(1-12)
◆
「あははっ。うふふふっ」
そんな廊下でのできごとを、隣の棟の上階より覗き見る者があった。
「出会った、出会った。ふたつの色が、出会ってしまった」
手にした小ぶりな双眼鏡には、品に満ち溢れた装飾が施されている。彼女のうしろ側の廊下をゆく者たちの身なりや足取りを見ても、スフィールリアたちの棟にいる生徒たちとは、どこかが一線を画している。
「世界の果てからこぼされた、天なる〝金〟と深淵き〝黒〟。ああ、今日はなんて素敵な日。とても輝かしい記念日。とても、とても、とても……」
いわゆる『貴族組』の講義が行なわれている建物だった。
「……」
歌うように声を弾ませていた女は、ほぅ……と陶然とした息を漏らした。
「ああ……フォマウセン・アーテルロウン学院長様。あなたはすばらしいお人。まさかあのおふたりが同じ期で入学することになるだなんて。これは偶然? それとも必然? これもすべて、あなたの懐深きご采配のおかげ」
窓枠に身を乗り出して無邪気に足を揺らつかせるその姿を見咎める者はいない。
いるわけがなかったし、もし見られていたとしたって、彼女は貴族組の中でも変わり者で通っているので問題はない。
「でもでも、いいのかしら? よろしいのかしら? ああ、学院長様。あなたは分かっていらっしゃるのかしら。彼女が創設なさったこの学び舎に。彼女たちを抱え込むという、その、意味が」
双眼鏡の内側に映るスフィールリアが、引きずられてゆく。彼女の視界に、彼女が求める者たちの姿はいなくなった。
彼女も、ぱっと廊下へ着地し、浮き立った足取りで生徒たちの流れに混じってゆく。
しかしそこで一度振り返り、いたずらっぽく笑むと、
「わたくしめにだって分かりませんのに」
再び歩みを始めて、今度こそ生徒の群の中に消えていった。
彼女を見留める者はいない。
彼女は、そこにはいなかったのだから。
◆
「スフィールリア・アーテルロウンとマテリス・A・ミルフィスィーリアが接触したようですね」
教職員棟、学院長執務室。
執務机の傍らに控えたタウセン・マックヴェル教師が、次なる報告書の内容を読み上げた。
「それで? なにか、目に見える変化は?」
「……これといって、特には。スフィールリア・アーテルロウンが放課後に体調を崩す様子があったようですがすぐに復調。以降、両者ともに平常通りの生活を送ったようです」
フォマウセン学院長はふっと息を抜いて、笑った。
「……まあ、そうでしょう。出会っただけでなにかが分かると期待していたわけでもなし」
「やはり、偶然ではないとお考えで?」
「どうかしらね? ここは<アカデミー>。世界中からどのような綴導術師が集ってきたとて、おかしなことなどひとつもないわ。でも、そうね……」
一度、言葉を切った学院長。……引き出しの鍵を開け、内部で厳重に保管してあったものを机の上に取り出した。
「……やはり、まだ〝そのまま〟ですか」
ええ。と簡素にうなづくフォマウセン。
それは、スフィールリアが触れたのと同型の、素養計測に用いる導宝玉板だった。
「〝黒〟の才能」
中央の水晶球は、純粋な黒色に満ち満ちている。
照り返しすらない。室内の照明の光さえ吸い込んで、水晶球の周辺だけが、薄暗い闇に包まれている……。
この水晶に触れたのは、ミルフィスィーリアだ。
実のところ、スフィールリアが〝金〟の素養を見せるよりも前の段階で、ふたりはこの〝黒〟の素養に出会っていた。彼らが驚いたのは、なにも〝金〟を見たからという理由だけのことではなかった。
絶対にあり得ないはずの〝色〟に、二度も続いて出会ってしまったためだったのだ。
学院長は、闇色をまとう水晶に己の手を近づけさせる。
「っ……!」
本来ならば彼女の力を受けて新たな〝色〟を灯すはずの水晶球だったが……手を触れても、〝色〟の上書きは起こらなかった。見えない抵抗に阻まれ、火花が散り、その光も水晶に満ちる〝黒〟色に吸い込まれていった。
手を離す。
「駄目ですか」
「ええ。案の定。……今日のわたしの色は〝赤〟だけれど、おそらくどの日に試しても無駄でしょう。この導宝玉板ももうダメね。今日中には破壊しなければ。余人の目に触れる前に」
「……わたしには、やはり不安材料としか思えません。ようやく世界規模から見た学院の基盤も整いつつあるというこの時期に」
「綴導術の概念を、学院を、根底から打ち崩しかねない要素だと? もしくは彼女たちのどちらかあるいは両方が、それを望んだなに者かの差し向けた刺客だと?」
「その可能性もあります」
「スフィールリア・アーテルロウンに限って見たとしてもかしら?」
彼にとって敬愛を抱くべきアーテルロウンの系譜に並ぶ、彼女のことであっても? と、いう意味だった。
しかしタウセンは、動じずにきっぱりと断言する。
「可能性として、考慮には入れておくべきです」
フォマウセンは茶化さずうなづいた。
彼女をこの学院に送ったというヴィルグマインの手紙も、手続きも、すべて書面によるものだ。彼本人であるという絶対の保障は、ない。
しかしフォマウセンは次に気を抜いた笑みを浮かべると、このいつまで経っても生真面目で実直で苦労性な腹心に、労いの言葉をかけた。
「そうね。あなたが言うのならそうなのでしょう。ですがこのことの判断は、今はまだ。わたしに一任してちょうだい」
「かしこまりました」
「さ、遅くまで悪かったわね。今日はもういいので休んでちょうだい。わたしももう休むわ」
「は。では、失礼いたします」
「……」
タウセンが席を辞して、五分ほど。フォマウセンは〝黒〟の水晶を眺めていた。
「マテリス・A・ミルフィスィーリアの〝A〟は、〝アーテルロウン〟のA」
フォマウセンは聞く者のない自らのつぶやきに首を振る。そのことに大きな意味があるのかないのか。それを考えるべきなのかを置き去りにして。
「そして、あの〝杖〟」
同じ引き出しから、バトンサイズの装飾品を取り出す。
「出でよ」
装飾品は淡い輝きとともに伸長し、数秒後には、天井付近まである長大な杖に変化していた。
背より両翼を広げ、なにかをかき抱くようにして微笑む乙女の像と、その頭頂に輝いた美しき七色の光輪。師フィースミールより贈呈された杖を基礎にした、彼女だけの<縫律杖>――<オーロラ・フェザー>。
それに施された装飾は、色や細部こそ違えども、ミルフィスィーリアの所有していた<縫律杖>とかなりの部分が似通っている。
内部構造に至っては酷似しているとすら言える。少なくとも同じ理論思想を持つ人間によって作成された<縫律杖>であることは間違いない。
ミルフィスィーリアに〝黒〟の<縫律杖>を贈ったのは、フィースミールだ。
「砕け」
<オーロラ・フェザー>より発生した赤い光線が、掲げた導宝玉板を取り囲む。
光は幾何学を描く光条の檻となり、無限に狭まってゆき……それまでなに〝色〟の支配も阻んでいた闇色の導宝玉板を、音もなく滅ぼし去った。
すでに導宝玉板への意識は逸らし、学院長はため息をついていた。
「あの子は、物心がつくころには、すでにとあるひとりの〝女術師〟と旅をしていた。『学院に身を寄せよ』という書き置きとともに唐突に取り残され、放浪の末、ここにたどり着いた。その術師がフィースミール師……?」
確証はないが、間違いはないだろう。今いちコミュニケートを成立させるのが難しいあの子供からどうにか聞き取り出した経緯をまとめると、そういうことになる。
学院に入学するにあたってのミルフィスィーリアの身元保証、およびすべての手続きと支払いは、東方フェリス王国の<王宮綴導術師学術院>に所属する『とある高名な術者』が一切を引き受けていた。
が……その術者は、架空の人物だった。
<アカデミー>諜報機関が綿密な調査を行なった結果、機関はそういう結論を返してきた。
〝彼女〟が学術院に残してきた数多くの〝実績〟は実在する。
それら研究成果に対する王宮よりの表彰授受式すら正式に執り行なわれていたし、学術院内においてその人物と幾度となく取引をした経験があるという人間すら数多い。
だが、肝心な生身の人間としての〝本人〟を、どうしても見つけることができなかったのだ。
〝彼女〟と取引をした、または〝彼女〟と旧知であるという人間全員を調べた。
――結果、〝彼女〟と実際に対面して話をしたことのある者というのは、ひとりとして存在しなかったのである。しかしそれまで、だれひとりとして〝彼女〟の実在を疑う者はいなかったのだ。
彼らの聴取から得た内容には〝彼女〟の性格や人となりに関する非常に細やかな情報までが含まれていた。中には、『実際に会ったことがあるという者の話では……』という逸話まで。
そう。
フェイクだったのだ。
皮膚のない人間。器なき場所に、数々の実績、そして〝人物像〟という中身を注ぎ込まれただけの。
かの地には〝伝聞〟〝取引〟、そして王宮に提出される研究成果という名の〝実在証書〟を用いた、『彼女という人物像を自動で更新し続けるシステム』が設置されていたのだ。
取引はすべて手紙やバイヤーを通す形式だったし、個人的交流に対する返信まで行なわれていたほどの徹底ぶりだった。
自分は直接対面をしたことはないが、会った者はいるという話はある。そして、自分は〝彼女〟と実際何度も取引をしたし、手紙による交流の内容も、話に聞く〝彼女〟の人物像とまったく相違はない。
――さらにそんな自分と同意見な者がいれば、その見識は一層、強固なものとなる。
やがては〝彼女〟と会ったことがあるという錯覚さえ起こす者が現れて、伝聞のネットワークはより密度を上げてゆく……。
同じ場所に蓄積を続けた情報はやがて〝歴史〟となり、知識をも超えた揺るがぬ〝概念〟と化すのだ。
事実、この結果を諜報員が聞かせてみた何人かの内の全員は『それはそうだ。〝彼女〟は滅多に人に会わない』『遠出をしているんだろう』といった以外の反応を示さなかった。
明日の日の出を疑う耕作人などいないし、教会で神の不在を謳う愚か者もいはすまい。
〝彼女〟はそうして明日も、何年先までも存在を続けてゆくのだろう。
非常に巧妙に組まれた工作だった。
フォマウセンは、それが分かった時点で、機関に調査の打ち切りを命じた。
彼女自身も手紙の交流があり名前を留めていたほどの術者だったので、ちょっとした衝撃ではあったのが……〝そこ〟まではまだ、重要ではなかったのだ。
(問題なのは、『なぜ』フィースミール師がそのようなことをしたのか、ということ)
フォマウセンの〝立場〟を考えれば、それは一見して無意味な回り道でしかない。
フォマウセンは、アーテルロウンの名を与えられた、フィースミールの直弟子だ。
あの〝杖〟を見ればミルフィスィーリアが〝彼女〟の弟子であることなぞすぐに分かる。ついでに言えば、フォマウセンの所有する調査能力があれば、ほどなく工作が看破されることも分かり切っている。
そして、この学院は、〝彼女〟の創設した学び舎だ。
そこへ自らの弟子を送り込むにあたり、自分の名前を隠す必要がどこにある?
いや、それは違う。
……そうする理由というものが、あったのだ。
(それは、なにかしら? 〝彼女〟の存在の示唆を世間一般、あるいは〝何者か〟から隠しおおせるため? それとも、その〝理由〟とやらの存在を、このわたしに察知させるため?)
……加え、奇しくもミルフィスィーリアと同期で入学することとなった〝金〟色の少女。
アーテルロウンの名に連なる、スフィールリア・アーテルロウン……。
「まあ、あなたが寄越した子供たちなら、わたしが面倒を見ますけれどもね。でも」
偶然などではない?
これは、必然?
そこにどのような意味があるのか? その意味を与える〝役割〟にいるのは果たしてだれか?
学院長は、自らがスフィールリアへ与えた語りかけを思い出し、長い長いため息を吐き出した。今は、なにも、分からない。
「フィースミール師……あなたは今どこにいて、なにを考えているのかしら…………?」
振り返った窓へ漏らしたつぶやきは、夜闇に淡く拡散する白月の輝きに溶けて、ただ消える。
◆
「……やっぱりあるじゃん」
夜。大図書館前。
宵闇に沈み黒々とそびえる巨大な建物の間から、かすかに橙色の光が漏れ出ている。
それを見てスフィールリアは、今度ふたりに見せてやろうと考えながら歩を進めていった。
が。
「あれ?」
路地の突き当たりにあるものを見てスフィールリアは足を止めた。そこにあるのは先日に見た〝店〟とは別のものであった。
屋台車は屋台車だったのだが……。
「ごめんくださ~~い……あ、やっぱりおじいさんだ。お店やってないんですか?」
垂れ下がっていた布を持ち上げて内部を見ると、そこにいたのはやはり店主の翁。
「今日は、ラーメンの日」
「……ら……ラァ、ミェイン?」
「ら、あ、め、ん」
「っらぁ、アー、メィ、ン!」
ん。とうなづく店主の翁。
先日と違いこぎれいな白の帽子に半袖の調理服と衣装を変えている。そんな彼の前には煮え立つ大鍋。大量のお湯からは、もうもうときれいな湯気が立ち上がり続けている。
翁とスフィールリアの間にはカウンター。椅子。
そして椅子の上には、先客の姿があった。
「スヤァ……………………」
「……」
ミルフィスィーリアだった。
マイ枕(いつでもどこでも一緒らしい)に顔半分をうずめて大爆睡している。
彼女の横には、食べ終わりと思しき、白色のスープが半分ばかし残るどんぶりと。
小皿に載せられた、短冊型でブラウン色のやわらかそうな物体をかじるリスの姿。
「……食べ物?」
「そうだよ」
「お店は?」
「今日は、ラーメンの日」
毎日、あの雑貨店をやっているわけではないらしい。もしかしたらいつ雑貨屋を開くのかとかは、気まぐれなのかもしれない。
それにしても、ただでさえ〝あの店〟だって思いつくもの全部詰め込んだようなものだったのに。あまつさえ飲食店って……。
「そーなのかー……水晶水の素材、買い足せると思ってきたんだけどなー……」
翁は小さな肩を揺すって、あの独特の笑いを返してきた。
「食べてくかい」
「うーん、そですね。せっかくだし。……でも、なに料理? 聞いたことないけど、どこの国の食べ物なんです?」
「そんな国ないよ」
「へ?」
「遠い…………たどり着けない国から届いた〝まぼろし〟さ」
「はぁ」
「友達が好きだった。いつでも思い出せるよう。いつ帰ってきてもいいよう。こうして作ってる」
「……」
語る内容は分からなかったが、スフィールリアの顔に俄然興味を惹かれたような笑みが湧き立ってきた。
それはつまり『情熱が込められたもの』ということだ。そういうものは、『いいもの』なのだ。
スフィールリアはミルフィスィーリアの隣に座り、元気よく一本指を立てた。
「よぅし……おやっさん、オススメひとつっ!」
「いいね」
得心したようにうなづいた翁。コップに注いだ水を置くと「待ってな」と短く告げ、作業に取りかかる。
後ろに積んでいた木製の番重から取り出したるは、手のひらに納まるくらいの、卵色の束。
それを圧倒的な湯量の大鍋の中へと惜しげもなく放り込む。
「あ、麺料理なんだ」
「そうだよ」
答えつつ翁は手を止める時間も惜しいとばかりに手を動かし続ける。慌しくこそはないものの、静かで、かつ的確な手つきだった。
なんだかプロの手際から伝わる安心感のようなものがある。
「楽しみだなー」
そして……。
「う、うめえええええええ~~~~え!」
数分後。スフィールリアの悲鳴が響き渡っていた。
「う、う……うまーー! なにこれ、うま……ごくんっ。田舎のオショーユと全然違うよ……どこか素朴でいて、ふーっ、ふーっ、もぐもぐ……でもお肉と油のガッツリ感とコッテリ感が見事に調和してて麺もすごくモチモチですんごい卵の匂いが……ズズズーっ!」
「醤油は分かるのかい」
「ぷはっ。あ、はいっ。ウチの田舎はフィルラールンで、あっちは東側の大陸からの輸入品も運ばれてくるから」
「あっちの大陸からかい。だいぶ広まったんだね」
「こっちの方じゃ探しても全然見当たらないですけどねー。もぐもぐ……産み立ての卵使ったたまごかけごはんとか、小さいころはよく食べたなぁ」
「俺もよく食わされた。失敗作の醤油とできのわりぃ卵使って、何度も一緒に腹壊した」
翁は笑う。
スフィールリアは、眠りこけるミルフィスィーリアの横にあるフォーク入りのどんぶりを指差した。
「これは?」
「そっちは、トンコツ」
「トゥンクァツ……ごくり」
「明日はトンカツ屋にしよう」
……店内を見回してみると、横手の屋台骨にメニューがぶら下げられている。
シオ。ショーユ。ミソ。トンコツ。パーコー。タンタン。具材も別々に選べるらしく、タマゴに、野菜炒めに、チャーシュー、メンマ、角煮の厚切り……。
いずれも比較的一般的な価格設定であったが、中には、アルン(金貨)単位がする驚きな値段のメニューも並んでいるのだった。
「『オーバー・リミテッド・STR=ミソ・スープ』50アルン……? おじいちゃん、あれは?」
「それは、食べたら筋力が増強される効果つきだよ。期限は一日だけね」
「じゃあ『クリスタル・カエダマ(1.5玉)』200アルン、は?」
「食べた者のタペストリ領域を一時的に2~10割増しするよ。期限は個体差」
「へぇ……」
どう転んでも<アカデミー>に根を張る店には違いないらしい。
『サーガ・オブ・レジェンダリィヒロイックラーメン ~オーバーザレインボゥ~(100000アルン)』とか食べたらいったいどうなるんだろうか……。
ともかく値は張るものの、どうしても自分の力量を超えた仕事に挑みたい時などは便利かもしれなかった。毎日〝このお店〟とは限らないみたいだけど……。
「……ごちそうさまでした! はぁ~おいしかった。なんだか染み渡る味だねっ」
「はいよ」
店主が小皿に載せて卵をプレゼントしてくれる。スフィールリアが特に絶賛した味染み半熟卵だった。「やったぁーー!」と歓声を上げて口の中に放り込む。つまむとマシュマロのようにへこむほどやわらかい卵は、くっと舌に力を入れるだけで濃厚な風味の黄身を溢れ出させて、口いっぱいに広がってくる。
幸せをかみ締めながら、スフィールリアは、隣の少女に目線をやった。
「ん、く。……起きないね」
「ずっとそうしてるよ」
「邪魔じゃないの?」
「問題ないよ」
「……こんばんは~」
リスに手を振ってみる。リスはメンマという食べ物を完食し、追加されていたチャーシューに取りかかっていた。
振り向いたリスは一旦チャーシューを手放し、ミルフィスィーリアのおしぼりで手を拭き、こちらの下まで歩いてくると、ぱっと両手を差し出してきた。
「……あは。どもっ」
こちらも差し出した人差し指を小さな両手でつかんだリスは、くいくいっと上下させるように力を込めて、またチャーシューの攻略に戻っていった。
「スヤァ……ァ…………」
「起きないなぁ……」
スフィールリアは片肘ついた手に頬を乗せ、少女の横顔を眺め続けた。
……なんだろう。
話がしてみたいと思っていた。聞いてみたいこととか、おしゃべりすることとか、いっぱいあるような気がしていたのに。
こうして目の前にしてみると、それが全部幻想だったと思い知ってしまった。なにを話せばいいのかなんて分からなかったし、お互い、知ってることなんてなにもないのに。
それなのに、まだ、そんな錯覚が消えずに残っているのだ。
どうしてこんなにも気になるのだろう?
起きて欲しいのか、眠ったままでいてくれた方が助かるのだろうか。
こうして眺めていても眠ったまま? それとも、ふと起き出してこちらに気がつくまでのタイムリミットは迫っている?
期待しているのか不安なのか――どちらでもある胸中の高鳴りをあえて見すごしたまま、時間は刻々とすぎていって――
パサリと。見つめていた少女の肩に細い手が重なるのを見て、スフィールリアは我に返った。
厨房側から回り込んできた翁が毛布をかけたところだった。
少女の寝息は、当たり前のように尽きることがない。
スフィールリアはふっと息を抜いて、自分を、笑った。
「おじいちゃん、ごちそうさまでした! お代ねっ」
「はいよ」
「……ミルフィスィーリア、大丈夫かなぁ? おじいちゃんは大丈夫?」
「問題ないよ」
「そっか……そいじゃ、またきます!」
「はいよ。またね」
◆
そして翌朝。入室するなりまたも奇異の視線を集めたミルフィスィーリアに、早速スフィールリアは駆け寄っていった。
注目を浴びているのは、彼女がなぜか、毛布を羽織っていたためだった。
「おはよ、ミルフィスィーリアっ。それ昨日の毛布じゃない。どうしたの?」
「……?」
「ら、ぁめん屋さん。おじいちゃんがかけてくれたヤツでしょ、それ?」
「らーめん……たべた」
少女がうなづくと、それだけなのになぜか無性にうれしくなって、スフィールリアも無意味に力んでうなづき返していた。
「うんうんっ。あたしも食べたよ。おいしかったね――あれからどうしてたの? いつ起きたの?」
「朝」
「朝ぁっ?」
「これ……包まってた」
「おじいちゃん被せたまんまにしてくれてたのかぁ……起こしても起きなかったのかなー」
「返すまで……着てる。忘れるし…………ぬくぬくするので」
「んー、そっかぁ。目立つと思うけどなぁ、うーん……でもいつも眠ってるし絶好の装備なのかもね。今日もお店やってるといいね」
「……うちのリスも、お世話になりまして。と……言ってる」
「リス? リスっていうのその妖精? そのまんまだなぁ」
「? でも、リスなので」
「リスだけどさぁ。実はちゃんとした名前とかあるんじゃない? ウチにもネコだけどフォルシイラっているし――あっほら全力な感じでうなづいてるよ?」
「……これが慣れているので」
がっくりと頭を垂れたリスが、ぴしゅーと小さなため息(だろう)をついた。
「そっか、苦労してるんだね。――ねえ、ミルフィスィーリア。また〝お店〟とかで会ったら、お話しようね。学院でも見かけたらいつでも声かけてよっ」
うなづく少女に満面の笑みを返し、スフィールリアは「そんじゃねっ! リスちゃんもちゃんと起こしてあげてねっ」と言い残し、元いた席に駆け戻っていった。
「……あなたよくもまあ、あれだけのコミュニケートを成立させましたわね。早くも教室一の奇人認定をされているあの人に」
呆れた風に頬杖をついているアリーゼルだが、スフィールリアはまったく気にせず笑い返した。
「でも本当はすごくいい子だよ。あたし、最初に会った時からこうしたかったんだ、きっと。なんでか分かんないけど。でも、頑張ってみてよかった」
「……わたしたちも今度、お話できたらいいね。学院って広すぎるし、ひとりぼっちじゃ寂しいもの」
見ればいまだにミルフィスィーリアは教室最下段の位置からこちらを見上げ、じぃっ……と無垢な眼差しを投げかけ続けてきている。
表情は相変わらず読み取りづらいが……室内の喧騒から取り残されてこちらを見つめる姿は、広すぎる孤独の中にほのかな温みを見つけた希望を灯しているようにも見える。
「そうだよね。今度フィリアルディも一緒にお話しようよ。お昼とかあたし誘うよっ」
「ふふ、そうだね。お願い」
まだ多少の人数に注視されているのも気にせず気軽に手を振るスフィールリアと、手を振り返してくるミルフィスィーリア。
「大丈夫なのですかねぇ……」
そんなふたりを交互に眺め、アリーゼルは、やや惰性じみた息をついた。
スフィールリアが隣のふたりと話し始めたためか、ミルフィスィーリアも自分の席に戻って流水のごとき鮮やかな手順で睡眠に入っていた。
「そういえばあなたたち、いつの間にそんなに仲良くなったんですの?」
「仲良くなるのはこれからの予定だけど、昨日の夜にね――あっ! ねぇね。やっぱりあの場所にねぇ、〝お店〟あったんだよ。ミルフィスィーリアだっていたんだから!」
「はぁ? あなたのおっしゃっていた、怪しげな〝お店〟とやらですの?」
「ま、またあの場所にいったの? 夜にっ? だめだよって言ったのに……」
「うんっ。ラァメン食べたの!」
呆れ顔を見合わせていたふたりの表情が、怪訝なものに変わる。
「らあ……めん……?」
「ラーメンですの? ……あの、〝アイバール・タイジュ〟の? 〝金灼の望郷〟とも言われる珍味の?」
「あ。アリーゼル知ってるんだ? でもなにそれ?」
アリーゼルは呆れ半分、思い出しの渋面半分という顔を作った。
「むしろあなたが知っていて食べたわけではないんですのね。……知っているもなにも、一部では有名な食べ物ですわよ。〝伝説の勇者〟アイバール・タイジュ=セロリアルが開発して伝えた、彼の故郷にあったという麺料理ですわよ」
「あ……その人は分かるかも。子供のころにわたしが読んだ絵本の中だと、タイクーン・アイバー=セロリアって名前だったけれど」
「だれそれ知らない」
「〝世界樹の騎士〟とも言われる数百年前に実在した英雄ですわよ。地方によってつづりや発音の伝承がいろいろ異なりますの……それもそのはずで、彼の本当のお名前というのは、わたくしたちの世界とは、文字も、発声法も異なる大系によって形成されていたのですわ。ですから呼ぶ人によってまるで音が変わってきますの」
「うーん? どゆこと?」
「ですから。世界滅亡の危機に際しセロ国へ突如として現れた彼は、神代の国から遣わされた勇者――つまり生まれ育った世界が違っていたんですのよ。文化も、言語も、世界法則さえ異なる場所で彼は生まれ育ち、使命によって遣わされてきたんですの」
「エラい人から出張命令出されちゃったんだ。大変だね。……でも世界の危機ってなんかすごいね。わくわくする。それってなに?」
「子供ですの? ……その世界の危機とやらがどのようなものだったのかについては、実ははっきりしたことは分かっていませんの。彼のたどった旅路には謎が多かったんですのよ。
たしかに当時は世界中の至るところで異変が起きていましたし、いくつもの国が滅びていたという文献は残っているのですけども、その全容、原因――〝中核〟とも言うべきものの正体は不明なままなのですわ。ですから伝承や絵本製作を手がけた作家によって、神に反逆する魔王の暴虐であったり、人間の傲慢を濯ぐ神の試練であったり、封印を解かれた〝霧の魔獣〟の影響であったり……描かれる〝救世〟の様子もさまざまですのね。
ともかくセロ国へと降り立った彼はその後、緋薔薇の剣聖レウエン・グランフィリア、白銀の賢者ウィーグマイル、煌桜洞の秘術廊の鍵守ロ・パロ・トゥルらとともにこの世界を巡り……危機の根源を断ち切ったんですの。
そして謎多き旅を終えて再び歴史の表舞台に姿を現した彼は、生き残った人々へ、こう言い残したんですの。
破滅は免れた。世界が今再びなる試練の時を迎えるのならば、私もまた再びあなたたちの下へと現れるであろう。
――とね。こんな言葉が残されているから、神代の世界から遣わされた〝勇者〟なんですのよ。彼らがなにと戦い、なにを成したのかははっきりしませんけれど、事実としてそれ以降世界中の異変や災害は収まったようですし。まあ、謎多き英雄ということですわ」
「ふぅん……面白そうだね。で、ラーメンは?」
「ああ……そうそう。で、彼の故郷に存在したという麺料理が、その〝ラーメン〟ですわ。なんでも彼はことあるごとに故郷の実在を周囲の人間に説いていたのだとか。故郷の郷土料理と味の似た料理を絶賛し、自らもまた旅路の中で精力的に故郷の料理の再現を試みていたんですの。それこそ思い出すように、懸命にね……その様子から、別の説では彼は乱世の中で生じた単なる記憶喪失あるいは記憶混濁者だったのではとも言われていますが……ともかく、そんな再現料理の内のひとつが、その〝ラーメン〟ですのよ」
ちなみに、東方大陸のかつてセロ国が存在していた地にある国の騎士団では、現在でも伝説の英雄にあやかって、戦士に力を授ける食べ物として作り続けられている。
魔を退ける食べ物として扱われることもあり、真っ赤なスープで満たしたラーメンを大通りを練り歩く巨大藁人形へ向けて家中の窓からぶちまける〝ぶっかけどんぶり祭り〟は世界100奇祭のひとつとしてあまりにも有名である(スープを真紅に染め上げるほどの唐辛子を溶かし込んだスープを使って魔を払うのが本来の姿であったが、巻き添えにスープをかぶって病傷人が続出しすぎるので近年では染料が使用されている)。
「へぇ……アリーゼルは食べたことある?」
アリーゼルは再びなにかを思い出したように、眉を寄せて肯定した。
「ええ……父が珍味好きというか、好事家といいますか。ある日そのレシピを習得しているという料理人を招致して晩餐に供されたんですけれども……あのなんとも言えない独特なスープのクサみとパスタを大げさにふやかしたような麺の食感が…………思い出しただけでまたお腹がもたれそうですわ……」
「え~。下手っぴな人だったんじゃないの?」
「そうであったのかもしれません。ですがこの料理に用いられるスープの風味が独特であるということだけは世界中の美食家共通な定説ですわ。ですから珍味、なんですのよ」
相変わらず物知りなアリーゼルによって明かされた〝ラーメン〟の意外な奥深さに、スフィールリアは感心していた。あれは、やはり〝いいもの〟だったのだ。
「そっか……でもおいしかったしなぁ。今度ふたりも一緒にきなよ。おじいちゃんに紹介してあげる。珍しそうなもの売ってる時だってあるんだよ?」
「じ、時間が合えばね」
「ラーメン屋さんでない時でお願いいたしますわ。ていうかなんですの。雑貨にラーメンて」
「うーん……分かんないけど。器用な人なんだよきっと」
「暢気な。節操がない、の間違いなんではないかしらね」
「さぁ。それは、あなたたちのことなのではないんですか?」
「?」
後ろから唐突にかけられた声に、スフィールリアたちは振り返った。
「ごきげんよう。アリーゼル・フォア・フィルディーマイリーズさん」
そこにいたのは、質素で飾り気のない――しかし一見して上質な仕立てをしていると分かる衣装に身を包んだ少女だった。