9.手
「先生、あそこ!」
オレは指差して叫んだ。
グランドの真ん中に立ちすくんでるセーラー服姿が見えた。
「蜜だ!」
成実先生は叫んで、更に全速力で走り始めた。
雨は止むどころか、一段と激しく降っている。なのに、不思議な事が起きた。
蜜香さんの歌声が、こんな遠くにまで聞こえて来たんだ。
『おとなの階段のぼる 君はまだシンデレラさ 幸せは誰かがきっと 運んでくれると信じてるね 少女だったといつの日か 思う時がくるのさ …少女だったと懐しく 振り向く日があるのさ」
どこかで聞いたメロディーを、綺麗なソプラノの声で歌っている。
すぐ横にいる成実先生の声だって、叫んでもらわなきゃ聞き取れないくらいに雨の音は凄まじい。なのに、なんでだ?
「蜜香さん、歌ってますね!なんて歌ですか!?」
少し前を走っている先生に尋ねると、チラッと振り返って、また前を向いた先生は、言った。
「歌ってる!?そんなの聞こえないよ!?」
ええ?
そりゃ、聞こえる方が不思議なんだけど、なんで聞こえないんだ?オレにはあんなにハッキリ聞こえたのに?
…頭がごちゃごちゃになってきた。だんだんと蜜香さんの姿が近付いてくる。
「蜜ッ!大丈夫かッ!?」
成実先生が、大声で叫びながら走り寄る。
蜜香さんは、放心したようにゆっくり、こっちを振り向いた。
……まるで天使のようだ。
真っ直ぐの長い髪、大きな瞳、そして雨ですっかり濡れそぼった真っ白のセーラー服。
なんて綺麗なんだろう。
「…ない、で。来ないでーッ!!」
蜜香さんは叫んで、後ずさる。
「どうしたんだ、蜜?何があった?雨の中、傘もささずに、こんなところに…」
成実先生は苦痛に歪んだ笑顔で優しく声を掛け、ゆっくり近付いて行く。
まさか、こんなふうに拒絶されるなんて考えていなかったんだろう。痛々しいくらいの無理やりの笑顔だ。
「ごめん、成ちゃん。私の方から電話したのに…。だけど、ダメなの。成ちゃんに甘えるわけに行かないの。ごめんなさい」
天使の蜜香さんは、膝に手を当ててペコリとお辞儀をした。
「甘えたっていいんだよ。そんなに苦しそうなのに、なんで俺に遠慮するんだ?」
そう言いながら、成実先生は確実に一歩ずつ前に進む。
「私、成ちゃんまで傷つけるのが嫌なの。だから、一人にしておいて」
蜜香さんは泣いている。頬を流れるのは、雨だけじゃない。
一体、何が彼女をこんなに悲しませてるんだ?実の兄貴に助けを求めたのに、その兄貴さえも傷つけてしまうことになる…?…何があったかはわからないが、成実先生にも原因があるとか?だったら。
自分のせいで妹がこんなに泣いているなら、成実先生が傷付かないわけがない。
「蜜…」
傘を叩く雨はまた強さを増す。
「…成実先生!とりあえず、蜜香さんにはオレが付いてますから、タオルと傘と、何か暖かい飲み物でも、買って来て下さい!このままじゃ、風邪引いちゃいます!」
「けど、ヒカル…」
成実先生は何か言いたそうだったが、言葉を飲み込み、小さく頷いてから、商店街を目指して走り始めた。
「こんにちは、蜜香さん。オレは、ヒカルです。森沢 光。成実先生に家庭教師してもらってます」
成ちゃんがクルリと方向転換して駆け出してから、一呼吸して、意を決したように中3のヒカルくんは言った。
「雨降ってるし、寒いでしょ?職員室の所がちょうど雨宿りにピッタリなんだけど、行ってみない?」
ヒカルくんの声は優しくて、私はコクリ、と頷いていた。
職員室は、グランドに面した校舎の一番東側に位置している。
すぐ隣りは来客用の正面玄関があり、庇が大きく造ってある。その乾いた数段の階段に腰掛ける。
「部活していて、急に夕立が降って来たりすると、ここにいろんな部活の人が入り交じって雨宿りするんです。で、止むまで雑談したりして。学年もクラスもスポーツの種類も違うけど、なんか連帯感が生まれるんですよ」
手を引かれて庇の下に入る。と、ヒカルくんは上着を脱いで私の肩に掛けた。
「すっかりびしょ濡れの上に着てもあんまり効果はないだろうけど、気休めにはなるでしょ?」
「そんな。十分暖かいよ。…ごめんね、ヒカルくん。勉強中に成ちゃんを呼び出したりして迷惑かけたし、雨の中探し回った挙句にわけ分かんない事言い出すこんなヤツに気を遣わせて」
中学生にこんなに優しくされるほど、私の状態は最悪なんだろうか…。
ダメだ。どんどん悪い方に転がり落ちそうだ。
「ねぇ、蜜香さん?」
急に穏やかに声を掛けられてハッとする。
暗い空を見上げているヒカルくんの横顔は澄んでいて、私は目が離せなくなった。
「ここって、晴れた日の夜は、星がすごく沢山見える所なんだよ。ホラ、遮るものがなにもないでしょ?」
本当だ。グランドに面した方向は住宅地が広がっていて、丘の天辺に位置するこの中学校から見上げると、空しか見えない。
「…オレね、『受験生』だし、部活では最上級生の『先輩』だし、ひとりになった時はただの15歳の『男』だし。なんか、頭の中がパニックになったりすることもあったりして。成実先生に相談乗ってもらったりしても、どうしてもやりきれない日があるんです」
中学生の時の悩み…。
私にもいっぱいあった。私も困ったことがあれば、いつも成ちゃんに相談してたっけ。
それでもやりきれない時は、どうしてただろう?
「そういう時は、夜、こっそり家を抜け出して、ここに来るんです。ここから星空を見てると、楽になる。昼間、学校にはいろんな悩みの種があって、辛かったりもするけれど、夜にはこんなに綺麗な星空を見せてくれる、素敵な場所になるわけでしょ?だから、今日辛くてやりきれないオレだって、何かのきっかけで、絶対浮上できる。
誰かに星空を見せるくらいに、でっかい人間になってやる、とか思ったりして。…ハハ、何言ってんだか、ですね」
ニコッ、と笑いながらヒカルくんはこちらを向いた。
そして、目を丸くした。
「蜜香さん、なんで泣くの?…嫌なこと言ったかな」
言われて、気付く。私、泣いてる?
「ううん。何も、ヒカルくんは嫌な事なんて言ってないよ。…ただ、なんだかすごく楽になったの。心に大きな塊があったのに、それがヒカルくんの暖かさで溶けて消えたみたい…。ありがとう」
すると、ヒカルくんは私の手をギュッと握った。
「蜜香さんに何があったか、聞いてもいいですか?…言いたくないならいいんだけど」
温かい手から、ヒカルくんの優しさが私の体に流れ込んで来る。なんて心地いいんだろう。
「聞いてくれる?私のバカな話。笑っちゃうかもしれないよ?」
涙を手の甲で拭きながら、私は無理やり笑って言った。
けれど、ヒカルくんは、笑わなかった。ただ、優しい瞳で私の目を見つめている。
「…私ね、とても好きな人がいるの。ただの憧れで好きになってた今までとは違う、本当に好きになった初めての人なの。その人はね、成ちゃん……兄貴の友達なんだ。優しくて、かっこよくて、その人がいるだけで、まるで春になったみたいに暖かい気持ちになれる、そんな人なの…」
そんな春風のような人だと、思ってたのに…。
私はヒカルくんに何もかも話した。
成ちゃんから、なっちも私を好きらしいと聞いた事、それを聞いて嬉しくてなっちに会いたくてバイト先にも行った事。
そして、今日の結花との出来事も。
ヒカルくんは、私が話す間、ずっと手を握ってくれていた。
私の手が小さく震えている事にも気付いているかもしれない。
蜜香さんの話は、少なからずオレの胸に棘を刺した。
両想いと思っていた好きな人には実は彼女がいて、しかも実の妹だったなんて…。
そんな悲しいことがあるなんて、ドラマの中の出来事のように聞こえる。
けれど、蜜香さんにとっては消えない現実なんだ。
成実先生に言えない理由もわかった。
成実先生なら、きっと自分のせいで妹が傷ついたと思うだろう。
そして、自分を責めるに違いない。
そんな成実先生を見るのが嫌だから、蜜香さんは言えなくなってしまったんだ。
オレは、蜜香さんの目を見つめながら、手をぎゅっと握り締めるしかできないでいた。
この手の温もりが、蜜香さんの悲しく冷たくなった心を解かしてくれたらいいのに。
雨は、少しだけ勢いを無くし、降りそそいでいる。
小さく震える蜜香さんの体を、抱きしめてあげたいと思うのをオレはグッとこらえていた。