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■ プロローグ(1-01)

 霧。

 思い出すのは、いつもこの風景からだった。

 白い、霧。

 ほかにはなにも見えない。

 音もなく、色もなく、温度もなく。

 この景色の中にいる自分もまた、静まり返った世界に生じたかすかな『揺らぎ』のようなものにすぎないのかもしれなくて。

 そうだとすれば……まぶたを閉じて。静かな気持ちのまま、この白い世界に還ることができるのだろう。そうに違いないという予感があるのだから。


「そう……」


 そして、その通りと消えてしまおうとしたところで、あの声がするのだ。


「そういうことだったの。あなたが呼んだのね。あなたが、私を……」


 目の前の霧がゆらりと揺れて、気がつけば自分は、現れていた女性の腕に、優しく抱き止められているのだ。


「もう、大丈夫よ」


 その声を聞いたとたん。光が、音が、匂いが、温度が――

 自分を形作っていたすべてのものが戻ってくる。

 彼女の胸の温もりが。声が。匂いが。

 染み渡ってきて、自分の形を思い出させてくれる。

 そして自分は、自分がどうしようもなく寒くて、怖くて、寂しくて……悲しかったことを思い出して、わっとみっともなく泣き出してしまうのだ。それを女の人は、やさしく抱きしめたまま受け止めてくれる。

 しばらくそうしてくれていた彼女は、立ち上がり、自分の手を引いて歩き出すのだ。


「帰りましょう」


「かえる……?」


「ここにいてはいけないから。ここは世界の果ての、終わるところだから」


 ここにいてはいけない。それだけはよく分かったから、彼女に手を引かれるまま、歩いた。

 どこまでいっても白い霧しかない世界。

 つないだ手もよく見えず、自分たちの足音も、歩いている地面の上下すらあいまいで……それでもこの人がいれば大丈夫だと、素直に信じることができた。


「たすけて、くれるの……?」


「違うわ。あなたが、私を助けてくれたのよ」


 意味は分からなかったが、彼女は、


「今は分からなくていいの」


 とだけ言った。


「どこに……かえるの?」


「そうね……」


 一日、歩いた。歩き疲れて、休んだ時に、そう聞いた。

 彼女は考えるふりをしていて、でも、笑っていたと思う。


「家族のところへ」


「かぞく……?」


「そう」


 常にやさしい微笑みを湛えた彼女が、ふわりと毛布をかけて、後ろから抱き寄せてくれる。とても暖かくて、すぅ……と眠さが覆いかぶさってくる。


「弟がいるの。みんなは変わり者だって言うけれど、本当はとてもやさしい子……面倒見はいい方じゃあないかもしれないけれど。それでも、いつだって、どこにいる時だって、大切な人のことは忘れない……」


「う、ん……」


「なにもない田舎町だけど――あの子は騒がしいのが苦手だから――でも暖かくて、穏やかで、いいところ。大丈夫。きっと上手くやっていけるわ」


 春の空明け祭りの時はとても賑やかで――あの子もその時だけはかならず町に――

 夏は近くの河が涼しくてあなたくらいの子たちがたくさん――きっと上手くやっていけるわ――

 きっと――


「……」


 そこから先は覚えていない。眠ってしまっていたのだから。だけど、ずっと優しい声が包んでくれていたことだけははっきりと覚えている。

 その中で、ひときわ強く、『彼女』の中に残り続ける言葉があった。

 きっと――

 以来、その言葉は『彼女』の頭の中を、ずっとずっと、くるくるとめぐり続けることになる。

 あなたなら、きっと、いつか――幸せを――せるから――――




「幸せを……幸せ、を……」


 ――ドンドンドン!

 ――スフィーっ? 起きてるの! いるのっ? いるわよねぇ!? スフィールリアーー!


「幸せに……むにゃ……幸せ~」


 ――ああもう、結局これやんないと起きないんだから……せぇのっ!


「……しあわ、」


 ――ドカコン!!


「はっ!?」


 隙間だらけな玄関の扉に、大変な衝撃が走った。粗末な家屋そのものが揺さぶられて、ようやくスフィールリアは目を覚ましたのだった。

 ぱっと寝ぼけまなこなままの顔を起こしたのは、南西方向に向けて五度傾いているのが定位置である木のテーブルの上だった。見回す。

 いびつな形の土の暖炉。窓ガラスと、窓枠と壁の間に空いた隙間から差し込む朝日の光線。

 つまり、いつもの住み慣れたボロの家。


「……えーっと」


 目の前には、中途半端に折りたたまれた世界地図と、彼女が一晩かけて作り上げたよだれの世界地図。ああそうかと思って足元に目をやれば、記憶の通り。

 思いついたものを片っ端から詰め込んでゴテゴテに膨れ上がったリュックサックが、ふてぶてしい感じで鎮座している。そうだ。昨日の晩、徹夜で荷造りをしていて、そのまま眠ってしまったんだった。荷造り? なんのために……?


 そうだ。マフィアに借金した師匠が逃げ込んできてついに夜逃げを――いや違う。偉大なドラゴンの秘宝を我欲のために奪い盗って激怒(げきおこ)りさせた師匠が逃げ込んできてここを決戦の根城に――いや違う。街でもひとつ吹っ飛ばしてお国様に追われた師匠が逃げ込んできてついにともども自決を。それも違う。じゃあなんだっけ……?


 と、そこまでを低血圧な頭から掘り起こしたところで、


「スフィーっ、今日ばっかりは寝坊したらダメなんじゃないのー! 出発の日でしょー!?」


 出発――

 旅立ちの日――

 玄関前から聞こえてくる幼馴染の声に、さぁっと顔を青ざめさせた。


「ヤバい……!」



「はいこれ。馬車の中で食べてよ。あたしとおふくろで昨日の晩から一生懸命作ったんだ」


「ありがと、キーア」


 もらった風呂敷包みをリュックサックにくくりつけ、スフィールリアは幼馴染の後ろに控えていた夫婦に勢いよく頭を下げた。


「オヤジさんとおふくろさんも、ほんと、ありがとございっした!!」


「おうっ。俺っちの馬車がなかったらマジで間に合わなかったな!」


「ここまでくる乗合い馬車なんて本当に少ないんだから。今日を逃したら次は来週になるところだったよ?」


「てっへへ……」


 ごまかす……か照れ笑いにも見えるしぐさでスフィールリアは頭をかいた。

 スフィールリアは、髪の毛を短く切りそろえた、活発そうな女の子だった。

 遠目からは白髪のようにも見えるが、近くにすると薄っすらと金を帯びた乳白金色の、不思議な輝きを持っている。左右で横髪の長さが違うのは昔に自分で切り損ねたため。以来、散髪は目の前の幼馴染にやってもらっていた。そんなきめ細い髪が、さらさらと流れて高原を降りゆく風を追いかけようとする。


 服装は、いつも一緒に遊びに出かける町娘のそれではなく。

 金縁をあしらい、胸元を出してはいるが上等で頑丈な仕立ての白い服と。その上から、開くと花びら型になる襟つきの外套と多種のポーチやポシェットを外づけでき、内部に(かね)や護符も仕込める隠しポケットつきの汎用ベルト。スカートの青色は『彼女たち』を示すトレードカラー。短めなのは単に師の趣味。ブーツも厚い造りで外側と内側両面の保護を重視した高い品。

 ぽんと頭に乗っけた白い帽子はハンチング帽とキャスケット帽の合いの子のような形で、バンド部は青く、クラウン部が袋のように大きい。実は緊急時のバッグにできるという造りだったりする。ハットバンドに渡り鳥を模す金細工のピン。差し込まれているのは武器にもなる飾り羽。

 長距離の移動に耐久する旅装だ。


 そして、家の財産と呼べそうなもののうち運べるものを詰めるだけ詰めた大きなリュックサック。

 旅立ちを示す装備だった。


「……本当に王都の大学、いっちゃうんだねぇ。寂しくなるよ。ここいらの家はみんな、ものが壊れるたんびにスフィちゃんに助けてもらってたから」


「ばかお前、大学じゃねーよ。王都の<ディングレイズ・アカデミー>つったらおめー、アレだろ? 王様お抱えの『魔法使い』をわんさと育ててる専門機関だって。超がつくくれー学費もおっ高いし試験も難しいから、アタマがいーだけじゃ貴族様の子供でも入れないって超有名なんだぞ!」


「アンタそれもう何回目だよ! 全部ふもとの商人の受け売りなクセしてさぁ。ねぇっ?」


「あー、いや、あたしもよくは知らないんですけど、大学は大学でいいらしいですよ? 師匠の手紙にはそう書いてあったし。それと『まほーつかい』じゃないです。〝綴導術士(ていどうじゅつし)〟です、一応。あはは……」


 スフィールリアは顔を赤くしながら補足した。


「そうなのかい? よく分からないけどねぇ。とにかく寂しいよ」


「まぁなあ……でも、大躍進ってヤツじゃねぇのよ? ウチの町からそんなケツブツが出るかもしんねーんだ……笑って送り出してやんねーでどーするってなもんよ。なっ」


「あたしは別に一週間後だってよかったけどね……」


 幼馴染の少女がむっすりした面持ちでつぶやいた。


「っていうか、お師匠さんの言いつけだかなんだか知らないけど、王都なんかいかなくたっていいよ。ねぇスフィー、今からでも遅くないよ。王都の大学なんかいくのやめてさ、ずっとこの町にいよーよ!」


「えっ? でもなぁ、うーん。師匠、あの家もう引き払っちゃったって書いてあったし……」


「第一、都会は怖いところだって言うし、しかも、王都だよっ!? 男なんてきっとみんな誠実じゃないし、一瞬でも気を抜けば、そう――ナンパされて、言いくるめられて――気がついたらベッドの中なんてことに!」


「えー、いやぁ、うん、そうかなぁ……?」


「どうしてそんなに歯切れが悪いの……はっ!? まさか……すでにカレシが……!? 許せない! だれだあたしのスフィーに手ぇ出した馬の骨は今すぐここに連れてきなさい!?」


「ちょ、落ち着いてよ――て、なんでまだいってもない王都に彼氏なんているのよ!」


 幼馴染の少女の剣幕に押されていると、どかどかと寄ってきた父親が彼女の頭をゲンコツではたいた。


「あだ! づおおおお……!」


「コラ、キーアおめー、すっとぼけたこと抜かしてんじゃねぇっ。スフィーちゃんはおめーなんかたぁドタマのできが違うんだってのこら!」


「ううう、スフィ~ぃ……」


 目いっぱいに涙を溜める親友の姿にこちらも胸をいっぱいにしていると、やがて、なだらかな丘陵を沿って馬車の姿が見え始めてきていた。

 スフィールリアは自然と、居住まいを正して三人に向き直っていた。

 お別れの言葉をなんと言えばよいか昨晩はずっと悩んだりもしたけれど、いざその時が近づいてみると、しっかり身体はついてきてくれるようである。


「スフィちゃん、がんばるんだよ。身体には気をつけてね」


「はい。おばさん」


「でーじょぶだ。スフィーちゃんならどこの馬の骨に絡まれたって頭突きイッパツよ!」


「あ、ドタマのできってソッチすか。えへへ……」


「……」


 目を戻すと、親友は、うつむいたままだった。

 無言で向き合ったのは、少しだけ。


「そんじゃねっ!」


 ぱっと荷物を持ち上げ、スフィールリアは、まだ到着していない馬車に向かって駆け出していた。

 後ろから、驚いた親友の声が届いてくる。


「えっ、あ、ちょっ――いっちゃうの!?」


「お別れの言葉なんて言ったら泣いちゃうもん! またね!」


 大きな荷に振り回されながらも、どたどたと走って長距離旅行用の客馬車に飛びついた。「なんだなんだ慌ただしいな」などと野次を投げられながらもよじ登って扉を開き、人もまばらな車内の客席に転がり込む。

 当たり前だが通りかかる予定の馬車にひと足早く乗り込んだのだから、もう一度、スフィールリアは親友と顔を合わせることになった。


「……スフィー。手紙、毎月書くから!」


「うん!」


「……一週間に一度は書くから!」


「待ってるね!」


「……半日に一回は書ぐがら゛ね~~……!!」


「……えー? あーそれは……」


 そんなこんなでぶんぶか手を振る親友の姿が再び遠ざかってゆき、「おめーはウチを破産させっ気か!」「あだっ!」というやり取りが届いてきて、馬車の中、どっと笑いが巻き起こった。


「えへへ。どうも、どうも」


 調子を取るように頭をかいて席に戻ると、別れの余韻に浸る間もなく、さっそく面白がって寄ってきた乗客らと話が弾んだ。

 そうして馬車に揺られ続けること数時間。夕方にもなると、旅の疲れから、自分の席で眠りこける者が大半になっていた。


 ひとりに戻って、視線は窓の外に。名も知らぬ湖畔を輝かせる黄昏を眺めて、ようやく、スフィールリアの胸の内に実感が灯ってきていた。さあ、旅立ちの時だ。

 すぎてゆく景色とともに、スフィールリアはことの経緯を思い起こす。


 ――物心ついたころから暮らしていた家へ、最近では年に一度は帰ってくればよい方だった彼女の〝師〟より手紙が寄越されたのは、三月ほど前のことだった。

 相も変わらずぶっきらぼうで愛想だとか装飾だとかに欠けた手紙に記されていたことは、みっつ。

 ひとつ。長らく留守にしてここ数年ではすっかり彼女が主のようなものだったあの家を、このたび、正統な土地主である師が売り払ったこと。


 ふたつ。土地ごと売り払ったのだからして当然その上に建っている家もセットである。もう買い主である一家がこちらに向かっているからスフィールリアはさっさと荷物をまとめて出てゆく準備をしておけとのこと。

 そして、みっつ。


 その後の身の振りは、王都にある<アカデミー>へ通うように。

 という命令文であった。いわく。自分は用事ができたので待っていてももうあの土地には戻らない。<アカデミー>は経営者が知り合いで、入試や入学金についても話をつけてあるからあとはお前次第である。自分の食い扶持は自分でなんとかしろ。気が向いたら会いにいかないこともない。達者に暮らせ。


 ……などなど。

 思いついた順に適当に書き連ねられただろう内容というのが、こんな感じだったのである。

 だけど、スフィールリアが<アカデミー>とやらに向かうのは、師に言われたからではない。

 師の寄越したぶっきらぼうな手紙、その、最後に書かれていた――


(王都に……<アカデミー>……いけば、あたしの…………本当、なんですか…………師匠……)


 つらつらとそんなことを思い起こしていると、やはり疲れが溜まっていたらしい。いつの間にか、眠ってしまっていたようだった。




「ふわ……ぁ」


 朝になり、スフィールリアは窮屈な馬車の座席の上、猫のように大きく長い屈伸のびをしていた。

 彼女の出てきたフィルラールン高地はエムルラトパ大陸の最南端に位置する。そこから大陸を統治する聖ディングレイズ王国の首都――すなわち王都ディングレイズにたどり着くまでには、十四の大きな街を経由し、最低でも、実に十回もの乗り換えを行なわなければならなかった。

 その十回目の馬車の中。故郷を旅立ってからこちら、ちょうど半月目の朝を迎えていた。

 そして――


「……うわぁ!」


 昼になり、見えてきた景色に、スフィールリアはついにきたという感嘆の息を漏らした。

 なだらかな大地に沿う広大な田畑とあぜ道。その先にいくつもの町が細かな道を束ねるかのように点在していて、さらに先にある〝都市〟へと続いてゆく。

 山みたいに高くそびえる白い巨石の壁と、物見の塔。内側には、まるですぐ外にある田畑のように色分けされて、膨大な数の建物が軒を連ねている。色とりどりの屋根。街の中にある湖。湖のほとりの山岳の上に立つ壮麗な王城の白と青の尖塔たち――


 王都ディングレイズ。

 馬車のゆく山道からは、それらの遠景がよく見渡せた。

 今まで馬車に乗り合った人々から聞いた話によると、<アカデミー>は王城の城壁に寄り添うようにして建っているという。ということは、あの青い大きな建物がそうなのだろうか。

 王立・ディングレイズ・アカデミー。世の理を解き、物質と世界の正しき絆を紡ぎ導いてゆく賢者たちの住まう場所。

 彼女と同じ〝綴導術士(ていどうじゅつし)〟の卵たちが通う、学びの城である。


(これから、あの街で暮らすんだぁ)


 自分の力で、自分の生活を切り開いてゆく。するべきことは、王都でも、どこであっても、変わらない。

 それでもスフィールリアは、今までにない新しい高揚を覚えていた。

 これまで暮らしてきて〝自分と同じ〟人間は、師以外にはほとんど見たことがなかった。でも、あそこには、それがたくさんいる。

 たくさんいて、同じことを話し合ったり、教え合ったり……競ったりしているのだ。

 どんな人たちがいるのか。どんな生活が待っているのか。楽しみでないわけがなかった。

 スフィールリアは期待に胸を膨らませて、窓の外の景色を眺め続けていた。

 新しい生活が、始まるのだ。

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