7.涙
「あれ?」
玄関の鍵が開いている。
近頃では近所にも空き巣が入ったり物騒なことが多いので、橘家でも鍵は必ず掛けることにしているのに…。
ドアをそっと引くと、靴が一足真ん中に脱いである。
父親のより大きいサイズなのは一目瞭然だ。
兄貴の靴かな?見た事ないけど。
嫌な予感がして、私はただいまも言わずにリビングに入る。
ここには、家族全員のその日のスケジュールが記入してあるホワイトボードがある。
両親が共働きの上、出張や残業の多い仕事である為、私たち家族にとっては必要不可欠なものだ。
それによると父親はあさってまで北海道に出張。
母親は今日は19時帰宅予定。
兄貴の成実は1限目が休講、4限まで講義を受けて、直接バイト。
私、蜜香は空白。
これは特記事項なしの意味で、いつもどおり学校へ行き、同じ時間に帰る場合は、このボードには記入不要なのだ。
結花の欄も同じく空白。
ただ、2年生は受験準備講習だかで、まだ学校のはず。
さて問題です。今、この家にいるのは誰でしょう?
…ええと、答え。私……だけ。…私一人のはずよね?
ホワイトボードとにらめっこする。
うん、やっぱり私しかいないはず。
…なのに、なぜか男物の靴が玄関に置いてあり、しかも厄介なことに、二階から話し声が聞こえて来てる気がする。
…どうしよう?鞄をソファの上にそっと置き、少し考えてから、私は足音を忍ばせながら玄関へと移動した。
靴箱の横にある、クローゼットのドアを目指す。
掃除道具や、キャンプ道具、冬用タイヤなどが入ったちょっとした倉庫になっているのだけれど、そのドアをそっと開け、一番近くに立て掛けてあるゴルフバッグに手を掛けた。
アパレルメーカーの営業部長をしている父親は、接待ゴルフ歴20年のベテランで、月に一度は日本各地のゴルフ場に出没している。
そんな父の大事なクラブの中から、金属製のパターを一本、抜き取る。
ゴメンね、父さん。これも、かわいい我が子の身を守る為だよ。。。
私はグリップをぎゅっと両手で握り締めて、キッと二階を睨んだ。
どうかどうか、ホワイトボードに書き忘れてるだけで、成ちゃんと結花でありますように。
空き巣なんかじゃ、ありませんように…。
私は、抜き足差し足の状態を保ったまま、二階への階段を上った。
二階に上がると、声はやはり幻聴なんかではないことがわかった。
どうやら二人いて、一人は男、一人は女のようだ。
耳を澄ますと、結花の部屋から声がしているようだった。そして、女の声は、まぎれもなく、私の妹のものだとわかった。
…どうしよう。
結花が人質になっているんだ。
空き巣の居直り強盗なのかもしれない。
話し声がしているから、すぐに命の危険はないのかもしれないけど、警察を呼ぶ時間は果たしてあるだろうか。
グルグルと頭の中が回って、倒れてしまいそうだ。
ついに結花の部屋の前まで来て、聞き耳をたてる。
けれど、朝からの雨と少し前から聞こえ始めた雷の音でかき消されて、内容までは聞き取れない。
その時。急に部屋がしんと静まり返った。ドアに耳が触れるくらいにしてみても、何も聞こえない。
なんてことだろう?私が躊躇している間に、結花が!
思ったと同時に、私は結花の部屋のドアを力いっぱいドンと開けて、ゴルフクラブを振り上げた。
そして、雷にも負けない、今までで一番の大声で、
「結花ッ!!」
と叫んでいた。
目の前には、血を流して倒れた妹と、殺人犯が…
…いると思っていた私は、真っ青になって手に持っていたパターを落とした。
「なんで?」
やっと出て来た言葉は、なんともマヌケで、私は力なく笑ってしまう。
そう。結花の部屋に、強盗はいなかった。いたのは、なぜかなっちで、妹と…。
結花とキスをしていたのだ。とても深いキスを。
笑いだけじゃなく、涙までこみあげて来る。
「みっちゃん、あのね」
結花は飛び跳ねるようにソファから立上がり、ドアの脇に突っ立っている私の目の前に来た。
なっちはと言えば、そのままでまるで人形になったように放心状態だ。
「ごめんね、結花。泥棒でも入ったかと思って、ノックもせずに。お邪魔しちゃったね」
「ううん、ちがうの。私こそ、ごめん。なっちと付き合ってること黙ってて。」
ああ、やっぱりそうなんだ。
付き合ってなきゃ、キスなんてするはずもないのに、少しだけ期待してた自分がいた。バカみたい。
「あやまらないでよ。別に気にしないから。けど、家でデートはやめた方がいいよ?成ちゃんにも内緒なんでしょ?」
チラリ、なっちを見ると、兄貴の名前が出た瞬間、肩をすくめ小さく苦笑した。
私は、クラリと立ちくらみを覚えた。
なんなのよ?成ちゃんに嘘ついて、隠し事して、なんで笑えるの?いつもの春風の笑顔はそこにはなく、まるで冬の乾いた風のように感じた。
私が見てきた春風のような笑顔は、結花へ向けられたものだったの?
「…私が高校卒業したら、みんなに言おうって、二人で決めてたの。こんなふうに、家で会ったのは、間違いだったと思う」
結花はうつむいて、消えそうな声で言う。
「そう。わかった。今日は、みんな帰りが遅いみたい。私、晩ご飯の買物に行って来るわ。結花、留守番お願いね」
涙がこぼれる前に、私は早くこの場から離れたいと思った。
…勘違いで、なっちと両想いだと思ってたことも、恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
急いで階段を下りようとしたら、結花に腕をつかまれた。
「いいよ、みっちゃん。私が買物行って来る」
余計なこと言わないで。
「いいって。私が行く」
ダメだ、泣いちゃうよ。
「みっちゃんに行かせるわけにいかないよ!家にいて。私が悪いんだもん。私が行く!」
「もう、いいよ。怒ってないから。家にいなよ、なっちもいるんだし」
私は振り返りもせず、とにかく無理に明るい声を作った。
「そんなの!嘘だよ!怒ってないわけない!だって、みっちゃんは、潤平のこと…!」
え…?
私は、振り返った。
「何?何言ってるの?…まさか、結花。…私の気持ち、知ってたの」
「あ……。うん。けど!」
「そっか。知ってて、なっちと笑ってたんだ?ただの片想いなのに、うかれちゃって、バカな蜜香だ、って?…バカにしないでよ!」
遂に、我慢していた涙は流れ出した。
ポロポロ、もう、止めどもない。
「ちがう!ちがうよ、そんな。とにかく、落ち着いて、みっちゃん。私が買物行くから、家でゆっくり…」
「ふざけないでよ。なんで私が、なっちと二人で留守番ができるの?私の気持ち知ってるなら、よくそんな事言えたわね」
私は、結花の手を思いきり払って、階段を駆け下りた。
「待って!みっちゃん!」
結花の声は、玄関のドアを閉めても聞こえる。
私は泣きながら、駆けていった。
とにかく、逃げたい。今のこの状況から。なっちから。結花から。…そして、バカな私から。逃げてしまいたい。
…消えてしまいたいよ。