■ 3章 金と黒の少女たち(1-11)
「どういうことですの……!」
教室一角の机の前で、アリーゼルは握り締めた拳をプルプルと震わせていた。
机には、突っ伏したスフィールリアの頭が転がっている。
「どういうことなんですの……!」
もう何度繰り返したか分からないつぶやきをまた繰り返す。言いたいことは決まっているのだが、憤懣やるかたなさすぎて、どうも上手に出てこない。
スフィールリアの隣では、彼女の肩へフィリアルディが気遣わしげに手を添えている。
「あの……どうかスフィールリアを責めないで……」
アリーゼルはかぶりを振った。
「いいえ、言わせてもらいますわっ――いったい先日の約束はなんだったというのか。実技で稼いでいただなんて大口を叩いていた方が、どうして……いったいどうして、こんな」
それまで無気力に転がっているだけだったスフィールリアの肩が、ビクリと震えた。
「言わないでよぅ……」
「い、言わないであげて?」
アリーゼルはブンブンブン! と激しく首を振って拒否した。
握り締めていた一枚の通知書を突きつける!
「――どうしてたかだか筆記項目で『1点』だなんて叩き出せますのーーっ!!」
「うわあああああああああああフィリアルディーーーーーーーーーー!!」
「ち、調子が悪かったんだよ。それだけだよっ。ねっ?」
抱きつかれたフィリアルディが懸命となだめにかかるが、アリーゼルは追撃の手を緩めなかった。
「調子が悪いとかそんな次元の問題じゃありませんわ! 最基礎中の基礎項目ばかりだと言ったでしょう。正味の話この筆記試験の項目だけでしたら学院に入る時点の大半の生徒だってカヴァーできてるんですのよっ。ただ地元に実技を学べる機材などがなかったりしたという事情があるだけでっ!
それなのにあなたは実践術士としての階梯を学べる恵まれた環境にありながら――ああもう――どうやってこんな数字を叩き出せたのかが謎ですわ。いったいどんな魔法をお使いになったんですの。この、くぬ、くぬっ」
アリーゼルは彼女の顔に書面をぐりぐりと押しつけている。通知は、『筆記項目:1点 結果:不合格』と書かれたスフィールリアの試験結果通知だった。
「うぇあぅうおぇおあうぅ~~……!」
「そ、それくらいに……人が見てるし……」
はぁ~~~…………。
どっと力を抜かして、どんより頭を落とすアリーゼル。
フィリアルディの言葉の通り、教室内のかなりの人数に見られている。
実際に見られているのはアリーゼルだが。
「なんなんですの……あなたは。本当ならこの日、この視線の半分を集めるのはあなたのはず……だと、思っていましたのに。わたくしの期待は、わたくしの計画は。はぁ~……」
アリーゼルは胸元から取り出した簡素なネックレスをもてあそぶ。先端に揺れる小さな飾りの色は、銅――試験に合格して学院から支給された<銅>の階級を示すネックレスである。
ネックレスは、スフィールリアたちも持っている。入学の際に礼服等と一緒に渡される最初の支給品のひとつ。つけられている飾りは、艶のない白い石。<原石>だ。
さて日は移り、<宝級昇格試験>から翌日の朝を迎えていた。
まさかの始業二日目にして位を上げた怒涛の新人がいる。という噂は、朝になるまでにはほとんどの同級生の間で周知のニュースとなっているのだった。
「だって考えてみたらあたし、師匠からそんな基礎の〝お勉強〟なんてしてもらったことないんだもん……」
「どんなお師匠様ですのそれ……」
ということなのだった。
幼いころから伝説の綴導術士と暮らしてその秘術の数々を手伝ってきていたスフィールリアだったが……秀でているのは『実践だけ』だったのである。
ヴィルグマインは〝表〟の綴導術士が重んじるような基礎の理念や理論に関する座学なんぞを、彼女には施さなかった。
――教科書通りの知識や設問に太刀打ちできなかったのである。
もちろん彼女とて曲がりなりにも綴導術で日々の糧を得ていた実践的綴導術士。たとえば『水晶水』作成に用いられる一般的素材の名称だとか最低限の機材の名称などは分かる。分からなければ、やってなどいかれない。
だがしかし、いくら基礎項目とは言え、そんな小等部向けの名前当てクイズのような問題作りをしてくれるほど甘い学校でもなかったのだ。
たとえば『〝アストラ草の薬煎液〟〝水(真水とする)〟を用いた一般的祖回術の手法にて水晶水(青)の作成を行なう。この時(※)術者の投射するタペストリに対する界面崩綻輻射オルムス値が2,000/Mo(f)を上回った場合、状態回復のために取るべき最も一般的かつ最善とされる対応策はなにか。
※この設問の場合、置換可幅情報値による置換対流段階であると厳密に定める。』
といった具合である。
これに対してスフィールリアは、
『面倒くさいのでタペストリ密度を5,000/Ma(b)以上に切り替えて強引に練成を完了します』
と書いたら、当然のようにペケを食らった。
ついでに、採点後に担当教師から説教を食らった。
教科書通りというのは、つまりそういうことだった。
教科書に載せられるこういった対処法だとかいうものは、要するに万人に対して最も安全でありかつ無難なものなのである。
万難を廃し、同時に、その分野に携わる者ならだれでも実行できるような最大公約数的解でなければならない。
過半数が取るメソッドを統一し共通認識とすることで、事故の抑止や、業界全体におけるカリキュラム構成の均一化・安定化にもつながる(綴導術の教室は<アカデミー>のみに存在するわけではないからだ)というわけである。
まあほかにも、今まで実践はしてきたが名称までは知らなかった(と思われる)専門用語の数々、定義、公式などなど……。
「綴導術士の教科書なんて読んだことないし、分かんないよ~」
「だからそんなことで、今までどうして教わってきましたの……」
「だって……今まで、失敗したり失敗しそうになったらゲンコツで『見せてやるから二発以内に覚えろ』って。一回で覚えたらアメちゃん、三回ダメだったら苦いアメちゃん、って感じだったんだもん……」
「ええと……そう! そうだよ。スフィールリアはきっと、楽譜の読み方は知らないけど楽器の演奏はとても上手な人なんだよ。だから気を落とさないで。ね?」
「ああ……いますわよね、そういうお方…………言いえて妙ですわね……」
もう一度、アリーゼルはため息を吐き出した。
「それにしたって、あんまりじゃありませんの……わたくしの見通しが甘かったということもあるかもしれませんが。あなたが落ちて、わたくしだけが昇級を果たしたというならまだマシだったのに。よりにもよって……」
その時。
彼女を見つめる教室内のざわめきが分散されて、視線の圧力が波のように引いてゆく。
今しがた入室してきた者の姿によって、注目の半分ほどが、そちらに引っ張られていったのだ。
「……ほかの合格者の方まで出てしまうだなんて」
アリーゼルもそちらを見ていた。
「……?」
教壇側の扉から入室した少女は、生徒の注目を集めて、視線を右往左往させていた。
ケープつきの、ゆったりとしたローブの色は黒と紺の縁取り。
眠たそうな目つき。腰まで届く長い髪は、まるで深い闇のように純粋で、綻びがなかった。
とても美しい少女だとアリーゼルは思った。
しかし全身にまとった闇色の黒から、染み出すように輝く白磁色の肌が持たせるその美貌は、神秘的というよりは――
〝魔〟的であると評する方がふさわしそうであった。
あれで妖艶に微笑みでもすれば魂を囚われない男はいないようなものだろうが、幸いなのかどうなのか。そんな彼女の〝魔的〟な部分は、彼女自身の気だるげで眠たげな表情が緩和させているようだった。どこか抜けている印象があった。
きょろきょろとしているのも、なぜ自分が注目されているのか分からないせいらしい。
「……」
しかししばらく視線を泳がせて……やがてこちらへと焦点を定めた黒髪の彼女。
「? こっちくるよ?」
段々構造の教室を、生徒たちの視線を引っ張りながら上がってくる。
そして、スフィールリアの前に、立った。
教室内の注目は、再びこの場に合流して釘づけになった。
「え~っと……こ、こんちは!」
「……」
ビッと片手を上げたスフィールリアに、少女は無言でうなづいた。
「……」
「……」
そしてなんの用事を告げてくるでもなく、じぃ……と、眠たそうな眼で彼女を見つめ続ける。
「…………え~~っと」
瞬きもせず本当にひたすら食い入るみたいに(眠そうなままではあるのだが)じいぃ~~~っと見つめられるのでスフィールリアもさすがに気恥ずかしくなってきた。
とりあえず好きな食べ物でも聞いてみるかと謎の思考エンジンを働かせて口を開きかけたところで、少女の方が、先に口を開いた。
風鈴のように、涼やかで、儚げな、声だった。
「昨日」
「うんっ?」
「試験会場」
「うん」
「いた」
「ああ、うんっ。いたいた! 一緒だったもんねっ」
「……」
少女はまた無言でうなづく。
そしてそのことがいったいなんだったのというのか。次に、スフィールリアの両手を取り……ゆったりと上下に揺すってきた。
握手らしい。
手を離し、もう一度なにかを確認したようにうなづいた少女。
ゆらりと体をひるがえして、教室の前方へと戻っていこうと歩き出した。
「ご挨拶なさるんなら、自己紹介くらいなすっていったらいかがなんでしょうか、<銅>の合格者、ミルフィスィーリアさん?」
「あ、アリーゼル。そんな言い方だと……」
強い口調でアリーゼルが呼び止める。フィリアルディが気弱な声でいさめてくるが、アリーゼルは決然とした態度を崩さなかった。完全に無視されて、気に入らなかったのだ。
しかし振り向いた黒髪の少女――ミルフィスィーリアは、分かっているのかいないのか彼女の瞳を見返し、肯定のうなづきを返すだけだった。
「……それ」
「……はい?」
「では……」
また歩き出す黒の少女。
アリーゼルが唖然としていると、黒ローブの襟口からピョコンと一匹のリスが出てきて肩の上から少女の髪を引っ張った。
それでなにかに気がついたというようにその場でもう一度、振り返ってきて、
「今後とも、よろしく……」
ぺこりとお辞儀をして、歩き去ってゆくのだった。
自己紹介と、挨拶のつもりだったらしい。
少女は自分が百人近い注目の中にいるのにも構わなかった。教室の最前列、扉側の端の席に着くと、そこに置いていたバッグからマイ枕を取り出し、速やかと眠りに就いた。見ていた全員が驚いた。
(眠るのはっや!)
座る動作と枕を取り出す動作、セッティングから「スヤァァ……」と寝息を立て始めるまで、まるで流れるような見事に完成されたフォーミングだった。
これで朝の騒動は終了と判断され、教室内に喧騒が戻ってくる。
「……なんなんですの。失礼な人ですわね」
「ま、まあまあ。挨拶はちゃんとしてくれたんだし。悪い人じゃないよ。ね?」
「うん、そだね……」
スフィールリアもあいまいとフィリアルディに同意しつつ、しかし黒髪の少女から目を離せずにいた。
(なんか……不思議な感じ)
「あの……あの人も<銅>の合格者さんなんだよね」
「ですわ。先日の合格者はわたくしを含めて三人。もうひとりは別の教室の、わたくしたちよりは年配の方ですわ。なんでも元は医者業を営んでいたところ、さらなる薬学の研鑽にとこちらの道に半身を移していらっしゃったとか。まあ合格も順当というところでしょう。
……ですけどミルフィスィーリアさんの場合は、最初からスフィールリアさんを気になさっていたようですけどね?」
「……。へっ? あたし?」
ぼぅっとしながら黒髪の後姿を眺めていたスフィールリアは、びっくりして顔を上げた。
「うん……わたしも見てたけど、会場に向かう途中で、スフィールリアのことを見つけて、声をかけようとして……て、感じだった」
「で、ふらふら~っとついてきた場所が試験会場で、受付の方に書類記述を求められてなんだか分かってないのに応じたら、そのまんま試験を受けていた……という印象でしたわ」
「わたしも会場の外で待ってたけど、試験が終わって出てきたあともあなたのこと探してたみたい。でも、スフィールリア、なかなか出てこなかったから。でも知り合いって風でもなさそうだったから、教えて引き合わせるのもどうかなって……」
「右に同じですわ。というかあなた、なにしてらしたんですの?」
「あー、うん……先生に捕まっちゃってて。お説教されちゃった」
もう何度目か分からない呆れのため息をアリーゼルはついた。
「特・訓っ・ですわね」
「ええ~……」
「ええじゃありませんわよ。先日この学院の実態をご自覚なさったばかりなのではなくて? ――基礎知識が新入生未満だなんて問、題、外ですっ! 今日から特訓。基礎授業期間の今の講義はすべて予習復習。あとで<アカデミー・ショップ>へも基礎教本の買出しにゆきますわよ」
「頑張ろう、スフィールリア! わたしもお勉強手伝うよ。それで、今度はわたしと一緒に試験受けにいきましょう。ねっ?」
「うん。……ありがと、ふたりとも!」
当面の目標は決まったものの、前途は多難そうだった。
「それにしても、あの人。何者なんでしょう」
講義の合間の休み時間、アリーゼルがふとつぶやきを漏らした。
「あの人って……ミルフィスィーリアさん?」
うなづくアリーゼル。
話題の主は、思わぬ<銅>階級最速突破者だった。
授業中にもスフィールリアがぼぅっとしながらいつまでも眺め続けるので、アリーゼルの中でも少しだけ興味が復活したのだった。
「<銅>の試験内容が基礎中心とはいえ、実技能テストだってある。それをあの方は受けるつもりでもなかったぶつけ本番で満点を叩き出していたんですの。つまり、実質として<銅>を上回る実力は完璧に身につけているということですわ。入学時点でそこまでの力をつけている人は、まあ絶無とは言いませんが、そうはいませんわ」
アリーゼルも筆記・実技ともに満点を取りはしたが、一応の予習くらいはしてあったのである。最初の関門とはいえ設問内容は固定ではない。むしろ基礎だからこそ範囲は広大になる。
そして、ミスというものはそんな簡単な場所に生じる隙間なのだ。
その失点を当たり前のようにゼロにできるのは、おびただしい研鑽の積み重ねにより〝そこ〟よりもはるかな高みにあるという証明だ。
「それに、あのリスさん」
ああ、とフィリアルディもうなづいた。
「昨日も受付の人に『会場にリスの持ち込みは禁止』って言われてて、わたしの隣の席に置いていかれてたなぁ。……一緒に待ってたけど、すごく大人しくて。ちゃんと分かっていて彼女を待っているみたいだった。なんていうか、そう、〝知性〟があるみたいな」
実際、この教室でも休み時間ごとに眠りこける彼女を、教師が到着する前に起こしているのがあのリスだ。足音でも聞きつけるのか、服の中からぴょんと出てきて、髪の毛を引いて教えるのだ。
だから今もああして、彼女は安心してマイ枕に頭をうずめていられるというわけだ。
「やはり、ですわね。相当に高度な使い魔ですわ。普通の術師ではないのかも」
というどこか畏怖のこもるアリーゼルの言葉に、ぼぅっと黒の少女を眺めていたスフィールリアが初めて口を開いた。
「あれ使い魔じゃなくて妖精だよー……」
顔を見合わせる、アリーゼルとフィリアルディ。
「妖精、ですの?」
「本当に?」
「うんー。なんとなく〝感じ〟がフォルシイラと一緒だったから。しゃべるかどうかまでは分からないけど……」
「すごい、初めて見た。すごい……」
「わたくしもですわ。でもだとするとやはり、普段から妖精を使役するほどの高度な術に触れているということですわ」
アリーゼルはちらりと隣席のスフィールリアを見た。彼女は、会話のことは忘れて、再び例の少女の頭を眺める作業に没頭していた。
ため息。
「本当、どれだけの術士なんでしょうね……」
その答えは、意外にもすぐに得られることになった。
なにかが破裂したような音。
悲鳴。
次に、一拍遅れて驚いたような、ざわめきが届いてくる。
六時限目の講義が終わって放課後に入り、教室内の人の数も落ち着きを持ち始めたころ。
早速アリーゼルに捕まって、本日講義のまとめと復習を余儀なくされていたスフィールリアたちの下へ、そんな騒動の音が舞い込んできたのだった。
「廊下ですわね」
「なにが起きたんだろう」
興味を惹かれた生徒たちと一緒になって廊下に出てみれば、同じくほかの教室からも多くの野次馬が顔を覗かせてきていた。
「すみません、すみません!」
「ああ、ああ、いいからいいから。拾うの手伝って」
人の輪の中心には、ひたすら頭を下げ続ける女子生徒と、廊下にしゃがみ込んでなにかを拾い集める教師の姿があった。
ふたりの周りでは、窓ガラスが割れ、壁や天井、床に高速で硬質のものを引きずり回したような跡が刻まれている。
「教材用の使い魔ですわね。プローブ・タイプの。持ち運びを手伝おうとして、うっかり暴走させてしまったんでしょうね」
それはスフィールリアたちも同一のカリキュラムで見た、ごく簡易タイプの使い魔のモデルのことだった。機能の指向性を持たず、初心者の理解を容易にするために構造を極めて単純化された……簡単に言えば『ただ浮いているのが仕事』な使い魔である。
事態の全容はアリーゼルの言葉の通りで、講義自体はつつがなく終了した。
その後、教師がわざわざ生徒から持ち運びの希望者を募ったのは単純に人柄の問題だった。いち早くいろいろなことを見て学びたいという生徒にはチャンスがあるべきだと考えたのだ。
女子生徒はほかの生徒よりも多くの時間、間近で使い魔に触れられることによろこんで、歩きながら撫でくり回してじっくり観察した。
そしてついうっかり、むしろ無意識に、綴導術士としての〝力〟の片鱗を注ぎ込んでしまった。
「機体構造としては〝仮組み〟状態と言ってもよいものですからね。内部の仮想精霊構造がパーツと一緒に分離解体して、あのお方の感情でも反映して好き好きに飛び回ったんですのね」
「大丈夫かしら……怪我している人がいなければいいんだけど」
「見る限り大丈夫そうですわ。そもそも簡易タイプと言っても基幹が精霊理論ですから。人間を傷つけることはまずありませんわ」
ほっと息をつくフィリアルディだったが、表情は晴れていなかった。
「……でも、使い魔が壊れてしまって、どうなるのかしら。あの人のランクだと、まだとても弁償なんてできないだろうし」
「備品の管理責任者は教師殿ですし、大丈夫なんじゃないですの? 見たところお手伝いさせる判断をしたのもあの先生のようですし」
実際、「あのっ、おいくらくらいかかるものなんでしょうかっ」と泣きそうな勢いの生徒に教師は「あー、いや。君はそういうのいいから」と困り顔で頭をかいている。
その表情は苦く、自分が負うこととなった思わぬ出費と責任問題に想像を馳せているようだった。
「……あたしアレ直せるかも」
ぽつりと、スフィールリアはつぶやいた。
「できるんですの?」
「うん……。媒体から離散した精霊は、まだしばらくは拡散しないでその辺りに留まってるはずだから。空間中の精霊を把握して元の情報の形に再構築してあげれば」
「あ、ちょっとっ。お待ちなさい」
言葉のまま歩き出そうとした彼女の手をアリーゼルが引き止める。
「え? なに?」
「それは分かりますわ。ですがそういう作業は、本来ならば工房結界を用いて行なうものです」
「うん。でもそれはあたし自身のタペストリ展開領域で補完すればいいだけだし」
「ですから、それも分かりますわよ。一人前の術士でも普通に実行できることではありませんが……不本意ながら初日の〝あの術〟を見ていますからね……。ですけど、そういうことではなくて」
「?」
微妙に焦れたように首を傾げる彼女へ、アリーゼルは半眼になって、しごく単純なことを教えた。
「あなた、また『目立ち』ますわよ」
「あぅ」
ギシ、とスフィールリアが硬直した。アリーゼルもため息をついた。
「言ったでしょう、普通は工房結界で安全を確保して行なうのだと。ええあなたならあれくらいの精霊構造なら直せるのでしょうよ、物理破損したでもないですしね。あなたは軽い気持ちで彼らを助けて満足かもしれないですが。……ですが、それを見た皆さんはどうでしょうね?」
「うう」
「もう少し賢く生きてみようと思いませんの? ご自分の技能を安く見ていませんこと? だれもお金なんて払ってくださいませんのよ。そして、〝それ〟がこの学院内でのあなたのお仕事の〝相場〟になってしまうんですの。
教師の収入はわたくしたちなどより桁が違いますわ。望んだ出費ではないでしょうけど、なんともありませんわよ。これで丸く納まるんですの」
呆れ切ったアリーゼルの声にスフィールリアは心底反省しているような落ち込み顔を見せた。実際、軽はずみな綴導術の行使により一度は退学処分になりかけたのだから。
しかし「うーんうーん」と数十秒悩んで、スフィールリアは顔を上げた。
「ありがとアリーゼル。でもやっぱりあたしアレ直してくるよ。アリーゼルが言ってることも、あたしのこと心配してくれてるのも分かる。……でもやっぱり、綴導術って、困ってる人を助けてあげるためのものだと思うから」
「……」
アリーゼルはため息を吐いた。喉をすぎる息が妙にしっくり感じるのは、これが彼女の隣に身を置くことの、早くも定番と化しつつある証明なのかもしれない。
「……ではせっかくですし。後学のためにわたくしもおそばにご一緒させていただこうかしら」
「うんっ。見てて!」
そしてふたりが並んで歩き出し、
ざわ……
到着するよりはるかに早く、ざわめきが起こった。
「君、どうしたね」
パーツに破損がないかを確かめていた教師が顔を上げる。
そこに、闇色の長衣をまとった寝ぼけ眼の少女――
ミルフィスィーリアが立っていた。
「君?」
「……」
相も変わらずなにを考えているのかも分からない無表情で佇み、じぃっと教師の手元にある簡易使い魔の破片たちを眺めている。
そして、教師が再度なにかを呼びかけようとしたところで、
「あー、君。使い魔が見たいのならまた次の講義でチャンスが――」
「……かわいそ、う」
「うん?」
「治す……」
次に彼女が行なった動作は、そう複雑なものではなかった。
しかしその場の全員が――正規の綴導術士である教師すらもが言葉を失い、彼女の起こした一連の行動に釘づけになっていた。
「ん」
ごそごそと腰元を探り、ローブの内側から、棒状の物体を取り出した。
物体は、長さでは警棒サイズだが、持ち手から先端に向かうほど幅広になってゆくコーン型。つや消しの石のような黒の材質でできており、枝葉や女神をかたどった精緻な装飾が施されている。
彼女がそれを胸の高さまで掲げると、装飾品は、心得ているとばかりに自らのサイズを上下に伸ばし始めた。
植物の成長を思わせる動きでするすると伸びて。
数秒後には、長大な、翼ある漆黒の〝杖〟の姿になっていた。
ヴヴ――!
(うぅっ)
〝杖〟が現れた時、スフィールリアは正体不明のめまいを覚えて頭を押さえた。
と、言うより……彼女から一瞬だけなにかの波動が漏れ出たように感じた。その振幅の圧力に、彼女の姿が〝ぶれ〟たように見えたのだ。いや、
彼女の周囲の光が消えて、真っ黒になったような――
だが周囲の生徒たちは自分と違って異変を覚えてはいないようだった。
そして、ミルフィスィーリアが杖の下端をコツリと床に当て、光が広がって――
「――――」
全員が目を開いた時には、彼女の前に、元の機能を取り戻した簡易使い魔が浮揚していた。
「いえいえ……大したことはしていませんので……よかった、ね……」
使い魔がなにかを言ったということはないが(むしろこのタイプに人格は付与されていないが)、彼女は球型の使い魔に向かって、ゆらりゆらりと両手を振って謙遜の意を示している。
手の中の〝杖〟は、すでに元の警棒サイズに戻っていた。
「き、君……」
静まり返る中、教師がかろうじて起こったことを把握して声をかけるが、ミルフィスィーリアはやはり自覚なく眠たげな眼差しを送るだけだった。
「君は……生徒、か……?」
「……?」
小首を傾げる彼女の胸元からリスが顔を出し、<銅>のネックレスの飾りを差し出す。
ミルフィスィーリアはうなずいてそれを受け取ると、教師に向けて持ち上げて見せた。
「したらば、これで……」
〝杖〟をローブの内側にしまい、ぺこりと頭を下げて、ミルフィスィーリアは当たり前のように廊下の向こうへと去っていった。
『………………』
どうしたものか考えあぐねた教師が、頭をかく。
野次馬の生徒たちも、騒動の中心にいた女子生徒も、どうすればよいのか分からず……戸惑うまま喧騒が戻ってくる。その場を去ろうとする者、なんとなく残ろうとする者と、解散ムードになり切らないあいまいな空気が横たわっていた。
「……綴導術士の<縫律杖>ですわ。間違いない。やはり、ただ者ではなかったんですのね」
「あの〝杖〟の、こと?」
ざわめきの中。尋ねるフィリアルディに、アリーゼルが緊張した面持ちでうなづいた。
「結論から言いますと、あれは一人前の綴導術士の〝証〟とも言える宝具ですわ――〝小さな工房〟とも言われる」
<縫律杖>――〝小さな工房〟。
それはその名の示す通り、綴導術士が秘術を扱う〝工房〟としての機能の大半、あるいはすべてを搭載した小型・超細密の建造物――最上級法術具である。綴導術士は、これを所持さえしていれば、いつでも工房の中にいるのと同じ環境にあると言っても過言ではない。
絵本などの中で〝伝説〟と謳われる数々の綴導術士が、かならずと言ってよいほど〝杖〟を持つ姿で描かれるのは、子供向けのロマンでも伊達のことでもないのだった。
「えっ? じゃあ、あの人」
「ええ。しかも<縫律杖>は術者個人個人による完全なオーダーメイド。術者自身のすべての知識、すべての経験、すべての研鑽を注ぎ込んだ、この世にふたつと同じものはない完全規格外品。
――ゆえによほど高名な術者自身が創るか、そういった身分にある〝師〟に認められて贈呈される以外に手に入れる方法がなく、ただ綴導術士であるからという理由で所持することは叶わない。
そういった物品ですのよ。わたくしの家でも所持しているのは祖父ただおひとりですわ」
「綴導術士……わたしたちと変わらないような、あの子が」
「そんなお方がいったいどうして、<アカデミー>などに一般生として入り込んだのだか……」
フィリアルディとともに、少女が去っていった廊下を見つめたアリーゼル。
次にいたずらじみた笑みで隣のスフィールリアに水を差そうと考えて――
「要するにあなたなんかが気にかけても、しようがないような高みにいらっしゃる人ということですわ――って、ど、どうしたんですのっ?」
「大丈夫っ? 顔色が真っ青だよ!?」
胸に手を押し当てたスフィールリアは、深く静かに息を乱していた。
「うん……大丈夫…………」
言いつつ、ふたりに肩を支えられて、その場に膝を着いた。
「まさか先ほどの術に術波汚染が? そんな様子はなかったのに……」
「どうしよう、先生呼ばなくちゃ。救護室の場所は」
「あぁ、ううん、違うの――すごいもの見ちゃったから、興奮しちゃって……ほんとに」
さらに慌てるふたりの声を、スフィールリアはひときわ大きく吸って吐いた息の音で遮った。
「大丈夫だってば……ほら」
顔を上げた時には、多少は血色がよくなったと自分でも分かるていどには平常になっていた。
「よ、よかった」
「もう……びっくりしましたわよ」
「さ! あたしたちも負けてらんないわよね。帰って仕事の続きだー!」
立ち上がって伸びをするスフィールリアに、ジト目になったアリーゼルが釘を刺した。
「なに当たり前みたいに逃げようとなさってるんですの。このあとは教科書の買出し。まだ今日の復習も終わってませんのよ」
「え、え~~っ」
「さ、参りますわよ。負けていられないんですわよねぇ~? では当然次の試験は満点中の満点ですわよね~~ええそうでしょうとも」
「えええ……フィリアルディ~……」
「うん、わたしも一緒にいくね」
「ええええええ……」
結局この日は、午後の八時まではみっちりと基礎知識漬けにされたスフィールリアだった。
◆