ある作家の遺稿
僕の町には、作家がいた。
彼は、我が家の右隣に居を構えている、いわゆるお隣さんだった。
じゃあ親交があったのかというと、そんなことはない。そもそも、数えるほどしか姿を見たことがなかった。だから顔もうろ覚え、声に至っては全く思い出せない。
話しかけられた記憶も、こちらから話しかけた覚えもないから、僕たちの間には日常会話すらなかったのだろう。挨拶くらいは、したことがあっただろうか。
とにかく、彼は最後まで謎に包まれた人だったのだ。
その作家が亡くなったのは、僕が大学一年生の時だった。正月に帰省した時に家族から聞かされ、ただ「ふぅん」とだけ言ったような気がする。
彼のファンだったら、もっと別の反応をしていただろう。しかしながら、僕はファンでも何でもなかった。それどころか、彼の作品を読んだことがあるかどうかも、定かではない。
なぜなら、彼の作品について、何一つ情報を持ち得なかったから。
けれど、僕は再び彼と会うことになり――初めて彼を知ることになる。
「寄贈についてお伺いしたいのですが……」
僕がその電話を受けたのは、セミの鳴き声が聞こえるようになった、ある夏の日のことだった。
「担当の者と代わりますので、少しお待ちください」
保留ボタンを押し、職員を呼びに行く。寄贈の件でお電話です、と伝えると、彼は運びかけの段ボールを投げ出して、事務室へ飛んでいった。
職員の放り投げた段ボールを端に寄せて、僕も後を追う。どうやら仕事が増えそうだ。
「あおぞら文学館」――それが、僕の現在の職場だ。
とりあえず地元の大学に入学した僕は、無為に大学四年間を過ごし、あっという間に卒業の時期となっていた。地元の大学だから、何とかなるだろう――そんな楽観的な気持ちで就活に臨んだ結果は、言うまでもない。
一年間のフリーター生活を経て、運良く地元の文学館の嘱託職員に採用されたのは、四月のことである。
契約期間は一年間。来年はどうなるか分からない不安定な道だが、今は目の前のことをやるしかなかった。
狭い部屋に、次々と段ボールが運び込まれていく。
あれから、寄贈の話はトントン拍子に進んでいったようで、一月後には大方の寄贈が完了した。
運び込まれた段ボールの数を数えながら、僕は任された仕事――寄贈品の確認作業を兼ねた目録作りに取り掛かることにした。
頑丈に留められたガムテープを剥がし、勢い良く開封する。どんな代物が出てくるのかと思っていたが、収められていたのは市販の書籍だった。
しかも、それらはぎっしりと、隙間なく詰め込まれている。道理で重いはずだ。
二人がかりでここまで運んできたことを思い出し、僕は溜息を吐いた。一応、事前に「一つの箱に重い本が集中しないようにしてくださいね」とお願いしていたはずなのだが。
結局、僕が「それらしきもの」に当たったのは、四箱目だった。
茶封筒に入れられた薄っぺらい原稿用紙を取り出した瞬間、言い様の無い高揚感が全身を駆けた。
これだ。これが、そうなんだ。
はやる気持ちを抑え、ゆっくりと原稿用紙を留めるクリップを掴む。
クリップは錆び付いていた。長年放置されてきたのだ。元のままという方が可笑しい。
それを丁寧に外し、ふっと息を吹きかけると、赤銅色の粉塵が舞った。手で叩いては、錆びが擦れて他の箇所につく恐れがあるからだ。
手についた錆びをティッシュで落とすと、僕は再び原稿用紙を手に取った。
原稿には、万年筆で書かれた文字が踊っていた。かつては真っ黒であっただろうインクは、時間の経過とともに、薄い藍色に変色している。青ペンに近い色だ。
僕は、その文字を追っていく。
物語は、唐突に始まる。
しかし、僕にはそれが冒頭だと分かった。この作品を読んだことがなくても――いや、これが本当に世に出ていたかどうか分からないが、それでも、確かに物語の冒頭たり得るものであったからだ。
ああこれが作家の書く物語なのだ、と感じることがあるとしたら、今まさにそうなのではないかと思う。
それほどの、衝撃。
そして物語は、唐突に終わる。わずか、一枚の原稿用紙の内に。
次を捲る。
また、同じシーンを描いたものだった。
しかしこれも、唐突に終わりを迎えた。やはり一枚の内に。
ここに文芸評論家でもいれば、きっとその理由を考察するのだろう。筆者は何故、これらをボツにしたのだろうか、と。
もちろん、僕には分からない。一枚目の原稿と二枚目の原稿の違いも、それらの何が「いけなかった」のかも。
ただ、おぼろげに理解できたのは、彼はこれらに満足していないということだけだった。
その日は、とても一日では確認しきれない点数の、およそ十分の一が片付いた。途中で彼の原稿を読み耽っていたわりには、はかどった方だろう。
職場からの帰り道、僕は実家に電話をかけた。原稿を読みながら、ずっと考えていたことを実行するために。
実家にある元僕の部屋には、二つの段ボールが置いてある。入っているのは、主に学生時代に使用していて、現在は使わなくなったもの。全て、下宿先に持っていく必要のなかったものだ。
その中に、使い込まれた大学ノートが入っていた。表紙はシミあり、ヤブレありのボロボロ状態だったが、幸い中身の方は解読可能だった。
――いや、正確には可能じゃない。
そいつを一頁捲ったところで、僕は解読を放棄した。無理だ、と思ったからだ。
会話のみで進行していくストーリー。
驚くほど貧困な語彙力。
安易な擬音語の多用。
頭痛がしてくるようなブツだ。出来れば、あまり直視したくないものかもしれない。
けれど、分かる。そして、今も鮮明に思い出すことができる。
楽しかったんだなあ、と。自分の想像を文字にすることが、楽しくて仕方なかったんだなあ、と。
それは、難しいことなど考えず、ただただ書き殴っていた頃の記憶だった。
ふと、僕は考えた。
いつから小説を書かなくなってしまったのだろうか。
何故書けなくなってしまったのだろうか。
忙しくなったから? 興味が薄れたから?
どちらも一因ではあるだろうし、きっと他にも要因はあるだろう。けれど、「二度と書いてやるものか」というような明確な嫌悪はなかったし、このノートを使わなくなった時期もはっきりとは思い出せなかった。
つまるところ、きっかけなんてものは、なかったのだと思う。
僕は大学ノートをぱらぱらと捲った。
仕事をしながら、あの作家の、殴り書きのような原稿が、目に焼き付いて離れなかった。書かなければ。早く、そしてもっと書かなければ――そんな声が聞こえてきそうな原稿。作者の声を、これほどまでに感じさせるモノに出会ったのは、おそらく初めてだっただろう。
自分にも、彼と同じ思いがあったのだとしたら――。
ひとしきり文字を追っていった後、僕はノートを持って立ち上がった。
ちょっとしたきっかけに過ぎないし、安易な理由かもしれない。それでも、この湧き上がってくる気持ちを否定することはできなかった。
もう一度、書いてみよう。
ただ、それだけを考えて。




