(1-19)
だが、そんな彼女たちをあざ笑うかのようにして――〝異変〟は、現れたのだった。
「アイバ……待って。あれを見て…………」
そう言ってスフィールリアが立ち止まったのは、彼女たちが焚き火の処理をして大通りを歩き始めてから、本当に間もないころだった。
「どうした?」
その声音の平坦さが事態の深刻さを物語っているようで、アイバも腰の剣へ意識をやりつつ足早に彼女の隣へと寄っていった。
スフィールリアが立ち止まっていたのは、通りの交差した中央だった。彼女はその、合流した道の向こう側を、ただ呆然と見据えている……。
目を凝らすが、敵の姿は見えない。あるのは道の向こうで開けた場所と、中央にそびえた記念碑でも思わせるモニュメントの、〝霧〟にかすんだ影だけだ。
「……? なぁ、よく分かんねー。いったい、なにが――」
そこでアイバもギョッとした。こちらを振り返ったスフィールリアの表情が見る見る真っ青になっていったからだ。
明らかな恐怖の表情。アイバは剣を抜いて同じ方向を振り返り――
そこには、ただ石造りの街並みしかなかった。
だが、
「ねぇ、アイバ…………『この道』……この風景だったか、覚えてる?」
え? という声しか出てこなかった。
「どうしたんだよ。今歩き出したばっかじゃねぇか。ほらそこに、消した焚き火の……あとが…………」
なかった。
「――――」
しばらく状況が理解できず、声も出てこなかったのだが――
「『変わって』る……ヤバい!!」
こちらの胸までゾッとさせる悲壮な声を出して、スフィールリアは弾かれたように駆け出していってしまった。
「おっ――おいおい!」
彼女が向かったのは、例のモニュメントだった。
到着したそれをかじりつくように見上げて。
「やっぱりだ――『こんなもの』が、こんなところにあるはずがないのに!!」
「離れすぎるなって。落ち着け――どうしたってんだよっ!」
慌てて追いつき肩に手をかけると、スフィールリアは怒ったように振り向いて、言ってきた。
「落ち着いてる……アイバが分かってないんだよっ。『こんなもの』が、こんなところにあるはずがないの――あり得ないんだよ。見て!」
突きつけてきたのは、ロゥグバルド市街区地図の紙片。
振り上げたもう片方の手が示したのは、目の前のモニュメント。
『〝ヘクセンドリカの碑石〟――新市街区完成を祝し、市のさらなる発展を願って。第十一代領主ワッヘリウス・フォウン・ロゥグバルドより』
と、文字が刻まれている。
それだけのものにしか、見えなかった。
「あたし、この街のこと調べたの。それで一応、この街の、あたしたちが立ち寄りそうもない場所の名所とか、要所の記録や特徴も、一通り目を通してきたの」
スフィールリアはかぶりを振り、自らを落ち着けるように深呼吸を繰り返しながら言葉を綴って、
「いい、アイバ? 突拍子もないことだって思うかもしれないけど、よく聞いてね。この石碑が本来なくっちゃいけない場所はね――ここなの」
自分の持っていた地図の、ある一点を指差した。
そこは、街の『中央部』だった。
地図には今まで記した、探索済みのエリアが色鉛筆でマーキングされている。つまり、彼女たちが本来いるべき場所の範囲が。
石碑の位置する場所は、彼女たちが今まで踏破してきた市内距離の、ゆうに十倍近くは離れた場所にあった。
「……え?」
ようやく、空っぽだった脳裏に、ある種の危険信号が滲み出してくる。まだなにが起きているかの全容までには至らないまでも。
スフィールリアは、結論を口にした。
「〝距離〟が『なくなった』の――あたしたち、距離を飛び越えて街の最奥部まで引き込まれちゃったのかもしれないの!」
それは、いくつかの〝危機〟を明確に示唆していた。
「そんな――こと、が」
「ううん――『ここ』がもう街の最奥かどうかも分からない。今、この街のどれだけかの範囲の〝距離〟か〝位置〟か、ほかの要素かが消えかかって――今この街は『バラバラ』に『なり続けている』かもしれないってことなの。もうここが〝霧の杜〟の『どこ』なのかっていう保障もないの。
――アイバ。今すぐ街を出よう。うまく出られるかどうかも分からないけど、とにかく出口を目指さなくちゃ、帰れなくなる。永久に………………閉じ込められる」
裾を掴んで言ってくるスフィールリアに、アイバもうなづいていた。
真っ先に思い浮かべたのは試験のことだった。こんなところに試験官がいるわけがなかったし、なによりも帰還のための時間が危ない。
きた道を戻ろうと、モニュメントのある広場を抜けた時――ふたりはまた、あっけにとられることになった。
「そんな……」
広間を抜けたところから、街が、すっぱりと途切れてしまっていた。
さっきまで歩いてきていたはずの街がない。
ただただ続く土の地面と、〝霧〟と、木立と……。
市の外に、出てしまっていた。
「なんなんだよ…………!?」
アイバにも、ようやく事態の異常性が浸透してきていた。だがスフィールリアの言葉は、彼が思いついていなかった可能性にまで言及する。
「……もう、あのあたりの区画はかなり『ガタがきてた』んだ。ばらばらに千切れてモザイク状に散らばっちゃってる。……ここが街の外っていうことは、どっちの方角かは分からないけど、少なくとも街の終端の範囲まで崩壊が進んじゃってる。ここが、あたしたちが入ってきた方面かどうかも分からない。――まったく反対側の方角かもしれない」
「……!」
「でも、だからって街に戻るのはもっと危ない。きっと二度と同じ場所は歩けない。……このままいこう」
「……試験は、どうする? どうすりゃ、いいんだ…………?」
スフィールリアの判断に反論はないまでも、アイバは自身の状況への未練が捨てきれず、思わず聞いてしまっていた。答えてくるスフィールリアも、やや同情的ではあった。
「気持ちは分かるけど、少なくとも今の状態で試験の遂行は絶対に無理だよ。街の中央にいたとしたってまっすぐ元の区画に戻るまでにもかなりかかるもの。……どっちにしろ、帰るなら元の位置に戻らなくちゃ始まらない。それから考えよう? まずは、あたしたちが置いてきた目印を探さなくちゃ」
「……分かった。お前の言う通りだ」
歩き出した。
「……なぁ。アレ」
「うん」
十分ほど歩いていると、何軒かの家屋が見えてきた。
だが、少し様子がおかしい。
建物の背が、妙に大きい。その代わりに一軒ごとの土地面積が狭い。庭もないし、家同志の隙間も、ほとんどない。都市郊外に立てられた一軒家というよりは、まるで、密集した都市部に建てられた民家やアパートメントのような――
あたりに目を凝らせば同じような〝区画〟が、公園などに散りばめられている、理解ができない芸術品のように散在しているのが分かった。
「……ねぇアイバ。街に入る前、あたしたちが旗を立てた家の跡地、あったじゃない」
「……ああ」
アイバも、彼女の言おうとしていることが理解できた。
「あの家も、本当は、あの街のどこかにあったものだったのかもしれないね」
あの時は、気がつかなかった。建っていたのが一軒のみだったこと、ほとんど崩れかけて家の本来の外観を想像ができなかったこと……などのために。自然とあれが郊外の民家だと思い込んでいた。
だけどもし推測の通りなのだとすると、旗を立てた時点で、すでに自分たちがいた区画すらも〝崩壊〟というのが始まっていたことになる。
そのことがさまざまな焦りをアイバの胸に渦巻かせたが、今は目の前の光景が示唆する状況の方が深刻に思えた。
「だけどよ、スフィールリア。今、街の一部がこんな風に散らかってるってことは」
「うん。今あたしたちが歩いてるここも、まだ崩壊の範囲ってこと。急ごう」
「……」
またしばらく、歩く。
無言だった。スフィールリアの調子が出ていないというのは変わらないにしても、アイバももう、こんな状況でできる会話を思いつけなかった。
疲労が溜まっていた。刻々とすぎてゆく時間。試験への焦燥。まったく理解も対応のしようもない人知を超えた状況への不安。スフィールリアばかりに判断を預けている自分のふがいなさ。常に体力を削り取ってゆく寒さ。
気がつけば無意識のうちに、まばらな林のように現れてはすぎてゆく切り取られた軒並みを、力なく、当てもなく眺めていた。
その拍子だった。アイバは目を見開く。
なんの気なしと目を逸らそうとしたアパートの一室の窓に――揺らめく人影を見た気がしたのだ。
いや、間違いなく見た。アイバは自分の動体視力には自信があった。あのシルエット。かすかに見えた芝刈りの頭は――!
「!」
はっとして、アイバは駆け出していた。
「アイバっ!? どこにいくの!」
「人だ! 窓のとこに見えた――試験官かもしれねぇ!」
「……!? ダメ――それは『違う』! 止まってアイバいっちゃだめ!!」
「えっ……、……!?」
追いすがってくるスフィールリアの叫びを理解するよりも前に、アイバは驚いて立ち止まっていた。
『石畳を踏みしめる音』が、あたりに響く。
アイバは――街の中にいた。
石畳のストリート。続く軒並み。主を失い、荒涼とした〝霧〟の街。
「え――」
右を見ても、同じ。
左を見ても。そちらの先には呆然とした表情で立ち止まっている、スフィールリアの姿。
「どうなって、るんだよ……これ……」
スフィールリアの方でも、変化は認識できていた。いや、アイバを見ていた彼女だからこそ、彼よりははっきりと変化を認識できていた。ブツ、と切るように意識へと生じた『ずれ』。
次の瞬間には、もう、〝街〟の景色に飲み込まれていた。
アイバが『見た』ソレというのは、違うのだ。『違うもの』なのだ。彼の〝霧〟へ対する理解の深度を読み間違えた。彼の焦りを理解してやれなかった。スフィールリアは悔恨とともに、押し殺した声を絞り出していた。
アイバが見たソレは――アイバが自ら近寄り、積極的な観測を行なってしまったことによって――
「『引き込まれた』……!」
一方のアイバも、落ちこぼれかけているとは言え、それでも一流な戦士への成長を期待されて訓練を受ける男のひとりである。まったくわけが分からないなりに、反射に近い速度で、状況把握のための優先順位的項目が脳裏を踊り始める。
まず、真っ先に思い浮かべたのはスフィールリアの安否。これの確認は果たされた。
次に、目の前のアパート。二階の窓に見た人影。
あれは、教官だった。このような事態になってもまだ自分たちを待ち受けていたとでもいうのか。彼の胆力ならあり得ないこととは言えないにしても、やはり考えてみればそれは不自然だと言えた。
しかし、たしかに見たのだ。あるいは自分たちと同じように〝遭難〟しかかっているのかもしれない。試験が続行されるのか否かは別として、どちらにしても合流を果たさなければならない。
そこまでが思い浮かべられた折に――
「馬鹿者が。油断しおって」
顔を上げると、その窓から冷淡に見下ろしてきている影があった。
「教、官……」
だった。やはり、もはや見間違えようもない。見慣れた厳めしい表情。
その屈強な体躯が、誘うように翻ってカーテンの陰向こうへと消えていった。
「…………」
「アイバっ! いっちゃダメ、戻って! とにかく、戻って!!」
厳しい眼差しで窓の薄闇を見据え、入り口へ足をかけようとしたアイバの足が止まる。
ここに教官がいるのだ。戦闘になるかもしれないがそれは望むところだったし、その後に状況を教えて合流しなければならない。引き返す足で教官にぶつかれるというのなら、それは二度とないチャンスということになる。しかしスフィールリアの様子も尋常ではなかった。
彼女になら分かっているこの状況の正体と言うべきものがあるのかもしれなかった。まずは彼女の話を聞いて、それから教官のことを伝えようと――
して、向きを直したアイバの足をさらに止めるできごとが、起こった。
「ロイ」
「ウェスティ、ン……!?」
アパートとは反対方向にある、民家と民家の間の路地。そこから半身を覗かせてこちらを見つめてきていた人物に……アイバは弾かれたように駆け寄っていた。
「ウェスティン! お前――なんでこんなところに――だってお前はっ」
「なに焦ってるんだよ。馬鹿だな」
まだ暗がりの中に表情を半分隠れさせて微笑している友人に、アイバは驚きほとんど、呆れと怒り少々に語りかけていた。
「そりゃ焦るだろ! なんでお前がこんなところにいるんだよ。だってお前は。なんだよ、ひょっとして教官に言われて、今までわざと……ははっ! そうだよな。妙に輸送車の数が多いと思ってたんだ。そういうことだったんだな。だったら事情を全部――」
「アイバ!」
懇願にも近いほどのスフィールリアの声音に、もう一度顔を向ける。
「友達だ。同じ練兵課の。心配いらない。今からきっちり事情を――」
だが、
「アイバ、落ち着いて! ダメだよ! 思い出して――その人は、本当にそこにいるべき人なの!?」
「……」
その、必死な様子の瞳に。
冷水を浴びせかけられたように平坦になった思考でアイバは、目の前の友人へ向き直った。 ずっと、笑っている彼に。語りかけた。
「なぁ、お前――『生きてた』んだよな……?」
「……」
「教官に言われて、黙ってただけなんだよな? 助かってたんだよな? 今日の試験で、俺にぶつからせるために……驚かせて、正常な判断力を……とか……そんな感じで、よ」
「……」
「一年前に――崩落現場の救助支援出動で――そうだろ――命令無視して前線側にお前がいっちまって、お前の縄が切れて――俺は。……お前の葬儀にだって、参加したんだ………………」
「……」
「なぁ」
友人は変わらない姿で、ただ笑っている。聞いているのかいないのかも分からない。
やがて、ふっと息を抜き、
その暗がりから、いつものようにこちらへ手を伸ばしてきて――
「ほんと、馬鹿だな。大丈夫だって。ほら、いこうぜ――」
「止めろおォッ!!」
アイバは声さえ裏返して、殴りつけるのよりも強く彼の手を打ち払っていた。痛痒を覚えた様子もなく友人はそのまま暗がりの奥へと。
尊敬すらしていた彼への仕打ちに罪悪感を覚える余裕すらなく、後ろへとたたらを踏むアイバ。はし、とだれかが、その剣帯を掴む感触があって――
「アイバ、落ち着いて!」
すぐ傍からスフィールリアの声。だが彼女は、近寄ってきてはいなかった。
元のままの位置から、唖然とした顔でこちらを見つめてきているだけ。だけど『あっち』の彼女の姿を捉えるのと同時に、たしかに剣帯を掴む見覚えのある白い手首が視野の端に映っていた。
見下ろせば、手首はなくなっていたが。
「…………。え、――」
「だれですか……?」
その横目。友人が消え去った路地を作る民家の玄関が、開いていた。怯えるような声音と、小さな女の子の人影。明かりも灯していない暗闇から、かすかに光を照り返した双眸が、ギョロリと上向いて見上げてきて――。
アイバの正常な判断力は、ここで尽きた。
「う……うわあああああああああああああああああああああああああああっ!?」
「――アイバっ!?」
力任せに目の前のドアを蹴りつけて叩き閉める。同じ動作内で抜剣した剣を、今もだれかが掴んでいるような気のする自分の腰元めがけて振り下ろした。空振る。こちらに駆け寄ろうとしている『スフィールリアの幻影』を両断するつもりでさらに振り抜く。これも空振る。
「無様な剣だ。勇者の祖霊が泣いているぞ――」
「てっめ、ぇ――」
再び顔を覗かせた教官に向けて支給品の<レベル1・キューブ>を叩き込む。アパートの窓が弾けてガラスの小雨を降らせた。
「なぁ、助けてくれよアイバ」
「ひっ――!?」
振り返る。剣を振り抜く。
「ねぇ、今日のお夕飯どうしようか――」
振り向く。空振る。ぐるぐる、ぐるぐると――
「ロイぃ――!」
「ほら待ちなさい、走らないの――」
「王都からいい品、入ったよ――!」「どこ見てやがる、気をつけろっ――」「道をお尋ねしたいのですが――」「アイバく~ん――」「全隊、整列ッ――!」「かくれんぼしようね今すぐ数えるからねいちにぃさんしぃごぉろく――」
「旅人さんかい? よくきたね――」「お野菜値上がりしてない――?」「あら雨――」「スフィー見てよこれ池で釣ったの――!」「ロイ、待ちやがれコラ――!」「工事の音がうるさいのよ最近あまり眠れなくて――」「おはよう――」
ぐるぐる――ぐるぐると――――
いつの間にか、あたりは判別も難しく耳煩わしい喧騒のカオスとなっていた。
「なんなんだよ……なんなんだよ、お前らァッ!?」
道をゆくすべての者が、次に振り返る視界からは消えている。道に。窓に。陰に。背後に。前に横に。知っている顔や声もあれば、知らない若者や老人もいた。手当たり次第に叩きつける剣は、ゾブリ、と湿ったスポンジにも似た軽い感触を残して名も知らぬ主婦を粉々の砕片と変じさせ、または単に空振ってゆく。
持っている投擲武器も、もはや見当もつけず投げ放っていた。弾けた雷光と爆炎が吹き荒れ、砕けた建材が、あっという間に通りの周囲へ廃墟じみた荒廃感を作り出した。
「アイバっ、落ち着いて!」
「――くるなぁッ!!」
いつの間にかかなりの近距離まで寄ってきていた人影に危機感を覚え、アイバは剣を振り抜いていた。
「――っ!」
スフィールリアは見越していたかのような見事なステップで急制動と後退をかけ、アイバの鋭すぎる一閃をやりすごした。顔の前にかかげた右手の裾へはらりと切れ込みが入り、彼女の顔に少なくない痛痒の亀裂が走る。
「く、くるな……」
「落ち着いて……」
アイバが切っ先を向けても、目の前のスフィールリアは、その場から静かに見返してくるだけだった。降ろした腕の先から、赤い滴が何粒も落ち始めて。その色の鮮烈さで、それまで自分を囲んでいた者たちが色褪せすぎていたことに気づかされる。
同時に、剣の感触の違いにも。
「お、前……。本物なの、か……?」
スフィールリアは、ひとつ、うなづいて――
たしかめるように、一歩ずつ、歩き始めた。
剣が石畳に落ちる。
「お、俺はっ――なんてことを、それじゃあ――今までの中にも――――!」
「違うよ」
気がつけば、スフィールリアが、近すぎるところにまできていた。胸元へ潜るように身を寄せ、脇下から回された、防寒着の上からでも細いと分かる腕の感触が――
再びの恐慌に陥りかけていたアイバの脳裏で、まったくくだらない別種の危険信号が弾けて灯る。
しかしなす術もなかった。脳と、全身系が、対応を拒否していた。そのまま彼女の柔らかい髪の毛が胸の厚手の生地の中に埋もれ、花のような香りが広がって包んでくる。
アイバは、スフィールリアに、抱きしめられていた。
「な、なにを――!」
「いいから。静かに。このままにして」
第三のパニックに追い込まれたアイバの頭へ、有無もなく下された指令。
今までにない距離での、他人の温もり。やわらかな香り。この異常な環境での、たしかな感触。
「――――」
アイバは、硬直させていた両腕を、降ろした。
その心地よさに、身をゆだねるしかなかった。
気がつけば、いつの間にかは分からないが、喧騒も遠のいていた。
だが、なくなってもいなかった。遠く近く、日常を呼び交わす声がすれ違い、時に自分を呼ぶ声が混じる。どこかの家から、昼食か夕食かの準備でもするような芳香が漂ってくる。
「っ……」
「落ち着いて。大丈夫だから。あたしだけを見てて」
身を強張らせたアイバを、さらに強く抱き止めてくる。アイバも、今はただうなづいた。彼女はいなくならない。そのことをたしかめる時間こそが最優先であると。本能がそう告げていた。
やがて、胸の奥深くにまでその実感が、熱として染み渡ってきて。
多少以上の落ち着きを取り戻したアイバは、気づいていた。
ゆき交う声の中には、スフィールリアを呼ぶ声も混じっていたことに。それと、子供たちの声。どこか、ケンカでもしているような。だれかを責めているような。
スフィールリア自身も、この〝声〟たちを耐えしのいでいるように、か細く震えているようだった。子供たちの声を聞くたび、こちらを抱く腕に力が込められていることにも。やがて、
「オバケ」
「ウソツキ」
それらの語に、スフィールリアの腕がギュッと食い締められる。
「スフィー……ルリア?」
「ごめんアイバ。なんでもないの。耳、塞いでて。少ししたら収まるから……」
子供たちの声は続いていた。
わけが分からないままに見回す。いるのかいないのかもよく分からない。ただ、路地から、植え込みの陰から、小さな人影がこちらを見てきているような気がしていた。
うそつき。だましてた。おかあさんがいってた。みんなこわがってる。もう、おまえにはちかよっちゃだめだって――
「お願い、やめて――それ以上言わないで――アイバ、お願いだから耳塞いでて――」
「どうした、んだ? なにが起こってるんだ? 大丈夫なのか?」
「おかーさんがいってたんだ。おまえみたいなヤツってニンゲンなんかじゃなくて、バケモ、」
「――やめてっ!」
スフィールリアがポーチから取り出した<レベル3・キューブ>を掲げる。がり、とこぶしの中で握り締められたそれらが不完全な発動を示し、幾重もの紅い光条がアイバたちを取り囲んだ。
「うぉわっ!?」
「…………」
たまらず閉じていた目を開くと、あたりには、なにもなくなっていた。
幻影のような人々も。
声も。
街も。
迷い込む前と同じように――地面と、中途半端な建造物と、見渡す限りの〝霧〟の世界があるだけだった。
「……なんだったんだ」
押し殺して声を絞り出した。まだ、近くに彼らがいるような気がして。
「……なんなんだよ。いったいなんなんだ、アレ…………死んだヤツも、生きてるヤツもいたんだ。知らないヤツも――アイツらひょっとして、おっ死んじまったのかな……ひょっとして、俺らも、知らないうちに…………」
「違うよ」
胸のうちで、顔が左右に動く感触が伝ってきた。
「……。スフィールリア、大丈夫、なのか?」
今度は、うなづく感触。
「これはね、アイバ。『思い出の街』――――〝霧の桟礁〟」
「霧の、さん、しょう……?」
「〝霧〟は――〝霧の杜〟にはね、それ自体に世界を侵食する強度や、大きさの違いがあるの。そういう、〝霧〟が『成長』して侵食が進んでしまった〝霧の杜〟の中の『深い』場所を、深度に応じて、そういう風に呼ぶの」
「……」
「『ここ』は――〝霧の桟礁〟。〝霧〟に呑まれて侵食された領域が、最初にたどり着くかもしれない場所。有と無の狭間に向かう、その前の。世界がまだ、自分を忘れ去ってしまう途中に迷い込んだ、半分が夢に沈んだ、波打ち際のところ」
「俺たちは、まだ……生きてる、のか……?」
うなづく。
「今、アイバやあたしが見ていたのは、『思い出』の中にいる人たちなの。かつてこの街で生活してた人たち。あたしたちが会ったことがある人たち。だから生きている人も、死んでいる人もいるの。――よく思い出してみて。今まで聞いた知っている人たちの〝声〟も〝身振り〟も……全部、一度は見たことがあるはずだよ」
アイバの胸中に、少なくない動揺と確信、その両方が灯る。
「――――本当、だ。たしかに」
「だから、まだ、大丈夫。あたしたちはまだ帰れるよ」
「街が消えたっていうことは、もう『抜けた』のか? ここはもう普通の〝霧の杜〟なのか?」
今度はスフィールリアは、かぶりを振った。
「ううん――ここはまだ〝霧の桟礁〟。あたしたちは自分たちで歩かなければ、どこへもいけない。
だから、落ち着いて。まずはあたしたちがしっかり自分を持つことが大事。それができなければ、何百キロ何十日歩いても、帰れないの。だからそれまで、こうしていよう?」
「……。分か……った」
優しい声は、端的に言って、安寧だった。同じく、自分が情けなくもあった。怯えているのは彼女も同じだというのに。それでも今の自分には、彼女以外にすがれるものが、なにもないのだ。
「……手、回してもいいか。俺も」
だから今は彼女の言う通り、少しでも早く落ち着きを取り戻せるようにするしかなかった。
彼女がうなづいてくれたので、アイバはその小さな背にゆっくりと力を込めていったのだった。厚手の服は互いの熱を伝えることはなかったが、それでも、暖かかった。
だからだろう。
彼女の次の言葉に、それほど動揺を示さずに済んだのは。
「……帰ろう」
彼女がそう言ったのは、十数分、無言でそうしたあとのことだった。自分の腕の力が自然と緩んでくるのを待っていてくれたのだと、アイバには分かった。
「…………」
半分解いた腕の内側から見上げてくる眼差しは、どこまでも真摯だった。
「もう、試験は無理だよ。この街はもうだめ。崩壊が早すぎる。――たぶん、あたしたちの侵入がきっかけだったの。
さっきのモニュメント、あれ、綴導術士が作ったものだったの。詳しい構造までは見なかったけど、認識に働きかけて交通事故とか犯罪を減らすための類のものだった。
だから街の中央から全体にクモの巣状に広がった大通りの全域に働きかけてた。だからそれが〝情報のひも〟の一種として街全体をつなぎとめる楔になっていたの。
だけどたぶんもう全域が崩れてる。街だけじゃない。一刻でも早く、少しでも遠くに離れないと、帰れなくなる」
「――しかし、」
と、半端に未練を搾り出すのが精一杯だった。
状況の異常さも、彼女の言葉の正しさも、すべて分かっているつもりだ。反駁をするつもりでもなかった。
ただ……もう少しだったかもしれないのに、という口惜しさから漏れ出ただけの。
「まっすぐに歩けるかどうかも、もう分からないの。座標を失いかけてるこの場所自体が、もう、〝霧の杜〟のかなり深い部分まで引き込まれちゃってる可能性が高いから。脱出に全力を注いでも、もしかしたら三日以上はかかっちゃうかもしれない。だから試験はもう関係がないの。ううん、試験のために時間を割けば割くほど、どんどん危なくなっていっちゃう」
「…………」
「試験ならまた受ければいい。教官さんはアイバのことそんなに嫌ってないよ。あたしからも事情はちゃんとお話するから――帰れば、きっとなんとかなるよ。今、帰らなかったら。二度とその可能性も試せなくなっちゃうかもしれないんだよ!」
アイバは目を閉じていたが、スフィールリアがどんな顔をしてくれているのかがよく分かった。だからこれ以上、彼女を困らせるのは止めにしようと思った。
「お前の言う通りだわ。……悪かった。帰ろう、ぜ」
肩を持ってそう告げると、スフィールリアは心底ほっとしたように笑ってくれた。
だから、それだけでいいと思った。試験のことも。ここまで彼女が力を貸してくれたのに、結局なんの成果も出せない――それだけが口惜しかったのだということを伝える必要も。
なにもかも、それだけでこと足りていたのだから。
それから探索につぎ込むはずだった残りの十時間あまりを丸ごと費やしてようやく、スフィールリアたちは元きた旗印の建物へと帰還を果たせたのだった。それでもかなりの幸運に恵まれた結果なのだという想像は、すぐについたのだが。
「なぁ、コレ」
「うん……やっぱり、そうだったんだね」
ふたりが見上げているのは、街をぐるりと取り囲んでいるはずの市壁だった。入り口の石材には自分たちがつけていった刀傷がある。旗印を立てた時には、こんな数歩の距離には存在していなかった。
市壁の門前だけが切り取られて、家屋跡のすぐ傍にそびえ立っていたのだ。
門の内側には、冗談のように市街の景観が広がっている。外側から見ても、そんな広範に渡る街は存在していない。
これを再びくぐって試験官を探すなどという気は、もうアイバにも湧いてこなかった。
「お前の言う通り、俺たちが入っていってすぐに、きっとこうなったんだな。……この中に試験官がいたら、もう遭難しちまってるかもしれねぇけど…………」
「うん。今戻ったら二重遭難になるよ。まずはあたしたちが帰って、外にこのことを知らせなくちゃ。一応、信号弾は打ち込んでみよう。もしもあたしたちのことを待ち伏せしたまま動いていないなら、事態に気づいていないって可能性、も――」
降ろした荷物からてきぱきと筒状な信号弾と専用銃を取り出していたスフィールリアの手が、一時だけぴたりと止まる。
「どうした? なにかに気づいたのか?」
「…………。ううん。それでも一応、信号は送っておこう」
「? あ、あぁ」
門の境界へ踏み込まないように気をつけながら、門の内側の可能な限り仰角に向けて音響信号弾を射出する。
ひとつは〝霧の杜〟全体に異常があったことを知らせる最上位警報。次に避難勧告の弾を二回、停留勧告の弾を三回で、こちらが先発して救助を呼ぶので可能なだけ動かずに待てという意味になる。
最後にもう一度だけ警報弾を打ち出し、スフィールリアたちは旗印に向き直った。
「だからって俺たちもここから、まっすぐ進めるとは限らないんだよな……」
「うん。だから……裏技を使う。リスクはあるけど」
「裏技?」
「アイバはちょっと、うしろ向いててくれない? できれば目も瞑っててほしいの」
「うしろ? なんでだ?」
時間も惜しくスフィールリアは「いいから」とアイバの胴を持って回り右させた。
「もしも見られたら、アイバとお別れしなくちゃいけなくなるかもしれないの」
「――」
肩越しに彼女の、ひたむきな目を見て――
「分かった。絶対に見ない。テープも巻いておくぞ」
救護用のテーピングテープをベタベタと目元に貼りつけ始めるアイバに笑って礼を言いつつ、スフィールリアは目の前に突き立った旗に向き直った。
「……」
手をかざす。
ぼう、と腕周辺の空間から滲み出すように灯り始めるのは、〝金〟色の光。
彼女だけの〝黄金〟の〝蒼導脈〟の煌めき。
その性質のひとつは――どの〝色〟の性質であっても獲得ができること。
青、赤、緑の三原色どれかを選択して行使できる、という意味ではない。それはどの綴導術士にでもできることだ。
スフィールリアの〝金〟は、すべての〝色〟の性質を同時に獲得し、現すことができる。なに色、なん色であっても。
スフィールリアは自分の〝金〟以外にも、三原色以外の『特別な色』が存在し得ることを知っている。
そんな特別な色にまで、彼女の〝金〟は親和性を示す。以前に師へ触れて覚えた〝銀〟の特性を模倣しようとした時さえも、それはたやすく成功している。
それはつまり、この世に成立し得るあらゆる性質の綴導術を行使できるということだ。
それはつまり、この物質世界へ、あらゆる干渉が可能であるということだ。
使い方を覚えれば――万能どころか、全能の存在にまでなれる。師は彼女に、そう告げた。
だから、彼女は今、望む。
(お願い……)
つむぎ出す色は〝青〟――だけではなく。〝青〟から、さらにより深い〝蒼〟へ。そして〝緑〟。
すなわち〝安定〟と〝拡大〟と〝増幅〟。
師から賜り、故郷では幾度と生活の礎としてきた。性質上、おそらくこの世では師と自分しか使い手のない技。〝回帰術〟――〝修復〟の秘術。
今から彼女がするのは、その、さらに応用だった。
(思い出して……)
三種の〝蒼導脈〟に当てられて、旗に残された情報残滓が呼び寄せられてくる。これを手がけた工場の作業人たち。店内でこれを眺めては通りすぎていった者たち。立ち止まる自分たちの顔。手のひらの温度。訓練生たちの野次。ザックに括りつけられ、辿ってきた軌跡。とある大地へ突き立て、去ってゆくふたりの人物――
スフィールリアは旗へと手を触れさせて、その記憶を『掴み取』った。
彼女なりの方法で『それ以外の情報』はシャットアウトする。旗へ強く語りかけるように、スフィールリアは旗に喚起されている〝記憶〟の情報を、自分の三種の〝蒼導脈〟へと溶かし込んだ。
旗から、莫大な〝蒼導脈〟が噴き上がる。
(お願い――教えて!)
スフィールリアが喚起した旗の〝情報〟が核となり、増幅・拡大し――〝霧〟を貫き渡すように一本の〝道〟を形作った。
それは、彼女たちが今まで歩んできた〝道〟だった。旗が見てきた記憶の軌跡だった。
だがそれだけでは、まだスフィールリアだけにしか読み取れない、呼び出した純粋な情報の余波にすぎない。〝霧〟の中ではすぐに消えてしまう。
(だから――)
術の〝性質〟を逆利用して、〝固定〟する。
スフィールリアは旗が示した〝道〟の全領域を、知覚した〝蒼導脈〟とともに掌握した。
この地より、出口まで。丸一日分すべての面積を。
彼女の中にある情報の実領域が、その分だけ開放されたのと同義だった。
「……!」
なにが起きているのかを見ることができないアイバにも、自分のすぐ近くで莫大な力の〝通路〟が開いたことが分かり、ただ息を呑む。
鞘とともに短剣を取り出し――編み込んでゆく。
彼女が望む事象。望む結果を引き出すための、壮大精緻な、情報の綴織を。
次に鞘から剣を抜き出した時、刀身には、まるでステンドグラスのように折り重なった繊細な煌めきが明滅していた。
そっと、旗の根元。〝道〟が続く地面へあてがい、引っかくていど――切っ先を跳ね上げる。
その瞬間、爆発的な振動と勢いで地面がめくれ上がり、〝道〟に沿った全行程に〝刀傷〟が刻み込まれていった。
「よし……!」
結果を見て、スフィールリアは多少は安堵したように表情を緩めた。
「アイバ、もう目隠し大丈夫だよ。早くいこう」
「お、おぅ。うぁ、まつ毛いてて……て、なんだこりゃ!? おま、なにした!?」
「今まで通ってきた道の〝記憶〟情報を呼び出して、〝道〟だけ強引に修復したの」
「マジかよ……」
「でも、これも長くは保たない。少なくともきた時よりは時間かかっちゃう。生存率が少し上がっただけって考えなくちゃいけない」
現に、彼女が刻んだ『ひとつながり』になっているべき〝道〟は、ところどころが寸断され、途切れ途切れになって〝霧〟の彼方へと続いていっている。
そして、この〝道〟もまた、時間の経過とともに崩壊してゆくさなかにある。
「……」
「……だから、早くいこう」
強い表情のスフィールリアに、アイバも同じく、うなづき返して荷を背負った。