしかな街があんな風になっちゃうのもおかしいし……だから、世界中で、あの街と同時期に〝霧〟が発生した場所か人里の記録も合わせて調べて、もしもその中に同じ珍しい輸入品とか、文化財とかが運び込まれた記録があったりして……それが消失した文明のものだったり、関連する要素を持っていたとしたら、それが……怪しいのかも……」
教官は話が始まった時点から、静かに、ものすごい勢いでクリップボード上に筆を走らせている。だからスフィールリアも、〝裏綴導術士〟である師の関わった仕事の話でも、できるだけ詳細を話そうとした。この情報が、今後、多くの人命の消失を防ぐかもしれないのだ。
そして、結論を口にした。
「だから、この〝霧の杜〟は……今後とんでもない深度まで成長する可能性があると思います」
「分かった。ありがとう。大変に貴重な情報を得た」
ボードの防水シートをパタンと閉じて、教官はひとつの決断を下すようにうなづいた。
次に適当な方向を振り返って、どこからでも聞こえるような声量で指示を張り上げた。
「次の合流点から捜索体制を変更する! 二人組から中隊規模に切り替えるぞ! 現在捜索に当てている試験帰還組は外して王都へ帰還させる。今いる者は速やかに集合ッ!」
青い制服姿がわらわらと集まってきて、また別種の物々しさがあたりを伝播し始めた。
「試験どころじゃねーな、もう……」
と言うアイバに笑いかけていると、耳ざとく聞いていた教官が、アイバから回収した試験用の時計を開いて見せながら当然のように言ってきた。
「試験期間内に帰還したメンバーについての採点はもちろん通常通りに行なう。お前も例外ではない。おとなしく結果の通達を待て」
時計はたしかに、まだ試験期間が残されている状態だった。どこかの段階で座標とともに時間を飛び越したからといって、彼女たちの時計までが律儀に進むわけではなかった。
「うぇっ? だ、だからってよぉ。失敗したってのが明らかに分かってる結果を待てってそりゃねーんじゃ」
「話は以上だ。……疲れただろう。救助者用の救護テントがある。君たちは、王都帰還の手はずが整うまで休んでいたまえ。――救援班リーダー、集まれッ!」
その後、教官の下へ忙しさに目を回しているような真剣な面持ちの人員が集まって、あっという間に割り込みがたい雰囲気が形成されてしまった。
まだなにか言いたげにしているアイバの裾を引いて、スフィールリアたちは教官の示した救護マークつきの黄色いテントへと向かうことにした。
「ちっ、なんだよ規則規則ってこんだけの異常事態でもよぉ……あれじゃ話しても無駄そうだな」
「今はしかたないよ……王都に帰って、面と向かえるようになったらお話すればいいよ」
そうなだめつつ、スフィールリアは気がついていたことがあった。
時計の進行が正常であったのをたしかめたあとも、教官は、『目標物』の提出を求めてこなかったのだということに。
こうして、思わぬ事態に見舞われた<国立総合戦技練兵課>試験項目への随行依頼は、完遂され――
スフィールリアは王都への帰還を果たした。
◆
「だっは!」
スフィールリアは工房のイスへ豪快に腰を落とした。
「ほんとにもー疲れた。死ぬかと思った」
「またそれか。ほとんど一日眠ってすごして、もう三日はそんなこと言ってるじゃないか」
だった。
王都に帰還して三日。出発時からはすでに二十日は経過しているのだった。
王都の街並みにある桜はもう散り果て、これから訪れる熱気に備えて力強い新緑を芽吹かせ始めている。
それは、工房周りの森も同じだった。風が吹いて、目も冴えるような緑のさざめきが、昼すぎの工房へと届いてくる。
ひんやりとしたレンガ造りの景観の中、頭を机に預けたところから窓越しにそんな風景を眺めるのは、とても心地がよかった。
「……ウチの桜はまだ散らないんだね~…………」
「アイツしぶといからな。初夏のあたりまではこんなんなんだぞ。前にこの小屋にだれも住んでない時期に、<秘技・俺様黄金大旋風>の練習がてらに全部散らしてやったことがあったんだけど、次の日になったら全部元に戻ってた」
なにやってんのと笑うが、フォルシイラは、次には現実的なことを言ってきた。
「そろそろイガラッセの依頼も始めないとマズいんじゃないか? 学校もほら、講義がどうのとうるさい小娘がいるって言ってたじゃないか」
「そうなんだけどねぇ……どうもねぇ……」
同意しつつもスフィールリアの調子は上がらなかった。頭が持ち上がる気配もない。
フォルシイラは知らないだろうが、小さい時から〝霧の杜〟に入ったあとは総じてこんな感じなのだ。こづいてもおどかしてもおだてようがエンジンがかからないポンコツと化すので、数日のインターバルに関してはもはや師すら諦めているほどなのだ。
「ぽんこつだからしかたないよ……」
「かなしいこと言うなよ……」
そんな折。
コン、コン――
と、玄関からノッカーの音。
スフィールリアは立ち上がりがら、そういえばノッカーの修理まだだわと思い出した。臨時のフックにノッカーのリング部を引っかけて『御用の方はこれを持って叩きつけてください』という応急処置を施したまんまなのである。
「は~い、どなたさまですかっと――お?」
「よっ。元気そうだな」
そこにいたのはアイバだった。まだ、青い制服を着ている。
「それマジで言ってんの?」
「おう。元気比率1000倍だわ。やっと調子戻ってきたみたいだな」
非常に反論がしたくてたまらなかったのだが、それよりもスフィールリアには、いくつか気になる点があった。
アイバは、いくつかの荷物を抱えていた。ひとつは白くて上品な紙箱。もうひとつは、味気なく薄っぺらい茶封筒だ。ついでに、元気比で言うならアイバもなかなかのものだった。
しかしアイバの方もこちらに気がかりな点があったようだった。包帯の巻かれた右腕へ、暗く視線を落として……。
「……傷、大丈夫か。跡とか、残んねーか……?」
「ああ、うん。へーきへーき。最初の出血だけ派手だったけどほんとに浅いし、鋭かったから。見てみる?」
「ああ! いいから外すなって! 治るまでちゃんとそのままにしとけって! なっ?」
「そう? ほんとに平気なんだけど。……で、どうしたの?」
しばらく暗い面持ちのままだったアイバ。
本当に気にしていない彼女の顔を見て、やがて気を取り直した風に笑うと、
「あぁ、それはな、ほかでもねぇ――これを見ろ! ジャン!」
「おおっ!」
茶封筒から取り出した用紙は、アイバの試験合格通知だった。スフィールリアは顔を輝かせてアイバに詰め寄った。
「やったじゃん! これで首もつながってお仕事もなくならないし、街のみんなにも報告できるね。よかったねっ!」
「お、おぅ。…………おう! お前のおかげだぜ!」
「やっぱり――『なかった』んだね。目標物って」
スフィールリアが言うとアイバは笑顔のままでとことん渋面になり、ため息よりは軽い息をついた。
「あぁ、そうだ。目標物なんてものは最初からなかった――試験官の待ち伏せなんてものもな。試験の本当の合格条件は、『指令に見切りをつけて、与えられた期間内に無事に帰還すること』だったんだ」
今度は正真正銘のため息を吐き出して、
「意地が悪いぜ、ったくよぉ。あれだけ念入りに準備までさせといて、気づくか、普通? ――でもスフィールリアは絶対に気がついてるだろうって、教官がよ。気づける要素がどこにあったのか、宿題まで出されちまった。今回はカンニングしてもいいから、お前に礼を言ってこいってさ」
「そっか」
優しい人だなと笑いながら、スフィールリアは、気づいていたことを話した。
まず最初に、教官が目標物提出の要求を、最初から頭になかったかのようにしてこなかったことを伝えた。アイバは「マジだ。アンニャロウ」とやさぐれきった横目で幻想の教官を睨んだようだった。
「……あの街が崩壊を始めたきっかけは、あたしたちだったって話したでしょう?」
「あぁ」
「その理由も覚えてるよね。あの街は中央のモニュメントの力を〝核〟に、あの街自身の『思い出』――外部資料、暮らしていた人やその家族の記憶、運び出された品――とかによって、かろうじて六十年間生き残ってたの。
そこにあの街での記憶を持たない、まったく全然別な生活の認識しか持っていないあたしたちなんかが紛れ込んだから、一気にバランスが崩れちゃったの。でも、それだったら、おかしいよね?」
「……」
「あたしたちより先に街に入って『待ち伏せ』なんてしてる人がいたら、あたしたちが街を見つけるよりもずっと早く、街はああなっちゃってたもん。あたしたちが街に入っただけでも、あんなにあっという間にバラバラになっちゃったでしょ?
待ち伏せじゃなくっても同じ。あらかじめ目標物を隠しになんてきていたら、その時に異変が起きて、試験も中止か延期になってたと思う」
それが、真相だった。
〝霧の杜〟に関わる活動で、なににおいても優先とされること。それは――無事に『帰ってくる』こと。
なにもかもが消えうせてしまうあの世界では、それこそが個人の生命、そして組織の利益・目標に対しての最重要にして最大の貢献となる。救助や回収任務においても無理を圧した任務断行はそれだけで取り返しのつかない大規模の二重事故になる。また、待機している後続のために持ち帰られなければならない情報までもが丸ごと消されてしまって回収が利かないのであれば、活動続行の是非すら問えない。
のみならず、〝霧の杜〟内部の現状を持ち帰ることは、それ自体が多くの人命と生活に関わってくることなのだ。
だから、〝霧の杜〟に挑む者は、帰ってこなければならない。帰ってこられる者でなければならない。
まだ時間はある。滞在する余裕はある。もう少しでこの手を届けられるかもしれない。――かどうかなんてことはだれにも分からないのだ。だからそんなことを独断して予定を繰り下げるような者を、関わらせるわけにはいかない。あるいは、そのような甘えは早々に捨てさせなければならない。だから帰ってこなければ問答無用で不合格となる。
アイバたちがほとんど個人で試験に挑まされた理由だ。部隊指揮者の脱出判断に従順に従う人員になるのではなく、各人ごとが根本からそのことを理解していなければならない。ひとりでも多くの帰還を望まれている――それだけの期待がかけられているというゆえのことだった。
「試験内容が完全な守秘義務だったっていうのも、このせいだったんだね。そりゃそうだ」
「……」
たとえ内容が分かった上でも目標物の獲得が途方もなく難解であったり至難であったりするというのなら、まだいいだろう。
……しかし『最初からないことが分かっているのだから適当に時間を潰して帰ればいい』などとなるのであれば、そのようなカンニングは練兵課としても、同じ試験を味わった上級生たちの心情からしても、許容不可能なことだったろう。
幼いころから何度も〝霧の杜〟に触れてそれらを当たり前のこととしてきたスフィールリアには、だからこそ、考えても真っ先には思いつけない〝条件〟だったのである。
「……」
そこまでを、アイバは真面目な面持ちで聞き入っていた。
そして、
「まいった。やっぱお前はすげーわ」
と、抱えた紙箱ともどもお手上げのポーズを作った。
次に気がついたように目をやって、白い紙箱をスフィールリアに差し出してきた。
「そうそう。こいつも渡してこいって言われたんだ。ほいよ」
「なぁに、これ?」
「中身は知らね。でも箱に手紙が貼っつけてあるだろ。ソレ、招待状な」
「招待状?」
ますます首をかしげると、アイバは簡単にその正体を明かしてきた。
「教官も一緒に帰ってきてただろ。事態の報告と救援部隊の増援申請で。
で、お前が教官にした報告が、なんかすっげー発見につながったんだそうだ。なんか、完全に失われたと思ってた古代文明究明のデッカい足がかりが発見されたとかなんとか。
あと、〝霧〟が『ひとつながり』になってるかもしんねーっていう実証につながるような具体的な実験話も、学会? ていうのか? なんかそんなんでは初耳だったんだってよ。
だから、その両方の功績が学会と王室から正式に認められることんなったんだ。それはその表彰状と報奨金の、授与通達書と案内だ」
「え~……」
「実際、あの〝霧の杜〟の監視レベルは今までの5級から、一気に2級まで跳ね上げられたんだ。コイツはまずないことなんだよ。お前はすげーよ。尊敬するし、誇らしいって思う」
真面目にそんなことを言ってくるアイバに、スフィールリアはむずがゆくて、意地悪なことを言った。
「まずないことなんだよ、とか言っちゃって〝霧の杜〟のことなんて全然知らなかったでしょ」
「べっ、勉強したんだよっ、だ、か、らっ! 悪いか!」
顔を紅くするアイバにしばらくにやにや笑いを向けていたが、すぐに困った顔でほほをかいた。
「でもそっかぁ~表彰ねぇ、う~ん。ニガテなんだよなぁ~。それに師匠の仕事のことだからあんまし大っぴらにはしてほしくないんだよねぇ」
「あぁ。なんかな。『そうなんだろう』って分かってくれてる人がいたらしくってよ。その、どっかのどエラい綴導術士の人が、お前の代理で授与は受けて、そんで表彰状と代金は預かってくれてるんだとよ。その招待状は、だからその人ん家への案内状だ。好きな時に受け取りにきてくれりゃいいってさ」
「へ?」
抱きかかえていた紙箱から書面の差出人を見てみる。
『エレン・アグレウス・フォン・ブランフォードナー』
「いや……どっかで聞いたことがあるような、ないような…………でも会ったことはない、風味、みたいな」
「おいおい。すげー人らしいんだぞ。すげーなお前。いろんな意味で」
「いや、本当に会ったことないんだってばっ。だいいちあたし王都にきてまだ一月だよ?」
「あー、そういやそうだよな。……箱、開けてみれば? なんか分かるかもだぜ」
なるほどと箱を開けてみて……さらに、驚いた。
「なにこれ!」
スフィールリアの両手から、ふわり。純白のドレスが広がったではないか。
ただのドレスじゃない。手触りからして手を洗っておくんだったと後悔するほど滑らか、かつ羽のように軽い。ふとしたそよ風にも上品なドレープがたおやかに揺れて、広がる。裾や胸元に施された、涼風を思わせる少しばかりの金の縁取りが、これを着るべき者の高貴さと清廉さを、同時に主張している。
箱の中仕切りには一緒に、この服に対となることを望まれたのであろう白い靴、金の髪留め、頭飾りに、香水に……と、至れり尽くせりなご様子だった。
「怖いんだけど」
「いや……」
「なに?」
自由になった両手で腕組みあごへ手をやり、極めて深刻な表情をしていたアイバを見やると。
「い、いや…………似合うんじゃ、ないのか? ……ってよ…………」
「なんで目逸らしながら言う」
「えっ、あっ、いや、違うって……!」
スフィールリアはドレスをてきぱきとたたみ始めた。
「えぇまぁそりゃガラじゃないでしょうよでもい、ち、お、う、あたしだって女の子の端くれのつもりなもんでちったぁーこーいうもんだって着てみたいかなーなんてことを思わないでもない風味くらいはあるんですけどえぇまガラじゃないっスよね。真の〝漢〟ですもんねえぇほんと調子乗っちゃってねお見苦しいモンは今すぐしまいますからカンベンしてくださいよ」
「~~~~~っっ、……!」
痛恨の表情で顔面を覆っていたアイバ。しかし恐る恐る、ちらり見ると、彼女。
玄関脇の棚に置いたドレスケースへ手をかけ、快活に笑いかけてきていた。もう片方は今着ている動きやすそうな青のスカートの裾に。青と白。綴導術士のフォーマルカラーである活動的な衣装を見せ、なにかを問うてきている。
やっぱりこっちの方が似合ってるなと思い、アイバもきっぱりとうなづきかけた。
「ああ。やっぱお前はこっちだな」
「でしょ~?」
笑ってアイバの前に立ち直すと、アイバも、背筋を伸ばして彼女へ向き直った。
「……ありがとう、な」
「どういたしまして」
「なんていうか……思い知ったよ。〝霧の杜〟のことも。俺自身の未熟さも。強いだの弱いだの。腕っぷしとか、理想のデカさだとか、そんなことにこだわってたのが馬鹿みたいだったって、心底、思った。
そんなことよりなにより、具体的なモンがなんにも身についてねぇ。漠然としたイメージのことばっか頭に詰め込んで、本当になんにもない、本当にどこにも届かねぇ自分に気づいてなかった。教官に言われた通りだ。俺は半端未満の、ひよっこ未満だった」
「……」
「こんなんじゃ、<国立総合戦技練兵課>にいてもいなくても、同じだったな……今まで俺になにか言ってきた連中もそういうところを言いたかったんじゃないかって考えたら、単なるやっかみやお節介だなんて思えなくなった。なにも言わずに見ていてくれた連中も、さ。
そうだ。話してみたんだ。今までそういうコッチのこと、あんま話さなかったんだけどさ、そしたら――お前の言う通りだった。本当に明るい顔してくれるヤツら、いたよ。祝杯だなんだって、飲みてーだけなのかもしんねーけどさ、はは……」
しばし、黙って話を聞き……。
「……」
「お前の、おかげだ」
アイバは照れくさそうに首筋をなでつつ、そう言った。
「そっか。よかったね」
にんまり笑って言うと、今度は本当にうれしそうに「あぁ!」とうなづいてきた。
「じゃあさ、あんた……もう少し<国立総合戦技練兵課>でがんばってみなさいよ。待遇はおいしいんだしさ。いろんなことを身に着けてからでも、遅くないと思う。それに、見てたり待ってくれてる人がいるって……ありがたいことだと思うよ?」
これにアイバは、あらかじめ答えを用意していたらしく、力強くうなづいて、
「ああ。そのつもりだ。お前の言う通りだぜ」
と、誓うように自分の胸を叩いて見せた。
「うん、うん。でもそうすると未来は聖騎士さんコースかぁ……あたしも知らなかったけどさ、聖騎士ってスゴい人たちなんでしょ? ふんぞり返ったりするような人にはならないでよね」
「あぁ、いや、それはな。別に絶対のことってわけでもないしよ……」
「うん?」
「い、いやそれは今はいい。なんでもねぇ。そ、それで……なんだけど、よ……〝霧の杜〟で、抱き合ったりしたってのは、よ……アレってのは」
「?」
急に歯切れの悪くなった様子にとことん首をかしげていると、アイバ。
「別に特別なこととかじゃなくって、必要だからそうしたってことで……いいんだよ……な…………?」
ますます分からず、あいまいなくせにこちらの目も見ようともしない態度にちょっとムッとして、スフィールリアは腰に手をやり答えた。
「? そう言ったでしょ。なに、真の〝漢〟がそーいうなよなよしいことするなよとか、そんなことが言いたいわけ」
「ち、違う! そういうんじゃなくて、悪い! そうだよな――はは、いいんだ今後の参考にしようかなって思ってな忘れてくれそれだけだから! そいじゃ今回はマジでありがとうな、はは……!」
とか身振り手振りしながらジリジリと後退して、最後は森の道方面までダッシュしていった。
一度そこで振り返り「またな!」と手を上げるアイバの姿が木立の向こうに消えて。
「さて……っとぉ!」
スフィールリアは新緑の空気を目いっぱいに吸い込んだ。
「あたしも、やるか! いろいろ!」
えいえいおーなんて言いながら玄関をくぐっていった。
なんだか、自分もがんばりたくなってしまった。今ならアリーゼルの基礎地獄にもつき合い切ってやろうじゃないかという気分だった。
そういうわけでスフィールリアは工房の掃除に取りかかり、イガラッセの依頼を少しだけ進行させ、学校へゆく準備を整えたのだった。
◆
そして、翌朝。
久しぶりに学院内を歩くのも新鮮だったが、スフィールリアはひとつの違和感を覚えていた。
「……」
なんだか、講義棟の様子がおかしい。歩いていると、やけに自分を見る視線や、通りすぎたあとのひそめき声が多いような気がしたのだ。
「アリーゼル」
受けてみようと思っていた講義が開かれる教室扉の前でアリーゼルに鉢合わせて、スフィールリアは怪訝にしていた表情を輝かせて寄っていった。
「お仕事というのはひと段落したんですの」
「うんっ。ちょっぴり休憩もらっちゃったけどね――アリーゼルもここの講義受けるの?」
「えぇ……まぁ一応。そういうことでいいですわよ」
「そっかぁー。ちょっと緊張してたからうれしいなぁ。隣の席座ってもいい? フィリアルディはきて……て、さすがにそこまで都合よくないよね。えへ」
「その前に。ちょっと」
扉に手をかけようとする彼女に先んじてアリーゼルは引き戸に手を触れ、邪魔するような手つきで、少しだけ開いていた扉を閉めてしまった。
「アリーゼル?」
「やっぱりとは思っていたんですけど。まだご事情を把握されてませんのね」
アリーゼルの無表情と言葉に違和感を感じる。スフィールリアは思い浮かべられたひとつの予感を表に出すまいと押さえ込んだ。
自分が〝帰還者〟であるという事実が、どこかから知れてしまったのではないか。そんな――いつもある、不安が。
しかしアリーゼルが言ってきたのは、それとはまったく無関係のことだった。
「と言っても場合によってはあなたにも大した問題ではないかもしれませんけど。一応お知らせしておきますわ――そのお友達のフィリアルディさん。今、ちょっと大変なことになっていますわよ」
スフィールリアは、この日に予定していた授業をすべてボイコットした。