レイニングディの恋人
―― レイニングディ レイニングディ
雨の日はお家で大人しくしてな
木登り隠れんぼ諦めて
泥んこ遊びなどもっての外さ
ママの言うことよく聞いて
いい子にしてりゃ明日は晴れる
だけど悪い子にゃ明日は来ない ―― レイニングディの子守唄
雨の日に現れる人殺しの話を聞いたことがあるか?
雨が降ると必ず人が殺される町がある。
遠い西の方にな。
そいつの話をしようじゃないか。
こんな日にはぴったりだろ。
こんな、大雨で宿に足止め食らって暇を持て余してる最中の夜語りにはうってつけってなもんだ。
何だ?怖いのか?
安心しろよ。よくある「この話をすると現れるんだよ」なんてオチじゃないからよ。
ん?聞くか?
そうか。
お互い暇だものなぁ。
* *
その町は本当に平和な町だった。
事件一つ起こらない、警察なんて必要がないほどに平和な町だった。
決して都会ではないがそれなりに活気はあって、穏やかでのんびりとした雰囲気の、本当にいい町だった。
事が起こったのは肌寒い10月の頭。
町のごろつきが一人殺された。
どんな田舎にもはみ出し者という輩はいる。
全く問題にならない数ではあったが、この街にも良くない連中はいた。
そのうちの一人が殺された。
小雨の降る夜に狭い路地の隅で。
明らかに殺されたという死に方だった。
ナイフのような刃物で喉を一文字に切り裂かれていた。
この事件は平穏な町を一気に騒がせたが、警察はごろつき同士の喧嘩だろうということで半ば急くように捜査を打ち切った。
きっと警官達も平和な町で殺人事件が起きるなんて信じたくはなかったのだろう。
言い方は悪いが、面倒な輩が一人死んだ位では誰も真剣になどなってくれない。
殺された方も、日頃の行いが悪かったと諦めるより他ない。
が、そんな警官や町の人間を嘲笑うかのように、
事件はそれだけで終わらなかった。
一週間後、殺されたのは町の有力者だった。
葡萄畑をたくさん持っていて、ワインで金を儲けた男だった。
その男が殺されたのは、雨の降る朝に自宅の庭先でだった。
首の後ろを先の尖った何かで一突きされていた。
ワイン屋の男が殺された翌日も雨だった。
今度は花屋の娘が殺された。
雨宿りするようにカフェの軒先に蹲っていた娘の心臓には、大きな剪定ばさみが突き立っていた。
それからは、雨が降る度に必ず誰かが殺された。
警察も必死に捜査をしたのだが、強盗なのか怨恨なのか通り魔なのかすら分からなかったため、とても難航していた。
そうして、結局一月足らずの間に七人の人間が殺された頃には、すっかり“雨の日には殺人鬼が現れる”という噂が広まり切っていて、もう町中に知らぬ者は一人もいなかった。
連続殺人であるという根拠もなかったが、誰もそれを疑わなかった。
ニュースや新聞はこぞってこの事件の記事を書きたてた。
凶悪な無差別連続殺人犯について、毎日情報を募った。
それでも、決して殺人鬼が逮捕されることはなかった。
雨の日には家の外に出る人間はいなくなり、町は死んだように静まり返った。
いつの間にか、殺人鬼は町の人々に≪レイニングディ≫と呼ばれていた。
だから、殺人鬼も自分のことをそう名乗るようにした。
しかし、逆に晴れの日は全く平和なものだった。
レイニングディが晴れの日に現れることは、絶対になかった。
ただ、突然夕立が襲って来た時などには、誰もが皆慌てて近くの人がいるバーなりカフェなりへ飛び込んだ。
雨から逃げるためではない。レイニングディから逃げるためだ。
たった五分降ったにわか雨でも、その五分にレイニングディは必ず誰かを殺した。
人々はレイニングディを恐れた。
それでも、町を出て行った者は多くはなかった。
良くも悪くもこの土地で生きてきた彼らは、町を捨てることが出来なかったのだ。
他の町に移って、そこに根を下ろして生きてゆくことも。
だから彼らは、辛うじて殺されないですむ方法を模索して身を守るだけだった。
それでもやはり、雨が降る度に一人死んだ。
例外はなかった。
雨降りの日は、その内生贄の日と呼ばれ始めた。
ある晴れた日に、町の南にある一軒の洋裁店の主人が店の中で居眠りをしていた。
膝の上の両手で支えた新聞が滑り落ちそうになった時、カランと入り口のベルを鳴らして一人の婦人がやって来た。
「いらっしゃいませ」
と主人は、眠っていたとはとても思えないはっきりした声で言った。
新聞を畳んで机に置くと、婦人は物悲しげな顔をする。
「ひどい事件が起きてますわね」
婦人が見ていたのは、レイニングディに関する一面記事だった。
あぁ、と呻くように呟いて、主人はそれを片付けた。
この町に住む人間には全く不愉快なものでしかないからだ。
「仕上がってますよ奥様」
不快なものを忘れるようにそう言って、主人は一旦奥へ引っ込んだ。
出て来た時には、両手に大きな包みを抱えていた。
「とても良い布を使ってますからね、きっと着心地もよろしいかと」
「まぁ、それは楽しみですわ。あなたに頼むドレスは友人にも評判が良いのよ」
婦人は嬉しそうに笑った。
再びカランと入り口の鐘が鳴って、今度は婦人の従者が入って来る。
「それをお運びなさい」
婦人に命じられて、従者は主人が抱えていた包みを持って行った。
途中で一度よろけると、
「気をつけてちょうだいね」
婦人の咎める声が飛んだ。
「それでは、これは御代ですわ。お釣りはいりません。
またよろしく頼みますわね」
にこやかに笑って、婦人はかなり多めの金額を主人に渡した。
「ありがとうございました」
去りゆく婦人の背中に主人は頭を下げる。
従者の開けて待つ扉をくぐって、婦人はその向こうに消えた。
婦人は町の西、高級住宅地に住む、綿の栽培で稼いでいる富豪の妻だ。
若くて美しく気立てもいいと評判らしい。
主人の店で服を買って行ってくれるお得意様だった。
それから夕方までの間はほとんど暇だったので、主人は店にあるたくさんの布の束を整理した。
完全に日が暮れてしまうと、店の中を掃除してから今日はもう閉めることにした。
店を出ると、空に黒い分厚い雲がかかっていた。
これは一雨来るかな。と思った矢先に、ぽつりと水の粒が落ちてきた。
主人は慌てて店の鍵を閉めて、帰路を急ごうとした。
その時、背後に人の気配がした。
振り向こうとした主人の頭に向かって、勢いよく何かが振り下ろされた。
「また、出たな」
そう言うだけで、この町の人間は何のことだかすぐにわかる。
特に雨の翌日には。
昨日夕方過ぎに降ったにわか雨の最中、死んだのは若い男だった。
それ以外のことも、既に誰の耳にも入っていた。
だからそれ以上の言葉はいらない。
以前こそ、殺人鬼を捕まえると息巻く若者達が自警団などを組織した頃もあったが、 真っ先に彼らの中から多くの犠牲が出たとあっては、最早それを言い出す者もない。
まさに殺人鬼が我が物顔で闊歩する町だ。
警察もこの事件を深刻に捉え、本部を設置して大きく捜査を広げたが、それでもやはりレイニングディの尻尾を掴むにはとても手が届かなかった。
中には、半ば本気でレイニングディは人間じゃない化け物だと言い出す人間まで現れる始末だ。
今まさにカウンターでひそひそ噂話している連中の話題もそれだった。
ふぅ、と彼は溜息をつく。
そして、コーヒーとサンドイッチの代金をテーブルに置いて、そのカフェを出る。
「おい、アンタ」
その背中にマスターが声を掛けてきた。
「降られるなよ」
見れば空には雲が多くなっている。
「それまでには家に帰り着けるさ」
と言い残して、彼は後ろ手で戸を占めた。
短い石段を下りて通りの石畳を踏んでから、俯いたままで小さく苦笑する。
全く奇妙なことだと思う。自分に向かって降られるな、とは。
その心配だけは無用というものだった。
彼の名は、≪レイニングディ≫。
降り出した雨の中を、レイニングディは歩いている。
暗い色のレインコートを身にまとって。
目深に被ったフードのせいで、その顔や表情は見えない。
辛うじてわかるのは、湿って頬に張り付いた髪の毛が墨色の黒であることくらい。
レイニングディはポケットに収めたナイフを確かめた。
刃の大きな、ずしりと重いナイフだ。
通りからは離れて、辺りには住宅が多い。
誰かに見つかれば間違いなく殺人鬼だと悟られるだろうが、それ以前にこの雨の中を、彼に出くわす危険を冒してまで出歩く者など居やしない。
もし居たとしても、それが新たな犠牲者となることは確実だ。
レイニングディは空を見上げた。
濃い灰色の天空から冷たい水滴が無数に降り注ぐ。
この雨は暫らく止みそうにない。
舞い落ちる細やかな雫を顔に受けながら、レイニングディは空を見つめていた。
と、その耳にどこかから聞こえてくる音がある。
雨音を割って、ぱしゃぱしゃと水をはね散らかすような、小さな雑音。
それは近付いてきているようだ。
視線を正面に戻して、彼は音の聞こえる方に向かってそっと歩き出した。
レイニングディは雨の中を足音もなく歩くことが出来る。
だから、ソレは彼に気付かなかった。
いや、正確にはより大きな関心事が、ソレから注意力を奪っていたのだろう。
少年だった。ようやく齢が十を数えた頃に見えた。
少年は走っていた。厚いコートの表面が水を吸ってひどく邪魔そうだ。
ミルクの小瓶を抱えていた。
足が地面を蹴るたびに瓶が大きく揺れて、いつ落とすかと危なっかしい。
レイニングディは、通りの角に隠れてそれを見ていた。
何故子供が外にいるのかと首を傾げる。
大人も外出しない雨の日に、子供を一人で出かけさせる親などいないはずだ。
ということは、そっと家から抜け出して来たのだろうか?
その元凶自身が気に掛けることではないが。
少年は、レイニングディが潜んでいることに気付かぬまま、通りを駆け抜けて一つ向こうの小さな角を急いで曲がっていった。
レイニングディは静かに後を追いかけた。
少年は、住宅地の片隅にある狭くて雑草だらけの空き地に入っていった。
レイニングディは空き地の入り口に立って、少年の様子を眺めた。
少年は振り返ることもせず、まっすぐ空き地の奥へと走り寄って、そこの石壁に寄り添うように置かれた小さな木箱を覗き込んだ。
箱の中から深さのある小皿を取り出して、ミルクを注ぎ箱の中に戻すまでの間に、レイニングディはポケットからナイフを取り出し、少年の背後へと近づいていった。
彼の足元からは、生い茂った草が踏みしだかれる音すらしない。
少年は箱の中に何かを語りかけているようだった。
少年の声が聞こえる。
「そんなに急ぐなよ。まだたくさんあるから」
少年の手が再びミルクの瓶に伸ばされて、
その時、レイニングディは少年の真後ろに辿り着いた。
雨空の薄明かりが落とした灰色の影に気付いて、少年は振り返ろうとする。
誰か大人に見つかって、叱られると思ったのかもしれない。
少し不安そうな顔をしていた。
けれど、少年が口にしようとした言い訳の言葉は、それが声になる前に、レイニングディの手によってその白い喉ごと切り裂かれた。
少年の首に当てたナイフが素早く引かれた。
すぱりと切れた傷口から真っ赤な血が噴き上がる。
地面に降る血の雫は、雨の音と混ざって同化した。
少年の体が土の上に倒れた時、レイニングディは箱の中を見ていた。
寒い雨に凍えて、一匹の小さな猫が赤く斑に染まったミルクの皿から顔を上げて、彼を見つめていた。
レイニングディはそっと手を伸ばし、その子猫を抱き上げる。
雨でナイフを洗ってポケットに収め、両の手でしっかりと猫を抱いて、レイニングディはその場所から去った。
雨の中をレイニングディは帰る。
腕の中の小さな生き物を気遣ってか、少し急ぎ足だ。
その様は、単純に雨から逃げているようにも見えなくはなかった。
レイニングディは油断していた。多分、それは油断だった。
殺人鬼の現れる雨の最中に、外にいる者などいないだろうと。
誰と出くわすこともないだろうと。
常なら身を潜めて通り過ぎる裏路地を、何の警戒も払わずに小走りで曲がった。
そこに、華やかな色がいた。
一瞬、レイニングディは立ち尽くした。それからようやく驚いた。
一人の少女が立っていた。
降り注ぐ雨の中、桜色の傘を差してアイボリーのセーターとチョコレート色のスカートに身を包んだ少女が、彼を待っていたかのように路地の真ん中に佇んでいた。
思わず、レイニングディはポケットの中からナイフを取り出そうとした。
が、辛うじて頭の片隅に残った思考がそれを制す。
何だこれは?誰だ?いや、それ以前に……しまった!
レイニングディは――レイニングディの狡猾な頭脳は焦った。
殺さなくてはならない。
だが、殺すわけにはいかない。
殺人鬼≪レイニングディ≫にはルールがある。
一つは、雨が降った日には人を殺すこと。
一つは、一日に二人は殺さないこと。
≪雨の日≫は一日に二度もは訪れないから。
レイニングディは困ってしまった。
既に少年を殺したレイニングディは、この少女を殺せない。
だけど、目撃者をこのまま逃がすわけにもいかない。
どうするべきか、とレイニングディが考え込んでしまった時、
「どうなさいましたの?こんな雨の日に」
少女は、小さく首をかしげながらすたすたと全く無造作に、この殺人者の前まで歩み寄ってきた。
レイニングディは、とてもとても奇妙な表情で彼女を見返した。
……まさか、まさか、気付いていないのか?
今ここにいるこの自分が、残忍な殺人鬼であると。
彼は再び驚愕した。
こんな馬鹿なことはない、と思う。
この町で、未だに自分を知らない人間がいるなどと、彼には信じられなかった。
しかし、だとすれば何故この少女は逃げ出さないのだろう。
何のつもりでわざわざ話しかけてくるのだろう。
レイニングディは混乱してしまった。
困り果てた顔のレイニングディなど気にせずに、少女は淡い微笑さえ浮かべて彼を見上げている。
少女はかなり小柄だったので、レイニングディと話すなら見上げるしかない。
と、返答に詰まり切っている彼の腕の中で、子猫が小さくにぃ、と鳴いた。
途端、少女は顔を輝かせて、レイニングディに抱かれた子猫を覗き込む。
「まぁ、可愛い子猫ちゃん!」
少女の長い濃い茶色の髪が、肩から滑り落ちて雨の中で揺れた。
少女は猫を覗き込んだその姿勢のまま、真上にレイニングディを仰ぎ見る。
「猫ちゃんが濡れて可哀想ですわ。
これをお使いになってくださいな」
少女の小さな白い手が殺人鬼の手を取って、そこに自分の桜色の傘を握らせた。
そして少女は踵を返す。
「……ぁ」
レイニングディは少女を呼び止めようとした。
逃げられると思ったのか、それとも少女が濡れてしまうからか。
けれど少女はくるりと振り返って、
「ご心配なく。私の家はすぐそこですから」
にっこり花のように微笑むと、あっという間に駆け去って行ってしまった。
その笑顔は陽光のような輝きで、レイニングディはその明るさに胸の奥をぎゅうっと掴まれたような、胸の詰まる息苦しさを感じた。
呆然と少女を見送ってしまったレイニングディは、暗い色のレインコートに桜色の傘を差した奇妙な出で立ちのままで、暫らくそこに立ち尽くしていた。
レイニングディは、ぼんやりと窓の外を眺めている。
雨はほとんど止みかけていて、小雨のような雨粒がぽつりぽつり落ちているだけ。
足元では子猫がタオルにじゃれ付いて遊んでいる。
戸口には、濡れたレインコートとその傍らに置かれたナイフ。
それと、この部屋の中でただ一つ華やかな色彩を持った、桜色の傘。
少女の傘だ。
レイニングディは溜め息をつく。
肺腑の底から零れるような、それは彼にとって未だかつてついたことのない類の溜め息だった。
「何なんだこれは……どう思う。
お前、知っているか?」
問いかけても、答えるのは子猫のか弱い鳴き声だけだ。
はぁ、とレイニングディはまた息をつく。
「傘を……返しに行かなきゃならんかな?」
確か家はあの近くだと言っていた。
探してみれば見つかるだろうか。
彼女はどんな家に住んでいるのだろう。
お屋敷だったりしたら訪ね難いな……。
「にぃ」
レイニングディの思考を子猫が邪魔した。
猫はタオルに飽きたのか、今度はレイニングディの足にまとわり付いている。
ひょいとそれを抱き上げて、
「お前の名も決めないとな」
小さな猫の大きな瞳を正面から見つめながら、レイニングディは少し笑った。
晴れたのはそれから翌々日の日曜日のことだった。
今日の朝刊には、昨日殺害された商店を経営する中年女性のことが載っていた。
眩しい青い空の下、レイニングディは桜色の傘を持って家を出る。
勿論、あの少女に傘を返しに行くためだ。
一昨日少女と出会った辺りまでやって来ると、それだけで既にレイニングディは何だか落ち着かなさを感じた。
緊張している。初めて誰かを殺した時よりはずっと。
そうしてぐるりと辺りを見回してから、この期に及んで、さてこれからどうやってあの少女を探そうかと悩み始めた。
方法を全く考えてなかったらしい。
弱った。
警察の目を掻い潜り決して尻尾を出さない、狡猾で抜け目のない殺人鬼≪レイニングディ≫らしくない失態だった。
せめて名前ぐらい聞いておけばよかったと今更後悔しながら、レイニングディは自分の間抜けさに歯噛みした。
何てことだ。これじゃまるで馬鹿だ。……いや、立派に馬鹿だな。
溜め息をついて、自分を罵倒しながら軽く落ち込む。
が、それで特に何が解決するわけでもなく、仕方なくレイニングディは歩き出すことにした。目的があるわけでもなく、当てもなく。
いっそ雨の日にもう一度来ようか。
しかしそうしたら彼女を殺してしまいそうだった。
何故か、少女を殺したくないと思っている自分には疑問を抱かない。
ぼんやりと歩いているうちに、レイニングディは通りに出ていた。
唐突に、ふわりと挽かれた豆のいい匂いが鼻腔をくすぐる。
すぐ横が喫茶店だった。
表に出されたランチメニューの品書きに目をやって、ここで少し早い昼食を取ってから帰ろうかとレイニングディが思案した時、
「あら?」
それは向こうからやって来た。
耳に届いた声にくるりと振り返ったレイニングディの前で、濃い茶色の髪を垂らして白いワンピースと桃色のカーディガンを着たあの少女が、淡く微笑んでいた。
幸福な偶然は殺人鬼にすら与えられるものなのだと、彼は始めて知った。
「……ぁ」
「こんにちは」
レイニングディが何かを言うより早く、少女は笑いかける。
それだけで、彼の心音はそのリズムを早めた。
「今日はいい天気ですね」
「……ぅ」
うまく言葉が出ない。
「お散歩ですか?」
「……いや、傘を」
ようやく意味のある音が出た。
それを聞くと少女は少し驚いたように、
「まぁ、わざわざご丁寧に」 と言った。
それから、レイニングディと隣の喫茶店の看板を見比べて、
「折角ですからお茶でも飲んで行きません?
勿論あなたがお嫌じゃなければ、ですけれど」
当然、彼が断るわけもなかった。
店内に入って、二人は窓際の席につく。
少女はレモンティーとチーズケーキを、レイニングディはコーヒーとガトーショコラを頼んだ。
「ケーキ、お好きですか?」
チーズケーキにフォークを指しながら、少女が尋ねる。
「……変ですか?」
レイニングディは気まずそうにガトーショコラを口に運ぶ。
でも少女はにっこりと笑って、
「いいえ、ちっとも」
と首を横に振った。
「猫ちゃんお元気ですか?」
「ぁ、元気ですよ。今日もここに」
そう言った途端、レイニングディのジャケットの懐から、ひょこりと子猫が小さな頭を覗かせる。
「あらっ、まぁ手品みたい!」
それを見た少女は子供のように喜んだ。
喜ぶ少女を見てレイニングディも嬉しくなった。
「この猫ちゃんのお名前は何ていうんですの?」
「実は……まだ無いんです」
それは可哀想ですわ、と少女は言う。
レイニングディは、勇気を出して今思いついたセリフを声にした。
「あの……よければ、一緒に考えてもらえませんか」
少女は一瞬きょとんと彼を見返して、じゃあ……と思案する。
「この猫ちゃん男の子ですの?それとも女の子?」
「……ぇ~と、雄です」
「男の子ですのね。じゃあ、バロンちゃんはどうでしょう?素敵な紳士になるように」
「男爵……?あぁ、いい名前だ」
本当に本心から、レイニングディはそう思った。
「今日からお前はバロンだ」
「バロンちゃんですわ」
二人にそう言われて、不思議そうに両方を見上げた子猫は、小さくにぃ、と鳴いた。
バロンと名付けられた子猫はひどく大人しいのか、レイニングディの服の中から出て来なかった。
二人はそこで暫らく話をした。
その間に少女がこう言った。
「あの、もしお邪魔じゃなければ、遊びに行ってもいいですか」
「……え?」
勿論ご迷惑じゃなければですわ。と少女は前置いて、
「バロンちゃんと遊ばせていただきたいんですの。
私、動物が大好きなんです。でも家族が……」
あぁ、生き物を飼いたくても飼えないのかと、レイニングディは納得した。
「いいよ」
至極あっさりと、レイニングディは承諾した。
「君は名付け親だし……俺は仕事があるから、よければ遊んでやって欲しい」
少女は喜んだ。とてもとても喜んだ。
レイニングディは少女に自分の家の場所を教えた。
別れ際に、レイニングディは少女に尋ねた。
「君の名は?」
「レエナですわ」
短く答えただけで、少女はレイニングディに名を尋ねなかった。
だから彼も名乗らなかった。
レエナという名の少女は、桜色の傘を提げ、大きく手を振りながらレイニングディを見送った。
少女と別れたレイニングディは、足取りも軽く帰宅する。
「よかったなぁお前。名前が決まったぞ」
「にぃ」
バロンは小さく返事をする。その鳴き声はどことなく嬉しそうに聞こえた。
だけど一番嬉しいのは、やはりレイニングディなのだ。
「……幸福か?これが幸福というものなのか」
レイニングディは、ようやくその言葉の意味を知ったのだ。
そうして、レイニングディの幸福な日々が始まる。
これを幸福と呼べないのなら、この世に幸福は無い。
とレイニングディは思った。
少女は週に数度、レイニングディの家を訪れた。
時には彼がいなくてバロンとお留守番だったりもしたが、機会さえあれば二人で食事をしたり、バロンを連れて出かけることもあった。
時々、少女はレイニングディのために料理を作った。
時々、レイニングディは少女のために贈り物をした。
レイニングディは彼女が好きだった。
だから、彼女を殺そうとは、一度だって思いはしなかった。
町の北で学生が殺されても、
南では配管工が殺されても、
西で教師が殺されても、
夜に一人暮らしの老婦人が殺されても、
翌日にその息子が殺されても、
若い女が殺されても、
初老の男が殺されても、
金持ちの息子が殺されても、
父親が怒り哀しんで泣いても、誰も自ら殺人鬼を捕らえようとする者はいなかった。
そして、レイニングディは幸せだった。
けれど雨の日には誰かが死んだ。
それは変わらなかった。
レイニングディは少女が好きだったから、決して彼女にだけは知られないように周到にレインコートやナイフを隠していた。
本当に少女は彼が殺人鬼だと気付いてないのかと、一度ならず思わないでもなかったが、レイニングディにそれを確かめる勇気はなかった。
多分知らない。
知っていたら、こんな幸せは存在しないだろうから。
少女は雨の日には遊びに来なかった。
だからレイニングディは安心して出かけられた。
いつかレイニングディは少女に問うた。
「雨は怖いか?」
どうしてですの?と少女は首を傾げた。
「雨は雨ですもの。怖くなんてありませんわ」
変な人、と少女は笑った。
「殺人鬼が出るのに?」
そう尋ねると今度は、少女は曖昧に笑むだけだった。
彼はそれ以上聞かなかった。
少女は、雨を怖がったりはしなかった。
もしかしたら、殺されるのも怖くなかったのだろうか。
レイニングディの幸福な日々は、季節が変わってしまうまで続いた。
バロンも少し大きくなって、今ではとても悪戯っ子だ。
部屋の中を散らかしてよく叱られる。
叱るのは主に少女の方で、レイニングディはそれを微笑ましげに眺めている。
今日はミルクの入った皿を引っくり返して、床を大騒ぎにしていた。
少女は呆れながら床を掃除して、レイニングディはそれを手伝いながら笑っている。
二人がミルクを拭くのに使っている新聞紙には、町の西に住む綿農園主の若い夫人が殺された記事が載っていた。
レイニングディはそれを畳んで、バロンに向かって放り投げる。
バロンは新聞紙にじゃれ付いて、あっという間にびりびりと破いてしまう。
「あら、また散らかして」
少女は笑いながら咎める口調を装って言い、破れた新聞紙とミルクを吸った塊をまとめてゴミ箱に捨てる。
「バロンちゃんはどんどん悪戯っ子になりますわね」
「飼い主に似たのかな?」
おどけてそう言いはしたが、実のところ原因はわかっている。
レイニングディはバロンを叱らない。
躾の是非ではなく、自分に猫の行動を叱る資格があるものか甚だ疑問だったからだ。
最近では死臭をまとって帰ってくる飼い主に慣れたのか、バロンは血の匂いさえ怖がらなくなった。
「雨が降りそうですわね」
ふと外を見て少女が言う。
「送っていこうか」
「お願いします」
お前は留守番だとバロンに言い残して、二人は家を出た。
厚い雲は濃い灰色ですぐにも雨粒を落としてきそうだったので、レイニングディは傘を持っていった。
雨は、本当にすぐに降り出した。
大きな傘を二人で差して、雨音の中を歩く。
ノイズのようにさらさらと響く雨粒の擦れる音の中を、二人はただ静かに歩く。
雨の中ではどちらもほとんど喋らない。
傘の下で寄り添っているだけだ。
寄り添って、少女の家までの距離を通り過ぎてゆくだけだ。
今までもそうだったし、多分これからもそうだろう。
と、思っていた。
突然、少女は立ち止まった。
併せて、レイニングディも足を止める。
怪訝そうに彼女を見下ろしたレイニングディに、少女はそっと体を寄せた。
身を合わせるように傍らに佇んで、彼の肩に額を預けながら、少女は言った。
「私、あなたに言わなくてはいけないことがありますの」
レイニングディは少し驚いて、黙ったまま続きを待った。
その時、唐突に予感が――何かとてつもなく不吉な予感めいたものが、レイニングディを動かした。
とっさに少女を突き飛ばして、レイニングディは身を翻した。
それは多分、殺人鬼としての直感だったのかもしれない。
痛みが走った。
熱に似た鋭い痛みが、脳の奥深くを叩き起こす。
ぬるりと、何かが流れ落ちてゆく感触。
指で探れば、右脇腹がざくりと裂けていた。
息を吸うにも痛い。
浅く荒くなった呼吸を抑えながら、レイニングディは少女と対峙する。
少女は淡く笑んでいた。
柔らかな長い髪、白いセーター、デニムのロングスカート、黒いブーツ。
何もかもが一瞬前と同じなのに、何もかもが一瞬前とは著しくかけ離れていた。
少女は、すぱりと布が割れたレイニングディの傘を、足先で蹴って脇へと転がした。
少女の手には、不釣合いに輝く大きなナイフ。
「……それは」
レイニングディのナイフだった。
「さすがですわね。完全に隙を突いたと思いましたのに」
と少女は笑った。
レイニングディの血が、ナイフの刃から落ちている。
あぁ、やはり……とレイニングディは思った。
「やはりそのナイフを盗んだのは君だったのか」
数日前から見当らなくなっていた仕事道具を、まさかこんなところで見つけるとは。
そんな気はしないでもなかった。
彼の部屋に入れるのはレイニングディ自身と、あとは少女とバロンくらいのものだ。
「返してくれないかなソレ」
「えぇ、後で。でもその前にお話を聞いてくださいな」
胸中で、レイニングディはちっと舌打ちした。
雨は平等に二人に降り注いでいる。
レイニングディの体からは血が流れている。
すぐに死ぬほどの傷ではないが、間違っても無視できるほど浅い怪我でもない。
ズボンの右足が、血液を吸って重かった。
少女は彼を警戒してか、少し距離を取っている。
一気に飛び掛かるには、開きすぎた距離。
よくない状況だった。
少女はその位置から話しかけてくる。
「どこから話せばいいのかしら。
最初は……そう、葡萄農園の主人でワイン屋の男があなたに殺された時かしら」
やっぱり、知っていたか。とレイニングディは呟いた。
その囁きは小さすぎて、少女には届かなかった。
レイニングディはショックを受けたりしなかった。
彼女が彼の部屋を漁って、ナイフを盗んだということは……そういうことだ。
彼女は最初から、彼をレイニングディだと知って、近付いてきたのだ。
それにしても少し古い話を持ち出すな、とレイニングディが苦笑した時、
「私、あの男に売られるはずでしたの」
少女は、苦笑も吹き飛ばす衝撃的な言葉を口にした。
「何だって?」
レイニングディは問い直す。
「売られるはずでしたの。借金のカタに」
少女は淡々と繰り返す。何でもないことのように。
「だからあの男が殺された時、私すごく嬉しかったんですのよ」
と、少女は朗らかに、朗らかに笑った。
「私、あなたに感謝しました。
雨男さんありがとうと、毎日お祈りしてましたのよ」
少女が呼んだ雨男と言う名が、レイニングディには何だかくすぐったく聞こえた。
少女はナイフを持ったまま、胸の前で手を組んで見せた。
ナイフさえなければ、本当に祈っているように思えたろう。
でもそのナイフには、レイニングディの血が付いている。
愛らしく愛しかった少女の笑みは、ひどく禍々しいものに見えた。
少女は続ける。
「その次は、南の洋裁店の前で殺された若い男。
本当に馬鹿な男ですわよね?あなたを襲おうだなんて」
くすくすと少女は笑う。
「……見てたのか」
「えぇ、お店から出てきたあなたに男が殴りかかるところから。
あなたがそれを避けて武器を奪い、一撃で男の首の骨を折ってしまうところまで」
その武器は大きなスパナだった、とレイニングディは記憶している。
「もしあなたが苛められるようなことがあれば、助けて差し上げようと思っていたんですけれど」
その必要もなくて彼女は安心したようだった。
そして少女は、変わらぬ笑みのまま、こう言う。
「でもですね。実はその男は、私の兄でしたの」
成る程。とレイニングディは全てに納得した。
それは刺されもするだろうと。
現場を見られていたのでは言い訳のしようもない。
遺族から見れば、自分は嬲り殺してやりたいだろう程の外道であることぐらいは、レイニングディも自覚している。
しかし、彼のそんな顔色を察したのか、少女は慌てて何かを否定した。
「あ、違いますのよ!仇だとかそんなのではないんですのよ!
それだけは勘違いしないでくださいね!」
では何だと言うのだろう。
レイニングディは問わずに、ただ少女の言葉を待つ。
正直なところ、呼吸の度に走る引き攣るような激痛が辛いからだ。
少女は申し訳なさそうな表情を浮かべて、レイニングディを見る。
だが、それは彼にナイフを突き刺したことに対するものではない。
「私、うまく説明できませんの。それはごめんなさいね。
でも決して、私あなたを憎んでなんていませんのよ。
私はあなたにとてもとても感謝してますの。本当ですのよ!
だってあなたは……兄まで殺してくれたんですもの」
再び少女は笑顔になった。
やはり彼女には笑顔のほうが似合うと、こんな状況ながらレイニングディは思った。
「……どういう、ことだ」
「つまり、借金をしていたのは兄なんですわ」
つまり、少女を売ろうとしていたのも。
殺しておいてよかった。胸中だけでレイニングディは呟いた。
少女は彼を見つめて言う。
「私はあなたに救われましたの。何から何まで、本当に感謝してましたわ。
いいえ、今でもずっと。ずっとあなたに感謝しています」
では何故刺されなければならなかったのかを、レイニングディは教えて欲しかった。
「全部私の我が侭なんですわ」
少女は少し寂しそうに笑む。
「私はあなたに会いたいと思ってしまったのです。
一度でいいからあなたに会って、直接お礼が言いたかったのです」
殺してくれてありがとう、と言われるのだろうか。
それはそれで少し気味が悪い。
でも、と少女は言った。
「言えませんでしたわ。濡れてらっしゃるあなたに傘を渡すのが精一杯で」
知っている。
その傘が、あの時の君が忘れられなかったのだと思い、レイニングディは小さく笑んだ。
「……俺に殺されるとは」
「思いませんでしたわ。いえ、殺されてもよかったのです」
きっぱりと、少女は言い切った。
「あなた以外の方に殺されるなんで嫌ですけれど、私を救ってくださったあなたが私を殺すつもりだというのならば、殺されても構いませんでしたの」
そんな覚悟は出来ていたのだ。
彼女は本当に、死など怖くはなかった。
むしろ怖かったのは、いつか彼が逮捕されてしまうのではないかということの方だった。
それだけはどうにも拭えない恐怖だった。
「でもあなたは私を殺しはしませんでしたわ。
それどころか、私をお側に置いてくれましたわ。
私、とても嬉しかったんですのよ」
嬉しかったのは彼の方だ。
幸福だったのは彼の方だ。
少女がいるだけで、レイニングディはいつも幸福だった。自分でも信じられないほどに。
彼女を殺すなど、レイニングディには決して有り得ないことだった。
「私、幸せでした。とても。本当に。
けれど、だからですわね。欲が出てしまいましたのよ」
少女は、両手で握っていたナイフを下ろした。
右手に握られたそれには、隙がない。
目を伏せ、少女はレイニングディから視線を逸らす。
「私、あなたが欲しくなってしまいましたの。
あなたを自分のものにしたくなりましたの」
と、少女は言った。
「……だったら、殺してあげたのに」
できるわけもないことだったけれど、レイニングディはそう言った。
いいえ、と少女は首を横に振る。
「あなたに殺されても、あなたは私のものにはなってくれません。
私が、沢山のあなたのものの中の一つになるだけですわ」
そして、少女は笑む。
「だから、私があなたを殺しませんと」
まるで天使のように。花のように。
あの日、初めて出会った雨の中のような、陽光の輝きで。
少女の瞳の温度が冷えた。
来る。殺されると思った。
けれど、レイニングディには一つだけ、確かめておかなくてはいけないことがあった。
「……これだけ、聞かせて、くれ」
苦しい呼吸の下で、辛うじて訊ねる。
「……何故、彼女を殺した?」
「え?」
きょとんとした顔で、少女はレイニングディを見返した。
「……彼女だ。西に住んでいる、綿農園の主人の奥さんだ」
少女の表情が凍てついた。
「どうして……」
「聞いているのは俺だが」
少女は言葉に詰まる。
仕方なく、レイニングディは続ける。
「……君はあの婦人をそのナイフで殺したな。喉を真一文字に切り裂いたろう」
少女は頷く。
「それを戸外に放り捨て、そ知らぬ顔をして、自宅に帰った……」
少女は黙する。
「……俺のせいにするつもりだったのか?」
「違う!」
少女は声を荒げて否定した。
「違います!それだけは、信じてください!」
レイニングディは言った。
「……そうだろうな。君は、金目のものを一通り持って行った。
物取りの犯行にしたかったのだろう?」
≪レイニングディ≫は金を奪わない。奪ったことがない。
だから少女は、レイニングディではないという状況証拠を作っておいたのだ。
「……残念なのは、俺がその日人を殺さなかったことだ」
少女は驚いた。婦人を殺したことをレイニングディに指摘されたことよりもずっと。
「な、何故ですの?!」
自分の犯行が何故か≪レイニングディ≫の仕業にされていたことの理由を聞かされて、少女は問う。
レイニングディがあの日誰かを殺していたならば、婦人の件はレイニングディとは別として考えられていたはずだ。
が、レイニングディはその日、
「……風邪をひいて、寝込んでいた」
ベッドからも出られないほどの熱を出して、人を殺しに行けるはずがない。
「まぁ、それはお見舞いにも行きませんで」
「いや、それはうつってはことだから構わないが。
……それで、何故君はあの婦人を殺したんだ?」
それだけが、レイニングディにはわからないことだったのだ。
少女はほんの少し躊躇って、それから口を開いた。
「あの女が……あなたを苛めるからですわ」
少女は、拗ねたようにレイニングディを見た。
「知ってますか?あの女はあなたと周りのお店を買い取って、そこに自分のブティックを作るつもりでしたのよ?」
それはレイニングディも知らなかった。
「……確かにあの店には愛着もあるけれど」
殺すほどでもない、と言いかけた時、少女はこう言った。
「それに、私、多分すごく嫌だったんだと思うんですの。
あんな綺麗な人が、あなたの前にいるなんてことが」
……あぁ。
と、レイニングディは呻いた。
わかったのだ。
何故自分が彼女に惹かれたのか。
他のどんな女性にも、心揺るがされたことなどなかったのに。
何故この少女だったのかが。
同類だ。
殺人者だ。
一切の抵抗もなく他者を殺害できるのが人殺しなら、
誰かの命を奪う前から、彼女は既に殺人者だった。
だから。
きっと。
なんて愛しいのだろうと思った。
これ程までに彼女を愛しているとは思わなかった。
この時初めてレイニングディは、自分が少女を心の底から愛していると知ったのだ。
と同時に、今この瞬間、初めて彼女を殺したいと思ってしまったことも。
殺したい。
殺したかった。
一度そう思ってしまったら、躊躇うことはしない。
少女も、彼のまとう雰囲気が変わったことに気付いただろう。
レイニングディは笑う。
血まみれのまま、心底嬉しそうに笑う。
それを見て、少女も笑う。
「怒ってますか?」
「いいや全く……むしろ嬉しい」
こんなに殺したい君と出会えて。
まだ慣れていないはずの構えにすら隙がない。
刃は薄明かりの下で雨粒を受けて輝く。
多分死ぬ。
殺される。
今ここで殺されても、誰もが≪レイニングディ≫の仕業だと思い込むのだろう。
頭が痛かった。
目が霞む。
血が足元から赤く流れてゆく。
そろそろ限界だ。
殺人鬼≪レイニングディ≫の最後の被害者がレイニングディ自身だとは、なんと陳腐な皮肉だろう。
そんなことを考えると、とても愉快な気分になった。
ふらつく体を必死で支えて、レイニングディは少女を見据えた。
ポケットから銀色の武器を取り出す。
握り締めたのは、裁ち鋏。
殺しのとき以外はいつも持っている、晴れの日の仕事道具。
「君にドレスを仕立てたかった……」
まぁ素敵、と少女は言った。
≪雨の日≫のナイフを持った少女が歩いてくる。
≪晴れの日≫の鋏を持ったレイニングディは立ち尽くす。
少女が地面を蹴り、腕を振り上げた。
レイニングディは沈み込むように、鋭い切っ先を少女に向けた。
そして、短い風切り音がして、
赤い血飛沫が雨の中に散った。
* *
おや。お客さん達、まだ起きてたんですか。今夜はちょっと寒いでしょうに。
何のお話をされてたんですか?
雨の日に出る人殺し……?それはまたタイムリーと言うか悪趣味と言うか。
わざわざこんな夜にねぇ。
正体?その人殺しの?いやですよ、結構ですって。
明日晴れたら教える?何だ、教える気なんかないじゃないですか。
晴れませんよ、明日は。この雨ですもの。
え?いえいえ、どうぞ朝まででも続けててください。私は先に寝ますから。
あぁ、でも気を付けてくださいね。そういう話は、――呼ぶって言いますし。
* *
結局男はそこまでしか話さなかった。
ちょっと顔を出した宿の主人が去った後も話は再開されず、殺人鬼と少女の行く末を気に掛けた一同で座は一時ブーイングの嵐になった。
けれど男は、
明日晴れたらちゃんと教えてやるさ、殺人鬼の正体も含めてな。
いやいや、下手なことは言えんのだよ。
何しろコイツは実在の殺人鬼の話だろ。
まぁ期待は裏切らないから、楽しみは後に取っとけよ。
と言い残すと、ウィスキーの瓶を片手にさっさと部屋へ引っ込んでしまった。
何だか皆も白けてしまって、そこでお開きということになり、各々部屋へと引き上げたのだが……。
次の日、朝になってみれば男はどこかへ行ってしまっていた。
空は、呆れるくらい綺麗な晴れた青だった。
* *
はい?どうかされましたか?
あぁ、昨日の。あの方でしたらもう発たれましたよ。
何でも南の方に急ぎの用だそうで。
えぇ。川越えですよ。
いや、私も止めたんですがね。どうしてもって……。
お客さんのほうは大丈夫ですよ。ちょっと道はぬかるんでますが。
え?あぁ、これは……さっき庭で転びまして。お恥ずかしい。
すぐに洗濯しないと家内がうるさいんですよ。ちょっと失礼。ああ、泥が気持ち悪い。
あ、この脇腹の傷ですか?昔川に流されたことがありましてね。
その時に流木で引っかいたやつです。
えぇ、川は怖いですよね。川は。 そういえば、昨日のお話の最後聞きました?
晴れたから出掛けに話してくれるっておっしゃったんですけど、私断っちゃいましてね。
じゃあ結局誰も聞かなかったんですね。勿体無いことしたかな?
あ、ちょっと待ってくださいね。
レエナ!レエナ!お客さんを見送って差し上げてくれ。
いってらっしゃいませお客さん。
ごめんなさいね、主人はそそっかしいせいでお見送りもせず。
え?あぁ、主人が喋りました?
そうですよ。川に流されて。
実は流されたのは私で、主人は私を助けるために飛び込んでくれたんですけどね。
私も傷があるんですよ。ここの首のところに。
本当に川は怖いですわね。
それじゃあ、お客さんもお気をつけて。
いってらっしゃいませ。
* *
私と皆はその宿を後にした。
本当にいい宿だった。ベッドは柔らかいし、食事も美味かった。
唯一つだけ気になって仕方がないのが、宿の名の由来だ。
その奇妙な名をここに記しておく。
≪猫の男爵亭≫。
今度訪れたときに訊ねるとしようと思う。
* *
日記のそのページには、二葉の新聞の切抜きが挟まっていた。
この日記の主が、見知らぬ男から事の顛末を告げられないまま旅を再開した後、何処からか古い新聞を漁ってきて手に入れたものだろう。
一枚目の記事には『殺人鬼、初の殺害“未遂”!洋裁店主人が少女を救う』と見出しがある。
雨の中、血を流して倒れていた少女と青年を、近所の住民が発見し病院に担ぎ込んだことが書かれていた。
もう一枚は、その一ヵ月後の日付。一枚目よりはずっと小さい記事で、けれど小さな写真が付いていた。
結婚式だ。
一枚目の記事に載った少女と青年が、婚礼を挙げている様が写っていた。
画素の荒い写真からは判別が付きにくいが、花嫁はブーケでなく子猫を抱えているようだった。
二人が病院のベッドの上で婚姻届にサインしたことが、記事に書かれていた。
「休戦協定だ」
「えぇ、休戦協定ですわ」
きっと二人はそんな言葉を交わしたに違いない。
花嫁は、ブーケの代わりに子猫を抱えて花婿の元へ向かい、花婿はそれを気恥ずかしげに待つ。
辿り着いた花嫁は、彼に言う。
「愛してますわ、貴方」
花婿は、照れ臭そうに、誇らしげに笑む。
そして、指輪が交換されて、彼らは永遠の休戦の誓いとして口付ける。
「俺も愛してるよ」
これでレイニングディの話はおしまい。
Bad End