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「はあ?」
すっとんきょうな声を張り上げたのは、それを言われた律ではなく海斗の方だった。当の本人は、動じもせずに腕を組んで相手を見据えている。
既に、臨戦態勢と言うか、売られた喧嘩は買う気満々のようだった。
「宣戦布告、ねえ……」
「俺と勝負だ、相川律!」
と、健太は高らかに宣言する。
だが、後ろから飛んで来たボストンバッグが後頭部にクリーン・ヒットし、せっかくの決め台詞も台無しだ。あまりの衝撃に涙目になりながら健太が振り向くと、そこには怒りのボルテージが最高潮に達していると思われる奈央がいた。
「何バカなこと言ってるのよ、このストーカーが!! 律がアンタごときに負けるはずがないでしょっ!! ね、海斗!?」
当然、健太にヒットしたそれを盛大にぶん投げて来たのは奈央だ。彼女は息もつかせぬ勢いでそう怒鳴ると、くるっと海斗に向き直って同意を求める。
「んあ? いや、それはどうだか……」
いきなり話を振られても、対処しきれない。
咄嗟には彼女の望むものを考えることすらできずに、とぼけた返事を海斗が返すと、奈央は怒りも露わに海斗を振り仰ぐ。
「何よ!? 律があんな奴に負けるっての!?」
それこそ噛み付きそうな勢いで怒鳴られて、海斗はたじたじとなる。
と言うか、いつの間にそういう話になっているのかさっぱりわからない。話の論点はずれまくっているし、そもそも、彼は何だって律に宣戦布告だとか騒ぎ出したのか、海斗には見当もつかない。
まあ、要するに、亜紀は律のファンで、彼が亜紀を好きで、だから、そういうことになるんだろうと推測することはできた。けれど、だからと言って、それをうっかり「はい、そうですか」と律が言うはずもない。……たぶん。
まだ一応は正常に作動しているらしい自分の思考回路を何とか巡らせて、何だか溜め息をつきたくなってしまうような状況であることに思い至り、泣きたくなった。
大体、自分たちはこれからツアーのために移動しなければならないはずで、しかも今日は乗り打ちのスケジュールだから休む暇もないわけで、早くラウンジなり何なりで休みたかったんだよな、とか、しょーもないことをつらつらと考えて、はたと気付いて傍らのマネージャーに視線を移す。
何だか知らないが、既に彼は半泣きだった。
「……橘?」
「海斗、状況を見ろ。相手は社長の息子だぞ……。ヘタに敵に回したら、今後どうなるか……」
「はあ? っつか、俺らうちの事務所の稼ぎ頭だし? たかが息子ごときに負ける謂れは……」
「……甘い! 甘いぞ、海斗!!」
「……はああ!?」
「うちはなぁ、社長のワンマンなんだ! そりゃ、お前らは稼ぎ頭で、うちのドル箱スターで、クビの心配もないだろうさ! だが、俺はちがーう! お前らのもめごとのトバッチリは、全部マネージャーの俺の責任になるに決まってるだろうが!」
「……要は自分の心配かよ」
アホくさ、と投げやりに言葉を返す。
何なんだ、一体。
と、変な騒動に巻き込まれつつある己を悲観している海斗の前に、ゆらりと立ちはだかるのは、奈央曰くのストーカー。いや、確か名前は健太とか言った、所属事務所の社長の息子。
「お前ら、俺の話を聞け……」
「聞けるか、アホくさい」
海斗さん、あまりのアホくささについ一刀両断。それを継ぐかのごとくに、奈央が怒鳴り散らす。
「うるさいわよ、ストーカー!! 私の海斗に、何てこと言うのよ!! この罰当たり!」
いや、奈央さん、あなたのものになった覚えはないんですが、と心の中で冷静に突っ込みを入れてしまう辺り、海斗もまだ自分を保っているはずだった。……たぶん。
「奈央~」
さっきよりも更に泣き出しそうな亜紀が、必死に奈央に取りすがる。
そんな亜紀は、やっぱり可愛いのだった。状況が状況なだけに、うっかり感想も口走れないが、海斗は変に冷えてしまった頭でそう考えていた。
「大丈夫よ、亜紀。亜紀は何も心配しないで。絶対、私があの男の魔の手から守ってみせるから! 亜紀を、アホな男になんか渡さないんだから!」
「そ、そういうことじゃないんだけど……」
既に何が何だかわからない。
と言うか、そもそもの要因たる二人を差し置いて、違う所で違う言い合いがはじまっているような気が、しないでもないような。
最初の話は、何か違うことだったような? と、少し前の記憶を巻き戻そうとするが、あまりの展開に麻痺した思考回路はうまいこと作動しない。
「……話はわかった」
突然、律の台詞がそこに割って入る。
その脈絡のなさに、ぽかんとしてしまったのは、海斗だけではないと思いたかった。一瞬の空白の後に我に返った海斗は、苛立たしげに律に詰め寄る。
「おい待て、律。今ので何がわかったんだ。俺にはさっぱりわからない。お前が何でわかったと言っているのかも、俺にはわからないぞ。頼むから、俺にもわかるように状況とお前の思考回路を説明してくれ」
が、律は海斗の話なんぞ聞いちゃいない。
元々、人の話を聞くより自分が喋っているタイプなのだから、仕方がないと言えば仕方がないのだろうが、これはあんまりだ。
「要するに、だ」
海斗の意見をしっかりきっぱり無視した律は、健太に向き直ると、にやりとした。
そこに、悪魔の影を見てしまったように思ったのは、気のせいではない……はずだ。
むくむくと湧き起こる嫌な予感に、海斗は背中に冷たいものを感じる。
やばい、これは危険信号だ。律がこういう笑い方をした時には、海斗にとってろくでもないことしか起きたためしがない。
「お前は、亜紀ちゃんと付き合いたいわけだ。でも、彼女は俺に夢中と来たもんだ。で、悔しいんだろ? そういうわけだろ?」
意地の悪そうな笑みを口許に浮かべて、律は詰問するかのように健太を覗き込む。その様は、意地悪と片付けるには深すぎる笑みだった。
図星を突かれたせいなのか、健太は黙ったままだ。それが、何だか更なる災厄を呼び込むような気がしてならない海斗ではあった、が。
「だから、何だって言うんだ!」
「その勝負、受けてやるよ」
「りっ、律ッ、やめろ、お前、もめごとを起こすな、そいつは社長の息子だぁああ」
既に泣きの入っているマネージャーの言葉なんぞ、律は海斗の声以上に聞いちゃいない。律の意識は、目の前の面白いことに釘付けだ。
つまりは、この健太とやらを玩具にしようという方向に思考が行ってしまっているので、その他のことなど耳にも目にも入らないのだ。要は、そういうことだ。
「でもな、今の状況じゃ、俺の勝ちは当たり前だ。それじゃ俺も面白くないし、お前も悔しいだろ? だからさ、俺に追いついて来たら、その勝負を受けてやる」
「……ハア? 何言ってんの、お前!」
答えたのは、健太ではなくて海斗だ。
予想通り、とんでもないことを言い出した律に、長年の友情から培った予感が、大当たりしたことを思い知らされる。そんなもの、当たっても嬉しくも何ともない。同じ大当たりするなら、この先に出すシングルが、全てミリオンヒットになってくれる方が、嬉しいに決まっている。
「デビュー、してみろよ。お前のルックスなら、それなりのレベルに行けるんじゃね? そしたら、《DARK BLUE》の前座で使ってやる。最初のツアーのワンフと受け取りの数で勝負だ」
「何バカなこと言ってんだ、律! そんなもん、絶対勝負にならねえ!」
何気に失礼なことを口走っていると言うか、こっちが勝つことを前提に止めに入っていることに自分では気付いてない海斗。だが、とりあえずそのバカげた提案を阻止しようと律の肩を掴む。
……が。
振り返った律には妙ににこやかに微笑まれ、思わず気圧されたと言うか、思わず不気味になって後退りした。
やっぱり、何だか、嫌な予感が、する。
こうやって律が変な笑顔を浮かべる時は、何か悪巧みを思いついた時だということを、残念ながら長年の経験で理解してしまっている海斗だった。
大当たりだ。友情万歳。
だから、こいつのこの笑顔は危険だ。要注意だ。厄介ごとに巻き込まれる危険信号。しかも、回避不可能の。
「おま……、一体、何、考えて……」
「刺激、必要だと思うんだよね。俺らもさ。ここ二年間ほどは、向かう所敵無しだし? 後輩に追い上げられる危機感っていうのもさ、ありかと。まあ、こんなのに負ける気もしないけど?」
一応は所属事務所の社長の息子を、こんなの呼ばわりである。いや、彼が律たちに対して何かしてくれているわけではないから、別にそれはそれでいいのかもしれないが、人の常識としてその言い草はどうよ、と、海斗は思う。
「いや、それは正論だが、だからって……」
「いーじゃん、いーじゃん、所詮、社長の息子。何とでもなるって。っつか、お前、自分の力で上がって来なかったら勝負しないからな。そこのところ、覚えとけよ」
「おいおい」
何気に釘を刺してから、さて、と律は足元の荷物を取り上げる。そして、さっきからずっと呆けた様子のマネージャーとステージ・メンバーに向き直った。
「おら、橘。さっさと行くぞ。海斗も!」
さも自分は悪くないような言い方をして、すたすたとゲートの方に歩き出しながら、律は振り返る。その顔に浮かんでいるのは、やっぱり面白そうなことを見つけてしまった時の彼特有の、笑みだった。
「んじゃ、待ってるからな~? おうちに帰ってパパにお願いしてみ?」
さり気なくバカにしたような口調で言い残すと、律はひらひらと手を振ってゲートの向こうに消えた。
「あんの、ばか……っ!」
もう嫌だ、と思いながらも、内心ちょっと期待している自分がいることに、海斗は気付く。そういうところが、彼と友だちであり、長年の相棒でいられる所以なのだということに、気付かされる。
やっぱり、追いかけて来てくれる相手がいる方が、燃える。追い抜かれることを阻止するために、全力でやろうという気概が生まれることに、気付いている。
ならば、その勝負に付き合ってやるのもいいかと、そう思った。律がやるのなら、自分だって本気になる。
そうでなければ、何事も面白くない。
「最初のツアーのワンフと受け取りの数で勝負、ね……」
律の出した条件を思い出し、それで、と海斗は傍らにいた奈央に視線を移した。
「君はどっちにつく? 俺? あいつ?」
「もちろん、海斗!」
打てば響くように、奈央が答えを返した。その答えに、思わず笑みがこぼれる。
それは、海斗が望んで予測していたものだ。そうでなければ、面白くない。
「海斗と律が、あいつに負けるはず、ないもの! 亜紀だってそうよね!? 律につくでしょう!?」
「……う、うん、たぶん……」
もはやついて行けないのか、亜紀の声は消え入りそうだった。それでも、確実に奈央の思惑の通りの返事を返している。
それを聞いた彼の顔が、蒼白になって行くのを海斗は面白おかしく眺めた。
……悪く、ない。
こいつが本気になったら、追い上げられる。そんな予感がする。きっと、それは律もわかっていたから、あんな挑発的なことを言い出したんだろう。
ライバルもいないのは、刺激がなくてつまらない。
それが同じ事務所に所属する後輩になるかも、と言うのはちょっと微妙なところかもしれないが、そこはそれ、互いに売りどころは違うはず。
「ひゃはは、そういうことだ。頑張って追いついて来いよ、少年。律は……ってか、《DARK BLUE》の居場所は、遠いぜ?」
じゃあな、と海斗は自分もゲートに向かおうとする。未だに呆けているマネージャーの腕を無理に掴んで、引きずるように。
それに追いすがるように、健太が低い声をかける。
「……追いつけば、いいんだな?」
「律がそう言ったろ? あいつはいい加減そうに見えるが、一度口に出して言ったことは守る。お前が追いついて来たら、俺たちのツアーの前座で使ってやるから、そのツアーのワンフと受け取りの数で勝負だ。もちろん、俺たちにはハンディつけてやるけど?」
「なら、絶対追いついてやる!」
「……やってみろ。ちなみに、デビュー以外に社長の権力を使ったら、遠慮なくぶっ潰すからな。同じ事務所だからって、容赦はしないぞ」
そう言い残して、搭乗口にマネージャーを伴って消える海斗を、健太は呆然と見送る。
その場の勢いに任せて、とんでもないことを約束させられたような気がしないでもないが、本当にこれでよかったのだろうか。と、今更ながらに不安になって来たのだ。
「……海斗、カッコいい……」
さすがは私の海斗、と、奈央はうっとりとつぶやいた。
「律さんも、本当にカッコよかった……」
そう、亜紀もつぶやいて、二人は思わず手を取り合ってうなずきあった。
「絶対、《DARK BLUE》について行こうね!」
所詮、報われていない健太である。
だが、彼は既に律からの挑戦状で頭がいっぱいだった。亜紀のとんでもない発言に気付く余裕がなかったのは、ある意味で幸せだったかもしれない。
「ちょっと、健太!」
「……ああ?」
「アンタ、確かに顔はいいかもしれないけど! 音楽の成績、とんでもなかったって聞いてるけど」
華やかな美少女が、にっこりとして辛辣な台詞を口にする。
うっ、と言葉に詰まる健太を見て、奈央は更ににっこりした。
「まあ、アイドルは歌唱力が全てじゃないし、何とでもなると思うけど。でもね、たとえ律との勝負に勝ったとしても、私がいるってことを忘れないでね」
「はあ?」
「男なんかに、亜紀は渡さないんだから!」
「ええっ!?」
律に……ひいては《DARK BLUE》に追いつけという難題だけでも、クリアできるかどうか難しい。いや、それくらいなら頑張れる。努力で何とかしよう。きっと、何とかなるはず。
その努力の上で彼に勝てたとしたら、亜紀は自分を見直すだろう。
けど、奈央をどうにか……できるはずもない。
そんなことをしたら、亜紀に嫌われるだろう。それは、間違いなく。亜紀にとって、奈央は何よりも大事な友だちなのだから。
「大体ね、アンタ、律に勝負を挑む前に、亜紀のハートを射止めることを考えなさいよね。順番が逆。バカじゃないの?」
亜紀には聞こえないように、奈央は健太にそう耳打ちすると、亜紀の腕を取った。
「さ、亜紀! 私たちも乗らないと飛行機が出ちゃう!」
「うん! じゃあね、健太! 帰って来る日は迎えに来てね! 後で、帰りの飛行機の時間メールするから!」
無邪気で残酷な、それでも愛らしい天使は、満面の笑みを浮かべて搭乗口に消えた。
それを見送り、健太はひとつの決意を固める。
追いついて、追い抜いて、そして、亜紀に「すごい」と言わせてみせる、と。
携帯電話を取り出し、使ったこともなかった父親の携帯の番号を呼び出しながら、思う。
目指せ、一番。
亜紀の隣に行けるまで、その道程は果てしなく遠い。
とりあえず、一旦終わりです。
でも、シリーズっぽくまだ続きます。健太がアイドルになるまで。