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閻魔堂シリーズ

初霜の降る

作者: 皇 凪差

 初霜の降りた寒い朝である。

 えんは幾分離れたところから、そのおんなを見ていた。晩秋の冷たい風が、辻を吹き抜けていく。

 霜の解け残った泥濘に荒莚一枚敷いたきりで、おんなは晒されていた。冷えた指先が赤く染まっている。

晒し場には人だかりができており、沢山の無遠慮な目が、おんなに向けられている。

――心中者。

――生き残り。

 囁き交わされる、野次馬達の遠慮の無い言葉。

 えんは晒し場の正面に立てられた捨て札に目を遣る。残酷なほどに墨痕も黒々と記された相対死の文字。

 しかし、捨て札などなくとも、おんなの晒されている理由は一目瞭然である。おんなの傍らには、無残にもはだかに剥かれた、男の死体が横たえられていた。

 集まった野次馬が、恐る恐るその下帯ひとつ無い死骸を眺めている。見たところ、そこに横たわっているのは、心中話の主役を張るに相応しい色男とは程遠い。入水したものか、がっしりした身体に傷はない。日に焼けた顔。泥が染み入ったような荒れた手足は、おとこが町衆で無いことを如実に示している。おそらくは近在の百姓でもあっただろうそのおとこは、死体となっていることを差し引いても、けして良い御面相とはいえなかった。

 おんなの方に目をやると、一目で素人ではないと分かるそのおんなは、凛と顔を上げて、端正に粗莚の上に据わっていた。涼やかな目。化粧けの無い白い肌が、晩秋の冷たい風に吹かれて赤く染まっている。衆人の好奇の目も、囁き交わされる蔑みの言葉も、届かぬかのように、臆することなく端座するおんな。取り乱したり、呆けたりするふうは無い。えんは、そんなおんなの様子から、剣呑なものを感じ取る。おそらくおんなには、この先を生きる気が毛頭ないのだろう。先の不安、残された悲哀、危うく垣間見た死への恐怖――生きる気なら取り乱す種はいくらでもある。

 増えてきた野次馬の間をそっと潜って、えんはその場を離れる。いずれおんなと、閻魔堂で会うことになりそうな、いやな予感がした。



 暮れかけた道を、えんは閻魔堂へ向かって歩いていた。足元を照らすには、あまりに細い月が、薄く中空にかかっている。すでに虫の音もまばらな細道は、時折り冷たい風が吹き抜け、冬の近いことを思わせた。

 夕刻、三日の晒しが終わり、葬ることを許されないおとこの死骸が取り片付けられ、おんなは非人手下として長吏に下げ渡された。非人に落ちるおんなの顔が、やはりあの時と同じく凛としていたことに不安を覚え、えんは今道を急いでいる。

 わずかに青みを残す空。覚束ない月明かりの中で、閻魔堂は黒く凝っていた。えんは足を速めて閻魔堂の前に立ち、とびらの隙間からそっと堂内をのぞく。

 暗い堂内。隙間から洩れるわずかな月明かりに、鮮やかなはずの木像が灰色に沈んでいる。閻魔王、具生神、獄卒鬼、業の秤に浄玻璃の鏡――。その前にうずくまる人影に目を留めて、えんはとびらを開けた。


 月明かりがほのかに堂内を照らす。

 どこかで名残の虫が一匹寂しげな音を響かせている。

「おやめよ。」

 おんなの手の中に光る匕首を見て、えんはそう云った。驚いた風も無く、おんなは顔を上げてえんを見る。

「なぜだい。」

 おんなは静かに云う。

「その筈だったんだ。構わないだろう。」

その顔には、清々しささえ浮かんでいる。えんは眉根を寄せておんなを睨む。

「どうせ、本気じゃなかったんだろう。それとも、非人に落ちるより死んだほうがましかい?」

 えんの言葉に女が嗤う。

「そんなんじゃないさ。あんたみたいな小娘にゃ分かりゃしないよ。」

黙っといで、と女は云った。涼やかな瞳が揶揄うように細められ、えんを流し見る。

 えんはただ黙ってその視線を受け止める。

静かな堂内に、虫の音が寂しげに響く。

――本気だったさ。

 不意にぽつりとつぶやいて、おんなは視線を落とす。

「飯盛り女郎が、野暮天の在郷者と心中立てはおかしいかい?」

 顔を上げ、怒ったように言って、おんなは顔を背ける。

「おかしいね。」

 言うと、きつい目がえんを睨みつけた。

「なにがおかしい? そんなことだってあるのさ。相手が田舎者だろうが、野暮天だろうが心底惚れるって事がね、女にゃあるのさ。」

「そんなきれいごとかい?」

 おんなが渾身の力を込め、えんを睨みつける。

 えんは、静かにおんなを見返す。

「――死にたがってたんだ。」

 おんなは吐き出すように云った。

「死にたがってたんだよ、あいつは。」

 在郷の百姓。

 わずかばかりの泥田にしがみつくような暮らし。

 日々泥の中を這い回るようにして働いても、日照りが続けば枯れ、長雨が続けば腐り、嵐が来れば流され、ようよう手にしたものさえも己の手にはほとんど残らないぎりぎりの生活。生きていると言えるのかどうかも判然としない毎日――

「死にに来たのさ、妾のとこに。」

 ばかだねえ。おんなはつぶやく。

 ほかに遊びも知らなかったのだろう。

 場末の飯盛りの、それでもいくらか名の知れたその女を、おとこは最後の喜びにしようとしたのだ。何ひとつ楽しみとてなかった人生の、その終わりに。



 おとこは、おどおどと遠慮がちに座った。全身から泥臭さが臭い立つような、そんなありさまだった。飯盛り宿へ上がり、女を呼ぶのもようようのことだっただろうと思われた。

――どうするんだい。

 煮え切らない様子におんなは言った。その気が無いとか、金が無いとかなら、他へ行って稼がなくてはならない。身体はそれほど暇ではなかった。

――汚いから。そうおとこは云った。いやだろう。とそう言っておとこは身を縮めた。

――そこにいてくれればいい。それもいやなら、布団だけ借りて寝る。それだけでも、死ぬときに、ああ女郎屋で寝たと、そう思って死ねるからと、身を縮め縮め言って、おとこは俯いた。

――ばかだねえ。おんなはそういって笑った。女郎に遠慮したってしょうがないだろう。江戸吉原の太夫じゃあるまいし、どうせこっちも田舎の飯盛り宿の場末女郎じゃないか――。

 そうして、おんなはおとこと寝た。

 泥と、汗と、野良の匂いがするそのおとこは、真剣な顔でおんなを抱いた。


――本気で死ぬ気かい?

 軽く汗ばんだ身体を、ぼんやりと横たえながら、おんなはそう云った。

 はじめは冗談だと思った。冥途の土産にするぐらいのつもりで、女を抱きにきたのだと、おとこの言葉をそう解釈していたのだ。しかし、おとこは本当に死ぬつもりであるらしかった。

――みんな、売っちまったから。おとこはさばさばとした顔でそう言った。わずかな金は、ほんとうにおんなの花代に消えたらしかった。

 ふいに、おんなはおとこが、たまらなく愛おしくなった。すべてを投げ出して、人生の最後、本当に最期の楽しみに自分を抱いたおとこが、愛おしくて愛おしくてたまらなかった。

――連れてっとくれよ。そう云うと、おとこは困惑して、首を横に振った。

――いいじゃないか。おんなは笑った。ひとりで逝くより楽しそうだからさ。

 そう云ってはじめて、おんなは自分が死にたかったことに気が付いた。おとこを野暮と笑うまでも無い。泥臭いと蔑むまでも無い。女郎の暮らしなど、それ以下ではないか――


 早朝、冷たく澄んだ空気が辺りを満たしている。まだ夜の明けぬうちに、おんなはおとこを送るふりをして宿を出た。東の空がうっすらと青みを帯びている。頭上にはまだ星が瞬いていた。

 行くあてもなく、ただ人目を避けて川端へ下りた。岩陰に隠れるように寄り添う。なぜだか涙が零れた。涙の意味を勘違いしたおとこが、気遣わしげにおんなを見て何か言おうとするのをとどめて、おんなはできるだけ軽く言う。

――さて、はじめるかい? と。

 おとこは諦めたように懐を探り、匕首を取り出す。

――お待ちよ。取り出した匕首を自分に向けるおとこを、おんなは嗤う。

――妾を殺してから逝っとくれ。

 心中すれば、生き残ったとしても男は死罪女は非人手下。だから男は、女が死んだのを確かめてから、死ぬ。おとこは失敗してもお上が殺してくれるが、おんなが生き残ったら心中の甲斐が無い――。

 震えながらおんなに匕首を向けて、おとこは泣いた。泣いて、泣いて、泣きながら女に云った――あんたは死んじゃいけねえ、と。

 東の空が、明るんでいる。

 おんなは、ついと立ち上がり、ふた足三足川縁に歩み寄った。おとこがはっとしたように顔を上げる。一瞬の後、おとこの制止を振り切って、おんなは川へ向かって駆け出した。

 やめてくれ。叫ぶおとこに、おんなは言い捨てて、川へと飛び込む。

――あ、た、し、が、死にたいんだ、と。

 冷たい水がおんなを包む。重くなった着物が手足にまとわりつく。吸い込む水にむせ、おんなは自嘲気味に思う。心中なんか、ちっとも粋じゃない――

 流れに巻かれ、気が遠くなる。気を失う瞬間、おんなは遠くで水音を聞いた。

 


「野暮な話だろう?」

 そう云って、おんなは手の中の匕首に目を落とす。

「この匕首は、あいつが用意してたのさ。だけど、いざとなったら意気地のないもんで、女郎一人殺せやしない。」

 おんなが嘲う。きっと、おとこは己ならば殺せたのだろうと、えんは思う。

「死んじゃいけないったって、いまさらどうしろって云うのさ。心中しに行って、独りで身投げするとは思わなかったよ。」

 おんなは、そう言って顔を顰める。

「だけどねえ、初めてだったよ。あんたは死んじゃいけねえなんぞと言われたのは。死んじまえとは何度も云われたけどねえ。だから、なんだか、その気になっちまった。生きてみたい、なんてね。こんなおとこと一緒に、生きてみたいなんぞと、思っちまった。だから、飛び込んだのさ――」

 きれいごとで済む内に。生きることは、きれいごとではなかったから。

「あいつだって、生きちゃいられないのさ。」

 田畑を捨てた在郷者が、なんのあてもなく生きていけるほど、世間は甘くはない。死ぬ気だからこそ、おとこは何もかも捨ててきたのだ。

「そう云うわけさ。分かっただろう。」

 おんなはそう云った。

「生きるつもりかも、しれなかったじゃないか――」

 えんが、絞り出すように言った。

「死にに、飛び込んだわけじゃ、ないかもしれないだろう? あんたを助けて、二人で生きるつもりだったかもしれないじゃないか――」

 おんなは嘲るように笑う。

「云ったじゃないか。生きられやしないんだよ。田んぼのない百姓になにができる? 妾だって、男と寝る意外にできることなんざないんだよ。」

――だから、小娘だって言うんだよ。

 おんなの手が、ついと上がる。

首にかかった髪をうるさそうに掻き揚げると見えた瞬間、血がしぶいた――

「なにするんだよ!」

 えんが叫ぶ。

 噴出す血が、弧を描き、おんなは仰向けに倒れた。

「…さっきから云ってるだろう…心中の…しなおしさ…。」

 苦しげにつぶやく間にも、おんなの命が流れ出してゆくのを、えんはどうする事もできなかった。


 ぼんやりと、あたりが明るくなる。

 淡い橙色の炎が、ろうそくに揺れていた。

ざわり、と辺りがざわめく――

「お待ち!」

 えんは思わず叫んで、おんなの腕を強く掴んだ。おんながぼんやりと目を開ける。

「行くんじゃないよ。死んだって、なんにも、いいことなんかありゃしないんだから――」

 えんの言葉を遮るように、おんなは小さくつぶやく。

――あたりまえだろ、だから、行くんじゃないか。

 にやりと唇の端を上げて、おんなは目を閉じる。その身体から、力が抜けていった。


「えん。」

 ぐったりとした身体を支えながら、おんなを呼ぶえんの背に、耳慣れた声が響く。

 えんは、顔を上げた。

 閻魔王。

 具生神。

 獄卒達――

 おぼろげな月明かりが、灰色に浮き上がらせていた堂内は、いつのまにか煌々と点されたろうそくの光に照らし出され、埃を被ってくすんだ像は、生き生きとした生気を持って、動かなくなったおんなの白い顔と、それを抱くえんを見下ろしていた。

「――いくら呼んだとて無駄なこと。もはや命数は尽きております。」

 具生神が、手にした鉄札に目を落とす。

 揺らぐ光の中にぼんやりと黒い影が凝り、それはたちまち形を成して、女の姿となる。生気を帯びてゆく影に反して、えんの手の中でおんなの身体は、みるみる冷たくなっていく。

 ごとり――

 えんの手から、おんなの身体が滑り落ちた。それは、すでにただの抜け殻になっている。えんはきっと顔を上げ、今はおんなに取って代わった影を睨んだ。

「なんてことを、するのさ!」

 おんなはじっと、えんの足元に転がる己の骸を見下ろしていた。その表情には、わずかに笑みさえ浮かんでいる。

「何が可笑しいんだい? あんたは――」

 待て――そう言ってえんの言葉を遮ったのは、閻魔王だった。

「待て、えん。そのおんなは、自分のしたことを十分に分かっている――だからこそ、罪深い。」

 おんなが、哀しげな笑みを浮かべて閻魔王の前に額づく。具生神が鉄札から目を上げる。

「さて、おんな。己の命を己で断つは重罪。まして吾が面前で命を絶つからには、相応の覚悟があっての事であろうな。」

 ――はい。

 そう言っておんなは、真っ直ぐに閻魔王を見上げた。

 閻魔王は、具生神の方へ目を向ける。

 具生神が畏まって口を開く。 

「恐れながら申し上げます。この者の罪はと言えば数多ありますれど、己の罪を知る者に、一々言って聞かすも無用の事かと。この上は、疾く地獄へと追い堕としていただくが慈悲と心得ます。」

 閻魔王がうむと肯く。

 おんなは黙って、膝先に軽くついた指先あたりを見つめている。

「よいか、おんな。」

 浄玻璃の鏡が、滑らかな面に凄惨な地獄の様を映し出す。先に行ったおとこが映し出されているかも知れないその鏡面に、しかしおんなは目を向けようとはしなかった。

「ひとり、地獄へ堕ちゆく覚悟ができているというのだな。」

 閻魔王の問いに、おんなは顔を上げる。

 その顔には、清々しい笑みが浮かんでいる。

「会えるとは、思っちゃいませんよ。むしろ、会えない方がいい――」

「――なぜだい」

 くやしげに唇をかみながら、えんは問う。

 赤青の獄卒鬼に両脇を取られて立ち上がりながら、おんなは、楽しげに笑った。

「あんたは――だから小娘だっていうのさ。」

 そう言って、おんなはえんに背を向けたまま歩き出す。

――会えばまた……

 最後にぽつりと、そうつぶやく声がえんの耳に届き、おんなの姿は見えなくなった。


 おんなの後姿を見送って、えんは足元へ目を向ける。そこには抜け殻の骸が転がっていた。

「会わなきゃ、良かったっていうのかい。」

 おんなは既にそこには居ない。分かっていたが、えんは足元へ向かって怒鳴る。

「会えば、なんだって云うのさ。幾らでも会えばいいじゃないか、地獄でぐらい――幾らでも会って、互いに恨み言でも悔み言でも言ってやりゃあいいじゃないか!」

「会えは、しますまい。」

 具生神がぽつりと呟く。

「なぜさ――」

 悔しげに叫ぶえんに、具生神が言う。

「彼等は知ってしまったのでございましょう。」

「なにをさ。」

「己の過ちを、でございます。」

 ――どこからが、過ちだったのか。えんは問わず、また、閻魔王も具生神も語らなかった。

 浄玻璃の鏡に目を向けると、邪淫の罪に落ち、迫り来る二つの山の間で、重なり合って挟みつぶされる男女の罪人たちの無残な様が、いまだその鏡面に映し出されていた。



 やり切れない思いで、えんは堂の扉を開け、そっと外へ出た。いずれ女の死体は非人達によって片付けられるだろう。しんと澄み渡る空気の中、冴えわたるような細い月は、すでに西の空に掛かり、虫の音も絶えている。

西の空を見ていると、ふいに、――しかたがないねえ、と、おんなが笑う声がした。

 振り返ると堂内はすでに闇に沈み、細い細い月明かりがひとすじ、唇に笑みを浮かべたままの白いおんなの顔を照らしていた――



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