第三章 完全者の不完全性 【一九九九年・東京】 Ⅱ-ⅰ
家庭教師を再開した僕は、まず自分が置かれている状況を再確認しなければならなかった。
大きな変化は、二つあった。
一つ目は、僕は、引っ越さなければならなくなったことだ。
例の強制連行騒ぎのせいで、僕は、隣近所に多大な迷惑をかけてしまったらしい。
だから、アパートを追い出されるハメになってしまった。
そして、行き場を失った僕が、転がり込む先は、『比良木邸』しかなかった。
もちろん他の手段も考えてみたが、結局、この『悪魔の巣』に転がり込む選択肢しかなかったのである。
僕がアパートを追い出されることを聞いた歩美ちゃんは、「まぁ、責任の一端は、私にもないこともないのだから、この館に住むことを許してやってもよいぞ。しかも、家賃は無料にしてあげようじゃないか。この天使のようなわたしに感謝しろよ」と、とても嬉しそうに言った。
歩美ちゃんは、僕の不幸がとても嬉しいらしい。
本当に性格が捻じ曲がった『悪魔』だ。しかも、おそらく強制連行をあれだけ派手なものにしたのはワザとだろう。
柚木さんの能力をもってすればもっとスマートに、僕をこの館へ連れてくることも可能だったはずだ。
つまり、歩美ちゃんは、意図的に僕がこの館に住まざるを得なくしたのだ。
……恐ろしい……まぁ、僕も『部屋が広くなるし、美味しいご飯食べれるしいいか』などと思ってしまっているので、声高に抗議をすることはできないのだけど……。
二つ目は、僕の家庭教師としての仕事場が、歩美ちゃんの部屋から僕の部屋(もう、こう言ってもいいだろう)に変わったことだ。
その理由は、よく分からない。
突然歩美ちゃんが「今日から、センセの部屋でするぞ」と言ったので、こうなったのだ。
僕にとっては、些細な問題だったのであまり気にならなかった。
今の僕にとって重大なことは、別にある。そのこと比べたら、引越しでさえ些細な問題と言える。
まず、その背景について話しをしよう。
僕は、第二外国語にフランス語を選択している。
僕が、フランス語を選択したのには、特に理由はない。
強いて言うのであれば、「そのフニャフニャした語感が好きだから」といったところだろうか。
僕は、一年生のときから、そのフランス語の講義に気になっている女の子がいた。
名前は、咲耶加奈。白い服がよく似合う、とても物腰がやわらかな女の子だ。
思わず、その長くて綺麗な黒髪を自ら手で梳かしたくなるという衝動が僕の内から湧き上がってきたりする。
……まぁ……実際にそんなことをすれば、変態扱いされるので、もちろん実行には移さない。
あくまで、僕の脳内だけで留める(これだけでもかなり変態ぽいけど……)
通常、S大学では、必修科目となっている語学の講義は、二年生までで終了する。
三年生になって語学の講義を取っている者は、単位を取りこぼしたか、『~語Ⅲ』という上級講義を取っている者の二種類だけである。
もちろん、前者よりも後者の方がはるかに少ないことは言うまでもない。
この三年生以上を対象としている上級講義は、定員十人前後に抑えられており、教員もほとんどがその言葉を母国語としている人達である。
つまり、かなりハードな授業内容となっているのである。
したがって、調子に乗って取ってみたものはいいものの、結局は、授業に付いていくことができず脱落する者も多い。
三年生である僕が、まだフランス語の授業を取っているのは、単位を取りこぼしたためではなく、『フランス語Ⅲ』という上級講義を取っているからである。
しかも、後期に入ってもまだ脱落していない。
これは、僕の取った講義が偶々易しいものだったからではない。現に、後期に入った段階で、既に十人中五人が脱落している。
つまり、僕は、かなりがんばっているとのだ。
しかも、司法試験の勉強をやりながら、このハードな講義をこなしてきた。
これほどまでにがんばっているのは、もちろん“フランス語が好きだから”という俗っぽい(?)理由からではない。
咲耶さんと仲良くなりたい!
これが、僕をここまでがんばらせている理由である。
なんて、純粋な理由なんだろう。人間は、純粋であれば純粋なほど努力できるというのを再認識することができた。
で、僕が咲耶さんがどれくらい親しくなることができたといえば……最高でも『友達』、最低なら……『迷惑な人』?
いやいや!
講義以外でも、キャンパスで偶然に会えば、数分立ち話をするぐらいだから、僕の自意識過剰ぶりを差し引いたとしても、少なくとも咲耶さんは、僕のことを『迷惑な人』とは思ってはいないだろう。
さすがに、好意をもってもらっているとまでは言えないけど……。
語学という大学の授業の中では珍しく人間関係が緊密な空間の中で、三年もの年月を、咲耶さんと一緒に過ごしてきたというに、僕は、いったい何をしてきたんだろうと自分でも思う。
『この根性なし!』と罵られても、それを否定することはできないだろう。
だから、僕は、そろそろ咲耶さんを食事ぐらいには、誘わなければ焦っていた。
そして、この前の講義のときに、ついに意を決して彼女を食事に誘ってみたのだ。
しかし、初めは軽くいった方が良いと思ったので、講義が始まる前の昼食に誘ってみた。
結果は、OK!
咲耶さんは、「良いですよ。楽しみにしていますわ」と笑顔で言ってくれた。
ここ最近、あの『黒い悪魔』のシニカルな笑顔しか見ていなかった僕にとっては、一瞬立ち眩んでしまうほどの笑顔だった。
まさに『天使』の微笑みだ。
この『世界』に神様がいるなら、『悪魔』だけを僕に遣わすわけがないと思っていたけど、神様は、ちゃんと『天使』も僕のところに遣わしてくれたんだ。
神様サイコー!
正直言って、僕は、ウカレていた。もうウカレまくっていた。
『この人、もう手がつけられません!』といった感じだった。
現に、あの歩美ちゃんでさえ「何か良いことでもあったのか?」と聞いてきたぐらいだ。
このことからも、僕のウカレ具合が分かるだろう。
そして、ウカレまくっていた僕は、歩美ちゃんに、咲耶さんと食事することを話した。
それはもう、身振り手振りを交えて、テンション高く。
歩美ちゃんは、「ほう、それは良かったじゃないか」と、全く興味がなさそうに聞き流していた。
ただ、何故か歩美ちゃんは、咲耶さんとの食事の日時と場所を聞いてきた。
そのことが少し気になったが、すぐに「ま、いいか」と思い直した。
そんな些細なことを気になんてしている場合ではなかった。
この食事は、咲耶さんと仲良くなるファースト・ステップだ。
セカンド、サードと繋げていくためには、絶対に失敗するわけにはいかないのだっ!




