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「とっ、泊まりがけっ!?」
その日、行きがけの車の中で、健太はすっとんきょうな声を張り上げた。
今日はいやに荷物が大きいな、しかも、送り先が空港ってどういうことだ? と怪訝に思い、その理由を問いかけたことに対する返答が、そういう内容だったからだ。
「そんなこと聞いてないぞ、俺は!」
「言ってないもん。お母さんには許可もらったし。女の子二人で旅行もいいわねって言われたよ」
「旅行って言ったって……。要は、目的はあいつらじゃないか」
「あいつらとか言わないでよ!! ちゃんと名前があるんだからっ」
ムッとした亜紀が、ぷっと膨れる。
健太だって彼らの名前を覚えていないわけではないのだが、あまりいい気分ではないので口に出したくないだけである。
そんなことは亜紀には言えないし、言うつもりもないが、覚えていないと思われるのも癪だと、ずれたことを考えてしまう。
「……いや、亜紀、でもさ」
気を取り直して健太が声をかけるが、亜紀はもう聞く耳を持つ気はないらしい。
「健太が何を言おうと、行くからね。もう決めたんだもん。飛行機もホテルも取っちゃったもん。チケットだってあるんだし、今更、止めたって無駄」
「……じゃあ、俺も行く」
「駄目。大体、飛行機は満席だったよ」
「……亜紀ぃ」
「そりゃあ、健太が心配するのはわかるけど! でも、奈央と二人きりで遊びに行きたいのはホントなの! 絶対行くの!」
「けどさ、亜紀」
「健太が、奈央のことを気に入らないってのは知ってるよ! でも、奈央は大事な友だちなんだから……!」
奈央と健太が到底合わなさそうなのは、亜紀だってわかっていた。それでも、どちらも大切なのに。
亜紀の言ったことに納得したのか、健太はそのまま黙り込んでしまった。わかってくれたのかな、と亜紀は安心した。
亜紀にとって、健太と同じように奈央のことは大事な存在だということを。
……が。
それが大きな間違いだったことを亜紀が思い知らされるのは、わずか数十分後のこと。
「……亜紀ッ!!」
突然響き渡ったのは、その辺りの騒音など一気に吹き飛ばしそうなほどの怒鳴り声だった。それが健太の声だと気付くのに一瞬遅れた亜紀は、きょとんとして顔を上げ、そちらを振り向いた。
さっき、空港の駐車場まで送って来てくれた健太と別れたはずで、その後、亜紀は奈央と待ち合わせたのだ。だから、健太はとっくに帰ったと思っていた。見送りをするとは言っていなかったし、そうしたんだと思うことに、何の不都合があるはずもなかった。
まだ時間に余裕はあって、亜紀と奈央は早めに搭乗手続きを済ませていた。二人で搭乗開始のアナウンスを待ちながら、ぼんやりと律たちを遠巻きに眺めているところだった。
今日はかなり一般の乗客も多くて、周囲をうろついていると迷惑になりかねないことを見越した奈央の言う通りに、彼らが来てすぐに、手紙を渡すだけ渡してさっさと退散してしまったのだ。
どうせ、今日は地方のツアー先までついて行くのだから、ここで話ができなくてもたいしたことではない。いくらでもチャンスはあるのだし、ここで強引に近付いたって却って印象を悪くするだけだ。
必要以上にしつこくしないこと。一般の人の迷惑にならないように気をつけること。それが、奈央の決めたルールだったから。
まだ全員が揃っていないらしく、人待ちの様相で、律たちはステージ・メンバーと談笑中だ。話の内容は亜紀たちの所まで聞こえないものの、楽しそうな様子は遠目からでもよくわかる。ツアーも順調だから、きっと機嫌がいいのだろう、と思う。
そういう彼らを見ているのはこっちも楽しいし、逆に、不機嫌そうな顔や調子の悪そうな雰囲気を醸し出している時には、見ている方が辛いのだ。
そんな時に突然割り込んで来た喧騒に、誰もが驚かないはずがない。ましてや、それが自分の見知っている相手であれば、尚更だ。
亜紀と奈央は思わず顔を見合わせ、次いで、その相手を見る。どう反応していいかわからなくて、亜紀は固まったままだ。健太が何をしたいのか、どういう意図でここに来たのか、全然理解できなかったのだ。
そして、それに驚いて振り向いてしまったのは、何も亜紀たちだけではなかった。その近くにいた《DARK BLUE》のメンバー、つまりは海斗と律も、同じようにその声の方を振り返る。そして、その周囲にいたメンバーも同じことだ。
亜紀たちからすれば、彼らがやたらと驚いたように見えたのは、そこにいたのは、秀麗な美貌の少年だったからだろう。いや、少年というには少々遅いのかもしれないが、黙って立っていれば、健太は美形だからだ。
よほど急いで走って来たのか、やや息を切らせて、髪は乱れている。そして、彼は、もう一度低い声で目的の名前を呼んだ。
「……亜紀」
とりあえずの驚きを乗り越えてしまうと、それを観察する余裕も出て来る。そこで、ようやく海斗はひとつのことに気付いた。
彼が口にした、ひとつの名前。
それは、この展開からすると、どう考えても律のワンフであるところの〝亜紀ちゃん〟のことなのではないかと、海斗は思った。そこにどういう理由があるのかまで突っ込んで想像することはできなかったのだが、何となく、そう思ったのだ。
海斗と同じように、律もそう思ったのだろう。きょろきょろと視線を彷徨わせ、いつの間にか離れた場所にいる亜紀を見つけようとしている。
人垣の向こうに目ざとく奈央を見つけた海斗は、その隣で、元から大きな目を更に大きくしている亜紀を、見つけた。
「……律」
あっち、と耳打ちしてやると、律もようやく亜紀の姿を見つけることができたらしい。だが、この状況の理由なんて、二人にはわからないままだ。
突然乱入した少年に呼ばれた本人は当然として、一緒にいた奈央でさえも唖然としてそちらを見ている。
亜紀たち二人にしても、この状況は予想外のものだったらしいのが見て取れて、海斗は困惑を深めた。
「……あ、え、健太……?」
小さな声で、亜紀がその相手のものであろう名前を口にする。どうやら、本当に知り合いではあることは事実のようだ。
可哀相に、亜紀が泣きそうになっているのは気のせいではないだろう。何となく亜紀に同情したい気分になりながら、海斗は小さく溜め息をついた。
どう考えても、あれは彼氏が怒って怒鳴り込んで来た図、にしか見えない。そうだとすれば、これから起こり得るだろうことなんて簡単に予測できるというものだ。
「今まで黙っていたけど、やっぱり我慢できない! 何だって奈央と一緒に旅行に行くんだ!」
理不尽と言えば理不尽だが、健太にしてみれば至極真っ当なことを言い放つ。が、それは当の相手の奈央に一蹴された。
「うるさいわね! あんたには用はないのよ! 大体、アンタがいつまでも付き纏うから、亜紀に彼氏ができないんでしょ!」
目的の亜紀ではなくて、代わりに奈央が怒鳴り返す。
奈央の言い分からすると、どうやら、彼は亜紀の恋人ではないらしい。海斗がついつい興味津々で聞き耳をたてつつそちらを眺めていると、後ろから律にはたかれた。
「悪趣味なことするなよ、ぼけ」
「……いや、気になるし?」
「まあ、それは俺も同じくだが」
所詮、他人事だ。
まだ搭乗まで時間があるのをいいことに、見学の姿勢に入ろうとした律たちのことに、彼らはおそらく気付いていないのだろう。
健太は一瞬怯んだものの、足音も荒く奈央に歩み寄ると負けじと声を荒げた。
ここで負けてはどうにもならない、とでも思ったらしい。噛み付くように怒鳴りつけている。
「俺がいつ亜紀に付き纏ったって!?」
「亜紀が生まれてから、ずっと付き纏っているじゃないの! いい? アンタ、知らないみたいだから教えてあげる! アンタみたいなのをストーカーって言うのよ!」
「な……っ」
何も言い返せずに口をぱくぱくさせている健太に、奈央が勝ち誇った笑みを向ける。
その様子に、何だか健太とやらが気の毒になってきたなぁ、と海斗は彼に同情した。
「大体、亜紀が私と一緒にどこに行こうが、アンタには関係ないでしょ! アンタは、亜紀の彼氏でも何でもないんだから! アンタが亜紀の彼氏だって言うなら、言うこと聞いてあげなくもないけどね!」
「……何なんだ、ありゃ」
痴話喧嘩なのか? と律がぼそりとつぶやく。
一般的に言う痴話喧嘩にしては、内容に心許ない部分が無きにしも非ずだが、こんな、人の大勢行き交う空港で、繰り広げられようとしているくだらない言い争いは、どう考えてもそうとしか思えない。
「……まあ、見る限り、そのようには聞こえるんだけど? およ? 橘、どうかしたか?」
その光景を見て固まっているマネージャーを見て、海斗は困惑する。多少迷惑なことは確かだが、こちらに害が及んでいるわけではないし、それほど硬直するほどのことでもないだろう、と思ったのだ。
けれど。
その後に続いたマネージャーの一言に、海斗と律は同じように固まってしまったのだった。
「……あいつ、社長の息子だよ……」
「…………ハア?」
何だか怪しい雲行きになって来たように思ったのは、気のせいではあるまい。
「いや、社長の息子って言ったってさぁ……」
硬直してしまったものの、すぐに気を取り直したのは、根っからのお気楽主義者の海斗だった。社長の息子だろうが何だろうが、自分たちには関係ないではないか。
いや、関係なくはないだろうが、とりあえず、今の状況には関係ないはずだ。
あの社長の息子にしては、あんまり似てない綺麗系の美少年ではある。律たちの所属事務所の社長は、少々気難しげな親父だ。それに、社長の息子の知り合いが自分たちのワンフというのも外聞が悪いと言えば悪いが、だからと言って、何もそこまでおろおろすることもないだろう、と思ったのである。
……が。
やはり、これはどうにかした方がいいのか? と、嫌な予感がして来てしまう。
声を大にして言いたくはないが、ここは公共の場所だ。自分たちがいること自体、ひょっとすると一般の方々のご迷惑を引き起こしているのかも、なんてちらりと思いつつ、どう考えても、今現在、大迷惑なのはあっちだ。
と、海斗が呑気に状況分析をしていると、その脳内思考の主人公であるところの社長の息子が、何故かこちらへと注意を向けたことに気付いた。
(……? 何だ?)
海斗がそれを疑問に思う間もないまま、彼はつかつかとこちらに歩み寄ると、海斗の隣で成り行きを見ていた律に向き合った。
「健太!?」
その行動を見て、さすがに慌てたように亜紀が駆け寄って来る。もう、その瞳から大粒の涙が溢れそうなのが見て取れて、何だか可哀想になって来てしまう海斗である。
彼氏でも何でもないのにこうやって乗り込まれたら、そりゃ、泣きたくもなるだろう。
「……あんたが相川律?」
いっそ清々しいまでのふてぶてしい物言いに、律がムッとしたように眉を上げた。
どう考えても、相手は学生にしか見えなかった。自分たちよりも年下であることは一目瞭然で、社長の息子だろうが何だろうが、失礼極まりない。律がムッとするのも無理もないことだ、と思う。
元来、律は常識知らずは嫌いなのだ。それこそ、大人げないほどに。
「見りゃわかるだろ。それとも、俺のことを知らないくらい、テレビに縁遠い生活をしている人?」
子供を相手にして、ムキになって言い返す律も大人げないが、それを本気で取って更に腹を立てる様子の子供は、明らかに同レベルだ。レベルの低さを競っている二人に、海斗は呆れて息をつく。
誰かこいつらを止めてくれ、と、海斗はもはや他力本願の域だ。
自分が止めて何とかなるものなら、今まで何もトラブルにも巻き込まれることなく過ごして来たはずだった。律とは学生時代からの腐れ縁、こいつと一緒にいてどれだけトラブルに巻き込まれたことか、と、嫌な思い出を巻き戻してげんなりしてしまう。
そうであるからこそ、海斗は溜め息をつくしかできないのだ。
「そりゃあ、あんたのことはよく知ってるよ。別に、知りたくもないけどね」
「……それは失礼。いつでもマスコミには露出しているもので」
「おいおい、律……」
やめとけ、と海斗は律の服の裾を引っ張ってアピールをする。一応、相手は一般人だし人目もある。言うだけ無駄かもしれないが、何もしないよりはマシだ。
だが、どうにもこうにも通じていない。売られた喧嘩は買ってやろうじゃないか、という気概だけは、無駄に伝わって来るのだけれど。
「今日は、あんたに宣戦布告をしに来た」