心臓を取る子供たち
心臓がこれからの酷使に備えるように、一度どくりと脈打った。
白い運動着の膝へ両手を置き、緊張で僅かに乱れていた呼吸をもう一度だけ深く整える。
額に滲んだ汗をそっと拭った。
無機質な電子音が、まるで終末を告げるラッパ音のように重く低く、白色の無骨な空間を震わせる。
正面に降りた灰色のシャッターを睨みながら、最後の一音が消えていくのに合わせて口の中で小さく数えた。
「……三、二、一。」
最後の数字を言い終えるより僅かに早く腰を落とす。
右足を半歩引いたところで鼓膜を刺すような警笛が響き、正面のシャッターが勢いよく跳ね上がった。
トウカはほとんど反射的に走り出した。
同時に現在位置を確認するために、ざっと周囲に視線を巡らせる。
巨大な倉庫の内部には、鉄筋とコンクリートで組み上げられた無骨な構造物が床から天井まで幾重にも折り重なっていた。
まるで、十階建ての建物から外壁だけを剥ぎ取って、その骨格を無理矢理一か所へ押し込んだような景色だと、見る度に思う。
頭上ではトウカと同じ白い運動着を着た何人もの子供が細い梁を走っている。下層に一瞬目を遣れば、数人がが配管の隙間を腹這いになって進んでいた。
金属へ靴底が叩きつけられる音や安全索が軋む音、あちこちで職員が番号と評価を読み上げる声が反響し、広い空間全体がひとつの巨大な機械のように騒がしかった。
「急げ!急げ!急げ!」
何人かが接触したのか。少年の焦った声が上から降ってくる。
その声に押されるように梯子を駆け登った先。
道が切れていた。
いや、正確には、絶壁の先、三メートルほどの空間を開けてまた道が続いている。道の脇からは、一本の鉄管がこちらに向け斜め上へ突き出していた。
ここで躊躇すれば横から来る別の子供に先へ入られるだろう。
大きく息を吸った。そのまま三歩だけ後退し、勢いよく走り出す。
最後の一歩で床を強く蹴って、宙へ身体を投げ出した。
背筋が粟立つような浮遊感。
「っ……!」
伸ばした右手が鉄管へ届き、掌が金属を捉えた瞬間、全体重が一方の肩へまともに掛かった。関節の奥が悲鳴を上げる。
身体が振り子のように戻される前に左手を伸ばして、もう一度鉄管を掴んだ。
下では少年が足を滑らせ、安全索に吊られたまま勢いよく鉄骨へ肩をぶつけていた。悲鳴が響き、職員の一人がそちらへ走る。
視界の端に映った光景をよく確認することもなく、トウカは両腕に力を込めて身体を引き上げ、そのまま鉄管を跨いだ。
「1034番、赤一!」
どこかで声が響く。
トウカは鉄管の先にある足場へ飛び移り、そのまま肩幅より僅かに広いだけの通路へ身体を滑り込ませた。
腹這いになって肘と膝を使いながら前へ進むたび、粗い床材が長袖越しに皮膚を擦り、前を進んでいた少年の靴底が曲がり角で一瞬目の前を塞ぐ。
「早くどいて!」
「分かってるって!」
少年が無理矢理身体を捻って横の道へ抜けていくのを待つことなく、トウカは反対側の狭い通路へ身体を滑らせる。
出口から転がるように飛び出したところで反射的に足を止めた。
また、床がなかった。
直径十数メートルはある縦穴がぽっかりと口を開け、その中央には黄色い袋が一本の細い糸で吊り下げられている。
遥か下には厚い衝撃吸収材が敷かれていたが、ここから落ちれば無傷で済む高さではない。
反対側を見ると、金髪を三つ編みにした少女がこちらを睨むように立っていた。ほぼ同じタイミングで縦穴へ辿り着いたのだろう。
一瞬だけ目が合った。
互いに何も言わず周囲を見れば、穴の両側から中央へ向かって一本ずつ細い鉄棒が伸びている。
ただし、どちらも黄色い袋までは届いておらず、最後の二メートル近くは宙を飛ぶしかない。
少女も同じことに気付いたらしく、ほぼ同時に二人は後ろへ下がった。
先に取った方が、勝ちだ。
トウカはまた三歩だけ助走をつけると、縦穴の縁を強く蹴って鉄棒へ跳びついた。
指先が一瞬金属の表面を滑る。右手の人差し指と中指しか引っ掛からなかった。
そのまま身体が下へ落ちかけたが、残った指に力を込めて耐えながら左手を伸ばし、何とか鉄棒を掴み直す。
先ほどの負担も相まってか、肩から鋭い痛みが走った。しかしそれに構っている余裕はない。
身体を振って反動をつけると一気に脚を持ち上げ、棒へ跨った。
反対側では少女もすでに鉄棒へ乗っている。
「どきなさいよ!」
「そっちこそ!」
トウカは靴幅より少し広い程度しかない棒の上へ立ち上がり、両腕を広げて重心を取りながら一歩ずつ前へ進んだ。
下を見れば十数メートルの空間が広がっていることはもう分かっている。視線を落とせば身体までそちらへ引っ張られる気がして、黄色い袋だけを見ながら進んだ。
慎重に、二歩。三歩。
少女が釣り糸のすぐそばまで来ているのが、視界の隅に映る。
思わず走り出していた。
「ちょっと、待っ――!」
少女が吊り糸へ手を伸ばすのと同時に、トウカも鉄棒の先端を蹴った。
足元から金属が消え、身体が完全に宙へ投げ出される。
ほぼ同時に少女の指が吊り糸を掴み、黄色い袋が僅かに持ち上がったところへ、トウカは横から身体ごと飛び込んで両腕で袋を抱え込んだ。
もちろん身体を支えるものは何もない。
二人の目が合う。
少女の顔が、はっきりと「馬鹿」と言っていた。
直後、身体が落ちた。
数秒にも満たない浮遊感の中で天井が急速に遠ざかり、トウカは黄色い袋を腹へ抱え込んだまま背中を丸める。
次の瞬間、衝撃吸収材へ背中から叩きつけられ、肺の中にあった空気が一気に押し出された。
「――っ!」
声すら出なかった。
視界の端が一瞬暗くなり、耳の奥で高い音が鳴る。
身体がマットへ深く沈み、僅かに跳ね返ってからもう一度落ちたところで、ようやく息を吸い込んだ。
背中全体が巨大な板で殴られたように痛む。それでも、腕の中には黄色い袋が残っている。
もう一度天井を見上げた瞬間、終了を知らせるサイレンが鳴り響いた。
「1008番、黄一!」
近くに設置された音響機器から職員の声が響く。
トウカは仰向けになったまま一度大きく息を吸った。
肺が動くことを確認して、痛みに顔を歪めながらもなんとか口端を上げて笑みを作る。
「……よし。」
上から少女の怒鳴り声が落ちてくる。
「この馬鹿! あんた正気!?普通飛ぶ!?」
「取った者勝ちでしょ。」
「落ちてるでしょうが!」
「生きてるし。」
「次は知らないわよ!」
それは確かに、その通りだった。
トウカはそのまま数秒だけ天井を見上げてから身体を起こした。
痛む背中を少し庇うようにして、黄色い袋を持ったまま縦穴の底に設けられた扉を抜けて訓練区画の外へ出る。
通路には、同じように訓練を終えた子供たちが次々と集まっていた。
膝から血を流している者、肩を押さえて顔を顰めている者、青や赤の袋を抱えて笑っている者、何も獲得できなかったのか無言で床を蹴っている者。
それぞれの間を白衣や作業着姿の大人たちが忙しく移動しながら、怪我の程度や取得した評価を確認している。
やがて壁面の大型表示板が切り替わり、その日の総合順位が上から順に表示された。
一位は、また1105だった。
「……またか。」
思わず呟く。
数か月前、何の前触れもなくこの施設へ加わった少年だった。年齢は十一歳。淡い金色の髪と細い身体。最初に見かけた時は時折研究所から回されてくる子供の内の一人にしか見えなかった。
しかし訓練が始まると、誰も勝てなかった。トウカが属する上位組の誰も。
走る速度だけならブラッドの方が速い。腕力なら十三歳のマックスの方が上で、跳躍力ならエリザにも分がある。しかし、終了時に表示板を見ると、いつも1105が一番上にいた。
青は判断と認知、黄は運動と身体操作、赤は決断と行動。
大抵の子供はどこかへ偏る。頭は良くても高所で足が止まる者、身体能力は高くても状況が変わると判断が遅れる者、正解は分かっているのに最後の一歩を踏み出せない者。
1105はそのすべてが高かった。
今日も表示板には、青一、黄二、赤一と並んでいる。
「1008。」
肩を叩かれ、振り返ると白衣の女性が立っていた。
「医務室へ。」
「……背中だけですよ。」
「それを決めるのはあなたじゃない。」
「はーい。」
連れていかれながら最後に一度だけ振り返ると、少し離れた場所で男性職員が1105の肩へ手を置き、何かを説明している姿が見えた。
職員の顔には喜色が浮かんでいたが、少年は相変わらず無表情だった。
◇
「お前また落ちたんだって?」
簡易検査と湿布を終えて医務区画を出たところで、壁にもたれて待っていた黒い肌の少年、ブラッドが呆れたように笑った。
「いやあ、慣れると結構平気だよ。決めてやったわ!」
得意げに胸を張った瞬間、背中へ貼られた湿布が引きつって痛み、思わず顔を歪める。
「全然平気じゃねえじゃん。お前、身体は小さいのに根性だけは妙に据わってるよな。」
「十二歳だからね。もうベテランですよ。」
「その理屈なら十三のマックスは仙人だろ。」
「その仙人、先週足首折ってまだ医療区画だけどね。」
「縁起でもねえこと言うなよ!」
ブラッドが少し慌てた声で言ったところで、廊下の奥から赤毛の少女が足早に近づいてきた。
「トウカ! あなたまた怪我したの!?」
「エリザ、声が大きい。」
「明後日回収なんでしょう!? 何考えてんのよ!」
エリザは返事を待たずトウカの後ろへ回り、湿布の貼られた辺りを確認するように覗き込んだ。
「今回は小型の精製プラントだし、一人で行くって聞いてるから大丈夫だよ。」
「一人だから危ないって言ってるんでしょうが! 先月も二人ロストしてんのよ。使える人間が減ったら私の生存率まで下がるでしょうが!」
ブラッドが大げさに肩を竦めて、苦笑した。
「心配なら普通に心配って言えばいいのに。」
「は?」
「何でもないです。」
即座に顔を逸らしたブラッドを見て、トウカは思わず小さく笑った。
こういうやり取りも、この施設では珍しくなかった。
訓練で大怪我した者が、作業所送りになる。実践で還って来れなかった者の名前が、朝そっと呟かれる。
そのたびに真正面から悲しんでいては、その内自分が立てなくなってしまう。
三人で休憩区画へ向かう途中、トウカは壁面端末へ手首の識別帯を当てた。
短い電子音とともに、812/2000という数字が表示される。
「加点2か……遠いなあ。」
思わず呟くと、エリザが横から覗き込んだ。
「訓練じゃ移住点はほとんど増えないんだから当然でしょ。」
二千点。
十四歳前後でこの施設を出るまでにそこへ到達すれば、アナシス汚染圏から離れた一般居住コロニーへの移住権が与えられる。
そして、もし届かなければ配属先を選ぶことはできず、外縁採掘施設、輸送基地、感染宙域近くの保守設備といった、人手不足で安全とは言い難い場所へ回される。
「あと1188点。」
ブラッドが笑いながら呟いた。
「数字にするのやめて。急に無理そうに見えるから。」
「今回三基だろ? 全部持って帰れば結構入るんじゃねえの?」
「……その前に死なないでよ。」
エリザがぽつりと零した。
その時、通路の反対側を1105が一人で歩いていくのが見えた。何となくその姿を目で追う。
まだ少年らしい柔らかい線を残した顔は、顔立ちこそ端正ではあったが、やはり何の感情も浮かんでいない。
「……あいつ、まだ実地出てないんだっけ。」
「ないわよ。話しかけてもなーんも喋らないし。」
「十一歳だったよね。今までどこにいたんだろ。」
「さあ。また研究所で色々弄られてた個体じゃないの?」
エリザは少し声を潜めた。
「前にちょっと訓練中目で追ってたんだけど、えげつない身体能力だった。絶対なんか混ぜられてる。」
「……それなら私達だって一緒じゃん。」
「まあ、それはそうだけど。」
そうやって話している内に、1105は角を曲がり、その姿は見えなくなった。
トウカは小さく嘆息し、もう一度端末に表示された数字を見る。
遠い。たしかに遠い。
けれど、遠いからといって他に目指せる場所があるわけでもないのだ。
自分たち道具には。
◇
二日後、回収艇の装備区画で、トウカは金属棚へ並べられた道具を一つずつ確認していた。
機械式腕時計、化学発光棒、ワイヤー、カラビナ、圧縮ガス式の射出器、小型刃物、防毒マスク、耐熱手袋。
どれも構造は単純で、電池や電子回路を使うものは一つもない。
五百年前、人類は汚染の進んだ地球を離れ、本格的に宇宙へ居住圏を広げ始めた。
居住コロニー、農業衛星、採掘基地、精製プラント。
それら膨大な施設を支えたのが、超長期自律型エネルギー機関だった。
一基あれば、小規模な施設なら何十年、ものによっては何百年と維持できる。
それは人類文明を支える心臓であると同時に、現在では《アナシス》という未知の宇宙生命体を育てる餌にもなっていた。
最初に一つの衛星基地が失われ、次にその近くの補給施設が、さらにその次には精製プラントが消えた。
人類が何が起きているのか理解した頃には、既に百を超える施設が感染し、アナシスはアークから得たエネルギーを使って、更に周囲の機械構造を自らの肉体へ変えながら膨張を続けていた。
最初は感染施設をアナシスごと吹き飛ばすことも試された。しかし、爆破されたアナシスは微細な分体を宇宙へ撒き散らし、それが別の人工構造物へ到達すれば、そこからまた感染が始まることが確認されてしまった。
無人機を送り込めば電子回路ごと侵食され、通信機も探査ドローンも作業ロボットも、早ければ数十秒で沈黙した。
そこで人類に最後に残された手段が、人間自身が内部へ入り、アナシスの活動を支えているアークを物理的に引き抜くという、ひどく原始的な方法だった。
しかし内部には別の問題があった。
アナシスに感染した施設には、高熱、有毒ガス、腐食性液体の貯留に加え、人間に感染する特殊な感染性因子が存在していたのだ。
特にこの感染性因子は、幼い子供には影響が少ないものの、思春期以降の人体へは強く作用し、一度感染すれば数か月で臓器を腐らせるというかなり厄介な性質を持っていた。
さらにアナシスに侵食された施設内部は、元が人間用の建築物だったとは思えないほど狭く複雑に変形し、大人の身体では到底通り抜けられない場所が無数に生まれる。
そこで人類は長い議論の末、倫理を捨てた。
全人類を救うためという立派な理由を掲げて、回収用の子供を育て始めたのだ。
トウカもその一人だった。
ただし、彼女にはここにいる他の子供にはないものが一つだけある。
前世の記憶。
そう呼ぶ以外に説明しようのない、別の世界で三十年近く生きた日本人としての記憶だった。
あの世界にも環境問題はあった。戦争も、貧困も、毎日のように画面へ流れてくるろくでもないニュースもあった。
それでも十二歳の子供は普通、学校へ通い、友人と喧嘩をし、夕方になれば家へ帰った。
少なくとも、巨大な生物へ変わった工場の腹へ潜り込み、発電機を引き抜いて帰ることを仕事にはしていなかった。
だからトウカだけは分かっている。
これは、おかしい。
子供をこんな場所へ送り込むのは、どう考えてもおかしい。
だが、おかしいと理解したところで何かが変わるわけでもない。
前世の知識でアナシスを倒せるわけでもなく、現代日本で普通に会社へ通っていた人間が、五百年後の科学技術を理解できるはずもない。
だから、トウカは、長く生きるためにできるかぎりのことをしていくしかなかった。
二千点まで稼いで、安全な土地へ移住する。
今の自分にできるのは、それだけだった。
「1008。」
声を掛けられて顔を上げると、装備区画の入口に今回の回収を指揮する男が立っていた。
「確認する。対象は旧第七資源精製プラント。感染推定二十三年。内部アーク三基。外部観測上、アルファ形成なし。抑制剤投与開始後の活動低下時間は六十分と推定される。」
「はい。」
「六十分を超えれば放熱機構が再起動する。内部温度は十五分以内に百八十度を超える。戻らなければ置いていく。」
「分かっています。」
「三基すべてを取る必要はない。生還を優先しろ。」
「はい。」
男の視線が一度だけトウカの背中へ落ちた。
「打撲は。」
「走れます。」
「問題があるかと聞いた。」
「ありません。」
「ならいい。」
やがて低い振動が船体を伝い、アナシスの活動を鈍らせる抑制剤の注入が始まった。
隔壁の向こうから、巨大な機械がゆっくり呼吸しているような低い音が響いていたが、それも時間の経過とともに少しずつ弱くなっていく。
接続完了を知らせる機械音声が流れ、正面のハッチが開いた。
ぶわりと熱気が押し寄せ、トウカは思わず片手で顔を覆い、目を細めた。
赤い。
かつて人間が造った精製プラントだったはずのものが、今では巨大な生物の腹腔としか思えない姿へ変わっていた。
剥き出しの鉄骨には赤黒い膜がまとわりつき、天井には配管とも血管ともつかない太い管が幾重にも絡み合い、その表面をゆっくりと収縮させている。
肉のように膨らんだ壁の隙間からは工業用の注意表示や古い識別番号が僅かに覗き、人工物と生体組織が境目も分からないほど一体化していた。
人工重力装置は今も動いている。人間が制御しているわけではない。アナシス自身が、施設の他の機能と同じように使い続けているのだ。
トウカは腕時計を確認すると、回転ベゼルの零点を分針へ合わせた。
ここから六十分。
「行け!」
低い男の声と同時に床を蹴った。
◇
最初の五分は、思っていたより静かだった。
それが、かえって不気味だった。
抑制剤が効いている間、アナシスの活動は大きく落ちる。壁を這う管はゆっくりとしか動かず、赤黒い肉の脈動も弱い。
それなのに、歩くたびに壁の向こうから、ぬち、ぎち、ずる、と湿った音が断続的に聞こえてきて、姿の見えない何かがこちらの移動に合わせて並走しているような錯覚を覚えた。
第一分岐へ差しかかり、トウカは足を止めた。
右と左。
感染前の図面では右が最短経路だったが、右側の通路から流れてくる空気だけが異様に熱く、床へ手袋越しに触れてみても明らかに左側より温度が高い。
「右は駄目か。」
壁の向こうで放熱器官が成長しているのだろう。仮に進めたとしても、その先で塞がれている可能性が高い。
トウカは左へ走った。
数分後、右側の通路と再び合流する位置へ出たところで、予想が正しかったことが分かった。赤黒い肉塊が壁から壁まで膨れ上がり、通路を完全に塞いでいる。
「青一。」
誰も聞いていないのを承知で小さく呟く。
その時、肉壁の表面に一本だけ走っていた細い裂け目の奥を、黒い何かが横切ったように見えた。
トウカは反射的に一歩下がって裂け目を見つめたが、そこにはゆっくりと脈打つ肉壁があるだけで、もう何も動いてはいない。
「……気のせい、だよね。」
そう自分へ言い聞かせながら腕時計を確認すると、残りは四十九分。立ち止まっている時間はない。
第一アークは旧制御室の地下に残されていた。
円筒型の保護容器は半分以上を肉状組織へ埋め込まれ、細い繊維がその表面へ蔦のように絡みついている。
トウカは刃物で一本ずつ切断しながら固定具を外していった。
一つ、二つ、三つ。
最後のロックを外してアークを引いたが、抜けない。
「え?」
もう一度力を込めたところで、背後から、ぎち、と何かが鳴った。
トウカの手が止まる。
急いで振り返るが、誰もいない。赤いアナシスに侵された壁面があるだけ。
当然だ。今回は単独任務なのだから、いるはずがない。
それでも、さっきまで聞こえていた壁の奥の音とは違った気がして、背筋に薄い寒気が走った。
「……やめてよ、まじで。」
トウカはアークへ向き直り、両腕で抱え込むようにして全力で引いた。
絡みついた組織が一斉に千切れ、濁った液体が飛び散るのと同時にアークが抜ける。
その瞬間、周囲の肉壁が大きく痙攣した。
「っ!」
足元の床まで震え、天井を這っていた太い管が一斉に収縮する。まるで巨大な工場全体が痛みに身を捩ったかのようで、遠くからは、長い眠りの底で何かが身じろぎしたような低い音まで聞こえた。
数秒後には再び静かになったものの、トウカは急いでアークを背中の専用バッグへ押し込み、その場を離れた。
残り四十五分。
◇
二基目へ向かう途中で、床がなくなった。
もともとは大型の液体貯蔵槽だった場所らしく、直径三十メートル近い縦穴の底には赤黒い液体がゆっくりと波打ち、ときおり表面へ大きな泡が浮かんでは粘ついた音を立てて弾けていた。
トウカは縁から覗き込んだ。
「これ、絶対落ちたら駄目なやつだ。」
何の液体なのかは知らない。
だが知らなくても、触れてはいけないことだけは分かる。
壁際には十センチほどの出っ張りが続いており、その先には天井から垂れ下がった旧配管が見えていた。
訓練場で似た構造を何度も経験している。しかしあちらとは違い、下に衝撃吸収材などもちろん敷かれていない。
「……落ちたら終わり。」
自分で考えて嫌になる。
トウカは壁へ肩を押し付けながら、靴底の半分を宙へ出した状態で一歩ずつ進んだ。
背中のアークが身体を外側へ引っ張り、二日前に打った背中がじわじわと痛み始める。
出っ張りの先端まで来ると、配管までは約二メートル。近くはないが、迂回路もない。
トウカは壁へ片手をついて呼吸を整え、思い切り壁を蹴った。
指先が配管へ届いた。
しかし右手が滑る。
そのまま左手一本でぶら下がる形になった。
「っ!」
肩へ鋭い痛みが走る。思わず下を見遣ると、足の下には赤黒い液体が広がっていた。
その液体の表面が、突然大きく盛り上がる。
「……な、何?」
何か巨大な影が、水面の下を横切った。
心臓が嫌な音を立てて脈打ち始める。考えている暇はない。
トウカは右手を伸ばして配管を掴み直し、脚を振って反動をつけると、そのまま身体を引き上げて管の上へ跨った。
直後、真下で液体が大きく弾け、黒い何かが数メートルほど水面から突き出したかと思うと、すぐに沈んでいく。
「……見てない。私は何も見てない。」
もう何だったのかなど知りたくもない。
トウカは両手両足で配管を挟みながら前へ進んだが、途中まで来たところで、今度は足元の管が突然生き物のように収縮した。
「え?」
単なる金属管だと思っていたものの表面を赤い線が走った。それとほぼ同時に配管の隙間から細い肉の繊維が伸び、足首へ絡みつく。
「ちょっ……!」
片手で管へしがみついたまま刃物を抜き、足首へ巻きついた繊維を切ろうとする間にも、配管そのものが大きく捻れ、身体が外側へ傾いていく。
真下には赤黒い液体が見える。
「うわっ!動かないでよ!」
もちろん聞いてくれるはずもない。
管がもう一度大きく捻れたため、トウカは繊維を切り落とすのと同時に身体を振り、隣の鉄骨へ向かって跳んだ。
両足が鉄骨へ触れたものの靴底が滑り、咄嗟に膝をついて前へ倒れ込みながら両手で縁を掴む。
落ちない。
どうにか止まった。
その姿勢のまま数秒間呼吸を整え、じんじんと痛む背中に顔を顰める。
「やっぱり訓練で落ちるんじゃなかった……。」
今さら後悔しても遅い。
二基目を回収して専用バッグへ収めた時、残り時間は三十一分になっていた。
バッグを背負い直した瞬間、またあの音が聞こえた。
ぎち、と、今度は先ほどより明らかに近い場所から。
トウカは通路の奥を見た。
何も、いない。
それでも、もう気のせいだとは思わなかった。
◇
三基目の手前で、通路そのものが呼吸していた。
左右の壁から巨大な肉の器官がせり出し、一定の周期で中央を押し潰すように閉じている。
四秒ほど開いては三秒ほど閉じ、そのたびに湿った重い音が通路へ響き、肉同士が接触する瞬間には僅かな液体まで周囲へ飛び散っていた。
「いやいやいや、こんなの聞いてないんだけど。」
感染前の図面では、この先へ抜ければ三基目のアークまで三分もかからなかったはずだった。しかし、もし迂回すれば十五分以上は必要になる。
腕時計を見る。
残り二十三分。
二基で帰るという選択肢もあった。それでも任務としては十分成功で、指揮官にも生還を優先しろと言われている。
けれど、この先には三基目がある。
二千点まで、まだ千以上残っている。
トウカは目の前の器官の動きをじっと見つめた。
中央付近には、旧保守用の窪みらしき空間が一つだけ残っている。
そこまで一度で走り、閉じている間をやり過ごしてから次の開放で反対側へ抜ければ通れるはずだ。理論上は。
しかし、失敗すれば間違いなく潰される。
トウカは一回、二回、三回と動きを見て静かに周期を確かめた。
怖くないわけではない。
前世で一度死んだ記憶があるからといって、死ぬことに慣れるはずもなかった。むしろ、一度人生がどういうものか知っているからこそ、終わることが怖い。
腕時計を見る。
残り二十二分。
考える時間を使いすぎている。
「……行くしか、ない。」
口から言葉が出た瞬間、迷いは消えた。
怖くても、難しくても、考える。
そして、決めたら即動く。
それが前世でも、自分の一番得意なことだった。
器官が開いた。
トウカは走った。
左右から肉壁が迫り、視界の端で赤黒い組織が膨らみ始める。
中央の窪みへ身体を滑り込ませた直後、背中のすぐ後ろで巨大な肉同士がぶつかり、押し出された空気が髪を前へ吹き上げた。
「近っ……。」
次の開放を待ち、壁が離れた瞬間、今度は躊躇せず反対側へ向かって走った。
出口を抜けるのとほぼ同時に背後から肉壁の閉じる音が響き、胸の奥で張り詰めていたものが僅かに緩みかける。
その直後。
どん、と何かが向こう側から肉壁へぶつかった。
トウカは振り返った。
もう一度、どん、と重い衝撃が響く。
収縮器官の向こう側に、何かがいる。
そして、こちらと同じ方向へ進んできている。
「……嘘、でしょ。」
トウカは三基目へ向かって急いで走った。
固定具を一つ、二つ、三つと外し、アークを両腕で引き抜く。周囲の肉が激しく痙攣し、それまで低く脈打っていた施設全体から重い振動が連続して伝わってきた。
今度は止まらなかった。
床の下、壁の奥、天井。あらゆる方向から重い振動が重なり、それまで抑制剤によって押さえ込まれていた何かが、施設全体で一斉に動き始めている。
抑制剤の効果が切れるには、まだ早い。重力装置も動いている。
残り十六分。
「ちょっと、早いって。」
トウカは三基目をバッグへ押し込み、立ち上がった。
その時、背後の肉壁が内側から一度、二度と大きく膨らみ、三度目の衝撃で裂けた。
最初に突き出されたのは腕だった。
金属の骨格に筋肉状の組織が絡みつき、その先端には六本の細長い鉤爪がついている。爪が床へ深く食い込み、続いて頭部らしき黒い塊が裂け目から押し出される。
眼も口もない。
それでも、こちらを見ていることが明確に分かった。
アルファ。
「……この規模で?」
形成なし、と聞いていた。
黒い頭部が僅かに傾く。
その動作が妙に静かだったため、トウカはほんの一瞬だけ反応が遅れた。
次の瞬間、アルファが床を蹴った。
「うわっ!」
トウカは身体を横へ投げ出した。
直後、さっきまで立っていた場所へ六本の鉤爪が突き刺さり、厚い金属床が紙のように裂ける。
今の装備で戦える相手ではない。
考えるより先に立ち上がり走った。
背後では爪が床を抉る音が続き、その間隔が見る見る狭まっていく。近い。しかも、想像していたより遥かに速い。
収縮器官が見えた。
ちょうど開いている。
トウカは速度を落とさずその中へ飛び込み、中央の窪みへ身体を滑り込ませた。
肉壁が閉じる。
これで一度は止まる。
そう思った直後、目の前の肉壁が大きく盛り上がった。
「え。」
六本の鉤爪が壁を内側から突き破り、そのうち一本がトウカの頬から十センチほど横を掠めた。
「嘘でしょう!?」
器官が開いた瞬間、トウカは反対側へ飛び出した。その背後では肉を引き裂く音が続き、アルファが収縮器官そのものを破壊しながらこちら側へ押し出されてくる。
残り十二分。
トウカは全力で走った。
◇
戦おうという考えはもちろん最初からなかった。
回収員の役割はアークを持ち帰ることで、アルファを倒すことではない。そもそも、こちらが持っているのは小型刃物とワイヤー程度で、金属床を簡単に切り裂くあの鉤爪を相手にして勝てるはずがない。
最早必死で逃げるしかない。
しかし背中には三基のアークがあり、一基ずつならそれほどでもない重さが、三基になると肩へ深く食い込んで走るたびに背中の打撲へ鈍い痛みを叩き込んでくる。
呼吸もすぐに荒くなり、肺へ吸い込む空気そのものが、行きより明らかに熱くなっているのが分かった。
後方で金属の砕ける音が一度、二度、三度と続く。
確実に近づいている。
貯蔵槽へ出た瞬間、壁際に残された細い足場が目へ入り、トウカは思わず顔を歪めた。
「最悪っ!」
ここではまともに走れない。
だが、慎重に進んでいれば確実に追いつかれる。
トウカは壁へ肩を擦り付けながら細い足場へ乗り、靴底の位置を確認する時間さえ惜しんでできる限り速く進んだ。二歩、三歩と進んだところで背後の壁が破裂し、直後に足場全体が大きく揺れる。
アルファが同じ足場へ乗ったのだ。
トウカとは体重が違う。
金属が悲鳴のように軋み、壁へ固定されていた金具の一つが弾け飛んだ。
足場全体が下へ大きく傾き、トウカの身体は外側へ投げ出される。
「うわっ!」
咄嗟に壁の突起を掴み、片腕だけでどうにかぶら下がる。
足元には赤黒い液体が広がり、その表面近くでは先ほど見た巨大な影がゆっくりと動いている。
そして背後ではアルファが迫っている。
考えている暇はなかった。
トウカは片手だけで腰の射出器を抜き、反対側の鉄骨へ向けてワイヤーを撃った。先端が金属へぶつかる鋭い音が響き、フックが何かへ引っ掛かったのを手応えだけで確認する。
強度を確かめている時間はない。
足場がもう一度大きく傾き、アルファの鉤爪が目前まで迫った瞬間、トウカは壁を蹴って身体を縦穴の中央へ投げ出した。
身体が落ちる。
直後、腰のワイヤーが張った。
「っ!」
強い衝撃に身体が折れ、次の瞬間には振り子のように大きく横へ振られる。真下で赤黒い液体が波打ち、その表面近くをまた巨大な影が通り過ぎていくのが見えた。
反対側の鉄骨へ脚を伸ばしたが、僅かに届かない。
身体が再び後方へ振り戻される途中、足場の端へ立ったアルファが身を沈めるのが見えた。
跳ぶつもりだ。
そう理解した瞬間、トウカはワイヤーを一段だけ巻き取り、次の振り子運動で身体の軌道を僅かに上げた。
再び前へ振られる。
今度は片足が鉄骨へ届いた。
靴底を引っ掛け、両手で縁を掴み、身体を引き上げようとする。
その直後、背後で轟音がした。
アルファが跳んだ。
鉤爪がトウカの足首のすぐ後ろを掠め、そのまま隣の配管へ激突する。
その瞬間、轟音と共に金属が折れ、アルファの巨体が縦穴の底へ落ちていった。
鈍い水音を立てながら、赤黒い液体が大きく弾ける。
トウカは鉄骨へ身体を引き上げ、しばらくその場に膝をついたまま荒く息を吐いた。
「……お、落ちた?」
下を見る。
液面には波紋だけが広がり、数秒待っても何も出てこない。
トウカはようやく肺の奥へ空気を入れた。
その瞬間、液面が割れた。
黒い腕が壁へ突き刺さり、アルファが六本の鉤爪を交互に使いながら、垂直の壁を這い上がってくる。
「ですよね!」
トウカは立ち上がり、その場から走った。
残り七分。
内部温度は明らかに上がっていた。
それまでゆっくりだった肉壁の脈動が速くなり、眠っていた配管が蛇のようにうねり始めている。
抑制剤の効果が予定より早く失われ、施設全体が少しずつ目を覚まそうとしていた。
通路へ入った瞬間、床が盛り上がった。
「何――」
赤い組織が金属板を破って伸び、トウカの右足へ巻きつく。
身体が前へ倒れ、背中のアークが床へ強くぶつかった衝撃で肺から空気が漏れた。
後方からはアルファの爪が金属を叩く音が響いている。
すぐ近くまで来ている。
トウカは刃物を抜き、足首へ絡みついた組織を何度も切りつけたが、表面がぬめって刃が滑り、思うように切れない。
「離して!」
握りを変え、根元へ刃先を深く突き立てる。
組織が激しく痙攣し、ようやく締め付ける力が緩んだ。
トウカは足を引き抜き、そのまま立ち上がって走った。
残り五分。
目の前に、来る時よりも低く、狭くなった通路が見えた。抑制剤が切れかかっているためだろう。
これは、腹這いになって進むほかない。
トウカは床へ滑り込み、肘と膝を使って前へ進み始めたが、数メートル進んだところで背中のバッグが何かへ引っ掛かり、身体が突然止まった。
「嘘……。」
肩を捻る。
動かない。
後ろを振り返る。
狭い通路の奥に、黒い影が現れた。
アルファだった。
あの巨体では通れないと思ったが、鉤爪で左右の壁を削り取り、自分が通れる幅へ無理矢理広げながらこちらへ進んでくる。
速い。
削られた金属片が飛び散り、鉤爪が床へ突き刺さるたびに、音が一つずつ近づいてくる。
トウカは身体を捻り、バッグを横へずらそうとした。アークが壁へぶつかり、十センチほどしか動かなかない。
「もうっ!」
焦りで震える手で必死に肩紐を緩める。バッグそのものを腰の横へ回し、さらに身体を捻ったところでようやく突起から外れる。
すぐに肘を床へ叩きつけるようにして前へ進み、三メートル、二メートルと迫る出口だけを見ながら身体を引きずった。
背後では、アルファの鉤爪が床へ突き刺さる音まで聞き分けられる距離になっている。
あと一メートル。
通路の外へ身体を投げ出した。
その勢いのまま一度転がると、即座に立ち上がる。もつれそうになる足で何とか床を蹴って走り始める。
残り二分。
出口までは直線ではない。
最初の分岐へ戻り、左へ曲がったところで、その先の肉壁が大きく膨らみ始めているのが見えた。
通路が閉じる。
「閉じないでよ!」
まだ残っている僅かな隙間へ肩をねじ込み、身体を横向きにして滑り込む。背中のバッグが肉壁へ擦れ、一瞬また引っ掛かりそうになったが、腰を強く捻って無理矢理抜けた。
その先に白い光が見えた。
ハッチだ。
残り一分。
脚は重く、呼吸をするたびに肺が焼けるように痛み、額から流れた汗が目へ入って視界まで滲む。それでも止まることだけはできない。
背後で大きな破砕音が響いた。
アルファが通路へ飛び出してきた。
もう音を数える必要もない。
すぐ後ろにいる。
ハッチの向こうでは、指揮官がこちらへ身を乗り出すようにして何かを叫んでいる。
「1008、――!」
何を言っているのかまでは聞き取れない。
とにかく走る。
残り四十秒。
一度だけ足がもつれた。
身体が前へ傾いたが、左手を床へついて支え、そのまま速度を殺さず立ち直る。
残り三十秒。
背後から空気が押し寄せた。
反射的に頭を下げる。
六本の鉤爪が頭上を横切り、髪の先を数本切り飛ばした。
「うそっ!」
前へつんのめりながらも足は止めない。
ハッチまで八メートル。
六メートル。
四メートル。
「飛べ!」
今度は指揮官の声がはっきり聞こえた。
トウカは最後の一歩で床を蹴り、船内へ身体を投げ出した。
「閉鎖!」
背中から床へ滑り込み、そのまま数メートル進んだところで指揮官に肩を掴まれ、さらに奥へ引きずられる。
隔壁が降り始めた。
その隙間へアルファの腕が突っ込んできた。
六本の鉤爪がトウカの足へ伸び、最も長い一本の先端が靴底へ触れた次の瞬間、隔壁が完全に閉じた。
鈍い破断音が響く。
アルファの腕が途中から切断され、船内へ落ちた。
切断面から黒い液体が吹き出している。
「離れろ!」
職員がトウカをさらに後ろへ引き、別の作業員が切断肢へ薬剤を噴射する。
隔壁の外側へ何かが激突し、船全体が大きく揺れた。
一度、二度、三度。
しかし回収艇はすでに接続部を切り離し始めており、間もなく大きな振動とともに感染プラントから離れていった。
トウカは床へ仰向けになった。
息ができない。
心臓が胸を壊しそうなほど速く鳴り、指先まで震えている。
それでも最初に背中へ手を回した。
一基。
二基。
三基。
全部ある。
トウカは目を閉じ、ようやく長く息を吐いた。
「……本当に、大変な世界に転生したなあ。」
誰にも聞こえない声で呟いた。
◇
帰還後の扱いは、あれほどの騒ぎが嘘だったかのように淡々としていた。
防護服を脱がされ、全身を消毒され、採血と感染検査を受ける。背中の打撲は悪化していたものの骨に異常はなく、肩も軽い炎症だけで済んでいた。
回収艇へ入り込んだアルファの切断肢については別区画で大人たちが慌ただしく処理していたが、それはもうトウカの仕事ではない。
数時間後、施設へ戻ったトウカは壁面端末へ識別帯を当てた。
短い電子音のあと、『旧第七資源精製プラント回収任務、アーク三基回収、生還、危険度補正』という項目が順番に表示される。
最後に加算八十五、合計897/2000という数字が現れた。
トウカはしばらくそれを見つめた。
「……あれだけ頑張ってこれですか。小規模プラントだったから?……結局半分にも届いてないじゃん。」
あれだけ走り、落ちかけ、潰されかけ、アルファに髪まで切られ、それでも八十五点。
残り1103。
数字にしてみると、途方もなく遠い。思わずため息が漏れた。
「お疲れ。」
背後からブラッドの声がした。
振り返ると、その隣には眉を顰めたエリザも立っていた。
「三基全部取ったんだって?」
「取った。」
「馬鹿じゃないの!?」
エリザが耳に響く高い声で怒鳴った。
「アルファ出たんでしょう!? 二基で帰ればよかったでしょうが!」
「三つ目取った後に出たの。」
「……じゃあ仕方ないわね。」
「おいおい、納得早いな。」
ブラッドが笑った。それから端末の数字を覗き込む。
「でも85点はでかいだろ。」
「そうだね……あとたったの1103……。」
「お前、大丈夫か?顔色悪いぞ? 俺たち産まれてからずっとこのエリアなんだし、別にそこまで無理して移住しなくてもいいんじゃないか?」
ブラッドの不思議そうな声に思わず口元を引き締める。
そうだ。この施設の子供たちは、平和で安全な暮らしというものを知らない。それが、どんなに貴重で幸せなものであるかを、知らない。
私以外。
「……でもさ、行けるなら行きたいじゃん。」
ブラッドとエリザは「そりゃそうか」と申し合わせたように苦笑し、私たちは歩き出した。
そのまま、三人で居住区へ戻ろうとしたところで、装備区画の前に人が集まっているのが見えた。
中央に1105がいる。
いつもの白い訓練着ではなく、黒い実地用の防護服を着せられ、職員が腰回りのハーネスを調整していた。
「……とうとうあいつもか。」
ブラッドが言った。
近くにいた職員の声が聞こえる。
「1105。実地適性承認。回収任務へ編入する。」
少年が小さく頷いた。
そのまま顔を上げ、偶然こちらを見る。
目が合った。
数秒後、1105は職員に短く何かを告げると、こちらに向かって歩いてきた。
「……1008。」
「トウカでいいよ。君は?」
少年は僅かに目を瞬いた。
「……1105。」
まだ名前はないらしい。
近くで少年を見るのは初めてだった。
淡い金色の髪に、血の気が薄い白い肌。前世で見ていた晴れた空を思わせる鮮やかな青い瞳。顔立ちはやはりかなり美しい造形をしていた。
少年らしい細い身体をしているが、それでもトウカよりかなり背が高く、自然とこちらが少し見上げる形になる。
トウカは小さく息を吐いた。
「じゃあ1105、なにか聞きたいことあるの?」
少し戸惑うように黙した後、少年を静かに口を開いた。
「……一時間って、短い?」
予想していなかった質問だった。
トウカは少しだけ考えた。
赤黒い液体。
閉じる肉壁。
足首へ巻きついた組織。
頭上を掠めた鉤爪。
そして、最後の三十秒。
思わず眉を顰める。
「……あと十五分残ってると思ったら、もう帰った方がいい。」
「……十五分?」
「何か一個でも引っかかったら、五分や十分なんてすぐ消えるし。それと。」
「それと?」
「訓練と違って、下にマットないよ。」
1105は一度だけ視線を落とし、小さく頷いた。
「分かった。」
それだけ言うと、また装備区画へ戻っていった。
「……何あれ。」
エリザが目を細める。
「知らない。」
「あいつ、喋るんだな。」
ブラッドがぽつりと呟く。
「……私も初めて聞いた。」
◇
翌朝、背中にはまだ鈍い痛みが残り、右腕にも筋肉痛があった。
それでもトウカはいつもの白い訓練着を着て、訓練区画へ向かう途中で表示端末の前を通った。
897/2000。
昨日と同じ数字だ。
変わるはずもない。
残り1103点。
前の世界なら、十二歳の自分は今頃ランドセルを背負って学校へ向かっていたはずだ。
しかし、この世界では腰へ安全具を巻き、鉄骨とコンクリートで組まれた巨大な構造物の前へ立つ。
今回隣のユニットにはブラッドがいる。
少し離れたところにはエリザもいるはずだ。
視線をそっと斜め上へ上げると、上段のセルには1105の姿もあった。
昨日、ようやく実地回収への編入を認められたばかりだというのに、相変わらず何を考えているのか分からない顔で正面のシャッターを見つめている。
電子音が一度、低く鳴った。
足を開く。
二度目の音に合わせて腰を落とす。
三度目が鳴る。
正面の灰色のシャッターを見つめたまま、口の中で小さく数える。
「……三、二、一。」
警笛とともにシャッターが開いた。
白い光が差し込む。
トウカは目を細め、その先へ走り出した。




