2.成
「ただいま〜」
橘家の玄関を開けて、誰にともなく言うと、予想に反して、リビングから返事が返ってきた。
「お、蜜か?おかえり〜」
兄の成実の声だ。
兄貴は、清蘭学園大学部教育学科の3年生。
先日、我が南高校に教育実習にやってきて、女子高生のメルアドを山程ゲットした、強者だ。
本人は単なる教師と生徒と思っているから、勉強なんかの相談にいつでも乗れるようにと交換したそうだ。
けれど、女子高生の方は年上の大学生として見ているから質が悪い。
兄貴の携帯にはラブメールが毎日入って来て、大変そうだ。
まぁ、考えなしにメルアド交換した兄貴なので、自業自得だ。
リビングに入ると、兄貴はソファに座ってアクションゲームの最中だった。
「成ちゃん、今日バイトは?」
兄貴は、見た目は遊び人のチャラい大学生だが、本気で教師を目指していて、真面目に家庭教師のバイトをしているインテリな奴なのだ。
今は、中3の受験生を受け持っていて、毎日のようにバイトに精を出している。
「今日は休みにしたんだ。ヒカルの奴、頑張りすぎて疲れてるからさ」
ヒカルと言うのが、中3の生徒で、男の子だ。
成ちゃん、なかなか先生に向いてると私は思う。
勉強を教えながら、生徒の体調にも気を使えるなんて、簡単にできることじゃない。
「蜜、何をボーッとしてんだ?大丈夫か?」
成ちゃんがゲームのコントローラーを脇に置いて言った。
今日はよくボーッとしてると言われる日だなぁ、と苦笑しながら、朝のなっちを思い出した。
「そういえば、今朝なっちと電車が一緒になったんだ。バイクを橋口酒店に取りに行く所だって言ってたよ」
兄貴は、なっちと同じ清蘭学園大学部に通っている。
けれど、学部が違うせいで、キャンパスで出会うことはめったにないとか。
だから、橋口酒店で見掛ける機会のある私や妹の結花の方から、なっち情報を兄貴に提供したりしている。
「ふぅん。そっか……」
兄貴は、なんだか上の空で、タイム表示の点滅するテレビ画面を見つめている。
「成ちゃん?何?私、なんか変な事言った?」
私は兄貴の横に掛けて、目の前で手をヒラヒラさせてみる。
「や〜めろ、蜜。ちゃんと正気だよ。…ただ、ちょっと考えてた事があってさ」
考えてた事?てなんだろう?ついつい好奇心が頭を出してしまう。
「なによ、成ちゃん、隠さないで教えなよ。何を考えてたの?」
すると、困ったように笑って、兄貴は言った。
「いや、ちょっとなっちの事で。お前に言うことじゃないからさ」
なんだそれ!?余計気になるよ。
「成ちゃん、そこまで言っておいて、最後まで言わないのは反則だよ。『ちょっとなっちの事』じゃ、わからん!」
と、花一匁みたいに節を付けてみる。
「何言ってんだ、蜜!腹痛て〜」
と、案の定大爆笑している。
17年も毎日顔を合わせていれば、兄貴の笑いのツボくらい、心得ている。
本当、単純で面白い兄貴だ。
心ゆくまで笑った後、成ちゃんは急に神妙な面持ちになって、観念したように言った。
「蜜、俺の勘違いかもしれないし、もし間違ってたらいけないから言えなかったんだけどさ。蜜は、なっちの事、好きだろ?オトコとして」
兄貴の口から飛び出したストレートな言葉に、何も言えなくなる。
私はただ、小さく頷いて見せた。嘘はついちゃいけない気がした。
「そっか。なんとなく、蜜のなっちを見る目とか、なっちの話題の時の雰囲気で、そんな気はしてた」
成ちゃんは、うむうむと、満足げに首を縦に振り、続けて言った。
「これも確信はないんだけどさ。最近、なっちから電話あったり、たま〜に学校で会ったりして話すと、必ず蜜の話になるんだよな。まるで、俺をダシにして蜜の話を聞いてるみたいに…。てことはだよ?あいつ、もしかしたら、蜜の事、好きなのかもしれない」
「……!!」
私は、何も言えないまま、成ちゃんの目をじっと見つめていた。
まさか、そんなことを兄貴の口から聞くなんて。
いや、まさかなっちが、私のことを好きなんて。
そんな、ハイパーハッピーな事って、有り得るのだろうか?ああ、神様。
これは夢ですか?それならそれでもいい。こんな幸せな夢、見た事ないもの。
「蜜?びっくりして言葉も出ないか?」
今度は兄貴が私の目の前で手をヒラヒラさせる。
「びっくりするよ!なんでなっちが私を?ありえないよ。だって、いつだって、私は『成実の妹』だもん。兄貴がいるから、話せるし、会えるのに」
そうだ。私は、なっちにとって親友の妹以外の何者でもないんだ。なのに、そんなこと言われても、俄には信じられない。
「なあ、蜜。俺だって半信半疑だよ?けど、なっちの親友として、これは断言できる。あいつは蜜のこと、『成実の妹』だから構ってるんじゃない。蜜だから、構ってるんだ」
蜜だから…。
なんて幸せな響きだろう?蜜だから、私だから……。
なっちの春風のような笑顔が浮かぶ。
あの笑顔が、私だから向けられている笑顔だなんて、考えたことなかった。まさか、そんなことがあるなんて。
「成ちゃん、どうしよう。嬉しいんだけど、なんだか夢の中みたい。目が覚めたら消えちゃいそう」
「ま、相思相愛なんて、蜜は初めてだもんな。そう思うのも無理ないよ。…なっちには俺が言ったって事は内緒だぞ」
そう言って成ちゃんは慣れないウィンクをしてみせた。
「ただいまー」
玄関から、ともすれば独言とも取れるような声が僅かに聞こえてくる。
「結花だ。蜜、顔色変えるなよ。バレるぞ」
成ちゃんは、まるで秘密基地を大人に隠す時の小学生のように、ニヤリと笑って、そしてすぐに笑みを消した。
「おかえり〜!」
その声は、少し前に私に向けられた声と、寸分変わらない声だった。
兄貴、やるじゃないか。
ガチャ、とリビングのドアが開き、我が家の末っ子、結花が顔を覗かせた。
「なんだ、成ちゃんもみっちゃんも帰ってたの?私が一番乗りかと思ったのに、残念。…二人で何してんの?」
結花は昔から口が軽い。
秘密を守れた試しはないし、そのおかげで親友にさえ秘密を打ち明けられることはない。
かわいそうな気もするが、これがこの子の個性だし、周囲は慣れたものだ。
「別に、なにも。ゲームしてただけだよ」
成ちゃんが素っ気なく答える。
私は嘘をつくと顔がひきつるので、敢えて何も言わない。
「ふぅん。ゲームオンチのみっちゃんが横にいるなんて、珍しいじゃん。しかも、成ちゃん、画面はオープニング画面だよ」
私はハッとしてテレビを見た。
ついさっきまでコンティニューのカウントダウンがされていた画面は、ゲームのタイトル画面に戻り、更にオープニングの物語が始まるところだった。
「ああ。オープニングが見たくなってさ。な、蜜」
わ、わ、私に振らないでよ!!
「そう。見たいな、て私が成ちゃんに頼んだのよ」
そんなこと、あるわけないのに、言ってしまった。あ〜ぁ。
「みっちゃん、大丈夫?顔ひきつってるよ」
結花はニコリと笑う。
天使みたいな笑顔で。ああ、もうダメだぁ〜。
「二人が私を除け者にしてなにか内緒の話をしてた、ってことはよ〜っくわかりました。…ま、私のおしゃべりは筋金入りだからね。仕方ないわよ。…さて、おやつでも食べるかな。みっちゃんも食べる?ワッフル買って来たんだ」
そう、結花はこういう子なのだ。
なんだか、急に良心が痛み始めた。「結花、あのね…」
私は、いたたまれなくなって、声を掛けた。
「あ、みっちゃん、やめて。周りに知られたくない事なんでしょ?私、そんなの聞いちゃったら、絶対言っちゃうよ。黙ってらんない。お願いだから、言わないで」
結花は耳を塞ぐ真似をしながら、キッチンへ向かう。
なんだか、半分ホッとしたような、拍子抜けのような変な感じだ。
そんなぬるま湯加減の微妙な空気のまま、兄妹3人は、揃って冷たい紅茶とワッフルを喉に流し込んだのだ。