(1-17)
「これ、崩れるんじゃないのか……いつ収まるんだ!? 大丈夫なのかっ!?」
スフィールリアはとにかく耳元と頭頂部をギュッと覆ったまま叫び返した。
「知らないよ! こうなったら収まるのを待つしかないもん、祈るしかないよ!」
そのまま、最弱モンスターの奏でる狂宴は、十分間ほど続いたのだった……。
その、十分後……。
「……」
騒ぎを免れたメンバーたちは岩場へ登り、静まり返った広場を呆然と見下ろしていた。
そこら中に転がった瓦礫や『ドロップ』たちの生き残りで広場は埋め尽くされている。一緒に、訓練生たちも倒れている。プロテクト・アーマーから露出した顔面や腕部を真っ赤に腫れ上がらせて、ぴくぴくと痙攣していた。
死屍累々である。
「……ひとつ思い当たったことがあるんだけどね、コレ、繁殖期だわ」
なんとなく対応を思いつけないままでいたメンバーたちが、これまたなんとなく、スフィールリアに顔を向けた。
「繁殖期?」
「『ドロップ』って、繁殖じゃなくって増殖するんじゃなかったっけ」
うん、とスフィールリアは広場に顔を向けたままうなづく。
「増殖には違いないんだけど、その前に、お互いの持ってる〝情報〟を交換するの。まったく自分と同じ〝情報〟を株分けするんなら単なるコピーだけど、そういうことするから、『ドロップ』って〝単純細胞生物〟には分類されないんだ」
「マジかよ……」
「でね、あるていど大っきくなって情報蓄積が飽和に近くなって、繁殖期――増殖期でもいいけど――になった『ドロップ』は、近くにいる個体を探して、根気よく弾けて近寄っていって、うまく接触したら〝情報〟を通信して交換するの。今まで取り込んできた物質とか、今までいた土地の〝蒼導脈〟の情報とかをね。
それで複数体の個体から〝株分け〟されて増殖した新しい個体は、今までの個体がいたことのある中で一番いい〝蒼導脈〟のある土地や、その条件を知れるの。だから〝蒼導脈〟が豊富だったり、流れの穏やかな土地には『ドロップ』がたくさんいるんだ。
それはともかく、だから増殖期の『ドロップ』って、普段の臆病に輪をかけて、すっごく気が張り詰めてるの。目とか鼻とか耳がなくって、仲間の位置や地形を知るために〝蒼導脈〟の波動を探るしかないから、敏感になってるんだ。
ついでに、情報……〝蒼導脈〟も飽和に近い状態になってるから弾ける時の力も普段よりずっと強いんだよ。エントロピー・キーで〝貯蓄〟をエネルギーに変換してるの」
「その通りだ」
スフィールリアが簡単に解説を終えると、木の陰から出てきた教官が岩場の前に立つ。ついでにその途中で、何人かの情けない訓練生たちを踏みつけたりもしていた。
愛想のない顔で無知な訓練生たちを見上げてくる。
「……」
「こんな密閉した場所に、普段無活動に近いはずの、これだけの数の『ドロップ』が密集していることを少しも不自然に思わなかったのか? 彼らにとって都合がよかったから、仲間を待ち伏せするために、自然と集まってきていたのだ。このような場所なら仲間さえ存在すれば、適当に弾けているうちに接触ができるからな。
あとはこちらの綴導術士のお嬢さんの言う通りだ。このように、たとえ最弱のモンスターであろうとも、数とその他の条件がそろいさえすれば、百戦錬磨の戦士の手にも負えない力を発揮することもある。地形が崩れて生き埋めにならなかったのは運がよかったな?
大変に有意義な講義を耳にできたことにもだ。彼女に感謝するといい」
「で、でもですよ教官? それにしたってこの威力は……どうなんです。聞いたことないですよ、いくらなんでも『ドロップ』がここまでの破壊をもたらしたなんて話は」
教官はつまらなさそうに鼻を鳴らしただけだった。
「だからそれは、お前たちが無知で浅はかであるというだけのことだろう。だが挽回のチャンスはやろう。ここに倒れているバカどものダメージ量と状況を見て、その理由に思い当たる者はだれかいるか。……いないのか。では申しわけないがお嬢さん、すべて分かっているらしいあなたから、このバカどもに今一度状況の真相をご教示賜れないだろうか?」
このバカどもの『バ』のあたりにやたらと強いイントネーションをかけられたアイバたちが身をすくめるのを横目に、スフィールリアは考えを整理しながら、つらつらと語り始めた。
「……。え~と、まず、『速度合成の法則』っていうのがありまして……」
「ほう」
と相槌したのは教官である。
「異なる運動をする物体同士であっても、その運動量が合流する場合には、その速度……つまり運動エネルギーを〝合算〟して考えることができるっていうものです。え~と、簡単に言うと『速度の足し算引き算』ができるわけです。
たとえば、時速30Kmで弾け飛んでいる『ドロップ』同士が真正面から衝突した場合、30+30で、衝突時のエネルギーは時速60Km相当に数えられるっていうことです。
で、『ドロップ』は普段から自分の足で動くってことがあんまりできない生き物だから、できるだけ使うエネルギーは節約したいわけです。脅威のレベルに合わせて自分が弾けるのに使うエネルギーも決めるので、加わる衝撃が強いほど、ソイツもより強く弾けようとするわけです。あとは、加速の連鎖になるわけです」
「すばらしい」
教官がこれみよがしに拍手を送り、ほかメンバーたちも慌てて追従する。
教官の視線にうなづき、スフィールリアは〝講義〟を続けた。
「えー、さらに『ドロップ』は〝蒼導脈〟から発生した、〝蒼導脈〟を由来にする生き物なので、生き物としてはなんにもできないように思われてますが、内部での〝情報〟操作には非常に長けた生物だと言われています。言ってみれば『小っちゃな綴導術士』です。かなり限定的ですけど……。
綴導術の概念において〝エネルギー〟と〝情報〟は等価です。エントロピー・キーっていうんですけど……とにかく、なので、『ドロップ』は自分にかけられたエネルギーを、内部でそのまま『自分の情報』に変換することができるってことです。
要するに、時速60Km相当の衝撃が加わった場合、そのエネルギーをそのまんま『破裂力』に変換して放出することができるってわけです。腕っぷしの強い戦士さんでも『ドロップ』に当たれば痛い、ケガをしたりすることもあるっていうのはこれが理由です。相手が一匹だけなら大したことにはならないだろうけどね。
さらについでに、〝蒼導脈〟を由来にしているということは、〝三原色〟を色濃く残している個体の場合はその色の〝蒼導脈〟の性質もまだまだ残していることがあるっていうのも、え~と、大きいと思います。
あの中にも緑色の個体がいたので、その場合、反発のエネルギーも増幅されてしまい、」
「……」
「こんなことになっちゃったのかなって。以上です。かなっ。えへ」
アイバ班の生き残り全員が、ぽかんとした顔で彼女を凝視して……。
パチ……パチ……パチパチ。
教官の大味な拍手に釣られ始め……やがて、各々の心の底から湧き立つ旋律となり、広場に唱和されていった。
「え、えへへ、えへ……照れるなぁ」
しかし、面々の彼女を見る視線の熱は本物であった。
ぱん、と打ち鳴らされた教官の手に、一同が向き直る。
「これが、大陸最弱モンスターと名高い『ドロップ』の恐るべき概要だ。この中のひとりでも、この『ドロップ』に関してこれだけの知識を有している者、または一度でも思いを馳せたことのある者はいるか?」
全員が、無言で否定をしていた。
「では、お前たちにとってこの『ドロップ』たちはしょせん『大陸最弱のモンスター』以上のものでも以下のものでもなかったということだ――結果がこれだ! お前たちはなんだ! お前たちは聖ディングレイズ王国の未来を担う<国立総合戦技練兵課>の訓練兵か。違う! もはやお前たちはただのランクF『ドロップ』未満の最軟弱腰抜け野郎どもにすぎない!」
『…………』
「――これが〝知〟だ! 我が王国旗の剣がなぜ〝英知の書〟を護っているのかをよく考えることだ。
考えることをやめるな。人間を霊長の頂へと歩ませてきたのは〝力〟ではなく〝知〟であるということを忘れるな。腕っぷしに自信があるつもりだからといって、脳みそまでを筋肉の塊にすることはないぞ! 帰ったらその筋張って凝り固まった犬の食用にもならない脳みそをとことん叩きほぐして柔らかくしてやるのでそのつもりでいろ、いいなァッ!」
『ハイィッ!!』
全員がその場に立ち上がっていた。思った以上の声量に驚いて見上げると、崖の上にいた偵察班たちも直立で声を張り上げていた。ずっと聞いていたらしい。
「では、今回お前たちだけは減点を免れてやる。ありがたさをかみ締めたらこのバカタレどもをさっさと叩き起こして残存『ドロップ』と瓦礫の撤去作業に移るがいい! 試験日程に到着が間に合わなかった場合は無条件で不合格だぞ! 忘れるな! かかれっ!」
その後の旅路は快適だった。
「姐さんお茶をご用意しましたどうぞ」
「いやいやコッチはとっておきの保存食用ビスケットが。なんとあの<パルッツェンド>謹製だからコッチをどうぞどうぞ」
「ほ、ほらよ、花だ……名前は知らねぇけど、似合うんじゃないかってよ……」
「スフィールリア殿っ、手合わせをしてくれ、頼む!」
こんな感じで態度を反転させた一団の半数ほどにことあるごとに世話を焼かれたから……というわけではなく、特にトラブルもなく進めていたためである。
「お前らなぁ、休憩のたんびにソイツんところに乗り込んでんじゃねーよ。ソイツは今回な、俺の相・棒なんだぞ、俺の。手のひら返しすぎだろ」
「あーはいはい、今回は、だろ」
「スフィールリアさん、あんな、あなたを漢だなんて呼ばわる失礼な強化戦闘ゴリラは忘れてください。今度、あなたのための最高の王都巡りへご案内いたす機会をわたくしめに」
「あっ、シメは3-4番ウォールストリートっ?」
「なっっ……ぜっ、それ、を……!?」
「くはぁーーっははぁ! ざまみろ! ソイツに俺らの手の内すべては通用しねぇ!」
「ぐぅううううおおのれえぇぇい」
「あははっ! デートは断るけどリフレッシュの運動とか護衛のお仕事ならお願いしてもいいかなっ」
焚き火を囲み、挙手した訓練兵たちにまた一斉に詰め寄られて、賑やかに夜をすごす。
「わぁ、大っきな湖……! 王都のよりも大きい!」
「あぁ、あれは<クファラリス精霊邸湖>だ。特定採取指定保護地域としても保護されているから、君たちにとっても馴染み深い場所なのではないかな」
「うわぁ、採取地なんですか! あんなキレイな場所なんだぁ……いいなぁ……」
「さらに先には<クファラリスの森>もあるが、そちらは少々危険だな。Cランク以上のモンスターの巣窟だから、護衛と装備はよく吟味した方がいい――」
新しい採取地を知ることもできた。
落ち着いたら絶対にこよう、フィリアルディたちにも教えてあげようなんてことを考えながら――見たことのない新しい景色に魅せられながら――
五日ほどの旅程が、消化されていった。
「準備は、大丈夫かね?」
スフィールリアとアイバは、互いに顔を見合わせ――教官へとうなづいた。
「では試験No.04メンバー、アイバ・ロイヤード。随行外部アドバイザー、スフィールリア・アーテルロウン。現時刻より試験開始とする。幸運を」
冷え込んだ朝もやの中に自分の呼気を混ぜ込みながら、アイバは、見果てるように目を細めていた。
地平線も、そこへ続く空も見えない。いっぱいにあごを上げてようやく、うっすらした青空が見えるていどだ。
青空と、曇天にも似た寂寥の色との、境界が。
――〝霧の杜〟。
まったく、なんの脈絡もなく。まるで天空にある雲が、地上に居座ってしまったかのように。
揺らめきたゆたう静寂の領域は、そこに、あった。
「アイバ。なにしてるの」
はっとして顔を下ろせば、防寒着を着込み荷を背負ったスフィールリアが、すでに〝境界〟の入り口へと片足をかけている。
なんのことはない、大地に延々と打ち込まれた木製の柵。それがぽっかりと途切れただけの、扉もなにもない入り口だった。縁にかけられた、簡素な看板。
『〝霧の杜〟国立ロゥグバルド監視公園・第三封印階層・ゲート63』
そこにいる彼女の、揺らめく〝霧〟に身体の半分をぼやけさせた姿の儚さに。
その表情の透明さと、声音の静けさに。
「――」
アイバは、言いようのない不安を覚えてしまった。
「早くいこう」
ふい、と翻り、歩き出してしまう。彼女の姿が見えなくなる前に、
「ま、待てって――」
アイバもまた慌ててどたどたと駆けて、大きな荷を背負う姿が、消えていった。
彼らの挙動にも、〝霧〟はその揺らめきの一切を、変調させることはなかった。
「なぁ」
声をかけても、返事はない。
スフィールリアはうしろ頭も隠れてしまうくらい大きな荷を背負っているというのに、黙々と進んでいってしまっている。
〝霧〟にぼやけた後姿が、やがてどこかに消え去ってしまうのではないか。
そんな不安を拭えず、アイバは強めの声を出して彼女を引き止めていた。
「なぁ、おいってば」
ようやくスフィールリアが振り返ってくれたので、彼はほっとして小走りで彼女の隣まで駆け寄った。
「お前な、飛ばしすぎるなよ。体力保たないぞ」
しかし彼女はといえば、やはり変わらずに淡々とした表情を向けてきて、
「アイバが遅いんだよ。歩速がいつもの半分もないよ。いつもはあたしが早足にしなくちゃいけないのに」
「……そ、そうか?」
思わぬ指摘にどもってしまったのは、自分がそれほど臆していたのかという事実と、普段彼女にそういった苦労をかけていたという事実、半分ずつだ。
特に焦りを覚えたのは、なぜだか後者の方だった。彼女がそういったフィジカル面とでも言うのか、肉体面で自分に後れを取るなんてことは考えもしていなかったのだ。しかし考えてみれば体格の差というのは厳然としてある。歩幅が違うのだから、物理法則として彼女が早足をしなければならないのは当たり前のことだった。
だがしかしアイバの胸中にはそんなことが、なぜか少なくない衝撃として、静かに波及していっているのだった。
これはなんだろう。罪悪感? 少し違う。危機感? 近いがこれも違う。手ごわいモンスターに囲まれ、救援も見込めないとなった時の胸の圧迫感には似ていたが……
実際、手ごわそうな印象ではあった。これを解消するには。
「それに、〝霧の杜〟に入ったあとのだいたいの手順は、あらかじめ打ち合わせしておいたじゃない。
試験期間は三日。その間に指定されたなんらかの『目標物』を発見して脱出すること――この期間から逆算した半分の目測距離を進んで、目印になる遺跡物を探して探索基準点にする。
そこまでの間も目印は可能な限り残しておく。それからは拠点を基準に円範囲で探索を広げてゆく。……アイバも目印残せそうなもの、探してよ」
「お、おぅ。そうだった……よな。悪いな」
「あたしも、ごめん。気をつけるね」
また、ふたり。黙々と歩く時間が続いた。
白く揺らめく世界。
揺らめいて――渦巻き、流れてゆく。
どこまでも、淡くかすむ。
白く結晶化した呼気もまた冷気とともに白紗の中へと紛れて、自らの行方を見失うようにして消えていった。わずかな温もりの滞在も、許されないかのように。
まばゆくもあり、ほの暗くもあった。
濃霧の中にいるにも似ていたが、水の結晶が光を拡散しているのとは、少し違うのではないかと思えた。水ではないのだから実際に違うのだが。〝霧〟の隙間を縫って光線が届くでも、濃度の偏差によって明度が変わるでもないのだ。
〝霧〟が濃い場所、重なっている場所。そしてずっと遠方を見渡そうとしても、ただ『真っ白』になるだけ。むらもなく、最終的に、すべてが均一になってしまう。――太陽の位置も分からない。距離感も狂いそうだ。
いつまでも黙っていれば、時間がどれくらい経ったのかすらも見失ってしまいそうだった。
逆を言えば、ただそれだけの場所でしかなかった。
離れすぎてしまえば互いの位置を見失ってしまいそうではあったが、数十メートル範囲にいるていどなら問題はない。足元だってしっかり見えているし、地面も、たまに見える木立も、〝外〟の様子と比べてなにが変わっているでもないのだ。
もっと恐ろしい雰囲気の――地面があわ立っていたり、怪植物がのたくって怪物が跋扈しているような類の魔境なのかと思っていたのだが(練兵課の授業をまじめに聞いていなかったのだ)。嵐が吹き荒れているでもない。ただただ、静謐だけに満たされている。
アイバは多少は安心していた。これなら、目標物の探索もさほど苦労をせずに完遂できるだろう。
だから、残る心配事は、ひとつのみとなっていた。
「これが、〝霧の杜〟なんだな」
「そうね」
「これならなんとかなりそうじゃないか?」
「そう?」
「慣れてみりゃキレイなとこな気もしてくるしよ」
「……」
「……あ、ビスケット、食うか? ほれ」
封を開けたスティックタイプの固形食糧を口元に持っていってやると、ハエにでも突かれたみたいにスフィールリアがほほを逸らして、振り仰いできた。
ちょっと、顔がしかめられていた。
「いらないってば。ちゃんと探してるの」
「さ、探してるって。お前がさ、ほら、なんか元気ないみたいだったから――ていうか元気ねーぞ。どうしたんだよ」
アイバの心配事がそれだった。
スフィールリア。〝霧の杜〟に入ってから、ずっと、この調子なのだ。この土地へ近づくほど、だんだんと静かになっていってはいたのだが……。
返事は常にひと言ふた言。笑いもしないし飛んだり跳ねたり走ったりもしない。
視線はいつもどこか遠くを見通しているようで。どこまでも平坦で、透明で、真っ白な表情は――まるで〝故郷〟でも探しているかのような。生まれ育った場所とか、そういう類ではない。
もっと生物として根源的な〝なにか〟を見据えているようにも思えたのだ。そう――
まるで、生命の還り着く場所を捜し求めているかのような――
〝そこ〟を見つけた時、彼女は帰ってこないのじゃないか。そんな気にさせられて。
それが、アイバには不安だったのだ。
しかしそんなアイバの胸中を知らず、スフィールリアは「あぁ、そっか」と気だるそうな納得声を返してくるだけだった。
「ごめん。あたし、好きじゃないんだよね。〝霧の杜〟って。……気が滅入っちゃうの」
「ん。まぁそりゃ、好きってヤツもいねーとは思うけどよ」
まぁねとそっけなくうなづき、彼女は再び周囲の探索を開始している。
「アイバには話したんだっけ。フィルラールンにも〝霧〟の区画って、あってさ。だから小さな時から、師匠と一緒に〝霧の杜〟にも入って、お手伝いしてたの。いろいろ、素材が取れることがあるから」
「あ……そうなのか」
「うん。〝霧〟に消される前に、存在情報が劣化したり特殊な変性をしたりする場合があるんだけど、そういう特殊な物質は綴導術でも作り出せないものもあるから。貴重だったり高級だったりするものもあるの。師匠はよくいろんなものを〝霧〟の中に置き去りにして、そういう素材の〝養殖〟をしてたの」
「そんなことできるのか。大儲けできるんじゃないか?」
「簡単なことじゃないよ。あれは師匠だからできたことだし……それでも失敗率の方が高かったの。だからなおさら――思い出しちゃうんだよね」
「……なにをだ?」
「……嫌な思い出、とか」
アイバは顔にひたすら疑問符を浮かべていたが、スフィールリアの方は、特に具体的な言及をしてくるでもなかった。
それは『運が悪ければ』自然と思い知る羽目になるであろうことだったし、スフィールリア自身が、こんなことを考えていたためだった。
(あたしが〝帰還者〟だって知ったら、コイツも、もう遊んでくれたりしなくなっちゃうのかもしれないんだよね)
◆
「ようこそお忙しい中においでくださいました。フォマウセン・ロウ・アーデンハイト<アカデミー>学院長先生。タウセン・マックヴェル教師も」
フォマウセン学院長は、笑顔で差し出された白衣の男の両手を握り返した。
「こちらこそお邪魔してしまって。院長先生もお変わりないご様子で、なによりですわ?」
お変わりない、の部分に、芝刈り頭の彼は表情も苦めにはにかんだ。
「わたしもそこそこには長いですからね。よろしければ、お茶でも?」
簡素に首を振り、学院長は申し出を辞退した。
「ありがたいのですけど、このあとはまた別の日程があるのよね。さっそくなのだけれど、定期視察の用事を済まさせてもらってもよろしいかしら?」
「ええ、もちろんですよ。本日は新入職員の研修もかねさせていただきたいのですが、もしも差し支えなければ、ご同行させていただいても?」
「えぇ、もちろん」
彼の後ろに控えていた若い女性職員が、手で示されると同時に、ものすごい勢いで頭を下げてきた。その顔は興奮気味に、赤みを増している。どこの分野においてもフォマウセン・ロウ・アーデンハイトと言えば雲の上よりも高い場所にいる権威だ。
「『どの子』も、元気にしていますよ。それではこちらへどうぞ」
振り返って案内を始める男のうしろへついてゆきながら、タウセン・マックヴェル教師は、白衣に留められたネームタグの内容を思い浮かべていた。
『ディングレイズ・アカデミー付属 ディングレイズ国立・特別特殊病理研究センター』
ここは、〝帰還者〟の隔離と治療、そして――研究を専門とする、機関のひとつなのだった。
「〝帰還者〟について分かっていることは、そう多いとは言えないわ」
清掃のゆき届いた白い回廊へ、四つの足音とともに、フォマウセンのよく通る声が染み渡ってゆく。
「〝帰還者〟とは、その名称が示す通り――〝霧〟の中から無事〝帰還〟を果たした者たちのこと。でもそれだけなら普通の人間となんら変わりはないわ? わざわざ〝霧〟の中へと入って素材を求めるわたしたちのような変わり者も〝帰還者〟だし、救助や監視活動に〝霧〟へ入る騎士団やハンターも、みんな〝帰還者〟ということになってしまう」
「はい」
うなづいたのは女性職員だった。
立ち止まる。
回廊の片側に開けた長い腰窓。その向こう側にある白い部屋の中で、無数の幼い子供たちが遊び回っていた。
全員が、十代未満くらいの男子女子たちだ。部屋の中に転がる色とりどりの図形クッションやボール、おもちゃを使って、楽しそうに駆けている。その内の何人かが彼女らの姿を見つけて窓際まで駆け寄ってきた。
フォマウセンがにこやかに手を振ると、子供たちも、うれしそうにはにかんで手を振り返してくる。新人の彼女も、楽しそうに手を振り返してあげていた。
「ここにいるのは、まだまだ〝帰還深度〟がごく初期レベルの子供たちだ。みながほとんど正常な認識力を保持していて、問題があるとすれば、全員が両親と故郷を失ってしまっているということくらいだ。いわば、孤児だよ。
この子たちに必要なことは綴導術の観点から見た存在情報の維持だとか、正しい認識力の矯正だとかいうことではなく、出くわしてしまった悲しいできごとを埋め合わせられる他者の温もりと、地道なカウンセリング――つまり、時間だね」
歩き始めたセンター長の語りかけにうなづき、フォマウセンも屈めた膝を元に戻して、あとに続く。新人がお別れの合図に再度手を振って、少し遅れ気味になるのを横目で確認しながら。
「〝霧〟に飲まれた人里では、子供の帰還率の方が高いと言われているわね? これについては推測が成り立っているのだけれど、まだ幼いころのうちは、世界に対する自己認識力や自己の精神の境界強度があいまいであることが大きいのではないかと言われているわ。
自己認識と世界認識が確立された大人であった場合は、自分が一度でも『消えて』しまった場合、存在情報の空白部分が無意識のうちに認識されてしまい、そのまま帰ってこられない。自己を強く認識できるからこそ、消えるまでの時間は長く保つけれど、一旦消失してしまえばダメ。でも子供の場合はその境界もあいまいで、欠損度が低いうちは――なんとなく、帰ってこられる」
「――はい」
振り返らずとも神妙な声音から、彼女がどんな顔をしてうなづいてきているのかがよく分かり、学院長も満足してうなづいていた。
センター長の言葉も、フォマウセンの講釈も、すべて、彼女のためのものなのだから。
「まさに、それこそが、〝帰還者〟の抱えてしまう問題のひとつだ。――存在情報の欠損。〝霧〟がもたらす影響、結果の本質がそれなのだね。
ゆえに一度、一部でも、身体のどこかや記憶など自身の情報を消失させられてしまった者は帰還後もその欠損、その空隙に悩ませ続けられることになってしまう。そのことが、いったい、なにをもたらすのか」
回廊突き当たりのドアを開けば、またなだらかに曲線を描く、同じような回廊が続いていた。
再び、立ち止まった。
その、窓越しの病室に――ひとりの少女がいた。
清潔なベッドに腰を下ろし、今ちょうど、職員が運んできた朝食のプレートを見上げているところだった。これから食事なのだろう。どこかあいまいな視線で、うれしそうに微笑みかけながら、
『今日は、わたしは、ホットケーキとスクランブルエッグを食べたの』
と、話しかけた。
『……』
プレートを彼女の脇へ置き、しばし、職員は黙っていたが。
『……違うよ。それは〝わたし〟の今朝の朝食。君がこれから摂る食事は、こちらなんだよ』
少女は当然のようにうなづいた。
『そうなの。わたしの今日の朝食は、ホットケーキと、スクランブルエッグだったの。イチゴも食べたのよ。紅茶も飲んだの。おいしかった』
「……?」
窓の照り返しから、新人がいぶかしげに眉を寄せるのが見えた。
『違うよ。それは〝わたし〟。〝君〟じゃない。〝わたし〟と〝君〟は、まったくの別人なのよ』
『違うわ。わたしは、わたし。わたしも、わたしだわ。だって〝覚えている〟もの。今朝に顔を洗った石鹸の香りだって思い出せるわ。タオルの柄も。ほらね。言われた通りきちんと自分のこと覚えているわ。えらいでしょう?』
『それでも、違うんだよ。〝君〟はホットケーキとスクランブルエッグを食べてはいない。見てもいなかったはずだよ。よく思い出して――君がこれから摂る食事はこちら。見てごらん、おいしそうでしょう。お腹だって空いてるはずよ』
『お腹いっぱい食べたのに――』
「あの子はね、当然だが、彼女の朝食のメニューなんか知らされてはいないよ」
振り返れば、唐突に告げられた新入りの彼女は――ぽかんとした顔のまま、
「…………え?」
と、まったく分かっていないつぶやきを漏らした。
「それでもね、あの子には『分かる』んだよ――ちょっと食べるくらいなら大丈夫とでも思ったんだろう、彼女にはあとで注意しておかなくてはね。これ以上あの子の体重を減らすわけにはいかないのだが……。わたしも今朝は食べてない。君もだろう? このためだったんだよ?」
「……」
「〝霧〟によって自己情報を失った者に起こる問題のひとつが――これだ。存在強度の喪失。自己境界線のあいまい化。
このようにして、時に彼らは〝帰還深度〟……つまり失った情報の大きさや度合いに応じて、欠損した自己の情報を補おうとするんですよ。自己の境界を定義づける情報が弱かったり欠けていたりするため、他者と自己の区別がつきづらく、混同しやすい側面があるんです」
まだよく分かっていない彼女へ向け、タウセンもフレームを持ち上げつつ、結論を教えてやった。
「よく〝帰還者〟のことを認識障害や認知症、精神症患者の一種と勘違いする者もいるが、実際は根本から違うのですよ。そのことは、目の前のこの彼女が示してくれています。
存在強度と自己境界線が、根本の情報から欠落する――それは、他者へと容易に〝溶け込んでしまう〟ことを意味している。
彼女は職員の朝食を本来見てもいないし、知識として知ることもできるはずがない。だがそうじゃない。彼女はあの職員に精神を同一化させ、記憶と体験を自己のものと混同させているんです」
だから、〝帰還者〟に触れた時、人はいぶかしがる。戸惑う。気味悪く思う。
触れてほしくないと願い、遠ざける。
「そ、んな。ことが……」
顔を青ざめさせて、ようやく新人の彼女が呆然とした理解の声を漏らした。彼女は〝帰還者〟とはあまり縁深くない部署から転属されてきたのだ。
「しかし一番重要なのは、それは彼ら自身が自覚してやっていることではない、ということだ。彼らは、彼らの〝空白〟に自動受信して流れ込んでくる他者の表層情報を、自然に生活をする中で、自分のものと誤認してしまうんです。
そのため自己認識がまだ正常に近い低深度の〝帰還者〟などは、それが本当に自分自身の体験だったのかどうか、行動だったのかどうか、ふとした拍子に分からなくなってしまう。自己の認識と記憶の境界に悩まされてしまう。社会活動への復帰が難しいとされる理由のひとつでもある」
さらに〝深度〟が深くなれば、この病室の彼女のように、他者の体験や記憶ばかりに気を取られて、自分の生活そのものが維持できなくなってしまう。
生活が、空っぽになってしまう――。
うん、とうなづき、センター長が引き継いだ。
「その通りです、先生。とは言っても混同する相手の存在強度や認識強度も関わってくるからね。『あのていど』の〝帰還深度〟の患者なら、まだ実害は少ないと言えるね。――さぁ、ゆきましょう、『次』へ」
「ミッシェリカちゃんはお変わりないかしら?」
「えぇ。最近は特に『穏やか』でしたので、よい時期でしたよ――」
「……」
タウセンはふと立ち止まり、振り返った。
そこでは新人の彼女が、歩き出す途中で、射すくめられたように立ち尽くしている姿があった。
その視線の先に、穏やかに微笑んで彼女と視線を絡めた少女の顔があった。このガラスは、向こう側からこちらを見ることができない構造になっているはずなのだが。
『ありがとう、わたしのことを心配してくれて。うれしかったわ』
「……」
『今日のわたしのお昼は、お肉と野菜の炒め物なのね。おいしそう。楽しみにしてるわね』
新米職員は、心がどこかへいってしまったかのように、弧を描いて頭を揺らし始めていた。ふらふらと。しかし視線だけは釘で打たれてでもいるみたいに、病室で微笑む少女へ固定されていて――だんだんと揺れ幅が大きくなっていって――
「君」
歩み寄ってタウセンが肩へ手をかけると同時、彼女の手から研修用の書類が滑り落ちた。
「……」
ものすごく驚いたような顔をして見上げてくる彼女の足元に屈み込んで、書類を拾い集めて、差し出してやる。
「ふたりはいってしまったぞ。わたしたちも追いついた方がいいな。君は研修中だから。その通りだね?」
「は――い」
うむとうなづき返し、タウセンは歩き出した。彼女がついてくるのを確認しながら。
『また会えるわよね?』