表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ある作家の遺稿

作者: はんぺん


 僕の町には、作家がいた。


 彼は、我が家の右隣に居を構えている、いわゆるお隣さんだった。

 じゃあ親交があったのかというと、そんなことはない。そもそも、数えるほどしか姿を見たことがなかった。だから顔もうろ覚え、声に至っては全く思い出せない。

 話しかけられた記憶も、こちらから話しかけた覚えもないから、僕たちの間には日常会話すらなかったのだろう。挨拶くらいは、したことがあっただろうか。

 とにかく、彼は最後まで謎に包まれた人だったのだ。

 その作家が亡くなったのは、僕が大学一年生の時だった。正月に帰省した時に家族から聞かされ、ただ「ふぅん」とだけ言ったような気がする。

 彼のファンだったら、もっと別の反応をしていただろう。しかしながら、僕はファンでも何でもなかった。それどころか、彼の作品を読んだことがあるかどうかも、定かではない。

 なぜなら、彼の作品について、何一つ情報を持ち得なかったから。

 けれど、僕は再び彼と会うことになり――初めて彼を知ることになる。





「寄贈についてお伺いしたいのですが……」

 僕がその電話を受けたのは、セミの鳴き声が聞こえるようになった、ある夏の日のことだった。

「担当の者と代わりますので、少しお待ちください」

 保留ボタンを押し、職員を呼びに行く。寄贈の件でお電話です、と伝えると、彼は運びかけの段ボールを投げ出して、事務室へ飛んでいった。

 職員の放り投げた段ボールを端に寄せて、僕も後を追う。どうやら仕事が増えそうだ。


「あおぞら文学館」――それが、僕の現在の職場だ。

 とりあえず地元の大学に入学した僕は、無為に大学四年間を過ごし、あっという間に卒業の時期となっていた。地元の大学だから、何とかなるだろう――そんな楽観的な気持ちで就活に臨んだ結果は、言うまでもない。

 一年間のフリーター生活を経て、運良く地元の文学館の嘱託職員に採用されたのは、四月のことである。

 契約期間は一年間。来年はどうなるか分からない不安定な道だが、今は目の前のことをやるしかなかった。


 狭い部屋に、次々と段ボールが運び込まれていく。

あれから、寄贈の話はトントン拍子に進んでいったようで、一月後には大方の寄贈が完了した。

 運び込まれた段ボールの数を数えながら、僕は任された仕事――寄贈品の確認作業を兼ねた目録作りに取り掛かることにした。

頑丈に留められたガムテープを剥がし、勢い良く開封する。どんな代物が出てくるのかと思っていたが、収められていたのは市販の書籍だった。

 しかも、それらはぎっしりと、隙間なく詰め込まれている。道理で重いはずだ。

 二人がかりでここまで運んできたことを思い出し、僕は溜息を吐いた。一応、事前に「一つの箱に重い本が集中しないようにしてくださいね」とお願いしていたはずなのだが。

 結局、僕が「それらしきもの」に当たったのは、四箱目だった。

 茶封筒に入れられた薄っぺらい原稿用紙を取り出した瞬間、言い様の無い高揚感が全身を駆けた。

 これだ。これが、そうなんだ。

 はやる気持ちを抑え、ゆっくりと原稿用紙を留めるクリップを掴む。

 クリップは錆び付いていた。長年放置されてきたのだ。元のままという方が可笑しい。

 それを丁寧に外し、ふっと息を吹きかけると、赤銅色の粉塵が舞った。手で叩いては、錆びが擦れて他の箇所につく恐れがあるからだ。

 手についた錆びをティッシュで落とすと、僕は再び原稿用紙を手に取った。

 原稿には、万年筆で書かれた文字が踊っていた。かつては真っ黒であっただろうインクは、時間の経過とともに、薄い藍色に変色している。青ペンに近い色だ。

 僕は、その文字を追っていく。


 物語は、唐突に始まる。

 しかし、僕にはそれが冒頭だと分かった。この作品を読んだことがなくても――いや、これが本当に世に出ていたかどうか分からないが、それでも、確かに物語の冒頭たり得るものであったからだ。

 ああこれが作家の書く物語なのだ、と感じることがあるとしたら、今まさにそうなのではないかと思う。

 それほどの、衝撃。

 そして物語は、唐突に終わる。わずか、一枚の原稿用紙の内に。


 次を捲る。

 また、同じシーンを描いたものだった。

 しかしこれも、唐突に終わりを迎えた。やはり一枚の内に。


 ここに文芸評論家でもいれば、きっとその理由を考察するのだろう。筆者は何故、これらをボツにしたのだろうか、と。

 もちろん、僕には分からない。一枚目の原稿と二枚目の原稿の違いも、それらの何が「いけなかった」のかも。

 ただ、おぼろげに理解できたのは、彼はこれらに満足していないということだけだった。


 その日は、とても一日では確認しきれない点数の、およそ十分の一が片付いた。途中で彼の原稿を読み耽っていたわりには、はかどった方だろう。

 職場からの帰り道、僕は実家に電話をかけた。原稿を読みながら、ずっと考えていたことを実行するために。





 実家にある元僕の部屋には、二つの段ボールが置いてある。入っているのは、主に学生時代に使用していて、現在は使わなくなったもの。全て、下宿先に持っていく必要のなかったものだ。

 その中に、使い込まれた大学ノートが入っていた。表紙はシミあり、ヤブレありのボロボロ状態だったが、幸い中身の方は解読可能だった。

 ――いや、正確には可能じゃない。

 そいつを一頁捲ったところで、僕は解読を放棄した。無理だ、と思ったからだ。


 会話のみで進行していくストーリー。

 驚くほど貧困な語彙力。

 安易な擬音語の多用。


 頭痛がしてくるようなブツだ。出来れば、あまり直視したくないものかもしれない。

 けれど、分かる。そして、今も鮮明に思い出すことができる。

 楽しかったんだなあ、と。自分の想像を文字にすることが、楽しくて仕方なかったんだなあ、と。

 それは、難しいことなど考えず、ただただ書き殴っていた頃の記憶だった。

 ふと、僕は考えた。

 いつから小説を書かなくなってしまったのだろうか。

 何故書けなくなってしまったのだろうか。

 忙しくなったから? 興味が薄れたから?

 どちらも一因ではあるだろうし、きっと他にも要因はあるだろう。けれど、「二度と書いてやるものか」というような明確な嫌悪はなかったし、このノートを使わなくなった時期もはっきりとは思い出せなかった。

 つまるところ、きっかけなんてものは、なかったのだと思う。

 僕は大学ノートをぱらぱらと捲った。

 仕事をしながら、あの作家の、殴り書きのような原稿が、目に焼き付いて離れなかった。書かなければ。早く、そしてもっと書かなければ――そんな声が聞こえてきそうな原稿。作者の声を、これほどまでに感じさせるモノに出会ったのは、おそらく初めてだっただろう。

 自分にも、彼と同じ思いがあったのだとしたら――。

 ひとしきり文字を追っていった後、僕はノートを持って立ち上がった。

 ちょっとしたきっかけに過ぎないし、安易な理由かもしれない。それでも、この湧き上がってくる気持ちを否定することはできなかった。


 もう一度、書いてみよう。


 ただ、それだけを考えて。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 「物語を書く」という点において、非常に重要な部分を書かれていると思います。どうしても周りの評価や完成度などを意識したり、忙しかったり、その他諸々で執筆をしなくなりますが、それで良いのだと思…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ