(3-62)
◆
魔王使徒が倒されてから三日目の夜になっていた。
<クエスト掲示板>跡地に、数名の人物が集まっていた。
ひとりは<王立アカデミー>の長、フォマウセン・ロウ・アーデンハイト。
ひとりは学院最高位階〝金〟のひとり、〝黒帝〟テスタード・ルフュトゥム。
そして、スフィールリア・アーテルロウンである。
ほか三名の男女も、それぞれが<クエスト掲示板>管理局、学院生徒理事会の副会長、王室から送られてきたエージェント――いずれも今回の一件に深く関わる者たちだ。
生徒会副会長の女性が、スフィールリアとテスタード、ふたりの前に歩み出た。
「テスタード・ルフュトゥム殿。法律に従い、あなたの財産および術士として保有するすべての資産は王室に一時拘束されます。引いては、すべての手続きの最終確認と合意について、この場で申し渡しを行ないたく思います。よろしいですか?」
テスタードの視線を受け、スフィールリアがうなづく。
テスタードは女性にうなづいた。
「ああ」
「はっ――ははははっ!」
輪の外から割り込んできた声に、一同が振り返る。
そこにいたイルジース・マルコットー三年生は、疲弊し、狼狽しきった顔に精一杯な粘質の笑みを貼りつけて、崩れ落ちてゆこうとしている〝黒帝〟を指差ししていた。
「ざ、ざ、ざまぁないな〝黒帝〟ェ……まさか魔王の眷属を、た、倒した上に、生き残るとは。ほ、ほ、ほめてやる! 〝金〟の宝級はさすがにダテじゃなかったってなぁ!」
「……」
「だ、だが、だけどそうっ、そうだ! ぼくの仕掛けはまだ終わりじゃない……本当の終わりを忘れていたようだな! そうだ……お前の財産はすべて没収されるッ! 学院祭にはもう間に合わない! お前の栄光は、ぼくが挫いてやったのさぁ――!!」
特に答える声は生じなかった。だれからも。
あったのは、ため息。手続きの進行を邪魔された生徒会役員が微妙な視線を彼から外して、再び〝黒帝〟に向き直った。
「当学院があなたの工房に行なったすべての査収事項がこの書面に記されています。間違いはありませんか? 申告の虚偽が判明した場合は王権反逆罪に問われることになり、学院は一切の庇護をあなたに与えません」
確認は、すぐに終わった。当然だろう。
「ああ。間違いない」
「では改めて、王室に引き渡す資産の総額を申し渡します。王室に引き渡す〝黒帝〟テスタード・ルフュトゥムの総資産額は――」
「はははっ、そうだ、いいぞ。言えっ! 早く言うんだ!」
そして、彼女が書面を読み上げた。
「27銀貨と10銅貨」
一拍の、間。
「………………は?」
しかしそれは単なる儀礼的進行の呼吸というものにすぎない。生徒会の彼女は読み上げた書類を王室エージェントに手渡し、速やかなる確認を行なっている。
「速やかに、お引渡しいたす準備ができております。どうぞ、ご確認ください」
「問題ない。すべて事前確認通りだ」
「ちょ、ちょっ、ちょ――ちょっと待てぇ!!」
うるさそうに、また一同が振り返る。
「な、なにを馬鹿なことを言ってるんだお前たちっ! あの〝黒帝〟だぞ……学院最高位の〝金〟の術士のっ……それも荒稼ぎで有名な〝黒帝〟の財布の中身がお前そんな一晩のメシ代にもならない額なんてお前そんなことっ……あるかぁ!?」
地団太を踏み、イルジールは〝黒帝〟、次に生徒会、そして学院長などを落ち着かず指差した。
「贔屓だ――さては贔屓をしたなっ! 裏取引だッ! どどど、どんな方法で学院に取り入ったぁ! 暴いてスキャンダルにしてやるぞ!?」
続いてため息をついたのは学院長だった。といっても怒ったのではない。豊満な胸を腕組み持ち上げ、呆れるような顔で、
「なめられたものだわね?」
「うっ!?」
学院長に睨まれては、さすがにひるまざるを得ず。
「というか、むしろどうしてそんなに銀貨を持っているの? いいご身分だわね?」
「これは王室から渡されたメシ代と、連中に手渡す用の送還式モデルの作成費用だな。まぁ、慎ましやかにお返しするさ」
肩をすくめているエージェント。
次に、こちらは不快げに生徒会役員が、
「取引であることには違いありませんね。ただしすべては正式な〝取引〟です。なおかつ、スキャンダルもなにも、すでに学院はその話で持ちきりですが? まぁ、教えてもらえる人望があれば、という条件はつくのですか。これを見るに」
「なっ、な、な、なにを……?」
「それについては、わたしから」
前に出るクエスト管理局の女生徒。
「魔王使徒出現から会戦直前、当クエスト管理局が全機能および全業務の一時閉鎖を完了するまでの四日間の期間で、当窓口がパンク寸前になる勢いで舞い込んできた〝黒帝〟テスタード・ルフュトゥム宛の依頼が大小含めて六百八十一件……」
「え……?」
「――その後、例外なくすべての依頼を、こちらスフィールリア・アーテルロウン殿がキャンセル。ご存知でない方はいないと思いますが、依頼のキャンセル料は扱われる品つまり依頼ランクによって上下します。今回、秘宝クラスも含めて発生した違約預かり金の額面が、しめて30億4千8百万飛んで30金貨、29銀貨……」
「なにを、なにを、なにをっ、おいお前待てぇ! いったいなにを言っている!?」
「およそ三分の一が〝黒帝〟の全現金と保有手形から支払われ、残り三分の一については、依頼に当てられるはずであった彼の工房の現物を、それぞれの依頼人に充当配分し、支払われなかった場合の担保とすることに総員が例外なく同意。それでも足りない違約金額については規定期間の支払い猶予が認められています。現金は当クエスト管理局の金庫に。現物の方に関してはすでに九割方を当人たちに引渡しが完了済み。自分たちから受け取りきてくれたので、助かりましたが……」
「な、あ、な……」
「――以上のことから」
ギクリ、と震える。
「〝黒帝〟が保有していた全財産ほとんどの所有権は当クエスト管理局の管理下に」
「残った27銀貨と10銅貨――これが、当学院が王室に引き渡す彼の総資産の全容になります」
呆然と、汗を落として。
イルジースが、喘ぐように搾り出した。
「王室に渡すぐらいなら……捨ててしまおうと……? なんて馬鹿なこと……」
「いいえ。まだ捨てられてはいません」
管理局がメガネを持ち上げる。
「え……?」
「当管理局にて正式に掲示依頼が締結された以上、定められた掲示板への依頼の『掲示期間』が超過しない限りは依頼契約自体はまだ失効していません。この期間中に依頼内容通りの品を納めることができるなら――なおかつ契約者の合意が得られているのなら――依頼は達成扱いとなり、お預かりした違約金の約半分は返還されることになります」
イルジースの目が、見る見ると理解を示して見開かれてゆく。
そう――
「ここは<王立アカデミー>。数え切れぬ夢と野心、栄光と希望が渦巻く場所……その裏で、挫折と失敗に喘ぐ者がいるのも事実」
学院長が静かな眼差しを管理局の生徒へ。
「今まで、幾多の者たちが、その危機を乗り越えて逆転の目に変えようと知恵を絞り、あがいてきた。でも、これをやってのけた生徒は、初めてだわね?」
うなづく。
そして、結論を口にした。
「学院外部からの依頼も混在して集まる学院最大の『現金の坩堝』である<クエスト掲示板>の金庫は、その特殊性と重要度から、学院運営の金庫からは独立した権限にて管理される。学院理事会、学院長、そして王室であっても、不当に手出しすることは不可能。正式な手順を経て金庫に移したからには、正当な依頼達成に対しては、かならず、例外なく、正しい報酬と還付を行なうことを――当クエスト管理局は、ここに宣言いたします」
視線を投げられたエージェントが、いたしかたなしといった風に肩をすくめていた。
「やらかしてくれたわね? ――スフィールリア」
学院長に、スフィールリアが強い笑みで応じる。
――そう。
それが、スフィールリアが思いつき、〝黒帝〟の財産で行なった工作の真実だった。
掲示板から学院全体に渦巻く欲望の需要を読み解き、依頼の最終的理想形を導き出した。
それを〝黒帝〟の全在庫に当てはめて具体的なレシピとスペックを導出。さらに逃がしたい〝黒帝〟の総資産とキャンセル料の帳尻を合わせた上で、しっかり取り戻すための〝依頼達成〟を達成するための必要作成日程まで算出して、だ。
具体的な各人の希望に沿いつつ現実性のある引渡し日程も含めた提案は大半の依頼締結を獲得。すべての事情と条件を話した上で、魔王使徒会戦を控えて閉鎖準備中であった<クエスト掲示板>に依頼が殺到する。
そして、そのすべてをキャンセルした。
発生・徴収されたキャンセル料金は一旦すべてがクエスト管理局の預かりとなり、所有権もテスタード個人から完全に管理局へと移った。工房在庫も支払い切れない違約金の補填として、それぞれの依頼内容に使われるはずであった素材品を当人らに配布することで、所有権は彼らのものになった。
一度まっさらになった金と素材を、元・黒帝のものであったからという理由だけで取り上げることは、法の番人たる王室にはできないことだ。魔王に関連した危険性調査という名目で本人たちに当該品の検査を打診することぐらいはできるが、取り上げることまではできない。
唯一これを防ぐ方法はスフィールリアという代理人がして回る依頼締結を邪魔することだったが、魔王使徒を膝元に抱え会戦を控えた王室にその余裕まではなかった。フォマウセンが彼女について学院長の席を非公式事実上降りたことによって学院内部の力学も微妙な状態となり、敷地内部でエージェントが派手に動き回ることもはばかられた……という事情もある。
これで、王室が没収できる〝黒帝〟資産の実体は立ち消えた。
だが締結された依頼自体はまだ失効していない。
ここまでと、ここからの全条件を、全依頼人が承諾している。
この後、依頼人たちは現物補填された素材を〝黒帝〟の下に預け直しにくる。本来あることではないが、自分の正式な所有物をどうしようが当人の勝手だ。
それらの素材を使い、スフィールリアたちは依頼を達成してゆく。依頼を達成すれば違約金の返還と同時、依頼人からの正式な報酬も発生する。それらを元手に必要素材を補充しつつ、さらに依頼を達成してゆく。すべての作成・達成スケジュールはこれを前提に組み上げられている――
「もしすべての依頼を達成しても――違約金の全額が返ってくるわけではないですから。現金の半額分は損をすることになります」
「ですが、もしすべての依頼を達成できれば――加工された綴導術の品は素材よりもはるかに高価になります。発生する正当な報酬として、彼の資産は以前の数十倍、数百倍にまで膨れ上がるでしょう。もっとも――」
管理局の女が、皮肉っぽくエージェントを見やれば、男はしようもない風に肩をすくめていた。
「王室が彼のデッドストック品の案件を入札したのは意外でしたが」
「しかたがない。我々は魔王使徒を打倒する以外の道は見られなかったわけだし、とすると彼の財産も最終的には返還することになる。デッドストックともなるほどの品だけは確保しておきたいという上司の懊悩は、わたしも理解できるところではある」
すべてが、明らかになり……
「あ、が……!」
イルジースが、大口のまま尻餅をついた。
ガタガタに震えた手でスフィールリアたちを指差しながら、
「ふ、ふ……不可能だ! そんな離れ業……バカげた数の依頼をっ!! こなせるはずがない! 乗り切れるはずがない!!」
だが――
「やりますけど?」
「テメェ……俺たちを『だれ』だと思ってやがる?」
そこに在るのは、堂々と立つ〝特監生〟のふたりの姿。
数多の偽装工作をしてなお学院に利ありと判断され、囲い込まれた――究極にして規格外な〝個〟たる原石たち。
「ひっ?」
震え、次に、目を逸らした先にいた生徒会と管理局の女に食ってかかったが、
「お、お前たちもなんとか言え! こ、こ、こんな屁理屈! インチキがまかり通ってたまるかっ! お前ら全員ズルだ!」
「……公正・潔白を自責とし、全学院と王都中のクエストを預かる学院の〝顔〟たる我々……そして<クエスト掲示板>の制度が、不正である、と?」
「――舐めるな。服と家だけご立派な三下サマが」
ギラリと目を輝かせる二名に、また引きつる。
「……ひいっ!?」
だが力むのも馬鹿らしいとばかりに息をついて、次には、微妙な顔つきを向けて彼に言った。
「そんなことより、なにか最後の攻撃でもしかけるつもりでいらしたのでは?」
「ないのであれば……ここには、いない方が懸命でしょうね。逃亡経路もふさがれてしまうのではないでしょうか?」
はっとして見れば、六人から降ろされてくるのは……なんとも言えない哀れみの表情。
未曾有のテロを起こした男の末路を見る者の視線だった。
「……ひひぃ!」
見る見る青ざめ、イルジース三年生はその場から駆け出していった。
その背中をしばし見やって。
「ここまではお見事でした」
管理局の女が〝黒帝〟たちの前に立つ。
「ですがここから先は、純粋な工房力の勝負。お手並み、拝見させていただきます」
立ち去ってゆく。
「依頼が達成不可な場合は、一転して現物補填でも足りなかった分、莫大な負債を負うことになるわけですね。学院新たな伝説の一ページが刻まれるのかどうか、わたしも見せていただくことにいたしましょう」
「当方としてはデッドストックたる素材品が手に入るだけでも御の字ではあるが、個人的興味、また学院の潜在力をたしかめる点からも君らの成功は望むところではある。健闘を祈ろう」
生徒会とエージェントも、立ち去ってゆく。
その場に残った三人、うちスフィールリアが学院長に向き直った。
「ていうか学院長、ほんとに、なんであの人今の今まで野放しになってるんですか? 真っ先に捕まえなきゃいけないと思うんですけど」
「ああ。いろいろ大変だったし、今の今まで忘れていたわ?」
「ええ……」
微妙~な顔をするスフィールリアに、彼女はこほんと咳をして言い直した。
「――ていうのは冗談よ? 泳がせていれば、いずれどこかのタイミングで<焼園>に接触するかと思っていたのだけれど。このギリギリまで温存するとは、なかなか骨があったみたいね?」
「骨っていうか、今まで思いつかなかったってカンジですかねぇ……今のを見ると」
そこでテスタードが「あ」と声を上げてから、黒い笑顔になる。
「つうか、そうだよなぁ、ふふ……この俺様にイッパツくれといて、まだあの野郎にはなにもカマしてやってねーじゃねえか。うっし。いいぜ。くく……」
「あー、センパイ。それだったらあたしが、すでに一発カマしてやりましたよ」
踏み出しかけた〝黒帝〟に、何度か拳を振るポーズを見せるスフィールリア。
彼女に〝黒帝〟は興が乗ったように、
「……カマしてやったか」
「ええ。カエルみたいに伸びて、こぉーーんなカオして。ビクンビクンいってましたよ。うへへ」
「……」
しばらくスフィールリアの面白い相を鑑賞してから、笑って体を戻した。
「じゃあ、いいか」
「はい。えへへ」
笑い、学院長が気の抜けたような表情とは逆のことを言う。
「まったく。これからが大変だわよ? 事件の後処理、〝学際〟を前に控えてのこの有様。あなたたちも、ね?」
スフィールリアは元気よく手を挙げた。
「終わったら一緒にパロさんのお店で打ち上げしましょー!」
「彼もとんだとばっちりだわね」
ささやかな笑い声が、立ち直りの熱を込めつつある学院の喧騒に混じっていった。
◆
「はっ、はっ、はっ……はぁあっ!」
イルジースは走る。走る。
復興の熱に沸き上がり始めている夜の学院を。力強い笑顔の学生たちを跳ね除けて。なにもかもが煩わしい。
そして、とある棟の間の闇に駆け込んで――目当ての人物を見つける。
心から安堵し、そのローブ姿の肩に手をかけた。
「よかった――おいアンタ、早く逃げよう! もうすぐ国がぼくたちを捕まえにくる! 急いだ方がいいだろ!?」
「逃げる? なぜだ?」
「なぜって……考えなくても分かるだろう! もはやぼくたちは重大なテロ犯だぞ! ここはアンタの根城に撤退して、もう一度一緒に〝黒帝〟を始末する策を練るんだ! できるだろう!?」
だが、男の声は平坦そのものであり、彼の無理解を訝しむ色しかなかった。
それはそうだったろう。なぜなら……
「なにを言っているんだ。捕まるのはお前だけだろう?」
「あ……?」
首を傾げてさえ、言う。
「俺は〝黒帝〟を追い詰めるノウハウを与えただけ。お前が勝負をしかけたいと言うから、コーディネートしてやっただけだ。実行したのはお前。動いていたのもお前だけ……」
「なにを……言って、」
「お前は〝黒帝〟に勝負を挑み、負けた。ならば敗北とセットの結末も受け入れろ。男らしくな」
「馬鹿なっ!?」
イルジースはつばを飛ばして怒鳴った。
「なにを馬鹿なこと言ってるんだ! コーディネートだと……違う! 取引だったハズだ! お前たちだって〝黒帝〟を追い落とさなきゃならない理由があって、利害が一致して……だからぼくを選んだんだろう!? それがお前……〝黒帝〟を放置していいのか!? アンタたちにだって目的があるんだろう!?」
「ああ――あるが。だが、それとお前を助けてやる理由がないことはまったくの別だ。ついでに言うと、我々はすでに目的の充分を達成している。これ以上の追撃は最初から予定にはなく、」
「なっ……!」
「――そして、魔王使徒召喚という事件の顛末。ひとまずの手打ちとして、お前を当局に渡すこと。これは最初から予定のうちだ。なんの問題がある?」
「――ふざけるなぁ!!」
激発にも、<焼園>はそよぎさえしなかった。
「お前らができるというからやってやったんだろうが!? 人にここまでさせておいて……ここまでやったんだぞ!? お前らが言ったんだ!! だったら責任を取れよ! 正しい報酬があってしかるべきはず。だれも挑めない〝黒帝〟に挑んだんだ……ぼくはがんばったんだぁ!?」
「やれやれ。この世のすべてに報酬が支払われるなら、人の世は永久に存続することだろうよ。この学院でそんな授業は、受けたことがなかったがな?」
イルジースは、もはやなにも言わない。というのも真っ赤にした顔から涙と鼻水を垂れ流し、息を切らすので精一杯になっているからなのだが。
それを見て、再び<焼園>は肩をすくめる。
そして、懐からあるものを取り出した。
「まったくしようがないヤツだな。では、これはどうだ?」
「それ、は……」
「〝影花〟の種――」
男が指先につまむそれを、イルジースは呆然と見やる。
闇に見逃してしまいそうなそれは、一見すると干からびた粗末な実でしかない。だが、その黒い皺の表面は、生きているようにうごめいている。
そのたった小さな黒粒から、この場の闇すべてを飲み込む圧力が放射されているかのようだった。
男の声で、イルジースはハッと我に返る。
「神話ぐらいは知っているだろ? これは神に反逆した〝影花〟の種――またを〝魔王花〟と言う。言わば、小さき『ガーデンズ』だ。これを取り込み、支配した暁には、お前はあのアレンティア・フラウ・グランフィリアさえしのぐ最強力となりて〝黒帝〟を葬ることができるだろう」
「アレンティア、フラウ……」
「『ガーデンズ』適正……お前にあるかな?」
イルジースは魅入られたように〝種〟を見つめている。
いや。吸い込まれるように、近づいてゆく。
男からも近づけられた〝種〟が、額に、触れる――瞬間に。
「――え?」
イルジースの意識は暗闇の中にいた。
どこまでも続く闇の縦穴。底から渦巻いてくる幾百億、幾千京もの怨嗟の声が、
――ボリ。
「……あ?」
自分の、足が、
――ボリ。ボリ。
指が、腰が、
ボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリ――
「ああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――」
闇に食い尽くされてゆき、最後には彼の叫び声だけが残って、怨嗟の渦の中に混じっていった。
「……冗談だ」
「――――――」
叫びの形のまま固まったイルジースの額から指を離し、<焼園>はつまらなさそうに笑いながら〝種〟をしまった。
「貴重な〝影花〟をお前なぞに植えるわけがないだろう。お前に適正がないことぐらい、調べるまでもなく分かる」
そして、きびすを返そうとし、
「……遊びすぎたか」
「はい。遊びすぎでございます」
出ようとした暗闇の出口が、閉じられていたことを<焼園>は知る。
薄闇から闇へ、溶け込むように踏み出してきた長身の執事、ワイマリウスの姿を認め……<焼園>は体の正面を彼に向けた。
「ここは我が主、エスレクレインお嬢様がスフィールリアお嬢様とお遊びになられる庭。不法に紛れ込むあなた方は、お嬢様のご不興を買っておいでです」
「そうかな。資格は得ているはずなんだが……それで? どうするつもりだ? 出ていけというのであれば、言われるまでもなく、しばらくこの地は離れることになる。この男の身柄ならくれてやるが?」
ワイマリウスはひとつ、丁寧にうなづき、言う。
「はい。それもよかろうとは思います、が」
次に膨れ上がってくる圧力は、一流の戦士たちでも感じ取ることはできなかっただろう。
「あなた様のお首を献上いたす方が、お嬢様もおよろこびになるのではと考えたしだいです」
「――チッ」
だが<焼園>は感じ取った。すかさず、飛び退き、初手から最大にして最後の切り札を投げる。
「冗談ではない。こんなところで食い殺されてたまるか。――弾けろ、『アィーアツブスの刃瞳』」
「むぅ――!?」
空間に、切れ込みが入り。
一瞬で、路地裏がまばゆい純白に染まった。
「お前は邪魔だな。しばらく別の世界で休暇でもしていろ。もっとも――」
「む、ぐ、く……!」
その光の中心からくる引力に、顔を覆って驚愕の声を上げるワイマリウスの足が、引きずられてゆく。
「――そんなものが残っていれば。の話だがな」
「む、お、お……なん、とぉお…………!?」
その時だった。
≪お下がりなさい。ワイマリウス≫
虚空から振ってくるエスレクレイン・フィア・エムルラトパの声に……全力の姿勢で耐えつつワイマリウスが顔を上げる。
「しかし……お嬢様」
≪今、お前を失うわけにはいかない。下がりなさい≫
「……かしこまりました」
慈しむような声に、ワイマリウスが、嘘のように抵抗の姿勢を解く。
「今日のところはこれにて。またいずれ、正式なご挨拶とおもてなしを」
そして慇懃に礼をし、吸い込まれる前に、黒い煙となって消え去った。
光も幾何学型の渦になって収束してゆき、最後にパチンと弾ける音を残して、消える。
あとには闇と<焼園>の姿だけが残った。
「世界断面の滝……交差宇宙地平の強制面変位を抜け出すとはな。甘く見ていたか」
≪その力、知識。どこで手に入れた?≫
警戒の姿勢を解かずに硬直している<焼園>に、エスレクレインの声が降る。
「なにを今さら。魔王を呼ぶノウハウを持つ我らだ。これぐらい造作もないさ。粘ってくれたらもっと上を見せられたが?」
ウソだ。今の品を作るに当たっては百年以上の歳月を要し、数え切れない失敗も積み重ねている。
これを逃れられたからには、あの怪執事を倒す手立てはもはや、ない。
≪はぐらかすの? まあいい。この世界に穴を開けること、望まれぬ変流を起こすことが、なにを呼び起こしかねないか。お前たちは知っていて?≫
「そんなもの、遅いか早いかの違いだ。魔術士どもがそうであっただろ」
≪……≫
「どの道この世界に未来はない。数多の魔王がそのことを知っている。ならば、委ねるのもよかろうが」
それもウソだ。魔王との意思疎通は限りなく不可能に近い。〝不死大帝〟のように意思を残している方が稀なのだから。
魔王を呼び込めば制御もままならずに世界は滅びる。それは、間違いのないことだ。
それをするぐらいなら、まだ魔術士どもの方が賢かった。
≪……お前たちは、なに≫
「俺は<焼園>。我々は、世界の破滅を望むものだ」
これには偽りもなく、すぐに答えることができた。
≪そう……。そうなのね。お前たちは、そうなのね。そのために……≫
だから、声に混じってゆく感情が分かっていても、堂々と立っていられた。
笑みとともに、見えぬ緊迫は高まってゆき、
≪いずれ、殺しにいく≫
声は、唐突に去った。
「……」
しばらく、<焼園>はなにも言わず、動かず。闇に目を凝らしていた。
五分。十分。二十分。
「……く、ふっ、」
そしていい加減じっとしている自分が馬鹿らしくなって、額を覆い――笑い出した。
「ははは。は、は、は」
そんなことにさえ最大の勇気を振り絞って心臓が跳ねたことがまた馬鹿らしくて――さらに笑った。
なにを馬鹿な。乗り切ったのだ。
乗り切った。
見逃されたのだ。
「ははは、はははは……」
だが――生きている。まだ。途絶えていない。
そのことこそが己の使命の正しさを物語っているではないか。物語っているのだ!
「ははははははははは。は、は…………っ」
覆った手から大粒の涙をこぼし落としながら、<焼園>は笑い続けた。
◆
こうして魔王使徒を巡る騒動と戦いには、一旦の幕が降りた。
大規模な避難を強いられていた市民に対して王室は今回の一件を『とある反体制組織によるテロ事件である』旨を発表した。
<焼園>の名と討伐宣言がなされるのは、もう少しあとになる。
戦いの帰結は――死者三名。重軽傷者四百八十一名。
という、未曾有の結果に終わった。これは戦場のみではなく避難中の全市民も含めた数字だ。
負傷者数で言えば王都で起こったひとつの事件の規模としては近代史上稀に見る大事件であるし、後世の神話に残ってもおかしくない伝説の戦いとしては奇跡を通り越して神の手が加わったとしか言えない大戦果だっただろう。
戦いにおける死者が実質ゼロ名だった最大の理由は言わずもがなスフィールリアが未来という名の過去から魔王使徒に関する先行データを持ち帰ったことが主因だ。それを読み即座に最強の切り札である〝台本〟の投入が決意されたことも大きかった。
また、戦後に王室が大規模な出費を払って王都中の工房から最上級までの回復薬その他を買い上げ、重傷者に施したこと。これも最大の要因のひとつだっただろう。
これは単なる慈善事業ではなく、伝説に残る戦いを奇跡的な数字で乗り切ったという実績を得るためだ。のちにきたる<焼園>討伐宣言の際にディングレイズ国が強力にリーダーシップを発揮するために必要な材料であった。噂レベルの話だが、実際には〝死〟さえ癒した上での、この結果ではないかとも言われている。
ちなみに三名の死者の内訳は、一名が避難活動中に順番待ちを横着して屋根を飛び移ろうとして転落死。一名が老衰死。
最後の一名は、学院生から。
死因は、食中毒だった。彼は非公式サークル『寄食研究倶楽部』所属で、開戦前日、勢いづけと願掛けも兼ねて飛びっきり危険な生物の危険な部位に挑戦していたと言う。
『バカなヤツだよ……伝説の怪物との戦いに生き残っても、毒に殺されてちゃ世話ねぇだろうが……!』
『ああ……どーせなら戦いが終わってから祝宴に出せばよかったのにな。俺はそうするつもりだったんだぜ』
『そういう問題か……?』
というのはささやかな葬儀の列から聞こえてきた会話だとか。なお、当該サークルは今後も活動方針を変えるつもりはないらしい。
まぁ、学院では珍しい話というわけではない。
さまざまなものが元のさやに納まり、その実、いろいろなものが変わったとも言える。しかしいつだってそのように世界は進んでゆくのだろう。
王室側にとっては本当の戦いはここからなのだろうが、それは、学院には関係のないことである。
そんな学院も多くのものが変わり、また変わらず、平時の運行へと舵を切り始めた。
変わったものと言えば、ここにもひとつ。
――たとえば。
「はぁー。キャロちゃん教室も寮から遠くなったよなー。仮設教室とは言え、このままここに移設なんてことには、まさかなぁ……」
学院中に急造仮設された臨時講義棟。その一角の安いドアを開け、ジルギット三年生は忘れ物があるロッカーに目をやり……
そこに、〝黒帝〟の姿を見つけた。
だれもおらず、建設シートに覆われて薄暗い教室に、ひとり。場所は変わっても位置は変わらない教室最後列の窓際にて。
ふてぶてしく机に足を乗せ、退屈そうなのかそうでないのか分からない無表情でふんぞり返っているのだった。
まぁ、いつも通りだということだ。
テスタードは一瞥だけ投げてくるが、すぐになにも見えない窓に顔を逸らす。これもいつも通り。
「……」
ジルギットの方も特になにも言わず無言で教室を横切り、自分のロッカーから目当てのものを取り出し、また教室を横切って、元きた扉に手をかけた。
出ていこうとしたところで働いたのは、単なる気まぐれ以上のなにものでもなかった。
そこで振り返り、彼に声をかけていた。
「今日はだれもこないぞ。今日は移動教室。キャロちゃん先生の講義は別棟だからな」
「ふーん……」
「……場所知らないなら、くるか?」
返事はこなかった。
振り返りもせず、いつも通りな対応だ。まったくもって無駄なことをした。
そう思い、嘆息ひとつ。今度こそ教室を出ていこうとして。
「アイツ、移動ん時はどんな授業してんだ……?」
再度振り返ると、別に、〝黒帝〟の顔の向きは変わってはいなかった。
ただ、先と変わらずぼんやりとした横顔だけがある。
「……」
やがて、彼がふいとこちらを、向いた。
「いくわ」
面食らった、ということはない。
少なくとも、面には出さずに――
「ん」
とだけうなづき、
「じゃ、コッチだ」
「おう」
あごとともに今度こそきびすを返して、歩き出した。
うしろからも席を立つ音が聞こえてくる。
ただ、それだけのことなのだが、学院を歩く足音と風景が、だいぶ変わって思えるというのはやはり変化の証明なのだろうか。
しかし少なくともこの変化が悪いということはない気がして、ジルギットは決して振り返らずに口の形を笑みの輪にして、歩き続けた。




