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「……奈央!」
車が駅に着くと、亜紀はお礼もそこそこに車を降りて駆け出して行く。その後ろ姿を見送って、健太は盛大なる溜め息をついた。
亜紀が走って行った先には、いつものごとく葛木奈央がいる。それを確かめてから、健太は車を所定の位置に停めて運転席から下りた。そして、荷物を下ろし、亜紀を追うように駅の構内へと足を向ける。
亜紀をここまで送って、それで健太のお役目が終了ではないのは、どこか抜けている亜紀を心配した亜紀の母親に付き添いを頼まれてのこと。とは言え、たとえそれがなくとも、健太は亜紀から目を離したくはない。それが本音なのだ。
そうやって亜紀につかず離れずにいることが、自称亜紀の親友である彼女……葛木奈央には、気に入らないようではあったけれど。
奈央はまたしても健太がついて来たことに気付くと、案の定、嫌そうに眉をしかめた。
自分に向けられた悪意は遠目ながらもはっきりとわかってしまって、健太はむかむかする気持ちを押さえきることができない。だが、その本音を押し殺して笑顔で会釈をして見せる。
それくらいの芸当は、できるのだ。
亜紀とお揃いのルージュは、彼女のきつめの容貌からすれば淡いような気がしたが、それでも、似合っていることは似合っている。これで一言も喋らずに黙っていて、亜紀と付き合わないでいてくれたら、美少女だと褒めちぎってやるのに、と健太はわずかに嘆息する。
しかし、奈央は健太の本音を押し殺した努力をあっさりと粉砕し、向けられた会釈をしっかりと無視すると、亜紀だけに全開の笑顔を向けた。
「亜紀!」
「……ごめん、奈央。遅れちゃった?」
遅れたと言っても、亜紀から聞かされていた待ち合わせの時刻とやらにはまだ程遠いはずだ。そうなるようにモーニング・コールで起こしてやって、支度を急がせて、家を出て来ているのだから。
そう思いながらも腕の時計にちらりと目をやって、健太はわずかに首を傾げた。
何を基準に遅れたと言っているのか、健太には見当もつかないし、考えたくもない。目の前で続けられる亜紀と奈央の会話の中には、もはや理解のできない単語が飛び交っている。
人外言語だ、と頭を抱えたくなる衝動を理性で堪えるのも、もう慣れてしまった。彼女たちの会話に割り込むほどの勇気は、ない。
「もう、遅いわよ、亜紀! あんたの担当、来ちゃったら意味がないじゃない! このツアー、せっかくつけるだけつくって決めたのに!」
「ごめーん、初日だと思ったら、服を選ぶのに時間かかっちゃって。でも、まだ来てないんだよね?」
「大丈夫、まだ来てないから。何だか知らないけど、今日は中央で張っているのは私たちだけみたい。どういうわけか、イベンターの気配もないし。南とかから来られたらアウトだけど、今日は中央から来る気がするな。初日からボツるのは幸先悪いし」
「……他のグループは?」
「どうせ、ホームのベーター狙って、上に上がったんじゃないの? 乗る車両は決まっているんだから、そこで待っていれば確実にボツらないで済むでしょ。でも、それじゃ意味ないし! それに、私的に、今日は中央から来る気がするの。今までのデータからすれば、初日は何故か中央から来ることが多いんだもの」
「その勘が当たればいいけど……」
はあ、と亜紀は小さく溜め息をつく。持っていた小さなバッグの中をごそごそと探って、可愛らしい封筒を取り出して奈央に見せる。
「受け取り、ちゃんと書いて来た。奈央の言う通り、彼の好きな猫の柄で」
「上出来上出来。そういう小さな積み重ねが大事なんだから、心してかからないと! いい、亜紀。あんたは私の友だちだとは言っても、私の担当は違うんだからね。まあ、リハスタで何度か受け取りを渡してはいるんだし、向こうだって確実に覚えているとは思うけど。だから、アンタが自分で確実につかなきゃ駄目なのよ。亜紀は、ツアー移動につくのは初めてだから、今日だけは私が声かけしてあげるけどね」
「……ありがとう、奈央!」
健太には理解不能な意味不明な言葉が彼女たちの間を飛び交い、二人はきゃっきゃと笑い合っている。端から見ているだけなら、美少女二人がはしゃぐ様は微笑ましいが、健太にとっては盛大な溜め息をつきたくなる現場でしかなかった。
葛木奈央が亜紀に与えた、最大かつ最悪の影響。
それは、追っかけなどというとんでもない行動に亜紀を引きずり込んだことだ。それは、健太にとって寝耳に水で、それでいて想像したこともない異常事態だった。
……いや、亜紀は亜紀で、とても楽しんでいるのだということはよくわかる。わかってしまうのだ。
嬉しそうなその笑顔は、健太だって滅多にお目にかかれない極上のもの。それゆえに、健太としては、一体何が亜紀に起きてこんなことになっているのか、という疑問ばかりが頭の中を支配してしまうのである。
諸悪の根源である奈央と知り合ってから、数日後のこと。チケットが余っているという理由で、奈央が誘ってくれたんだ、と言って出かけて行ったのが、運命の分かれ道。
その行き先が、奈央が追っかけているヴォーカル・ユニット、《DARK BLUE》のライヴである。しかも、あろうことか、亜紀はそのヴォーカルに一目惚れにも似たものをして帰って来たのだ。そんなことになれば、幼馴染として、美しく成長して行く亜紀を心待ちにしていた健太の立場は、全くない。あるはずもない。
いつか亜紀と……なんていう淡い夢は、その瞬間に儚く消え失せた。それでも、諦めきれずに亜紀と奈央の都合のいい〝アッシー(もはや死語)〟の座に甘んじている健太である。
幼馴染である亜紀はともかくとして、奈央に至っては正に〝都合のいい運転手〟程度の認識しか持たれていないのは承知の上だ。別に奈央に男として好かれたいわけでもないし、いつかこの涙ぐましい努力も実を結ぶ日が来るかもしれない、そんな健太のささやかだが現実的には虚しい願いを他所に、亜紀と奈央の行動はエスカレートして行くばかりだったけれど。
とは言え、健太だって負けてはいない。
亜紀と共通の話題を得んがために、健太は好きでもないそのユニットの話題を集めまくり、いつの間にかそこらの駆け出しのファンよりも無駄に詳しくなったのは笑えない事実だ。しかも、ファンであるなら是が非でも欲しいはずの取って置きの情報まで得ていたりしたのだが、それは亜紀に対する切り札として出し惜しみしている。
そうそう奈央にばかりいい目を見させてやるものか、と、ワケのわからない闘争心を燃やしているのだ。その切り札には絶対の自信があり、亜紀がそれに飛びつかないはずがないと思っている健太である。
《DARK BLUE》は、ヴォーカルとギターの二人組みのユニットであり、最近、ヒット・チャートを賑わせている存在だ。男性二人で構成されていて、甘いラブ・バラードから激しいロック調までの幅広い曲層をこなし、ルックスも整っているとなれば、人気に火がつかない方がおかしい。
数年前のデビュー当初こそ、鳴かず飛ばずで苦労した頃もあったらしい。だが、二年ほど前、化粧品のCMソングに抜擢されたことから一気にブレイクし、今では、自分たちくらいの年齢で知らない者の方が珍しいほどの知名度を持っていた。興味はないが、それなりに世間のことを知っている健太は、亜紀が彼らに興味を持つ前から名前だけは知っていたのだけれど。
奈央の熱く語る「見たら絶対に好きになるから!」という言葉に踊らされたせいか、それとも、元々流されやすい性格が災いしたのか、そもそもの経緯はどうであれ、今や亜紀は奈央と一緒になって、立派に〝追っかけ行為〟に勤しんでいる。
しかも、ご本人からの覚えもめでたいらしく、それを嬉しそうに健太に逐一報告して来る亜紀が、可愛らしいやら腹立たしいやらで、健太には心の休まる暇がない。
そして、甘ったれの亜紀にせがまれるままにあっちこっちへと車を出し、他人から見たらいいように使われているだけのアッシーと化している健太だった。が、それでも、自分では満足だったりする。
所詮、相手は芸能人、一般人の亜紀とどうこうなることなどありえるはずがない。いつか亜紀も飽きて、俺の所に帰って来るはず……と、根拠のない自信を持って、健太は信じて待っているつもりだった。
そうは問屋が卸さないことを健太が思い知らされるのは、もう少し、後のことである。