エスペランサ
全て奪ってしまったら
どうなるだろうか
その視線も、その体温も、その指先も、その声も、
なにもかも
奪ってしまいたい、と
そう告げることさえ、罪になるのだろうか
そこに、希望はあるのだろうか
エスペランサ
相談相手にされることは決して良いことばかりではない。
確かに、悪いことばかりでもないのだろうが、少なくとも喜ばしいことは何一つない、と。
目の前でのんきに彼女とのデートの愚痴をこぼしながら、三杯目のビールを追加注文する同僚の羽柴に、俺は何度となく抱いた感情を込めて溜め息を零した。
「なに、その、それ」
いきなり険のある声で呼びかけられて俺は顔を上げた。
「え?」
「それ、溜め息」
ほろ酔いで若干目が座りかけている羽柴は、ぐいと間近に迫って顎をしゃくる。
ごくごくと喉を鳴らしてビールを煽る姿に俺は眼を反らして苦笑した。
「いや、お前、どんだけ絡み酒」
「んだよ、付き合いわりいな」
「違くね?俺じゃなくね?」
お前が絡むから面倒くさいんだろ、と。
笑顔で取り繕うが、実際は絡まれてどうにかなりそうな心臓を持て余しているからに他ならない。そんなに無警戒に絡まれたら、この浅ましい感情がバレてしまいそうで気が気でなかった。
いっそのこと、本当のことを言ってしまえば楽になれるのに、だなんて、出来もしないことを考えて、俺は里芋の煮つけを頬張った。
「あーっ!」
刹那、間近で響く大音量。思わず、俺は顔をしかめて箸を置いた。
「んだよ、うっせえな!」
「最後の食ったな!俺が食おうと思ってたのに」
「アラサー男の台詞じゃねえな、自覚しろ」
だが、羽柴はブスくれた顔でメニューを捲り、大きな声で店員を呼び付けるや再び同じ品を注文した。そして、俺が最後の一つを食べて空になった器に箸を指し、何もない空間をぐるぐると弄ぶ。
里芋ごときでここまで拗ねるとは思わなかった。
「なに、そんなに好きだっけ?里芋」
「好き」
どきり、と。
なんの他意もない相手の言葉に、一瞬だけ心臓が跳ねる。
「へ、へえ、そう」
「まあでもいい!お前だし!許す!」
「なに、それ」
正面に座る羽柴は、少し癖のある柔らかな黒髪をざっと撫であげて楽しそうに笑った。
酔って、僅かに上気した頬が無邪気で愛おしい。
「だってお前だし、何年チーム組んでんだよ」
屈託のない笑みに、息が詰まる。
ああ、ほしい。
その笑顔が、瞳が、唇が、心が。
改めて息がとまるような己の感情を自覚した途端、わなわなと唇が震え、乾いた笑いが漏れた。
泣き笑いのような声と、打ち震える肩。
恰好悪い、という自覚はあったが、もう止まらなかった。
「お、おい、尾坂?」
「わり、なんでもねえ」
「は?だってお前、泣いてんぞ」
ぼろり、と零れ落ちた涙の粒に、驚いているのは羽柴も俺も同じだった。
不毛な恋だと笑いたければ笑え。
そんなこと自覚していないわけがないだろう、と。
誰にともなく心中で嘲笑って、俺は俯いたまま零れ落ちる涙の滴を眺めた。
「ちょ、なに、尾坂、マジどうした」
「泣き上戸なんだよ」
「今の会話に泣くシーン一個もねえだろうが!」
だって、こんなに、好きなんだ。
息がとまるほど、好きで好きで、しょうがない。
いっそ触れるのが恐ろしくなるくらい好きなんだ。
お前が楽しそうに彼女の話をするたび醜い嫉妬心が込み上げて、はらわたが煮えくりかえりそうになるほど。
俺は、お前のことが好きなのだ。
羽柴は、無言で泣き腫らす俺のことをおろおろと見つめている。
そんな戸惑いを浮かべた表情ですら愛しくて笑ってしまう。
阿呆か。
彼女よりも、俺の方がお前を好きなのに、なんて。
そんなことを考えてしまう、俺はきっともう。
頭がイカれている。
** ** **
同期で入社した俺たちは別々の部署に配属され、入社二年目までは全く関わりのない状態のまま過ごした。
たまに顔を合わせるにしても、半年に一度の同期会の飲みの席くらいで、しかも同じ部署で固まってしまうせいか、お互いに相手を認識することがほとんどなかった。
ただ、噂にだけは聞こえてきていた。
営業課でトップの売り上げ成績を誇る羽柴の名前と、企画課でプレーンと言われた俺。
互いにトップを走っていた俺たちが顔を合わせたのは今現在の所属部署である新規事業『海外事業部みらいプロジェクトチーム』に配属されてからだった。
複数の国内事業の各部署から精鋭を集めたチームで、俺たちは互いの仕事に対する価値観に触れて、互いの才能に絶対の信頼を置くようになった。
そうして信頼を抱くようになってから友人として仲良くなるのも本当にあっと言う間で、すぐに打ち解けた俺たちは今ではこうして毎週末に飲みに行くような間柄になっていた。
もとより、性に対してはバイセクシャルに近い価値観を持っていた俺は、いつもの酒の席で羽柴が放った一言で火が付いてしまった。
『あー、なんでお前、女じゃないかな。したら絶対付き合ってたよ、まじで』
なんの気ない羽柴のその一言に、俺は一瞬で心を奪われた。
そこで冗談でもいいから『俺も』と返せなかった自分の意気地のなさが口惜しい。
だが、羽柴はそんな小悪魔のような言葉で俺を誑かしておきながら、自分は経理に配属された若い新入社員の女の子とあっさり付き合い始めてしまったからタチが悪い。
取り残された俺は、もうどこにもいけなくなっていた。
今更、性嗜好を女に切り替えようにも、羽柴が頭をちらついて離れない。
鉛のような、先の希望など一切見えない消化不良の気持ちを胸の奥に抑え込んできた俺はもう限界だった。
彼女とのデートに失敗してしまった件など、俺にとってはどうでもいい。
** ** **
「里芋の煮つけお待たせ、し、ま、したー……」
酷く気まずそうな声で告げた若い男性アルバイトは、さっと目を反らして里芋の煮つけを手早くテーブルの上に並べた。
ちらり、と一瞬だけこちらに視線を寄越して、無言のまま足早に立ち去っていく背中を見送る。
何も言わないで泣き腫らす男と。
その男の正面で気まずそうにする男。
悪いものを見せてしまったな、なんて思いながら俺は鼻をすすった。
「わるい、羽柴。なんか調子悪くてさ」
はは、と何でもないように笑ったつもりだったが、羽柴は憮然とした表情のままだった。
その目がじとりと掬いあげるように俺を見つめる。
「嘘だ」
「嘘だ、って言われても、なぁ」
「尾坂、変だぞ、お前」
「だから、調子悪いって」
「そうじゃなくて!」
だん、とテーブルを叩いた拳の強さにぎょっとする。
周囲から向けられる視線から隠れるように、俺は背中を丸めた。
「おい、羽柴、落ちつけよ、ちょっと泣いたくらいで」
「ちょっと泣いたくらい?お前が泣いたら俺にとってはちょっとじゃねえんだよ!」
射抜くような羽柴の視線の強さにどきりとした。
なんだその意味深長な発言は、と思いながらも、羽柴に他意はない、と強くそれを否定した。
そうでもしなければ、うっかり期待してしまって痛い目を見る。
羽柴のそういう何気ない言葉に毎度毎度振り回されて、俺の心は雁字搦めにされているというのに、羽柴はそんなことなど全く構ってはくれない。
馬鹿みたいにまっすぐな視線を向けてくるその鈍感さに、正直、腹が立った。
「お前さ。俺の気持ち考えてみたことあんのかよ」
だから、そんな言葉を思わず口にしてしまった瞬間。
俺は自分自身の余りにも利己的な発言に驚いてしまった。
「え?お前の気持ち?なにそれ」
「いや、悪い。変なこと言った。もういいんだ、このままで」
俺は投げやりに手を振って会話を遮ると、里芋の転がった器を羽柴に押し付けた。
「ほら、これ、待ってたんだろ」
「や、待ってたけどさ。そうじゃなくて俺はなんでお前が泣いてんのかわからねえからさ、それが」
「だからそれをお前に言ってもどうにもならねえから」
「だって言わなきゃわかんねえだろ。お前の気持ちなんて、俺エスパーじゃねえもん、言わなきゃわかんねえよ」
俺はぐっと言葉に詰まって羽柴から視線を反らすように俯いた。
正論である。
悔しいくらいに、羽柴の言い分は正論である。
お互いに意味もなく里芋の煮つけを見下ろしたまま、俺はじっと押し黙った。
しん、と半個室になった空間に響き渡る無音が煩わしい。
「言ってみろよ、尾坂。俺で力になれるかもしれねえだろ」
どくん、と大きく心臓が唸る。
思わず手を伸ばしたグラスに満たされた酒をじっと見つめた。
最初から最後まで、この気持ちだけは隠し抜くつもりでいた。
それは意気地のない自分の『逃げ』でもあったし、同時に羽柴との関係をこのまま維持していくためのポーズでもあった。
何よりマイノリティな性癖を曝して軽蔑されることが恐ろしい。
「尾坂、俺とお前の仲だろ。信用しろ」
「羽柴……」
ぶっきら棒だが穏やかな羽柴の声に、言ってみてもいいかもしれない、と一瞬心が揺さぶられた。
お前の彼女より俺はお前を好いている。
お前の彼女より俺はお前を大事に出来る。
そういう不毛な感情を、ついに曝け出す時が来たのかもしれない。
「羽柴、俺――」
その時、俺の言葉を遮るように軽やかなメロディが羽柴の携帯電話から鳴り響いた。
ちらりとそれを見てから、羽柴はさっと携帯電話を持ち上げる。
「すまん、尾坂。ちょっとたんま。咲子だ」
「は」
告げられた彼女の名前に、一瞬ひくりと喉が引き攣れた。
素早く携帯を操作して電話に出る羽柴の態度に、途端に冷静ではいられなくなる。
目の前が真っ暗になって、そして、真っ赤になった。
「まじもう限界だわ、さすがに」
俺は溜め息交じりに告げると、素早くその場で立ち上がった。
財布から樋口一葉の紙幣を取り出して羽柴の前に置く。
「え?おい、尾坂。咲子、ちょっと待ってて、おい、尾坂!」
「悪い、羽柴。俺、帰るわ」
「え、なに、なんで」
なんでもクソもあるか、と。
茫然とする羽柴を見下ろして、俺は小さく嗤った。
上手く笑えず、無様に頬が引きつる。
「羽柴、もうウンザリだ」
「え、うんざり、ってなにが」
「疲れた。お前を好きな自分にほとほと嫌気がさした」
「な、に言ってんのか、わかんねえ、けど」
「それでも、好きなんだよ」
その手に彼女からのラブコールを握ったまま硬直する男に、俺はそっと笑いかけた。
緩められた羽柴のネクタイを掴み、強く引き上げる。
「い、って、なんだよ!」
痛そうに眉をしかめる羽柴の間近に顔を寄せる。
ぶつかった視線は、今までにないくらいに近い。
「――お、さか…」
羽柴の脅えたような表情をじっと見つめ、俺は無言のまま押しつけるように羽柴の唇に自らのそれを重ねた。
羽柴の唇の感触が恐ろしいくらいリアルに伝わってくるのに、怒りが脳天を突き抜けてしまったせいか全く動揺はなかった。
いっそ冷静なまでに心は凪いでいる。
「俺の『好き』はこういうこと」
「……は、え、」
「そこの電話の女より、俺、お前のこと愛してるよ」
「え、ちょ」
「じゃあ、帰る」
動揺して、何度も魚のように口を開閉させる羽柴を後目に、俺はさっさと踵を返した。
ついにやってしまった、という痛烈な慙愧と、どこかすっきりしたような清涼感を同時に味わいながら、俺は一人居酒屋を後にする。
夜風はまるで身を切るかのようだったが、それでも気持ちが良かった。
駅までの道のりを歩いていると、不意にがくりと膝が笑った。
転ばないように何度も足を踏み出して、よたよたと近くの電柱にしがみつく。
ふ、と吐いた息とともに、涙が溢れた。
「は、はしば…」
好きだった。
愛していた。
こんなになるまで愛していたなら、とっくに手遅れであった。
俺は、零れる嗚咽を抑えるように強く口を覆った。
がくがくと顎が震え、止め処なく溢れ出る涙に、視界はあっという間に滲んで見えなくなった。
羽柴、と。
叫んだ声が掌の中で溶けていく。
全て奪ってしまったら
どうなるだろうか
その視線も、その体温も、その指先も、その声も、
なにもかも
奪ってしまいたい、と
そう告げることさえ、罪になるのだろうか
そこに、希望はあるのだろうか
今夜は。
ひどく寒かった。
最後までお読みいただき誠にありがとうございました。
今作、結構な速度で書きあげたせいか、少し雑かもしれません。
ですが、続編を書きたい、と思うくらいには愛着がある設定です。
社会人同士の、相手の様子を探り探り進んでいく用心深い恋愛って個人的にはすごく好きです。