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東京駅新幹線口、中央改札。
各方面への列車が分刻みで運行されるこの巨大な旅客ターミナルで、一番わかりやすく、それゆえに人通りも一番激しい場所だ。それでも、その人ごみの中で彼らの姿を見逃すはずもない。
彼らには、オーラがあるから。
人を惹きつけるための、華があるから。
雑踏の中にわずかに見えた人影に、先に反応したのは奈央だった。
「……来た!」
「えっ、どっち!?」
人波に遮られて、目的の人物が見つけられない亜紀は、焦ったように奈央の腕を掴んだ。
「二人一緒! ちなみに、もれなくマネージャーも一緒。カット入っちゃわないといいんだけど……」
「……怒られる?」
「それはないと思う。この状況からして、大パにならなければ眉も滅多に怒らないし。行こう!」
ちなみに、眉と言うのは、奈央がつけた《DARK BLUE》のマネージャーのあだ名だ。別に名前を覚えていないわけではないのだが、何となくそう呼びたくなるのはわからないでもない。何しろ、彼は眉がとても印象的なのだ。
奈央はためらう亜紀の手を引くと、人波を縫って改札の手前まで移動する。彼らが改札を通り抜けるのを待ってから、声をかけた。
「おはようございます、律さん!」
「……おはよ」
海斗のファンであるはずの奈央が、自分に先に挨拶をしたことに驚いたのだろう。彼……律は、一瞬答えるのに間を置いた。
きょとんとしている彼に、奈央はにっこりと笑みを見せた。相手に振りまく愛想に、不自由しているわけではないのだ。
「おはようございます……」
ほら、と奈央に突付かれて、亜紀も同じようにはにかんで挨拶をした。そして、持っていた手紙を律に差し出して来る。
「あのっ、手紙書いて来たんで……」
「さんきゅ」
そう言って、律は差し出された手紙を受け取る。すると、亜紀は嬉しそうに花開くような笑みを浮かべた。
可愛い、と素直に思ってしまう律である。
実を言うと、律は、そんな亜紀の初々しさが気に入っていた。回を重ねるごとに図々しくなるワンフも多い中で、亜紀はあまり変わらない。それが、何だか微笑ましくて仕方がないのだ。亜紀がワンフでなかったとしたら、交際を申し込んでもいいかなと思うくらいに、だ。いや、ワンフだってかまわないかな、とも思う。
そういう出会い方だって、中にはあってもいいじゃないか、と。
だが、現実問題、それは難しいだろうということは律にもわかっているし、そんなことをしたら、亜紀がファンの中で苛めに合うだろうことも予測できる。奈央はそれに加担したりはしないだろうが、多勢に無勢、奈央にだって、それを止めるのは無理な相談だ。
そんなくだらないことを律が考えていることも知らずに、亜紀は一生懸命に話しかけて来た。それに受け答えをしながら、乗り場へと向かう。
亜紀から受け取った手紙をジャケットのポケットの中に突っ込み、律が亜紀と話を始めるのを確認した奈央は、亜紀に「頑張って」と耳打ちすると、わずかに先を行く海斗の方へと小走りに駆け寄った。
「海斗、おはよ!」
「……おいおい、俺は後回しかよ」
本当だったら、奈央は真っ先に海斗に駆け寄って来てこの挨拶をするのが正しい。奈央は海斗のワンフであって、律のワンフではない。
思わず苦笑で返してしまった海斗に、奈央は困ったように笑みを浮かべた。彼の言いたいことは、何となく理解できたらしい。
「だって、今日は亜紀の付き添いのつもりで来たんだもん。他の子に律の隣を取られたら、亜紀がかわいそうじゃない」
そうやって返って来た答えに、海斗は一瞬驚いた。奈央の行動にそんな理由が存在しているとは、思わなかったからだ。
「ふうん、君って意外と友だち想い?」
「ひっどーい! それじゃあ、まるで私がいつも他の人の邪魔をしているみたいじゃない!」
当たらずとも遠からず、だが、それを言ったら追っかけなどやっていられない。
追っかけなんてものは、要は早い者勝ちだ。一人の男を複数の女で取り合っているようなものなのだから、余程のバイタリティで突っ込んで行かないと勝ち残れない。亜紀みたいに、消極的にもたもたしていたら突き飛ばされて怪我をするのがオチだ。
奈央は、《DARK BLUE》の追っかけの中では古株だった。何しろ、ライヴハウスで歌っていた頃から彼らに目をつけて、そこから追っかけていたのだから、それは筋金入りだと自分でも思っている。そんな奈央が睨みを効かせて、追っかけの少女たちを牛耳っていると言っても、過言ではないのだ。
奈央の許可なくして、《DARK BLUE》に近付いてはならない。
それは、ある一定のライン上にある追っかけの少女たちの間での、暗黙の了解だった。
だから、奈央が亜紀を連れて来たのには、彼女たちは心穏やかではいられなかっただろう。と言うか、今だって戦々恐々としているはずだ。
今まで、奈央は海斗のファンだから律には近付いても平気、という一定のルールがあった。
けれど、奈央が連れて来た少女は、新参者であっても奈央の認めた相手。しかも、今まで奈央が見向きもしなかった律のファンだ。
彼女に喧嘩を売るということは、すなわち奈央に喧嘩を売るということで、さすがにそれはまずい。デビュー前からの古参のファンであり、マネージャーにも本人にも覚えのめでたい奈央に睨まれたら、ファンでいられない、という噂がまかり通っているほどである。
とは言え、奈央はそこまでの権力を振りかざしているわけではない。
別に海斗や律と個人的な親交があるわけでもないし、マネージャーである橘とだって同様だ。ただ、ファン歴が長い分、気心も知れている部分はある。海斗たちにしても親しみやすいし、マネージャーも注意事項を言いやすい、というだけの話だった。
奈央がワンフの全てを牛耳っているという噂も、本当は嘘だ。ただ単に、ルール違反をする人間がいるのが気に入らなくて、それに対して厳しいことを言っていたら周囲に誤解されただけのこと。
それはそれでありがたいと言うか、利用できそうだから否定しないだけで、わざわざ自分から大人数を把握したいとは思わない。
追っかけにだって、本当はきちんとしたルールがある。何も無秩序にきゃあきゃあと騒いで、アーティストの後ろをついて行くのが追っかけの本来の姿ではない。自分たちが非常識な行動をすれば、それは彼らの……この場合で言えば《DARK BLUE》の世間での評価を下げることにつながる。そう、思うから。
それなのに、とんでもない行動に出る輩は、いつでもどこでも健在で。
許可なく勝手に写真を撮ったり、公共の場所で必要以上に騒いだり、果ては自宅に押しかけて近所迷惑なことをしたり……。
挙げて行けばキリのない傍若無人なことをするファンたちに、奈央がぶち切れて怒鳴ったのが事の始まりだったような気がする。変なふうに誤解されてしまうようになった、そもそものきっかけというのは。
本人たる海斗や律、マネージャーの橘もそれはわかっていた。けれど、表立って味方できるものでもなく、あからさまにお礼を言うわけにも行かない。はらはらしながらも、奈央の動向を見守っているというのが実情だった。
そんな理由もあって、奈央はいつも一人ぼっちだった。海斗のことは好きだし、《DARK BLUE》のライヴに行くのは楽しい。追っかけをして、海斗と話すことは奈央にとって当たり前みたいな日常だった。
それでも、一人は寂しい時があって。
一人を苦だと思うわけではないけれど、寂しいのは正直な気持ちだ。
父親の都合で転校することになって、その先で亜紀と会った。ほやんとしているけれど、実は芯の強い亜紀に惹かれたのは、何も彼女が不埒な男子生徒を投げ飛ばしてくれたからだけではない。奈央をただの奈央として見てくれる相手に会ったのは、本当に久しぶりのことだったからだ。
奈央は、誤解されやすい少女だった。
生来の気の強さに加えて、華やかな容姿は異性を惹き付ける。そうであるがゆえに、同性からは遠巻きにされることが多かった。そのうえ、奈央の父親はごく一部ではそれなりに知名度のある人間で、それが近づきにくくさせるもうひとつの要因でもあった。彼女自身が望まずとも、それは否応無しについて回る問題だったのだ。
けれど、亜紀はそんなことは気にも留めずに奈央と接した。そうすることがどれだけ難しいことか、わからないほど奈央は世間知らずではなかった。亜紀に出会うまでは、いつだって、それは奈央から切っても切り離せない問題だったのだから。
そんないくつもの理由が重なって、奈央は、亜紀のことが好きだったのだ。つい、自分のことを後回しにして、亜紀のために世話を焼いてしまうほどに。それが、ガラでもないと言われるのだとしても。
「邪魔しているとは思わないけどさぁ」
くすくすと笑いながら、海斗はそう言う。
「……ひどーい。私、海斗のためにめちゃくちゃ頑張っているのにー」
ぷうっと頬を膨らませて抗議をする奈央は、やはり可愛らしいのだ。
他のワンフが彼女のことをどう思っているかは知らなかったが、華やかな美少女は、やはり目の保養だ、と海斗は思う。奈央がいなくなってしまったら、次は誰が目の保養になってくれるかな、と、しょーもないことに思いを巡らせた。
「あ、そうだ。海斗、これっ」
奈央はポケットから手紙を取り出して、海斗に手渡す。
いつものやり取りに、海斗は何の躊躇いもなく受け取って、それを持っていたカバンに投げ込んだ。
「ツアー初日だし、気合入れて書いたんだ。だから、ちゃんと読んでね!」
「了解了解」
ホームに上がるエスカレーターに差し掛かると、奈央は一旦海斗のそばから離れた。同じようにして律からも離れた亜紀と一緒に、二人は隣接する階段を急いで上がって行く。
彼女たちはわざわざ階段を使って、ホームの上に先回りしているのだ。いつものことながら不思議な光景だったが、それが彼女たちなりのルールらしいから、あえて何も言わずにその出迎えを受ける。
そして、海斗が予想した通り、ホームにはそれなりの人数の女の子が待っていた。朝も早くからきゃあきゃあとうるさいな、と思いつつ、周囲で顔をしかめる一般の方々に心の中で謝罪する。
仕方のないことなのかもしれない……と思いつつ、うんざりしてしまうのを誰が責められるだろう。だが、それを表情に出すことはしないまま、お仕着せみたいな笑顔を振りまく自分たちは、きっとどこかが壊れている。
ふと気付くと、奈央と亜紀の姿は二人の周囲から消えていた。そんなこともいつものことで、海斗はそれほど気にも留めなかった。
彼らを取り巻いている人数が多くなって来ると、控えめに遠巻きになってしまうのは、彼女たちのやり方だったからだった。
歓声に見送られつつ車両に乗り込み、座席に腰を落ち着ける。電車が静かにホームから滑り出すと、今までの喧騒が嘘のような時間が訪れた。
「……今日は、向こうに着くまでおとなしくしていてくれるといいけどねぇ」
橘が溜め息混じりに言っているのを苦笑で聞き流して、慣れた仕草でブラインドを下ろす。そうやって視界を遮るのは、途中の停車駅などで騒がれるのを防ぐためだ。
橘の溜め息は、律や海斗だって同じ気持ちだった。
ファンあっての自分たちだとは言え、さすがに同じ車両まで押しかけられたり、やたらにサインを求められるのは困ってしまうのだ。
無碍に断るのも外聞が悪くなりそうだったし、だからと言って、いちいち相手をしていたら疲れてしまう。どこまでそのファン行為を許すか、というのは、実はかなりの頭の痛いことなのだ。
「向こうへの到着予定は何時だっけ?」
「十三時半、だな。おい、律、車内で寝るな。寝るならマスクをしろ。喉を痛めるぞ」
「ふぁ~い、わかってますよーだ……」
早速とばかりに寝の体勢に入ろうとした律に、マネージャーがひどく当然で尤もなことを注意する。本人もわかってはいるが、眠気には勝てないのだ。
憮然とした表情を浮かべ、シートに深く身を沈める律に、海斗はからかうような声をかけてから隣に腰を下ろした。
「りっちゃんたら、怒られてやんの」
にやにやと笑いながら指摘すると、律はむっとして少し身体を起こす。
「うっさいよ、お前。っつか、りっちゃん言うな。……そういや、今日は奈央ちゃんが俺に話しかけて来て驚いたよ。一瞬、固まっちゃったし」
「ああ、後で聞いたら、何でも、亜紀ちゃんがお前に話しかけられないと可哀相だから、って言ってた。そういうのも意外だよな」
「へえ、そうなの? まあ、あの子も根本的に悪い子じゃないのはわかるんだけどなぁ」
「もう少し、周りのワンフと仲良く波風立てないでね、ってところか?」
「……言えてる」
「でも、まあ、あの子の言うことは一理あるしねぇ。あの子の一喝で、度の過ぎたワンフがおとなしくなったってのはあるけど」
一時期、ちょうど《DARK BLUE》が爆発的に売れ始めた頃、その事件は起きたのだった。
それまでは泣かず飛ばずで、いきなり売れただけに本人もマネージャーも戸惑いは大きかった。急上昇する知名度に比例して、突然群れをなしてやって来たような追っかけに対処するためのスキルも、当然、あるはずもなかった。そんな状況だったために、悪質なファンが無断で写真を撮る……なんてことが横行して、あまつさえそれがネット・オークションやらで高値で売られていたりなんかして、様々なトラブルに頭を痛めていた。
応援してくれるのは、素直に嬉しかった。ファンです、と言って手紙を差し出されるのも嬉しかったし、プレゼントをもらうことも素直に喜んでいた。
けれど、人数が増えれば、マナーを守ってくれる相手ばかりではないということに気付かされるのに、それほど時間は要らなかったのだ。だからと言って、あからさまに嫌悪感を露わにするわけにもいかない。
そんな時に、奈央が一人の少女ともめごとを起こしたのだ。
それは、律たちから見れば一方的に相手の方が悪かったように思えるできごとだった。その少女は、駅の構内で一般の乗客を突き飛ばすようにこちらに駆け寄り、その上、無断で写真を撮ろうとしたのだ。
その一部始終を見ていた奈央が、ぶち切れた。
持っていたカメラを取り上げ、無言で記録媒体を引き抜いてそれをマネージャーの橘に渡した。そして、本体だけを本人に返した。
ルール違反でしょ、という、たった一言と共に。
写真撮影は禁止、という明確なルールがあったわけではない。けれど、それを許可していたわけではなかったことは事実だ。
そんなことがあってから、奈央は周囲から一目置かれるようになったと言うか、近付きにくくなったと言うか、そんな感じに変わっていた。
下手すれば総スカンで、他のワンフにいびられるかもしれないと危惧もしたのだが、奈央はそんなことを他人に許すようなタイプではなかった。そういうことをされて、めげるタイプでもなければ気にするタイプでもなかったうえに、その手の嫌がらせをする気を失わせるだけの強さを持っていたからだ。
それがよかったのか悪かったのか、今では判断することもできない。彼女は彼女なりに、自分だけで状況を打破してしまったからだ。
とは言え、インディーズの頃から応援してくれている奈央に対して、その状況を放置するのも何だか気は引けたのは事実だった。
けれど、そこで助け舟を出せるほど、《DARK BLUE》の状況は甘いものではなくなっていた。そこで律たちが口を出そうものなら、却って奈央の立場が悪化するであろうことが確信できるほどに。実際は、自分たちが口を出すほどのことでもなかったのかもしれないが、気になっていたことも本当だった。
「……けど、孤立して行くのをほったらかしたのは俺らじゃん? 状況的に仕方なかったとは言え、デビュー前からいてくれた子なのにさ。だから、最近、亜紀ちゃんと一緒で、何だかホッとしてる」
「同感……」
二人は顔を見合わせて溜め息をついた。