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第6章 進み出す二人



7月・S大学 学生課前




蒼太が学生課へ向かう背中を、


青は校舎の外からそっと見送っていた。




学生課のドアが閉まる音がして、


そのまま蒼太の姿は見えなくなる。




青は、向かいの学食のテラス席に腰を下ろした。




コップの水には汗のように水滴がつき、


じんわり湿った夏の空気が肌にまとわりつく。




(……俺は入れないんだよな。


 奨学金の相談って……


 家族以外は同席できないから……)




もやもやした感情が喉に引っかかる。




(蒼太の横に……いてやれないのか。)




学生課・奨学金相談窓口




蒼太の真正面に座るのは、


学生課奨学金担当の 松本。




30代、穏やかな声。


佐々木コーチの旧友だ。




佐々木から事前に


“話せる範囲で”


状況を聞いていたため、


松本はすでに心の準備ができていた。




だが——


蒼太はそれを知らない。




「……で、父が亡くなって……


 母とも連絡が取れず……


 仕送りも止まってしまって……


 大学を続けるのが……難しくて……」




声が震える。


だが、以前よりちゃんと向き合おうとしていた。




松本は真剣な表情で頷く。




「岡谷くん……


 本当に、大変だったね。」




その一言に、蒼太の肩がふっと揺れた。




「まず、ひとつだけ覚えておいて。


 ——岡谷くんは、まったく悪くない。」




「……はい……」




「奨学金の申請についても、


 後ろめたく思う必要は全然ないよ。


 学生課の仕事はね、


 “困っている学生を救うこと”なんだ。」




蒼太は小さく息を呑んだ。




「もっと頼っていいんだよ。


 家族の問題は、


 ひとりで背負うには重すぎる。


 申請もね、


 できることは全部支援するから。」




「……ありがとうございます……」




蒼太が学生課から出てきた。


表情はどこか晴れやかで、


少しだけ肩の力が抜けていた。




「あっ、先輩……!」




「どうだった?」




「……あの、ありがとうございます……。」




「え? なんで俺に……?」




「なんか……思ったより、


 申請うまくいきそうです。」




蒼太は胸に手を当てて、


安心したように笑った。




「なんか……


 先月まであんなに追い詰められてたのが……


 ウソみたいで……」




「そうか……よかったよ。」




「奨学金も……学費だけじゃなくて、


 生活費の支援までしてくれるなんて……


 本当に、ありがたくて……


 なんて感謝していいのか……。」




青の胸がじんと熱くなる。




(……佐々木コーチ。


 本当に……ありがとうございます。)




いまはただ、


蒼太の表情に“光”が戻ったことが嬉しい。




青は蒼太の横顔を見つめ、


ゆっくり息を吸い込んだ。




(進み出したんだ……俺たち……)




* * *




7月中旬・教員採用一次試験の日




一次試験を終え、


青はゆっくりとアパートの前に立った。




胸の奥で、ひとつ大きな息を吐く。




(……終わった。


 教育実習の直後だったけど……


 意外と落ち着いて解けたな。)




試験の緊張よりも、


“帰る家がある”


“待ってる人がいる”


その感覚が、青の背中を支えていた。




鍵を回す音。




ドアを開けると——




「おかえりなさい、先輩。」




優しい声。


優しい笑顔。




「ただいま、蒼太。」




その短いやり取り。


たった一言の、他愛ない会話。




それが——


6月にはできなかった。




(……このやり取りが、


 また自然にできることが……


 こんなに嬉しいなんて……)




部屋に入ると、


蒼太は掃除の途中だったらしく、


床には畳んだ洗濯物、整えられたシンク、


小さくつけたアロマの匂いが漂っていた。




「今日はバイト休みだったので……


 部屋の掃除してました。


 だいぶサボってたから……。」




「そっか。……無理してないか?」




「ううん、大丈夫。


 あっ、バイトはね、


 いまはカフェだけ続けてます。」




蒼太は少し照れくさそうに笑う。




「カフェの仕事、好きなんで。」




青の胸にふっと温かいものが広がった。




「……そっか。


 蒼太がそう言うなら……よかった。」




蒼太は、掃除したての部屋の真ん中で


もじもじと指先をいじりながら口を開いた。




「あの……先輩……」




「ん?」




「……今日は……


 先輩に、甘えたいです……。」




ほんの少しうつむきながら。


耳が赤くなっている。




青は優しく微笑む。




「ああ……いいよ。」




青がそっと蒼太の頬に触れ、


指先で髪を撫でながら——




「おいで。」




蒼太はゆっくりと青の胸に身を預けた。




青はそのまま、


何も急がず、何も求めず、


ただ優しく唇を重ねる。




蒼太の体温が、


6月の冷たさを静かに溶かしていった。




やがて照明のスイッチが消え、


部屋は月明かりだけに照らされる。




外は蝉の声。


部屋の中は、ふたりの静かな呼吸だけ。




痛みの余韻と、


確かな温もりの中で——


夏の夜は、ゆっくりと更けていった。




* * *





大学は長い夏休みに入った。


9月末まで続く約2か月の休暇——


だが青にとっては、


学生として過ごす“最後の夏休み” になるのだろう。




そして——




蒼太の奨学金申請は無事に通った。




学費だけでなく、生活費の支援まで決まり、


蒼太の表情には以前の影がほとんど消えていた。




蒼太は落とした単位を取り戻すため、


夏休み集中講義に全力で取り組み、


レポート作成に追われながらも


以前のように


勉強に集中できる日々を取り戻していた。




(……本当に、よかった。


 蒼太がまた “学生の顔” に戻れてる……)




教員採用試験の二次試験は お盆明け。


気は抜けない。




ちょうど試験直前、


地元の父と母からメールが届いた。




母のメール


《 青、試験前だから帰省はまた今度でいいよ。


  勉強に集中しなさい。応援してるからね。》




父のメール


《 無理だけはするな。落ち着いて挑め。


  終わったら帰って来い。》




(……よし。


 もっと気持ち、引き締めていかないとな。)




本当は、


蒼太ともっと一緒に過ごしたかった。


海にも行きたかったし、


花火大会も行きたかった。




だけど——


蒼太はさりげに気を遣ってくれる。




アパートには


6月とは違う、穏やかな夏の空気が流れていた。





試験前夜



青が問題集を閉じたとき、


蒼太がそっと声をかけてくる。




「先輩……明日、二次試験ですよね。


 頑張ってください。」




「ありがとう。


 蒼太も明日、集中講義の試験だろ?」




「僕の試験とは……次元が違いますよぉ。」




「そうかな?」




蒼太は少し照れ笑いしながら周りを見る。




「なんか、この部屋……


 最近ずっと図書館みたいでしたね。笑」




「……ごめんな。


 気を遣わせてたよな。」




蒼太はゆっくり首を振った。




「そんなことないです。


 僕は先輩がそばにいてくれたら、


 無言でも落ち着けるんです。」




(蒼太……無自覚か……!?


 そんなこと言われたら……


 恥ずかしいだろ……)




青は照れ隠しのように


蒼太の頭を軽く撫でた。




「……じゃあ、お互い明日頑張ろうな。」




「はいっ!」




アパートの夜は、静かで、優しくて、


どこか誇らしい気持ちに満ちていた。




* * *




8月下旬



二次試験を終え、


夏の重たい空気の中で青は深く息を吐いた。




(……やりきった。


 あとは結果を待つだけだ。)




その足で、


青はスマホを取り出し、


ある人物に電話をかけた。




数コールで繋がった。


佐々木コーチの元気な声が響く。



『おっ、佐伯か。


 試験どうだった?』




「……コーチの山、当たりました。


 実力は……出し切れたと思います。」




『おー、そうか!


 まぁお前は本番に強いタイプだしな。


 落ち着いてりゃ、絶対いけるって言ったろ?』




「……はい。」




ほんの少し誇らしげになる青。


そこにさらに報告を続けた。




「それと……蒼太の奨学金、


 無事に通りました。


 コーチのおかげです。


 本当に……感謝してます。」




『おいおい、やめろよ。


 大したことしてねぇよ。』




『困ってる生徒を助けるのが教師の仕事だろ。


 俺はただ……ちょっと背中押しただけだ。』




「それでも……ありがとうございました。」




声が震えそうになる。


電話越しでも、青の気持ちは十分に伝わる。




『……よしよし、わかったわかった。


 そんな殊勝な声出すな。照れるだろうが。』




『で、試験も終わったんだしよ。


 打ち上げでもするか。』




「え……はい! ぜひ!」




『じゃあ……


 俺と二人きりで、どっか行くか?』




「……えっ?」




一気に心臓が跳ねる。




『……お前、いま絶対顔赤くしてるだろ?』




「い、いやその……っ」




『ははっ、冗談だよ冗談。


 そんな反応するから面白いんだよ、お前は。』




「……コーチ、冗談でも……


 そういうの……ドキッとするんですよ……」




『お前は本当にかわいいな、佐伯。』




電話越しのその言葉に——


青の背中がじんわり熱くなる。 




「……っ……!」




『ほら、また照れてる。


 顔見なくてもわかるぞ。』




「コーチっ……!」




『はいはい、怒るな怒るな。


 二次試験までよく頑張った。


 お疲れさん。』




「……ありがとうございます。」




通話の最後、


ひとつ深い息を吐く青。




(……やっぱりこの人には……敵わない。)




胸の奥にほんの少しの熱が残ったまま、


青はゆっくりスマホを下ろした。


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