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桜井健太の心中は、いつになく複雑だった。
その要因は、運転する車の助手席に座る、愛してやまない幼馴染の沢城亜紀。
長く伸ばした髪は、エアコンの風に揺れている。それに伴ってふうわりと漂って来る仄かな香水の匂いは、健太のなけなしの理性を揺さぶるのにもってこいの代物だ。亜紀のお願いがあればこそ、取れるようになって即座に免許を取ったのだ。車が父親からの借り物というのは少々情けないが、学生の身では仕方があるまい。
それでも、隣に亜紀がいると思うだけで気分は違う。うっかり夢見心地になりかけそうな自分を自覚しつつ、健太は隣をちらりと盗み見た。コンパクトを開けて、最終チェックに余念がない亜紀の様子は、凶悪なまでに可愛らしい。
……たとえ、そのお洒落が自分以外の男のためのもの、であったとしても、だ。
「ねえねえ、健太ッ。これ、今度の新色、似合ってるかなぁ!?」
奈央とお揃いで揃えたんだよ、と、亜紀は満面の笑みである。
本音を言えば、運転中によそ見をして亜紀に見とれられないし、そんなことをしたら危険極まりないから話しかけないで欲しかったりもするのだが、亜紀にはそんなことは通用しない。
うきうきとした口調でそんなことを問いかけられて、それに否やを唱えられるはずも、なく。
健太は自分の情けなさを恨みつつ、引きつった笑みを浮かべてうなずくしかなかった。一応、ちらりとだけその新色とやらを見はしたのだけれど。
いや、しかし、本当に。
はっきり言って目に毒だ、と健太は心の中で盛大に溜め息をつく。
その控えめに色づいた唇はぷっくりとしていて、食べごろのさくらんぼのようだ。そして、そこにうっすらと乗せられているルージュの色。主張しすぎないそれは、とんでもなく似合っているし可愛いし、そのことに関して文句などあるはずもない。ないのだけれど。
健太の記憶からすれば、ついこの前までは、亜紀は化粧品なんぞに見向きもしなかったはずだった。
流行のファッションだって、どこか別の世界のできごととしか捉えていなくて、長く伸ばした髪も無造作に束ねているだけの、飾り気の欠片もなかった亜紀。可愛い顔がもったいないとか、いや、逆に他の奴らが亜紀の魅力に気付かなくてラッキーとか、毎日毎晩しょーもないことばかりを考えていたのが健太の日常だった。それが、普通だった。当たり前だった。
それなのに、この状況は一体何なのだ。
ここ数ヶ月で見違えるばかりに綺麗になり、華美ではないけれど、うっすらとメイクを施すようになった。瑞々しい唇に引かれた艶やかなルージュは、健太のいけない妄想をかき立てるのに一役も二役も担っている。
……が。
そんな亜紀の変化に、唖然としたのは何も健太だけではない。
いや、周囲の反応は、唖然とすると言うよりも、呆然と言う方が近いだろうか。
突然、さなぎが蝶に孵化するかのように美少女へと変貌した亜紀に、学校の奴ら(主に男子生徒)の視線が変わったことだけは確かだ。当の本人の亜紀は、そんなことには全く気付く様子もなくて、のほほんと登校しているようだったが、亜紀命を自負する健太としては、それに気付かないほど間抜けではない。
それでも、亜紀が綺麗になった要因が自分ではないというのは、健太には手痛いできごとだった。
とは言っても、健太がその要因を知らないわけではない。亜紀が突然綺麗になった、綺麗になろうとした理由なんて、わかりすぎるほどにわかっている。
それは、数ヶ月前に転校して来た美少女、葛木奈央に原因がある。
あの女が、全ての元凶に他ならない。あの女が現われさえしなければ、亜紀は俺だけのものだった……と埒もないことを考えて、健太は唇を噛む。
奈央は、亜紀のクラスの転校生だったと聞いている。同じ学校に通っていない今では、全てが伝聞だ。
派手すぎない程度に染めた髪に、いつでも周囲に見られることを意識した身だしなみ。うっすらと施したメイクは、興味のない者から見ても綺麗だと思える少女だった。今まで亜紀の周りにはいなかったタイプの彼女が、どういうわけか、転校早々に亜紀を気に入ったことが全ての発端だったような気がする。
そもそも、クラス委員だった亜紀は、担任から彼女が学校に慣れるまでの世話を任されてはいた。良くも悪くも異性の目を惹きつけるタイプの奈央は、初日に告白して来た男子生徒をすげなく断り、それを勝手に逆恨みした相手に絡まれる羽目になった。それを助けたのが、亜紀だったのだ。
そして、彼女は助けてくれた亜紀にべったりになり、健太にしてみれば悪影響としか思えないようなことを次々とやらかしてくれる、とっても困った存在と成り果てて行ったのである。しかも、亜紀はそれをさして困っている様子もないから、始末に負えないのだ。
その最たるものが、今の状況だ。
それでも、亜紀の頼みを無下に断ることなんてことが健太にできるはずもなく、こうして不本意ながらも車を出しているのだ。
本当に、不本意極まりない。
これから、亜紀が他の男に会いに行くために、なのだ。自分のことながらアホくさいと思うが、それも これも、たったひとつの理由のためだけだ。
亜紀の、その笑顔を見たいがために。
それが、今も昔も健太を動かすたったひとつの原動力だった。